高遠城は信濃の要害で、武田信玄が山本勘助に命じ武田流築城術の粋を集めた。武田氏の南信濃支配の拠点となり、仁科盛信が織田軍に玉砕。武田氏滅亡の序曲を奏でた悲劇の城。
春、長野県伊那市に位置する高遠城址公園は、約1,500本ものタカトオコヒガンザクラが一斉に咲き誇り、その淡く紅い花弁が城跡全体を雲のように覆い尽くす 1 。その比類なき美しさは「天下第一の桜」と称賛され、毎年多くの人々を魅了してやまない 2 。しかし、この穏やかで壮麗な景観の裏には、戦国の世に繰り広げられた壮絶な攻防と、滅びゆく者の矜持が刻まれた、血塗られた歴史が秘められている。
本報告書は、利用者様が提示された「信濃国伊那地方の城。土豪・高遠家が居城としたが、後に武田家の支配となる。1582年、城主・仁科盛信は織田家の軍勢を迎え撃ったが戦死し、落城した」という概要を起点とし、その背景と詳細を徹底的に掘り下げていく。単なる桜の名所としてではなく、戦国時代における南信濃の戦略拠点として、また武田氏の信濃支配を象徴する要害として、そして何よりも武田家最後の意地が示された悲劇の舞台として、高遠城が持つ複数の顔を多角的に解き明かすことを目的とする。その歴史の深淵を覗くとき、桜花の儚い美しさは、散っていった将兵たちの魂の輝きと重なって見えるであろう。
高遠城が歴史の表舞台に登場する背景には、その傑出した地政学的条件がある。城は、南を三峰川、西を藤沢川という二つの川が深く削り取って形成した河岸段丘の突端に築かれている 1 。標高約800メートルに位置し、三方が数十メートルの断崖絶壁に守られているため、陸続きとなっている東側さえ固めれば、他からの攻撃は極めて困難であった 1 。この地形は、城郭分類上は「平山城」に属するものの、その防御機能は山城に匹敵する堅固さを誇っていた 1 。
この天然の要害は、甲斐、駿河、遠江、美濃へと通じる街道が交差する交通の要衝でもあり、信濃国伊那谷を一望できる戦略的価値も兼ね備えていた 7 。古くからこの地が軍事拠点として重要視されたのは、必然であったと言える。
高遠城の正確な築城年代は不明であるが、南北朝時代(14世紀)頃には、信濃の名族である諏訪氏から分かれた支族・高遠氏がこの地を治め、居城としていたと考えられている 4 。高遠氏は諏訪大社の神官の家系に連なる諏訪氏の一門でありながら、諏訪大社上社大祝の座を世襲する本家、すなわち諏訪惣領家とは、常に緊張関係にあった 11 。
戦国時代に入り、諏訪惣領家の当主・諏訪頼重と、高遠氏の当主・高遠頼継との対立は決定的なものとなる 11 。頼継は惣領家の支配に反発し、諏訪地方の主導権を奪取する野心を抱いていた。この諏訪一族内の根深い内紛こそが、外部勢力である甲斐の武田氏を信濃へ引き入れる最大の要因となったのである。
天文10年(1541年)、父・信虎を追放して甲斐国主となった武田晴信(後の信玄)は、信濃侵攻の第一歩として、この諏訪一族の内部対立に目をつけた 14 。晴信は高遠頼継に接近し、彼を内応させることに成功する。翌天文11年(1542年)、晴信は頼継と連合し、諏訪惣領家を攻撃。頼重は奮戦するも衆寡敵せず、降伏の末に甲府へ送られ自害に追い込まれた 11 。こうして諏訪惣領家は滅亡した。
しかし、頼継の野望が成就することはなかった。頼重を排除した後、諏訪の領地配分を巡って晴信と頼継は対立。頼継は晴信に反旗を翻すが、武田軍の圧倒的な軍事力の前に敗北を喫し、高遠城へと敗走した 11 。自らの野心のために外部勢力を引き入れた結果、その外部勢力によって自らが滅ぼされるという皮肉な結末であった。この一連の出来事は、戦国時代において地域の国衆が、より強大な戦国大名の前に自立性を失っていく典型的な過程を示しており、高遠城の歴史は、その縮図から始まったと言えるだろう。
