戦国時代の播磨国に、織田信長の天下布武に真っ向から異を唱え、その生涯を信仰と地域の独立に捧げた武将がいた。播磨三大城の一つ、英賀城の主、三木通秋(みき みちあき)である。彼の名は、別所長治や荒木村重といった同時代の反逆者たちの陰に隠れがちであるが、その抵抗の根源と権力基盤の特異性は、戦国末期の社会変動を理解する上で極めて重要な意味を持つ。
本報告書は、三木通秋を単なる一地方豪族としてではなく、戦国時代の権力構造の転換期において、宗教的信念と地域的独立性をかけて中央政権に抗った象徴的人物として捉え直し、その実像に迫ることを目的とする。ユーザーが既に把握している「播磨の豪族、英賀城主、織田信長と敵対し、羽柴秀吉に敗れて九州へ逃亡」という骨格を基に、現存する史料を丹念に読み解き、その生涯を徹底的に掘り下げていく。
この探求を通じて、いくつかの根源的な問いが浮かび上がる。通秋の行動原理は、単なる領土的野心であったのか、それとも浄土真宗門徒としての強固な信仰心に根差すものであったのか。彼の権力基盤であった「寺内町」は、なぜそれほどまでの強大な抵抗力を生み出したのか。そして、一度は徹底的に打ち破られた彼が、なぜ勝者である羽柴秀吉から異例の赦免を受け得たのか。これらの問いを解き明かすことは、三木通秋という一人の武将の生涯を超え、中世が終わりを告げ、近世が幕を開ける時代のダイナミズムそのものを描き出すことに繋がるであろう。
英賀三木氏の歴史は、播磨の地に突如として現れたものではない。そのルーツは瀬戸内海の対岸、伊予国(現在の愛媛県)の名門に遡り、播磨の政治的動乱の中で巧みにその地位を築き上げていった。
英賀三木氏は、伊予国の守護大名であった越智姓河野氏の庶流とされている 1 。系図によれば、その祖は河野通堯(みちたか)の子、浮穴五郎四郎通近(みちちか)であるとされる 4 。河野氏は、源平合戦の時代から水軍を率いて活躍した伊予の名族であり、三木氏が後に播磨灘で強大な水軍力を保持した背景には、この血脈が大きく影響していたと考えられる。
ただし、始祖とされる通近の生年(1363年)と、父とされる通堯の没年(1379年)から鑑みると、両者の年齢には若干の齟齬が生じる 7 。このことから、通近は通堯の直接の子ではなく、一族のいずれかの家から養子として迎えられた人物であった可能性が指摘されている 5 。これは、家の存続と血統の権威付けのため、柔軟な養子縁組が頻繁に行われた戦国時代の武家社会の実態を示す好例と言えよう。
三木氏が播磨の歴史に明確に登場するのは、15世紀半ばのことである。永享年間(1429年-1441年)、播磨守護・赤松満祐の弟である赤松祐尚が、飾磨郡英賀の地に城を築いた 8 。しかし、嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が室町幕府六代将軍・足利義教を暗殺した「嘉吉の乱」が勃発。赤松宗家は幕府軍の追討を受けて滅亡し、播磨国内は一時的な権力の空白が生じる。
この動乱の中で、赤松祐尚もまた命を落とした。その後、祐尚と姻戚関係にあった恋浜城主(現在の姫路市白浜町)の三木通近が、この英賀城に入り、新たな城主となったのである 9 。中央の政変が地方の権力地図を大きく塗り替えるという、室町時代後期の典型的な権力移行の様相がここに見られる。これ以降、約140年間にわたり、英賀の地は三木氏の拠点として発展していくこととなる。
播磨に根を下ろした三木氏は、やがて同地の守護大名であった赤松氏と並び称されるほどの勢力を築き上げる。中世の播磨国において、英賀三木氏は播磨守護赤松氏と並ぶ「二大名門」と見なされるほどの有力な国人領主であった 6 。
