高屋城は、河内国の要衝に築かれ、畠山・三好・織田が争奪した。古墳を本丸とする異色の城は、下剋上と畿内動乱の縮図。信長により廃城となり、歴史に消えた。
高屋城は、河内国(現在の大阪府羽曳野市古市)に存在した平山城である 1 。城山と呼ばれる台地上に築かれ、約一世紀にわたり、河内国守護・畠山氏の拠点として、また畿内の覇権を争う三好氏、そして天下統一を目指す織田信長に至るまで、多くの武将たちの興亡の舞台となった 1 。その歴史は、単なる一城郭の沿革に留まらない。応仁の乱を発端とする畠山氏の分裂と内訌、守護代や新興勢力による下剋上、そして織田信長による旧勢力の淘汰という、戦国時代の畿内における権力構造の変遷を凝縮した縮図と言える 3 。
本報告書は、この高屋城を、戦国時代の畿内動乱を映し出す「鏡」として捉え、その構造的特質、政治的・軍事的役割、そして歴史的意義を多角的に分析するものである。特に、安閑天皇陵を本丸として利用した大胆な築城思想、異常なまでに頻繁な城主交代が示す戦略的重要性、そして織田信長によって廃城とされた背景を深く掘り下げることで、乱世の河内国において高屋城が果たした役割を徹底的に解明することを目的とする。なお、備中国(岡山県)や筑後国(福岡県)にも同名の城が存在するが、本稿で扱うのは河内国の高屋城に限定される 5 。
本文に先立ち、高屋城の複雑な歴史を俯瞰するため、築城から廃城に至るまでの主要な出来事を年表にまとめる。この年表は、本文で詳述される度重なる合戦や城主交代の流れを理解する上での指針となるであろう。
西暦(和暦) |
城主 / 主要関連人物 |
主要な出来事 |
1477年(文明9年) |
畠山義就 |
応仁の乱後、河内に下向し一国を掌握 4 。 |
1479年(文明11年) |
畠山義就 |
興福寺大工座より番匠を多数徴発し、高屋城の築城を開始したと推定される 4 。 |
1489年(延徳元年) |
畠山義就 |
興福寺の僧・尋尊が来訪し、「馬屋十一間也」と記録する 4 。 |
1493年(明応2年) |
畠山基家(義豊) |
将軍・足利義稙の河内出兵に際し、本陣が「タカヤ城誉田屋形」と記録される 4 。 |
1497年(明応6年) |
畠山尚順 |
尚順の攻撃により高屋城は陥落。城主・基家は山城国へ逃亡 8 。 |
1504年(永正元年) |
畠山尚順 |
尚順が畠山義秀と和睦し、高屋城に再入城 8 。 |
1507年(永正4年) |
畠山義秀 |
永正の錯乱の混乱に乗じ、義秀が高屋城に入城 8 。 |
1520年(永正17年) |
畠山稙長 |
畠山義秀が高屋城を一時奪還するも、同年に稙長に奪い返される 8 。 |
1522年(大永2年) |
畠山稙長 |
高屋城が火災により焼失 8 。 |
1532年(天文元年) |
(空城) |
山科本願寺衆により高屋城が落城 8 。 |
1542年(天文11年) |
畠山稙長 |
紀州兵を率い、8年ぶりに高屋城に帰城 8 。 |
1548年(天文17年) |
畠山政国 |
三好長慶が舎利寺の戦いで高屋城を攻撃、後に政国と和睦 8 。 |
1552年(天文21年) |
畠山高政 |
政国の嫡男・高政が城主となる 8 。 |
1558年(永禄元年) |
安見宗房(直政) |
守護代・安見宗房が高政を追放し、城を掌握 1 。 |
1560年(永禄3年) |
三好実休 |
三好長慶が高政を攻囲し、弟の実休を城主とする 3 。 |
1562年(永禄5年) |
畠山高政 / 三好康長 |
久米田の戦いで高政が実休を破り再入城。しかし同年の教興寺の戦いで敗北し、三好康長が城主となる 8 。 |
1568年(永禄11年) |
畠山秋高(昭高) |
織田信長の上洛後、高政の弟・秋高が河内南半国守護として入城 1 。 |
1573年(天正元年) |
遊佐信教 / 三好康長 |
守護代・遊佐信教が主君・秋高を殺害。反信長派の三好康長を城に引き入れる 4 。 |
1574年(天正2年) |
三好康長 |
第一次高屋城の戦い。織田軍の攻撃を受け、城下が放火される 3 。 |
1575年(天正3年) |
(廃城) |
