最終更新日 2025-08-21

高天神城

高天神城は、遠江の要衝にして難攻不落の堅城。武田信玄が攻略を断念し、武田勝頼が奪取。徳川家康の執念の兵糧攻めにより落城し、武田氏滅亡の序曲となる。

難攻不落の城塞 高天神 ― 武田・徳川の興亡を決した遠江の要衝 ―

序論:遠江を制する城、高天神

日本の戦国史において、一つの城の帰趨が、二大勢力の興亡、ひいては天下の趨勢にまで決定的な影響を及ぼした例は稀である。遠江国(現在の静岡県西部)に位置する高天神城は、まさにその稀有な実例として、歴史にその名を深く刻んでいる。

「高天神を制するものは遠州を制する」 1 。この言葉は、戦国時代に生きた武将たちの共通認識であった。それは単に、この城が交通の要衝に位置していたという地理的な意味合いに留まらない。標高132メートルの鶴翁山に築かれ、自然の地形を巧みに利用したこの山城は、東海地方屈指の堅塁として「難攻不落」の名をほしいままにした 1 。その軍事的重要性から、高天神城の支配は、遠江一帯の政治的、経済的支配権を象徴するものであった。

戦国最強と謳われた武田信玄ですら、その堅固さを前にして攻略を断念したと伝えられるこの城は、彼の後継者である武田勝頼にとって、父を超克し自らの武威を天下に示すための象徴となった。そして、その勝頼から城を奪われた徳川家康にとっては、耐え難い屈辱の記憶であり、執念を燃やす奪還の目標となった。

本報告書は、この高天神城を主軸に、戦国時代後期における武田氏と徳川氏の熾烈な攻防の全貌を解き明かすものである。築城の起源から、その特異な城郭構造、二度にわたる攻城戦の戦術的分析、岡部元信ら城に生きた武将たちの壮絶な運命、そして落城が武田家滅亡の序曲となり、徳川家による天下統一への道筋をつけた歴史的意義に至るまで、あらゆる角度から詳細かつ徹底的に論考する。高天神城の物語は、単なる一城郭の歴史ではなく、戦国乱世の終焉を告げる、時代の大きな転換点を映し出す鏡なのである。

第一章:戦略的要衝としての高天神城

高天神城が歴史の表舞台で演じた重要な役割は、その比類なき地理的条件と、それに基づいて構築された先進的な城郭構造に起因する。それは単なる防御拠点ではなく、軍事、政治、経済の機能を併せ持つ複合的な戦略拠点であった。

第一節:地理的条件と縄張り ― 天然の要塞

高天神城は、遠州灘にほど近い標高132メートル、比高約100メートルの鶴翁山に築かれた山城である 1 。この城の最大の強みは、三方が断崖絶壁に囲まれ、残る一方が尾根続きという、まさに天然の要害と呼ぶべき地形を最大限に活用している点にある 2

戦国時代の城郭としては珍しく、石垣はほとんど用いられていない。その代わりに、曲輪の周囲には土を盛り固めた土塁が巡らされ、尾根筋には敵の侵攻を阻むための堀切が幾重にも設けられていた 7 。これは、大規模な石垣普請の技術が普及する以前の、実践的で無駄のない中世山城の典型的な姿を示している。しかし、その防御力は決して原始的なものではなかった。急峻な斜面は兵の自由な展開を物理的に阻害し、攻撃側は限定された登城路に兵力を集中せざるを得ない 7 。これにより、防御側は少数の兵力で効率的に敵を迎え撃つことが可能となり、高天神城に「難攻不落」の名をもたらしたのである。

第二節:「一城別郭」の特異な構造

高天神城の縄張り(城の設計)における最大の特徴は、「一城別郭」と呼ばれる特異な構造にある 2 。これは、城の中心部に位置する「井戸曲輪」を挟んで、城が東峰と西峰という二つの独立した丘陵に分かれている構造を指す 9 。両峰はそれぞれ異なる機能を有し、有機的に連携することで城全体の防御力を高めていた。

