高槻城は、京と西国を結ぶ要衝に位置し、戦国期に織田信長、高山右近らが支配。キリシタン文化と先進築城技術が花開くも、明治期に鉄道敷設のため石垣が消えた。
摂津国に位置する高槻城は、日本の歴史、特に戦国時代から近世への移行期において、極めて重要な役割を果たした城郭である。その戦略的価値の根源は、何よりもまずその地理的条件にあった。京と西国を結ぶ大動脈である西国街道と、水運の要である淀川が交差するこの地は、古来より交通の結節点として栄え、軍事的にも経済的にも支配者が手中に収めるべき要衝であった 1 。この地理的優位性が、高槻城を時代の激流の中心に置き続け、数多の武将たちの興亡の舞台たらしめたのである。
高槻城の起源については、平安時代中期の正暦元年(990年)に近藤忠範が築城したという伝承が存在する 2 。しかし、これは後世の編纂物に見られる記述であり、確たる証拠に乏しく、多分に伝説の域を出ない。歴史学的に確実な文献上の初見は、戦国時代の大永7年(1527年)、細川氏の内紛である桂川原の戦いを記した『細川両家記』などの軍記物であり、この中で「高槻入江城」としてその名が登場する 1 。このことから、少なくとも16世紀初頭には、高槻の地に城郭として認識される拠点が形成されていたことがわかる。
文献初見時に城主として名が見える入江氏は、南北朝時代に足利尊氏に従って駿河国からこの地に移り住んだとされる国人領主である 1 。彼らは高槻周辺の在地武士団を統率し、地域の支配者として勢力を扶植した。当初の城は、広大な平野に築かれた、堀と土塁で囲まれた居館(城館)であったと推測される。近年の高槻城二の丸跡の発掘調査では、延長約120メートルにも及ぶ入江氏時代のものとみられる堀が検出されており、中世武士の居館の姿を具体的に裏付けている 1 。
この入江氏と高槻城の運命を大きく変えたのが、中央権力、すなわち織田信長の畿内への進出であった。永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、時の城主・入江春景は一度は所領を安堵された 5 。しかし、在地領主としての独立性を保つことはもはや許されなかった。翌永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が義昭の宿所である本圀寺を襲撃した際、春景は三好方に与したため信長の怒りを買い、攻め滅ぼされた 4 。この出来事は、高槻城が単なる一地方領主の拠点から、天下の動静と直結する中央権力の戦略拠点へと、その性格を劇的に変化させた瞬間であった。以降、城主の座は、常に天下人の意向によって左右されることになるのである。
【表1:高槻城 城主変遷一覧(戦国時代〜江戸時代初期)】
時代 |
城主 |
石高(推定含む) |
主要な出来事・備考 |
室町時代後期 |
入江氏 |
不明 |
在地領主として高槻を支配。永禄12年(1569年)に織田信長により滅亡。 |
1569年 - 1571年 |
和田惟政 |
不明 |
信長より入城。摂津三守護の一人。国内3番目となる「天主」を建設か。 |
1571年 - 1573年 |
和田惟長 |
不明 |
惟政の子。家臣団と対立し、高山父子により追放される。 |
1573年 - 1585年 |
高山右近・友照 |
4万石 |
キリシタン大名として城下を整備。障子堀など先進的城郭技術を導入。 |
1585年 |
羽柴(豊臣)秀吉 |
- |
直轄領となる。 |
1585年頃 |
羽柴秀勝 |
不明 |
秀吉の養子。短期間で転封。 |
1595年 - 1600年 |
新庄直頼 |
3万石 |
豊臣氏の古参家臣。関ヶ原の戦いで西軍に属し改易。 |
1615年 - 1617年 |
内藤信正 |
4万石 |
高槻藩初代藩主。 |
1617年 - 1619年 |
土岐定義 |
2万石 |
近世城郭への大改修を実施。 |
1619年 - 1635年 |
松平家信 |
2万石 |
