鳥羽城は、海賊大名九鬼嘉隆が築きし海の要塞。大手門を海に向け、海を堀とする特異な構造。嘉隆の悲劇的な最期と共に、その歴史は海に刻まれし。
日本の城郭史において、鳥羽城は極めて特異な位置を占める。それは単に海岸線に築かれた城というだけでなく、海を統治し、海を生きるための戦略思想そのものを体現した「海城」の完成形の一つであるからだ 1 。志摩国(現在の三重県志摩半島一帯)の鳥羽湾に突き出た小高い丘に築かれたこの城は、三方を海に囲まれ、満潮時にはあたかも海に浮かんでいるかのような姿を見せたことから、「鳥羽の浮城」との異名を持つ 3 。
この城の性格を決定づけたのは、築城主である九鬼嘉隆(くきよしたか)その人の生涯である。志摩の海に生まれ育ち、水軍を率いて身を起こし、織田信長、豊臣秀吉という天下人のもとで「海賊大名」とまで呼ばれるに至った彼の経歴は、鳥羽城の設計思想の隅々にまで色濃く反映されている 1 。一般的な城が陸路からの防御を主眼に置き、大手門(正門)を陸側に向けるのに対し、鳥羽城は全国的にも稀有なことに、その大手門を海に向かって開いていた 2 。これは、陸の常識からの逸脱であり、築城主である嘉隆にとって、海こそが脅威ではなく、力の源泉であり、支配すべき主街道であったことを物理的に物語っている。海に開かれた大手門は、単なる設計上の特徴に留まらず、「我が権力の源は海にあり」という嘉隆の政治的・軍事的宣言そのものであったと解釈できる。
さらに、この城は「二色城(にしきじょう、にしきじょう)」あるいは「錦城」とも呼ばれた 3 。これは、城の壁面が海側は黒、山側は白に塗り分けられていたという伝承に由来する 9 。この独特の配色は、美観のみならず、海という自然環境への配慮という機能的な意味合いを持っていた可能性が指摘されており、鳥羽城が単なる軍事要塞ではなく、海と共生する思想をも内包していたことを示唆している。本報告書は、この鳥羽城を戦国時代という文脈の中に位置づけ、その築城の背景、特異な構造、城主・九鬼嘉隆の栄光と悲劇、そしてその後の流転の歴史を詳細に解き明かすことを目的とする。
九鬼嘉隆による壮大な海城の建設は、突如として始まったわけではない。そこには、志摩の在地勢力間の長きにわたる攻防と、嘉隆自身が中央の巨大な権力と結びつくことで、一介の海賊衆から戦国大名へと飛躍していく劇的な過程が存在した。
九鬼嘉隆が鳥羽城を築いた樋の山(ひのやま)は、古くから志摩における戦略的要衝であった。中世には、この地は在地領主である橘氏の支配下にあり、その居館は「鳥羽殿」と称されていた 3 。橘氏は、保元・平治の頃より鳥羽の地に根を張り、伊勢国司北畠氏の配下として志摩二郡を領する有力な存在であった 12 。
この状況が大きく動くのは、戦国時代の永禄11年(1568年)のことである。当時、波切(なきり)を拠点としていた九鬼嘉隆は、橘宗忠を攻め、これを打ち破った 11 。しかし、嘉隆の戦略は単なる軍事征服に留まらなかった。彼は宗忠の娘を娶ることで婚姻関係を結び、橘氏の所領と家臣団を平和裏に継承するという巧みな手法を用いた 11 。これにより、嘉隆は鳥羽の地を手中に収め、志摩統一への確固たる足掛かりを築いたのである。
九鬼嘉隆が志摩の一豪族から歴史の表舞台へと躍り出る契機となったのは、尾張から急速に勢力を拡大していた織田信長との結びつきであった。滝川一益の仲介などを通じて信長に仕えるようになった嘉隆は、その卓越した水軍の指揮能力を高く評価され、信長の天下統一事業において不可欠な存在となっていく 1 。
彼の名を天下に轟かせたのが、石山合戦における第二次木津川口の戦い(天正6年、1578年)である 16 。当時、石山本願寺を攻めあぐねていた信長軍は、毛利水軍による海上からの兵糧補給に苦しめられていた。第一次の戦いで毛利水軍の焙烙火矢(ほうろくひや)に敗北を喫した嘉隆は、信長の命を受け、船体を鉄板で装甲した巨大な「鉄甲船」を建造する 17 。この当時としては画期的な新兵器を投入した九鬼水軍は、毛利水軍を完膚なきまでに打ち破り、本願寺の海上補給路を完全に遮断することに成功した 16 。この大功により、嘉隆は信長から絶大な信頼を得て、伊勢・志摩両国にまたがる3万5千石の所領を与えられ、その地位を不動のものとした 1 。