  • 東峰 : 城内で最も標高の高い本丸を中心に、御前曲輪や三の丸などが配置されていた 10 。ここは城主の居館や政務の中心が置かれた、城の心臓部であり、主に居住空間としての機能を持っていたと考えられる 9
  • 西峰 : 二の丸や井楼曲輪などが配置され、城の弱点とされる西側の尾根筋に対する防御の最前線を担っていた 6 。ここは純粋な戦闘空間として特化しており、後述する武田氏による大改修で、さらにその機能が強化されることになる。

この「一城別郭」構造は、極めて高度な防御思想に基づいている。仮にどちらか一方の峰が敵の攻撃に晒されても、もう一方が独立した拠点として持ちこたえ、相互に支援砲撃を行うことが可能であった 11 。そして、両峰の中間に城の生命線である「かな井戸」などの水源を擁する井戸曲輪を置くことで 6 、長期的な籠城戦を想定した設計思想が明確に見て取れるのである。

第三節:水運の活用と経済的価値

高天神城の戦略的価値は、陸路の要衝という点に留まらない。築城当時、城の南東部には現在のような田園地帯ではなく、内陸深くまで入り江や湿地帯が広がっていた 6 。この地理的条件は、高天神城が遠州灘に通じる水上交通の結節点であったことを意味する。

実際に、城の正門である大手門が海側を向いていることからも、城が水運を重要視していたことがうかがえる 9 。水運は、陸路に比べて遥かに効率的に兵糧や武具、兵員といった物資を大量輸送することを可能にする。武田氏にとって、この水運ルートの確保は、占領した駿河・遠江の沿岸部を安定的に支配し、武田水軍の活動拠点とするための生命線であった。

高天神城の価値は、「難攻不落」という軍事的一側面だけで評価されるべきではない。その本質は、軍事(要塞機能)、政治(遠江支配の拠点)、経済(水運の結節点)という三つの機能を併せ持つ、地域の支配構造そのものを支える複合戦略拠点であった点にある。後に徳川家康が、高天神城奪還のためにまず横須賀城を築いて海上ルートの遮断に注力したことは 12 、彼がこの城の兵站的・経済的価値を深く理解していたことの何よりの証左と言えよう。

第二章:今川、そして徳川の城へ ― 黎明期から信玄の挑戦まで

高天神城が戦国史の激流に飲み込まれる以前、その所有権は遠江の支配者の変遷と共に移り変わっていった。今川氏の拠点として整備され、やがて徳川の手に渡り、そして戦国最強の武将、武田信玄の挑戦を受けることになる。


表1:高天神城 関連略年表

年代

出来事

治承4年 (1180年)

謂伊隼人直孝が山砦を築いたとの伝承が残る 7

応永28年 (1446年)

福島佐渡介基正が城主となる 7

16世紀初頭

今川氏家臣・福島助春が城代として駐屯した記録が確実な初見とされる 7

天文5年 (1536年)

花倉の乱で福島氏が没落。今川氏に服属した小笠原氏が城代となる 7

永禄3年 (1560年)

桶狭間の戦いで今川義元が討死。今川氏の勢力が衰退し始める 7

永禄12年 (1569年)

城主・小笠原氏興(氏助)が徳川家康に寝返り、高天神城は徳川の属城となる 5

元亀2年 (1571年)

武田信玄が2万5千の兵で来攻するも、攻略せずに撤退したと伝わる 6

天正2年 (1574年)

第一次高天神城の戦い 。武田勝頼が2万の兵で攻城。援軍なきまま籠城した小笠原長忠は開城し、武田方の城となる 6

天正7年 (1579年)

旧今川家臣の猛将・岡部元信が武田方の城将として入城する 14

天正8年 (1580年)

第二次高天神城の戦い 。徳川家康が「高天神六砦」を築き、徹底した兵糧攻めを開始する 7

天正9年 (1581年)