第二次高屋城の戦い。三好康長が織田信長に降伏。信長の命により廃城となる 3 。 |
高屋城は、石川西岸に広がる城山(じょうやま)と呼ばれる、周囲との比高約20メートルの独立した台地上に築かれた平山城である 11 。この地は、古代からの交通の要衝である竹内街道と東高野街道が交差する地点に近く、河内国を支配する上で絶好の立地であった 8 。
城の縄張り(設計)は、台地の最高所に本丸を置き、その南側へ向かって二の丸、三の丸を直線的に配置する連郭式であったと推定されている 1 。城域は南北約800メートル、東西約450メートルにも及び、河内国の城郭としては最大級、日本の中世城郭全体で見ても有数の規模を誇った 8 。この広大な城域は、高屋城が単なる戦闘のための砦ではなく、河内守護の政庁としての機能、すなわち政治・経済の中心地としての役割も担っていたことを強く示唆している 4 。
高屋城の構造を語る上で最も特異な点は、本丸として宮内庁が治定する安閑天皇陵(高屋築山古墳)をそのまま利用したことである 11 。これは、6世紀前半に築造されたとされる前方後円墳であり、その巨大な墳丘を主郭の土台とし、周囲を巡る濠を城の外堀として活用したと考えられている 11 。
応仁の乱後の混乱期において、このような既存の巨大構造物を転用する手法は、迅速かつ最小限の労力で最大限の防御効果を得るための、極めて合理的な選択であった。三重の濠に囲まれた大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が三好氏によって「国見山城」として利用された例や、織田信長が応神天皇陵を「誉田城」として城塞化した例など、古墳の軍事転用は当時の畿内では珍しいことではなかった 16 。
しかし、この行為は単なる技術的な合理性だけでは説明できない。天皇陵という、朝廷の権威と祖先祭祀の象徴である神聖不可侵な領域を軍事拠点として改変することは、当時の伝統的権威の失墜と、実力のみが支配する戦国時代の新たな価値観を象徴する出来事であった。守護大名という室町幕府の秩序を担うべき立場の畠山氏が、この行為を躊躇なく行った事実は、幕府や朝廷の権威が著しく低下し、地方の武士たちが自らの実力で領国支配を確立しようとしていた時代の大きな流れを物語っている。それは、物理的な構造物における「下剋上」の一形態と解釈することも可能である。
高屋城の築城は、本丸とされた安閑天皇陵だけでなく、その周辺に広がる古市古墳群にも大きな影響を及ぼした。城郭の防御機能を高めるため、周辺の古墳が郭や土塁の一部として取り込まれ、大規模な改変を受けたのである。
その代表例が、安閑天皇陵の南約150メートルに位置する高屋八幡山古墳である 13 。この古墳は、安閑天皇の皇后・春日山田皇女の陵墓と比定されているが、元々は墳丘長約85メートルの前方後円墳であったものが、高屋城の郭として利用するために墳丘の大部分が削平され、現在では一辺約40メートルの方墳に近い形となっている 13 。羽曳野市教育委員会の調査報告書によれば、過去の調査成果を統合することで、この古墳の本来の規模を復元する試みもなされている 17 。
また、安閑天皇陵の北東約50メートルには城不動坂古墳が存在するが、これは高屋城築城の際に土塁の下に埋没し、長らくその存在が知られていなかった。しかし、2008年の宅地開発に伴う発掘調査で発見され、高屋城が古代の墳墓群の上に築かれていたことを改めて示した 13 。
近年の発掘調査は、文献史料だけでは知り得ない高屋城の実像を明らかにしつつある。城域とされる場所からは、守護代クラスの身分の高い武将が居住したと考えられる大型の建物跡が発見されている 8 。特に注目されるのは、三層にわたって検出された焼土層であり、これは城が歴史上、複数回の大規模な火災に見舞われたことを示す物理的な証拠である 8 。この発見は、後述する度重なる攻城戦の記録を考古学的に裏付けている。さらに、羽曳野市の調査では、城に伴う施設として、瓦状のブロックを床に敷き詰めた「塼貼(せんぱり)建物」という格式の高い建物の遺構も確認されており、城内に重要な政治的・儀礼的空間が存在したことが窺える 17 。
