門川城は伊東氏の北進拠点、対土持氏の最前線「県三城」の一翼を担う。耳川の合戦で城主米良祐次が討死し、島津氏支配下へ。一国一城令で廃城となるも、歴史は記憶に刻まれる。
日向国(現在の宮崎県)北部に位置する門川は、東に日向灘を望み、西には険しい山々が連なる、古くからの交通の要衝である。五十鈴川が形成した沖積平野は、農耕に適した土地であると同時に、水運と陸路が交差する戦略的な価値を秘めていた 1 。この地に築かれた門川城は、戦国時代の激しい勢力争いの中で、日向国の歴史を動かす重要な舞台の一つとなった。
当時の日向国は、大きく三つの勢力が鼎立し、互いに鎬を削る状況にあった。中央部から南部にかけて広大な領域を支配し、「伊東四十八城」と称される支城ネットワークを構築した 伊東氏 。県(あがた)地方を中心とする国北部に深く根を張り、伊東氏と長年にわたり対立した在地豪族の 土持氏 。そして、薩摩国(現在の鹿児島県西部)から日向南部を虎視眈眈と狙い、九州統一の野望を燃やす 島津氏 である 2 。
門川城は、この勢力図の中で、伊東氏の支配圏の最北端に位置していた。すなわち、宿敵である土持氏の領地と直接境を接する、文字通りの最前線であった 4 。したがって、門川城の歴史を紐解くことは、単に一つの城の盛衰を追うにとどまらない。それは、伊東氏の国家戦略、土持氏との熾烈な国境紛争、そしてやがて日向全土を巻き込む島津氏の侵攻という、戦国時代の日向国の力学そのものを解明する鍵となる。
本報告書は、門川城を単体の城郭としてではなく、伊東氏の領国経営と防衛戦略を体現する不可欠な構成要素として捉え、その創築から廃城に至るまでの全貌を、当時の政治・軍事的情勢の中に明確に位置づけることを目的とする。
項目 |
詳細 |
典拠 |
名称 |
門川城(かどかわじょう) |
- |
別名 |
狗山城(いぬやまじょう) |
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所在地 |
宮崎県東臼杵郡門川町門川尾末 |
7 |
城郭分類 |
平山城 |
7 |
標高/比高 |
29m / 20m |
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築城主 |
伊東祐堯(いとう すけたか) |
7 |
築城年代 |
文明年間(1469年~1487年)と伝わる |
7 |
主な城主 |
伊東氏、米良氏、伊地知氏、高橋氏 |
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廃城年 |
元和元年(1615年) |
7 |
文化財指定 |
門川町指定史跡 |
7 |
門川城の歴史は、日向伊東氏を戦国大名へと飛躍させた中興の祖、伊東祐堯(いとう すけたか)の時代に始まる。伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭職を得て以来、この地に根を張った一族であるが、祐堯が家督を継いだ15世紀中頃は、一族内の対立や周辺豪族との抗争が絶えない不安定な状況にあった 3 。祐堯は三十六歳で家督を継ぐと、まず領内の反抗勢力を次々と討伐し、伊東氏の支配基盤を固めた 7 。彼の次なる目標は、日向国全体の支配権を確立することであり、その矛先は北方の雄、土持氏に向けられた。
伊東氏の北進戦略における画期となったのが、長禄元年(1457年)の「小浪川の合戦」である。この戦いで伊東祐堯は、日向北部に勢力を張っていた縣土持氏と財部土持氏の連合軍を破り、財部土持氏を滅亡に追い込んだ 12 。この軍事的勝利により、伊東氏は土持氏の領地であった門川周辺地域を獲得し、その勢力圏を大きく北へ拡大させることに成功した。