3月22日、兵糧が尽きた城将・岡部元信らが最後の突撃を敢行し玉砕。高天神城は落城し、その後廃城となる 7

昭和50年 (1975年)

国の史跡に指定される 16

平成29年 (2017年)

「続日本100名城」に認定される 1


第一節:築城の起源と今川氏の支配

高天神城の正確な築城年代は明らかではない。源平合戦の時代に砦が築かれたという伝承も存在するが 7 、これを裏付ける確かな史料は見つかっていない。文献上でその存在が確認できるのは16世紀初頭、駿河の戦国大名・今川氏の家臣であった福島助春が城代として駐屯したという記録が最初である 7 。ただし、発掘調査では15世紀後半の陶器片などが出土しており、今川氏が本格的に進出する以前から、地域の在地勢力が「詰めの城」として利用していた可能性も指摘されている 7

今川氏の遠江支配が確立すると、高天神城はその重要な支城として機能した。天文5年(1536年)の今川家の内紛「花倉の乱」で福島氏が没落した後は、今川氏に服属した遠江の国衆・小笠原氏が城代を務めた 7 。この城は、遠江の国衆たちを統制下に置き、西の三河方面への備えとする、今川氏の遠江支配戦略の要であった。

第二節:今川氏の衰退と徳川家康による領有

永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、今川氏の勢力は急速に衰退する。この力関係の変化を敏感に察知したのが、当時の城主・小笠原氏興(氏助)であった。彼は今川氏を見限り、三河で独立を果たし勢力を拡大しつつあった徳川家康に寝返る 5 。これにより、永禄12年(1569年)頃には、高天神城は徳川家の属城となり、家康の東方への勢力拡大における重要な前線拠点となったのである 5

第三節:元亀2年(1571年):武田信玄の挑戦と撤退

今川領の駿河を併呑した甲斐の武田信玄は、次なる目標として徳川領の遠江・三河へと触手を伸ばし始めた。元亀2年(1571年)、信玄は2万5千と号する大軍を率いて遠江に侵攻し、その矛先を高天神城にも向けたとされる 6

通説では、信玄はその圧倒的な兵力で城に迫ったものの、天然の要害を目の当たりにし、攻略の困難さを悟って早々に兵を引いたと語られる 5 。この逸話は、高天神城の堅固さを象徴する物語として広く知られている。

しかし、この信玄の「撤退」は、彼の現実的な戦略眼の表れと見るべきである。この時の信玄の軍事行動は、彼の生涯最後の大規模作戦となる「西上作戦」の一環であった 18 。その主目的は、高天神城という一つの城を落とすことではなく、家康の主力軍を野戦に引きずり出して撃破し、その本拠地である浜松城を孤立させることにあった 19

持病の悪化という懸念も抱える中 20 、難攻不落の城に固執し、時間と兵力を消耗することは、西上作戦という大戦略そのものを頓挫させる危険を孕んでいた。信玄は高天神城の戦略的価値を十分に認識しつつも、その攻略に要するコストを冷静に計算し、より大きな目標である家康主力との決戦(後の三方ヶ原の戦い)を優先したのである。この判断は、後に高天神城の攻略そのものに執着し、大局を見失った息子・勝頼の戦略と、鮮やかな対比をなしている。信玄は「落とせる城」ではなく、その時点で「落とすべき城」を見極めていたのだ。

第三章:第一次高天神城の戦い ― 武田勝頼、武威を示す

父・信玄の死後、武田家の家督を継いだ勝頼にとって、高天神城は特別な意味を持つ城であった。父が成し得なかったこの城の攻略は、偉大な父を超え、自らの力を内外に証明するための絶好の機会だったのである。

第一節:天正2年(1574年)の攻城戦

天正2年(1574年)5月、武田勝頼は2万の軍勢を動員し、満を持して高天神城に来攻した 6 。彼はまず、高天神城攻略の足掛かりとして、東方の丘陵に諏訪原城を築城し、兵站と指揮の拠点を確保するという周到さを見せた 13