高屋城の誕生は、室町幕府の権威を根底から揺るがした応仁・文明の乱(1467-1477年)と深く結びついている。この大乱の主要な原因の一つが、管領家・畠山氏の家督争いであった。乱が終結した後、西軍の主力として戦った畠山義就は、幕府の意向に反して河内国を実力で支配し、その拠点として高屋城を築いた 1 。
正確な築城年は定かではないが、史料からその時期を推定することができる。文明11年(1479年)、義就が奈良・興福寺の配下にある大工集団「大工座」から多数の番匠(大工)を徴発したという記録が残っており、この頃に本格的な築城が開始されたと考えられている 4 。
築城初期の城の様子は、興福寺の有力な僧侶であった尋尊(じんそん)が記した日記『大乗院寺社雑事記』から垣間見ることができる。延徳元年(1489年)の記録には、城内に「馬屋十一間也」とあり、11の区画を持つ大規模な厩舎が存在したことがわかる 4 。また、明応2年(1493年)、室町幕府10代将軍・足利義稙が河内国に出兵した際には、義就の子・基家(義豊)が本陣とした場所が「タカヤ城誉田屋形」と記されている 4 。これらの記述から、高屋城は築城から比較的早い段階で、単なる軍事拠点に留まらず、守護の居館である「屋形」を備えた、政治の中心地としての体裁を整えていたことが窺える。
畠山義就の死後、高屋城は彼の血を引く総州家(義就流)と、対立する尾州家(政長流)との間で、血で血を洗う争奪戦の舞台となった。高屋城を領有することは、河内守護としての正統性と権力を内外に示す象徴的な意味を持っていたため、両家にとって決して譲ることのできない拠点であった。
義就の子・基家(義豊)が城主であった明応6年(1497年)、尾州家の畠山尚順が城を攻め落とし、基家は山城国への逃亡を余儀なくされる 8 。しかし、尚順の支配も安泰ではなく、中央政権の実力者であった赤沢朝経らの介入もあり、城の支配権はめまぐるしく移り変わった 8 。
この約半世紀にわたる同族間の絶え間ない争いは、結果として畠山氏全体の国力を著しく疲弊させた。人的・経済的資源を内紛で消耗し続けたことは、守護大名としての統制力を弱体化させる直接的な原因となった。そして、この内部対立によって生じた権力の空白は、守護代であった遊佐氏や、畿内で台頭しつつあった三好氏のような新興勢力が、河内国の政治に介入する絶好の機会を与えることになったのである。高屋城を巡る争奪史は、守護大名という中世的な権力が、内部から崩壊していく過程を克明に記録したドキュメントと言える。
天文年間(1532-1555年)に入ると、畿内の政治情勢は新たな局面を迎える。阿波国出身で、細川氏の有力な家臣であった三好長慶が、主家を凌ぐ勢いで台頭し、畿内一円にその影響力を拡大し始めたのである 3 。長慶は、弱体化した畠山氏の内紛に巧みに介入し、河内国における地歩を固めていった。
天文17年(1548年)の舎利寺の戦いなどで、三好長慶は当時の城主・畠山政国に軍事的な圧力を加え、和睦に持ち込むなど、その影響力を着実に強めていく 8 。この時期、高屋城はもはや畠山氏一族の家督争いの舞台ではなく、三好長慶が推し進める畿内制覇戦略のチェス盤における、重要な駒の一つとして位置づけられるようになっていた。
畠山氏の家督を継いだ高政の時代、守護代の安見宗房(直政)が主君を追放するという下剋上が発生する 1 。この内紛に介入したのが三好長慶であった。長慶は高政を支援する形で安見氏を飯盛山城から追放し、一旦は高政を高屋城に戻した 1 。しかし、これは長慶が河内国を完全に掌握するための布石に過ぎなかった。
永禄3年(1560年)、三好長慶はついに畠山高政を攻撃し、高屋城から追放する 3 。そして、新たな城主として自らの弟である三好実休(義賢)を据えた 1 。これにより、河内守護の拠点であった高屋城は、名実ともに三好氏の支配下に置かれることとなった。連歌を嗜み、キリスト教の布教を許可するなど、先進的な文化人でもあった長慶にとって 18 、高屋城の確保は、本拠地である飯盛山城と連携させ、大和・和泉・摂津への影響力を盤石にするための、極めて重要な戦略的意味を持っていた。
