備中高松城は沼沢地を活かした要塞。秀吉が黒田官兵衛の献策で水攻めを敢行。本能寺の変後、城主清水宗治は城兵の命と引き換えに自刃。秀吉の中国大返しの起点となり、天下統一を決定づけた。
備中高松城は、その正確な築城年代こそ定かではないものの、天正年間(1573年〜1592年)以前に、当時備中を支配していた三村氏配下の石川氏によって築かれたと伝えられている 1 。この城の最大の特徴は、周囲に広がる広大な沼沢地を天然の要害として巧みに利用した「沼城(ぬまじろ)」であった点にある 1 。
城の縄張り、すなわち設計構造自体は、一辺が約50mの方形の本丸を中核とし、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家臣たちの屋敷がコの字形に主郭部を囲むという、比較的単純な形態であった 5 。しかし、この構造上の単純さを補って余りあるのが、周囲の地形であった。足守川がもたらす豊かな水によって形成された深田や沼地が、城の周囲に広大な天然の水堀を形成し、特に騎馬隊や鉄砲隊といった当時の主要な戦力による力攻めを極めて困難なものにしていた 3 。
この特異な立地を活かすため、備中高松城は特殊な防御設備を備えていた。その代表が「舟橋」である 3 。これは、多数の川船を並べてその上に板を渡し、簡易な橋として用いるものであった。平時には城内外を結ぶ重要な連絡通路として機能する一方で、敵が攻め寄せた際には即座に船を移動させて橋を撤去し、敵の侵攻を効果的に阻むことができた 3 。この舟橋の存在は、備中高松城が水を前提とした独自の防御思想に基づいて設計・運用されていたことを明確に物語っている。
この城の防御思想は、当時の常識に照らせば極めて合理的であった。陸上からの直接攻撃を想定し、沼地という地形を最大限に活用して敵の接近を阻む。これは戦国時代の城郭建築における定石に沿った堅実な考え方である。しかし、この最大の強みであった「沼沢地という地形」こそが、後に城の命運を尽きさせる最大の弱点へと変貌することになる。城の設計者たちは、敵が地形そのものを兵器として利用する、すなわち、水を防御壁としてではなく、攻撃手段として用いる可能性を想定していなかった。羽柴秀吉と軍師・黒田官兵衛は、まさにこの固定観念の隙を突いたのである。力攻めが通用しない地形であるからこそ、その地形特性を逆手に取り、水を「集めて溜める」ことで城を無力化するという、全く異なる次元の戦術を導入した。結果として、備中高松城の防御思想は、想定内の脅威に対しては鉄壁の守りを誇った一方で、大規模な土木工事を伴う水攻めという想定外の脅威に対しては、致命的な脆弱性を露呈することになった。この「強みと弱みの表裏一体性」こそが、この歴史的な戦いの帰趨を決した根源的な要因と言えるだろう。
備中高松城は、備前国と備中国を結ぶ大動脈、山陽道の要衝に位置していた。この地を掌握することは、西国、特に中国地方の覇権を争う上で極めて重要な戦略的意味を持っていた。天下統一を目指して西進する織田信長の中国方面軍と、西国の雄・毛利氏がこの地で激突したのは、地政学的に見ても必然であった 4 。
備中高松城の運命を理解するためには、その前史である「備中兵乱」と呼ばれる一連の動乱を避けて通ることはできない。当初、備中における有力な国人領主であった三村氏は、安芸の毛利氏と強固な同盟関係を結び、その威光を背景として隣国の備前や美作へと勢力を拡大していた 10 。
しかし、この地域の安定は、備前の梟雄・宇喜多直家の台頭によって大きく揺らぐ。永禄9年(1566年)、直家の謀略によって三村家当主の三村家親が暗殺されると、跡を継いだ息子の三村元親は宇喜多氏への復讐戦を挑むも、明善寺合戦で手痛い大敗を喫してしまう 12 。
そして天正2年(1574年)、決定的な転機が訪れる。毛利氏が、中国地方全体の戦略的判断から、三村氏にとっては不倶戴天の敵である宇喜多直家と手を結んだのである 12 。この決定に激しく反発した元親は、叔父の三村親成ら一部重臣の反対を押し切り、毛利氏からの離反を決意。中央で飛躍的に勢力を伸ばしていた織田信長と結ぶ道を選んだ 12 。これが、毛利氏による大規模な三村氏討伐戦、すなわち「備中兵乱」の幕開けであった 12 。
