最終更新日 2025-05-19

上泉信綱

上泉信綱

剣聖 上泉信綱の実像:生涯、新陰流、そして後世への遺産

序章:剣聖・上泉信綱

上泉信綱は、日本の戦国時代にその名を轟かせた武術家であり、剣術の一大流派である新陰流の創始者として、日本武術史に不滅の足跡を刻んだ人物である 1 。後世、「剣聖」と称揚され 1 、その卓越した技量のみならず、深い思想性は数多の武術家や為政者に影響を与え、現代に至るまで語り継がれている。信綱の故郷である群馬県前橋市では、彼を「新陰流の聖地・剣聖の里」として顕彰し、毎年「新陰流流祖祭」を開催するなど 1 、その存在は地域社会にとっても重要な文化的遺産として認識されている。

「剣聖」という呼称は、単に武技が優れていたことを示すに留まらない。それは、品格、教養、そして後世への影響力をも含めた、武術家としての総合的な完成度に対する最高の評価を意味する。伝承によれば、信綱は「骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人」と評されており 1 、武技以外の側面も高く評価されていたことが窺える。このような評価の背景には、戦国という殺伐とした時代にあって、剣術を単なる殺人術として捉えるのではなく、人間形成や平和を希求する「活人剣」という理念を武術の世界に導入しようとした、信綱の革新的な精神があったと考えられる。この技と徳の融合こそが、彼を「剣聖」たらしめた主要な要因であり、新陰流が単なる一武術流派を超えて、日本の武道精神の形成に寄与した根源と言えるであろう。

本報告書は、上泉信綱という稀代の武術家の生涯を辿り、彼が創始した新陰流の兵法とその深遠な思想、さらには弟子たちへの影響、関連する史料の検討を通じて、その実像に迫ることを目的とする。

第一部:上泉信綱の生涯

第一章:出自と家系

上泉信綱の生涯を理解する上で、まずその出自と彼が生まれた時代の背景を把握することが不可欠である。

  • 生誕地と年代
    上泉信綱の生誕地は、上野国勢多郡桂萱郷上泉村、現在でいう群馬県前橋市上泉町にあった上泉城であるというのが一般的な説である 1。一部資料では「あるいはその近傍」とも記されている 3。
    生年については、永正5年(1508年)とする説が広く知られている 1。この説は、尾張柳生家に伝わる柳生厳長の著作『正伝新陰流』などに見られるものであるが 3、これを裏付ける確実な一次史料は現存しておらず、あくまで推測の域を出ない 3。戦国時代の人物、特に武芸者の場合、その出自や初期の経歴に関する記録が乏しいことは珍しくない。これは、当時の記録が主に大名や中央の有力者に関するものであり、地方の武士、とりわけ武芸者が歴史の表舞台に登場する以前の記録は散逸しやすかったためと考えられる。信綱が歴史的に注目されるのは新陰流を創始して以降であり、それ以前の記録が少ないのは、当時の記録保存の状況を反映していると言えよう。
  • 上泉氏の系譜
    上泉氏の系譜に関しては、いくつかの説が存在する。通説では、上野国の有力な国人であった大胡氏の一族とされている 2。大胡氏は藤原秀郷の流れを汲むとも伝えられる 3。
    一方で、上泉家に伝わる家伝によれば、室町幕府の重臣であった一色氏の一族、具体的には一色義直の孫にあたる義秀が、当時衰退していた大胡氏の名跡を継ぎ、上泉氏の祖となったとされている 3。この義秀が上泉城を築城し、後に上泉姓を名乗ったとされるが 7、上泉姓に改めたのは信綱の代であるという異説も存在する 7。一色氏の系譜を主張する背景には、単なる家格の誇示だけでなく、信綱が後に京で活動し、将軍足利義輝に武技を上覧する 1 こととの関連性も推測される。足利将軍家と縁戚関係にある名門一色氏の血を引くという出自は、京での活動において有利に働いた可能性も否定できない。
    信綱の父の名についても、秀継(ひでつぐ)とする説が一般的であるが 2、義綱 3 や憲綱 3 など、複数の名が伝えられており、確定には至っていない。
    このように、上泉氏の出自に関する複数の説が存在することは、戦国時代の武家の家系意識の複雑さを示している。名門の血筋を引くことを強調することで、家の権威を高めようとする意図があった可能性も考えられる。
  • 幼名と改名
    信綱は生涯において何度か名を変えている。初めは伊勢守秀綱(いせのかみひでつな)を名乗り、後に武蔵守信綱(むさしのかみのぶつな)と称したとされる 1。『武芸流派大事典』によれば、初名を秀長、次に秀綱、そして永禄8年(1565年)から9年(1566年)頃に信綱と改めたとされている 3。また、『関八州古戦録』では金刺秀綱という名で記され 3、弟子に与えた印可状などでは「上泉伊勢守藤原信綱」と署名している 3。
    特に有名なのが、武田信玄(当時は晴信)から「信」の字を拝領し、「信綱」と改名したという逸話である 3。これは、信綱が仕えていた長野氏が武田氏に滅ぼされた後、信玄が信綱の武勇を惜しんで家臣に迎えようとした際に起こった出来事と伝えられている。この逸話は、信綱の武名が敵将であった信玄にさえ認められていたことを示すものとして、後世に語り継がれたと考えられる。ただし、この逸話の典拠である『甲陽軍鑑』は後代の編纂物であり、史実性の検討は必要である。
    表1:上泉信綱の生没年・改名に関する諸説対照表

項目

内容

主な根拠史料

生年

永正5年(1508年)

『正伝新陰流』(柳生厳長) 3

生年不詳

多くの史料 11

没年

天正5年(1577年)1月16日

『西林寺過去帳』 2

天正5年(1577年)

『関八州古戦録』、『上野国志』(終焉の地:大和柳生谷) 3

天正10年(1582年)

