黒川城は蘆名氏の拠点。盛氏が二元防衛体制を築き、経済も発展。後継者問題で弱体化し、伊達政宗に奪われるも秀吉に没収。蒲生氏郷が七層天守の近世城郭鶴ヶ城へ大改修し、若松の礎を築いた。
日本の戦国時代史において、会津若松城、通称「鶴ヶ城」は幕末の悲劇の舞台として広く知られている。しかし、その前身である「黒川城」が、戦国時代の奥州において果たした枢要な役割については、必ずしも十分に理解されているとは言えない。本報告書は、黒川城を単なる会津若松城の原型として捉えるのではなく、戦国時代の南奥州における政治、軍事、そして経済の中心地として再評価することを目的とする。
黒川城の歴史は、中世的な「館」から戦国大名の拠点たる「城」へ、そして最終的には豊臣政権の威光を体現する「近世城郭」へと、時代の要請に応じて劇的な変容を遂げた。この変容の過程を丹念に追うことは、東北地方における戦国時代の終焉と近世の幕開けという、大きな歴史の転換点を象徴的に理解する上で不可欠である。
本報告書では、まず蘆名氏による築城以前の会津の権力構造を概観し、黒川城の誕生が持つ画期的な意味を明らかにする。次いで、蘆名氏の統治拠点としての機能、特にその最盛期に見られる独創的な防衛戦略と城下町の発展について深く掘り下げる。さらに、蘆名氏の衰退から伊達政宗による奪取、そして蒲生氏郷による革命的な大改修まで、城をめぐる権力闘争とそれに伴う構造的変化を詳細に分析する。
物理的な構造変化の追跡にとどまらず、城が果たした政治的象徴性、城下町の経済的機能、そしてそれらが後世の会津文化に与えた深遠な影響までを射程に入れ、多角的な視点から戦国時代の黒川城の実像に迫る。
年代(西暦/和暦) |
城主/関連人物 |
主要な出来事 |
城の状況/名称 |
1384年(至徳元年) |
蘆名直盛 |
東黒川館を創営 1 |
東黒川館(館) |
1560年代 |
蘆名盛氏 |
向羽黒山城を築城、二元防衛体制を確立 2 |
黒川城(政庁) |
1576年(天正4年) |
蘆名盛氏 |
大商人・簗田氏に特権を与えるなど城下経済を振興 3 |
黒川城(城下町発展) |
1589年(天正17年) |
伊達政宗 |
摺上原の戦いで蘆名氏を破り、入城 4 |
黒川城(伊達氏本拠) |
1590年(天正18年) |
蒲生氏郷 |
豊臣秀吉の命により91万石で入封 1 |
黒川城(蒲生氏入城) |
1592年(文禄元年) |
蒲生氏郷 |
近世城郭への大改修を開始 5 |
大改修開始 |
1593年(文禄2年) |
蒲生氏郷 |
七層天守が完成。地名を若松、城名を鶴ヶ城と改める 6 |
鶴ヶ城(近世城郭) |
1639年(寛永16年) |
加藤明成 |
地震で被災した天守を五層に改築 8 |
鶴ヶ城(五層化) |
黒川城の誕生は、単なる一武将による拠点構築という事象を超え、会津地方における支配の根源が、古くからの宗教的権威から中央政権を背景とした武家勢力へと完全に移行したことを示す、画期的な出来事であった。
12世紀の会津地方は、特定の武家による恒久的な支配が確立されておらず、磐梯山麓に広大な寺領と権威を誇った慧日寺が、実質的な支配者として君臨していた 10 。この寺院は平安時代初期、807年に高僧・徳一によって開かれた東北有数の古刹であり、平安時代末期には寺僧300、数千人ともいわれる僧兵を擁する強大な勢力へと発展していた 12 。慧日寺は宗教的権威のみならず、会津の地を治める政治的・軍事的な中心でもあったのである。