形原松平家。 |
1636年 - 1649年 |
岡部宣勝 |
5万石 |
西側に出丸を築造。 |
1649年 |
松平康信 |
3万6千石 |
形原松平家。 |
1
入江氏の滅亡後、高槻城は織田信長の天下布武の駒として、新たな時代を迎える。その最初の担い手となったのが、和田惟政である。彼の統治はわずか数年であったが、高槻城の歴史において画期的な転換点をもたらした。
和田惟政は近江国甲賀郡の出身で、元は室町幕府将軍・足利義輝に仕えた幕臣であった 11 。永禄の変で義輝が横死すると、その弟・義昭の擁立に奔走し、織田信長と結びつく。信長の上洛が成功すると、その功績を認められ、池田勝正、伊丹親興と共に「摂津三守護」の一人に任じられ、芥川山城を与えられた 5 。
しかし惟政は、三好長慶がかつて天下を差配した巨大な山城である芥川山城に安住しなかった。入江氏が滅亡すると、すぐさま本拠を平城である高槻城へと移す 4 。この決断は、当時の軍事思想の変化を如実に物語っている。戦国中期までの城が、山中に籠もる防衛拠点としての性格を強く持っていたのに対し、信長の時代には、平野部に位置し、政治・経済の中心地として機能する城が重視されるようになっていた。惟政は、京と大坂を結ぶ交通の要衝という高槻の価値を正確に見抜き、信長の畿内支配の代理人として、その最前線に拠点を構えたのである。その権勢は絶大で、来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、惟政を「都の副王」と呼び、その影響力の大きさを記録している 11 。
和田惟政が高槻城にもたらした最も重要な変化は、城郭そのものの構造にあった可能性が高い。元亀4年(1573年)、惟政の死後に跡を継いだ子・惟長と、家臣であった高山父子の間で内紛が勃発する。この争いの舞台として、公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』は、高槻城の「天主」を挙げている 1 。
この「天主」という高層建築の記録は、歴史的に極めて重要である。文献上で確認できる限り、これは足利義昭が京に築いた旧二条城、明智光秀の坂本城に次いで、日本で三番目に古い事例とされる 1 。これは、後の豊臣秀吉の時代に城の象徴として全国に広がる「天守」の先駆けであった。信長が安土城で壮麗な天主を築く以前に、その支配下にあった摂津国の重要拠点において、すでに権威の象徴としての高層建築が試みられていたのである。
この事実は、信長が推し進めた「見せる城」、すなわち軍事機能と支配者の権威を視覚的に誇示する機能を併せ持った新しい城郭の概念が、一部の先進的な武将だけでなく、信長の支配圏全体に急速に伝播していたことを示唆している。惟政は、信長の代理人たる「都の副王」として、その新しい価値観をいち早く取り入れ、自らの権威を高めるとともに、高槻城を単なる防衛拠点から、最新の思想を体現した「近代城郭」へと変貌させようとしていたのである。高槻城は、信長の城郭革命が畿内全域で同時多発的に進行していたことを示す、貴重な物証と言えよう。
しかし、惟政の野心は志半ばで潰える。元亀2年(1571年)8月、惟政は摂津の国人領主である荒木村重や中川清秀ら池田氏の軍勢と衝突。白井河原(現在の大阪府茨木市)の戦いで、惟政は奮戦するも討死を遂げた 7 。享年42歳であった。
跡を継いだ子の惟長は若く、父ほどの器量はなかった。家中を統率できず、一族や家臣団との間に対立を深めていく 14 。この混乱に乗じて台頭したのが、惟政の有力な家臣であった高山友照(飛騨守)・右近父子であった。そして元亀4年(1573年)、ついに両者の対立は城内での武力衝突に発展し、惟長は高山父子によって高槻城から追放された 16 。こうして和田氏による統治は終わりを告げ、高槻城は新たな城主、高山右近を迎えることとなる。