門川城の築城年代は、この合戦から約10数年後の文明年間(1469年~1487年)と伝えられている 7 。この時間差は重要な意味を持つ。門川城の建設は、合戦の熱狂の中で行われた場当たり的なものではなく、獲得した新たな領地を恒久的に支配し、さらなる北進の足掛かりとするための、計算された戦略的布石であった。つまり、門川城は単なる防衛施設ではなく、伊東氏の北進政策という攻勢戦略を物理的に体現し、敵地深くに打ち込まれた「楔(くさび)」としての役割を担っていたのである。この城の存在そのものが、土持氏に対する伊東氏の強い意志表示であり、両者の力関係が逆転したことを象徴するモニュメントであったと言えよう。
戦国時代の伊東氏は、本拠地である都於郡城(現在の西都市)を中心に、領国全域に網の目のように支城を配置し、高度な防衛体制を築き上げていた。これは「伊東四十八城」と総称され、単に城の数が多いことを示すのではなく、領国全体を有機的に防衛するための、先進的な分散型防衛システムであった 8 。各支城には信頼の置ける家臣が城主として配置され、それぞれが担当区域の守りを固めると同時に、有事の際には相互に連携して敵の侵攻に対応する体制が整えられていた。門川城もまた、この広大な防衛ネットワークの北東端を担う、重要な一翼であった 13 。
伊東四十八城の中でも、特に対土持氏との国境線を守るために戦略的に重要視されたのが、 門川城 、 塩見城 、 日知屋城 の三城である。これらは「県三城」あるいは「日向三城」と呼ばれ、一個の防衛ユニットとして機能していた 5 。この防衛ラインにおいて、門川城は最も北に位置し、敵の侵攻を真っ先に受ける最前線の監視所であり、迎撃拠点であった 5 。
これら三城の配置は、伊東氏の巧みな防衛思想を物語っている。日向灘沿いに南北に連なる形で配置された三城は、互いに数キロメートルの距離にあり、狼煙などを用いれば即座に連絡を取り合うことが可能であった 15 。仮に一城が土持軍の攻撃を受けた場合、他の二城は側面を突くか、あるいは後方から援軍を送ることで、敵を挟撃し、孤立させることができる。このように、三つの城が「点」として個別に戦うのではなく、相互に連携して「線」としての防御力を発揮する設計となっていた。
この観点から見れば、門川城の真の価値は、その城単体の戦闘能力以上に、この「県三城」というサブシステムを構成する一つのモジュール(部品)としての機能にあったと言える。それは、戦国期の城郭を評価する上で、個々の城の縄張りや規模だけでなく、城同士が形成する広域的な「城郭群」という視点が不可欠であることを示す好例である。門川城は、伊東氏の対土持氏戦略という大きな歯車を動かす、小さくとも欠くことのできない重要な歯車だったのである。
門川城の歴史を語る上で欠かせないのが、長きにわたり城主を務めた米良(めら)氏の存在である。伝承によれば、米良氏は肥後国(現在の熊本県)の名門・菊池一族の末裔とされる 5 。菊池氏は、南北朝時代に南朝方の中心として九州で勇名を馳せた武家であったが、室町時代に入ると内紛や周辺勢力の圧迫により次第に衰退 18 。その過程で一族の一部が日向国の山深い米良の地へ逃れ、在地領主として新たな活路を見出したのが米良氏の始まりとされている 19 。やがて彼らは日向国で勢力を拡大する伊東氏の家臣団に組み込まれ、その武勇をもって仕えるようになった 17 。
永禄年間(1558年~1570年)頃に門川城主であったとされるのが、米良祐次(めら すけつぐ)、通称を四郎右衛門尉(しろうえもんのじょう)という人物である 10 。彼の主たる任務は、伊東領の北辺、すなわち対土持氏の最前線を死守することに特化していた。その証左として、伊東氏が総力を挙げて島津氏と争った南部の飫肥城攻防戦や、西部の真幸院(まさきいん)での合戦に、彼が従軍したという記録は見当たらない 5 。これは、門川城の戦略的重要性が極めて高く、城主である祐次がその持ち場を一時たりとも離れることが許されなかったことを雄弁に物語っている。彼の存在は、伊東氏の背後を土持氏から守るための、動かざる重石であった。門川の地では、彼は後世まで「四郎左衛(しろうざえ)」という名で親しみを込めて記憶され、その武勇と忠義が語り継がれている 6 。