しかし、その権勢は源平合戦の動乱の中で大きな転機を迎える。慧日寺は平氏方である越後の城氏と強い協力関係にあり、1181年の横田河原の戦いでは、木曽義仲の軍勢に対して衆徒頭の乗丹坊を筆頭とする大軍を派遣した 14 。この戦いでの敗北は、城氏の没落と共に慧日寺の軍事力を著しく削ぎ、その政治的影響力を急速に衰退させる決定的な要因となった 13 。
この慧日寺の衰退は、会津に権力の空白を生み出した。そこへ、奥州合戦の戦功により源頼朝から会津の地を与えられたのが、鎌倉幕府の有力御家人である三浦氏の一族、佐原義連であった 2 。彼の子孫が後に蘆名氏を名乗り、会津の新たな支配者となる。蘆名氏による黒川城の築城は、まさにこの権力の移行、すなわち宗教勢力に代わって武家が会津の地を恒久的に支配する新時代の到来を、物理的な形で宣言する行為だったのである。
南北朝時代の至徳元年(1384年)、蘆名氏の第7代当主である蘆名直盛が、後の黒川城の直接的な起源となる「東黒川館」を創営した 1 。史料によっては「小田垣の館」とも呼ばれるこの施設は、会津盆地の南東、湯川がもたらした扇状地の小高い位置に築かれた 16 。この立地は、盆地全体を見渡し、水源を確保する上で戦略的に極めて有利な場所であった 17 。
創営当初の形態は、天守閣のような高層建築物を持たない、文字通りの「館」であったと推測されている 18 。それは戦闘に特化した要塞というよりは、むしろ政務を執り行うための居館としての性格が強いものであった。築城に際して、直盛が稲荷社に祈ったところ、狐の足跡を元に縄張りを決めることができたという伝説が残っており、この地に拠点を定めることの重要性を示唆している 19 。
この東黒川館は、いつしか「黒川城」または「小高木城」と呼ばれるようになり、遅くとも15世紀半ばまでには、その周りに城下町が形成され始めていたことが確認されている 4 。応永26年(1419年)の史料には、蘆名氏を「黒川」と称している記述が見られ、この頃には黒川城が蘆名氏の政治的中心地として広く認識されていたことがうかがえる 20 。こうして、宗教勢力の旧権威に代わり、黒川城は武家支配の象徴として、会津の歴史の新たな中心に据えられたのである。
蘆名氏の統治下で、黒川城は単なる居館から南奥州の政治・経済を動かす一大拠点へと発展した。特に第16代当主・蘆名盛氏の時代には、その機能は高度化し、先進的な防衛思想と活発な経済活動が城と城下町を特徴づけていた。
蘆名盛氏は、武田信玄や上杉謙信といった戦国時代の巨星たちと同時代に、巧みな外交手腕と確かな軍事力をもって蘆名氏の最大版図を築き上げた傑物である 2 。彼の治世において、黒川城は名実ともに南奥州の覇者の居城となり、その権威は周辺諸大名に広く轟いた 21 。
この時代、黒川城は蘆名氏の政庁として、領国経営の中枢を担っていた。各地に所領を持つ重臣たちが城下に屋敷を構えて集住し、ここから領内全域に指令が発せられた 20 。黒川城は、蘆名氏の権力を維持し、行使するための政治的装置として機能していたのである。
蘆名盛氏の戦略思想の独創性を最もよく示しているのが、黒川城と「向羽黒山城」との関係性である。平地に位置し、政務や経済活動に利便性の高い黒川城に対し、盛氏は南西約6キロメートルの岩崎山に、8年もの歳月をかけて堅固な山城である向羽黒山城を築いた 15 。
向羽黒山城は、盛氏が家督を譲った後に移り住んだことから「隠居城」とも呼ばれるが、その実態は単なる隠居所や、籠城専用の「詰城」ではなかった 2 。専門家の分析によれば、この城は有事の際に蘆名軍の総司令部となる「本城」であり、南の下野方面や西の越後方面からの敵の侵攻を食い止めるための、極めて攻撃的な役割を担う最前線基地であった 2 。
