最終更新日 2025-08-18

高水寺城

高水寺城は奥州斯波氏の拠点。南部氏との抗争と家臣の離反で弱体化し、南部信直に攻められ落城。豊臣秀吉の惣無事令下での滅亡は、旧来の権威の終焉を象徴。現在は城山公園として歴史を伝える。

奥州の名族・斯波氏の興亡と高水寺城 ― 戦国末期、北の拠点城郭の軌跡

序章:奥州に輝いた「斯波御所」の威光

岩手県紫波町にその痕跡を留める高水寺城は、単なる地方の一城郭ではない。室町幕府の最高職である三管領を輩出した名門、足利一門・斯波氏が拠った城であり、その存在は「斯波御所」あるいは「奥の斯波殿」と尊称され、中世東北地方において特別な家格と権威を象徴するものであった 1 。本報告書は、この城をめぐる約250年の歴史、特に戦国末期における宿敵・南部氏による攻略が、いかにして東北の勢力図を塗り替え、中央政権による天下統一という時代の大きなうねりに飲み込まれていったかを解明するものである。

本報告書が探求する核心的な問いは、なぜ足利一門としての高い家格を誇った高水寺斯波氏は滅びなければならなかったのか、という点にある。その要因は、単に南部氏との軍事力の優劣に帰結するものであろうか。あるいは、時代の変化に対応できなかった旧来の権威構造に根差す、より深刻な問題だったのであろうか。本報告書では、高水寺城の落城という歴史的事件を、斯波氏の内部崩壊、南部氏の巧みな戦略、そして豊臣政権という外部要因の三つの視点から複合的に分析し、その歴史的意義を深く考察する。

第一章:要害堅固なる城郭 ― 高水寺城の構造と地理的特徴

立地と地勢:北上川を望む独立丘陵の戦略的価値

高水寺城は、北上川右岸(西岸)に位置する標高約180メートル、比高約84メートルの独立した丘陵に築かれた平山城である 4 。この地勢は、眼下に北上川の水運とそれに沿う街道を完全に掌握し、紫波郡一帯を支配する上で極めて戦略的な重要性を持っていた。軍記物である『志和軍戦記』には、「志和の城と申すは、前に北上川とて大川なり。後は深堀左右の深淵にて竜王も住居する程の大堀、要害堅固の城にて飛鳥も飛越し兼ねる程の居城なり」と記されており、天然の地形を最大限に活用した難攻不落の城として認識されていたことがうかがえる 4

縄張りの解明:本丸(御殿)、二の丸、腰郭、堀切などの遺構から読み解く防御思想

城郭の規模は東西550メートル、南北700メートルにも及び、岩手県内でも最大級の中世城館跡とされる 2 。その縄張りは、丘陵の最頂部に東西60メートル、南北120メートルの本丸(御殿跡)を置き、その南に東西50メートル、南北100メートルの二の丸(若殿屋敷)、さらに北には天王平、姫御殿と伝わる郭を配していた 4 。これらの主要な郭は、斜面を削平して造成された階段状の腰郭によって連結されており、敵の侵攻に対して幾重にも連なる防御ラインを形成していた 4

現在、城跡は城山公園として整備され、公園化に伴う改変によって遺構の多くは往時の姿を失っている 5 。しかし、注意深く観察すれば、郭と郭を分断する堀切や土塁、そして中腹から山裾にかけて巡らされた二重、三重の塁濠の痕跡が今なお残存しており、かつての堅固な防御思想を偲ばせる 4 。紫波町教育委員会による発掘調査では、これらの防御施設のほか、郭、空堀、土塁、井戸といった遺構が確認されており、戦国時代のものと見られる竪穴建物や掘立柱建物の跡も発見されている 10

城域の規模と構成:吉兵衛館、西御所などを含む広大な城郭群の全貌

高水寺城の城域は、本丸や二の丸といった主郭部だけにとどまらない。南西に連なる尾根には「吉兵衛館」、その西方には「西御所」と呼ばれる区画が存在したことが知られている 4 。これらの名称は、有力な家臣や一族の屋敷が城郭の重要な防御区画として組み込まれていたことを示唆している。このことから、高水寺城が単なる軍事拠点ではなく、家臣団の屋敷群をも内包し、領国支配の政治的・経済的中心地としての高度な機能を有していたことがわかる。

