飯野城は日向国の要衝。島津義弘が26年居城し、シラス台地を活かした堅固な城郭は、木崎原の戦いで寡兵が伊東大軍を破る奇跡を生んだ。義弘を「鬼島津」へと育てた城。
日本の戦国時代、数多の城郭が興亡の歴史を刻んだが、その中でも日向国南端に位置した飯野城は、特異な光彩を放つ存在である。この城の名は、戦国屈指の猛将として知られる島津義弘が、その生涯で最も長く、26年もの歳月を居城としたことで不朽のものとなった 1 。義弘が29歳から55歳という壮年期の全てを過ごしたこの城は、彼の武勇伝の多くが生まれた出陣拠点であり、まさに「鬼島津」を育んだ揺り籠であった 2 。
しかし、飯野城の歴史的価値は、島津義弘という一人の英雄の物語に留まるものではない。地理的に見れば、飯野城は日向・大隅・肥後の三国が境を接する戦略的要衝「真幸院(まさきいん)」に築かれており、国境防衛の最前線という極めて重要な役割を担っていた 1 。さらに城郭史の観点からは、南九州特有の火山噴出物による堆積台地「シラス台地」を巧みに利用して築かれた「南九州型城郭」の典型例として、注目すべき構造的特徴を備えている 2 。
したがって、飯野城を深く理解するためには、二つの異なる、しかし密接に絡み合う視座が必要となる。一つは、島津義弘という人物の成長と、島津氏の九州統一事業における戦略的拠点としての役割を追う「軍事・政治史的視点」。もう一つは、シラス台地という特異な地質が城の防御思想そのものを規定した「城郭・地政学的視点」である。本報告書は、この二つの軸を交差させながら、築城から廃城に至る飯野城の全貌を、詳細かつ徹底的に解き明かすことを目的とする。
年代 |
主な出来事 |
関連人物・勢力 |
永暦元年(1160) |
日下部重貞により築城されたと伝わる 2 。 |
日下部氏 |
南北朝時代 |
日下部氏が没落し、北原氏が城主となる 3 。 |
北原氏 |
康永4年(1345) |
北原兼幸が入城し、以後約200年間、北原氏が真幸院を領有 6 。 |
北原氏 |
永禄3年(1560) |
13代当主・北原兼守が嫡子なく死去。家督争いが勃発 6 。 |
北原氏、伊東氏 |
永禄5年(1562) |
伊東氏の介入後、北原兼親が島津氏の後援で入城するも、城を島津氏に進上 6 。 |
北原氏、島津氏 |
永禄7年(1564) |
11月17日、島津貴久の命により、次男・島津義弘が飯野城主となる 7 。 |
島津義弘 |
元亀3年(1572) |
木崎原の戦い。義弘は飯野城から出陣し、300余の寡兵で3,000の伊東軍を撃破 9 。 |
島津義弘、伊東義祐 |
天正6年(1578) |
耳川の戦い(高城川の戦い)。義弘は飯野城から出陣し、大友軍の撃破に貢献 8 。 |
島津氏、大友氏 |
天正15年(1587) |
豊臣秀吉の九州平定後、義弘の嫡男・島津久保が城主となる 2 。 |
島津久保 |
天正18年(1590) |
島津義弘が栗野城へ移る 3 。 |
島津義弘 |
文禄2年(1593) |
城主・島津久保が文禄の役の最中、朝鮮にて病死 12 。 |
島津久保 |
元和元年(1615) |
徳川幕府の一国一城令により廃城となる 2 。 |
徳川幕府 |
飯野城の歴史は、島津氏の時代より遥か昔、平安時代末期にまで遡る。伝承によれば、永暦元年(1160年)、この地の徴税官であった日下部重貞によって築かれたのがその始まりとされる 2 。しかし、この初期の時代に関する具体的な記録は乏しく、その詳細は謎に包まれている 3 。やがて、日本全土を巻き込んだ南北朝時代の動乱の中で、在地領主であった日下部氏は歴史の表舞台から姿を消した 3 。
