最終更新日 2025-07-15

三木国綱

三木国綱は神官から武将となり、姉小路頼綱の妹婿。金森長近の飛騨侵攻に対し「三沢の乱」を首謀し、山下城で戦死した。
三木国綱

飛騨の神官、乱世に散る ― 三木国綱の生涯と三沢の乱の真相

序章:飛騨の神官から戦国の武将へ

戦国乱世の最終盤、天下統一の奔流が列島を席巻する中、その波は日本の屋根とも称される山深き飛騨国にも容赦なく押し寄せました。この激動の時代、飛騨の歴史にその名を刻みながらも、悲劇的な最期を遂げた一人の人物がいます。その名は、三木国綱(みつき くにつな)。彼の生涯は、単なる一地方武将の興亡に留まらず、神に仕える「神官」から、人を斬る「武将」へ、そして新時代の支配者に弓を引く「反逆者」へと、その立場を劇的に変転させた、極めて特異な軌跡を辿ります 1

天文15年(1546年)に生を受け、天正13年(1585年)にその生涯を閉じた三木国綱 1 。彼の人生は、飛騨一国を舞台としながらも、織田信長、豊臣秀吉といった中央の天下人の動向と密接に連動していました。主君・姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)の妹婿として一門に連なり、その覇業を支えながらも、やがては時代の奔流に呑み込まれ、旧主の再興を賭けて決起し、そして散っていきました。

本報告書は、三木国綱という人物の生涯を、断片的な伝承や記録を丹念に繋ぎ合わせることで、多角的に再構築することを目的とします。彼の出自である神官という立場がその後の人生に与えた影響、飛騨の支配者・姉小路氏との関係、豊臣秀吉の天下統一事業の一環として行われた金森長近(かなもり ながちか)の飛騨侵攻、そして彼の最後の抵抗となった「三沢の乱」の真相に至るまで、あらゆる事績を徹底的に掘り下げます。国綱の生涯を追うことは、戦国末期から安土桃山時代にかけての中央集権化の波が、飛騨という辺境の地にいかなる影響を及ぼし、そこに生きた人々の運命をどう変えたのかを解明する、重要な鍵となるでありましょう。

第一章:三木国綱の出自と姉小路家への仕官

三木国綱の生涯を理解する上で、その原点である「神官」としての出自は決定的に重要です。彼が武将となる以前に有していた精神的な権威と人望こそが、飛騨の戦国大名・姉小路頼綱の目に留まり、彼を歴史の表舞台へと引き上げる要因となったからです。本章では、国綱が武士道に足を踏み入れるまでの経緯を、その背景と共に詳述します。

表1:三木国綱関連 年表

西暦/和暦

三木国綱の動向

飛騨国内の動向

日本国内の主要な出来事

1546年(天文15年)

飛騨一宮水無神社の神官一族に生まれる 1

三木氏(後の姉小路氏)が勢力を拡大。

1558年(弘治4年/永禄元年)

三木良頼・自綱(頼綱)親子が叙任。広瀬氏と結び高山氏らを滅ぼす 3

1560年(永禄3年)

三木氏が「姉小路」姓を名乗る 3

桶狭間の戦い。

1572年(元亀3年)

姉小路頼綱が家督を継承 3

武田信玄が西上作戦を開始。

1577年(天正5年)

姉小路頼綱の妹を娶り、武将となる。山下城を築城 1

1578年(天正6年)

姉小路頼綱の織田家接近に際し、謀臣として進言したとされる 5

姉小路氏が織田信長に接近。

上杉謙信が急死(御館の乱)。

1579年(天正7年)

姉小路頼綱、本拠を松倉城に移し、嫡男・信綱を誅殺 3

1582年(天正10年)

八日町の戦いで姉小路頼綱が江馬輝盛を討ち、飛騨をほぼ統一 3

本能寺の変。清洲会議。

1583年(天正11年)

姉小路頼綱、実弟・鍋山顕綱を誅殺 3

賤ヶ岳の戦い。

1585年(天正13年)