上泉家口伝書、上杉家記録(終焉の地:小田原) 3

天正元年(1573年)

一部資料 2

没年不詳

多くの史料 11

初名・改名

秀長 → 秀綱 → 信綱

『武芸流派大事典』 3

伊勢守秀綱 → 武蔵守信綱

一般的な説 1

金刺秀綱

『関八州古戦録』 3

武田信玄より「信」の字を拝領し「信綱」へ(逸話)

『甲陽軍鑑』 3

官途名

伊勢守、武蔵守

各種史料 1

署名

上泉伊勢守藤原信綱

印可状など 3

この表に示すように、信綱の基本的な情報については複数の説が存在し、資料によって記述が異なる。これは、当時の記録の散逸や、後世の伝承が混入した結果と考えられる。これらの諸説を比較検討することは、信綱の実像に迫る上で不可欠な作業である。

第二章:剣の道への歩み

若き日の信綱が、いかにして剣の道に進み、その技を磨き上げていったのか。その過程は、後の新陰流創始へと繋がる重要な布石であった。

  • 初期の剣術修行
    上泉信綱は幼少の頃より武芸に親しみ、特に剣術の修行に励んだと伝えられている 1。彼が師事したとされる人物には、鹿島新当流の松本備前守政信の名が挙げられる 1。松本備前守は、剣豪として名高い塚原卜伝の弟子であったとも言われている。また、陰流の祖である愛洲移香斎、あるいはその子である小七郎宗通からも指導を受けたとされる 1。ある伝承によれば、信綱は13歳の時に鹿島(現在の茨城県鹿嶋市周辺)に赴き、松本備前守に入門したという 8。その後、故郷の上野国に戻ってからも修行を続け、時折訪れる愛洲移香斎から陰流の奥義を伝授されたと記す資料もある 15。
    信綱が複数の流派、特に当時を代表する剣術流派であった鹿島新当流と陰流を学んだことは、彼が既存の剣術に満足せず、より高次の技法や理論を求めて探求を続けた向上心の表れと言えるだろう。鹿島系の実戦的な側面と、陰流の変幻自在な動きという、系統の異なる剣術を学んだ経験は、新陰流の技法や思想に多面性をもたらした可能性がある。例えば、鹿島新当流の合理的な攻撃性と陰流の相手の動きに応じて変化する「奇妙」の要素が、新陰流独自の「転(まろばし)」といった高度な概念の形成に繋がったのかもしれない。
    さらに、信綱は剣術のみならず、軍学(軍法)にも通じていたと伝えられている 1。小笠原流の小笠原宮内大輔氏隆に軍法や軍配の術を学んだという記録もあり 2、武芸全般に対する深い造詣を持っていたことが窺える。
  • 当時の上野国の情勢と信綱の立場
    信綱が生きた戦国時代の上野国は、関東管領であった山内上杉氏の権勢が陰りを見せ、相模の後北条氏、甲斐の武田氏、越後の長尾氏(後の上杉謙信)といった強大な戦国大名たちが覇権を争う、まさに動乱の渦中にあった 11。
    上泉氏は当初、関東管領の上杉憲政に属していたが 2、その後、北条氏、上杉氏、武田氏と支配者が目まぐるしく変わる中で、信綱もまたその激動の時代を生きた 11。ある資料には、「上泉城は小さな勢力でしたが、信綱は柔軟な対応と、巧みな外交で危機を乗り切り、領地と領民を守っています」との記述があり 15、小領主としての信綱の一面が示唆されている。
    このような不安定な政治情勢は、信綱個人にとって武技を磨く必要性を高めると同時に、小領主としては生き残りのための外交術や戦略眼を養う機会ともなったであろう。武芸者としての側面と、領主としての側面が相互に影響し合い、彼の人間形成に深く関わったと考えられる。

第三章:箕輪城時代と武田信玄

青年期から壮年期にかけての信綱は、上野国の名城・箕輪城を拠点とする長野氏に仕え、その武名を高めていく。そして、戦国最強と謳われた武田信玄との邂逅が、彼の運命を大きく左右することになる。

  • 長野氏への仕官と武功
    上泉信綱は、上野国箕輪城主であった長野業正(なりまさ)、及びその子である業盛(なりもり)に仕えたとされている 2。長野氏は、関東管領山内上杉家の重臣として、西上州に勢力を誇った一族である 18。
    信綱は、長野氏の家臣として、武田信玄や北条氏康といった強敵の大軍を相手に数々の合戦で奮戦した。その武勇は際立っており、「長野家十六人の槍」の一人に数えられ、特に長野業盛からは「上野国一本槍」という感状を賜ったと伝えられている 6。この「上野国一本槍」という称賛は、信綱が単に剣術に秀でていただけではなく、戦場の主要武器であった槍においても卓越した技量を持つ武将であったことを示している。これは、彼の武芸が特定の武器に限定されない、総合的なものであった可能性を示唆しており、後に彼が創始する新陰流が「兵法」と称される 1 こととも無関係ではないだろう。
  • 箕輪城落城と武田信玄からの招聘
    長野氏の奮戦も空しく、永禄6年(1563年)2月(異説として永禄9年(1566年)9月とも 21)、箕輪城は武田信玄の猛攻の前に落城する 2。この落城に際し、信綱の武勇を高く評価していた武田信玄は、彼を自らの旗本として召し抱えたいと申し入れた 6。
    しかし、信綱はこの誘いを固辞し、武芸者として生きる道を選んだと伝えられている 6。戦国武将にとって、武田信玄のような当代きっての名将からの仕官の誘いは破格の厚遇であり、それを断るという決断は、信綱の剣術への並々ならぬ情熱と、自らが編み出した新陰流を世に広めるという強い使命感の表れと言えよう。ある資料には、「上泉信綱の悲願は、武将としての名誉ではなく『新陰流の普及』だった」と記されており 13、この選択がなければ、新陰流は上野国の一地方剣術に留まっていた可能性もある。
    この時、信玄はその才能を惜しみ、自らの諱である「晴信」から「信」の一字を与え、それまでの「秀綱」から「信綱」へと改名させたとされる逸話が、『甲陽軍鑑』に記されている 3。さらに、信玄は「他家へは絶対に仕官するな」という条件付きで、信綱が諸国を流浪することを許したとも伝えられる 13。この「信」の字拝領の逸話は、たとえ後世の創作であったとしても、信綱の武名と、彼が敵方からも尊敬されるほどの人物であったという評価を象徴的に示している。また、仕官を断ったにも関わらず偏諱を与えられるという異例の展開は、信綱の人間的魅力や、信玄の度量の大きさをも物語っていると解釈できる。