日下部氏に代わって真幸院の新たな支配者となったのが、大隅国の有力国人・肝付氏の庶流にあたる北原氏であった 5 。康永4年(1345年)に北原兼幸が入城して以来、飯野城は北原氏の拠点として、約200年にわたり地域の中心であり続けた 6 。北原氏は飯野城を足掛かりに勢力を拡大し、最盛期には高原、吉松、栗野、横川といった周辺地域までを支配下に収めるほどの力を持っていた 6 。
しかし、戦国時代の荒波は、この地方領主にも容赦なく襲いかかった。永禄3年(1560年)、13代当主・北原兼守が嫡子のないまま病死すると、一族は後継者を巡って分裂し、深刻な内紛状態に陥った 6 。この権力の空白を好機と見たのが、日向国で破竹の勢いであった戦国大名・伊東義祐である。義祐は、兼守の妻が自身の娘であった関係性を利用して巧みに介入。対立する後継者候補を殺害し、真幸院一帯を一時的にその影響下に置くことに成功した 6 。
伊東氏による強引な支配は、北原氏の旧臣たちの強い反発を招いた。彼らは伊東氏への服従を拒み、薩摩の島津氏に救援を求めたのである。この動きは、島津氏にとって日向方面への勢力拡大の絶好の機会となった。島津氏は、伊東氏のように直接的な軍事介入で支配権を確立しようとするのではなく、まず北原氏の正統な血を引く北原兼親を擁立するという大義名分を掲げた。永禄5年(1562年)、島津氏の後ろ盾を得た兼親は飯野城に入り、旧臣たちの支持を集めることに成功する 6 。
しかし、兼親の力だけでは、強大な伊東氏に対抗し真幸院を維持することは困難であった。最終的に彼は、庇護者である島津氏に飯野城を「進上」するという形で、その支配権を委ねることになる 6 。この一連の経緯は、島津氏の飯野城入城が、単なる軍事的な征服の結果ではなかったことを示している。それは、在地領主・北原氏の内部崩壊という状況を、伊東氏と島津氏という二大勢力が巧みに利用し、最終的に地政学的な優位と、より洗練された政治的策略で勝った島津氏が手にした戦略的果実であった。武力による占領ではなく、あくまで同盟者からの譲渡という形式をとることで、島津氏はその支配の正当性を確保し、来るべき伊東氏との全面対決に向けた盤石な体制を築き上げたのである。
永禄7年(1564年)11月17日、島津家の歴史における重要な一歩が記された。当主・島津貴久は、北原氏だけでは真幸院の防衛は不可能と判断し、次男であり、当時「忠平」と名乗っていた島津義弘を飯野城の新たな城主として派遣することを決断した 6 。義弘はわずか60名の精兵を率いて加世田を発ち、白鳥山の険しい山道を越えて飯野城に入城した 6 。この時、義弘29歳。彼の輝かしい戦歴の大部分が、この飯野城を拠点として紡がれていくことになる。
義弘の飯野城主就任は、父・貴久による深謀遠慮の戦略的布石であった。飯野城が位置する真幸院は、日向の伊東氏、肥後の相良氏、そして島津氏の本拠である薩摩・大隅の勢力がぶつかり合う、文字通りの最前線である 4 。ここに、一門の中でも特に武勇に優れた義弘を配置することは、宿敵・伊東氏の西進を食い止めるための防波堤を築くことを意味した 15 。
義弘は入城後、ただちに防備の強化に着手した。飯野城自体を修復・増強するとともに、東方には新たに加久藤城を築き、自らの夫人を居住させることで、飯野城と連携した複眼的な防御体制を構築した 6 。これにより、飯野城は単なる一つの城ではなく、真幸院地域全体を防衛する広域防衛ネットワークの中核拠点としての機能を担うことになった。
飯野城主としての約26年間は、義弘にとって単に戦いに明け暮れる日々ではなかった。彼は真幸院という一つの広域行政区の統治者として、在地勢力の掌握、領内の開発、兵站の維持といった、高度な政治力と経営能力が求められる任務を遂行した。国境地帯の緊迫した状況下で、敵対勢力との外交や諜報活動を常に管理しながら領地を治めたこの長期間の経験は、義弘を単なる勇猛な武将から、独立した軍団を率いる方面軍司令官、そして国境地帯を治める優れた政治家・経営者へと成長させた。
