館山城は、房総里見氏が築きし最後の本拠。北条との抗争、秀吉による減封、徳川による改易と激動の時代を映す。今は『南総里見八犬伝』の舞台として、史実と物語が共存する。
戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈する中、関東地方、とりわけ房総半島にその覇を唱えたのが里見氏である。清和源氏新田氏の庶流を称するこの一族は、長きにわたり相模の後北条氏と関東の覇権を巡り熾烈な抗争を繰り広げ、房総半島における最大の戦国大名としてその名を轟かせた 1 。本報告書が主題とする館山城は、この里見氏がその歴史の最終局面において本拠地とした城郭である。
館山城の歴史は、天正8年(1580年)頃の築城から慶長19年(1614年)の廃城に至るまで、わずか30数年という短い期間に凝縮されている。しかし、この短い期間は、日本の歴史が「戦国」から「近世」へと大きく舵を切る、激動の時代と完全に重なっている。したがって、館山城の歴史を深く考察することは、単に一地方の城郭の盛衰を追うに留まらない。それは、里見氏という一戦国大名が、豊臣政権、そして徳川幕府という巨大な中央権力と対峙し、生き残りをかけて如何にその統治体制を変容させようと試みたか、そして最終的になぜ淘汰されたのかという、時代の転換期における地方権力の宿命を解き明かすための、極めて重要な事例研究となる。
本報告書は、館山城の築城背景、本拠地移転の決断、城郭の構造、城下町の経営、そして廃城に至る過程を多角的に分析することで、この城が里見氏の存亡をかけた戦略転換の象徴であったことを明らかにする。それは、軍事力による領土拡大を至上価値とした「戦国の城」から、経済力による領国経営を主眼とする「近世の城」へと変貌を遂げようとした、過渡期の城郭の姿そのものであった。以下の年表は、本報告書で詳述する里見氏と館山城の動向を、日本全体の歴史的文脈の中に位置づけるための道標である。
年代(西暦) |
里見氏・館山城の動向 |
日本全体の情勢 |
天正5年(1577) |
里見氏と後北条氏が和睦(房相一和) 3 |
織田信長、勢力を拡大 |
天正8年(1580)頃 |
里見義頼により館山城が築城される(諸説あり) 4 |
石山本願寺、信長に降伏 |
天正10年(1582) |
文献に館山城が初見される(岡本城の支城) 4 |
本能寺の変、織田信長死去 |
天正18年(1590) |
小田原征伐。里見義康の軍事行動が秀吉の怒りを買い、上総・下総を没収される 4 |
豊臣秀吉、天下を統一 |
天正19年(1591) |
義康、本拠地を岡本城から館山城へ移転 4 |
- |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の合戦。義康は東軍に属し、戦功により常陸鹿島3万石を加増される 4 |
徳川家康、関ヶ原で勝利 |
慶長19年(1614) |
大久保忠隣事件に連座し、里見忠義が改易。館山城は破却・廃城となる 4 |
大坂冬の陣 |
元和8年(1622) |
里見忠義、配流先の伯耆国倉吉にて死去。里見氏断絶 9 |
- |
館山城が歴史の舞台に登場する直接的な背景には、里見氏と後北条氏との間に繰り広げられた、数十年にわたる房総半島の覇権争いが存在する。この長きにわたる相克と、その終結がもたらした地政学的な環境の変化こそが、館山城という新たな戦略拠点の誕生を促したのである。
館山城の正確な築城年代については諸説あり、天正8年(1580年)に里見義頼によって築かれたとする説が広く知られているが 4 、天正6年(1578年)とする記録も存在する 11 。確実な史料に基づくものではなく、文献上でその名が初めて確認されるのは、天正10年(1582年)頃に里見義頼が発給した書状においてである 4 。