織田軍の東からの圧迫と、宇喜多直家の織田方への寝返りという事態を受け、毛利氏は備前・備中の国境地帯に一大防衛ラインを構築する必要に迫られた 4 。これが「境目七城(さかいめしちじょう)」と呼ばれる防衛網である。備中高松城を中心に、宮路山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城といった諸城が南北に連なり、織田軍の侵攻を食い止めるための防壁として機能した 4 。中でも備中高松城は、その天然の要害としての堅固さから、この防衛ラインの要と位置づけられていた 4 。
この重要な城の守将こそ、清水宗治であった。彼は天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市)に生まれた 16 。当初は三村氏配下の有力武将であった石川氏に仕える一介の武将に過ぎなかった 7 。
彼が高松城主へと抜擢された経緯は、まさに備中兵乱の動乱そのものであった。主家である三村氏が毛利氏からの離反という重大な決断を下す中、宗治は主家と運命を共にするのではなく、毛利氏に与するという道を選択する 7 。この戦略的決断により、三村氏と石川氏が毛利軍によって滅ぼされた後、彼は毛利氏の直臣、特に毛利家の重鎮である小早川隆景の配下として、備中の要衝・高松城を任されることになったのである 16 。毛利家臣となって以降、宗治は播州上月城の戦いなどで軍功を重ね、隆景をはじめとする毛利首脳陣から厚い信頼を勝ち得ていった 18 。
後に羽柴秀吉をも感嘆させるほどの清水宗治の毛利氏への「忠義」は、単なる主従関係から生まれた受動的なものではなかった。それは、自らの政治的決断によって勝ち取った立場を守り抜くという、極めて主体的かつ戦略的な意志の表れであった。宗治のキャリアの起点はあくまで三村氏の配下であり、彼は主家の滅亡という危機に際して、旧主と共に滅びる道ではなく、新興勢力である毛利氏に自らの未来を託すという大きな賭けに出た。これは単なる裏切りではなく、戦国武将としての生存戦略であり、自らの力量を正当に評価してくれる新たな主君を求めた結果と解釈できる。毛利氏、特に小早川隆景は彼の能力と忠誠を高く評価し、備中の要である高松城を任せるという破格の待遇で応えた。宗治にとって毛利氏への忠誠は、この絶大な信頼に応える責務であると同時に、自らが下した重大な政治的決断を正当化する行為でもあった。したがって、後に秀吉から備中・備後二国という破格の条件で寝返りを持ちかけられても、これを一蹴した 19 のは、単なる美徳としての忠義心だけではない。それは、自らのアイデンティティとキャリアの根幹を成す「毛利家臣・清水宗治」という立場を、命を懸けて貫徹するという強い意志の表明だったのである。彼の忠義は、与えられたものではなく、自ら選び取ったものであったが故に、より強固だったと言える。
天正10年(1582年)3月15日、羽柴秀吉は主君・織田信長の命を受け、中国方面軍の総大将として2万の軍勢を率いて姫路城から西へ向けて出陣した 4 。途上、既に織田方に寝返っていた備前の宇喜多秀家の軍勢1万がこれに加わり、総勢3万という大軍となって毛利領の備中へと侵攻した 4 。秀吉軍には、軍師・黒田官兵衛、弟の羽柴秀長、腹心の蜂須賀正勝といった子飼いの武将に加え、宇喜多秀家の叔父である宇喜多忠家らが参陣し、その陣容はまさに織田軍の精鋭と呼ぶにふさわしいものであった 21 。
秀吉軍はまず、高松城を孤立させるべく、その周囲に点在する境目七城の支城群、すなわち冠山城や宮路山城などを次々と攻略していった 4 。そして4月27日、満を持して宇喜多勢を先鋒とし、高松城への総攻撃を開始した。しかし、城を取り巻く沼沢地という特異な地形に阻まれ、清水宗治率いる籠城兵の激しい逆襲に遭い、多大な損害を出して撤退を余儀なくされた 9 。兵力では6倍から10倍という圧倒的な優位にありながら、城の地の利を前に攻めあぐねるという、秀吉にとっては屈辱的な状況に陥ったのである 4 。
力攻めの困難さを痛感した秀吉に対し、軍師・黒田官兵衛が前代未聞の策を献じたと伝えられている。それは、城の地形を逆手に取る「水攻め」であった 7 。備中高松城が周囲より土地の低い低湿地にあり、なおかつ近くに足守川という水量の豊富な川が流れているという立地条件は、水攻めを行う上でまさに理想的であった 28 。秀吉はこの奇策の採用を決断し、天正10年5月8日、歴史を大きく動かすことになる堤防工事に着手した 9 。