8月 : 金森長近の飛騨侵攻に対し、松倉城に籠城。落城後、逃亡・潜伏 1

姉小路氏が佐々成政と結び、豊臣秀吉と敵対 7 。金森軍に敗れ、姉小路氏は滅亡。

豊臣秀吉、関白に就任。富山の役(佐々成政征伐)。

1585年(天正13年)

閏8月16-17日 : 「三沢の乱」を首謀。山下城を攻めるも敗れ、戦死。享年40 1

金森長近が飛騨国主となる。

第一節:飛騨一宮水無神社の神官一族

三木国綱は、天文15年(1546年)、飛騨国一宮である水無神社(みなしじんじゃ)の神官を務める一族に生を受けました 1 。彼の名は「一宮国綱」とも記されることがあり、その出自が彼のアイデンティティと深く結びついていたことを示しています 1

水無神社は、飛騨国の歴史と信仰の中心にあり続けた極めて格式の高い神社です。その神体山は、日本列島の太平洋側と日本海側への分水嶺に位置する霊峰・位山(くらいやま)であり、古来より飛騨川と神通川の水源を司る「水主(みなし)の神」として、飛騨一円の篤い崇敬を集めていました 10 。主祭神として祀られる御歳大神(みとしのおおかみ)は、五穀豊穣を司る農業神であり、山国である飛騨の民衆の生活に密着した、身近で重要な存在でした 13 。このような由緒ある神社の神官であった国綱は、家職を継ぎ、その敬虔な奉職ぶりから、領民に広く慕われていたと伝えられています 2 。この人望は、単に国綱個人の資質によるものだけでなく、水無神社そのものが飛騨社会において有していた絶大な精神的権威を背景としていたことは想像に難くありません。

彼の武将への転身は、単なる個人の職業選択として捉えるべきではありません。それは、戦国乱世という特殊な状況下で、神聖な領域に属する宗教的権威が、いかにして世俗の政治権力に取り込まれ、その構造を変質させていったかを示す、一つの象徴的な出来事であったと言えます。神に仕え、民の安寧を祈ることを本分とする神官が、人の命を奪うことを是とする武士の道を選ぶという決断は、極めて重いものであったはずです。その背後には、次節で詳述する姉小路氏からの抗いがたい圧力があったことは確かですが、同時に、戦乱が激化する中で神社の権威だけでは民の生活を守りきれないという、国綱自身の痛切な現実認識があった可能性も考えられます 2 。彼の選択は、宗教と権力の関係性が大きく揺れ動いた時代の縮図でもあったのです。

第二節:姉小路頼綱との邂逅と婚姻

国綱が仕えることになった姉小路頼綱(当時は三木自綱)は、飛騨国守護・京極氏の家臣であった三木氏の出身で、実力でのし上がった戦国大名でした 3 。彼は、飛騨国司という伝統的な権威を持つ名門「姉小路」の名跡を継承し、朝廷への工作を通じて官位を得るなど、自らの権力の正統性を補強することに腐心していました 3 。しかし、下剋上によって成り上がった彼の支配基盤は、必ずしも盤石なものではありませんでした。

そこで頼綱が着目したのが、水無神社の神官として飛騨の民から絶大な信頼を得ていた国綱の存在でした 2 。頼綱は、武力だけでなく、国綱が持つ「人望」という無形の力を自陣営に取り込むことで、人心を掌握し、領国経営を安定させることを目論んだのです。これは、武力一辺倒ではない、戦国後期の洗練された領国経営術の一端を示すものであり、頼綱が単なる武人ではなく、権威の構造を理解し、それを巧みに利用する知略に長けた大名であったことを物語っています。

その具体的な手段が、自身の妹を国綱に娶らせ、娘婿として一門に迎え入れるというものでした 1 。これは、単なる主従関係を超え、血縁という強固な絆によって国綱を自らの体制に組み込むための、極めて戦略的な一手でした。この婚姻に際し、国綱は姉小路氏がかつて名乗っていた旧姓である「三木」姓と、頼綱ら兄弟に共通する通字(諱の一字)である「綱」の字を与えられます 2 。さらに、「刑部大輔(ぎょうぶのたゆう)」という官途名を名乗ることを許されました 1 。刑部とは、律令制における司法・警察を司る官職であり、その名を冠することは、彼が姉小路家の一門衆として、国家の秩序維持を担うにふさわしい重要人物と位置づけられたことを内外に示す、高度な政治的演出でした。