築城当初、館山城は里見氏の宗家が本拠地としていた岡本城(現在の南房総市富浦町)の支城という位置づけであった 4 。岡本城は、海上からの直接的な攻撃を避けるためにやや内陸部に築かれた城であり、有事の際にはそこから水軍が出撃する体制がとられていた 4 。これに対し、館山城は館山湾に面した要衝に位置し、里見氏の強力な水軍の基地として、また岡本城を防衛する前線拠点としての役割を担っていたのである 4 。
里見氏の水軍は、東京湾の制海権を巡る後北条氏との争いにおいて決定的な役割を果たした。彼らは後北条氏の領国である三浦半島沿岸部へ頻繁に渡海し、略奪行為を敢行した 2 。その活動は極めて活発であり、弘治2年(1556年)の三浦三崎沖の海戦では北条水軍を撃破するなど、後北条氏にとって深刻な脅威であり続けた 2 。館山城は、こうした水軍活動の最前線基地として、その戦略的価値を高めていったのである。
数十年にわたり敵対関係にあった里見氏と後北条氏であったが、天正5年(1577年)、両者の間に歴史的な和睦、いわゆる「房相一和」が成立する 3 。この和睦は、里見氏の領国経営と軍事戦略に根本的な転換をもたらす契機となった。
後北条氏からの大規模な軍事的脅威が薄れたことにより、東京湾の海上交通は安定し、交易の安全が保障されるようになった 3 。これにより、里見氏の領国経営の重心は、純粋な軍事防衛から、領内の経済振興へと徐々にシフトしていく。当主であった里見義頼は、この政治的安定期を捉え、商人との連携を深め、領内の流通政策に積極的に取り組み始めた 3 。
この戦略方針の転換こそが、館山城の存在意義を根底から変えることになった。防衛を第一に考えれば、内陸の岡本城が本拠地として合理的であった。しかし、平和が訪れ、経済の活性化が最重要課題となると、岡本城に付随する小さな湊では、増大する交易量を捌ききれなくなってきた 13 。そこで注目されたのが、古くからの良港を眼下に望む館山城の立地であった。
すなわち、館山城の築城、あるいはその機能強化は、単なる軍事拠点の増設という文脈だけでは捉えきれない。それは、後北条氏との和睦によってもたらされた「平和の配当」を、経済的利益へと転換するための戦略的布石であった。戦争の脅威が低下したことで、里見氏は初めて、純粋な軍事拠点とは異なる、経済的価値を重視した新たな拠点の整備に着手する戦略的余裕を得たのである。館山城の黎明期は、里見氏が来るべき新しい時代を見据え、その領国経営のあり方を模索し始めたことを物語っている。
天正19年(1591年)、里見義康は本拠地を長年の拠点であった岡本城から館山城へと移転する。この決断は、単なる居城の変更に留まらず、里見氏が戦国大名から近世大名へと脱皮を図るための、存亡をかけた一大事業であった。その背景には、豊臣秀吉による天下統一という全国的な政治変動と、それによって引き起こされた里見氏自身の深刻な統治危機が存在した。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の後北条氏を討つべく小田原征伐の軍を発した。秀吉は関東の諸大名に小田原への参陣を命じ、里見義康もこれに応じて軍を動かした 4 。しかし、義康はこの機に乗じて長年の宿願であった三浦半島への進出を企図し、秀吉の許可なく独断で海を渡り三浦半島を攻撃、鎌倉を占領するという軍事行動に及んだ 4 。
この行動は、秀吉が天下の平定のために発令した「惣無事令」(大名間の私闘を禁じる命令)への明確な違反行為であった 17 。義康の行動は秀吉の逆鱗に触れ、里見氏は改易の危機に瀕した。この窮地を救ったのが、後に江戸幕府を開く徳川家康であった。家康のとりなしにより、里見氏は改易こそ免れたものの、懲罰として上総・下総の所領をすべて没収され、安房一国(約9万2千石)のみを領する大名へと大幅に減封されてしまった 4 。