第四章:新陰流を携えての諸国遍歴

箕輪城を後にした信綱は、自らが大成した新陰流を世に広めるため、高弟たちと共に諸国流浪の旅に出る。その足跡は、後の剣術界に大きな影響を与えることとなる。

  • 旅立ちの経緯と目的
    箕輪城落城後、上泉信綱は新陰流を普及させることを目的に、神後伊豆守宗治や疋田豊五郎景兼といった高弟たちを伴い、諸国を巡る旅に出立したと伝えられている 2 。その旅立ちの時期は、永禄7年(1564年)、信綱55歳の時であったとも言われる 22 。当時の平均寿命や旅の困難さを考慮すれば、50歳を過ぎてからの諸国流浪は並大抵のことではなく、信綱が新陰流の完成と普及に後半生を捧げた強い意志の表れと言えよう。その最終的な目的地は京都であったとされる 22
  • 足利義輝への上覧と評価
    京に上った信綱は、時の将軍であった足利義輝に兵法を上覧する機会を得た 2。足利義輝は、自らも塚原卜伝に師事するなど剣術に深く通じた人物であり、「剣豪将軍」としても知られている。その義輝の前で信綱が新陰流の技を披露した際、高弟の丸目蔵人佐長恵が打太刀を務めたとも伝えられる 9。
    義輝は信綱の剣技を「古今比類なし」と絶賛し、「上泉伊勢守兵法天下一」との感状、あるいは賞詞を賜ったとされる 1。さらに、正親町天皇の御前で天覧演武を行い、従四位下に昇叙され、天皇愛用の御前机を拝領したという記録も存在する 1。
    将軍や天皇といった当時の最高権威の前で武技を披露し、高い評価を得たことは、新陰流の権威を飛躍的に高め、その後の全国的な普及に大きく貢献した。また、信綱は武家だけでなく、公家とも交流があったことが知られている。公卿の山科言継の日記『言継卿記』には、信綱が度々登場し、言継と親しい間柄であったことが記されている 1。山科言継のような一流の文化人との交流は、信綱が単なる武芸者ではなく、高い教養と品格を備えた人物であったことを示唆しており、これが新陰流が武士だけでなく、公家など幅広い層に受け入れられる素地を作った可能性がある。
  • 各地での指導と交流
    信綱の諸国遍歴は、京都に留まらなかった。彼は各地を巡り、多くの武芸者と交流し、新陰流を指導した。特に著名なのは、奈良興福寺の僧兵で宝蔵院流槍術の開祖としても知られる宝蔵院胤栄や、後に柳生新陰流を大成する柳生但馬守宗厳(石舟斎)、そして肥後の剣豪・丸目蔵人佐長恵らである 1。
    柳生宗厳との出会いは、新陰流の歴史において特に重要な出来事であった。信綱は宗厳の才能を見抜き、彼に新陰流の奥義を伝え、後の柳生新陰流の隆盛へと繋がる道を開いた 1。
    このように、諸国を巡り、各地の有力な武芸者と交流し、指導を行ったことで、新陰流は多様な地域・人物へと広まり、それぞれの地で独自の発展を遂げる基盤が築かれた。信綱の旅は、単なる技術の伝播に留まらず、人的ネットワークの構築でもあり、これが新陰流の全国的な普及と多様な発展を可能にしたと言えるだろう。

第五章:晩年と終焉の地をめぐる諸説

諸国を巡り、新陰流の普及に努めた上泉信綱であるが、その晩年の活動や最期については、いくつかの説が存在し、明確な定説はない。

  • 晩年の活動に関する記録
    信綱の晩年に関する詳細な記録は比較的少ないものの、弟子たちへの印可状の発給などが確認されており、最期まで新陰流の指導と普及に努めていたことが窺える。永禄8年(1565年)には柳生宗厳 3 や宝蔵院胤栄 3 に印可状を与えている。これらの印可状は、信綱が晩年まで精力的に活動していた証左と言える。
    一部資料には、晩年に肥後熊本藩主・細川忠利の知遇を得て熊本に移り住み、画や工芸にいそしみながら『五輪書』を執筆したとの記述があるが 6、これは宮本武蔵の逸話との混同である可能性が高い(『五輪書』の著者は宮本武蔵である)。信綱の晩年に関する正確な記録は、依然として多くないのが現状である。特定の藩に仕官せず、自由な立場で活動を続けたことが、詳細な記録が残されなかった一因かもしれない。
  • 没年と終焉の地に関する諸説
    上泉信綱の没年および終焉の地については、複数の説が存在し、研究者の間でも意見が分かれている。
    最も広く知られている説の一つは、天正5年(1577年)1月16日に没したとするもので、これは信綱の菩提寺とされる前橋市上泉の西林寺の過去帳に基づくものである 2。西林寺は、信綱の寄進によって開かれたとも伝えられている 5。
    また、『関八州古戦録』や『上野国志』といった史料には、天正5年(1577年)に大和国の柳生谷で亡くなり、そこに墓があるとの記述が見られる 3。ただし、現在、柳生の芳徳寺には信綱の墓ではなく、「柳眼塔」と呼ばれる供養塔が建てられている 12。
    さらに別の説として、天正10年(1582年)に小田原で没したとするものもある。これは、上泉家に伝わる口伝書や、上杉家の記録に基づいている 3。
    その他にも、天正元年(1573年)没とする説 2 や、そもそも生没年不詳とする資料も少なくない 11。
    このように、没年や終焉の地に関する諸説の存在は、信綱の晩年の足跡が広範囲に及び、かつ流動的であったことを示唆している。また、彼の死後もその影響力は大きく、各地で彼を顕彰しようとする動きがあったことの表れとも考えられる。弟子たちが各地にいたため、それぞれの地で信綱の死が伝えられ、墓や供養塔が建てられた結果、複数の伝承が生まれた可能性も否定できない。

