駿府城は、今川氏の拠点から徳川家康の天下への足がかり、そして大御所政治の中心地へ。二度の築城と度重なる火災を乗り越え、日本の歴史を語り継ぐ。
駿府城は、日本の歴史、特に戦国時代から江戸時代初期にかけての激動期において、単なる一地方の城郭に留まらない、極めて重要な役割を担った戦略拠点であった。その歴史的意義を理解するためには、まず駿府という土地が持つ地理的・政治的優位性を把握する必要がある。
駿河国、現在の静岡県中部に位置する駿府は、古来より日本の大動脈である東海道の結節点として、京・大坂を中心とする西国と、鎌倉・江戸を中心とする東国を結ぶ交通、物流、そして情報の要衝であった 1 。この地理的条件は、平時においては経済的繁栄を、戦時においては軍事的な価値をこの地にもたらした。さらに、北に賤機山、東に谷津山を控え、西には安倍川が自然の要害をなす地形は、防御拠点として理想的であった 1 。この地を押さえることは、東西の交通を掌握し、天下の情勢に大きな影響力を行使することを意味したのである。
駿府城の歴史は、戦国大名今川氏の「館」にその源流を求めることができる。今川氏の滅亡後、武田氏による一時的な支配を経て、この地を新たな拠点として選び、近世城郭を築いたのが徳川家康であった。家康は、豊臣政権下の一大名として築いた「天正期」の城と、天下人となり「大御所」として君臨した「慶長期」の城という、二度にわたって性格の異なる城をこの地に築いている 3 。その後、大御所政治の首都として栄華を極め、家康没後は幕府の直轄拠点となり、近代には公園へと姿を変えていった 1 。
駿府城の敷地は、単なる建設地ではなく、時代の転換点において旧体制の「破壊」と新体制の「創造」が繰り返された、象徴的な歴史の積層空間である。今川氏の館が武田氏によって焼かれ、その上に徳川家康が全く異なる思想に基づく近世城郭を築き、さらに自らの地位の変化に応じてそれを大規模に拡張・改築した過程は、権力の移行と新たな時代の到来を物理的に示すものであった。本報告書は、特に戦国期の動乱から徳川による天下泰平へと至る過程に焦点を当て、この駿府城という類稀なる歴史遺産の多層的な価値を解き明かすことを目的とする。
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
1411年 |
応永18年 |
今川範政により今川館が建造される 4 。 |
1568年 |
永禄11年 |
武田信玄の駿河侵攻により駿府が占領され、今川館は焼失したと伝わる 5 。 |
1582年 |
天正10年 |
武田氏滅亡後、徳川家康が駿河国を領有する 1 。 |
1585年 |
天正13年 |
家康が浜松城からの移転のため、今川館跡地に駿府城(天正期)の築城を開始 1 。 |
1589年 |
天正17年 |
天正期天守が落成し、城郭が完成する 1 。 |
1590年 |
天正18年 |
家康の関東移封に伴い、豊臣系大名の中村一氏が城主となる 1 。 |
1601年 |
慶長6年 |
関ヶ原の戦い後、徳川譜代の内藤信成が城主となる 4 。 |
1607年 |
慶長12年 |
家康が大御所として入城するため、天下普請による大改修(慶長期)を開始。同年12月、失火により本丸が焼失 4 。 |
1610年 |
慶長15年 |
再建された慶長期天守が完成 4 。 |
1616年 |
元和2年 |
徳川家康が駿府城にて死去 4 。 |
1632年 |
寛永9年 |
城主・徳川忠長の改易により、駿府は幕府直轄領となり城代が置かれる 1 。 |
1635年 |
寛永12年 |
城下からの延焼により天守を含む城の大半が焼失。以後、天守は再建されず 1 。 |
1869年 |
明治2年 |
廃藩置県に伴い駿府城は破却される 1 。 |
1896年 |
明治29年 |
陸軍歩兵第34連隊の駐屯に伴い、本丸堀が埋め立てられる 1 。 |
1989年 |
平成元年 |
巽櫓が復元される 1 。 |
2014年 |
平成26年 |
坤櫓が復元される 1 。 |
2016-2022年 |
平成28-令和4年 |
天守台の詳細な発掘調査が実施され、天正期と慶長期の天守台遺構が発見される 3 。 |