ここに、蘆名盛氏が構築した先進的な「二元防衛体制」を見ることができる。すなわち、平時の「政庁・経済都市」としての機能を持つ黒川城と、有事の「軍事司令部」としての機能を持つ向羽黒山城を明確に分離し、かつ有機的に連携させるという高度な防衛システムである。平城の利便性と山城の堅固さ、双方の長所を最大限に活かすこの構想は、常に周辺勢力との緊張関係にあった会津の地政学的状況を的確に反映した、合理的かつ卓越した戦略であった。この防衛体制の有効性は、後に会津を支配した伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝といった名将たちが、例外なく向羽黒山城の戦略的価値を高く評価し、それぞれ改修を加えていることからも証明されている 2 。
蘆名氏の統治、特に盛氏の時代において、黒川城下は目覚ましい経済的発展を遂げた。文明13年(1481年)の史料にはすでに「黒川町・大町」といった町名が見え、城下町の形成が進行していたことがわかる 20 。さらに大永年間(1521年~1528年)には「馬場町」「南町」「宇都宮町」などが火災に見舞われた記録があり、町割りが進展し、多くの人々が暮らす都市へと成長していた様子がうかがえる 20 。
盛氏は、この城下町の経済をさらに活性化させるため、積極的な政策を打ち出した。永禄3年(1560年)には会津領内で初となる徳政令を施行し、金融の円滑化を図った 3 。さらに永禄10年(1567年)には、通貨として永楽銭の通用を公認し、商取引の基盤を整備した 3 。
特筆すべきは、商人との関係である。天正4年(1576年)、盛氏は黒川の大商人であった簗田氏に対し、商品の輸送費(駄賃)や商品への課税に関する規定を与えている 3 。これは、領主が商人を統制するだけでなく、その経済活動を保護・活用することで領国全体の富を増大させようとする、先進的な経済政策の一環であった。弘治元年(1555年)の大火では蔵が100棟も焼失したという記録もあり、黒川城下が多くの商人が集まる物流の拠点として繁栄していたことを物語っている 20 。これらの政策は、後の蒲生氏郷による楽市楽座の導入に先駆けるものであり、黒川城下が東北有数の経済都市へと発展する礎を築いたのである。
蘆名盛氏が築き上げた栄華は、彼の死後、深刻な後継者問題によって大きく揺らぐこととなる。この内政の不安定化は、奥州の覇権を狙う伊達政宗にとって絶好の機会となり、やがて黒川城をめぐる一大決戦へと発展していく。
蘆名氏の悲劇は、盛氏の後継者が次々と早世したことに始まる。嫡男の盛興、そして二階堂氏から養子に迎えた盛隆が相次いで死去し、名門蘆名氏は断絶の危機に瀕した 23 。この家督相続を巡る争いは、単なる一族内の問題にとどまらなかった。それは、南奥州の戦略的要衝である会津を自らの影響下に置こうとする、二大勢力、すなわち伊達氏と佐竹氏による熾烈な「代理戦争」の様相を呈したのである。
跡継ぎ候補として、伊達政宗は実弟の伊達小次郎を、一方の佐竹義重は次男の義広を強力に推挙した 23 。蘆名家中の重臣たちは伊達派と佐竹派に二分され、激しい政治闘争を繰り広げた。最終的に、佐竹氏との関係を重視する勢力が勝利を収め、佐竹義広が蘆名義広として第20代当主の座に就いた 23 。