この縁談に対し、国綱は深く苦悩したであろうことは想像に難くありません。しかし、これを断れば主君・頼綱の心証を損ない、水無神社やそれに連なる領民に災いが及ぶことを危惧したと考えられます。むしろ、自らが領主の一員となることで、民の暮らしを安んじることができるのではないか。そう考えた国綱は、ついに武士となる道を選びます 2 。その際、神官の職は一族の森氏に譲り、万が一自らの身に何かあっても神社に累が及ばないよう配慮したとされています 1 。この配慮からも、彼の決断の根底に、神官としての民への責任感があったことが窺えます。

第三節:姉小路家の謀臣として

武将となった三木国綱は、姉小路氏の体制下で重要な役割を担うことになります。天正5年(1577年)、彼は水無神社にも近い、高山盆地の南方に山下城を築き、自らの居城としました 1 。この城は、姉小路領の南方防衛の要となる拠点でした。

山下城の立地は、姉小路氏の防衛戦略を理解する上で非常に示唆に富んでいます。この城は、主君・頼綱が本拠とした松倉城と、狼煙(のろし)によって直接連絡が可能な位置にありました 1 。松倉城は標高856.7メートルという高地に築かれ、織豊系の高石垣を多用した、当時の飛騨では最新鋭の難攻不落の山城でした 18 。国綱の山下城は、この主城と連携して機能する支城ネットワークの一翼を担い、姉小路氏の領国支配を軍事的に支える重要な存在だったのです。

国綱の役割は、単なる一城主、一軍事指揮官に留まらなかった可能性が指摘されています。天正6年(1578年)、北の強国・越後の上杉謙信が急死し、上杉家が後継者争い(御館の乱)で弱体化すると、頼綱はこれまで対立と従属を繰り返してきた上杉氏を見限り、中央で勢力を拡大する織田信長との同盟に大きく舵を切ります。この姉小路家の命運を左右する重要な外交方針の転換に際し、頼綱は国綱に意見を求め、国綱は織田方につくことを進言した、という逸話が伝えられています 5

この逸話の真偽を確定することは困難ですが、もし事実であれば、国綱が単なる縁戚の武将ではなく、姉小路家の外交・軍事戦略の決定に深く関与する「謀臣(ぼうしん)」、すなわち参謀として、主君から厚い信頼を寄せられていたことを示唆します。神官として都の文化や中央の情勢に触れる機会があったとすれば、彼が周辺大国の動向に明るかったとしても不思議ではありません。頼綱は、国綱の持つ在地社会での人望(内政面での価値)だけでなく、その情報収集能力や冷静な分析力(外交面での価値)をも高く評価していたのではないでしょうか。国綱は、姉小路氏という地方権力が、中央の激動に対応していく上での、重要なキーパーソンであったのかもしれません。

第二章:天正飛騨の乱 ― 金森長近の侵攻

三木国綱と彼の主君・姉小路頼綱の運命を決定づけたのは、天正13年(1585年)に起きた、豊臣秀吉の命による金森長近の飛騨侵攻でした。この戦いは、飛騨における戦国時代の終焉を告げるものであり、国綱の人生における最大の転換点となります。本章では、この「天正飛騨の乱」とも呼ばれる一連の戦いの背景と経過、そしてその中で国綱が辿った運命を詳述します。

第一節:背景 ― 秀吉の天下統一と佐々成政

天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺の変で横死すると、彼という巨大な権力の空白は、日本各地の政治情勢を再び流動化させました。飛騨国もその例外ではありません。信長の後ろ盾を得ていた姉小路頼綱は、この混乱を好機と捉え、かねてより対立していた北飛騨の雄・江馬輝盛を「八日町の戦い」で討ち滅ぼします 3 。さらに、自らの支配体制を固めるため、謀反の疑いをかけた実弟の鍋山顕綱をも粛清するなど、非情な手段を厭わず、天正11年(1583年)頃には飛騨一国のほぼ全域をその手中に収めました 3