和田氏の時代が終わり、高槻城は戦国時代で最も著名な城主、高山右近の時代を迎える。天正元年(1573年)に21歳の若さで城主となった右近は 17 、その後約12年間にわたり高槻を治めた。この時代、高槻城とその城下町は、キリスト教文化が花開く信仰の拠点であると同時に、日本の城郭史上でも特筆すべき先進的な軍事技術が導入された実験場でもあった。
高山右近は、父・友照(洗礼名ダリヨ)とともに熱心なキリシタンであり、その信仰を領国経営の中心に据えた 4 。彼は城主となると、城下に壮麗な教会(天主堂)を建設した。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、その教会は大きな木造の会堂で、司祭の館や美しい庭園を備え、庭の一角には大十字架が建てられていたという 15 。さらに天正11年(1583年)には、神学校であるセミナリヨも開設された 4 。
右近の統治下で、高槻は西日本におけるキリスト教布教の一大拠点へと変貌した。領内には20を超える教会が建てられ、当時の高槻の人口2万5千人のうち、実に7割以上にあたる1万8千人がキリスト教徒であったと伝えられている 4 。天正9年(1581年)には、イエズス会日本巡察師ヴァリニャーノを迎えて盛大な復活祭が催され、城下にはパイプオルガンの音色が響き渡ったという記録は 1 、当時の高槻が国際色豊かな文化都市であったことを物語っている。
こうした文献上の記録は、近年の考古学的発見によっても裏付けられている。三の丸跡の教会推定地付近からはキリシタン墓地が発掘され、蓋に二支十字が墨書された木棺や、木製のロザリオが出土した 1 。これは、高槻の地でキリスト教信仰が深く根付いていたことを示す動かぬ証拠である。
高山右近は、敬虔な信仰者であると同時に、築城の名手でもあった 22 。彼の軍事技術者としての一面を明らかにしたのが、二の丸跡の発掘調査である。この調査により、右近の時代に築かれたと考えられる大規模な堀の遺構が発見された 1 。
この堀は、単なる空堀ではなかった。幅約16メートル、深さ約4メートルという規模もさることながら、その構造は極めて巧妙であった 1 。まず、堀は何度も鉤の手に屈曲しており、これにより侵入しようとする敵兵に対し、城壁の上から多方向からの側面攻撃(横矢掛かり)を可能にしていた 23 。
さらに驚くべきは、堀の底の構造である。堀底には、等間隔に土を掘り残した土手(畝)が設けられていた。これは「障子堀(堀障子)」と呼ばれる防御施設で、堀に侵入した敵兵の自由な移動を妨げ、畝によって区切られた狭い区画に閉じ込めることで、城内からの攻撃の格好の的とするための、極めて高度な築城技術であった 23 。
障子堀は、従来、関東を支配した戦国大名・後北条氏特有の技術と考えられてきた 25 。しかし、高槻城での発見は、その通説を覆すものであった。しかも、この堀は近畿地方で確認されたものとしては最古級の事例であり、日本の城郭技術史を書き換える可能性を秘めた、学術的に極めて価値の高い発見であった 1 。この事実は、高山右近が当時の日本において、最新かつ最強の防御思想を理解し、実践できる卓越した技術者であったことを証明している。
右近の治世は、天正6年(1578年)に最大の試練を迎える。彼の直属の上官であり、摂津一国を任されていた荒木村重が、突如として主君・織田信長に反旗を翻したのである 3 。村重の与力であった右近は、主君への義理と、天下人である信長への忠誠との間で、絶体絶命の板挟みとなった 29 。事態をさらに複雑にしたのは、右近が村重への誠意を示すため、すでに妹や息子を有岡城(伊丹城)に人質として送っていたことであった 29 。
信長は、要衝である高槻城を敵に回すことの不利を熟知していた。彼は、右近が敬虔なキリシタンであることに着目し、宣教師オルガンティノらを介して降伏を迫った。その条件は、「もし降伏しなければ、畿内にいる全てのキリシタンを迫害し、教会を破壊する」という、右近の信仰の根幹を揺るがす苛烈なものであった 3 。