第二部:新陰流の創始と兵法

上泉信綱の最大の功績は、新陰流という新たな剣術流派を創始し、その技法と思想を確立したことにある。それは、単なる武技の革新に留まらず、武術のあり方そのものに深い影響を与えるものであった。

第一章:新陰流の確立

  • 新陰流創始に至る背景と経緯
    上泉信綱は、愛洲移香斎から陰流を学んだ後、それに満足することなく、さらに厳しい修練と工夫を重ね、ついに新陰流を創始したと伝えられている 1。一部の資料では、鹿島新当流、陰流、そして小笠原流軍学といった複数の武術や兵法を学び、それらの長所を取り入れ、独自の創意工夫を加えることで新陰流を編み出したとされている 2。
    「新陰流」という名称に含まれる「新」の一字は、既存の陰流を基礎としつつも、それに新たな工夫や理論を加えた、いわば「新しい陰流」であることを示していると考えられる。これは単なる改良ではなく、既存の武術の限界を乗り越えようとする信綱の革新的な精神を象徴している。その革新性は、技法のみならず、武術の思想的側面にも及んでいた。例えば、陰流の奥義である「奇妙」の概念をさらに発展させ、「転(まろばし)」という独自の理論を導き出したことなどが、その証左と言えるだろう 26。
  • 袋竹刀の考案とその意義
    新陰流の確立における特筆すべき功績の一つに、袋竹刀(ふくろしない)の考案がある 1。これは、竹を割って革袋に入れ、現代の竹刀の原型とも言える形状にした稽古具である。
    袋竹刀の考案は、剣術の稽古における安全性を飛躍的に高めた。それまでの稽古では、木刀や場合によっては真剣に近いものが用いられ、常に負傷や生命の危険が伴っていたと考えられる。袋竹刀の導入により、実戦に近い形での打ち込み稽古を安全に行うことが可能となり、多くの門弟がより実践的な訓練を積むことが容易になった。これは、剣術の継承や稽古の方法に大きな改革をもたらし 1、技の伝承と発展に大きく貢献した。信綱が「斬りあいを理論的・体系的にしたことで、剣術の祖と云われている」 1 のも、この袋竹刀による稽古法の確立と無縁ではない。
    さらに重要なのは、袋竹刀の考案が、信綱の「活人剣」(人を活かす剣)という思想と深く結びついている点である。稽古段階での無用な殺傷を避けるという発想は、単なる技術論を超えた、人間尊重の精神の表れであり、新陰流の哲学的側面を具体的に示すものと言える 15。それは、剣術を単なる殺人術ではなく、人間を育成し、社会の平和に貢献する道として捉えようとする信綱の先進的な思想を反映している。

第二章:新陰流の思想的支柱「活人剣」

新陰流の核心をなす思想は、「活人剣(かつにんけん)」である。これは、単に敵を倒すことを目的とするのではなく、より高次な武術のあり方を示す理念であった。

  • 「活人剣」の具体的な教えと意味
    「活人剣」とは、文字通り「人を活かす剣」を意味し、相手の生命を尊重し、無用な殺生を避けるという倫理観を伴う武術思想である 1。これは、戦国乱世という実力主義の時代にあって、非常に先進的な考え方であった。柳生宗矩の言葉を借りれば、剣術は単なる殺人術ではなく、世の平和を維持する兵法の一つであり、またその姿勢であると説かれている 27。
    具体的には、自分の身を守ると同時に、敵の生命をも尊重し、その生を断つことを嫌い、ただその戦闘力を失わしめることを主眼とする兵法であると解説されている 26。また、相手を力でねじ伏せるのではなく、「相手を包み込み、心服させる」 28 という信綱の姿勢も、活人剣の精神に通じるものと言えよう。さらに、構えを一切放棄した「無形の位」に立つことで、本源的な命のはたらきである活人剣が生じるとも説明されている 29。
    この「活人剣」の思想は、単に相手を殺さないという消極的な意味に留まらず、相手を制圧しつつもその能力や人間性を認め、より大きな調和や秩序の形成に貢献するという積極的な意味合いも含むと考えられる。「相手を包み込み、心服させる」という姿勢は、武力による支配ではなく、徳による感化を目指す王道的な思想とも通底するかもしれない。この思想は、後の武士道精神の形成にも少なからぬ影響を与えた可能性がある。
  • 「無刀取り」の思想と実践
    「活人剣」の思想を象徴する技法の一つが「無刀取り」である。これは、武器を持たずに相手の武器を制する技であり、信綱は後に柳生宗厳に対し、この無刀取りの完成を託したと伝えられている 6。
    新陰流の多くの技は無刀取りに応用可能であり、たとえ刀を持たない場合でも、相手に勝つことができるように工夫されている 27。その本質は、相手の懐に素早く入り込み、刀を持つ手を制することであり、「刀を制するのではなく、刀を持った人間そのものを制する」ことにあるとされる 30。
    「無刀取り」は、究極的には武器の有無を超えた心身の練度によって相手を制するという、新陰流の理想を体現する技法と言える。これは「活人剣」の思想とも深く関連し、力対力の争いから脱却し、相手を殺傷せずに制圧するという、より高度な武術の境地を目指す試みと解釈できる。
    柳生宗厳に「無刀取り」の完成を託したという逸話は、信綱が弟子に対して単に技を伝授するだけでなく、自ら工夫し新たな境地を切り開くことを奨励する教育者であったことを示唆している。これは、新陰流が固定化せず、時代とともに発展し続けるための重要な布石であったと言えるだろう。