しかし、「米良氏」という一つの氏族が、常に一枚岩で伊東氏に忠誠を誓っていたわけではない。その複雑な実態を示すのが、伊東領西部の須木城(すきじょう)主であった米良矩重(めら のりしげ)の存在である 22 。矩重もまた、兄の重方と共に島津軍を撃退するなど、当初は伊東家の勇将として活躍した 22 。しかし、主家である伊東氏の勢力が島津氏の猛攻によって衰退の色を濃くすると、矩重は所領安堵を条件に島津方へと寝返ったのである 22 。
最後まで伊東氏と運命を共にし、討死を遂げた門川城の米良祐次の「純粋な忠誠」とは、実に対照的な行動である。この違いは、単に個人の資質の問題として片付けるべきではない。両者が置かれた地政学的な環境の違いが、その決断に大きく影響したと考えられる。祐次が対峙していたのは、同じく日向の在地勢力である土持氏であった。両者の間には長年の因縁があり、伊東氏と共に土持氏を打倒するという共通の目標が存在した。一方、矩重が守る須木城は、薩摩から直接的な圧力をかける島津氏との最前線であった。伊東本家の衰退は、島津という圧倒的な軍事力の脅威が自領に直接及ぶことを意味した。矩重の離反は、単なる裏切りというよりも、一族の存亡を賭けた、極めて現実的な政治判断(リアルポリティクス)の結果であった可能性が高い。
この二人の米良氏の対照的な生き様は、戦国時代の主君と家臣の関係が、決して単純な忠義や恩義だけで成り立っていたのではなく、それぞれの家臣が置かれた地政学的状況と、生き残りを賭けた冷徹な戦略的判断によって左右される、複雑なものであったことを浮き彫りにしている。
伊東氏の栄華に陰りが見え始めたのは、元亀三年(1572年)の「木崎原の戦い」であった。この戦いで伊東軍は、寡兵の島津義弘軍にまさかの大敗を喫し、多くの有力武将を失った。この敗戦を機に、日向における伊東氏と島津氏の力関係は徐々に逆転していく。長年の宿敵であった伊東氏の弱体化を好機と見たのが、北方の土持親成(つちもち ちかしげ)であった。親成は、これまで伊東氏の圧迫に苦しんできた鬱憤を晴らすかのように、門川城をはじめとする伊東領北部への攻勢を強めた 5 。
しかし、この土持氏の反攻に対し、米良祐次が守る門川城は、塩見城・日知屋城と緊密に連携してこれをことごとく撃退したと伝えられる 5 。伊東本家の力が衰えを見せる中でも、北の国境線を守る「県三城」の防衛システムは、依然として有効に機能していたのである。
だが、伊東氏の衰亡はもはや止めようがなかった。天正五年(1577年)、島津氏の全面的な侵攻の前に、伊東義祐は本拠地の都於郡城を放棄。再起を期して、豊後国(現在の大分県)の大友宗麟のもとへ落ち延びた。世に言う「伊東崩れ」である 2 。
主君が領地を捨てて去るという異常事態にあっても、門川城主・米良祐次をはじめとする「県三城」の城主たちは、すぐには島津氏に降伏しなかった。彼らは豊後にいる旧主・伊東義祐と密かに連絡を取り続け、大友氏の力を借りて日向を奪還するよう、熱心に働きかけた 5 。その忠誠心は、主家が崩壊の危機に瀕しても揺らぐことはなかった。
この要請に応える形で、九州の覇権を島津氏と争っていた大友宗麟は、満を持して日向へ大軍を派遣した。しかし、天正六年(1578年)、高城川(通称、耳川)を挟んで島津軍と対峙した大友軍は、島津得意の釣り野伏せ戦法の前に、歴史的な大敗を喫してしまう。これが九州の戦国史を大きく塗り替えた「耳川の合戦」である 2 。
この決戦に、大友軍の一翼として参陣していたのが、米良祐次、塩見城主・右松四郎左衛門尉、日知屋城主・福永氏本ら、「県三城」の城主たちであった。彼らは伊東家再興の夢を懸けて奮戦したが、大友軍の総崩れの中で奮戦及ばず、全員がこの戦場で討死するという悲劇的な結末を迎えた 5 。