城内では、父・友照らが人質を見殺しにできぬと徹底抗戦を主張し、議論は紛糾した 5 。主君への義、家族の情、そして神への信仰と領民の安全。究極の選択を迫られた右近は、苦悩の末に一つの決断を下す。それは、武士としての地位も、領地も、そして家族さえも捨てる覚悟で、信仰と領民を守るという道であった。
右近は監禁されていた宣教師を救出すると、自ら髷を切り、甲冑を脱ぎ捨て、紙の衣一枚の姿となって信長の陣営に出頭した 5 。『信長公記』はこの時の右近の姿を「伴天連沙弥(ばてれんしゃみ)」、すなわちキリシタンの修行僧、と記している 5 。これは、世俗の全てを捨てて神に仕えるという、彼の殉教の覚悟を示した行動であった。この右近の降伏は、荒木村重の敗北を決定づける大きな要因の一つとなった 33 。信長は右近の潔い決断を評価し、彼を許して再び高槻城主の地位を安堵した 31 。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、畿内の政治情勢は再び混沌とする。この時、右近は迅速に決断し、信長の後継者としていち早く行動を起こした羽柴秀吉の陣営に馳せ参じた 14 。
同年6月、秀吉が明智光秀を討つべく雌雄を決した山崎の戦いにおいて、高槻城は極めて重要な役割を果たした。決戦の地となった山崎は、高槻から目と鼻の先にあり、地理的に秀吉軍の集結地や兵站基地として機能したことは想像に難くない 22 。高山右近自身も、この戦いで中川清秀らと共に先鋒を務め、明智軍を打ち破る上で大きな功績を挙げた 17 。この活躍により、右近は秀吉の天下統一事業において、欠くことのできない有力な武将として、その地位を確固たるものにしたのである。
山崎の戦いで羽柴秀吉の勝利に貢献した高山右近は、続く賤ヶ岳の戦いなどでも功績を挙げ、秀吉政権下で重用された 35 。しかし、秀吉が天下統一事業を推し進め、新たな支配体制を構築していく中で、高槻城と右近の運命は再び大きな転換点を迎える。
天正13年(1585年)、秀吉は関白に就任し、大坂城を新たな本拠として定めた。彼は自らの足元である畿内を、一族や最も信頼の置ける譜代の家臣で固めるという、中央集権的な領国再編に着手する 15 。この大局的な戦略の一環として、高山右近は高槻4万石から、播磨国明石6万石へと転封(領地替え)を命じられた 4 。
この人事は、右近の能力や忠誠心に問題があったわけではない。むしろ、大坂城の喉元ともいえる高槻の地に、キリスト教という独自の強固な信条を持つ有力大名を置き続けることを、秀吉が戦略的に避けた結果と解釈できる。右近を明石へ移し、代わりに自らの一門である羽柴秀勝を一時的に入城させたことは 1 、高槻城がもはや特定の領主の世襲地ではなく、天下人の政権構想によって配置が決定される「戦略的な駒」の一つへと、その役割を完全に変えたことを示す象徴的な出来事であった。ここに、戦国的な地方分権の時代は終わりを告げ、中央集権的な近世封建体制が確立していく歴史の大きな潮流を、高槻城という一つの城の運命のうちに見ることができる。
右近は明石に移った後もキリスト教の布教に努めたが、天正15年(1587年)に秀吉が発令したバテレン追放令により、信仰を捨てるか大名の地位を捨てるかの選択を迫られる。右近は迷わず信仰を選び、領地を没収された 18 。その後は加賀の前田利家に客将として庇護されたが、慶長19年(1614年)に徳川家康によるキリシタン国外追放令を受け、最終的にフィリピンのマニラへ追放され、翌年その地で63年の波乱に満ちた生涯を閉じた 38 。
高山右近が去った後、高槻城は一時的に豊臣氏の直轄領となり、代官が置かれた 4 。その後、前述の通り羽柴秀勝が短期間城主を務めた後、文禄4年(1595年)、豊臣政権の古参家臣である新庄直頼が3万石で入城した 1 。