徳川家康による築城以前、駿府は二百年以上にわたり駿河守護・今川氏の本拠地であった。この時代、駿府は単なる地方の拠点ではなく、政治・経済・文化の先進地として「東海の都」と称されるほどの繁栄を誇った。
長らくその実態が謎に包まれていた今川氏の居館「今川館」であるが、近年の駿府城跡における発掘調査によって、その姿が徐々に明らかになってきた。徳川時代の遺構の下層から今川時代のものとみられる遺構が発見され、徳川家康が今川館の跡地に駿府城を築いたという記録が考古学的にも裏付けられたのである 4 。
調査によれば、今川館は単一の巨大な建築物ではなく、庭園に伴う池や館を区画するための堀などを備えた、複数の屋敷から構成される複合的な施設であったと推定されている 7 。特筆すべきは、その出土品である。守護大名クラスの館から出土することが多い金箔を施した土器(かわらけ)や、当時極めて希少であった中国製の高級磁器、特に赤色染付の壺(釉裏紅)などが発見されている 7 。これらの遺物は、今川氏が単なる地方の武将ではなく、高い格式と豊かな財力、そして洗練された文化的趣味を兼ね備えた大名であったことを雄弁に物語っている。
今川氏は京の都を模範とした町づくりを進め、駿府は「東海の小京都」とも呼ばれる文化都市として発展した 15 。応仁の乱以降、荒廃した京を逃れた多くの公家や文化人が駿府に身を寄せ、今川氏の庇護のもとで活動した 16 。公家の山科言継が記した『言継卿記』や、連歌師の里村紹巴による『富士見道記』といった当代一流の文化人の記録には、駿府で和歌会、茶会、連歌会などが頻繁に催されていた様子が生き生きと描かれている 16 。今川氏当主の氏真自らも、当時流行していた風流踊りに興じたという記録が残るなど 19 、武家でありながら文化活動に深い理解と情熱を注いでいたことがわかる。
今川氏の強さは、単なる軍事力や経済力に依存するものではなかった。京の高度な文化を積極的に導入し、自らがその中心となることで「文化的な権威」を確立したのである。この文化資本は、領国内の家臣団の結束を高めると同時に、他国の戦国大名や中央の公家社会に対する影響力を維持するための重要な統治手段であった。今川館と駿府の町は、軍事・政治拠点であると同時に、その権威の源泉である文化を生産し、発信する「劇場」としての機能をも担っていたのである。今川氏の統治は、武力と経済力にこの「文化資本」を組み合わせた、戦国時代において極めて洗練された領国経営であったと言えよう。
文化面だけでなく、経済政策においても今川氏は先進性を見せた。特筆すべきは、織田信長による政策として著名な「楽市」を、それより早く導入していたことである 20 。永禄9年(1566年)、今川氏真は富士大宮に対して楽市令を発布している。これは、既存の同業者組合(座)が持つ商売の独占権を否定し、市場税を免除することで、誰もが自由に商売に参加できるようにする画期的な規制緩和策であった 23 。この政策は、新規の商工業者の参入を促し、市場を活性化させることで、城下町の経済的基盤を大いに強化した。
また、友野氏に代表されるような今川家御用達の豪商が、多くの商工業者を組織し、城下町の発展において中心的な役割を果たしていたことも記録から窺える 25 。このように、今川時代の駿府は、高度な文化と先進的な経済政策に支えられた、戦国期屈指の繁栄を誇る都市だったのである。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏の勢力には陰りが見え始める。そして永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄による駿河侵攻が、この「東海の都」の繁栄に終止符を打つことになる。
武田信玄は、三河の徳川家康と大井川を境に今川領を分割するという密約を結び、駿河への電撃的な侵攻を開始した 5 。当主の今川氏真は興津の清見寺で迎撃を試みるも、さった峠の戦いで敗北。武田軍は一気に駿府へと雪崩れ込んだ 6 。氏真は本拠地である今川館を捨て、遠江の掛川城へと逃亡を余儀なくされた 6 。