この広大な城郭の構造は、斯波氏が最盛期に有した強大な権力と動員力を物理的に物語るものである。しかし、それは同時に、その維持と防衛に膨大な人的資源を要する構造でもあった。戦国末期、後述する家臣団の離反が相次ぎ、内部の結束が崩壊した際、この広大さは逆に防衛上の弱点へと転化した可能性は否定できない。特に有力家臣に守りを委ねていた区画からの裏切りは、城の防御網を内部から崩壊させる致命的な要因となり得た。城の物理的な堅固さは、それを支える政治的・人的基盤の安定があって初めて機能する。斯波氏の末期にはその基盤が失われていたため、堅城もその真価を発揮できなかった。高水寺城の構造そのものが、斯波氏の栄光と衰退の両側面を象徴していると言えよう。

第二章:斯波氏の入部と勢力基盤の確立

足利一門の名跡:斯波氏の出自と奥州下向の経緯

斯波氏は、清和源氏の名門・足利氏の嫡流に連なる家系である。足利氏3代当主・泰氏の長男であった家氏が、父から陸奥国斯波郡(現在の紫波郡)の所領を譲られたことにその起源を持つ 4 。足利宗家の家督は弟の頼氏が継ぎ、その子孫から室町幕府初代将軍となる足利尊氏が出たため、家柄としては斯波氏が宗家を凌ぐ格式を有していた 12

高水寺斯波氏が奥州の歴史に本格的に登場するのは、南北朝時代の動乱期である。建武2年(1335年)、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は、奥州における北朝方の勢力を拡大するため、重臣・斯波高経の長子である家長を奥州管領(奥州総大将)としてこの地に派遣した 4 。この家長の下向が、高水寺城の本格的な城郭化の始まりと推定されている 4

築城と紫波郡支配:南北朝から室町期における拠点形成

高水寺城という名称は、この地にあった古刹・高水寺の一郭を斯波氏が居館として利用したことに由来するとされる 4 。斯波家長以降、高水寺斯波氏は代々この城を拠点として紫波郡66郷を支配し、奥州における足利(北朝)方の重鎮として、また室町幕府の地方統治機関として確固たる地位を築き上げていった 4

「奥の斯波殿」:奥州探題大崎氏と比肩する家格の確立

中央で管領職を歴任した斯波本家(武衛家)とは別に、奥州に根を下ろした高水寺斯波氏は「奥の斯波殿」と呼ばれ、同じく斯波一門から分かれた奥州探題・大崎氏や羽州探題・最上氏と同等の極めて高い家格を保持した 2 。当時、奥州に割拠していた伊達氏、南部氏、葛西氏といった有力大名からも、斯波氏は一段上の目上の存在として敬意を払われていたのである 2 。その優越的地位を具体的に示す事例として、永享8年(1436年)に発生した和賀・稗貫地方の合戦が挙げられる。この戦乱において、高水寺の斯波御所は現地軍の大将軍として南部氏を含む諸勢力を指揮しており、この地域における斯波氏の権威の高さが明確に記録されている 2

第三章:戦国動乱と南部氏との永き相克

勢力圏の衝突:16世紀における領土拡大と南部氏との抗争激化

16世紀、戦国時代の動乱が本格化すると、平穏は破られる。三戸(青森県)を本拠地とする南部氏が、領土拡大を目指して南下政策を強力に推し進め、高水寺斯波氏の勢力圏と直接的に衝突するようになったのである 13 。長年にわたる両者の相克の火蓋が切られた。

斯波氏は、この南部氏の挑戦に果敢に対抗した。大永元年(1521年)および天文6年(1537年)には南部氏と大規模な軍事衝突に及び、岩手郡を攻略するなど、一時は戦いを優勢に進めた記録も残っている 4

詮高の時代:「三御所」体制の構築と斯波氏の最盛期

高水寺斯波氏の勢力が頂点に達したのは、当主・斯波詮高の時代であった。詮高は謀略に長けた武将であったとされ、天文9年(1540年)頃には、斯波郡の西に位置する滴石(現在の雫石町)に勢力を張っていた戸沢氏を駆逐し、領土を拡大した 12