対する城方は、徳川方の城主・小笠原長忠(氏助)以下、わずか1,000の兵であった 13 。勝頼は圧倒的な兵力差を背景に猛攻を開始。特に、城の弱点とされた西峰の二の丸に攻撃を集中させた 11 。激しい攻防の末、ついに二の丸は陥落 6 。城の防御機能の半分が失われたことは、籠城する兵たちの士気に致命的な打撃を与えた。

第二節:援軍なき籠城 ― 徳川・織田の事情

二の丸を失い、落城の危機に瀕した小笠原長忠は、主君である徳川家康に必死に救援を求めた 13 。しかし、この時の家康には、勝頼の大軍に単独で野戦を挑む力はなかった。徳川家の総兵力は1万程度に過ぎず、援軍を送ることは自軍の壊滅を意味した 13

窮した家康は、同盟者である織田信長に援軍を要請する。しかし、信長もまた、各地で蜂起する一向一揆や石山本願寺との戦いに忙殺されており、遠江まで大軍を派遣する余裕はなかった 13 。この一件は、当時の徳川家が、まだ織田家の全面的な支援なくしては武田家に対抗できない、脆弱な立場にあったことを浮き彫りにしている。家康は、目の前の重要拠点が敵の手に落ちていくのを、ただ見守るしかないという屈辱を甘受せざるを得なかったのである。

第三節:開城と戦略的影響

徳川・織田からの援軍の望みが完全に絶たれたことを悟った小笠原長忠は、ついに開城を決意する。勝頼は、開城すれば城兵の命は保証すると約束し、長忠はこれを受け入れた 4 。こうして、信玄すら落とせなかった高天神城は、ついに武田の手に落ちた。

この勝利は、勝頼の武名を天下に轟かせ、父の死後、動揺しかねなかった武田家臣団を結束させ、代替わりに伴う不安を一掃する絶大な効果をもたらした 24 。勝頼のキャリアにおける、まさに頂点と言える瞬間であった。

一方で、徳川家康にとっては、自らの領国である遠江の心臓部に、深く楔を打ち込まれた形となり、その支配基盤を大きく揺るがす敗北となった 4

しかし、この輝かしい勝利は、武田勝頼の栄光であると同時に、その後の悲劇を内包するものであった。この成功体験は、彼の中に「力で押し通せば道は開ける」という過信を植え付けた可能性がある。父・信玄が常に重視した外交と軍事の慎重なバランス感覚を軽視する傾向を強めさせたのかもしれない。偉大な父を「超えた」という自負は、時に重臣たちの現実的な諫言から耳を遠ざけさせる。結果として、翌年の長篠の戦いにおいて、彼は織田・徳川連合軍の周到に準備された戦術の前に、破滅的な大敗を喫することになる。皮肉なことに、高天神城での大勝利は、武田家が滅亡への坂道を転がり始める、そのきっかけとなったのである。

第四章:武田氏による改修と防備の進化

高天神城を手中に収めた武田軍は、その支配を恒久的なものとするため、直ちに城の大規模な改修に着手した 9 。甲斐の山々で培われた武田氏得意の築城技術は、この遠江の山城を、以前とは比較にならないほどの戦闘要塞へと変貌させた。

第一節:土木の名手、武田軍による大改修

武田軍は、自らが攻め落とした経験から、この城の脆弱性を誰よりも熟知していた。それは、比較的傾斜が緩やかで、攻城の糸口となった西峰一帯であった 9 。彼らはこの弱点を徹底的に克服すべく、土木技術の粋を集めて、西峰に強力無比な防御施設群を構築した 26 。脆弱だった西峰は、敵を殲滅するための強力な戦闘空間へと生まれ変わったのである。