勇猛な城主を失った門川城は、もはや抵抗する術もなかった。伊東氏の北の守りの要であった「県三城」は、その主たちと共に歴史から姿を消し、門川城は島津氏の支配下に入った 7 。ここに、伊東氏による日向国北部の支配は完全に終焉を迎え、門川城は新たな支配者の下で、新たな役割を担うこととなる。
耳川の合戦で日向国北部を手中に収めた島津氏は、門川城に家臣の伊地知丹後守重政(いじち たんごのかみ しげまさ)を新たな城主として配置した 12 。これにより、門川城の戦略的役割は180度転換した。かつては伊東氏が土持氏の南下を防ぐための「防衛線」であったこの城は、今や島津氏がさらに北の大友領へ侵攻するための「攻撃拠点」へとその姿を変えたのである。城は同じ場所にありながら、その矛先は南から北へと完全に反転した。
しかし、島津氏による支配も長くは続かなかった。天正十五年(1587年)、天下統一を進める豊臣秀吉が、20万とも言われる大軍を率いて九州に上陸(九州平定)。圧倒的な物量の前に、勇猛を誇った島津氏も降伏を余儀なくされた 7 。戦後、秀吉は九州の国割りを新たに行い、門川を含む県地方は、豊前国から転封された高橋元種(たかはし もとたね)に与えられ、延岡城の支城となった 7 。この時点で、門川城は大大名同士が激突する最前線としての役割を終え、国内統治のための地方拠点という、より平穏な役割へと移行した。
関ヶ原の戦いを経て、世は徳川の治世へと移る。戦乱の時代が終わり、全国に安定した統治体制を確立しようとする江戸幕府にとって、各地に点在する無数の城郭は、潜在的な反乱の拠点となりうる危険な存在であった。元和元年(1615年)、幕府は「一国一城令」を発布。これは、大名の居城(本城)以外のすべての支城を取り壊すことを命じた法令であり、日本の城郭史における一大転換点となった。
この法令により、門川城もその歴史的使命を完全に終え、廃城として取り壊された 7 。伊東氏の北進の象徴として築かれ、日向の国境線で激しい攻防の舞台となり、支配者の交代と共にその役割を変え続けてきた門川城は、戦国時代の終焉と共に、静かにその歴史の幕を下ろしたのである。
この一連の変遷は、城という存在がいかに時代と権力者の意図によってその意味を規定されるかを鮮やかに示している。伊東氏にとっては「対土持氏の防衛線」、島津氏にとっては「対大友氏の攻撃拠点」、高橋氏・有馬氏にとっては「国内統治の支城」、そして徳川幕府にとっては「秩序を乱す不要な軍事拠点」。門川城の歴史は、城郭が持つ意味の可変性と、時代の要請に応じた役割の変容を物語る、貴重な記録と言えるだろう。
門川城は、周囲の水田地帯の中に島のように浮かぶ、比高約20mの独立した丘陵を利用して築かれた平山城である 8 。その規模は決して大きくはないが、地形を巧みに利用した、機能的で堅固な縄張り(設計)が施されている。
城の構造は、丘陵の最高所に主郭である 本丸 を置き、そこから南西方向と南東方向に、それぞれ 二の丸 、 三の丸 を階段状に配置する連郭式の形態をとる 12 。これにより、敵は下段の曲輪から順に攻め上ることを強いられ、上段の曲輪からは効果的な迎撃が可能となる。また、往時は城の周囲が胸まで浸かるような泥田や沼地であったと伝えられており、これらが天然の堀として機能し、敵の接近を大いに妨げたと考えられる 8 。
廃城から400年以上が経過した現在でも、門川城跡には往時の姿を偲ばせる遺構が比較的良好な状態で残されている。特に、曲輪を区画し、敵の侵入を防ぐために掘られた 空堀 や、その掘り出した土を盛り上げて壁とした 土塁 は、城の基本的な防御ラインを今に伝えている 7 。また、丘陵の斜面を人工的に削り出して急角度にした
切岸 や、堀を渡るための 土橋 も確認することができる。
中でも特筆すべきは、城の西側にその痕跡が残るとされる 枡形虎口 (ますがたこぐち)の存在である 10 。虎口とは城の出入り口のことであり、枡形虎口は、敵兵を四角形(枡形)の空間に誘い込み、三方向から矢や鉄砲を集中させて殲滅するための、戦国時代後期に発達した高度な防御施設である。この施設の存在は、門川城が単なる物見台や砦ではなく、本格的な籠城戦を想定して改修が加えられていたことを示唆している。さらに、本丸跡では石塁で縁取られた櫓台らしき高まりも確認されており 8 、城の防御と監視の中枢であったことが窺える。