まさに飯野城は、島津義弘という武将の能力が全面的に開花するための「揺り籠」であったと言える。この地で培われた軍事的・政治的な手腕、そして独立した指揮官としての判断力と戦略的視野こそが、後の木崎原の戦いにおける奇跡的な勝利を可能にし、さらには島津氏の九州統一事業を牽引する原動力となったのである。後の世に「鬼島津」と畏怖される伝説は、この飯野城での地道で、しかし濃密な26年間の経験なくしては生まれ得なかったであろう。
島津義弘と飯野城の名を戦国史に不滅のものとして刻み付けたのが、元亀3年(1572年)に勃発した「木崎原の戦い」である。兵力差10倍という絶望的な状況を覆したこの戦いは、「九州の桶狭間」とも称され、義弘の軍事的才能が遺憾なく発揮された一戦であった。
戦いの直接的な引き金は、元亀2年(1571年)の島津家当主・島津貴久の死であった 10 。宿敵の当主の死を、長年窺ってきた真幸院攻略の絶好機と捉えた日向の伊東義祐は、肥後の相良義陽と軍事同盟を結び、大規模な侵攻作戦を計画した 16 。
元亀3年(1572年)5月、伊東義祐は家臣の伊東祐安を総大将に任命し、約3,000の大軍を真幸院へ向けて出陣させた 9 。伊東軍は兵力を二手に分け、主力は義弘の妻子が籠る加久藤城を包囲し、別動隊は義弘が守る飯野城を牽制するという作戦をとった 10 。この時、飯野城の義弘の手勢はわずか300余り、加久藤城の守備兵は50名程度に過ぎず、戦力比は絶望的であった 10 。
報せを受けた飯野城の義弘は、しかし、動じなかった。彼は直ちに出陣を決意するが、その胸中にはすでに敵の意表を突く壮大な計略が秘められていた。
義弘の戦略は、単に目の前の敵を撃破するだけではなかった。それは情報戦、心理戦、そして地形の利用を組み合わせた、多層的なものであった。
まず、義弘は伊東軍と合流すべく南下してくる相良軍に対し、伏兵による巧みな偽装工作と銃撃を行った。これにより相良軍は島津の大軍がいると誤認し、本格的な戦闘に突入する前に戦線を離脱。義弘は戦わずして敵の連携を断ち切ることに成功した 10 。
一方、伊東軍の猛攻を受けていた加久藤城では、城代の老臣・川上忠智らが寡兵ながらも奮戦し、敵の攻撃をことごとく頓挫させていた 16 。加久藤城攻略に手こずり、相良軍の離脱によって孤立した伊東軍は、夜襲の失敗を機に、ついに撤退を開始する。
この瞬間こそ、義弘が待ち望んでいた好機であった。彼は飯野城から出撃した手勢を巧みに分け、島津家伝統の必勝戦術「釣り野伏せ」を実行に移す。
この戦いは凄惨を極めた。伊東軍は総大将の伊東祐安をはじめ、伊東加賀守、柚木崎正家といった一門の勇将たちが次々と討ち死にし、軍は壊滅的な打撃を受けた 5 。しかし、島津方の勝利もまた、薄氷の上のものであった。参加した将兵の8割以上が死傷するという、まさに満身創痍の勝利であった 9 。
木崎原の戦いがもたらした影響は、単なる一合戦の勝敗に留まらなかった。南九州の勢力図を根底から塗り替える、決定的な転換点となったのである。
伊東氏にとって、この敗北は致命的であった。総大将をはじめとする多数の有力武将を一度に失ったことで、その統治機構は麻痺状態に陥った 18 。この権力の弱体化は、「伊東崩れ」と呼ばれるドミノ倒し的な領国の崩壊を引き起こす。配下の国人衆は次々と離反し、5年後の天正5年(1577年)には、伊東義祐はついに本拠地である都於郡城を追われ、縁戚である豊後の大友宗麟を頼って亡命するに至った 17 。
一方、この劇的な勝利を収めた島津氏は、日向方面における最大の脅威を排除することに成功。薩摩・大隅・日向の「三州統一」という悲願達成へ向けて、大きく前進した 10 。この戦いを境に、南九州における軍事的・政治的主導権は、完全に島津氏の手に帰したのである。また、伊東氏を庇護した大友氏との対立が不可避となり、後の九州の覇権を賭けた「耳川の戦い」へと繋がる遠因ともなった 23 。
