備中の鶴首城は、三村氏の拠点として栄え、備中兵乱の舞台となる。毛利氏と織田氏の狭間で翻弄され、一族の分裂と滅亡を招いた。廃城後も、その堅固な遺構は戦国の記憶を伝える。
岡山県高梁市成羽町、成羽川の南岸に聳える標高338メートルの鶴首山。その山容が、あたかも鶴が首を伸ばした姿に見えることからその名を得たとされるこの山には、戦国時代の激動を今に伝える山城、鶴首城跡が静かに眠っている 1 。この城は、単なる備中国の一地方城郭ではない。戦国時代、備中の覇権をめぐり、やがては中国地方全体の勢力図を揺るがすに至った歴史の、まさに中心舞台であった。
地理的に見れば、鶴首城は高梁川とその支流である成羽川の合流点に近く、古くから銅の輸送路としても利用された吹屋往来を抑える交通の要衝に位置している 2 。この戦略的に優越した立地こそ、後に備中一円にその名を轟かせることになる戦国大名・三村氏が、一大勢力へと飛躍するための揺り籠となったのである。
本報告書は、利用者が既に把握している「三村氏の居城」「毛利氏による落城」といった基本的な情報を出発点としながら、より深層的な視座から鶴首城の実像に迫ることを目的とする。具体的には、以下の四つのテーマを軸に、その歴史と構造を徹底的に解明していく。第一に、備中の覇者へと駆け上がった三村氏の栄光と挫折の象徴としての鶴首城。第二に、巨大勢力の狭間で翻弄され、一族内の悲劇的対立に至った「備中兵乱」という歴史的事件の縮図としての鶴首城。第三に、戦国後期の最新築城技術が投入された、城郭技術の進化を示す標本としての鶴首城。そして最後に、戦乱の世が終わり、泰平の世へと移行する時代の転換点を体現する存在としての鶴首城である。これらの多角的な分析を通じて、鶴首城が日本の歴史に刻んだ深い意義を明らかにする。
鶴首城の起源を語る上で、まず触れなければならないのが、鎌倉時代初期に遡る築城伝承である。『備中府志』などの後世の地誌によれば、鶴首城は文治5年(1189年)、源頼朝による奥州合戦で軍功を挙げた相模国の御家人、河村四郎秀清によって築かれたと伝えられている 1 。秀清はその功績により備中国成羽の地頭職を与えられ、この地に支配の拠点を築いたとされる 1 。
しかし、この伝承はあくまで後世の編纂物に見られるものであり、同時代の一次史料によって裏付けられているわけではない点には注意が必要である 1 。戦国時代にこの城を拠点として勢力を拡大した三村氏の権威を高めるため、あるいは地域の歴史に箔をつけるために、源氏の有力御家人の名が結びつけられた可能性も否定できない。事実、鶴首城が「成羽城」として確かな史料に登場するのは、戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)以降のことである 6 。
一方で、城郭の物理的な構造から、鶴首城の黎明期を探る興味深い説が提唱されている。現在の鶴首城跡は、山頂に位置する主郭部と、そこから北東に伸びる尾根の峰に築かれた出丸(現地案内図では二の丸と表記)の二つの主要区画から構成されている 1 。このうち、出丸部分の構造は、土を削り固めた切岸と尾根を断ち切る堀切を主とした比較的単純な造りであり、中世前半期の城郭の特徴を示している 6 。
この点に着目した研究者、島崎東氏は、この出丸こそが三村氏以前に存在した「古鶴首城」であり、戦国時代に至って三村家親が、より防御に適した山頂に主郭部を移し、全体を連郭式の山城として大規模に拡張・改造したのではないか、という仮説を提示している 6 。発掘調査を経なければ断定はできないものの、この説は非常に示唆に富んでいる。