諏訪惣領家を滅ぼし、高遠頼継を退けた武田信玄にとって、高遠城の完全な掌握は信濃支配を盤石にするための次なる一手であった。天文14年(1545年)、信玄は高遠城とその同盟者であった藤沢頼親の福与城に大軍を差し向けた 11 。頼継は抵抗するも敵わず、高遠城はついに落城し、武田氏の支配下に入った 7 。
これにより、高遠城は武田氏にとって単なる占領地の一つではなく、伊那谷全域を制圧するための橋頭堡となった。さらに、西の美濃・尾張の織田氏、南の遠江・三河の徳川(当時は今川)氏を睨み、将来的な西方・南方への進出ルートを確保するための最重要戦略拠点として位置づけられたのである 9 。
高遠城の戦略的重要性を深く認識した信玄は、その防御能力を飛躍的に向上させるため、大規模な改修に着手する。『甲陽軍鑑』によれば、天文16年(1547年)、この大事業の縄張り(設計)を命じられたのが、信玄の伝説的軍師・山本勘助であったと伝えられている 4 。
この改修は、当時の最先端であった「武田流築城術」の粋を集めたものであった。高遠城は、豪華な天守や壮麗な石垣を誇る城ではない。むしろ、その本質は地形を最大限に活用し、土と水と木で築かれた、徹底して実戦的な「土づくりの城」にある 19 。
その縄張りは、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が同心円状に防御線を形成する「環郭式」を基本としていた 4 。本丸の周囲には、南に笹曲輪、南東に法幢院曲輪、そして本丸に隣接して「勘助曲輪」と名付けられた区画が配され、複雑かつ巧妙な防御網を構築していた 19 。これらの各曲輪は、幅も深さも壮大な空堀によって厳重に分断されている 4 。有事の際には曲輪間を結ぶ木橋を焼き落とすことで、各区画が独立した砦として機能し、敵の侵攻を段階的に食い止める設計となっていた 8 。この堅固な防御構造は、後の織田軍との激戦において、その真価を遺憾なく発揮することになる。
高遠城が武田家にとってどれほど重要な拠点であったかは、歴代の城主の顔ぶれを見れば一目瞭然である。信玄は、この城の守りを譜代の重臣に任せるだけでは飽き足らず、自らの血を分けた最も信頼する近親者を次々と城主に据えた 9 。
最初の城主の一人には、勇将として知られる譜代家老の秋山虎繁(信友)が就いた 11 。しかし、永禄5年(1562年)には、信玄の四男であり、滅亡した諏訪氏の名跡を継いだ諏訪勝頼(後の武田勝頼)が城主兼上伊那郡代に就任する 9 。勝頼はここを拠点として南信濃の統治にあたり、武田家の後継者としての地位を固めていった。特筆すべきは、勝頼の嫡男であり、武田家最後の当主となる信勝がこの高遠城で誕生したという事実である 11 。これは、高遠城が単なる軍事施設ではなく、武田家の信濃における政治的中心地、いわば「副都」とも言うべき役割を担っていたことを強く示唆している。
勝頼が信玄の後継者として甲府の躑躅ヶ崎館に呼び戻されると、城主は信玄の実弟である武田信廉、そして信玄の五男・仁科盛信へと引き継がれた 9 。このように、武田家の信濃統治の根幹を成す重要拠点を、常に一族の最重要人物が直接統治するという体制は、高遠城が武田家の生命線であったことの何よりの証左である。
天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける大敗以降、武田家の威信は大きく揺らぎ始めていた。そして天正10年(1582年)2月、その落日を決定づける事態が発生する。信玄の娘婿であり、武田一門衆の一人であった木曽義昌が、織田信長に内通し、反旗を翻したのである 11 。
これを好機と見た信長は、嫡男・織田信忠を総大将とする大軍を信濃へ派遣し、本格的な武田領侵攻(甲州征伐)を開始した。武田家の求心力はもはや失われており、信濃各地に配置されていた武田方の城主たちは、織田の大軍を前に戦意を喪失。戦わずして降伏する者、城を捨てて逃亡する者が相次いだ 1 。伊那谷の諸城も次々と織田方に寝返り、武田信玄の五男・仁科五郎盛信が守る高遠城は、四方を敵に囲まれ、完全に孤立無援の状態に陥った 18 。