戦後、義弘は木崎原の地に、敵味方の区別なく戦死者を弔うための六地蔵幢を建立したと伝えられている 2 。10倍の敵を打ち破った武功の裏で、壮絶な戦いで失われた多くの命に思いを馳せる、将としての一面を窺わせる逸話である。
飯野城の堅固さは、島津義弘の武勇のみによって支えられていたわけではない。その防御力の根源には、南九州の特異な地形「シラス台地」を最大限に活用した、独創的な城郭構造が存在した。
飯野城は、川内川の北岸に突き出した、比高約50メートルのシラス台地の先端部分に築かれている 5 。シラスとは、火山の噴火によって堆積した火山灰や軽石が固まった地層であり、二つの相反する特性を持つ。一つは、比較的柔らかく加工が容易であること。もう一つは、垂直に削り出すと、水はけが良いために崩れにくく、安定した崖を形成することである 25 。
南九州の武将たちは、この地質的特徴を城造りに巧みに応用した。石垣を多用する中央の城郭とは異なり、彼らはシラス台地そのものを削り、えぐり取ることで、巨大な防御施設を創り出したのである。飯野城もその例外ではなく、城の周囲には天然の浸食谷(ガリ地形)や、人工的に掘削された深く巨大な空堀(横堀)、そして、人がよじ登ることをほぼ不可能にする、ほぼ垂直の崖「切岸(きりぎし)」が幾重にも巡らされていた 2 。これらは、高価な石垣に勝るとも劣らない、絶大な防御力を発揮した。
また、飯野城の縄張(設計)は、本丸を中心に同心円状に曲輪を配置する「輪郭式」や、直線的に並べる「連郭式」とは異なり、複数の独立性の高い曲輪が、それぞれ巨大な空堀によって完全に分断された「群郭式」と呼ばれる形態をとっていた 5 。この構造は、一見すると曲輪同士の連携が取りにくいという弱点を持つように見える。しかし、その真の狙いは、敵に城全体の攻略を強いることにあった。攻城側は、一つの曲輪を落とすたびに、深く広大な空堀を越えて次の曲輪へ進まねばならず、その都度、甚大な労力と犠牲を強いられる。これは、兵力に劣る城方が、時間を稼ぎ、敵を消耗させるための極めて合理的な「縦深防御」思想の表れであった。
飯野城の城内は、いくつかの主要な区画(曲輪)に分かれていた 5 。
これらの曲輪への入り口である虎口(こぐち)は、急な坂を登らせる「坂虎口」の形式が採用されており、敵の侵入を容易に許さない構造となっていた 15 。防御の主体はあくまで土塁と切岸であったが、一部には石垣が用いられた痕跡も残っており、要所を補強していたことが窺える 12 。
飯野城の防御構想は、城単体で完結するものではなかった。その東方約4キロメートルには、義弘が築いた支城・加久藤城が存在し、両者は一体となって機能する広域防御ネットワークを形成していた 28 。
飯野城と加久藤城の間は連絡路で結ばれ、その経路上には「大明神城」「掃部城」「宮之城」といった複数の砦(塁)が置かれていた 28 。これにより、片方の城が攻撃を受けても、もう一方の城から迅速に救援を送ることが可能であり、また、連絡路上の砦群が敵の進軍を妨害・遅滞させる役割を果たした。
義弘自身が飯野城に、夫人が加久藤城に居住していたという事実も、両城の密接な関係を物語っている 8 。木崎原の戦いにおいて、伊東軍が兵力を二分して両城を同時に攻めたのも、この連携を断ち切るためであった。しかし結果的には、この強固なネットワークが機能し、島津軍は敵を分断し、各個撃破することに成功したのである。このことから、飯野城は単なる「点」の防御拠点ではなく、地域全体を要塞化する「面」の防御という、より高度な戦略思想に基づいて運用されていたことがわかる。