第二節:「キルゾーン」の構築 ― 罠としての城郭

武田氏による改修の核心は、単に敵の侵入を防ぐ「受動的」な防御ではなく、敵を意図的に誘い込み、効率的に殲滅するための「能動的」な罠、すなわち「キルゾーン(殺戮空間)」を構築した点にある 9 。その設計は、極めて巧妙かつ冷徹であった。

  • 誘導 : まず、西峰に複数の小さな曲輪を迷路のように複雑に配置し、攻め手の方向感覚を狂わせる。混乱した敵兵は、地形に沿って進むうちに、自然と全長100メートルにも及ぶ長大な横堀(斜面に沿って掘られた堀)へと誘導される仕組みになっていた 25
  • 殲滅 : 横堀に誘い込まれた敵兵は、身動きが取れないまま、頭上にそびえる土塁の上から弓矢や鉄砲による一方的な攻撃に晒されることになる 25 。仮にこの地獄のような攻撃をかいくぐり、横堀を突破できたとしても、その先には狭隘な袋小路の罠が待ち構えており、そこで完全に殲滅されるという、二段構えの必殺の設計であった 25

この構造は、城郭そのものが敵を狩るための巨大な兵器として機能する思想に基づいており、戦国時代の山城築城術の一つの到達点を示すものと言える。

しかし、この武田の技術的成功は、あまりにも皮肉な結末を招くことになる。数年後、高天神城奪還に乗り出した徳川家康は、この鉄壁の要塞を目の当たりにし、力攻めが甚大な損害を出すだけで無意味であると即座に判断した 9 。武田の築城術の完璧さが、結果的に家康に兵糧攻めという、武田側にとって最も効果的で、かつ最も残酷な戦術を選択させたのである。この鉄壁の防御施設群は、一度もその真価を実戦で発揮することなく、籠城する兵たちを餓死させるための、ただの檻と化した。技術の結晶は、自らの兵士たちを閉じ込める墓標となったのである。

第五章:第二次高天神城の戦い ― 徳川家康、執念の包囲網

天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍に壊滅的な打撃を与えた徳川家康は、攻守ところを変え、遠江支配の完全掌握と、かつての屈辱を晴らすべく、高天神城の奪還へと乗り出す。この戦いは、個人の武勇が勝敗を決した時代から、兵站、土木技術、情報戦、そして外交戦略が雌雄を決する「総力戦」の時代への移行を象'徴するものであった。


表2:第一次・第二次高天神城の戦い 比較分析表

項目

第一次高天神城の戦い

第二次高天神城の戦い

年月日

天正2年 (1574年) 5月~7月

天正8年 (1580年) 9月~天正9年 (1581年) 3月

攻撃側指揮官

武田勝頼

徳川家康

籠城側指揮官

小笠原長忠(徳川方)

岡部元信(武田方)

兵力(攻城側/籠城側)

約20,000 / 約1,000

約5,000 / 約1,000

主要戦術

力攻め : 圧倒的兵力による猛攻、二の丸への集中攻撃。

兵糧攻め : 「六砦」による完全包囲、兵站の遮断。

援軍の有無と理由

無し : 徳川は兵力不足。織田は他戦線で多忙のため派遣できず。

無し : 武田は対北条戦線で動けず。織田信長の政治的策略により出兵を躊躇。

結果

武田方の勝利 (開城)

徳川方の勝利 (玉砕・落城)

戦後の影響

武田勝頼の武名が最高潮に達する。徳川は遠江支配に大きな打撃を受ける。

武田氏の威信が致命的に失墜し、翌年の滅亡へ直結。徳川は遠江を完全に平定。


第一節:家康の奪還戦略 ― 兵糧攻めへの転換

長篠の勝利で勢いを得た家康は、満を持して高天神城奪還作戦を開始する。しかし、彼が選択したのは、短期決戦の力攻めではなかった。武田によって怪物的な要塞へと変貌を遂げた城を前に、家康は最も確実で、かつ自軍の損害を最小限に抑える戦術、すなわち徹底した兵糧攻めを選んだのである 12 。これは、第一次攻防戦での苦い敗北と、敵の築城術への冷静な分析に基づいた、彼の戦略家としての成熟を示すものであった。