高遠城に迫る織田軍は、総大将・織田信忠のもと、先鋒に森長可、団忠正、本隊に河尻秀隆、毛利長秀、そして軍監として滝川一益といった織田軍団の主力を結集させた、まさに精鋭部隊であった 28 。その兵力は3万、一説には5万とも言われる大軍勢であった 1 。対する高遠城の籠城兵は、城主・仁科盛信、副将・小山田昌成らわずか3千 11 。その戦力差は10倍以上であり、誰の目にも勝敗は明らかであった。
織田軍は高遠城の西、現在の伊那市富県地区に攻城拠点となる陣を構えたとされ、この地には「一夜の城」という伝承と共に、関連する遺構が発掘されている 11 。
項目 |
織田軍 |
武田軍 |
総大将 |
織田信忠 |
仁科盛信 |
主要武将 |
森長可、河尻秀隆、滝川一益、団忠正、木曾義昌 |
小山田昌成、小山田大学助、諏訪勝右衛門 |
兵力 |
30,000人 - 50,000人 |
3,000人(一説に500人) |
(出典: 1 )
圧倒的劣勢の中、織田信忠は盛信に対し、降伏を勧告する使者を送った。所領安堵と黄金百枚という破格の条件であったと伝わる 31 。しかし、盛信の決意は揺るがなかった。彼はこの降伏勧告を武士への侮辱と捉え、使者として送られてきた僧侶の耳と鼻を削ぎ落として追い返すという、極めて苛烈な方法でこれを拒絶した 26 。もはや言葉は不要、雌雄を決するのは戦場のみであるという、盛信の玉砕覚悟の意志表示であった。
この返答に激昂した信忠は、天正10年(1582年)3月2日早朝、高遠城への総攻撃を命じた 23 。織田軍は城の大手(東側)と搦手(西側)から怒涛の如く攻め寄せた。総大将である信忠自らが馬を降りて塀際まで押し寄せ、柵を破り、塀の上に立って采配を振るったと『信長公記』は記している 23 。その猛攻は凄まじく、堅固を誇った高遠城も、その防御線を次第に破られていく。
しかし、城兵の士気は天を衝くほど高かった。彼らは勝利ではなく、武田武士としての名誉ある死を選んだのである。城兵は次々と城外へ討って出ては、織田の大軍の中に消えていった。この時、城内では武士だけでなく、その妻女たちも薙刀や刀を手に取り、果敢に戦ったと伝えられる 26 。中でも、仁科家家臣・諏訪勝右衛門の妻(伝承では「諏訪はな」)の奮戦は、敵方である織田方の記録『信長公記』に「刀を抜き打ち、切って回り、比類無き働き前代未聞の次第なり」と、最大級の賛辞をもって記されている 11 。彼女の獅子奮迅の働きは、滅びゆく武田家の最後の輝きを象徴するものであった。
だが、衆寡敵せず。圧倒的な兵力差の前には、いかなる勇戦も及ばなかった。戦闘開始からわずか一日、その日のうちに城の主要部分はことごとく陥落した 9 。もはやこれまでと覚悟を決めた城主・仁科盛信は、本丸で切腹。その最期は、自らの腹を十文字にかき切り、はらわたを掴み出して壁に投げつけたと伝わるほど、壮絶なものであった 13 。時に享年26、兄・信忠と同い年であった 34 。盛信と共に、副将の小山田昌成ら城兵のほとんどが討ち死にし、高遠城は落城した 11 。
盛信の首は信忠のもとへ届けられ、後に京の一条の辻で、兄・勝頼らの首と共に晒された 34 。しかし、その忠義と武勇を敬慕する領民たちは、首のない盛信の胴体を密かに引き取り、城を見下ろす山に手厚く葬った。以来、その山は盛信の通称にちなみ「五郎山」と呼ばれ、今もその墓が静かに眠っている 26 。
この高遠城の悲報は、武田勝頼に致命的な衝撃を与えた。信濃における最後の、そして最大の抵抗拠点がわずか一日で陥落したことは、もはや武田家に組織的な抵抗力がないことを意味していた。この報せを受けた勝頼は、本拠地である新府城に火を放って逃走。しかし、頼みとした重臣・小山田信茂にも裏切られ、天目山にて自害し、名門・武田氏はここに滅亡した 9 。仁科盛信の徹底抗戦は、軍事的には無謀な戦いであったかもしれない。しかし、裏切りと逃亡が相次ぐ中で失墜した「武田武士の誇り」を、自らの命と引き換えに天下に示したこの戦いは、武田家の名誉を守るための、意識的な「殉教」行為であったと評価できよう。