信長という強力な後ろ盾を得た嘉隆は、志摩国内に割拠していた他の在地勢力(嶋衆)を次々と平定し、名実ともに志摩国全体の支配者となった 14 。本能寺の変後、嘉隆は速やかに豊臣秀吉に仕え、引き続き水軍の将として九州平定や小田原征伐などで活躍する 6 。
天正13年(1585年)、嘉隆は志摩国の答志郡鳥羽を自らの本拠地と正式に定め、新たな城の築城に着手した 6 。場所は、かつて橘氏の居館があった樋の山である。築城は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)といった国家的な軍事行動と並行して進められ、文禄3年(1594年)に完成したとされている 7 。
それまでの九鬼氏の拠点であった田城城などの砦とは比較にならない、石垣を多用した本格的な近世城郭である鳥羽城の建設は、単に本拠地を移した以上の意味を持っていた。それは、嘉隆がもはや一介の海賊衆ではなく、中央政権に公認された「大名」として志摩国を統治するという、内外に対する明確な権威の宣言であった。鳥羽城は、嘉隆個人の立身出世物語の集大成であると同時に、志摩という地域が中央政権の天下統一プロセスに完全に組み込まれたことを示す、画期的なモニュメントだったのである。
鳥羽城は、九鬼嘉隆が持つ海への深い知見と、水軍の運用を最大限に効率化するための合理性が融合した、まさに「海のための城」であった。その縄張り、建築物、そして他に類を見ない特徴は、九鬼水軍の拠点として、いかに機能的に設計されていたかを雄弁に物語っている。
鳥羽城の縄張り(城の区画設計)は、鳥羽湾に舌状に突き出た標高約40メートルの丘陵、樋の山の自然地形を巧みに利用して構築された 4 。城の中心である本丸を丘陵の最高所に置き、そこから北東方向の三の丸、さらに海側の二の丸へと、雛壇状に曲輪(くるわ)を配置する連郭式の構造を取っていた 2 。
この城の最大の防御要素は、周囲の海そのものであった。城の東、南、西の三方は直接鳥羽湾に面しており、これが天然の広大な水堀として機能した 10 。唯一陸続きとなる北側と西側には、人工的に堀が掘削され、海水が引き込まれていた 14 。これにより、鳥羽城は四方を水で囲まれた、文字通り「海に浮かぶ」難攻不落の要塞を形成していたのである。
鳥羽城を日本の城郭史において特異な存在たらしめている最大の要因は、その正門の構造にある。城の正門である大手門は、陸側ではなく海側へ桟橋のように突き出した「大手水門(大手波戸水門)」と呼ばれる形式であった 7 。これは、国内の近世城郭においては他に例を見ない、極めて珍しい構造である 5 。
この大手水門は、九鬼水軍の軍船が城内に直接出入りするための玄関口であった 8 。兵員や物資の輸送、艦船の整備や補給など、水軍のあらゆる活動がこの水門を起点に行われたと考えられる。海を主たる交通路とし、船を最も重要な戦力とする水軍にとって、これほど合理的かつ機能的な設計はなかった。大手水門は、鳥羽城が海と共に生きる城であることを象徴する、まさに顔とも言うべき施設であった。
城の最高所である本丸には、権威の象徴として三層の天守がそびえていた 21 。江戸時代の延宝8年(1680年)に作成された城の引渡目録によれば、その規模は桁行六間(約10.3メートル)、梁間五間(約9メートル)、天守台からの高さは約19.5メートルであったと記録されている 5 。特筆すべきは、この天守には石火矢(大砲)を撃つための「大さま」と呼ばれる特殊な狭間(さま)が三方に設けられていたとされる点である 14 。これは、海上からの敵艦隊を直接砲撃することを想定した、海城ならではの武装であった可能性が高い。
また、近年の発掘調査により、本丸には天守だけでなく、大規模な本丸御殿、土蔵、そして直径約2.7メートルにも及ぶ大井戸の跡が確認されている 14 。さらに、麓には二の丸御殿も存在したことがわかっている 21 。これらの発見は、鳥羽城が単なる軍事拠点に留まらず、鳥羽藩の政治と生活の中心地としても機能していたことを示している。
鳥羽城は、その独特な外観から「二色城」または「錦城」という雅な異名で呼ばれていた 3 。伝承によれば、城の壁面は、山に面した陸側が総漆喰の白色に塗られていたのに対し、海に面した側は黒色に仕上げられていたという 9 。