しかし、その関係は単なる対立や従属ではなかった。両家は代々、婚姻関係を重ねることで複雑な同盟関係を構築していた。特に、本報告書の主題である九代当主・三木通秋の母は、赤松宗家の当主・赤松晴政の娘、富雄であった 7 。この密接な血縁関係は、後の織田信長による播磨侵攻の際に、両家の政治的立場が分裂する悲劇をより根深く、深刻なものにした。
この関係性は、戦国時代の国衆が持つ典型的な二面性を象徴している。すなわち、婚姻による協調関係を保ちつつも、隙あらば自立を目指すという対抗意識が常に混在していたのである。通秋が後に選択する徹底した反織田路線には、親織田へと傾いた宗家・赤松氏から完全に自立しようとする政治的意図も含まれていた可能性は否定できない。
通秋が家督を継ぐまでの間、播磨国は絶えず動乱の中にあった。特に八代当主・通明(みちあき、通秋の父)の時代には、守護赤松氏の実権を奪った守護代・浦上氏の台頭や、山陰の雄・尼子氏による播磨侵攻など、激しい権力闘争が繰り広げられた 9 。このような混乱期において、英賀三木氏は一貫して旧主である赤松氏方に与して戦ったと記録されている 9 。この父の代までの経験は、通秋の代における外交戦略や軍事行動の基盤を形成したと言えるだろう。
表1:英賀三木氏 主要系譜
代 |
当主名 |
生年(西暦) |
没年(西暦) |
父 |
母 |
備考 |
初代 |
三木 通近 |
1363 |
1442 |
河野通堯(異説あり) |
不明 |
伊予河野氏庶流。嘉吉の乱後に英賀城主となる。 |
二代 |
三木 近重 |
1380 |
1443? |
通近 |
宇都宮氏綱の娘 |
|
三代 |
三木 通重 |
1397 |
1446 |
(養子)別所則重の子 |
朝倉氏景の娘(養母) |
15歳で養子となる。 |
四代 |
三木 通武 |
1414 |
1464 |
通重 |
赤松満祐の娘 |
|
五代 |
三木 通安 |
1432 |
1500 |
(養子)三木実基の子 |
不明 |
10歳で養子となる。 |
六代 |
三木 通規 |
1451 |
1530 |
(養子)雁南長の子 |
六角久頼の娘(養母) |
20歳で養子となる。浄土真宗に深く帰依。 |
七代 |
三木 通秀 |
1491 |
1544 |
通規 |
不明 |
|
八代 |
三木 通明 |
1508 |
1578 |
通秀 |
不明 |
尼子氏の侵攻など動乱の時代を生きる。 |
九代 |
三木 通秋 |
1534 |
1583 |
通明 |
赤松晴政の娘 |
本報告書の主題。織田信長と敵対し、秀吉に敗れる。 |
十代 |
三木 安明 |
1563 |
不明 |
通秋 |
不明 |
英賀城籠城戦で奮戦。父と共に九州へ逃亡。 |
出典: 7 の情報を基に作成。
この系譜は、英賀三木氏が約150年にわたり、養子縁組を巧みに利用しながら家を存続させ、播磨の名門・赤松氏との婚姻を通じてその地位を固めていった歴史を明確に示している。
英賀三木氏の権勢を語る上で、その本拠地であった英賀城と城下町の特異な構造を理解することは不可欠である。それは単なる軍事拠点ではなく、経済と宗教が密接に結びついた、他に類を見ない複合的な城郭都市であった。
戦国時代の播磨国には、特に規模と勢力を誇った三つの城があった。東播磨を支配した別所氏の三木城、中播磨の小寺氏の御着城、そして西播磨に君臨した三木氏の英賀城である。これらは「播磨三大城」と総称され、当時の播磨における政治・軍事の中心地であった 3 。