第三章:新陰流の技法体系

新陰流は、その深遠な思想だけでなく、合理的かつ洗練された技法体系によっても特徴づけられる。

  • 「転(まろばし)」の概念
    新陰流の技法と思想を貫く中心的な概念の一つが「転(まろばし)」である 26。これは、信綱が陰流の「奇妙」の教えをさらに発展させて導き出した理論とされる 26。
    「転」とは、相手の力や動きに力で対抗するのではなく、円を描くように変化し、相手の力を受け流したり利用したりすることで、常に有利な状況を作り出すという身体運用および戦術理論である 31。これは「柔よく剛を制す」という東洋武術に共通する理念とも通じる。具体的には、相手の攻撃に応じて流動的に変化し対応する様を指し、「円転して滞らぬ事」「盤を走る珠の如く円転自在な働き」と表現される 31。
    この「転」の思想は、剣術における対立の構造を、二元的な衝突から流動的な調和へと転換させる試みと解釈できる。敵を単に打ち破る対象としてではなく、自己の動きを生み出すきっかけとして捉えることで、無限の変化と対応が可能になるという、武術の深奥に迫る哲学的境地を示唆しているのかもしれない。
  • 主要な形(勢法)の解説
    新陰流には、「勢法(せいほう)」と呼ばれる多くの形が存在し、それぞれが特定の戦術思想や哲学的背景を体現している。
  • 三学円の太刀(さんがくえんのたち) : 上泉信綱が「転」の道を象徴して新たに創出した形であり、その名は禅語に由来する 31 。仏教における「戒・定・慧」の三学を武芸に当てはめ、稽古鍛錬(戒)、熟達して惑いのない境地(定)、敵に応じて対処法が自ずと発現する様(慧)と解釈される 31 。また、「円の太刀」とは、孫子の兵法にある「渾々沌々として形円にして敗るべからず」という言葉に因み、円転して滞りのない動きを意味する 31 。この形は、敵に先に攻撃させ、その動きに応じて後の先で打ち、攻め詰めて勝利を得るという「待」の心持ちの剣術であり、敵方を新当流と想定している 31
  • 燕飛(えんぴ) : 愛洲移香斎の「猿飛」の形を、上泉信綱がさらに発展させたもので、古くは表の太刀筋とされた 31 。技が途切れることなく循環し、連続して繰り出されるのが特徴である 31 。攻めたり(懸)、待ったり、表を見せて裏を攻めたりと常に変化し、攻防一体となって敵の出方に応じて転変することを旨とする 31
  • 九箇之太刀(くかのたち) : 念流、新当流、陰流など、諸流派の極意とされる太刀筋の中から九つを選び出し、新陰流の形として取り入れたものである 31 。動かない敵に対し、こちらから先に仕掛け、その動きに乗じてきた敵の動きに合わせ、先の先で打ち詰めて勝利を得るという「懸」の刀法であり、「三学円の太刀」の「待」の剣に対するものとされる 31
  • 天狗抄(てんぐしょう) : 兵法は本来無形のものであるが、敵に応じて形を成すことを本源とすることから「天狗勝」と名付けられ、後に優れた技を選び出したという意味で「勝」の字を「抄」に替えたという説がある 31 。構えを基本とし、こちらから仕掛け、実際に切り結ぶ前の、目には見えない敵の心の動きの変化に従い、表裏の技を駆使して敵を破る太刀である 31

これらの形は、単なる技の連続ではなく、それぞれが特定の戦術思想や哲学的背景を体現しており、新陰流が技と心を一体として捉える武術体系であることを示している。新陰流の形が、既存の諸流派の技(九箇之太刀など)を取り込みつつ、独自の思想(三学円之太刀の「転」など)に基づいて新たな技法体系を構築している点は、信綱の総合性と革新性を同時に示している。これは、伝統を尊重しつつもそれに囚われず、新たな価値を創造しようとする武術家の理想像を提示していると言えるだろう。

  • 新陰流の剣技の特徴
    新陰流の剣技は、その身体運用法にも大きな特徴がある。特に重視されるのは、身体全体の動きと捌きであり、刀の操作技術そのものよりも、刀を扱う身体の使い方に焦点が当てられている 27。
    技は全て体幹の動きによって繰り出され、腕や足先といった末端の筋肉に頼ることはほとんどないとされる 27。新陰流の理論においては、「筋肉の強さが技の強さを意味することはない」とされ 27、力に頼らない合理的な力の運用を目指している。これにより、体格や腕力に劣る者でも、強大な相手と互角以上に渡り合える可能性が開かれる。
    このような体幹を重視し、全身の調和した動きを求める新陰流の身体運用法は、現代のスポーツ科学や武道における身体論とも通じる普遍的な合理性を持っている。これは、信綱が経験則だけでなく、人体の構造や運動原理に対する深い洞察を持っていたことを示唆しており、新陰流が単なる古武術に留まらず、現代にも通じる価値を持つ理由の一つと言えるだろう。

第三部:弟子たちと流派の広がり

上泉信綱の教えは、彼自身の手によってのみならず、数多くの優れた弟子たちを通じて全国各地へと広まり、さらに多様な流派へと発展していった。

第一章:主要な弟子たち

上泉信綱は生涯を通じて多数の弟子を育成したが、中でも特に名高いのは、疋田豊五郎景兼、神後伊豆守宗治、奥山休賀斎公重、そして丸目蔵人佐長恵であり、彼らは「上泉門下の四天王」と称されることもある 23