第二節:「高天神六砦」による鉄壁の包囲網

家康の兵糧攻めは、極めて大規模かつ計画的に実行された。彼は高天神城の周囲の丘陵地帯に、小笠山砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、能ヶ坂砦、中村砦、三井山砦といった、後に「高天神六砦」と総称される拠点群を次々と築城した 3

しかし、実際の包囲網はこれに留まらない。文献によれば、大小合わせて20以上もの砦や監視所が設けられ、それらが柵や堀で連結され、城を幾重にも包囲したという 8 。その厳重さは、「鳥も通わぬ」と評されるほどであった 30

さらに家康は、この大包囲網を長期間維持するための兵站拠点として、西約6キロメートルの地に新たに横須賀城を築城する 6 。この城は、水運を利用して兵糧や物資を前線に安定供給するためのハブとして機能し、家康の長期戦術を盤石のものとした 12 。この一連の包囲網構築は、単なる軍事作戦の域を超え、地域の地形を改変するほどの巨大な土木・兵站プロジェクトであり、家康の執念と、それを実現するだけの国力が備わったことを天下に示した。

第三節:援軍なき籠城と城内の惨状

鉄壁の包囲網の中に孤立した城将・岡部元信は、主君・武田勝頼に繰り返し救援を要請した。しかし、この時の勝頼は、東に同盟を破棄した北条氏、西に織田・徳川連合軍という、二正面作戦を強いられる絶望的な状況に追い込まれていた 14 。援軍を出すことは、織田・徳川の主力との決戦を意味し、それは長篠の悪夢の再来になりかねなかった。

この勝頼の苦境は、織田信長の冷徹な策略によるものでもあった。信長は家康に対し、「勝頼が援軍を送ってきたら、これを野戦で撃滅すればよい。もし高天神城を見殺しにするならば、勝頼の威信は地に落ち、武田家は内から崩壊するだろう」と指示していた 14 。それは、勝頼に「破滅的な決戦」か「屈辱的な見殺し」かという、究極の選択を迫る、非情な政治的罠であった。

援軍の望みが絶たれた城内では、やがて兵糧が完全に底をつき、兵たちは草木の根を食み、餓死者が続出する地獄絵図と化した 32 。落城前夜、死を覚悟した城兵たちの最後の願いにより、徳川方の陣中から幸若舞の太夫が招かれ、堀を挟んで舞が披露された。敵味方の区別なく、誰もがしばし戦を忘れ、その舞に見入ったという逸話は 15 、この戦いの非情さの中に、武士たちの複雑な死生観や人間性が垣間見える、印象深いエピソードとして語り継がれている。

第六章:最後の城将、岡部元信 ― 忠義と玉砕

第二次高天神城の戦いは、戦略と戦術の応酬であると同時に、一人の武将の壮絶な生き様を映し出す物語でもあった。その主役こそ、最後の城将、岡部元信である。彼の最期は、滅びゆく者たちの武士としての矜持とは何かを、後世に問いかけている。

第一節:岡部元信の人物像

岡部元信は、もとは今川家の譜代の重臣であった 14 。彼の名を一躍有名にしたのは、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いである。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も、彼が守る鳴海城は落ちなかった。元信は、義元の首級と引き換えに城を明け渡すことを信長に要求し、信長はその忠義に感じ入って首を丁重に返還したという 14 。この逸話は、彼の義理堅く、忠義に厚い人柄を象徴している。

今川家が滅亡した後は武田家に仕え、数々の戦で武功を挙げた。特に防衛戦における手腕は高く評価され、また駿河・遠江の海賊衆を統率する能力も買われた 14 。その結果、武田家譜代の家臣ではない「外様」の身でありながら、方面軍の軍事指揮権を委ねられるという異例の抜擢を受け、天正7年(1579年)、最重要拠点である高天神城の城将に任じられたのである 14 。勝頼が彼にこの城を託したことは、元信の能力と忠義に対する絶大な信頼の証であった。