三好氏の支配に対し、畠山高政は再起を期して抵抗を続けた。永禄5年(1562年)、高政は紀伊国の有力な軍事勢力であった根来衆などと手を結び、大規模な反撃に転じる。この連合軍は和泉国の久米田(現在の大阪府岸和田市)で三好実休の軍勢と激突し、実休を討ち取るという大勝利を収めた(久米田の戦い) 1 。この勝利により、高政は一時的に高屋城を奪還することに成功する。
しかし、三好長慶の力は畠山氏の想像を遥かに超えていた。弟を討たれた長慶は、ただちに畿内各地から軍勢を集結させ、同年5月、河内国の教興寺(現在の大阪府八尾市)付近に布陣した畠山・根来連合軍に猛攻を仕掛けた 9 。この教興寺の戦いは、三好軍の圧倒的な勝利に終わる。畠山方は壊滅的な打撃を受け、高政は再び高屋城から敗走した 1 。
この戦いの結果、高屋城には三好一族の重鎮である三好康長が新たに入城した 8 。久米田・教興寺という二つの合戦は、高屋城が河内支配の心臓部であり、失うことが許されない戦略拠点であったことを如実に示している。特に教興寺での圧勝は、三好長慶の軍事力が畿内で抜きんでていたことを天下に証明し、畠山氏による河内支配回復の望みを事実上、完全に断ち切った決定的な戦いであった 9 。
永禄11年(1568年)、尾張国の織田信長が、室町幕府の次期将軍として足利義昭を奉じて京都に上洛すると、畿内の勢力図は一変する。信長は、当時畿内を支配していた三好三人衆を瞬く間に駆逐し、新たな秩序の構築に着手した。
この新しい政治体制の下、河内国は分割統治されることになった。信長は、北半国を三好長慶の甥である三好義継に安堵し若江城を拠点とさせ、南半国を畠山氏に返還し、畠山高政の弟・秋高(昭高)を高屋城に入れた 1 。これにより、畠山氏は限定的ながらも高屋城への復帰を果たしたが、もはやかつてのような一国守護としての権威はなく、信長の巨大な権力構造に組み込まれた一地方領主に過ぎなかった。
信長の庇護下で得た畠山氏の平穏は、長くは続かなかった。やがて信長と将軍・足利義昭との対立が先鋭化し、義昭が信長打倒を掲げて各地の反信長勢力に決起を促す(信長包囲網)と、河内国も再び戦乱の渦に巻き込まれる。
元亀4年(天正元年、1573年)、長年にわたり畠山氏に仕えてきた守護代・遊佐信教が、突如として主君に牙をむいた。信長派であった主君・畠山秋高に対し、義昭方に与した信教は高屋城内で秋高を殺害するという凶行に及んだのである 1 。この下剋上により、河内守護として続いた畠山氏の嫡流は、ここに完全に断絶した。高屋城を掌握した遊佐信教は、反信長勢力の旗幟を鮮明にし、三好一族で反信長派の重鎮であった三好康長を城に引き入れ、織田信長との全面対決の拠点とした 4 。
高屋城は、石山本願寺や雑賀衆などと連携し、信長包囲網の重要な一角を担うことになった。これに対し、信長は畿内の旧勢力を一掃すべく、大規模な討伐軍を派遣する。
第一次合戦は天正2年(1574年)に行われた。信長は、柴田勝家、明智光秀、荒木村重といった方面軍の司令官クラスの武将を動員し、高屋城と石山本願寺を同時に攻撃した 3 。この戦いで織田軍は高屋城下に火を放ち、周辺の田畑を焼き払うなど、経済的な打撃を与えて圧力を加えた 3 。
そして天正3年(1575年)、信長は雌雄を決するべく、総勢10万ともいわれる大軍を自ら率いて河内国に進軍した。これが第二次高屋城の戦いである。信長の戦術は巧みであった。彼は高屋城を直接攻めるのではなく、まず高屋城と石山本願寺との連携を断ち切ることを狙った。そのために、両者の中間に位置し、連絡拠点となっていた新堀城を包囲し、これを先に攻略したのである 3 。
新堀城が陥落し、籠城していた十河一行らが討死すると、高屋城は完全に孤立した。圧倒的な兵力差と、連携を断たれた絶望的な状況を前に、城将・三好康長は戦意を喪失。信長の側近であった松井友閑を仲介として、降伏を申し出た 3 。高屋城の最終局面は、信長の圧倒的な軍事力と、兵站と連携を重視した近代的な戦術の前に、旧来の地域勢力がなすすべもなく屈していく過程を象徴していた。