この侵攻の際、今川館が焼失したことは、発掘調査によっても裏付けられている。館の遺構からは広範囲にわたる焼土層や焼けた陶磁器が発見されており、大規模な火災があったことが確認された 7 。この火災の原因については、武田軍による放火という伝承が一般的であるが、近年では異なる見方も提示されている。占領後の重要な資産となり得る館や貴重な財産を、武田軍が意図的に焼き払うとは考えにくい。むしろ、今川氏真が館を退去する際に、これらの財産を武田方に渡すことを潔しとせず、自ら火を放った可能性も指摘されている 7 。いずれにせよ、この火災は、二百年以上にわたる今川氏の支配とその文化の栄華が、灰燼に帰したことを象徴する出来事であった。
駿府を占領した武田氏であったが、その支配形態は今川氏とは大きく異なっていた。武田氏は今川館の跡地を再建して本拠とすることはなく、駿河支配の拠点として清水港に近い江尻に新たに城(江尻城)を築いた 29 。これは、今川氏の同盟者であった相模の北条氏との対立が激化する中で、水軍の拠点であり兵站・補給基地として重要な清水港を重視した、極めて軍事的な判断であったと考えられる 5 。
一方で、荒廃した駿府の町そのものを見捨てたわけではなかった。武田氏は、今川時代からの有力商人であった友野氏や松木氏らを「御用商人」として登用し、彼ら商人集団の自治的な意思決定(談合)を尊重しながら、都市の復興と町づくりを進めようとしていたことが史料から確認できる 26 。これは、武田氏が軍事的な制圧と経済的実利を優先し、既存の社会構造を利用した間接的な都市支配を行ったことを示唆している。
しかし、武田氏の支配は、今川氏が築き上げたような文化的な権威を伴うものではなかった。結果として、駿府は「首都」としての機能を喪失し、その文化的中心性も失われた。武田氏による支配は、駿府に一時的な「権力の空白」を生み出し、これが後の徳川家康による全く新しい思想に基づいた都市創造の素地となったのである。
今川氏の滅亡と武田氏の支配を経て、駿府の地に新たな歴史を刻んだのが徳川家康である。家康は、その生涯において二度、駿府を自らの拠点として定め、城を築いた。一度目は豊臣政権下で五カ国を領有する大大名として、二度目は天下人となり大御所として。この二つの城は、家康自身の地位の変化と、彼が描いた天下統一の構想を色濃く反映している。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍によって武田氏が滅亡すると、家康は駿河国をその版図に加えた。これにより、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国を領有する、関東の北条氏と並ぶ東国の大大名へと飛躍する 8 。広大化した領国を効率的に統治するため、家康は長年拠点としてきた浜松城からの本拠地移転を決断する。そして、その新たな拠点として選ばれたのが、今川氏の旧都・駿府であった。
天正13年(1585年)、家康は今川館の跡地に新たな城の築城を開始する 1 。この移転には、いくつかの戦略的意図があった。第一に、駿府は五カ国の地理的中心に近く、領国全体の統治に好都合であったこと。第二に、甲斐・信濃といった旧武田領の統治を安定させ、武田遺臣団を掌握するためには、彼らにとって馴染み深い駿府が適していたことである 30 。この天正期の駿府城は、家康が独立した戦国大名として築いた、最後の城とも言えるものであった。
この天正期駿府城の具体的な姿は、近年の天守台発掘調査によって劇的に明らかになった。後の慶長期に築かれた巨大な天守台の内部から、それとは異なる一回り小さな天守台の遺構が発見されたのである 3 。その規模は東西約33m、南北約37mと推定され、当時の天守台としては最大級であった 33 。
石垣の工法は、自然石をあまり加工せずに積み上げる「野面積み」と呼ばれる技法が用いられている。しかし、その中には豊臣秀吉の大坂城にも匹敵するほどの巨石が含まれており、巨石を運び、高く積み上げるという当時の最新技術が投入されていたことがわかる 33 。これは、家康が一大名でありながらも、高度な築城技術とそれを可能にする強大な動員力を持っていたことを示している。