この処罰は、里見氏の財政に壊滅的な打撃を与えた。広大な領地からの年貢収入を失った里見氏は、深刻な財政難に転落し、家臣団を維持することさえ困難な状況に陥ったのである 4 。
この未曾有の危機を打開するため、義康が下した決断こそが、館山城への本拠地移転であった 4 。この移転は、複数の合理的な理由に基づいていた。
第一に、経済的な理由である。減封による財政危機を乗り越えるためには、従来の農業基盤に依存した経営から脱却し、商業、特に海上交易を活性化させることによって新たな財源を確保することが急務であった。しかし、旧来の本拠地であった岡本城の湊は規模が小さく、本格的な流通拠点としては力不足であった 13 。その点、館山城が眼下に望む高の島湊は、館山湾の奥に位置し、水深が深く、高の島が西風を防ぐ天然の良港として古くから知られていた 3 。この経済的ポテンシャルを最大限に活用することこそが、財政再建の鍵であった。
第二に、政治的な理由である。秀吉による天下統一と関東の平定により、城郭に求められる役割そのものが変化していた。かつてのように、敵の侵攻を防ぐための純粋な軍事拠点としての性格は薄れ、領国を安定的に統治するための政治・経済の中心地としての機能がより重要視されるようになった 3 。館山城への移転は、里見氏の統治理念が、戦国時代の「軍事」から近世の「政治経済」へと移行したことを内外に示す、象徴的な出来事でもあった。
ここに、歴史の逆説が見出される。里見義康の小田原征伐における政治的・軍事的な大失態は、結果的に里見氏の統治体制を近代化(近世化)させる最大の触媒となったのである。もし義康が失態を犯さず、広大な領地を維持していたならば、既存の安定した年貢収入に安住し、交易立国という新たな生存戦略への転換を断行するほどの強い動機は生まれなかったかもしれない。領地を失うという絶体絶命の危機が、旧来の統治モデルを破壊し、残された安房国のポテンシャルを最大限に引き出すという、新たな統治パラダイムへの転換を強制したのである。この意味で、館山城への本拠地移転は、単なる居城の変更ではなく、危機から生まれた革新的な経営改革であったと言える。
館山城は、標高約72メートルの独立した丘陵「城山」に築かれた、天然の地形を巧みに利用した山城である。その縄張り(城郭の設計)は、戦国時代的な防御思想と、本城となってから付加された近世的な拡張部分が共存する、複合的な構造を呈している。
館山城の核心部分は、城山の尾根に沿って主要な曲輪(郭)を一列に配置した「連郭式」の山城である 19 。この構造は、山の地形を最大限に活かし、少ない兵力で効率的に防御することを可能にする。
城の防御を固めるため、様々な土木工事が施されている。山の裾野は、敵兵の侵入を困難にするため、地山を垂直に削り取って人工的な崖とする「切岸」が形成されていた 1 。また、尾根筋には敵の進軍を断ち切るための「堀切」が設けられ、斜面には垂直に空堀を掘り下げて敵の横移動を妨げる「竪堀」も確認されている 20 。城の出入り口である「虎口」には、敵を直進させず、袋小路に誘い込んで側面から攻撃するための「枡形虎口」といった、より技巧的な構造が見られ、戦国末期の城郭技術の進展を物語っている 21 。
特に城山の南側斜面は、北側に比べて勾配が緩やかであるため、二重、三重に曲輪が配置され、複数の堀切や櫓台跡が見られるなど、重点的な防御が施されていた 22 。
館山城が里見氏の本城となると、城の機能は山頂部だけでは完結しなくなった。城山の北から東にかけて広がる平坦地へと城域が拡張され、家臣団の屋敷や城下町の一部までをも防御線に取り込む、大規模な「総構え」が形成されたと考えられている 20 。
この総構えの最大の特徴は、広大な水堀の存在である。天王山から御霊山にかけて、上幅14メートル、深さ5メートルにも及ぶ大規模な水堀の跡が今も残り、当時の土木技術の高さを物語っている 20 。近年の発掘調査では、公園の駐車場付近から深さ3メートル、幅37メートル以上の巨大な水堀跡も確認されており、その壮大な規模が裏付けられた 20 。