  • 柳生但馬守宗厳(石舟斎) : 信綱の弟子の中で最も名高く、新陰流を継承し、後に「柳生新陰流」として大成させた人物である 1 。宗厳とその子・宗矩の代には、柳生新陰流は徳川将軍家の兵法指南役となり、「天下一の兵法」と称されるほどの隆盛を極めた 24
  • 丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし) : 肥後国(現在の熊本県)の剣豪で、タイ捨流の開祖として知られる 23 。信綱から学んだ新陰流に、自身の戦場での経験や創意工夫を加え、甲冑を着用した武者を倒すための実戦的な剣術を編み出した 24
  • 疋田豊五郎景兼(ひきたぶんごろうかげかね) : 越前国(現在の福井県)出身の剣豪で、疋田陰流(または新陰疋田流)の祖とされ、剣術のみならず槍術にも優れた 23
  • 神後伊豆守宗治(じんごいずのかみむねはる) : 神後流の祖と伝えられるが、その詳細は不明な点も多い 23
  • その他にも、宝蔵院流槍術で名高い宝蔵院胤栄も信綱と交流があり、新陰流を学んだとされる 1 。また、松田織部助清栄(松田新陰流、新影幕屋流) 23 や駒川太郎左衛門尉国吉(駒川改心流) 23 など、多くの弟子たちが各地で新陰流を広め、あるいは独自の流派を創始していった。

信綱の弟子たちが、それぞれ独自の流派を創始したり、新陰流を各地に広めたりしたことは、信綱の指導力と新陰流の持つ懐の深さを示している。単一の型に固執せず、弟子たちの個性や創意工夫を許容する気風があったのかもしれない。柳生宗厳に「無刀取り」の考案を託した逸話 6 も、このような指導方針の表れと見ることができる。この柔軟性が、新陰流が多様な形で後世に伝播し、発展する原動力となった。

表2:新陰流 主要門弟と関連流派一覧

弟子名

主な流派名

特徴など

柳生但馬守宗厳(石舟斎)

(柳生)新陰流

徳川将軍家兵法指南役。無刀取りなどを深化。「活人剣」の思想を発展させた。

丸目蔵人佐長恵

タイ捨流

新陰流を基に甲冑武者との実戦を想定。忍術的要素も含む総合武術。九州を中心に広まる。

疋田豊五郎景兼

疋田陰流

剣術に加え、槍術(特に管槍)にも優れる。諸藩で伝承された。

神後伊豆守宗治

神後流

四天王の一人。詳細は不明な点も多い。

宝蔵院胤栄

(新陰流を学ぶ)

宝蔵院流槍術の開祖。信綱と交流し、新陰流の印可も受けたとされる。

松田織部助清栄

新影幕屋流

駒川太郎左衛門尉国吉

駒川改心流

奥山休賀斎公重

神影流、奥山流

四天王の一人。多くの分派(直心影流、無住心剣流など)の源流の一つとなる。

この表は、新陰流が信綱一代で完結したものではなく、多くの優れた弟子たちによって継承・発展し、日本の武術界に広範な影響を与えたことを示している。

第二章:柳生宗厳への印可と新陰流の継承

数多くの弟子の中でも、柳生宗厳は新陰流の継承において特別な位置を占める。信綱から宗厳への印可は、新陰流の正統な伝承を確固たるものにした。

  • 印可状の詳細と意義
    永禄8年(1565年)4月、上泉信綱は柳生宗厳に対し、新陰流の印可状を与えた 3。この印可状は現存しており、柳生家に代々伝えられている 3。印可状の中で信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と署名していることが確認されている 3。
    ある資料によれば、信綱は「一国に一人」の後継者として柳生宗厳を選び、新陰流の全てを印可相伝したと記されている 1。また、柳生宗厳が信綱から託された「無刀取り」の工夫を完成させたことを受け、信綱が「新陰流兵法第二世」の印可を授けたという伝承もある 6。
    これらの印可は、新陰流が組織的に継承され、後世へと伝えられる体制が確立されたことを意味する。特に「一国一人」の後継者という言葉は、信綱が宗厳の才能と人格を極めて高く評価し、新陰流の正統な継承者として認めたことを強く示唆している。これにより、新陰流の正統性が柳生家へと引き継がれる道筋が明確になり、後の柳生新陰流の隆盛へと繋がっていく。
  • 柳生新陰流の成立と発展
    柳生宗厳は、信綱から受け継いだ新陰流をさらに練磨し、発展させ、一般に「柳生新陰流」として知られる流派を確立した(ただし、正式な流儀名は新陰流である) 1。
    柳生新陰流は、宗厳の子である柳生宗矩の代に、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍家の兵法指南役という最高の地位を得るに至る 20。これにより、柳生新陰流は幕府公認の武術、いわば「御流儀」となり、江戸時代を通じて武士階級の必須教養の一つとして広く学ばれることとなった。
    柳生新陰流が将軍家の御流儀となったことは、新陰流の社会的地位を飛躍的に高め、その思想や技術が武家社会全体に大きな影響を与える要因となった。「活人剣」の思想も、泰平の世における武士のあり方を示すものとして重視され、徳川三百年の平和な時代の武士道精神の形成に寄与したと考えられる 1。