この配色について、非常に興味深い逸話が残されている。海側を黒くしたのは、「白い壁が光を反射して、海の魚に過度な刺激を与えないようにするため」という配慮からであったというのである 5 。これが史実であるか単なる美談であるかは定かではないが、平時には漁業や海運も生業としていた水軍の棟梁である嘉隆らしい発想とも言える。もし事実であれば、400年以上も前から自然環境との共生を意識した設計思想が取り入れられていたことになり、注目に値する。
日本の代表的な海城(水城)としては、鳥羽城の他に讃岐国の高松城、伊予国の今治城が挙げられ、「日本三大水城」と称されることもある 31 。これらの城と比較することで、鳥羽城の独自性はより一層際立つ。
高松城は、城の堀に海水を引き込み、海に面して「水手御門」と呼ばれる船の出入り口を設けていた 33 。また、築城の名手・藤堂高虎が手掛けた今治城は、三重の堀すべてに海水を引き込み、城内に「舟入」と呼ばれる国内最大級の内港を備えていた 36 。これに対し、鳥羽城は城の正門そのものを海に向かって突出した水門とする、より大胆で直接的な設計思想が見られる。高松城や今治城が城内に港を取り込む形であるのに対し、鳥羽城は城自体が港と一体化していると言える。この構造の違いに、海賊大名・九鬼嘉隆の、より海に密着した出自と戦略思想が表れている。
なお、これほど壮大な城郭を築き上げた九鬼嘉隆であるが、豊臣政権下での公式な石高はわずか3万5千石であった 5 。城の外郭を含んだ総面積約10万6,500平方メートル、13基もの櫓群を備えた鳥羽城は、この石高に対して明らかに不相応な規模である 4 。この事実は、嘉隆の権力基盤が、米の生産量で測られる石高制だけでは評価できないことを示唆している。彼の真の経済力は、海上交通路の支配、水運業、漁業権の掌握といった、海からもたらされる独自の収益に支えられていたと考えられる。鳥羽城の壮大さは、公式な石高には現れない、水軍大名ならではの「海の経済力」の物的な証左と言えるだろう。
鳥羽城は、その築城主である九鬼嘉隆の生涯と運命を分かちがたく結びついている。城を拠点とした彼の栄光に満ちた活動、そして戦国の世の非情さが凝縮された悲劇的な最期は、城と城主の物語が一体であることを我々に教えてくれる。
鳥羽城の築城が進められていた文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が開始される。九鬼嘉隆は、日本水軍の総大将の一人として、自らが率いる大船団を従え、朝鮮半島へと渡った 1 。
この遠征において、嘉隆が建造した旗艦は、その偉容を秀吉に讃えられ「日本丸」の名を与えられた 5 。この船の建造には、鳥羽市内の賀多神社の神木であった龍燈松が用いられたという伝承が残っており、嘉隆がその返礼として千本の杉を寄進したと伝えられている 5 。このエピソードは、嘉隆と鳥羽の地との深い結びつきを示すものである。鳥羽城は、こうした大規模な海外遠征における兵站基地、すなわち兵員、兵糧、武器弾薬を前線へ送り出すための後方拠点としての機能も期待されていたと考えられる 15 。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との対立へと突き進む。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、九鬼家は苦渋の決断を迫られた。家督を継いでいた息子の九鬼守隆は、かねてよりの誼から徳川家康に従い東軍に属した。一方、家督を譲り隠居の身であった父・嘉隆は、秀吉から受けた恩義に報いるため、石田三成方の西軍に与したのである 1 。
これは、父子が敵味方に分かれることで、どちらが勝利しても九鬼家を存続させようという、嘉隆の老練な戦略であったと言われている 21 。守隆が家康に従って会津征伐に出陣し、鳥羽城が手薄になった隙を突き、嘉隆はこれを占拠した 14 。これにより、鳥羽周辺では父子の間で実際に戦闘が行われるという悲劇が生じた。これは、家康への忠誠を示さねばならない守隆の立場と、豊臣家への恩義を貫こうとする嘉隆の信念が激突した、戦国の非情を象徴する出来事であった。
関ヶ原での本戦は、わずか一日で東軍の圧勝に終わった。西軍敗北の報を受けた嘉隆は、鳥羽城を守隆方に明け渡し、鳥羽湾に浮かぶ答志島へと落ち延びた 1 。