高遠城の壮絶な落城からわずか3ヶ月後の天正10年(1582年)6月、天下人・織田信長が本能寺の変で横死すると、信濃国は再び主を失い、激しい権力闘争の渦に巻き込まれた 9 。
武田氏滅亡後、伊那郡は織田家臣・毛利長秀の所領となっていたが、高遠城自体は戦闘で壊滅的な被害を受けており、統治拠点として機能していたかは疑問視されている 11 。信長の死による混乱に乗じ、いち早くこの地に手を伸ばしたのは、武田家の旧臣であった保科正直であった。彼は高遠城の戦いの際に城から脱出して身を潜めていたが、北条氏の力を借りて高遠城を奪還。その後、時流を読んで徳川家康に服属し、高遠城主としての地位を認められた 9 。天正13年(1585年)には、豊臣方に寝返った小笠原貞慶の攻撃を撃退するなど、その実力を示している 10 。
しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一が完成し、徳川家康が関東へ移封されると、それに従った保科氏も高遠を去る。その後、高遠城は豊臣政権下で毛利氏、京極氏の所領となり、城主は置かれず城代が統治する時代が続いた 9 。
関ヶ原の合戦を経て江戸幕府が開かれると、高遠には3万3,000石の高遠藩が置かれ、再び歴史の表舞台に立つ 10 。藩主には、まず家康に仕えていた保科氏が返り咲いた 1 。二代将軍・徳川秀忠の御落胤(ごらくいん)であり、後に会津松平家の祖となる名君・保科正之が幼少期に養子として高遠藩主を継いだことは、特筆に値する 1 。その後、保科氏が出羽最上へ転封となると、鳥居氏、そして内藤氏と藩主家が変遷し、明治維新まで内藤氏8代による統治が続いた 1 。
この江戸時代、特に初期の鳥居氏の時代までに、高遠城は大規模な改修を受けたとされる。最大の変更点は、城の正面玄関である大手門の位置であった。戦国期の武田氏時代には、防御を重視して陸続きの東側に置かれていた大手門が、城下町の整備と一体化する形で西側に移されたのである 4 。これにより、古くからの門前町が城下町として取り込まれ、近世城郭としての体裁が整えられた。現在、我々が高遠城跡で目にする曲輪の配置は、この江戸時代初期に完成した姿を色濃く残している 4 。
明治維新を迎え、1871年(明治4年)の廃藩置県により高遠藩は消滅。翌1872年(明治5年)、高遠城は廃城令に基づき、その役目を終えた 2 。城内にあった御殿や櫓、門といった建造物はすべて取り壊され、民間に払い下げられた。石垣の石や樹木に至るまで売却され、城跡は一時期、更地同然の姿となった 2 。
しかし、この荒廃した城跡を憂いた人々がいた。1875年(明治8年)、高遠城跡は長野県内で最初期の公園の一つとして指定を受ける 2 。そして翌1876年(明治9年)、高遠藩の旧藩士たちが立ち上がった。彼らは、かつて藩士たちが馬術の訓練を行った「桜ノ馬場」にあった桜の若木を掘り取り、荒れ果てた城跡へと移植したのである 2 。
この行為は、単なる美化活動ではなかった。武士としての身分と、その象徴であった城を失った旧藩士たちが、自らの故郷のアイデンティティを「武」の記憶から「美」の象徴へと転換させ、新たな形で後世に継承しようとした「記憶の再創造」であった。武士の魂が宿る馬場の桜を、武士の権威の象徴であった城跡に植えることで、彼らは高遠の新たな物語を紡ぎ始めたのである。この時植えられた桜は、後にこの土地固有の貴重な品種であることが判明し、「タカトオコヒガンザクラ」と命名された 39 。旧藩士たちの想いは、見事に花開き、高遠城は武の要害から美の名城へと生まれ変わった。