しかし、この飛騨統一という頼綱の成功は、皮肉にも彼の命運を縮める結果となりました。中央では、信長の後継者争いを制した羽柴秀吉が天下人への道を突き進んでいました。これに対し、信長の旧臣であった越中の佐々成政は、秀吉への反抗姿勢を鮮明にします。地理的に隣接し、かつて信長のもとで北陸戦線を共に戦った経緯のある姉小路頼綱は、佐々成政と連携し、反秀吉陣営に加わりました 7 。これは、中央の巨大権力に飲み込まれることを良しとしない地方勢力にとって、独立を維持するための必然的な選択でした。

この動きに対し、秀吉の反応は迅速かつ苛烈でした。天正13年(1585年)、秀吉は10万ともいわれる大軍を率いて佐々成政の討伐(富山の役)を開始します。そして、その一環として、佐々の同盟者である姉小路氏の討伐を、配下の武将・金森長近に命じたのです 7 。頼綱が飛騨を統一したことで、彼は秀吉にとって飛騨における唯一の「敵」として明確に認識されることになりました。もし飛騨国内に複数の勢力が割拠したままであれば、秀吉は各個撃破や懐柔策など、別の手段を用いたかもしれません。頼綱の成功が、図らずも彼自身を滅亡へと導くことになったのです。

第二節:飛騨侵攻と松倉城の攻防

金森長近・可重父子が率いる討伐軍は、周到な準備のもと、二手に分かれて南北から飛騨へと侵攻しました 7 。この金森軍の勝利の鍵は、純粋な軍事力以上に、巧みな情報戦と在地勢力の活用にありました。軍の先導役を務めたのは、江馬時政、広瀬宗直、牛丸親綱といった、かつて姉小路頼綱によって滅ぼされたり、所領を追われたりした旧飛騨国人衆でした 3 。彼らは飛騨の地理や姉小路軍の内情に精通しており、金森軍にとってこれ以上ない案内人となりました。これは、敵の内部対立を利用するという、織田・豊臣政権下で洗練された近代的な戦術の現れでした。

姉小路軍は、頼綱の次男・秀綱が守る本城・松倉城に主力を集め、徹底抗戦の構えを見せます。三木国綱もこの籠城戦に参加したとされています 1 。松倉城は、前述の通り、標高850mを超える天然の要害に、当時最新鋭の石垣技術を駆使して築かれた堅城であり、容易に落とせる城ではありませんでした 19

激しい攻防が繰り広げられましたが、金森側の周到な調略が功を奏します。最終的に、城内の家臣が内応(裏切り)し、城内から火の手が上がったことが決定打となりました 18 。天正13年(1585年)閏8月6日、難攻不落を誇った松倉城は、内部から崩壊し、ついに落城します。主君・頼綱は、その後も高堂城に籠って抵抗を試みますが、衆寡敵せず、やがて降伏勧告を受け入れました 23

第三節:降伏と潜伏 ― 助命説の検討

松倉城が落城した後の三木国綱の動向については、史料によって記述が異なり、慎重な検討が必要です。

一つの説として、利用者様がご存知のように「捕縛された後に助命された」というものがあります。これは一部の二次資料や物語などで語られることがありますが、その直接的な根拠となる一次史料は確認が困難です。

一方、より多くの記録が示すのは、「落城時に城から逃れ、隠棲した」という説です 1 。この説は、その後の国綱の行動を考える上で、より説得力を持っています。主君である姉小路頼綱は、彼が公家である姉小路家の名跡を継いでいたことから、朝廷の権威を重んじる秀吉の意向により、特別に助命され、京都へ護送されました 3 。しかし、頼綱の一家臣に過ぎない国綱に、同様の破格の措置が取られたとは考えにくいのが実情です。