この発掘調査における最大の発見の一つが、天正期天守台の周辺から大量に出土した金箔瓦である 3 。金箔瓦は、当時の天下人であった豊臣秀吉の権力の象徴であり、大坂城や聚楽第など、豊臣系の城郭で主に使用されていた。家康がこの金箔瓦を自らの居城に用いたことには、極めて高度な政治的メッセージが込められていたと考えられる。
この時期、家康は秀吉に臣従し、豊臣政権下で最大の領土を持つ有力大名という立場にあった。金箔瓦の使用は、秀吉への従属と忠誠をアピールするポーズであったと解釈できる。秀吉の権威を借りることで、自らの城の格式を高め、五カ国の支配を正当化しようとしたのである。しかし、同時にそれは、秀吉と同じシンボルを用いることで、自らの格を天下人に近づけようとする、家康の秘めたる野心と対抗意識の表れであったとも考えられる。秀吉に対して従順な姿勢を見せつつも、その内側では天下を窺う。天正期の駿府城とそこに葺かれた金箔瓦は、豊臣政権下における家康の、このような従属と自立の二重性を内包した、絶妙な政治的バランスの上に成り立っていた建造物であった。この城は、家康の「天下への助走」を象徴する、重要なマイルストーンだったのである。
項目 |
天正期(家康五カ国領有時代) |
慶長期(家康大御所時代) |
発見年 |
2018年(平成30年) |
2016-2018年(平成28-30年) |
規模 |
約33m × 約37m |
約61m × 約68m(国内最大級) |
石垣工法 |
野面積み(自然石を使用) |
打込接(加工した石を使用) |
石材 |
豊臣大坂城に匹敵する巨石を使用 |
割って加工した石を整然と積む |
主な出土品 |
金箔瓦(豊臣系の特徴) |
軒丸・軒平瓦、鯱瓦など |
政治的背景 |
豊臣政権下の一大名 |
天下人・大御所 |
出典 |
3 |
3 |
天正18年(1590年)、小田原征伐後に家康は関東へ移封となり、完成まもない天正期駿府城を離れる。しかし、関ヶ原の戦いを経て天下人となった家康は、再び駿府の地を歴史の表舞台へと引き戻す。それは、単なる居城としてではなく、新たな時代を創り出すための司令塔としてであった。
慶長10年(1605年)、征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲った家康は、「大御所」と称して形式的には隠居の身となった 8 。そして、その隠居地として選んだのが、若き日に天下への夢を育んだ駿府であった。しかし、これは決して政治の第一線からの引退を意味するものではなかった。
家康は駿府に事実上の政府である「大御所政権」を樹立。江戸城の秀忠が率いる幕府と連携しつつも、外交、朝廷政策、西国大名の監視、法整備といった国家の最重要事項を自らの手で主導した 36 。この駿府と江戸による二元政治体制の下、駿府は西国に残る豊臣方勢力に対する前線拠点であると同時に 35 、実質的な日本の首都として機能した。一時は江戸を凌ぐほどの政治・経済・文化の中心地となり、その黄金時代を迎えたのである 39 。
家康の周囲には、本多正純のような側近政治家、外交・法制顧問であった僧侶の金地院崇伝、儒学者の林羅山、さらにはイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人のヤン・ヨーステンといった外国人顧問まで、各分野の最高峰の頭脳が集結した 37 。駿府は、まさに徳川幕府の体制を盤石にするための巨大なシンクタンクであったと言える。
この新たな政治の中心地にふさわしい城を築くため、慶長12年(1607年)から前代未聞の大改修工事が開始された。これは、家康個人の事業ではなく、全国60家以上の諸大名を動員して行われる「天下普請」であった 2 。
天下普請は、単に労働力や資材を集めるための効率的な手段ではなかった。それは、諸大名に莫大な財政的・人的負担を強いることでその経済力を削ぎ、徳川家への奉仕を通じて絶対的な忠誠を誓わせるという、極めて高度な政治的意図を持つ事業であった 41 。加賀の前田氏、長州の毛利氏、播磨の池田氏、豊前の細川氏といった、かつてのライバルや有力外様大名もこの普請に参加を命じられている 42 。普請現場では、大名家同士の些細な揉め事が大きな争いに発展することを防ぐため、細川忠興が制定した掟書のように、厳しい規律が課せられていた 43 。現在も駿府城公園の石垣には、工事を担当した大名家が自らの担当区域を示すために刻んだと考えられる刻印が数多く残されており、天下普請の歴史を今に伝えている 2 。