この外堀の一部は、通称「鹿島堀」と呼ばれている 20 。これは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後、里見氏が恩賞として加増された常陸国鹿島領(現在の茨城県)の領民を使役して掘らせたという伝承に由来する 20 。この伝承が事実であれば、館山城の総構えが完成したのは、里見氏がその最大石高を達成した絶頂期であったことを示唆している。
館山城の縄張りは、里見氏の歴史的段階を物理的に反映した「二重構造」となっている。城山の険しい地形を利用した山城部分は、後北条氏との抗争を続けた戦国時代的な防御思想を体現している。一方、山麓に広がる総構えと壮大な水堀は、城と城下町を一体的に防衛し、大名の権威を誇示するという、豊臣・徳川政権下の近世的な城郭思想を色濃く反映している。この構造の変遷は、館山城が「支城」から「本城」へと役割を変える中で、段階的に改修・拡張されていった歴史の証人なのである。
発掘調査により、山腹の梅園下の曲輪からは掘立柱建物の跡が発見されており、これは本拠地移転を主導した里見義康の御殿があった場所と推定されている 20 。また、「新御殿跡」と呼ばれる城内でも有数の広さを持つ曲輪は、最後の城主となった里見忠義の御殿跡と考えられている 20 。
一方で、一般に流布している「犬山城を模した三層の天守があった」という伝承については、これを裏付ける同時代の史料は一切存在しない 20 。現在、城山山頂に聳える天守閣は、昭和57年(1982年)に観光のシンボルとして建設された模擬天守であり、歴史的建造物ではない 25 。さらに注意すべきは、本来の山頂部が太平洋戦争中に高射砲陣地を建設するために約7メートルも削平されており、現在の地形は里見氏の時代とは大きく異なっているという点である 20 。したがって、天守の存在を含め、山頂部の往時の姿を正確に復元することは極めて困難である。
里見氏による館山城への本拠地移転は、単なる軍事・政治拠点の移動に留まらなかった。それは、湊を核とした一大流通拠点を人為的に創出し、領国経済の構造そのものを変革しようとする、意図的かつ先進的な都市計画の始まりであった。
里見氏の新たな経済政策の中心に据えられたのが、館山湾に面した高の島湊であった。この湊は、高の島が西風を遮る天然の防波堤となり、水深も深く、古くから良港として利用されてきた 13 。里見氏はその価値に早くから着目しており、義頼の時代には既に商人・岩崎与次右衛門を派遣して、流通拠点としての整備を進めさせていた 13 。義康の代になり、本拠地が館山に移されると、この湊の活用は国家的なプロジェクトとして本格化する。
財政再建を急ぐ義康は、慶長3年(1598年)頃から、極めて強力な経済統制策を打ち出した。まず、領内に分散していた商人に対し、城下町(特に北条町)への移住を命じた 3 。そして、城下町に市場を立て、そこ以外での商品の売買を厳しく禁止したのである。この規制は領外から来る商人にも適用され、城下町以外で商取引を伴う宿泊を行うことさえ禁じられた 27 。
この一連の政策の狙いは明らかである。領内の経済活動を、為政者が直接管理・把握でき、効率的に税を徴収できる一点(城下町)に強制的に集中させることであった。これは、自然発生的な市場の成長を待つのではなく、大名の権力をもって経済のハブを創出する、トップダウン型の経済開発であった。
この壮大な都市計画と経済システムの再編を推進する上で、重要な役割を果たしたのが、商人である岩崎与次右衛門であった。彼は単なる御用商人ではなく、城下町建設そのものを主導するプロジェクトマネージャーとして抜擢された 27 。慶長15年(1610年)には、城下町の町方(商人・職人らが住む区域)の総責任者である「町中肝煎」に任命され、市場の開設、商人の統制、さらには城下の警備といった、町の管理運営全般を担う絶大な権限を与えられた 13 。