降伏を受け入れた信長は、三好康長の命は助ける一方で、高屋城に対しては非情な決断を下した。家臣の塙直政に命じ、城の建造物を徹底的に破却させたのである 3 。天正3年(1575年)、畠山氏の栄枯盛衰を見つめ、畿内の覇権争いの中心であり続けた高屋城は、築城から約100年の歴史に幕を下ろし、廃城となった 1 。
信長が、これほど重要な戦略拠点を再利用せずに破壊した背景には、彼の天下統一事業における統治理念があった。信長は、各地の有力な国人や旧勢力が反乱の拠点として利用する可能性のある城を破却することで、地域の軍事的な自立性を奪い、権力を中央、すなわち信長自身に集中させようとした。高屋城の廃城は、河内国における畠山氏や三好氏といった旧勢力の支配の歴史に物理的な終止符を打ち、織田政権による新たな支配体制が始まったことを内外に示す、極めて政治的な意味合いの強い措置であった。
天正3年(1575年)に廃城とされた後、高屋城は歴史の表舞台から完全に姿を消した。城としての機能を失った土地は、江戸時代を経て徐々に農地や集落へと姿を変えていったと推察される。
その中で、本丸部分だけは例外であった。安閑天皇陵として宮内庁の管理下に置かれたことで、開発の手から免れ、古代の静寂を保ち続けることになったのである 11 。一方で、かつて二の丸や三の丸が広がり、守護代クラスの武将の屋敷が立ち並んでいたであろう城の南側一帯は、近代以降の急速な宅地開発の波にのまれ、市街地化した 1 。その結果、地表面で城の遺構を確認することは、現在ではほぼ不可能となっている 21 。
今日、高屋城の面影を現地で探すことは容易ではない。本丸跡である安閑天皇陵は、陵墓としての尊厳を保つため厳重に管理されており、研究者や一般市民が内部に立ち入ることは固く禁じられている 11 。我々が目にすることができるのは、濠と、その護岸に見られる石積み、そして墳丘を覆う鬱蒼とした木々のみである 11 。
城の記憶をかろうじて今に伝えているのが、天皇陵の南、かつての二の丸跡とされる場所にひっそりと祀られている「城山姥不動明王」である 1 。その傍らには、高屋城の歴史を簡潔に記した案内板が設置されており、ここがかつて河内最大級の城郭であったことを公式に伝える、現地ではほぼ唯一の手がかりとなっている。
高屋城跡は、その極めて高い歴史的重要性にもかかわらず、国や自治体の文化財として「史跡 高屋城跡」という形では明確に指定されていない 22 。その最大の理由は、城の中核部分が宮内庁によって治定された天皇陵であるという、その成り立ちの特異性にある 12 。陵墓である以上、城郭としての学術調査や史跡公園としての整備には極めて大きな制約が伴う。これが、高屋城が文化財として十分な評価を受けにくい大きな要因となっている。
高屋城の現在は、その誕生の経緯を皮肉にも反映していると言える。天皇陵を転用して生まれた城は、その歴史的役割を終えた後、再び天皇陵としてのアイデンティティに回帰した。しかしその結果、戦国の城郭としての側面は忘却の彼方に追いやられ、考古学的なアプローチも困難になっている。戦国時代の動乱の記憶は、あたかも古代の権威の前に封印されているかのようである。この歴史の巨城の真の姿を解明するためには、陵墓としての尊厳を最大限に尊重しつつも、城郭としての歴史的価値を再評価し、限定的であっても新たな手法による学術調査を進めていくという、未来に向けたアプローチが求められる。
高屋城は、応仁の乱後の守護大名の分裂に始まり、三好氏による下剋上、そして織田信長による天下統一へと至る、戦国時代における畿内の権力闘争の縮図であった。安閑天皇陵という古代の権威の象徴を軍事転用した大胆な築城思想、そして約一世紀にわたる絶え間ない争奪戦の歴史は、この城が単なる一地方の拠点ではなく、畿内全体の政治・軍事動向を左右する、極めて重要な戦略拠点であったことを雄弁に物語っている。
その劇的な終焉と、歴史の重層性の中に埋没した現在の姿は、過去の記憶がいかにして現代に継承され、あるいは忘却されていくかという根源的な問いを我々に投げかけている。歴史の中に消えたこの巨城の徹底的な調査と再評価は、戦国時代史、特に畿内における権力構造の変遷を理解する上で、不可欠な作業であり続けるであろう。