この決定は、勢力拡大を目指す伊達政宗にとって、到底容認できるものではなかった。蘆名氏が事実上、宿敵である佐竹氏の衛星勢力と化したことは、伊達氏の安全保障を根底から脅かす事態を意味した。政宗から見れば、会津はもはや対話の余地なき敵性国家となり、武力による現状の打破以外の選択肢は失われた。蘆名家内部の対立と、新当主となった義広の求心力の低さは、政宗に介入のための完璧な口実と機会を与えることになったのである。
天正17年(1589年)6月、伊達政宗は、豊臣秀吉が発令した惣無事令(大名間の私闘を禁じる命令)を公然と無視し、会津への全面侵攻を開始した 4 。この大胆な軍事行動の背景には、周到な調略があった。決戦に先立ち、政宗は蘆名方の重要拠点である猪苗代城の城主、猪苗代盛国に内通を働きかけていたのである 25 。盛国は、目前に迫る伊達の大軍を前に、主家を裏切り政宗に寝返ることを決断した 23 。
この猪苗代氏の離反は、蘆名家中がもはや一枚岩ではないことを象徴する出来事であり、戦局を決定づける極めて重要な一手となった。蘆名軍は、背後の安全を脅かされ、動揺したまま決戦の地へと向かうことを余儀なくされた。
両軍は、磐梯山の麓、猪苗代湖の北に広がる摺上原で激突した。猪苗代氏の内通によって戦意と結束を欠いた蘆名軍は、政宗率いる伊達軍の猛攻の前に総崩れとなった。この圧勝を受け、当主・蘆名義広は抵抗を諦め、居城である黒川城を放棄して実家である常陸の佐竹氏のもとへと逃走した 4 。これにより、鎌倉時代から約400年にわたり会津を治めた戦国大名蘆名氏は、ここに滅亡したのである 2 。黒川城は、新たな主として独眼竜・伊達政宗を迎えることとなった。
摺上原の戦いに勝利し、長年の宿願であった黒川城を手中に収めた伊達政宗。しかし、彼の会津統治は、天下統一を目前にした豊臣秀吉という巨大な権力の前に、わずか1年で終焉を迎える。政宗にとって黒川城は、その野望の頂点と、時代の大きな奔流の前での挫折の両方を象徴する場所となった。
天正17年(1589年)、摺上原での勝利の後、伊達政宗は意気揚々と黒川城に入城した 1 。そして、父祖伝来の本拠地であった米沢城から、この黒川城へと拠点を移すという重大な決断を下した 4 。この本拠地移転は、単なる居城の変更ではない。それは、政宗が自らを南奥州の新たな覇者として内外に宣言し、会津の地を基盤としてさらなる飛躍を目指すという、彼の野心の現れであった。
入城後、政宗は会津支配を盤石なものとするため、抵抗勢力の掃討に乗り出した。特に、二階堂氏が守る須賀川城の攻略戦では、叔母である阿南姫の開城勧告を拒否した末に城を攻め落とし、その支配を確立していった 27 。この短い期間、黒川城はまさしく政宗の奥州経略の司令塔として機能したのである。
しかし、政宗の栄光は長くは続かなかった。彼の会津侵攻は、豊臣秀吉が定めた惣無事令に明確に違反する行為であった。天下統一事業の総仕上げとして関東の北条氏を攻めていた秀吉にとって、政宗の独断専行は中央政権の権威に対する許しがたい挑戦と映った。
天正18年(1590年)、北条氏滅亡後、小田原に遅れて参陣した政宗は、秀吉から厳しい詰問を受けることとなる 4 。死をも覚悟した政宗であったが、辛うじて許されたものの、その代償は大きかった。惣無事令違反の罪として、苦心の末に手に入れた会津領はすべて没収され、旧来の領地へと押し戻されることになったのである 4 。
この決定により、政宗は黒川城を明け渡し、再び米沢へと帰還することを余儀なくされた。彼の会津統治は、わずか1年というあまりにも短い期間で幕を閉じた。この出来事は、もはや奥州という一地方の論理が通用しない、「天下」という新たな政治秩序が確立されたことを、政宗自身、そして奥州の諸大名に痛感させるものであった。黒川城の城主が、地方の覇者である伊達政宗から、豊臣政権の腹心である蒲生氏郷へと交代したことは、会津が伊達家の私領ではなく、中央政権の東北支配における戦略的拠点として再定義されたことを意味する、歴史の大きな転換点だったのである。