この仮説を先の河村氏の伝承と重ね合わせると、一つの可能性が浮かび上がる。すなわち、河村氏の時代、あるいはそれに近い鎌倉・南北朝時代に、小規模な砦(古鶴首城)がこの地に存在し、それが戦国時代に三村氏が鶴首城を築く際の母体となった、という歴史の重層構造である。鶴首城の歴史は、伝承上の鎌倉時代と、史実として確かな戦国時代という二つの時間軸が交差する点にあり、その始まりは、全くの無からではなく、既存の小規模な城砦を基盤としていた可能性が高い。このことは、城の歴史に単線的ではない深みを与えている。
鶴首城の歴史を戦国時代の主役として彩ったのは、備中三村氏である。三村氏はその出自を辿ると、本姓を源氏とし、清和源氏の一流である甲斐源氏小笠原氏の庶流にあたる 7 。鎌倉時代後期に、いわゆる西遷御家人として信濃国から備中国星田郷(現在の岡山県井原市美星町)の地頭となり、この地に移住したのが備中三村氏の始まりとされる 7 。
当初は星田を拠点とする一国人領主に過ぎなかった三村氏が、戦国大名へと飛躍する大きな転機となったのが、天文2年(1533年)の出来事であった。知勇兼備の武将と評された三村家親が、星田から成羽へと進出し、鶴首城を本格的な城郭として大規模に整備・拡張したのである 5 。この時、家親は麓の成羽川対岸に平時の生活を送るための居館(三村氏屋敷跡)を構え、有事の際に立て籠もる詰城として鶴首城を位置づけるという、当時の典型的な館と詰城の体制を構築した 10 。鶴首城の機能強化は、そのまま三村氏の軍事力と政治力の増大に直結し、家親はこの城を拠点として、安芸の毛利氏と巧みに連携しながら、備中における旧来の勢力であった庄氏などを抑え、急速にその勢力を拡大していった 13 。
鶴首城を拠点に備中での覇権を確立しつつあった三村家親であったが、その野望は備中一円の支配にあった。永禄2年(1559年)から、家親は毛利元就の三男・小早川隆景の加勢を得て、備中支配の象徴ともいえる備中松山城の攻略を開始する 15 。そして永禄4年(1561年)、ついに城主の庄高資を追い払い、備中松山城を奪取することに成功した 5 。
この備中松山城への本拠移転は、三村氏が「成羽の一領主」から「備中の覇者」へと名実ともに脱皮したことを示す戦略的な決断であった。これにより、三村氏の勢力拡大の揺り籠としての役割を担ってきた鶴首城は、その歴史的使命を終え、新たな役割を担うことになる。家親・元親父子が松山城へ移った後、鶴首城は一族の重鎮であり、家親の弟(元親の叔父)にあたる三村親成・親宣父子に預けられ、松山城の西方を固める最重要支城として、引き続き三村氏の支配体制の中核を担い続けたのである 5 。鶴首城の役割の変遷は、まさに三村氏の成長段階そのものを映し出す鏡であったといえる。
三村氏の栄華は、しかし長くは続かなかった。鶴首城は、やがて一族の分裂と滅亡という悲劇の舞台となる。
永禄9年(1566年)2月、三村氏の運命を暗転させる事件が起こる。美作国での軍議の最中、三村家親が備前の戦国大名・宇喜多直家の放った刺客により、鉄砲で暗殺されたのである 5 。この謀略により、三村氏と宇喜多氏の対立は決定的となり、備中・備前国境は一気に緊迫した。家親の跡を継いだ息子の元親は、父の仇を討つべく宇喜多氏と戦うが、明禅寺合戦で手痛い敗北を喫し、三村氏の威勢には翳りが見え始める 17 。
こうした中、中国地方の覇者である毛利氏は、宇喜多直家の台頭を認め、天正2年(1574年)に宇喜多氏と和睦を結んだ 15 。これは、長年毛利氏の支援を頼みとしてきた三村氏にとって、まさに背後から梯子を外されるに等しい事態であった。宿敵・宇喜多氏と主家・毛利氏が手を結んだことに強い不満と危機感を抱いた当主・三村元親は、一族の将来を賭けた大きな決断を下す。毛利氏から離反し、畿内で急速に勢力を拡大していた織田信長と結ぶことを選択したのである 15 。