もし国綱が金森氏に捕縛され、監視下で助命されたのであれば、その直後に大規模な反乱の首謀者として自由に行動することは極めて困難であったはずです。彼が後の「三沢の乱」で、各地の牢人衆を糾合し、軍事行動を起こすことができたという事実を鑑みれば、彼は金森氏の支配が及ばない山中などに逃れ、再起の機会を窺っていた「逃亡潜伏者」であったと考える方が、歴史の展開として自然な流れと言えます。

「助命説」が生まれた背景には、主君・頼綱の運命と、その忠実な義弟であった国綱の運命が、後世の物語の中で混同され、ドラマティックに結びつけられた可能性が考えられます。しかし、史実としての彼の行動を追うならば、「逃亡・潜伏」説こそが、次章で詳述する彼の最後の戦いへの、論理的な布石となるのです。

第三章:三沢の乱 ― 旧領主の最後の抵抗

姉小路氏の滅亡からわずか二ヶ月後、飛騨の地は再び戦火に包まれます。金森氏の新たな支配に対し、三木国綱が首謀者となって起こした反乱、すなわち「三沢の乱」です。これは、失われた旧領と権威を取り戻そうとする、飛騨の旧勢力による最後の、そして絶望的な抵抗でした。本章では、この乱の背景、経過、そして結末を詳細に追い、その歴史的意味を分析します。

表2:三木国綱・三沢の乱 主要関係者一覧

人物名

出自・旧所属

乱における役割

結末

三木 国綱 (入道三沢)

水無神社神官 / 姉小路家

一揆の首謀者

山下城攻防戦にて戦死 1

金森 長近

織田家 / 豊臣家臣

鎮圧軍総大将

飛騨国主として統治を確立 7

金森 可重

金森長近の養子

鎮圧軍指揮官(山下城主)

山下城を防衛し、一揆勢を撃退 1

江馬 時政

(旧)江馬家

一揆の主要メンバー

姉小路氏に滅ぼされた一族の再興を目指し参加。乱で討死 1

鍋山 利高

(旧)鍋山家

一揆の主要メンバー

姉小路頼綱に滅ぼされた一族の再興を目指し参加。乱で討死 1

鍋山 右近大夫

(旧)鍋山家

一揆の主要メンバー

同上 1

広瀬 宗直

(旧)広瀬家

一揆の主要メンバー

金森軍の先導役を務めたが、論功行賞に不満を持ち参加。乱後、信濃へ逃亡し井伊氏に仕官 1

第一節:金森氏の飛騨統治と旧勢力の不満

飛騨国の新たな領主となった金森長近は、単なる武人ではありませんでした。彼は織田信長や豊臣秀吉のもとで、越前大野城の城下町建設などを通じて先進的な領国経営の手法を学んだ、優れた統治者でもありました 26 。長近は飛騨に入ると、すぐさま新たな支配体制の構築に着手します。

その政策の根幹をなしたのが、「太閤検地」の実施でした 27 。これは、秀吉が定めた全国統一の基準(統一された枡や測量竿)を用いて田畑を測量し、土地の生産力を米の量(石高)で表し、検地帳に登録された耕作者から直接年貢を徴収する画期的な制度でした 29 。これにより、土地と農民を一元的に把握し、効率的な徴税が可能となりました。しかし、この近代的で合理的なシステムは、それまで土地や農民に対して複雑な権益を持っていた在地領主たちの特権を、根底から覆すものでした。

さらに長近は、高山城と新たな城下町の建設を進め、商業や工業を振興し、飛騨の豊富な山林資源や鉱山を積極的に開発することで、藩の経済基盤を確立しようとしました 7 。これらの政策は、長期的には飛騨に安定と経済的発展をもたらすものでしたが、短期的には旧来の秩序を破壊するものでした。

姉小路氏の旧臣や、金森軍の先導役を務めたにもかかわらず十分な恩賞を得られなかった旧国人衆にとって、金森氏の支配は、先祖代々の土地と誇りを奪う「侵略」に他なりませんでした 25 。特に、太閤検地は彼らが農民から独自に税を徴収する権利を奪い、高山城の建設は彼らの居城を無用の長物としました。ここに、中世的な在地領主制という旧来のシステムと、近世的な中央集権的支配体制という新しいシステムとの間に、必然的な衝突が生まれる土壌が形成されたのです。「三沢の乱」は、この新旧システムの激突が、武力闘争という形で噴出した事件であったと評価できます。