さらに詮高は、自身の次男・詮貞を滴石に、三男・詮義を猪去(現在の盛岡市)に配置し、高水寺の本家と合わせて「三御所」と称される広域支配体制を構築した 4 。これは、一族を戦略的な拠点に分知することで、領国の安定化と勢力拡大を同時に図る、戦国大名特有の巧みな統治戦略であった。この時期、高水寺斯波氏はその威勢を奥州に轟かせ、まさに最盛期を迎えていた。

南部氏の南下政策:次第に圧迫される斯波氏の領国

しかし、斯波氏の栄光は永くは続かなかった。宿敵・南部氏もまた、着実にその勢力を拡大し続けていたのである。天文9年(1540年)、南部氏は滴石城を攻略し、岩手郡への進出の足掛かりを築いた 13 。その後、両者の間では領民同士の紛争を発端とする小競り合いから大規模な合戦まで、一進一退の攻防が繰り返された 13 。しかし、永禄年間(1558年〜)以降、三戸南部氏の圧迫はさらに苛烈さを増し、高水寺斯波氏の勢力圏は南から徐々に、しかし確実に侵食されていった 13

第四章:落日の斯波御所 ― 滅亡への序曲

斯波詮直の時代:当主の器量と直面した内外の課題

高水寺斯波氏、最後の当主となったのが斯波詮直である。初名は詮元、あるいは詮基と伝わる 19 。系譜によれば、父は詮真、祖父は経詮とされる 21 。詮直が家督を継いだ頃、斯波氏は南部氏からの強力な軍事的圧力に加え、より深刻な内部問題を抱えていた。長年の戦乱は領国を疲弊させ、当主の求心力は低下し、家臣団の離反が相次ぐなど、その支配体制は著しく弱体化していたのである 17

家臣団の動揺と離反:岩清水右京の謀叛をはじめとする内部崩壊の兆候

斯波氏の家臣団は、滴石氏や猪去氏といった一門衆のほか、煙山氏、岩清水氏、稲藤氏、長岡氏といった譜代の家臣、そしてかつては敵対関係にあったが後に服属した河村氏一門(大萱生氏、栃内氏など)によって構成されていた 17 。しかし、斯波氏の衰退が明らかになると、この結束はもろくも崩れ去る。天正11年(1583年)には大萱生玄蕃が、それに続いて栃内氏も斯波氏を離反し、敵である南部氏に寝返った 17

そして天正16年(1588年)、斯波氏の命運を決定づける事件が発生する。家臣・岩清水右京による謀叛である 4 。詮直はこれを鎮圧しようと軍を派遣するも失敗し、家中は修復不可能な大混乱に陥った 18

高田吉兵衛(中野康実)の存在:南部氏との関係における重要人物

斯波氏の内部崩壊を象徴するもう一人の重要人物が、高田吉兵衛(後の中野康実)である。南部氏からの劣勢を挽回するための政略であったか、詮直の父・詮真は、南部一族であり有力者であった九戸政実の弟・弥五郎を娘婿として迎え入れた。この弥五郎こそが高田吉兵衛である 13

しかし、この政略結婚は期待された効果をもたらすどころか、逆に内紛の火種となった。天正14年(1587年)、高田吉兵衛は当主・詮直と不和になり、身の危険を感じて高水寺城を脱出するという事件が起きる 13 。この人物が、後に高水寺城を攻略した南部信直によって城代に任じられている事実を考え合わせると、彼が斯波氏の内部情報を南部氏に流すなど、内応者としての役割を果たした可能性は極めて高い 4

斯波氏の滅亡は、南部氏という「外圧」だけで引き起こされたものではない。家臣の離反や婿養子の裏切りといった「内壊」が同時に進行し、両者が共振することで、名門の崩壊は一気に加速した。南部氏からの絶え間ない軍事的圧力が、斯波家中の不安を煽り、家臣たちに主家の将来性を見限らせた。そして、大萱生氏や岩清水氏といった有力家臣の離反が斯波氏の軍事力を削ぎ、それがさらなる南部氏の侵攻を呼び込むという、まさに悪循環に陥っていたのである。稲藤大炊左衛門のように最後まで詮直に付き従った忠臣もいたが 17 、もはや大勢を覆すことは不可能であった。