伊達政宗の退去後、豊臣秀吉の命により会津の新たな領主となった蒲生氏郷は、この地に革命的な変化をもたらした。彼は、蘆名氏以来の中世的な城郭であった黒川城を、壮麗な天守と堅固な石垣を持つ最新鋭の「近世城郭」へと生まれ変わらせ、同時に城下町「若松」の原型を創造した。氏郷の事業は、単なる改築にとどまらず、会津の都市構造と文化のアイデンティティそのものを刷新する、壮大なプロジェクトであった。
比較項目 |
蘆名時代「黒川城」 |
蒲生時代「鶴ヶ城」 |
全体構想 |
中世的な平山城。有事には山城「向羽黒山城」と連携 2 |
豊臣系の近世城郭。城単体で高い防御力と政治的権威を誇る 17 |
天守 |
なし(館・御殿が中心) 18 |
望楼型七層の壮麗な天守。金箔瓦を使用 5 |
石垣 |
一部で使用されるが、基本は土塁が中心 |
専門技術者集団「穴太衆」による高く堅固な野面積みの石垣 18 |
防御施設 |
比較的単純な堀と土塁 |
複数の枡形虎口、出丸などを備えた複雑で厳重な縄張り 17 |
城下町 |
武士と町人が混住する自然発生的な町 20 |
武家地・町人地を分離した計画的な「町割り」。楽市楽座を導入 29 |
象徴性 |
蘆名氏の地域支配の拠点 |
豊臣政権の権威と蒲生氏の財力を示す、東北支配の象徴 |
天正18年(1590年)、蒲生氏郷は、伊達政宗への強力な抑えとして、また東北地方における豊臣政権の代行者として、実に91万石余りという破格の所領をもって会津に入封した 1 。織田信長に見出され、その娘を娶った氏郷は、文武両道に優れた当代一流の武将であった 31 。
会津に入った氏郷は、直ちに黒川城の大規模な改修計画に着手した。文禄元年(1592年)から本格的な工事が始まり、蘆名氏時代の面影をほとんど残さない、蒲生流の縄張りによる全く新しい近世城郭へと作り変えられていった 5 。
氏郷の改革は、城の物理的な構造にとどまらなかった。文禄2年(1593年)、彼は城の完成に合わせ、この地の名称を「黒川」から「若松」へと改めた 1 。この名は、氏郷の故郷である近江日野にある「若松の森」に由来する 33 。さらに、城の名前も、自身の幼名「鶴千代」と蒲生家の家紋である舞鶴にちなんで「鶴ヶ城」と命名した 6 。
これらの改名は、単なる名称変更以上の、極めて高度な政治的意図を含んでいた。それは、蘆名氏以来数百年にわたってこの地に根付いてきた旧体制の記憶を払拭し、会津が蒲生氏、ひいては豊臣政権の支配下にある新たな土地として生まれ変わったことを、領民に強く印象付けるための象徴的な行為であった。物理的な城の改築と並行して行われたこの「心理的な支配」の確立は、旧領主への思慕を断ち切り、新たな統治体制を円滑に浸透させる上で不可欠な作業だったのである。
氏郷が築いた鶴ヶ城の最大の特徴は、その壮麗な七層天守であった 6 。当時、東北地方においてこれほどの規模と高さを誇る天守は他になく、その威容は豊臣政権の絶大な権力と蒲生氏の財力を奥州全土に示すに十分なものであった。
近年の発掘調査では、天守に使用されたとみられる金箔を貼った瓦が出土しており、その豪華絢爛な姿を裏付けている 5 。金箔瓦の使用は、大坂城や聚楽第など、豊臣秀吉ゆかりの城郭に共通する特徴であり、鶴ヶ城が豊臣系城郭の様式を色濃く受け継いでいたことを示している。