英賀城は、標高わずか3メートルほどの低湿地に築かれた平城であった 13 。しかし、その規模は広大で、本丸・二の丸といった中枢区画に加え、城内には三木一族の屋敷が建ち並び、さらに多くの寺院や商家、民家を内包する、さながら一つの都市と呼ぶべき様相を呈していた 16 。その広大な城域は、現在も姫路市飾磨区の広範囲に点在する城門跡の石碑から窺い知ることができる 19 。
英賀城の最大の特長は、その立地にある。南は播磨灘の内海に直接面し、西を夢前川、東を水尾川という二つの河川が天然の堀として囲み、北側は広大な湿地帯が広がる、まさに天然の要害であった 10 。その堅固さから「岩繋城(いわつぎじょう)」という別名でも呼ばれた 16 。
この地理的条件は、防御面で絶大な効果を発揮しただけでなく、三木氏に大きな富をもたらした。城に隣接する港は、瀬戸内海の水運を利用した交易の拠点として大いに栄えた 10 。また、有事の際には、この港湾機能と、伊予河野氏の血を引く三木氏が率いる強力な水軍が、兵員や兵糧の輸送、さらには海上からの軍事行動において決定的な役割を果たした 10 。この海へのアクセスこそが、三木氏が播磨の陸の勢力とは一線を画す、独自の力を保持できた源泉であった。
英賀の地をより特異なものにしていたのが、浄土真宗(一向宗)の存在である。城下には「英賀御堂(あがのごぼう)」とも呼ばれた本徳寺が建立され、西播磨における浄土真宗の最大拠点として絶大な影響力を持っていた 21 。この寺院は、浄土真宗中興の祖である本願寺第八世・蓮如上人の時代にその礎が築かれ、後には本願寺門主の親族(連枝)である実円が住職として派遣されるほど、本山からも重要視されていた 24 。
英賀三木氏は、六代当主・通規の代から熱心な門徒となり、この英賀御堂の建立と保護に尽力した 12 。城主自らが門徒となることで、三木氏は領民と「阿弥陀仏への信仰」という強固な精神的紐帯で結ばれ、単なる封建的な主従関係を超えた強固な支配体制を築き上げたのである。
英賀城下は、城郭と寺院が一体化した「寺内町(じないまち)」として、他に類を見ない発展を遂げた。寺内町とは、寺院を中心に形成された自治的な宗教都市であり、多くの場合、堀や土塁で囲まれ武装していた。英賀の場合、この寺内町が、三木氏の居城そのものと融合していたのである。
その結果、英賀は、武士の館、信仰の中心である寺院、そして交易で栄える商家が共存する、一大複合都市となった。記録によれば、城下は四十九町を数え、約九百軒もの商家や住宅がひしめき合っていたという 16 。
ここに、英賀三木氏の権力の核心がある。その力は、単一の要素に依存するものではなかった。それは、
この三つの要素が有機的に結合した「複合的権力」こそが、英賀三木氏の真の強さの源泉であった。そして、この宗教と不可分に結びついた独立性の高い権力構造は、天下統一を目指し、宗教勢力の無力化を図る織田信長にとって、絶対に看過できない存在となっていったのである。
天文十三年(1544年)、三木通秋は英賀三木氏九代当主として、激動の時代の渦中へと漕ぎ出した。彼の決断と行動は、一族の運命のみならず、播磨国全体の、ひいては日本の歴史の行方にも大きな影響を与えることとなる。
通秋が父・通明から家督を相続した当時、播磨国は群雄割拠の様相を呈していた 7 。長年の権威であった守護・赤松氏は内紛によって衰退し、その隙を突いて東播磨の別所氏、中播磨の小寺氏といった有力な国人領主たちがそれぞれ勢力を拡大し、互いに鎬を削っていた 26 。このような状況下で、西播磨に確固たる地盤を持つ三木氏もまた、播磨の覇権をめぐる複雑なパワーゲームの重要なプレイヤーの一人であった。