表1:高水寺斯波氏・主要人物と関係者一覧

人物名

立場・役職

主要な動向

典拠

斯波 詮高

高水寺斯波氏当主

「三御所」体制を築き、斯波氏の最盛期を現出。南部氏と激しく争う。

4

斯波 詮直

高水寺斯波氏最後の当主

家臣の離反が相次ぎ、南部信直に高水寺城を攻められ滅亡。

17

南部 信直

三戸南部氏当主

斯波氏を圧迫し、天正16年に高水寺城を攻略。東北の覇権を狙う。

2

高田 吉兵衛 (中野 康実)

斯波詮真の婿、南部一族

斯波氏と不和になり出奔。後に南部信直から郡山城代に任じられる。

5

岩清水 右京

斯波氏家臣

天正16年に謀叛。斯波氏滅亡の直接的な引き金となる。

4

稲藤 大炊左衛門

斯波氏家臣

多くの家臣が離反する中、最後まで詮直に従った忠臣。

17

山王海 左衛門太郎

斯波氏家臣

落城後、逃れてきた詮直を自領で匿う。

17


第五章:天正十六年の攻防 ― 高水寺城、落城す

南部信直による侵攻の口実と戦略

天正16年(1588年)7月、南部信直は、岩清水右京の謀叛によって引き起こされた斯波氏家中の大混乱を、長年の宿敵を滅ぼす絶好の機会と捉えた 2 。信直は即座に軍を南下させ、高水寺城への全面的な攻撃を開始した 12 。この侵攻は、単なる領土拡大を目的としたものではなく、北奥州における南部氏の覇権を確立し、旧来の権威である「斯波御所」を歴史から抹殺するための、決定的な戦いであった。

攻城戦の具体的な経過と両軍の動向

この攻防戦に関する詳細な戦闘記録は乏しい 2 。しかし、残された断片的な記述からその様相を推察することは可能である。攻撃側の南部軍が組織的な大軍であったのに対し、守る斯波方はすでに家臣団の多くが離反、あるいは動揺しており、城主・詮直のもとで結束して戦う力は残されていなかった 17 。南部軍侵攻の報を聞いた斯波勢は、組織的な抵抗もままならずに瓦解したと記録されている 24

名門・高水寺斯波氏の滅亡と詮直の逃避行

城兵の士気は低く、家臣の裏切りが相次ぐ中、詮直は籠城戦を断念。堅固を誇った高水寺城は、本格的な戦闘を経ることなく、あっけなく南部氏の手に落ちた 12 。城を脱出した詮直は、わずかな供回りと共に逃避行を余儀なくされる。その後の足取りは諸説あるが、忠臣であった山王海左衛門太郎を頼って山王海の地に落ち延びた、あるいは皮肉にもかつて裏切った大萱生玄蕃のもとへ身を寄せた、などと伝えられている 17

この落城をもって、南北朝以来、奥州に約250年にわたり君臨した名族・高水寺斯波氏は、戦国大名としては事実上滅亡した 2

第六章:東北戦国史における高水寺城の戦略的意義

周辺勢力との関係:大崎氏、最上氏(同族)、伊達氏との連携と対立

高水寺斯波氏の滅亡は、東北地方の勢力図を大きく塗り替える画期的な出来事であった。斯波氏は、同じく足利一門である奥州探題・大崎氏や羽州探題・最上氏とは同族であり、一種の連携関係にあったと考えられる 2 。これら斯波一門は、室町幕府の権威を背景とする東北の旧体制を象徴する存在だった。

一方で、伊達氏は陸奥守護職に任じられるなど実力で勢力を急拡大し、探題職の権威を有名無実化させ、大崎氏を脅かす新興勢力の筆頭であった 14 。斯波氏の滅亡は、こうした旧来の「血の権威」が、実力主義を掲げる戦国大名(南部氏や伊達氏)によって完全に過去のものとされたことを意味する。落城後、詮直が大崎氏のもとへ逃れたという説もあり 5 、滅亡の瀬戸際まで同族間の繋がりが意識されていたことがうかがえる。

中央政権の影響:豊臣秀吉の惣無事令と奥州仕置が斯波氏滅亡に与えたインパクトの考察

高水寺城の落城を理解する上で最も重要な鍵となるのが、中央政権、すなわち豊臣秀吉の動向である。秀吉は天正15年(1587年)、関東・奥羽地方の大名に対し、私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を発令した 28 。南部信直もこの法令を受け入れ、秀吉への服属の意を示している 2