第三章:新陰流から派生した諸流派

新陰流は、柳生新陰流としてその正統が受け継がれる一方で、信綱の他の弟子たちによっても各地に伝えられ、そこからさらに多くの分派が生まれていった。

  • タイ捨流、疋田陰流などの特徴
  • タイ捨流 : 丸目蔵人佐長恵が創始した流派で、九州の肥後相良藩を中心に伝えられた 23 。新陰流を基盤としつつ、甲冑を着用した武者との戦いを想定した実戦的な技法や、時には忍術的な要素(裏太刀)も取り入れた総合武術としての側面を持つ 24 。その剣風は、体を跳び違え、素手による突きや蹴り、柔術の投げ技なども含む激しいものであったと伝えられる 36 。流派名を「タイ捨流」と片仮名で表記したのは、漢字を用いると技術や精神が文字の固定的な意味に縛られてしまうことを避けるためであったという 24
  • 疋田陰流 : 疋田豊五郎景兼が伝えた系統で、剣術だけでなく、槍術(特に二間(約3.6メートル)の素槍に「管」を通して用いる技法)や薙刀術も含む総合的な武術であった 23 。防具を装着しての試合形式の稽古を重視し、鳥取藩、岡山藩、松山藩など全国各地の藩で伝えられた 34
  • その他にも、神後伊豆守宗治の神後流、奥山休賀斎公重の神影流(後に直心影流や無住心剣流などの源流の一つとなる)、駒川太郎左衛門尉国吉の駒川改心流など、数多くの流派が新陰流から派生した 23

新陰流からこのように多様な流派が派生した事実は、新陰流の教えが固定的なものではなく、各人の解釈や工夫を受け入れる柔軟性を持っていたことを示している。また、それぞれの流派が特定の地域や特定の武術分野(例えばタイ捨流の対甲冑戦闘、疋田陰流の槍術)に特化して発展したことも興味深い点である。これは、信綱の教えが、弟子たちがそれぞれの戦場経験や得意分野に応じて技を変化・発展させることを許容、あるいは奨励するものであった可能性を示唆する。

  • 後世の武術への影響
    上泉信綱が創始した新陰流、そしてそこから派生した柳生新陰流やその他の諸流派は、江戸時代を通じて多くの武術家に学ばれ、日本の武術界全体に広範かつ深遠な影響を与えた。新陰流の系譜からは、さらに多くの分派が生まれ、その技法や思想は形を変えながら現代武道にも受け継がれていると考えられる 23。
    例えば、合気道の開祖である植芝盛平が、新陰流を学んだとされる人物から影響を受けた可能性が示唆されている史料も存在する 32。また、新陰流の構えが、剣術の別の一大流派である一刀流系統の構えと酷似している点が指摘されており 37、これは流派間の技法や思想が相互に影響し合いながら発展していった武術史の複雑な様相を示している。
    新陰流が後世の武術に広範な影響を与えた要因としては、第一に袋竹刀の考案による稽古法の確立が挙げられる。これにより安全かつ実践的な稽古が可能となり、技術の習得と普及が飛躍的に進んだ。第二に、体幹を重視し、相手の力に応じて変化する「転」の理合に代表される、普遍的かつ合理的な身体運用原理である。そして第三に、「活人剣」に代表される高い精神性である。これらの要素が複合的に作用し、新陰流は単なる一剣術流派を超え、日本の武道文化の形成に大きく寄与したと言えるであろう。

第四部:上泉信綱をめぐる史料と評価

上泉信綱という人物の実像を明らかにするためには、彼に関する様々な史料を批判的に検討し、それらがどのように彼の評価を形成してきたかを理解する必要がある。

第一章:主要史料とその記述

  • 『甲陽軍鑑』における記述と評価
    『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼父子の事績を中心に記した江戸時代初期成立の軍学書であり、上泉信綱に関する興味深い逸話が収録されている。その代表的なものが、箕輪城落城後、武田信玄が信綱の仕官を勧めたが断られ、その際に信玄が自らの名から「信」の一字を与えて「信綱」と改名させたとされる話である 3。
    この記述は、信綱の武名が敵方であった武田家中にも轟いていたことを示す証左として価値がある。しかし、『甲陽軍鑑』は後世の加筆や創作も含まれるとされており、史料としての取り扱いには慎重さが求められる。信綱に関する逸話も、その武名を高めるための脚色が含まれている可能性は否定できない。とはいえ、この逸話が後世に広く受け入れられたこと自体が、信綱の評価の高さを物語っていると言えよう。たとえ史実でなくとも、このような逸話が生まれるほど、信綱の存在が際立っていたと解釈できる。
  • 『本朝武芸小伝』における記述と評価
    江戸時代中期に成立した武芸史書である日夏繁高の『本朝武芸小伝』にも、上泉信綱に関する記述が見られる 38。巻六の「神後伊豆守」の項では、信綱が京の賀茂神社(下鴨神社)に参籠して霊夢を得、源義経が奉納したという伝書を授かり、それに基づいて「神陰流」と号したという、一般的な陰流からの派生説とは異なる異説を紹介している 39。
    この記述は、新陰流の起源に関する多様な伝承が存在したことを示しており、流派のアイデンティティ形成において、歴史的事実だけでなく、神話的・伝説的な要素も重要であったことを示唆している。『本朝武芸小伝』がこのような異説を収録していることは、当時の武芸界における流派の多様な自己認識を反映していると言える。ただし、これもまた史実性の検証が必要な伝承の一つと見なすべきであろう。
  • 『言継卿記』などの同時代史料
    上泉信綱の京での活動を伝える上で極めて重要なのが、公卿・山科言継の日記である『言継卿記』である。この日記には、信綱が「大胡武蔵守」または「上泉武蔵守信綱」として度々登場し、言継と親しい交友があったことが記録されている 1。
    これは、信綱が京で活動していた時期の確実な同時代史料であり、彼の社会的地位や交流関係を知る上で非常に価値が高い。『言継卿記』の記述は、信綱が単に武芸に秀でていただけではなく、都の知識人層とも交流できる教養と社会的地位を持っていたことを裏付けている。これは、新陰流が武士階級だけでなく、より広い層に受け入れられる素地となった要因の一つと考えられる。
  • その他の研究文献
    近現代においても、上泉信綱に関する研究は続けられている。諸田政治氏による『上毛剣術史 中 剣聖上泉信綱詳伝』 2 や、信綱の生誕五百年を記念して刊行された『剣聖上泉伊勢守信綱公生誕五百年記念誌』 40 などは、その代表的なものである。これらの文献は、過去の史料の再検討や新たな視点からの分析を通じて、信綱の実像や新陰流の歴史的意義を多角的に明らかにしようとする試みである。
    特に、信綱の故郷である群馬県関連の地域史研究は、彼の出自や初期の活動を理解する上で重要な情報を提供している。また、永岡慶之助氏の著作『上泉信綱』のように、新史料への言及や現代の新陰流師範への取材など、熱意ある研究に基づいた評伝も存在する 41。これらの研究を通じて、断片的であった信綱像がより具体的かつ多面的に再構築されつつある。