しかし、この急進的な外交方針の転換は、一族内に深刻な亀裂を生んだ。鶴首城主であった叔父の三村親成は、新興勢力である信長を信用できず、旧来の同盟者である毛利氏との関係を維持すべきだと強く主張し、元親と激しく対立した 10 。この路線対立は、当時の地方勢力が巨大勢力の狭間で直面した「旧守か革新か」という究極の選択を象徴するものであった。議論は平行線を辿り、最終的に親成は元親を見限り、一族から離反して毛利氏に内通するという道を選んだ 9 。これにより、三村氏の重要拠点であった鶴首城は、一夜にして本家と敵対する最前線へと変貌した。
天正2年(1574年)11月、三村元親の毛利離反が明らかになると、毛利輝元はただちに三村氏討伐の大軍を編成し、備中へと侵攻を開始した。世に言う「備中兵乱」の勃発である。
毛利軍の最初の目標の一つが、鶴首城であった。当時の一次史料である『小早川隆景書状』によれば、天正2年12月25日の時点で、小早川隆景は翌日中にも成羽城(鶴首城)へ攻撃を仕掛けることを決定している 6 。しかし、実際の戦闘は熾烈なものにはならなかったようである。別の史料『吉川元春感状』によれば、翌天正3年(1575年)正月7日までの間に、鶴首城は既に開城、もしくは毛利軍の手に落ちていたことが記されている 6 。これは、城主である三村親成が毛利軍を手引きしたため、大規模な籠城戦に至ることなく、城が明け渡されたことを強く示唆している。
鶴首城の落城は、単なる軍事的な敗北ではなかった。それは、巨大勢力に翻弄された一族が、内部から崩壊していく悲劇の序章であった。鶴首城を皮切りに、国吉城、楪城、鬼身城など三村方の諸城は次々と毛利の大軍の前に陥落 20 。そして同年6月、元親が籠もる本拠・備中松山城もついに落城し、元親は自害。ここに戦国大名・三村氏は滅亡した 20 。
乱の終結後、毛利方への内通の功績を認められた三村親成は、所領を削減されながらも、再び鶴首城の城主として安堵された 5 。鶴首城は、その城主の政治的決断によって、一族を滅亡へと導く引き金を引く役割を果たしてしまったのである。この城の歴史は、戦国武将たちが直面した冷徹な戦略的判断と、それがもたらす一族内の悲劇を物語る、極めて人間的なドラマの舞台であった。
表1:備中兵乱と鶴首城関連年表
年号(西暦) |
三村氏の動向 |
鶴首城の状況(城主:三村親成) |
周辺勢力(毛利・宇喜多・織田)の動向 |
永禄9年 (1566) |
2月、三村家親が宇喜多直家の謀略で暗殺される。元親が家督を継ぐ。 |
親成が城主として元親を補佐。 |
宇喜多氏と三村氏の対立が激化。 |
永禄10年 (1567) |
明禅寺合戦で宇喜多軍に大敗。 |
- |
宇喜多氏が備前での地歩を固める。 |
元亀2年 (1571) |
毛利氏の加勢を得て、一時宇喜多方に奪われた備中松山城を奪回。 |
- |
毛利氏と宇喜多氏は敵対関係。 |
天正2年 (1574) |
11月、毛利氏から離反し、織田信長と結ぶ。元親と親成の対立が表面化。 |
親成は元親の方針に反対し、毛利氏へ内通。 |
毛利氏と宇喜多氏が和睦。毛利氏が三村氏討伐を決定し、備中へ侵攻。 |
天正3年 (1575) |
1月、鶴首城が開城。6月、備中松山城が落城し、元親は自害。戦国大名三村氏が滅亡。 |
毛利軍の侵攻に対し、戦闘なく開城。乱後、親成が城主として再び安堵される。 |
毛利軍が備中を制圧。 |
鶴首城は、その縄張り(城の設計)に、戦国時代後期の緊迫した軍事情勢と、それに対応するための高度な築城思想が見て取れる、極めて優れた山城である。
鶴首城は、鶴首山の複雑な地形を巧みに利用して築かれた連郭式山城である 2 。城は大きく三つのブロックから構成される。一つは、山頂の最高所に位置し、城の中枢をなす「主郭部」。二つ目は、主郭部から北東に伸びる尾根上に築かれ、城の正面を守る「出丸(二の丸)」。そして三つ目は、北側の山腹に突出して設けられ、麓を監視する「太鼓丸」である 1 。