本格的な水攻めに移行する前の、両軍の兵力、指揮官、布陣といった基本情報を以下にまとめる。この表は、この戦いがどのような戦力バランスの中で行われたのかを明確に示している。
項目 |
織田軍(羽柴勢) |
毛利軍 |
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総大将 |
羽柴秀吉 |
毛利輝元 |
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主要武将 |
黒田官兵衛、羽柴秀長、宇喜多秀家・忠家、蜂須賀正勝、加藤清正など 22 |
籠城軍: 清水宗治、清水宗知(兄)、難波宗忠(弟) 16 |
救援軍: 吉川元春、小早川隆景 9 |
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兵力 |
約30,000 4 |
籠城兵: 3,000~5,000 4 |
救援軍: 約40,000~50,000 9 |
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本陣・布陣地 |
秀吉本陣: 龍王山、後に石井山へ移動 7 |
宇喜多勢: 八幡山 21 |
籠城: 備中高松城 輝元本陣: 猿掛城 19 |
吉川元春: 岩崎山 19 |
小早川隆景: 日差山 19 |
羽柴秀吉が敢行した水攻めは、単なる奇策ではなく、戦国時代を通じて各地の大名が領国経営のために培ってきた治水・土木技術を、軍事目的に応用したものであった。甲斐の武田信玄が築いたとされる「信玄堤」や、後に肥後で大規模な治水事業を行う加藤清正の例に見られるように、当時の有力大名は領地を水害から守り、新田を開発するために高度な土木技術を有していた 33 。秀吉が計画した堤防は、高松城の東方に位置する蛙ヶ鼻(かわずがはな)の丘を起点とし、そこから西へ向けて長大な堤を築き、足守川の水を堰き止めて城の周囲に巨大な人造湖を出現させるという、壮大な構想であった 24 。
この計画の驚異的な点は、その規模と工期にある。築かれた堤防は、全長が約2.7kmから3km、高さは約7mから8m、底部の幅は24m、上部の幅でさえ12mに及ぶ、まさに長大な土木構造物であった 24 。この工事に必要とされた土砂の量は、現代の東京ドームの体積の約3分の1に相当すると推定されている 37 。
さらに驚くべきことに、秀吉軍はこの巨大な堤防を、着工からわずか12日間という信じがたい短期間で完成させた 8 。これを可能にした原動力は、秀吉が有する圧倒的な経済力と動員力であった。彼は、土嚢(どのう)を一俵運ぶごとに「銭百文と米一升」という、当時としては破格の報酬を提示し、近隣の農民らを普請に動員したと伝えられている 22 。金銭と米という最も直接的なインセンティブによって、敵地でありながら膨大な労働力を確保し、突貫工事を成し遂げたのである。
堤防が完成した5月中旬、折しも季節は梅雨の時期であった。増水した足守川の水が堤防によって堰き止められ、城の周囲へと引き込まれると、瞬く間に約200ヘクタール(東京ドーム約40個分)もの広大な湖が出現した 3 。備中高松城は完全に水に浮かぶ孤島と化し、ついには城の本丸まで浸水する事態となった 9 。
この備中高松城の水攻めは、秀吉が持つ「土木技術の知見」「圧倒的な経済力」「人心掌握術」という三つの要素を融合させた、複合的な戦略兵器であったと言える。堤防の建設自体は既存の治水技術の応用であったが、それを戦場という極限状況下で、これほどの規模と速度で実行する応用力こそが秀吉軍の強みであった。そして、この大工事を短期間で実現できた最大の要因は、高額な報酬による労働力の確保である。これは、織田政権が蓄積した莫大な富を、秀吉が自在に軍事力へと転換できたことを示している。堤防は土と石だけで築かれたのではなく、「銭と米」によって築かれたのである。さらに、この高額報酬は、敵地である備中の民衆を経済的に味方につける効果もあった。敵国の民衆を労働力として取り込み、経済的に潤わせることで、毛利方への協力を削ぎ、自軍への反感を和らげるという、巧みな心理戦・情報戦でもあった。したがって、この堤防は物理的に城を水没させるだけでなく、毛利方に対して「我々は地形すら変える財力と技術を持つ」という抗いようのない国力差を見せつける、巨大なデモンストレーションでもあった。これは、後の豊臣政権が行う大坂城築城や聚楽第建設といった「見せる政治」の原型とも言えるだろう。