天下普請によって生まれ変わった慶長期の駿府城は、天下人の居城にふさわしい、壮大かつ絢爛豪華なものであった。
天守:
文献史料によれば、天守は外観が五重、内部は七階建ての壮大な層塔型天守であったと伝えられる 48。その最大の特徴は、屋根に用いられた多様な金属瓦である。最上層は銅瓦、二層から上は鉛と錫の合金である白鑞(しろめ)瓦、一層目は通常の瓦葺きとし、軒瓦には金鍍金(金メッキ)が施されていた 50。棟の両端には黄金の鯱が輝き、まさに壮麗を極めた姿であったと想像される 31。この天守を支えた天守台は、発掘調査によって東西約61m、南北約68mという、江戸城や大坂城をも上回る史上最大級の規模であったことが確認されている 3。
御殿:
本丸に建てられた御殿は、家康の私的な居住空間であると同時に、諸大名や外国からの使節を謁見するための公的な迎賓館でもあった。この重要な建物の作事奉行(設計・監督)を務めたのは、後に茶人、作庭家として「きれいさび」の美学を確立する小堀遠州(政一)であった 50。本丸御殿の庭園も遠州の作と伝えられており、彼の美意識が反映された、格式高くも洗練された空間であったと考えられる 8。
これらの建築を実際に手掛けた大工棟梁は、二条城、名古屋城、江戸城など、徳川家所縁の数々の重要建築物を担当した幕府御用達の中井正清であり、当時の日本における最高の建築技術が駿府に集結していたことがわかる 50 。
興味深いことに、慶長12年(1607年)12月、完成直後であった本丸御殿は失火により天守をも巻き込んで全焼してしまう 4 。しかし家康は即座に再建を命令し、当時天下普請が進められていた江戸城の資材を駿府に回させるなど、異例の速さで復旧を進めた 8 。このことは、家康がいかに駿府城の完成を重要視していたかを物語っている。
慶長期の駿府城建設は、城郭単体の工事に留まらず、城と一体となった大規模な近世城下町の創造事業でもあった。
縄張(城郭設計):
城の基本構造は、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が同心円状に広がる「輪郭式」の平城で、それぞれが幅の広い水堀と堅固な石垣で囲まれていた 1。本丸の北西に天守を置き、南に玄関前門(正門)、東に台所門、北に天守下門を配すという基本構成は、家康の子・義直のために築かれた名古屋城本丸と全く同一であり、徳川の城郭設計における一つの定型であったことが窺える 1。
都市計画:
家康は、城下町の恒久的な発展と安全のため、大規模なインフラ整備を行った。その最たるものが、安倍川の大規模な治水事業である。当時、城の西側を流れていた安倍川は頻繁に洪水を起こしていたが、家康はいわゆる「薩摩土手」を築いて流路を西へ大きく付け替え、藁科川と合流させた 1。これにより、城下町を水害から守ると同時に、川を西側の広大な防衛線として活用することに成功した。
町割:
新たに造成された城下町は、整然とした碁盤目状に区画整理された 61。そして、城郭の周辺に武家屋敷、城の南側に商人や職人が住む町人地、そして町の外郭に寺社地を計画的に配置するという、機能的なゾーニングが施された 35。呉服町、両替町、紺屋町といった職能ごとの町名は現在にもその名残を留めている。この合理的な都市計画は、家康の思想が色濃く反映されたものであった 25。
経済中枢機能:
さらに家康は、駿府の城下町に全国統一通貨の鋳造を目指す「金座」と「銀座」を設置した 64。ここで鋳造された「駿河小判」は、金の含有量が高く、高い価値を持っていた 65。また、今川氏の時代から続く度量衡の制度を幕府の公式なものとして採用するなど、経済の標準化も推進した 65。これらの金融・経済の中枢機能は、後に江戸へと移転され、江戸幕府の経済的基盤の礎となった 65。