しかし、信直が高水寺城を攻撃したのは、その翌年の天正16年(1588年)である 12 。これは明白な惣無事令違反であり、本来であれば厳しい処罰の対象となる極めて危険な賭けであった。信直がこのリスクを冒した背景には、いくつかの戦略的計算があったと考えられる。第一に、斯波氏が秀吉への服属を明確にしていなかったことを口実に、これを「天下人への反逆者」と見なし、その討伐という大義名分を立てた可能性。第二に、信直が中央とのパイプを通じて、この軍事行動に対する秀吉の暗黙の了解を得ていた可能性。そして第三に、法令違反の処罰を覚悟の上で、長年の宿敵を滅ぼす千載一遇の好機を逃さなかったという、戦国武将としての現実的な判断である。

結果として、天正18年(1590年)の奥州仕置において、南部氏の所領は安堵された一方、斯波氏の再興は認められなかった 13 。これは、信直の政治的ギャンブルが成功したことを意味する。高水寺斯波氏の滅亡は、中央集権化という新しい時代の秩序にいち早く適応した南部氏と、旧来の権威に固執し、変化の波に乗り遅れた斯波氏の運命を分けた、戦国末期の象徴的な出来事であったと言える。

第七章:城の終焉と斯波氏のその後

「郡山城」への改称:南部氏の拠点としての再利用

高水寺城を手中に収めた南部信直は、斯波氏の威光を払拭するため、城の名を「郡山城」と改称した 4 。そして城代として、斯波氏滅亡の功労者とも言える腹心の中野康実(旧名:高田吉兵衛)を配置した 4 。以後、郡山城は南部領南方の重要拠点となり、城下町は北上川の河港としても栄え、この地域の支配拠点として機能し続けた 12

盛岡城築城と廃城:近世城郭体制への移行に伴う役割の終焉

近世大名としての地位を確立した南部氏が、新たな本拠地として盛岡城の築城を開始すると、郡山城は再び重要な役割を担うことになる。盛岡城が完成するまでの十数年間、当主・南部利直がこの城を一時的な居城として使用したのである 4

しかし、壮大な盛岡城が完成し、盛岡藩の統治体制が盤石になると、郡山城はその歴史的役割を終える。寛文7年(1667年、一説に1677年)、一国一城令の趣旨や城の破損などもあって、城は公式に破却(廃城)された 4 。その際に解体された建材の一部は、盛岡城本丸の建築資材として転用されたと伝えられている 4

斯波詮直の末路と、歴史の表舞台から消えた一族の行方

大名としての全てを失った最後の当主・斯波詮直のその後については、確かな記録は少ない。南部信直に仕官したとも、最終的には浪々の身(下野)となったとも言われるが、その消息は歴史の闇に消えている 17 。中央の斯波本家(武衛家)や分家の大野斯波家などは、形を変えながらも江戸時代以降も存続したが 29 、かつて奥州に一大勢力を築いた名門・高水寺斯波氏は、この落城をもって歴史の表舞台から完全に姿を消したのである。

第八章:現代に遺る城跡 ― 史跡としての価値と考古学的知見

城山公園としての現在:桜の名所と市民の憩いの場

廃城後、城山は静かな丘陵に戻ったが、近代になって新たな姿を見せる。昭和3年(1928年)、陸軍の演習のためにこの地を訪れた昭和天皇の御野立所(休憩所)となったことを記念し、全山に桜が植樹されたのである 4

これが始まりとなり、現在、城跡は「城山公園」として美しく整備されている。2,000本を超える桜が春には咲き誇り、紫波町民や多くの観光客に親しまれる桜の名所となっている 1 。一方で、近年はクマの目撃情報も報告されており、訪問の際には注意が必要である 5

発掘調査の成果:出土遺構・遺物から見える城内の生活実態

高水寺城跡は、昭和50年(1975年)に紫波町の史跡に指定され 10 、その歴史的価値の解明のため、紫波町教育委員会によって複数回にわたる学術的な発掘調査が実施されている 10 。これらの調査では、堀や土塁といった城の防御施設に加え、武士たちが生活したとみられる竪穴建物や掘立柱建物、井戸などの遺構が発見された 10