一方、東軍として戦功を挙げた守隆は、父の助命を徳川家康に必死に嘆願した。家康はその功に免じてこれを許し、守隆は急使を答志島へ送った 1 。しかし、この知らせが嘉隆のもとへ届く前に、悲劇は起こる。嘉隆の家臣であった豊田五郎右衛門が、自身の裏切り(嘉隆に城を明け渡そうとしたこと)が露見し処罰されることを恐れ、守隆からの命令と偽って嘉隆に自害を促したのである 14 。この情報伝達の遅れと、家臣の自己保身という裏切りが、嘉隆の運命を決定づけた。
嘉隆は、この偽情報を受け入れ、答志島の和具にある洞泉庵にて、静かに自刃して果てた。享年59 21 。彼は死に臨み、「我が首は、鳥羽城の見えるところに埋めてくれ」という遺言を残したと伝えられている 1 。この言葉は、自らが心血を注いで築き上げ、その生涯の集大成であった鳥羽城が、彼にとって単なる権力の座である以上に、魂の拠り所であったことを強く示している。
その遺言通り、嘉隆の首は検分の後、鳥羽城を一望できる答志島の築上(つかげ)山に、胴は洞泉庵の近くにそれぞれ葬られた。現在も島には首塚と胴塚が残り、海の覇者の悲劇的な最期を静かに今に伝えている 1 。
九鬼嘉隆の死と、その後の九鬼家の鳥羽退去は、鳥羽城の歴史における大きな転換点であった。水軍の城としての性格は次第に薄れ、譜代大名が治める近世城郭として、新たな役割を担っていくことになる。しかしその道のりは、城主の頻繁な交代や度重なる自然災害に見舞われる、波乱に満ちたものであった。
関ヶ原の戦後、九鬼守隆は父の件を乗り越え、戦功により5万5千石に加増された 11 。しかし、守隆の死後、彼の息子たちの間で家督を巡る深刻な内紛(お家騒動)が発生する 11 。この争いは幕府の裁定に委ねられ、結果として九鬼家は二つに分割され、一方は摂津国三田へ(3万6千石)、もう一方は丹波国綾部へ(2万石)と、それぞれ国替えを命じられた 11 。
寛永10年(1633年)、九鬼家は鳥羽の地を去ることになった。これにより、熊野の海に発祥し、戦国乱世を駆け抜けた九鬼水軍の歴史は、事実上の終焉を迎える 11 。海と共に生きた一族は、内陸の地へと移され、その牙を抜かれることとなったのである。
九鬼氏の後に鳥羽城主となったのは、譜代大名の内藤忠重であった 11 。内藤氏は、寛永10年(1633年)の入封後、城の大規模な改修に着手する。特に、二の丸と三の丸を増設・整備し、城郭全体の防御機能と居住性を高めた 26 。これにより、鳥羽城は水軍の拠点という性格から、藩庁としての機能を備えた典型的な近世城郭へとその姿を変貌させた。現在、城跡に残る縄張りの姿は、この内藤氏による整備によるところが大きいとされている 26 。
しかし、内藤氏による統治も長くは続かなかった。三代目の内藤忠勝が延宝8年(1680年)、江戸城内の増上寺で刃傷事件を起こしたため、内藤家は改易(領地没収)となった 14 。
内藤家の改易後、鳥羽城は目まぐるしく城主が入れ替わる不安定な時期を迎える。土井氏、大給松平氏、板倉氏、戸田松平氏と、短期間で藩主が交代した 11 。ようやく統治が安定するのは、享保10年(1725年)に稲垣氏が入封してからであり、以後、稲垣家が幕末まで鳥羽藩を治めることになった 14 。
この間、鳥羽城は人為的な変転だけでなく、自然の猛威にも繰り返し晒された。特に津波による被害は甚大で、宝永4年(1707年)の宝永地震では、津波によって屋敷や櫓が流失し、石垣や城壁が大規模に崩壊したという記録が残っている 1 。その後も、寛政4年(1792年)の暴風雨や、嘉永・安政期(1848年~1860年)の津波や地震で、城は度々損傷を受けた 26 。そして、決定打となったのが安政元年(1854年)の安政東海地震である。この地震により、城の象徴であった三層の天守が倒壊し、以後再建されることなく、鳥羽城は幕末を迎えることとなった 3 。
表1:鳥羽城 歴代城主一覧
時代区分 |
藩主家 |
主要な城主 |
統治期間 |
石高 |
備考 |
九鬼家時代 |
九鬼氏 |
九鬼嘉隆、守隆 |
1594年~1633年 |
3万5千石→5万5千石 |
築城、関ヶ原の戦いを経て改易 |
内藤家時代 |
内藤氏 |
内藤忠重、忠政、忠勝 |
1633年~1680年 |
3万5千石 |
二の丸・三の丸増設、刃傷事件で改易 |