第二章:剣聖としての評価と後世への影響

上泉信綱は、後世「剣聖」と称えられ、その名は日本の武術史において特別な輝きを放っている。

  • 「剣聖」と称される所以
    上泉信綱が「剣聖」と称されるのは、単に剣技が卓越していたからだけではない。新陰流という一大流派を創始したこと、稽古における安全性を高めた袋竹刀を考案したこと、そして何よりも「活人剣」という深遠な武術思想を提唱し、柳生宗厳をはじめとする多くの優れた弟子を育成したことなど、その多岐にわたる業績が総合的に評価された結果である 1。
    戦国時代の剣豪として塚原卜伝と並び称され、生前のうちに既にその栄誉を極め、「生ける伝説」として生涯を全うしたと評されることもある 10。「剣聖」という評価は、単に一時代における強さだけでなく、武術のあり方そのものに革新をもたらし、後世にまで続く大きな影響を与えた人物に対して与えられる、最高の敬称と言えるだろう。
  • 現代における上泉信綱像と史跡
    上泉信綱の功績は、現代においても様々な形で顕彰されている。彼の故郷である群馬県前橋市には、上泉自治会館に建てられた銅像 1 や生誕の地碑 1、そして菩提寺とされる西林寺 1 など、信綱ゆかりの史跡が数多く残されている。西林寺には、信綱の墓とされるものの他に、正親町天皇から拝領したと伝えられる御前机や、柳生石舟斎に与えた印可状の写し、信綱が考案した袋竹刀などが保存されていると伝えられる 5。
    前橋市では毎年「新陰流流祖祭」が開催されるなど 1、現代においてもその遺徳を偲ぶ活動が続けられている。また、歴史小説や研究書、さらにはゲームのキャラクターとして登場するなど 4、その人物像は多様な形で現代に語り継がれている。
    これらの史跡の保存や顕彰活動、そして研究の継続は、上泉信綱が歴史上の人物としてだけでなく、現代においても文化的な価値を持つ存在として認識されていることを示している。それは、信綱が単なる過去の人物ではなく、現代文化の一部として生き続けている証左と言える。

終章:上泉信綱が遺したもの

上泉信綱が日本武術史、そして後世の文化に遺したものは計り知れない。

  • 日本武術史における上泉信綱の功績の総括
    上泉信綱の功績は多岐にわたる。新陰流という独創的な剣術流派を創始し、それを全国に普及させたこと。袋竹刀という画期的な稽古具を考案し、剣術の稽古法に一大革新をもたらしたこと。そして何よりも、「活人剣」という深遠な武術思想を提唱し、柳生宗厳をはじめとする数多くの優れた武術家を育成したこと。これらの功績は、日本の武術史において不滅の価値を持つ。
    ある研究者は、「近世日本の文化史のなかで、武芸が占め続けた独特の地位の高さは、信綱の創造によるところが極めて大きい」と評価している 2。まさに上泉信綱は、戦国時代の殺伐とした剣術を、技術的にも思想的にも洗練させ、近世以降の「武道」の発展における重要な礎を築いたと言える。彼の出現によって、武術は単なる戦闘技術から、人間形成の道としての側面を強く持つようになったのである。
  • 新陰流の思想と技術の現代的意義
    上泉信綱が遺した新陰流の思想と技術は、数百年を経た現代においても、その輝きを失っていない。「活人剣」の思想に見られる生命尊重や平和希求の精神、他者との調和を目指す「転」の理念、そして力に頼らない合理的な身体運用法などは、現代社会が直面する様々な課題に対処するための知恵や、より良い生き方を模索するための示唆を与えてくれる可能性がある。
    「上泉伊勢守の精神は『活人剣』であり、人を活かす精神として徳川三百年の礎を築き、明治・大正・昭和の時代を経て脈々と伝わり、そしてこれからも末永く、広く人々の生活や仕事など多方面に活かされていくことと思います」という言葉 1 は、まさに新陰流の持つ現代的意義を的確に表していると言えよう。
    上泉信綱と彼が生み出した新陰流は、日本の武術史における金字塔であると同時に、現代に生きる我々にとっても、その精神性や合理的な思考法から学ぶべき点が多い、普遍的な文化的遺産なのである。

引用文献

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  2. 上泉信綱(かみいずみのぶつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BF%A1%E7%B6%B1-883761
  3. 上泉信綱とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BF%A1%E7%B6%B1
  4. 【信長の野望 出陣】上泉信綱(剣聖)のおすすめ編成と評価 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/nobunaga-shutsujin/article/show/436958
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  9. 第12話 新陰流その3 - 独断と偏見による日本の剣術史(@kyknnm) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054887946957/episodes/1177354054888304283
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  14. 高崎の旅 上泉信綱の墓(西林寺) | 旅と史跡 ~ 関東近郊の史跡巡り ~ http://tabitoshiseki.blog.fc2.com/blog-entry-677.html
  15. 信綱は、十代の半ばで鹿島に行き、松本備前守に剣を学び、帰郷後 ... https://www.kamiizumi.net/isenokami/isenokami.html
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  42. 【真 戦国炎舞】上泉信綱SSR24の評価と性能 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/sengokuenbu/article/show/296451