通秋の政治姿勢は、当初から反織田一辺倒だったわけではない。永禄十二年(1569年)に起こった土器山の戦いでは、当時、織田信長と誼を通じ始めていた小寺孝高(後の黒田官兵衛)が、赤松政秀の攻撃を受けて窮地に陥った際、救援に駆けつけて共に勝利を収めている 3 。この時点では、三木氏と小寺・黒田氏は、播磨国内の勢力争いにおいて協調する関係にあった。
しかし、元亀元年(1570年)、織田信長と石山本願寺との間で10年にも及ぶ「石山合戦」が勃発すると、状況は一変する。前述の通り、三木氏とその領民は熱心な浄土真宗門徒であった。本願寺の法主・顕如から信長討伐の檄文が全国の門徒へ発せられると、通秋はこれに呼応。兵430人を大坂の石山本願寺へ派遣し、さらに兵糧米3,000俵を送るなど、明確に本願寺方としての旗幟を鮮明にした 12 。
この決断こそが、通秋の運命を決定づけた転換点であった。彼の政治路線の根幹をなしたのは、播磨国内の他の国衆が重視したような領土的な損得勘定や地域的な力関係ではなく、「浄土真宗門徒」としての宗教的アイデンティティだったのである。この信仰に基づく決断は、彼を親織田に傾きつつあった播磨の他の国衆とは全く異なる道へと導き、巨大権力との全面対決へと突き進ませることになった。
反信長の立場を明確にした通秋は、西国の大勢力と連携し、播磨における反織田包囲網の中核を担っていく。
別所長治の三木城をめぐる攻防戦は、戦国史上名高い「三木の干殺し」という壮絶な結末を迎える。そして、播磨平定の矛先は、最後に残された反骨の拠点、英賀城へと向けられた。
天正八年(1580年)一月、2年近くに及ぶ籠城の末、兵糧が完全に尽きた三木城は落城し、城主・別所長治は一族と共に自害して果てた 14 。これにより、播磨国内で織田信長に公然と敵対する勢力は、三木通秋の英賀城のみとなった。中国地方攻略の総大将である羽柴秀吉は、後顧の憂いを断つべく、その全軍を英賀へと差し向けたのである 9 。
同年二月、秀吉軍は英賀城を完全に包囲した。しかし、前章で述べた通り、英賀城は河川と湿地帯に囲まれた難攻不落の海城であった。秀吉軍は力攻めを試みるも、ぬかるんだ足場と城兵の激しい抵抗に阻まれ、容易に攻め落とすことができなかった 9 。
この籠城戦において、通秋の子である三木安明(当時18歳)は、若武者ながら目覚ましい奮戦を見せたと伝えられている 10 。その戦いぶりはあまりに激しく、攻めあぐねた秀吉方から和議開城の申し入れがあったほどであった。しかし、通秋はこれを断固として拒絶し、徹底抗戦の構えを崩さなかった 10 。毛利からの援軍や、門徒衆の結束という僅かな望みに賭けていたのかもしれない。
軍事力だけでは落ちないと判断した秀吉は、彼が最も得意とする「調略」に活路を見出す。城の守りの要の一つであった河下口を守備していた三木与一兵衛ら5名の守将に密使を送り、寝返りの代償として50石の知行安堵を約束したのである 10 。
長期にわたる籠城戦で心身ともに疲弊していたのか、あるいは秀吉の提示した条件に目が眩んだのか、与一兵衛らはこの誘いに乗った。天正八年四月二十六日(日付には異説あり)、内応者たちはかねての打ち合わせ通り城内各所に火を放ち、混乱に乗じて城門を開け、秀吉軍を城内へと手引きした 9 。内部からの突然の裏切りにより、城中は大混乱に陥り、あれほどの堅城を誇った英賀城は、わずか一日にして陥落の時を迎えた。
落城後、かつて繁栄を極めた英賀の城下町は、秀吉軍によって徹底的に焼き払われたと伝えられる 23 。この戦いの様子は、勝者である秀吉側の記録には多く残されていない。しかし、敗者である英賀城側の視点から書かれた『英賀日記』や『英城記』といった貴重な記録が、その惨状を現代に伝えている 34 。