堤防の完成と急速な浸水により、備中高松城は外部との連絡を完全に遮断された 40 。兵糧や弾薬の補給路も断たれ、城兵の士気は日に日に低下していった 9 。城内までが水に浸かったため、兵士たちは曲輪(くるわ)間の移動にさえ小舟を用いなければならず、その生活環境は極度に悪化したと推測される 9 。水と共に汚物や害虫、蛇などが乾いた場所を求めて流入し、衛生状態も劣悪を極めたであろう 40 。
5月21日頃、毛利輝元を総大将とし、吉川元春、小早川隆景という毛利家の両輪が率いる4万から5万の大規模な救援軍が、ついに高松城周辺に到着した 9 。しかし、彼らの眼前に広がっていたのは、城を浮かべた巨大な湖であった。救援軍はこの人造湖を前にして城に近づくことができず、一方の秀吉軍も堤防の背後から動くことができない。両軍は湖を挟んで睨み合うという、前代未聞の膠着状態に陥ったのである 24 。
この動かざる戦況を根底から覆したのは、戦場ではなく遠く離れた京都からもたらされた一報であった。6月2日未明、主君・織田信長が、家臣である明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自刃するという、日本史上最大級の政変「本能寺の変」が勃発したのである 24 。
この衝撃的な情報は、光秀が毛利氏に味方を求めるために送った密使を、秀吉軍が道中で捕縛したことにより、6月3日の夜には秀吉のもとに届いたとされている 39 。主君の死という、方面軍司令官にとって最大の危機に直面した秀吉であったが、彼はこれを千載一遇の好機へと転換させる。直ちにこの情報を徹底的に秘匿し、毛利側に悟られぬよう陣中に厳重な箝口令を敷いた 42 。
本能寺の変を挟む数日間の、目まぐるしく展開する出来事の前後関係とタイミングは、秀吉の判断の迅速さと、情報がいかに重要であったかを明確に示している。
日付(天正10年) |
出来事 |
典拠 |
5月8日 |
羽柴秀吉、堤防工事に着手。 |
9 |
5月19日 |
堤防、わずか12日間で完成。 |
37 |
5月21日 |
毛利輝元ら救援軍が到着。両軍睨み合いとなる。 |
19 |
6月2日 |
未明、京都・本能寺にて織田信長が自刃( 本能寺の変 )。 |
24 |
6月3日 |
夜、秀吉、光秀の密使を捕らえ、信長の死を知る。情報を秘匿。 |
39 |
6月3日〜4日 |
秀吉、安国寺恵瓊を介し、毛利方との和睦交渉を急ぐ。 |
24 |
6月4日 |
清水宗治、城兵の助命を条件に、湖上の舟にて自刃。和睦成立。 |
9 |
6月5日 |
毛利軍、撤退を開始。 |
22 |
6月6日 |
秀吉軍、京都へ向け驚異的な速度で撤退を開始( 中国大返し )。 |
41 |
6月6日以降 |
毛利方、信長の死を知るが、追撃を断念。 |
29 |
主君・信長の死を知った秀吉は、一刻も早く毛利家と和睦を結び、光秀討伐のために軍を京へ向ける必要に迫られた。彼は毛利家の外交僧である安国寺恵瓊を介し、和睦交渉を急転させた 24 。それまで主張していた備中、備後、美作、伯耆、出雲の5ヶ国の割譲といった強硬な条件を事実上撤回し、毛利方の面子を立てつつ、自らは「城主の首を取った」という戦果を得て速やかに撤退するための、絶妙な落としどころを提示した。その条件とは、「城兵五千の命を保証する代わりに、城主・清水宗治が切腹すること」であった 43 。
毛利輝元ら首脳陣は、忠臣である宗治の命を差し出すことに強く躊躇した。しかし、宗治自身がこの条件を伝え聞くと、「自らの命一つで主君(毛利家)の安泰を確保し、五千の城兵の命が助かるのであれば本望である」として、自ら切腹することを申し出たのである 29 。この宗治の崇高な決断が、膠着した戦況を最終的に動かし、歴史的な和睦を成立させた。