現在、門川城跡は門川町の史跡に指定されているものの、その保存状態には課題も多い。城跡の大半は竹林や雑木林、あるいは畑地となっており、特に本丸や二の丸は鬱蒼とした藪に覆われ、遺構の全体像を把握することは困難な状況にある 7 。空堀の一部も畑として利用され、本来の深さを失っている箇所も見受けられる 11 。
これまで本格的な学術的発掘調査は行われていないが、1990年代に門川町教育委員会による遺跡詳細分布調査が実施されており、城跡が公的な保護の対象となっている 1 。この城が持つ貴重な歴史的価値を後世に正しく伝え、地域の財産として活用していくためには、今後、計画的な環境整備や、詳細な発掘調査に基づく史跡の価値の再評価が期待される。
本報告書で詳述してきたように、門川城は、日向国北部の小さな平山城という規模からは想像もつかないほど、重要かつ多岐にわたる歴史的役割を果たした戦略拠点であった。伊東氏の北進政策の象徴として生まれ、対土持氏の最前線として機能した「県三城」防衛システムの中核を担い、城主・米良氏の忠節と悲劇の舞台となり、さらには支配者の交代と共にその戦略的意味を変化させながら、戦国の動乱を生き抜いた。その歴史は、日向国、ひいては九州全体の戦国史の縮図とも言える。
この城の価値は、石垣や天守といった目に見える構造物にあるのではない。むしろ、その歴史的背景、すなわち伊東・土持・島津という三大勢力の狭間で演じられた興亡のドラマの中にこそ、その本質がある。特に、城主であった米良四郎右衛門(四郎左衛)が、今なお地域の伝承として語り継がれているという事実は 6 、この史跡が単なる過去の遺物ではなく、地域の歴史と人々の記憶、すなわちアイデンティティを形成する上で不可欠な文化的資源であることを示している。
現代において、門川城跡が持つ意義は大きい。藪に覆われた土塁や空堀は、私たちに戦乱の時代の緊張感を伝え、地域の先人たちの営みに思いを馳せるきっかけを与えてくれる。この貴重な歴史遺産を適切に保存・整備し、案内板の充実やデジタル技術を用いた復元などを通じて、その物語を分かりやすく後世に伝えていくことは、現代に生きる我々の責務である。門川城の歴史を学び、その地を訪れることは、日向国の戦国時代という、ダイナミックな歴史の扉を開く鍵となるであろう。
西暦(和暦) |
関連する出来事 |
門川城の状況・関連人物 |
典拠 |
1457年(長禄元年) |
小浪川の合戦 。伊東祐堯が財部土持氏を滅ぼす。 |
伊東氏が門川周辺地域を獲得。築城の契機となる。 |
12 |
1469年~1487年(文明年間) |
- |
伊東祐堯により 門川城が築城 されたと伝わる。 |
7 |
1558年~1570年(永禄年間) |
- |
米良四郎右衛門尉祐次 が城主となる。 |
21 |
1572年(元亀3年) |
木崎原の戦い 。伊東氏が島津氏に大敗。 |
伊東氏の衰退に乗じ、土持親成が門川城へ侵攻するも撃退される。 |
5 |
1577年(天正5年) |
伊東崩れ 。伊東義祐が豊後へ亡命。 |
米良祐次は城に留まり、伊東家再興のため大友氏に支援を要請。 |
5 |
1578年(天正6年) |
耳川の合戦 。大友氏が島津氏に壊滅的敗北を喫する。 |
城主・米良祐次が討死。 門川城は島津氏の支配下 となる。 |
5 |
- |
- |
島津家臣・ 伊地知丹後守重政 が新城主となる。 |
10 |
1587年(天正15年) |
豊臣秀吉による 九州平定 。島津氏が降伏。 |
門川一帯は延岡城主・ 高橋元種 の所領となる。 |
7 |
1615年(元和元年) |
江戸幕府が 一国一城令 を発布。 |
門川城は廃城 となり、その歴史に幕を下ろす。 |
7 |