木崎原の戦いを経て、島津氏の九州における覇権確立に大きく貢献した飯野城であったが、時代の大きなうねりの中で、その役割もまた変化していく。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が行われ、戦国時代の自由な領土拡大競争は終焉を迎えた。この戦後処理において、飯野城は義弘の嫡男である島津久保の居城と定められた 2 。父・義弘は、天正18年(1590年)に居城を栗野城へと移し、26年間にわたる飯野城主としての時代に幕を下ろした 3 。
城主となった久保は、将来を嘱望された若き将であったが、その運命はあまりにも儚かった。豊臣政権下で朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、久保もまた島津軍の一翼を担い渡海するが、文禄2年(1593年)、陣中の朝鮮・巨済島にて病に倒れ、若くしてこの世を去った 12 。
その後、関ヶ原の戦いを経て江戸時代が到来すると、日本の統治体制は大きく変貌する。元和元年(1615年)、徳川幕府は全国の大名に対し、領国における城郭を居城一つに限定する「一国一城令」を発布した 2 。この法令は、大名の軍事力を削ぎ、地方における自立的な軍事拠点を解体することで、幕府による中央集権体制を盤石にすることを目的としていた。
この時代の大きな転換の中で、飯野城もまたその歴史的役割を終えることとなった。薩摩藩の主要な支城として、長らく国境防衛の任を担ってきた飯野城も、この法令によって廃城とされたのである。飯野城の終焉は、敵に攻め落とされた結果ではなく、戦乱の時代が終わり、武力による国境管理から、幕藩体制下での行政による統治へと日本史の構造が転換したことを象徴する出来事であった。
廃城から約400年の時を経た現在、飯野城跡は「亀城公園」として市民の憩いの場となっている 29 。往時の天守や櫓は失われたものの、本丸や物見曲輪を中心に散策路が整備され、訪れる者は今なお、かつての曲輪の形状、壮大な土塁や空堀の痕跡をその目で確認することができる 2 。射場跡は駐車場として利用され、城の南側入口には冠木門が復元されている 3 。また、近隣のえびの市歴史民俗資料館には、城の縄張図などが展示されており、その全体像を学ぶことが可能である 29 。静かな公園として佇む城跡は、かつてこの地で繰り広げられた激しい攻防の歴史を、今に静かに語り継いでいる。
日向国飯野城の歴史を紐解くことは、日本の戦国時代における地方の興亡と、そこに生きた人々の戦略、そして風土との関わりを鮮やかに浮かび上がらせる旅である。
第一に、飯野城は島津義弘という稀代の武将を育て上げ、島津氏が南九州の覇者から九州全体の統一を目指すまでに飛躍する、その原動力となった戦略的要衝であった。国境の最前線という過酷な環境下での26年間は、義弘の軍事的・政治的能力を極限まで高め、彼の武名を不動のものとした。
第二に、その構造は、シラス台地という南九州の特異な自然環境に完全適応し、それを防御力へと昇華させた「南九州型城郭」の優れた実践例として、日本の城郭史において独自の地位を占めている。石垣ではなく、大地そのものを削り出して創られた巨大な空堀と切岸は、自然と人間の知恵が融合した、他に類を見ない防衛思想の結晶である。
第三に、木崎原の戦いの主舞台として、飯野城は寡兵が大軍を打ち破るという戦国時代の醍醐味を体現する場所となった。この一戦は、単なる戦術的勝利に留まらず、伊東氏の没落と島津氏の台頭を決定づけ、南九州の勢力図を完全に塗り替えた歴史的転換点の中心であった。
その黎明から終焉までの歴史は、平安末期から続く在地領主の興亡、戦国大名の緻密な策略と外交、そして戦乱の時代の終わりを告げる天下統一の奔流といった、日本の戦国時代を理解するための重要な要素を凝縮している。
結論として、飯野城は単なる過去の史跡に留まるものではない。それは、戦国時代の南九州における戦略、技術、そして歴史のダイナミズムを解き明かすための、極めて価値の高い歴史的遺産である。その大地に刻まれた記憶は、今もなお、我々に多くのことを語りかけている。