第二節:一揆の蜂起と山下城攻撃

山中に潜伏していた三木国綱は、出家して「入道三沢(にゅうどう さんたく)」と号し、反乱の旗頭となります 1 。彼の元には、金森氏の新支配によって全てを失った者たちが続々と集結しました。その中心となったのは、姉小路氏に滅ぼされた江馬氏の後継者・江馬時政、同じく姉小路頼綱に粛清された鍋山氏の一族である鍋山利高・右近大夫、そして金森氏への協力が報われなかった広瀬氏の後継者・広瀬宗直といった、飛騨の「牢人衆」でした 1 。彼らはかつて敵味方に分かれて争った間柄でしたが、「打倒金森氏」という共通の目的のもとに結束したのです。

天正13年(1585年)閏8月16日、国綱率いる一揆勢約500名はついに蜂起します 9 。彼らが最初の攻撃目標に選んだのは、金森長近の養子・可重が守る山下城でした 1 。この城は、かつて国綱自身が武将として最初に築き、居城とした場所です 1 。この目標選定には、単なる軍事的な合理性を超えた、象徴的な意味合いが込められていました。自らの権威の象徴であった城を新支配者から奪還することは、失われた権威と領地を取り戻すという反乱の目的を、最も明確に内外に示す行為でした。これは、参加した牢人衆や、呼応の動きを見せた在地勢力に対し、「我々は故郷を取り戻すのだ」という強いメッセージを発する、巧みな政治的パフォーマンスでもあったと言えるでしょう。

この反乱は、単なる武士の反乱に留まらなかった側面も持っていました。史料には「領民と共に反旗を翻し」 6 との記述や、「益田川筋の土豪5、600人も三沢に呼応して北上する」 9 といった記録が見られます。これは、武士階級だけでなく、金森氏の新政策に不満を抱く一部の土豪や農民層をも巻き込んだ、広範な「一揆」としての性格を帯びていたことを示唆しています 9

第三節:敗死と乱の終結

旧領回復の悲願を掲げた一揆勢でしたが、現実はあまりにも過酷でした。山下城を攻める一揆勢に対し、金森軍は迅速かつ的確に反撃します。激しい戦闘の末、寄せ集めに過ぎない一揆勢は、統制の取れた金森軍の前に敗北を喫し、首謀者の三木国綱は蜂起の翌日である閏8月17日、壮絶な戦死を遂げました。享年40でした 1

国綱の死により、乱の主力は瓦解します。彼に呼応して北上してきた益田川筋の一揆勢も、すでに国綱が敗死した後であり、金森軍と小競り合いを演じたものの、やがて阿多野城に退いた後、数日のうちに解散しました 9 。乱は、わずか二日で鎮圧されたのです。

戦後、金森氏は反乱への見せしめとして、国綱の首を鍋山城の麓に晒したと伝えられています 9 。しかし、乱で命を落とした国綱を哀れんだ人々によって、彼は高山市にある大幢寺(だいどうじ)の古桜の傍らに手厚く葬られ、五輪塔と社が建てられたという伝承も残っています 33 。興味深いことに、この大幢寺は三沢の乱の兵火で焼失しましたが、後に敵将である金森長近自身によって再興されているのです 33 。これは、長近の巧みな統治術を示すものと考えられます。彼は、反乱者を武力で徹底的に鎮圧するという「鞭」を振るう一方で、地域の信仰の対象であった寺院を保護するという「飴」の政策も用いました。これは、反乱の記憶を力で封じ込めるだけでなく、民心を得て支配を安定させようとする、高度な政治的配慮の現れであったと言えるでしょう。

第四章:三木国綱という人物像の考察

三木国綱の生涯は、史実の断片を繋ぎ合わせることで、一人の人間が時代の大きなうねりにいかに翻弄され、そして抗ったかを示す、示唆に富んだ物語を浮かび上がらせます。本章では、これまでの分析を踏まえ、彼の人物像の内面と、彼が起こした「三沢の乱」の歴史的評価について、より深く考察します。