城の防御の要である石垣の構築には、氏郷が故郷の近江から専門の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」を招聘した 18 。彼らは自然の石を巧みに組み合わせる「野面積み」という技法を用いて、高く、そして崩れにくい堅固な石垣を築き上げた 28 。現在も残る天守台の石垣は、この蒲生時代のものであり、400年以上の時を超えてその卓越した技術を今に伝えている 35 。
蒲生氏郷の真価は、城郭建築のみならず、城を中心とした都市全体の設計、すなわち「町割り」において遺憾なく発揮された。彼は、蘆名時代に見られた武士と町人が混住する中世的な都市構造を完全に解体し、近世的な理念に基づいた計画都市を創造したのである。
氏郷の町割りは、城の外堀を境として、内側に武家屋敷を、外側に商人や職人の居住区を配置するという、身分による明確なゾーニングを特徴とする 29 。これにより、城の防御機能と都市の生活・経済機能が合理的に分離・整理された。さらに、旧領の近江日野や伊勢松坂から優れた商工業者を積極的に招聘し、「日野町」といった新たな商業地区を形成させ、城下町の経済的な中核を担わせた 33 。
経済政策においても、氏郷は師である織田信長から学んだ「楽市楽座」を導入し、自由な商取引を奨励して城下の活気を生み出した 30 。また、会津漆器に代表される地場産業の育成にも力を注ぎ、技術者を呼び寄せてその発展を後押しした 29 。氏郷が築いたこの都市構造と産業基盤は、その後の会津藩の繁栄の礎となり、現代の会津若松市の骨格と文化にまで深く受け継がれている。彼は単に城を築いたのではなく、軍事、政治、経済が一体となった持続可能な「都市」そのものを設計したのである。
黒川城の歴史は、蘆名氏が礎を築き、伊達政宗が束の間の夢を追い、そして蒲生氏郷が近世の扉を開いた、奥州における激動の戦国時代を凝縮した物語である。その変遷は、東北地方における中世から近世への移行期という、時代の大きなうねりそのものを体現している。
蘆名氏の統治下で、黒川城は地方の独立権力の拠点として発展した。蘆名盛氏が構築した向羽黒山城との「二元防衛体制」は、地域の実情に根差した独創的な戦略思想の到達点であった。しかし、その後の伊達政宗による侵攻と、豊臣秀吉による会津没収は、もはや地方の論理だけでは存続し得ない、中央集権化という不可逆的な時代の流れを象徴する出来事であった。
この歴史的転換点において、黒川城を近世城郭「鶴ヶ城」へと昇華させたのが蒲生氏郷であった。彼がもたらした壮麗な天守、堅固な石垣、そして計画的な城下町は、単なる建築技術の革新ではない。それは、豊臣政権の権威を東北に示すという明確な政治的意図に基づき、軍事・政治・経済の機能を統合した、全く新しい都市理念の導入であった。氏郷によって創造された「若松」の都市構造と産業基盤は、その後の上杉氏、加藤氏、そして江戸時代を通じて会津を治めた松平氏へと継承された。加藤明成による天守の五層への改築など、部分的な改修はあったものの、その基本的な骨格は幕末の戊辰戦争に至るまで、会津の政治・文化の中心としての役割を担い続けた 8 。
今日、会津若松市に見られる歴史的な町並みや、会津漆器に代表される伝統産業の多くは、蒲生氏郷の時代にその基礎が築かれたものである。黒川城の歴史は、石垣や史跡として物理的に残るだけでなく、現代に生きる人々の暮らしと文化の中に、今なお脈々と受け継がれている。それは、戦国という時代の荒波を乗り越え、会津の地が近世、そして近代へと歩みを進めるための確固たる礎となった、不朽の遺産なのである。