変遷期 |
土井氏、大給松平氏、板倉氏、戸田松平氏 |
(複数) |
1681年~1725年 |
(変動) |
城主が頻繁に交代 |
稲垣家時代 |
稲垣氏 |
稲垣昭賢~稲垣長敬 |
1725年~1871年 |
3万石 |
幕末まで統治、度重なる災害に見舞われる |
明治維新という時代の大きなうねりは、鳥羽城の運命を決定的に変えた。武士の世の終わりと共に、城は軍事・政治拠点としての役割を終え、物理的には解体される道を辿る。しかし、その場所が持つ地域の中心性という役割は、形を変えながら現代にまで受け継がれている。
明治4年(1871年)、廃藩置県によって鳥羽藩は廃され、鳥羽県が置かれた。これにより、鳥羽城はその役目を終え、廃城となる 3 。城内にあった天守、御殿、櫓、門といった壮麗な建築群は、「無用の長物」と見なされ、次々と民間に払い下げられて解体されていった 1 。かつて海水を湛えていた堀も、明治9年(1876年)の蓮池の堀の埋め立てを皮切りに、次第にその姿を消していった 14 。こうして、九鬼嘉隆が築き上げた海の要塞は、物理的にはこの世から姿を消すことになった。
城の建物は失われたものの、その広大な敷地は、近代的な都市開発の中で新たな役割を担うことになった。城跡の中心部である本丸跡地は鳥羽小学校の運動場として、二の丸跡地は同校の校舎敷地として長らく利用された 1 。城が地域の「核」であったように、学校もまた近代コミュニティの「核」となる施設であり、物理的な建物は失われても、場所が持つ中心性という機能は継承されたと言える。これは、城の機能的な「再生」と捉えることができる。
時代が下り、歴史的遺産への関心が高まると、鳥羽城跡はその価値を再評価されるようになる。昭和40年(1965年)、城跡は三重県の史跡に指定され、法的な保護の対象となった 3 。近年、鳥羽小学校が移転したことに伴い、本丸跡地で学術的な発掘調査が実施され、本丸御殿の建物の基礎となる石列や、土蔵跡などが確認された 14 。これらの遺構は調査後に保護のために埋め戻されたが、往時の建物の配置を明らかにする上で貴重な成果となった。
現在、鳥羽城の往時を偲ぶことができる最も重要な遺構は、各所に残る石垣である。特に、本丸の西側や南側、そして市役所の裏手にある旧家老屋敷跡には、荒々しい野面積み(のづらづみ)の石垣が現存している 7 。これらの石垣は、隅部の積み方が未発達な古い技法であることなどから、築城主である九鬼嘉隆の時代に築かれたものと考えられており、400年以上の時を超えて、海の要塞の力強さを伝えている。
城跡は現在、城山公園として整備され、市民や観光客の憩いの場となっている 4 。本丸跡からは、嘉隆が最期の時に見つめたいと願った鳥羽湾の美しい景色を一望することができる 14 。また、城の麓に形成された城下町は、近代以降の埋め立てによって海岸線こそ大きく変化したものの、山側の旧市街地には江戸時代の町割りの面影が色濃く残っている 26 。鳥羽城の存在が、現代の鳥羽市の都市構造の基礎を形成したことは疑いようがない。
鳥羽城の歴史は、一人の武将の野心と理想、そして悲劇が凝縮された物語である。志摩の海に生まれ、類稀なる才覚で時代の波を捉え、天下人の水軍を率いた九鬼嘉隆。彼が築いたこの城は、その生涯の集大成であり、彼の魂そのものが刻まれたモニュメントであった。
海に向かって開かれた大手水門、海を天然の堀とした縄張り、そして海上戦闘を想定した天守。鳥羽城の特異な構造は、戦国時代から江戸時代初期にかけての水軍の戦略思想と、海上交通の支配が持つ経済的重要性を物語る、他に代えがたい貴重な物証である。それは、米の収穫量を基盤とする陸の価値観だけでは捉えきれない、もう一つの戦国史の姿を我々に示してくれる。
近代化の波の中で、城の象徴であった天守や櫓は失われた。しかし、鳥羽城の本質は、壮麗な建築物にあったのではない。今なお残る荒々しい野面積みの石垣と、何よりも、鳥羽湾に向かって開かれたその立地そのものが、この城が何のために、誰のために築かれたのかを雄弁に物語っている。鳥羽城跡に立ち、穏やかな湾を見下ろすとき、我々は海を舞台に繰り広げられた壮大な歴史の響きを聴くことができる。それは、陸の視点だけでは決して見えてこない、日本の豊かな歴史の側面を教えてくれる、かけがえのない遺産なのである。