『英賀日記』によれば、この一連の戦いにおける英賀方の死者は2,750人、対する秀吉軍の死者は700人余りにのぼったとされる 10 。この数字は、単なる城の明け渡しではなく、凄惨な市街戦が繰り広げられたことを物語っている。
英賀城の落城は、秀吉の戦術の巧みさを如実に示している。まず、毛利水軍の敗北(第二次木津川口の戦い)と三木城の陥落によって英賀城を外部から完全に孤立させる。次に、圧倒的な兵力で軍事的な圧力をかけ続ける。そして最後に、調略によって内部から切り崩す。この周到な三段構えの戦略の前には、いかなる堅城も、いかなる信仰心も、ついには屈せざるを得なかった。これは、戦国時代の合戦が、単なる武力の衝突から、兵站、情報戦、心理戦を含む総力戦へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。
炎上する英賀城を背に、三木通秋とその一族は、大名としての地位と故郷を失った。しかし、彼の物語はここで終わりではなかった。戦国時代の敗将としては異例ともいえるその後の人生は、勝者・秀吉の統治戦略と、時代の大きな転換点を映し出している。
城内の混乱に乗じ、通秋は嫡男・安明ら一族郎党と共に、かろうじて血路を開き、海路で九州へと落ち延びた 9 。これは、彼らが強力な水軍を保持していたからこそ可能な脱出行であった。
具体的な亡命先を記した明確な史料は残されていないが、いくつかの可能性が考えられる。一つは、最後まで同盟関係にあった毛利氏の勢力圏を頼ったという説。もう一つは、さらに南下し、当時、織田・毛利と距離を置いていた薩摩の島津氏などを頼ったという説である 7 。いずれにせよ、彼らは播磨の地を追われ、流浪の身となった。
大名としての三木氏は完全に滅びたかに見えた。しかし、落城からわずか2年後の天正十年(1582年)、事態は急転する。通秋は、敵将であった羽柴秀吉から罪を許され、故郷である英賀への帰還を認められたのである 29 。
この敗軍の将に対する異例ともいえる寛大な措置の背景には、秀吉の高度な政治的計算があったと考えられる。
第一に、この赦免が行われた天正十年という年が重要である。同年六月、本能寺の変で織田信長が横死すると、秀吉は「中国大返し」を経て明智光秀を討ち、天下人の地位へと駆け上がっていく。この天下統一事業を円滑に進める上で、かつての敵対勢力に対して融和的な姿勢を示すことは、全国の諸大名に対する効果的な懐柔策となった。
第二に、英賀の地が持つ港湾機能と経済力を完全に掌握するためには、武力で押さえつけるよりも、地域に深く根を張り、人々の信望を集めていた旧領主・三木氏の影響力を利用する方が得策だと判断した可能性がある。
これは、敵対勢力を根絶やしにする信長のやり方とは異なり、武力を剥奪して無力化した上で、その影響力を統治機構に組み込むという、秀吉独自の統治思想の萌芽と見ることができる 36。
故郷に戻った通秋であったが、かつてのような大名としての所領や権力が返還されることはなかった。彼に与えられたのは、「郷士頭(ごうしがしら)」という地位であった 29 。これは、武士としての身分は保ちつつも、一地域の指導者的な立場を認められた在郷の武士であり、大名とは全く異なる存在である。
失意の日々であったか、あるいは故郷の土を再び踏めたことに安堵していたか、その心中は察するに余りある。帰郷の翌年、天正十一年(1583年)十二月十六日、三木通秋は波乱の生涯に幕を閉じた。享年50 7 。その墓所は現在、姫路市飾磨区にある英賀薬師(法寿寺跡)にあり、一族の墓石と共に静かに佇んでいる 21 。