第二節:絶望的な籠城と最後の嘆願

しかし、彼を待ち受けていたのは、あまりにも過酷な運命であった。家康の鉄壁の包囲網の前に援軍の望みが絶たれる中、元信は武将として、そして人として最後の決断を下す。天正9年(1581年)1月、彼は徳川家康に対し、遠江に残る武田方の他の城(滝堺城・小山城)の引き渡しを条件に、高天神城の兵たちの助命を嘆願する書状を送った 14 。これは、自らの面目や武功よりも、部下たちの命を救うことを優先した、指揮官としての苦渋の決断であった。

しかし、この申し出は、織田信長の戦略的意図を受けた家康によって、無情にも拒否される 31 。信長と家康にとって、高天神城の将兵を生かして帰すことは、勝頼の威信を保たせることに繋がり、武田家にとどめを刺すという大戦略に反する選択だったのである。

第三節:天正9年(1581年)3月22日、最後の突撃

全ての望みが絶たれ、城兵たちが餓死していくのを黙って見ていることなど、岡部元信の武士としての誇りが許さなかった。彼は残った将兵を集め、「この城に入った時から、もとより生きて帰るつもりはない。信玄公・勝頼公の御恩に報いるため、城を出て討ち死にしよう」と、最後の覚悟を告げた 14

その夜、城兵たちに最後の酒が振る舞われ、訣別の宴が開かれた 14 。そして天正9年3月22日深夜、城門は一斉に開け放たれた。岡部元信は自ら先頭に立ち、飢えと疲労で痩せ衰えた兵たちを率いて、徳川軍の陣へ最後の突撃を敢行した 15

軍事的には全く無意味な玉砕戦であった。しかし、彼らにとっては、城を枕に討ち死にすることこそが、武士としての最高の「誉れ」であった。激しい戦闘の末、岡部元信は壮絶な戦死を遂げ、彼と共に突撃した730名余りの将兵もまた、そのほとんどが堀を血で染めて斃れたと伝えられている 15

岡部元信の最期は、高天神城の戦いを単なる戦略・戦術の応酬から、人間の尊厳や忠義、そして死生観を問う、壮絶な悲劇へと昇華させた。彼が見殺しにされると知りながら、最後まで武田家への忠義を貫いたその姿は、戦国乱世における主従関係が、単なる利害関係だけでなく、個人の信頼と恩義によっても深く結ばれ得たことを示している。彼の死は、武田家にとって物理的な戦力以上の、精神的な支柱の一つを失わせることを意味したのである。

結論:高天神城の落城がもたらしたものと、その後の歴史

天正9年(1581年)3月、高天神城の落城は、戦国時代の勢力図を塗り替える決定的な転換点となった。この一つの城の陥落が、武田氏の滅亡を決定づけ、徳川家康の天下への道を大きく切り開いたのである。

武田氏滅亡への道標 : 高天神城の将兵を見殺しにしたという事実は、武田勝頼の威信を致命的に失墜させた 23 。かつて信玄の下で最強を誇った武田家臣団の結束は、主君への不信感から急速に崩壊し始める。この落城からわずか一年後の天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍による本格的な甲州征伐が開始されると、有力家臣の離反が相次ぎ、武田家はほとんど組織的な抵抗もできないまま、あっけなく滅亡の時を迎えた。高天神城の悲劇は、その崩壊の序曲に他ならなかった。

徳川家康の躍進 : 一方、勝者である徳川家康にとって、この勝利は計り知れない価値をもたらした。長年の懸案であった高天神城を奪還したことで、遠江国を完全に平定し、その支配基盤を盤石のものとした。また、大軍を動員しての長期包囲戦を成功させたその手腕は、同盟者である織田信長からの信頼を不動のものとし、彼の政治的地位を大きく向上させた。この戦いで培われた高度な兵站管理能力、築城技術、そして大局的な戦略眼は、後の小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦い、そして天下統一事業へと繋がる、大きな礎となったのである。