また、出土した遺物も、日用の土器や陶磁器、儀式で使われた可能性のある「かわらけ」、武具の一部である鉄製品、流通を示す銭貨、さらには石臼や硯など多岐にわたる 11 。これらの考古学的知見は、文献資料だけではうかがい知ることのできない、城内での武士たちの具体的な生活実態や、政治・経済活動の様子を明らかにする上で極めて貴重な手がかりとなっている。

郷土史における高水寺城:地域に伝わる伝説と歴史的記憶

高水寺城や斯波氏に直接関わる伝説の記録は多くないが、紫波の地には源義家や奥州藤原氏初代清衡の父・藤原経清にまつわる伝説が古くから伝わっており 31 、この地域が古代から歴史の重要な舞台であったことを物語っている。その中でも中世の約400年間にわたり地域の中心として栄えた高水寺城は 1 、紫波町の歴史を象徴する最も重要な史跡として、地域の歴史教育や文化振興においてかけがえのない役割を担っている。


表2:高水寺城関連・年表

年代

主要な出来事

典拠

建武2年 (1335)

足利尊氏、斯波家長を奥州管領として派遣。高水寺城の本格的な築城開始か。

4

永享8年 (1436)

和賀・稗貫合戦で斯波御所が現地軍の大将軍を務める。

2

天文年間 (1532-1555)

斯波詮高の時代。雫石・猪去に分家を配し「三御所」体制を確立。斯波氏の最盛期。

4

天正14年 (1586)

斯波詮真の婿・高田吉兵衛が斯波氏と不和になり出奔。

13

天正15年 (1587)

豊臣秀吉、関東・奥羽に惣無事令を発令。

28

天正16年 (1588)

岩清水右京が謀叛。南部信直が高水寺城を攻略。高水寺斯波氏が滅亡。

4

(落城後)

南部氏、城を「郡山城」と改称。南部利直が一時居城とする。

4

寛文7年 (1667)

郡山城、廃城となる。

4

昭和3年 (1928)

昭和天皇行幸を記念し、城跡に桜を植樹。城山公園の始まり。

4

昭和50年 (1975)

紫波町史跡に指定される。

10


結論:高水寺城が物語る、北奥州の戦国史

高水寺城の栄枯盛衰の歴史は、足利一門という「血の権威」を背景に奥州に君臨した名門・斯波氏の栄光と、戦国乱世という実力主義の現実の前にもろくも崩れ去った悲劇そのものを象徴している。彼らが誇った高い家格は、もはや時代の変化の前では過去の遺物でしかなく、むしろ旧体制の象徴として、新興勢力である南部氏の格好の標的となった。

高水寺城の事例は、時代の大きな転換期において、変化に適応する柔軟な戦略と、盤石な内部統制がいかに重要であるかを我々に教えてくれる。斯波氏はその両方を欠いていたために滅び、南部氏はそれを巧みに利用して生き残った。今後は、発掘調査のさらなる進展による城郭の全容解明や、南部氏側の史料との比較検討を通じて、天正16年の攻防のより詳細な実態を明らかにすることが望まれる。高水寺城は、東北の戦国史、そして中世から近世への移行期を解き明かす上で、今なお多くの示唆を与えてくれる第一級の歴史遺産である。

引用文献

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  23. 斯波経詮 - 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki http://souzou2016.wiki.fc2.com/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%B5%8C%E8%A9%AE
  24. 武家家伝_河村氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ou_kawam.html
  25. 「大崎義隆」代々奥州探題を補任してきた名門出身も、秀吉に取り潰された!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/714
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  27. 斯波氏時代の歴史と遺産 http://gorounuma.jp/app/002gaiyoshibashi.pdf
  28. 惣無事令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1%E4%BA%8B%E4%BB%A4
  29. 斯波氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E6%B0%8F
  30. Untitled https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/41/41456/91202_1_%E9%AB%98%E6%B0%B4%E5%AF%BA%E5%9F%8E%E7%AC%AC10%E6%AC%A1%E3%83%BB%E7%AC%AC11%E6%AC%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  31. 紫波町紫あ波せマップ(PDF 13MB) https://www.shiwa-kanko.jp/common/files/uploads/2021/04/shiawase-map.pdf
  32. あづまね産直センター | 一般社団法人紫波町観光交流協会 https://www.shiwa-kanko.jp/eat-buy/eat-buy-395/