武士による統治機構の中に、商人の専門知識と実行力を積極的に組み込むというこの手法は、当時としては画期的であった。里見氏が実践したのは、単なる「楽市楽座」のような規制緩和策とは一線を画す、国家主導の「計画経済都市」の建設であった。財政危機という強い外的圧力から生まれたこの統治モデルは、極めて合理的かつ先進的な試みであり、その結果、館山の城下町は急速に発展し、房総随一の流通拠点として繁栄した。当時の町は、現在の館山市街地の上町・中町・下町にあたり、海岸線が目の前に迫る活気ある港町であったと伝えられている 27 。
関ヶ原の合戦を経て最大版図を達成した里見氏であったが、その栄華は長くは続かなかった。絶頂期からわずか十数年後、里見氏は突如として改易を命じられ、館山城もまた徹底的な破却の運命を辿る。その背景には、大久保忠隣事件という直接的なきっかけの裏に隠された、徳川幕府の盤石な全国支配体制を確立するための、冷徹な政治的計算が存在した。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の合戦が勃発すると、里見義康は徳川家康率いる東軍に与した 7 。豊臣政権下では五奉行の一人である増田長盛との繋がりが深かった義康であったが 16 、天下の趨勢を見極め、徳川方につくことを決断したのである。この功により、戦後、義康は常陸国鹿島に3万石を加増され、里見氏は合計12万2千石を領する関東有数の外様大名となった 4 。これは里見氏の歴史における最大石高であり、まさに絶頂期であった。
この時期、里見氏は徳川幕府との関係強化にも腐心していた。義康の子である忠義は、幕府の重鎮である老中・大久保忠隣の孫娘を正室として迎えた 4 。さらに、忠義の叔母が家康の外孫にあたる松平忠政に嫁ぐなど、幾重にもわたる姻戚関係を築き、幕藩体制下での安泰を図っていた 7 。
しかし、慶長19年(1614年)、この安泰は突如として崩れ去る。幕府内で権勢を誇った大久保忠隣が、いわゆる「大久保長安事件」に連座して失脚したのである 8 。この政争の煽りを受け、忠隣の孫婿であった里見忠義は、江戸城での祝賀行事のために江戸屋敷に滞在していた最中、将軍・徳川秀忠からの使者によって突然の改易を言い渡された 8 。
公式な改易理由は、あくまで大久保忠隣への連座であった 4 。しかし、それ以外にも幕府が里見氏に対して複数の嫌疑をかけていたことが伝えられている。具体的には、①大久保忠隣の謀反に加担した、②館山城を過剰に修築し、堀を深くするなどして城を堅固にしすぎている、③分不相応に多くの家臣(特に幕府に不満を持つ牢人)を召し抱えている、といった点であった 9 。これらは、幕府への反逆の企てと見なされたのである。
忠義は安房国の所領を全て没収され、遠く伯耆国倉吉(現在の鳥取県)への転封を命じられた。与えられた石高は表向き3万石とされたが、実際にはわずか4千石程度であり、これは事実上の改易処分に等しいものであった 8 。
改易の命令が下されると、事態は驚くべき速さで進んだ。命令からわずか7日後には、佐貫藩主の内藤政長が城の受け取りの総指揮官として派遣され、幕府軍が館山に到着した 8 。幕府は里見家臣団による籠城などの抵抗を警戒していたが、家臣らは速やかに城の引き渡しに応じたため、館山城は直ちに、そして徹底的に破却された 8 。堀は埋められ、建物は破壊され、城としての機能は完全に失われたのである 34 。
配流の身となった里見忠義は、失意のうちに元和8年(1622年)、29歳の若さで病死。世継ぎも認められず、ここに170年続いた名族・里見氏は断絶した 9 。