新庄直頼は近江出身の武将で、浅井氏、織田氏を経て秀吉に仕え、山崎城主や大津城主などを歴任した人物である 41 。秀吉の御伽衆にも列せられた信頼の厚い家臣であり、彼が高槻城主となったことは、豊臣政権末期においてもこの城が重要視されていたことを示している。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、直頼は西軍に与して伊賀上野城を攻めたため、戦後に改易となり、高槻城は徳川家康の支配下に入ることになった 41 。
関ヶ原の戦いを経て、高槻城は徳川の世における新たな役割を担うことになる。それは、かつてのような天下をめぐる攻防の最前線ではなく、確立された幕藩体制の中で、西国を監視し、畿内の安定を維持するための拠点としての役割であった。
関ヶ原の戦いの後、高槻城は徳川氏の直轄地となり、代官が置かれた 4 。依然として大坂城に拠点を置く豊臣氏を監視・牽制するための戦略的拠点として、その重要性は変わらなかった。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣では、高槻城は徳川方の補給基地として機能し、豊臣氏の滅亡に貢献した 4 。
豊臣氏が滅亡し、天下が完全に徳川のものとなった後の元和元年(1615年)、内藤信正が4万石で入封し、高槻藩が立藩される 2 。そして元和3年(1617年)、城主となった土岐定義の時代に、幕府の命により高槻城の大規模な改修が行われた 15 。この時、本丸南西隅に白漆喰総塗籠の三層天守が築かれ、要所には高石垣が巡らされるなど、私たちが一般的にイメージする「近世城郭」としての姿が完成した 1 。これにより、高槻城は北摂地域で唯一の近世城郭として、徳川幕府の権威を西国に示す象徴的な存在となったのである。
大坂の陣の後、高槻城主は内藤氏、土岐氏、松平氏、岡部氏と、徳川幕府の譜代大名がめまぐるしく入れ替わった 4 。これは、幕府がこの地をいかに重要視し、信頼の置ける家臣を配置しようとしていたかの証左である。
そして慶安2年(1649年)、永井直清が3万6千石で入封する 1 。これ以降、幕末の明治維新に至るまでの約220年間、永井氏が13代にわたって高槻藩を治め、城は安定期を迎えた 1 。この永井家の治世下で、城下町の整備や領内の開発が進み、現在の高槻市中心市街地の礎が築かれたのである。
江戸幕府の終焉と共に、高槻城もその歴史的役割を終える時が来た。明治4年(1871年)の廃藩置県により高槻藩は廃止され、高槻城は廃城となった 4 。そして明治7年(1874年)、城内の建造物の破却が開始される 2 。
高槻城の終焉は、単なる破壊ではなかった。その解体された部材、特に堅固な石垣の石材の多くが、日本の近代化を象徴する事業、すなわち京都・大阪間を結ぶ官設鉄道(現在のJR東海道本線)の敷設用材として転用されたのである 2 。武士の時代の権威の象徴であった城が、文字通り、新しい産業国家を繋ぐ交通インフラの礎石となった。この事実は、封建の世から近代産業国家へと日本が劇的に移行していく過程を、物理的な形で体現している。高槻城の「死」は、日本の近代化が過去との断絶であると同時に、過去の物理的な基盤の上に成り立っていたという二重性を示す、極めて象徴的な出来事であったと言えよう。その後、城跡は陸軍工兵第四連隊の駐屯地として利用され、城郭としての面影はほぼ完全に失われた 1 。
鉄道建設と軍用地化により、かつての壮麗な姿を失った高槻城であるが、その記憶は現代の高槻市の中心部に、様々な形で今なお息づいている。
現在の城跡の中心部、本丸と二の丸があった場所は、それぞれ大阪府立槻の木高等学校と高槻城公園芸術文化劇場となっている 1 。その周辺、かつての弁財天郭や三の丸の一部にあたる区域が、市民の憩いの場である高槻城跡公園として整備されている 2 。公園内には、高山右近の功績を称える銅像や、かつての堀と天守台をイメージした池と石垣が設けられており、往時の城の姿を偲ぶことができる 48 。