史跡としての現在 : 落城後、家康は城郭を焼き払い、高天神城はその軍事拠点としての役目を完全に終え、廃城となった 15 。その後、城として再建されることはなく、歴史の奔流から静かに忘れ去られていった。

現在、高天神城跡は国の史跡として整備され、訪れる人々に往時の姿を偲ばせている 1 。山頂には、かつて城の守護神であった高天神社が今も鎮座し 6 、うっそうとした木々に覆われた石段や、苔むした土塁、深く刻まれた堀切の跡が、かつてここで繰り広げられた激戦の記憶を静かに物語っている。そこはまさに、兵どもが夢の跡 1 。高天神城は、戦国乱世の非情さと、そこに生きた人々の壮絶な物語を、四百年の時を超えて現代に伝え続ける、歴史の証人なのである。

引用文献

  1. 高天神城跡 - 観光サイト - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko/spot-list/takatenjinjyoato.html
  2. 高天神城の見所と写真・2000人城主の評価(静岡県掛川市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/264/
  3. 今、よみがえる高天神城 https://takatenjinjyo.com/
  4. 徳川家康の「高天神城攻め」|宿敵・武田氏滅亡の決定打となった戦いを解説【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1136376
  5. 第一次高天神城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97915/
  6. 戦国時代最強の山城!? 徳川家康×武田氏攻防の地・高天神城址で戦国武将の息吹を感じよう。 https://shizuoka.hellonavi.jp/takatenjinjyo
  7. 高天神城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%9F%8E
  8. 高天神城の戦いにおける横須賀城 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/50/50639/130536_1_%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%9F%8E%E8%AA%AD%E6%9C%AC.pdf
  9. その特徴を知る - 高天神城 https://takatenjinjyo.com/features/
  10. <高天神城(前編)> ”城友”の案内でまずは”東峰”から登城開始 | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12721864976.html
  11. 【合戦解説】第一次 高天神城の戦い 徳川 vs 武田 〜武田信玄死後 当主となった武田勝頼は、徳川氏の遠江領侵攻を本格的に開始する〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4jdouECxlMM
  12. 浮かび上がる包囲網 高天神城奪還作戦|家康の六砦|今 https://takatenjinjyo.com/rokutoride/
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  14. 岡部元信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%85%83%E4%BF%A1
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  18. 武田信玄の西上作戦 その目的、選択と誤算 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10289
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  22. 【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦! - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2023/02/04/100000
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  24. 【籠城戦】高天神に散った勇将、岡部元信 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-10625174566.html
  25. 高天神城での迎撃|防御機能|今 https://takatenjinjyo.com/function/
  26. 【合戦解説】第二次 高天神城の戦い 徳川 vs 武田 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3OZAbb10q_M
  27. 【新コラム】「なにぶん歴史好きなもので」難攻不落の高天神城に隠されたミステリーとは!? - 静岡新聞 https://www.at-s.com/life/article/ats/1348313.html
  28. 史跡磨き上げプロジェクト 高天神城跡編 現地解説ツアー(資料) https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/65/65246/140664_1_%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E7%A3%A8%E3%81%8D%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E3%80%81%E6%A8%AA%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%8F%BE%E5%9C%B0%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC.pdf
  29. 高天神をめぐる戦い - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/8326.html
  30. 武田家に仕えた鉄壁の猛将『岡部元信』と高天神城の戦い - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/okabemotonobu-takatenjinjo/
  31. NHK大河ドラマではとても放送できない…織田信長が徳川家康に下した「武田軍を皆殺しせよ」という知略 「高天神城の688人」を見捨てた武田勝頼の末路 (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70410?page=3
  32. 第二次高天神城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97916/
  33. 高天神の里(掛川市) | ふじのくに美しく品格のある邑づくり(静岡県) https://www.fujinokuni-mura.net/takatenjin/