里見氏改易の根本原因は、大久保忠隣事件という偶発的な政争に巻き込まれたという側面だけでは説明できない。その本質は、徳川幕府にとって里見氏の存在そのものが「地政学的リスク」と見なされたことにある。江戸を本拠地とする徳川幕府にとって、江戸湾の制海権は国家の生命線である。その湾の入り口という戦略的要衝に、関東最大の外様大名が、堅固な城と強力な水軍を保持している状況は、全国支配の安定化を目指す幕府にとって、潜在的な脅威以外の何物でもなかった。特に、豊臣家との最終決戦である大坂の陣を目前に控えたこの時期、幕府は江戸の後背地の安全を万全にするため、あらゆる口実を用いてでも里見氏を排除する必要があったのである 29 。大久保忠隣事件は、この潜在的脅威を排除するための、幕府にとって格好の口実であった。里見氏の悲劇は、個人の失敗というよりも、徳川の天下という新たな秩序の中で、その存在自体が許されなくなったという、構造的な問題に起因するものであった。
慶長19年(1614年)の破却により、物理的な存在としての館山城の歴史は幕を閉じた。しかし、その名は人々の記憶から消え去ることはなかった。江戸時代後期に生まれた一大長編小説によって、館山城は史実の城としてではなく、壮大な物語の舞台として新たな生命を吹き込まれ、国民的な知名度を得るに至る。
里見氏が安房国を去った後、館山は一時的に幕府の直轄地(天領)となった。その後、天明元年(1781年)に旗本の稲葉正明が1万石の大名となり館山藩を再興し、かつての館山城の南麓に陣屋を構えた 24 。しかし、城そのものが再建されることはなかった。
館山城と里見氏の名を不朽のものとしたのは、江戸時代後期の戯作者・曲亭馬琴が28年の歳月をかけて完成させた長編伝奇小説『南総里見八犬伝』であった 38 。この物語は、史実の里見氏をモデルとしながらも、その内容は仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の玉を持つ八犬士が活躍する、完全に創作されたフィクションである 40 。
しかし、この物語が江戸の民衆の間で絶大な人気を博したことにより、「里見氏=八犬伝」というイメージが広く社会に定着した。特に、里見忠義が倉吉で没した際に殉死した8人の家臣が、八犬士のモデルになったのではないかという説が生まれ 10 、史実の悲劇と物語のロマンが混然一体となって語り継がれるようになった。
現代において、館山城跡は市民の憩いの場である城山公園として整備されている。そして、この場所は「史実の城」と「物語の城」という、二つの異なる物語が重層的に存在する稀有な空間となっている。
城山の麓に位置する館山市立博物館本館では、考古学的な発掘成果や古文書に基づき、戦国大名としての里見氏の興亡や、安房地方の歴史と民俗が学術的に展示されている 20 。これは、史実を探求する場である。
一方、かつての城郭の山頂部に再建された模擬天守は、「八犬伝博物館」として機能している 43 。その内部では、『南総里見八犬伝』の版本や、登場人物を描いた錦絵などが展示され、訪れる人々を壮大な物語の世界へと誘う 42 。これは、創作の物語を体感する場である。
物理的には破却され、一度は歴史から消えたはずの館山城は、『南総里見八犬伝』という強力な文化的装置によって、人々の心の中に再建され、生き続けている。昭和期に観光のシンボルとして模擬天守が建設された際、その内部が史実の展示ではなく「八犬伝博物館」とされたのは、史実の里見氏の悲劇よりも、『八犬伝』の物語の方がはるかに大きな文化的知名度と集客力を持っていたからに他ならない。
現在の博物館の二元的な構成は、この史実と創作という二つの物語を区別し、その両方を尊重しようとする現代的な態度の表れと言える。館山城は、歴史研究の対象であると同時に、国民的物語の聖地でもあるという、他に類を見ない二重の価値を持つに至ったのである。この城の真の姿を理解するためには、史実の探求と、物語が人々の心に与えた影響の分析、その両方からの視点が不可欠である。