第一節:神官としての矜持と武将としての選択

国綱の人生の根底には、常に「神官」としてのアイデンティティがあったと推察されます。彼の行動原理は、その立場が武将へと変わった後も、一貫して「飛騨の民の安寧」にあったように見受けられます 2 。姉小路家に仕官するという決断も、自らが領主の一員となることで民の暮らしを守れると考えたからであり、最後の抵抗となった三沢の乱も、新たな支配者の下で苦しむ旧領民や旧臣を救わんとする義憤から発したものであった可能性があります。

しかし、その手段は、神への祈りから、人を殺める武力へと変質していきました。彼の生涯は、神に仕え、平和を祈ることを本分とする「神官」としての理想と、力こそが全てを決定する戦国乱世を生き抜く「武将」としての現実との間で、絶えず引き裂かれていたのかもしれません。その葛藤こそが、三木国綱という人物の人間的な深みと悲劇性を形作っていると言えるでしょう。

第二節:「三沢の乱」の歴史的意義

三沢の乱は、単に旧領主が個人的な恨みから起こした反乱として片付けるべきではありません。この乱は、より大きな歴史的文脈の中に位置づけることができます。それは、豊臣秀吉の中央集権体制が地方へと浸透していく過程で起きた、在地社会からの最後の組織的抵抗でした。

金森長近が飛騨で実施した太閤検地や城下町の整備は、秀吉政権の全国統一事業の一環であり、中世以来の荘園制的な、複雑で多元的な支配構造を解体し、近世的な一元的支配体制へと再編するものでした 30 。三沢の乱は、この画一的な新システムに対する、飛騨の伝統的な在地社会からの拒絶反応であり、アレルギー反応であったと評価できます。乱の参加メンバーに、かつては敵対していた江馬氏、鍋山氏、広瀬氏といった多様な顔ぶれが揃っていること 1 、そしてこの反乱が「一揆」と呼ばれていること 9 は、その抵抗が個人的なレベルを超え、一定の広がりを持っていたことを示唆しています。

これは、戦国時代の「地域分権的」な世界から、江戸時代の「幕藩体制」という近世的な中央集権国家へと移行する、まさにその過渡期に、日本各地で見られた抵抗運動の典型的な一例と見なすことができるのです。三木国綱は、その抵抗の象徴として、時代の変革の波に呑み込まれていった人物でした。

第三節:関連人物との関係性の再評価

国綱の人物像をより深く理解するためには、彼を取り巻く主要人物との関係性を再評価することも重要です。

  • 対 姉小路頼綱 : 国綱は、頼綱の妹婿として一門に迎えられ、謀臣として信頼されるなど、その覇業に大きく貢献しました 5 。しかし、その一方で、頼綱が飛騨統一のために嫡男の信綱や実弟の顕綱を次々と粛清する非情な姿を、間近で見ていたはずです 3 。国綱が頼綱に抱いていた感情は、主君への忠誠心と同時に、その冷徹さに対するある種の危うさや不信感を内包した、複雑なものであった可能性があります。
  • 対 金森長近 : 国綱にとって、長近は故郷と誇りを奪った侵略者であり、不倶戴天の敵でした。しかし、より大きな歴史的視点から見れば、長近は飛騨に近世的な政治・経済システムを導入し、その後の安定と発展の礎を築いた統治者でもあります 26 。二人の対立は、単なる個人的な憎悪を超え、中世と近世、伝統と革新という、二つの異なる時代の価値観の衝突そのものであったと言えるでしょう。国綱の悲劇は、彼が滅びゆく旧時代の価値観を最後まで体現しようとした点にあります。

終章:飛騨の戦国時代の終焉と三木国綱が遺したもの

三木国綱の死と、彼が率いた「三沢の乱」の鎮圧は、飛騨の地において、在地領主たちが群雄割拠した「戦国時代」が完全に終わりを告げたことを象徴する、決定的な出来事でした 32 。国綱の首が鍋山城下に晒された時、姉小路氏の再興という夢は完全に断たれ、飛騨は金森氏、そしてその背後にいる豊臣政権という、巨大な中央権力の下に組み込まれることが確定したのです。