和睦成立後の天正10年6月4日、宗治は最期の時を迎えた。彼はまず、自らの首が敵将の検分を受ける際に無様な姿を見せぬよう、念入りに身を清め、髭を整えさせたと伝えられる 29 。そして、城兵たちと別れの宴を開いた後、兄の清水宗知、弟の難波宗忠らと共に一艘の小舟に乗り込み、静かに湖上へと漕ぎ出した。
両軍の数万の兵士が見守る中、宗治は舟の上で能の「誓願寺」を一差し舞ったと伝えられている 29 。そして、以下の辞世の句を詠んだ。
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
この句を残し、見事に腹を切り、介錯を受けた。享年46歳であった 16 。そのあまりにも潔く、気高い最期は、敵将である秀吉をも深く感動させ、「武士の鑑」と賞賛させたという 29 。
清水宗治の自刃は、単なる敗北や自己犠牲ではなかった。それは、戦国の世における「死」というものを最大限に活用した、高度に儀式化された戦略的行為であった。その目的は、毛利家の利益を最大化し、自らの名誉を不滅のものとすることにあった。彼の死は、秀吉と毛利の間の和睦を成立させるための「唯一の鍵」であった。もし彼が生に執着していれば交渉はまとまらず、やがて信長の死を知った毛利方が攻撃に転じる可能性すらあった。彼の死は、毛利家を破滅の危機から救い、秀吉に「中国大返し」の口実と時間を与えたのである。これは、一個人の死が国家間の関係を決定づけた稀有な例と言える。湖上での舞や辞世の句といった一連の所作は、自らの死を単なる敗死ではなく、主君と部下のために命を捧げる崇高な儀式として演出し、後世に語り継がせるためのものであった。これにより、彼は敗将ではなく「義将」として歴史に名を刻むことに成功した。そして、この名誉の死によって、清水家は毛利家中で一門に準ずる厚遇を受け、幕末まで家名を保つことができた 3 。宗治の死は、彼個人の名誉だけでなく、一族の未来をも守るための戦略的投資でもあったのだ。彼は、自らの「死に様」を完璧に統制し、それを政治的・社会的な価値へと転換させることで、軍事的な敗北を精神的な勝利へと昇華させた。これは、武士道における死生観が、極めて現実的な戦略と結びついた究極の形と言えるだろう。
清水宗治の壮絶な自刃を見届け、和睦を成立させた秀吉は、その墨も乾かぬうちに全軍を反転させた。そして、主君・信長の仇である明智光秀を討つべく、京都へ向けて驚異的な速度で進軍を開始する。世に名高い「中国大返し」である 24 。備中高松城は、一介の武将に過ぎなかった秀吉が天下人へと駆け上がる、その輝かしい歴史の転換点、まさしくその起点となったのである 30 。
戦後、備中高松城には宇喜多氏の家臣であった花房正成が入城した 7 。しかし、江戸時代に入り、花房氏が陣屋を別の地に移したことで城は廃城となり、その長い歴史に静かに幕を下ろした 9 。
現在、城跡は「高松城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっている 4 。公園内には、本丸跡に静かに佇む清水宗治の首塚と胴塚 39 、水攻めの際に築かれた堤防の一部が今なおその姿を残す国指定史跡「蛙ヶ鼻築堤跡」 4 、そして秀吉が本陣を置き、水に沈む城を見下ろしたとされる石井山や「太閤腰掛岩」など、往時を偲ばせる数多くの史跡が点在している 25 。
清水宗治の義理堅い生き様と潔い最期は、400年以上の時を経た今なお、地元で深く敬愛され、語り継がれている。かつて城を取り巻いていた沼から、昭和になって自然に蘇った蓮は、宗治にちなんで「宗治蓮(むねはるはす)」と名付けられ、毎年夏になると美しい花を咲かせ、訪れる人々の目を楽しませている 4 。
また、宗治の命日である6月4日には、その遺徳を偲ぶ「宗治祭」が毎年盛大に執り行われている 47 。城址公園内に設置された「備中高松城址資料館」は、2023年にリニューアルオープンし、発掘調査で出土した瓦や、水攻めの様子を再現した精巧なジオラマ模型、歴史学者・磯田道史氏が監修した詳細な解説映像などを通じて、この地で繰り広げられた壮大な歴史の物語を現代に伝えている 4 。これらの活動は、備中高松城の戦いが単なる過去の記録ではなく、地域の文化とアイデンティティを形成する、今なお生き続ける歴史遺産であることを示している。