通秋の死後、三木一族の運命もまた、時代の流れと共に大きく変化した。嫡男・安明が家督を継ぎ、河野姓に復した直系は、残念ながら明治時代に断絶したと伝えられている 41 。
しかし、三木氏の血脈が完全に途絶えたわけではない。通秋の弟の系統など、一族の他の者たちは、武士の身分を捨てて帰農し、江戸時代には姫路藩領内の林田(現在の姫路市林田町)などで大庄屋を務めるなど、地域の有力な豪農として存続した 1 。兵庫県指定重要文化財である「林田大庄屋旧三木家住宅」は、その栄華を今に伝えている 43 。これは、戦国時代の敗者が武士の身分を失い、郷士や豪農・豪商として新たな社会階層を形成していくという、近世への移行期における社会の変動を示す典型的な事例である。
三木通秋の生涯を振り返る時、彼は単なる歴史の敗者として片付けられるべき人物ではないことがわかる。彼の生き様と、彼が率いた英賀の町の盛衰は、戦国時代の終焉と近世社会の到来を象徴する、多くの重要な示唆を我々に与えてくれる。
三木通秋の生涯を貫く最も重要なキーワードは「信仰」である。彼の反織田路線は、他の多くの武将のような領土的野心や政治的計算よりも、浄土真宗門徒としてのアイデンティティに強く根差していた。彼が率いた英賀衆の強さの源泉もまた、この信仰による強固な結束力にあった。彼の抵抗は、中央の統一権力に対して、地方の独立性と宗教的価値観をかけて戦った最後の戦いの一つであったと言える。そしてその敗北は、中世的な権威であった宗教勢力が、近世的な世俗権力の下に組み込まれていく時代の大きな画期を象徴している。
羽柴秀吉の視点から見れば、英賀城の攻略は、彼の天下統一事業において極めて重要な戦略的勝利であった。それは単に播磨一国を平定したという戦術的な意味に留まらない。
第一に、中国地方の雄・毛利氏と対峙する上で、背後にある最大の脅威を取り除いたこと。
第二に、毛利氏が瀬戸内海を通じて畿内に介入するための重要な海軍拠点と補給港を完全に破壊したこと。
第三に、10年以上にわたり信長を苦しめ続けた石山本願寺への、西からの補給ルートを完全に遮断したこと。
この英賀城攻略という布石があったからこそ、秀吉は安心して全軍を西に進め、後の備中高松城の水攻めといった大事業を成し遂げることができたのである 38。
三木通秋の物語を追う上で特筆すべきは、『英賀日記』や『英城記』といった、敗者側によって書かれた記録が現存していることである 10 。歴史はしばしば勝者によって語られるが、これらの記録は、勝者の視点だけでは決して見えてこない歴史のもう一つの側面を我々に伝えてくれる。そこには、籠城戦の凄惨な実態、内応という悲劇、そして落城によって全てを失った人々の無念が克明に記されている。これらの記録を丹念に読み解くことで、戦国時代の終焉が、一部の英雄たちの華々しい物語だけでなく、名もなき数多の人々の犠牲と涙の上に成り立っていたという、歴史の厳然たる事実を再認識させられる。
三木通秋は、歴史の表舞台で華々しい成功を収めた人物ではないかもしれない。しかし、彼は決して無名の弱小豪族ではなかった。海運と宗教がもたらす富と力を背景に、自らの信念に基づいて巨大な中央権力に敢然と立ち向かった、気骨ある武将であった。彼の敗北と、その後の異例の赦免、そして一族の流転という物語は、中世から近世へと社会が大きく転換する中で、地方の権力が、そしてそこに生きる人々が、どのように戦い、打ちのめされ、そして新たな秩序に適応していったのかを雄弁に物語っている。三木通秋は、その激動の時代を生きた、貴重な歴史の証言者として、後世に記憶されるべき人物である。