仁科盛信の壮絶な最期は、裏切りと離反が相次いだ戦国末期において、武田武士の忠義と誇りを最後まで貫いた象徴として、後世に長く語り継がれることとなった。その名は、長野県民に愛唱される県歌「信濃の国」の歌詞にも「古き歴史を誇る」四人の武将の一人として刻まれ、地域の誇りとなっている 1 。現在、本丸跡に鎮座する新城神社は、盛信の武勇を讃えた領民たちが彼を「新城神」として祀ったことに始まるものであり、その魂は今も故郷の地から信濃の国を見守っている 26 。
高遠城の歴史は、一つの城が持つ物語の重層性を見事に示している。それは、武田信玄の知略によって難攻不落の要塞と化し、その子弟たちが信濃支配の拠点とした栄華と、仁科盛信の玉砕によって武田氏滅亡の序曲を奏でた悲劇を刻む、「剛」の歴史遺産である。同時に、明治の世を迎え、武士の時代が終わった後、旧藩士たちの手によって桜が植えられ、日本有数の美の景勝地へと生まれ変わった「柔」の文化的景観でもある。
戦国の世の厳しさと滅びの美学、そして平和な時代における故郷への愛情。この「剛」と「柔」、二つの側面が分かちがたく結びつき、重なり合うことで、高遠城は他の城にはない唯一無二の深い魅力を放っている。訪れる者は、桜花の雲の下に、かつてこの地で繰り広げられた人間たちの壮絶なドラマに思いを馳せ、歴史の無常と、それでもなお未来へと何かを繋ごうとする人々の強い意志を感じ取ることだろう。高遠城は、その静かな佇まいをもって、今も我々に多くのことを語りかけている。
時代 |
時期 |
主な城主・支配者 |
備考 |
高遠氏時代 |
南北朝時代頃 - 天文14年 (1545年) |
高遠氏(高遠頼継など) |
諏訪氏の支族として伊那谷を支配。 |
武田氏時代 |
天文14年 (1545年) - 天正10年 (1582年) |
秋山虎繁(信友) |
武田信玄、高遠城を奪取し、南信濃支配の拠点とする。 |
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永禄5年 (1562年) - |
諏訪(武田)勝頼 |
信玄の四男。上伊那郡代を兼任。 |
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元亀元年 (1570年)頃 - |
武田信廉 |
信玄の実弟。 |
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天正9年 (1581年) - 天正10年 (1582年) |
仁科盛信 |
信玄の五男。高遠城の戦いで戦死。 |
織田・豊臣氏時代 |
天正10年 (1582年) |
毛利長秀 |
織田信長の家臣。武田氏滅亡後、伊那郡を領有。 |
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天正10年 (1582年) - 天正18年 (1590年) |
保科正直 |
本能寺の変後、徳川家康配下として高遠城主となる。 |
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天正18年 (1590年) - |
毛利秀頼、京極高知 |
豊臣政権下で城代が置かれる。 |
江戸時代(高遠藩) |
慶長5年 (1600年) - 寛永13年 (1636年) |
保科氏(保科正光、保科正之) |
高遠藩成立。 |
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寛永13年 (1636年) - 元禄4年 (1691年) |
鳥居氏 |
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元禄4年 (1691年) - 明治4年 (1871年) |
内藤氏 |
8代にわたり統治し、明治維新を迎える。 |
(出典: 1 )