慶長期の駿府城と城下町は、単なる大御所の隠居城ではなかった。それは、家康が構想した「天下泰平」の世の縮図であり、そのプロトタイプであった。二元政治という政治システム、天下普請による軍事・権力構造の確立、治水と一体化した都市基盤整備、そして統一通貨の試み。これらは全て、260年以上にわたる江戸時代の平和な統治システムを構築するための壮大な社会実験であった。家康は駿府という実験都市において、その設計図を描き、有効性を証明したのである。そして駿府城は、その構想を実現するための司令塔であり、絶対的な権威の象徴であった。
元和2年(1616年)、徳川家康が駿府城でその75年の生涯を閉じると、権力の中枢としての駿府の役割は徐々に薄れていく。しかし、城はその後も江戸時代の終わりまで、幕府の重要な拠点として存続し、時代の変遷と共にその性格を変化させていった。
家康の死後、駿府城は家康の十男であり、後に紀州徳川家の祖となる徳川頼宣が城主として引き継いだ。しかし、元和5年(1619年)、頼宣が紀州和歌山へ移封されると、一時的に城主不在となる 1 。その後、寛永元年(1624年)には三代将軍・家光の弟である徳川忠長が55万石の領主として入城する 31 。しかし、忠長は素行の乱れから兄・家光の怒りを買い、改易の上、自刃に追い込まれた 1 。
この忠長の悲劇以降、幕府は駿府に大名としての城主を置くことをやめ、幕府の直轄領とした。城の管理は、老中支配下に置かれた大身旗本である「駿府城代」と、それを補佐する「駿府定番」に委ねられることになった 1 。これにより、駿府城は特定の領主の居城から、幕府の地方統治機関へとその性格を完全に変えたのである。
寛永12年(1635年)、城下の町家から発生した火災が強風に煽られて城に燃え移り、絢爛豪華を誇った天守をはじめ、御殿、櫓など城内の主要な建物のほとんどが焼失するという大惨事に見舞われた 1 。幕府は直ちに再建に取り掛かり、寛永15年(1638年)には御殿や櫓、城門などが復旧した。しかし、ただ一つ、城の象徴であったはずの天守だけは、ついに再建されることはなかった 1 。
天守が再建されなかった背景には、財政的な理由もあったであろう。しかし、より本質的には、時代の大きな変化があった。この頃には、島原の乱(1637-38年)を最後に国内の大きな戦乱は終息し、徳川幕府による支配体制は盤石なものとなっていた。戦国時代において、天守は軍事的な司令塔であると同時に、天下人の権威を示す最大のシンボルであった。しかし、泰平の世においては、その象徴的な意味合いは必然的に薄れていく。幕府にとって、徳川の権威の象徴は将軍の居城である江戸城に一元化すれば十分であり、地方の拠点城郭に巨大な天守を維持する必要性はもはや失われていた。
駿府城天守の非再建は、徳川幕府が自ら「戦の時代」の終焉と「治(ち)の時代」の到来を宣言した、象徴的な出来事であったと言える。これにより、駿府城は絶対的権力者の威光を示す城から、幕府の地方行政を担う実務的な拠点へと、その役割を明確に転換させたのである。
江戸幕府の終焉と共に、駿府城もまたその歴史的な役割を終える。近代化の波の中で、城は一度解体され、その姿を大きく変えるが、やがて史跡としての価値が再認識され、現代に至る新たな歴史を歩み始める。
慶応4年(1868年)、江戸城を明け渡した最後の将軍・徳川慶喜に代わり、徳川宗家を継いだ徳川家達が駿府藩主として一時的に入城する。しかし、翌年の廃藩置県により藩は消滅し、駿府城は完全にその役割を終えた。城内の壮麗な建物群は次々と破却され、敷地の一部は茶畑などに転用された 1 。
さらに明治29年(1896年)、城跡に陸軍歩兵第34連隊が誘致されると、軍事演習の障害となる本丸の石垣や建造物は取り壊され、本丸を囲んでいた内堀は完全に埋め立てられてしまった 1 。これにより、家康が築いた近世城郭の核心部分は、その面影をほとんど失うことになった。
第二次世界大戦後、軍用地であった城跡は静岡市に払い下げられ、市民の憩いの場である「駿府公園」として整備された 1 。歴史の記憶が薄れゆく中、昭和の終わりから平成にかけて、史跡としての価値を見直す動きが活発化する。