また、三の丸跡の一角には、高槻市立しろあと歴史館が建てられている 50 。この施設は、高槻城と城下町の歴史を学ぶ上での中心的な役割を担っており、発掘調査で出土した遺物や、精巧な復元模型、各種資料を通じて、戦国時代から江戸時代に至る高槻の歴史を分かりやすく紹介している 52 。
城郭としての遺構は極めて少ないが、注意深く観察すれば、今なおその痕跡を見出すことができる。高槻城跡公園の東縁には、道路との間に不自然な高低差が残っているが、これは三の丸の土塁の名残であり、数少ない現存遺構の一つである 8 。また、公園の北側入口付近には、旧陸軍工兵第四連隊の営門と哨兵所が、戦争の記憶を伝えるモニュメントとして保存されている 1 。
建造物として現存する唯一の遺構は、城外の寺町にある本行寺の山門である 40 。これは高槻城のいずれかの門が移築されたもので、本瓦葺きの高麗門という形式から、城に七つあったとされる枡形門の第一門であったと推測されている 58 。
さらに、公園内やしろあと歴史館の前には、発掘調査で出土した本物の石垣石が展示されている 49 。その表面には、石を割るために穿たれた「矢穴」の跡も見て取れ、失われた城を現代に伝える貴重な物証として、静かにその歴史を語りかけている。これらの断片的な痕跡を繋ぎ合わせることで、私たちはかつての高槻城の壮大な姿を心の中に再建することができるのである。
【表2:戦国期高槻城 関連年表】
西暦 |
和暦 |
高槻城での出来事 |
国内の関連する出来事 |
1527年 |
大永7年 |
文献に「高槻入江城」として初見。 |
|
1568年 |
永禄11年 |
織田信長が上洛。入江春景は所領を安堵される。 |
信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
1569年 |
永禄12年 |
入江春景が本圀寺の変で三好方に与し、信長に滅ぼされる。和田惟政が入城。 |
本圀寺の変。 |
1571年 |
元亀2年 |
和田惟政、白井河原の戦いで戦死。 |
比叡山焼き討ち。 |
1573年 |
元亀4年/天正元年 |
和田惟長が高山父子に追放される。高山右近が城主となる。 |
足利義昭が追放され、室町幕府が滅亡。 |
1576年 |
天正4年 |
城下に教会が建設される。 |
|
1578年 |
天正6年 |
荒木村重が信長に謀反。右近は苦悩の末、信長に降伏。 |
有岡城の戦い。 |
1582年 |
天正10年 |
本能寺の変。右近は山崎の戦いで秀吉方として参戦し勝利に貢献。 |
本能寺の変。山崎の戦い。 |
1583年 |
天正11年 |
城下にセミナリヨが建設される。 |
賤ヶ岳の戦い。大坂城築城開始。 |
1585年 |
天正13年 |
右近、播磨国明石へ転封。高槻城は豊臣氏の直轄領となる。 |
秀吉、関白に就任。 |
1595年 |
文禄4年 |
新庄直頼が入城。 |
秀次事件。 |
1600年 |
慶長5年 |
新庄直頼が西軍に属し、戦後改易される。 |
関ヶ原の戦い。 |
1
摂津国高槻城の歴史は、京と西国を結ぶ要衝という地理的宿命のもと、常に日本の歴史の中心舞台と密接に関わりながら展開してきた。中世在地領主の居館から、織田信長の天下布武を体現する近代城郭の先駆けへ、そして高山右近の治世下ではキリスト教文化と先進的軍事技術が融合する稀有な空間へと変貌を遂げた。豊臣政権下では天下人の戦略的駒となり、徳川の世では西国支配の拠点として近世城郭の姿を完成させた。
その終焉さえも、封建時代の象徴が近代化の礎石へと転用されるという、日本の劇的な時代変革を物語っている。今日、その姿の多くは失われたものの、残された僅かな遺構と、発掘調査によって明らかにされた数々の事実は、高槻城が単なる一地方の城ではなく、中世から近代に至る日本の政治、文化、技術の変遷を映し出す、極めて重要な歴史的遺産であることを我々に教えてくれる。その記憶を継承し、多層的な価値を後世に伝えていくことは、現代に生きる我々の責務と言えよう。