城の中心である主郭部は、複数の曲輪が階段状に配置された緻密な構造を持つ。最高所に位置する「一ノ壇」(主郭)は、東西約33メートル、南北約23メートルの不定形な六角形をなし、広さは約700平方メートルに及ぶ 2 。その周囲には、現在も低い土塁の跡が確認できる 2 。この一ノ壇を取り巻くように、一段低い位置に「二ノ壇」が配され、さらに南側の尾根筋に沿って「三ノ壇」「四ノ壇」「五ノ壇」と、規模の小さな曲輪が連続して築かれている 2 。これらの曲輪の縁は、野面積みと呼ばれる自然石をあまり加工せずに積み上げた低い石垣(石積み)で補強されており、戦国期の山城の特徴をよく示している 1 。
主郭部への入り口である虎口(城門)は、二ノ壇の東側に設けられていた 1 。現地では「虎ノ口」と表記されているこの場所は、敵が直進できないように通路を折り曲げた枡形構造をしていた可能性が指摘されている 1 。この付近から数多くの瓦片が出土していることから、かつては瓦葺きの立派な門や櫓などの建物が存在していたことが推測される 2 。
鶴首城の防御思想を最も雄弁に物語るのが、城の斜面に施された先進的な防御施設である。主郭部の南西端は、尾根を深く断ち切る二条の堀切によって厳重に遮断され、背後からの敵の侵入を阻んでいる 1 。
そして、特筆すべきは、城の西側および東側の急斜面に無数に掘られた「畝状竪堀群」である 1 。これは、斜面を垂直に掘り下げた溝(竪堀)を、畑の畝のように何本も並べたもので、大軍で押し寄せる敵兵が斜面を横方向に移動するのを妨害し、動きを拘束するための、戦国時代後期に発達した防御技術である。特に西側の竪堀群は約70メートルにも及ぶ長大なものであり、その規模と構造は圧巻である 1 。このような高度な防御施設の存在は、鶴首城が単なる中世の砦ではなく、毛利氏や宇喜多氏といった大勢力による本格的な力攻めを想定して、当時の最新技術で徹底的に武装された「戦国要塞」であったことを示している。城の複雑な縄張り、とりわけこの畝状竪堀群は、三村氏が感じていた軍事的圧力の大きさの、まさに物理的な証拠なのである。
城の防御を補完する付属施設も巧みに配置されていた。登城道の途中に位置する「太鼓丸」は、北に突出した三角形の小さな曲輪である 2 。眼下に成羽の町並みや街道を一望できる絶好の場所にあり、平時は物見櫓として、戦時には太鼓を打ち鳴らして城内外に合図を送るための拠点であったと推定される 2 。
また、籠城戦において生命線となる水の確保にも配慮が見られる。主郭部の五ノ壇に残る大きな窪みは井戸の跡である可能性が指摘されているほか 2 、城から南西へ約1キロメートル離れた地点には「武士の池」と呼ばれる非常用の水源池が存在したと伝えられている 24 。
戦国大名三村氏の滅亡後も、鶴首城は備中の要衝としてしばらくその命脈を保ったが、やがて時代の大きなうねりの中で、その歴史的役割を終える時が来る。
天正3年(1575年)の備中兵乱後、鶴首城は毛利氏の支配下に置かれ、三村親成が城主を務めた。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍の総大将として敗北し、防長二国に減封されると、備中の支配体制は一変する。戦いの功績により、岡家俊が成羽の地で7千石を与えられ、鶴首城に入城した 2 。
しかし、岡氏の支配も長くは続かなかった。慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発すると、家俊の長男である岡平内が豊臣方(大坂方)に味方してしまう 5 。翌年、大坂城が落城し徳川方の勝利が確定すると、この責任を問われた家俊は切腹を命じられ、岡氏は改易。鶴首城は再び城主を失うこととなった 5 。