その象徴が、失われた建物の復元事業であった。平成元年(1989年)の市制100周年を記念して巽櫓が復元されたのを皮切りに、平成8年(1996年)には東御門と多聞櫓、平成26年(2014年)には坤櫓が、残された絵図や古文書を基に、伝統的な木造工法によって忠実に復元された 1 。これらの復元により、駿府城はかつての威容の一部を取り戻し、歴史を体感できる場として再び脚光を浴びることになった。
近年の駿府城の歴史において最も特筆すべきは、平成28年(2016年)から令和4年(2022年)にかけて実施された天守台の詳細な発掘調査である 11 。この調査は、前述の通り、慶長期の巨大な天守台と、その下に眠っていた天正期の天守台という二つの時代の遺構を発見するという、日本の城郭史上でも極めて重要な学術的成果を上げた。
さらに、この調査が画期的であったのは、その手法にある。通常、限定的にしか公開されない発掘現場を、調査期間中ほぼ毎日一般に公開し、進行中の調査の様子を間近で見学できるようにしたのである。この「見える化」と名付けられた取り組みは、発掘現場を歴史学習や観光の生きた資源として活用するもので、全国的にも珍しい試みとして大きな注目を集めた 72 。市民や観光客は、地中から歴史が掘り起こされる瞬間に立ち会い、調査プロセスそのものを体験することで、駿府城への理解と関心を深めることができた。
駿府城跡の近代以降の歴史は、「破壊」から「忘却(公園化)」、そして「再発見(復元・発掘)」というプロセスを辿ってきた。当初の復元事業が失われた景観を取り戻すことに主眼を置いていたのに対し、天守台発掘調査とその「見える化」は、地中に眠る「本物の歴史」を掘り起こし、その学術的な探求プロセス自体を新たな価値として提示する、「史跡の再創造」と呼ぶべき活動であった。現代における駿府城は、復元された建物が往時を偲ばせる静的な史跡であると同時に、発掘調査という動的なプロセスを通じて、今なお新たな歴史的知見を生み出し続ける「生きた学びの場」へと変貌を遂げつつあるのである。
駿府城の歴史は、一つの城郭の変遷に留まらず、日本の戦国時代から近世への移行という、国家規模の構造転換を映し出す鏡である。その歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、駿府城は「多層的な歴史の証人」である。その敷地は、今川氏が育んだ洗練された文化の府城であり、武田氏による侵攻と支配の係争地であった。そして徳川家康が、五カ国を統治する大大名の拠点として、また天下人として泰平の世を設計するための大御所政庁として、その役割を劇的に変えながら利用した。一つの場所が、これほどまでに時代の要請に応じてその性格を変容させた例は稀であり、駿府城は権力の盛衰と時代の転換が幾重にも刻まれた、類稀なる多層的歴史遺産である。
第二に、駿府城は「家康の天下構想の具現化」であった。特に慶長期の城と城下町は、家康が目指した長期安定政権のビジョンが凝縮された物理的な証拠と言える。天下普請による大名の統制、治水と一体化した合理的な都市計画、統一通貨の試みといった政策は、すべて駿府を実験場として行われた。ここで描かれた青写真は、その後の江戸幕府の統治システムの礎となり、260年以上にわたる平和な時代の基礎を築いた。駿府城は、まさに天下泰平の設計図が描かれた場所だったのである。
第三に、駿訪城は「未来へ継承される生きた遺産」である。近代化の過程で一度はその姿を大きく損なったものの、現代における復元事業と、特に天守台発掘調査の画期的な成果によって、その歴史的価値は再発見され、新たな光が当てられている。地中から現れた二つの時代の天守台は、家康の権力の飛躍を雄弁に物語り、日本の城郭史に新たな一ページを書き加えた。そして、その調査プロセスを市民と共有する「見える化」の取り組みは、史跡が過去の遺物ではなく、未来に向けて新たな知見と学びを生み出し続ける「生きた遺産」となり得ることを示した。
今川の「館」から徳川の「城」へ、そして現代の「公園」へ。駿府城は、これからも日本の近世国家形成史を理解する上で不可欠な場所であり続け、未来に向けてさらなる歴史の物語を我々に語りかけてくれるに違いない。