これ以降、飛騨は金森氏が六代107年にわたって統治し 7 、その後は江戸幕府の直轄領(天領)として、近世という新たな時代を歩むことになります。金森長近が築いた高山の城下町は、その後の飛騨の政治・経済・文化の中心として発展し、今日に至る美しい町並みの原型となりました。

三木国綱の生涯は、わずか40年という短いものでした。しかしその軌跡は、神官から武将へ、そして新時代の支配者への反逆者へと、激動の時代に翻弄されながらも、自らの信じる義のために最後まで戦い抜いた一人の人間の記録として、強烈な印象を残します。彼の物語は、中央集権化という大きな歴史の潮流に、地方の在地社会がいかに向き合い、そして呑み込まれていったかを生々しく伝える証言でもあります。

今日、高山の大幢寺に静かに眠るとされる国綱の墓所は 33 、飛騨の戦国時代の終焉をその身をもって体現した「悲劇の武将」として、地域の歴史の中にその記憶を留めています。彼の生き様は、時代の大きな転換点に生きた人間の矜持と悲哀を、現代の我々に静かに語りかけているのです。

引用文献

  1. 三木国綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%9B%BD%E7%B6%B1
  2. 武士も天下も興味はないが…心ならずも領民のために闘った戦国武将・三木国綱【上】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/148875
  3. 姉小路頼綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%A0%BC%E7%B6%B1
  4. 高山の歴史 https://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000846.html
  5. 武士も天下も興味はないが…心ならずも領民のために闘った戦国武将・三木国綱【上】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/148875/2
  6. 三木国綱とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%9B%BD%E7%B6%B1
  7. (2)飛騨国の中世、近世 - 高山市 https://www.city.takayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/000/843/002.pdf
  8. 物語飛騨の歴史(上) https://panoramahida.iza-yoi.net/monogatarihidarekishimukashi.html
  9. 三沢の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%A2%E3%81%AE%E4%B9%B1
  10. 飛騨一宮水無神社 - 延喜式神社の調査 http://engishiki.org/hida/bun/hid240101-01.html
  11. 水無神社 http://www.komainu.org/gifu/takayamasi/mizunasi/mizunasi.html
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  13. 飛騨一宮水無神社 https://minashijinjya.or.jp/
  14. 飛騨一宮 水無神社(高山市一之宮町)【前編】 - Shrine-heritager https://shrineheritager.com/minashi-shrine/
  15. 水無神社 - 偲フ花 https://omouhana.com/2024/08/28/%E6%B0%B4%E7%84%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
  16. 姉小路頼綱とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%A0%BC%E7%B6%B1
  17. 武士も天下も興味はないが…心ならずも領民のために闘った戦国武将・三木国綱【下】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/148877
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  19. 飛騨松倉城の見所と写真・200人城主の評価(岐阜県高山市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/312/
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  22. 飛騨 松倉城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hida/matsukura-jyo/
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  24. 江馬氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F
  25. 広瀬氏とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%B0%8F
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  27. 四、金森長近大野支配 https://www.city.ono.fukui.jp/kosodate/bunka-rekishi/ono-ayumi.files/04kanamorinagachika.pdf
  28. 「太閤検地」とはどのようなもの? 目的や、当時の社会に与えた影響とは【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/269995
  29. 太閤検地 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/taiko-kenchi/
  30. 第6章 郷土の三英傑に学ぶ資金調達 - 秀吉、太閤検地で構造改革を推進 https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
  31. 戦国武将・金森長近の生涯と功績を徹底解説!高山城の歴史と遺産 - 原田酒造場 https://www.sansya.co.jp/column/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%83%BB%E9%87%91%E6%A3%AE%E9%95%B7%E8%BF%91%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%81%A8%E5%8A%9F%E7%B8%BE%E3%82%92%E5%BE%B9%E5%BA%95%E8%A7%A3%E8%AA%AC%EF%BC%81%E9%AB%98/
  32. 武家家伝_江馬氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ema_k.html
  33. 大幢寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%A2%E5%AF%BA