元和3年(1617年)、因幡国若桜鬼ヶ城から山崎家治が成羽に移封され、成羽藩が成立した 5 。しかし、家治は戦国の遺物である険しい山城の鶴首城に入ることを選ばなかった。徳川幕府による泰平の世が訪れ、武士の役割が軍事から統治(行政・経済)へと大きく変化していたからである。家治は、統治に便利な鶴首山の麓に、政庁兼居館として新たに「成羽陣屋」を築いた 5 。
この鶴首城(山城)の放棄と成羽陣屋(麓の館)の建設は、単なる拠点の移動ではなく、「戦乱の世」から「泰平の世」への時代の大きな転換を象徴する出来事であった。防御拠点としての価値を失った山城は、元和元年(1615年)に幕府が発布した一国一城令という政策も相まって、不要な存在となったのである。鶴首城の主郭部に見られる石垣が意図的に崩された痕跡は、この時期に公式な命令によって破城が行われたことを物語っている 6 。
こうして鶴首城はその歴史的使命を終え、廃城となった。一方で、麓に築かれた成羽陣屋は、後に交代寄合となった山崎氏によって、陣屋とは思えぬほど壮麗で堅固な石垣が築かれ、近世成羽における政治・経済の中心地として機能し続けた 5 。現在の高梁市成羽美術館と成羽小学校の敷地に残る見事な石垣は、その名残である 5 。山頂に静まる廃城と、麓に息づく陣屋跡。この二つの史跡は、日本の社会構造が軍事優先から政治・経済優先へと移行した歴史の断層を、現代に明確に伝えている。
表2:鶴首城(山城)と成羽陣屋(麓の居館)の比較
比較項目 |
鶴首城 |
成羽陣屋 |
立地 |
鶴首山 山頂(標高338m) |
鶴首山 山麓 |
築かれた時代 |
伝承:平安時代末期/実質:戦国時代 |
江戸時代初期(元和3年以降) |
主な機能 |
軍事防衛、籠城拠点 |
政治、行政、領主の居館 |
構造的特徴 |
高い防御性(急峻な地形、堀切、畝状竪堀、石垣) |
政庁・居館機能(御殿、役所)、壮麗な石垣(権威の象徴) |
主な城主/領主 |
三村氏、岡氏 |
山崎氏(成羽藩主、のち交代寄合) |
歴史的役割 |
戦国乱世における備中の軍事拠点 |
徳川泰平の世における成羽の統治拠点 |
廃城から約400年の時を経て、鶴首城跡は今、歴史を愛する人々を迎える貴重な史跡としてその姿をとどめている。地元有志「鶴首城址へ登ろう会」などの手によって登山道は整備され、曲輪、堀切、石垣といった戦国時代の遺構が良好な状態で保存されている 1 。登城口の公園には、縄張り図の入ったポストや杖が用意されるなど、訪れる人々への温かい配慮も見られる 26 。
この城跡を訪れた際に、特に注目すべき見どころは、本報告書でも詳述した、城の歴史と防御思想を最も色濃く体感できる遺構群である。山頂部に階段状に連なる主郭部の曲輪群は、三村氏の拠点としての威容を偲ばせる。主郭部南西の尾根を断ち切る壮大な二重の堀切は、戦国山城の厳しさを物語る。そして、西側斜面を埋め尽くす長大な畝状竪堀群は、三村氏が直面した軍事的脅威の大きさと、それに対抗しようとした当時の最新技術の粋を、何よりも雄弁に語りかけてくる 1 。
鶴首城の歴史をより深く理解するためには、山上の城跡だけでなく、麓に残る関連史跡を併せて巡ることが推奨される。麓の成羽美術館と成羽小学校に残る成羽陣屋の見事な石垣は、戦乱の時代の終焉と近世の幕開けを告げる。そして、成羽川の対岸に残る三村氏居館跡の土塁や井戸は、三村氏がこの地で過ごした平時の暮らしに思いを馳せさせてくれる 10 。これらを立体的に捉えることで、戦国から近世へと至る成羽の歴史のダイナミズムを肌で感じることができるであろう。
結論として、鶴首城は単なる石と土の遺構ではない。それは、備中の覇権を夢見た三村氏の栄光と挫折、巨大勢力の狭間で下された非情な選択、そして時代の大きなうねりの中で静かにその役目を終えていった歴史のすべてを、その山容の中に深く刻み込んだ、歴史の証人である。静寂に包まれた山頂に立ち、眼下に広がる成羽の町並みを眺める時、我々は風の音の中に、遠い昔の武士たちの声を聞くことができるかもしれない。