西暦(和暦) |
中坊秀祐と筒井家の動向 |
畿内・天下の情勢 |
1551年(天文20年) |
中坊盛祐の次男として誕生 1 。幼名は藤松。 |
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1568年(永禄11年) |
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織田信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
1569年(永禄12年) |
11月、得度し「飛騨公英祐」と改名 1 。 |
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1571年(元亀2年) |
辰市城の戦いで筒井順慶が勝利後、筒井氏に帰参 2 。 |
筒井順慶、明智光秀の斡旋で織田信長に臣従。 |
1573年(天正元年) |
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室町幕府滅亡。 |
1582年(天正10年) |
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本能寺の変。織田信長死去。 |
1584年(天正12年) |
主君・筒井順慶が死去。養子の定次が家督を継承 3 。 |
小牧・長久手の戦い。 |
1585年(天正13年) |
筒井定次、伊賀上野20万石へ転封 3 。 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
1586年(天正14年) |
灌漑用水を巡り島清興(左近)と対立。定次の裁定により清興は筒井家を出奔 4 。 |
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1592年(文禄元年) |
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文禄の役(朝鮮出兵)開始。 |
1600年(慶長5年) |
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関ヶ原の戦い。徳川家康が勝利。 |
1603年(慶長8年) |
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徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。 |
1608年(慶長13年) |
主君・筒井定次の不行状を徳川家康に訴え、筒井家は改易となる 3 。 |
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改易後、幕府旗本となり奈良奉行に就任。大和国吉野郡に3500石を与えられる 1 。 |
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1609年(慶長14年) |
2月29日、伏見にて死去。筒井家旧臣・山中氏による暗殺説がある 1 。 |
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日本の戦国史において、中坊秀祐(なかのぼう ひですけ)という名に付与される評価は、極めて厳しい。一般に彼は、「筒井家の有能な家臣であった島左近(清興)と対立してこれを追い出し、ついには主君・筒井定次を裏切って讒言し、名門・筒井家を改易の淵に沈めた奸臣」として記憶されている 5 。この評価は、主君への「忠義」を武士の至上の徳と見なす価値観に照らせば、ある意味で当然の帰結と言えるかもしれない。
しかし、この単純な悪臣というレッテルは、彼の生涯の複雑な実像を覆い隠してしまう。もし彼が単なる奸臣であったならば、なぜ主家を滅ぼした直後、天下人となった徳川家康によって旗本に取り立てられ、奈良奉行という畿内の要職と3500石もの知行を与えられるという破格の厚遇を受けたのであろうか 1 。主君を売った裏切り者が、新たな支配体制の中枢で重用される。この一点だけでも、彼が単なる私利私欲に走った小物ではなく、家康にその能力と行動を高く評価されるだけの、ある種の「価値」を持った人物であったことを示唆している。
さらに謎を深めるのは、彼の「名」の問題である。同時代の信頼性の高い史料である興福寺多聞院の僧侶、英俊が記した『多聞院日記』において、彼の名は一貫して「秀祐(ひですけ)」ではなく、「英祐(えいゆう)」と記されている 1 。これは単なる表記の揺れなのか、それとも彼の出自や政治的立場を解き明かすための重要な鍵なのか。
本報告書は、この「奸臣」と「有能な幕臣」という二つの相反する顔、そして「秀祐」と「英祐」という二つの名を持つ中坊秀祐という人物の生涯を、あらゆる角度から徹底的に検証するものである。彼の行動原理を、その出自や大和国という特殊な政治風土、そして戦国末期から江戸初期へと至る時代の大きな価値観の転換の中に位置づけることで、「悪」の一文字では到底割り切れない、一人の武将のリアリズムと生存戦略の軌跡を明らかにしていく。
中坊秀祐の複雑な行動原理を理解するためには、まず彼が属した「中坊氏」という一族が、大和国においていかなる歴史的背景と特質を持っていたかを知る必要がある。江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』などの系図によれば、中坊氏は菅原道真の後裔、あるいは藤原北家の流れを汲む名門として記録されている 1 。しかし、より史実性の高い彼らの姿は、大和国の宗教的・政治的中核であった興福寺と深く結びついている。
中坊氏は、元々山城国笠置寺の宗徒であったが、後に奈良へ移り、興福寺の「官符衆徒(かんぷしゅうと)」、特にその実務執行機関である「沙汰衆(さたしゅう)」を世襲する家系であった 1 。官符衆徒とは、寺社の荘園管理や治安維持、裁判権(検断)といった行政・司法・警察権を担う、いわば武装した寺院官僚とも言うべき存在である。彼らは僧兵のようでありながら、在地武士としての側面も併せ持ち、宗教的権威と世俗的な実務能力を兼ね備えた、大和国独自の社会階層を形成していた。秀祐が後年発揮する優れた行政手腕や計算高さの源泉は、この一族の出自に求めることができる。
天文20年(1551年)、秀祐は中坊盛祐の次男として生を受けた。幼名は藤松と伝わる 1 。そして彼の青年期において、その後のキャリアを方向づける重要な出来事が起こる。永禄12年(1569年)、当時19歳の藤松は得度、すなわち仏門に入り、「飛騨公英祐(ひだのきみ えいゆう)」と名を改めたのである。この事実は、同時代の第一級史料である『多聞院日記』に明確に記されている 1 。研究者の田中慶治氏が指摘するように、僧侶となったからにはその名は「えいゆう」と読むのが自然であり、一般に知られる「秀祐(ひですけ)」は、後世の誤記か、あるいは別の理由で改名した後の名である可能性が高い 1 。
この「英祐」から「秀祐」への名の変遷は、彼の政治的キャリアそのものを象徴している。研究者の天野忠幸氏は、彼が後に大和を席巻する松永久 秀 から偏諱(名前の一字を与えられること)を受け、「英祐」から「秀祐」へと改名した可能性を指摘している 1 。この説に従うならば、彼の名前は二つの異なるアイデンティティを物語っていることになる。すなわち、興福寺の伝統的権威を背景に持つ大和の旧来エリートとしての「英祐」と、戦国の下剋上を体現する新興実力者・松永久秀の支配下に入ることで世俗の武将へと変貌した「秀祐」である。彼の生涯は、この「伝統的権威に根差す官僚」と「戦国の実力主義を生きる武将」という二つの側面を内包しながら展開していくことになる。
中坊秀祐が青年期を過ごした16世紀後半の大和国は、激動の時代であった。長らく大和を支配してきた筒井氏の力に陰りが見える中、畿内に一大勢力を築いた三好長慶の家臣・松永久秀が台頭し、大和の支配権を巡って両者は熾烈な抗争を繰り広げていた 8 。
こうした権力闘争の渦中において、中坊氏のような在地領主(国人衆)が生き残るためには、極めて現実的な判断が求められた。特定の主君に殉じる「忠義」よりも、その時々で最も有力な勢力に従い、一族と所領の安堵を確保することが最優先課題であった。この時期、松永氏の勢力が筒井氏を圧倒すると、中坊氏は他の多くの国人衆と同様に、一時的に松永氏に鞍替えしたと見られている 2 。これは、後年の彼の行動にも通底する、冷徹なまでのリアリズムと状況判断能力の現れであったと言えよう。彼は、大和の伝統的権威の象徴である筒井氏よりも、眼前の実力者である松永氏に従うことこそが、一族の存続に繋がる道であると判断したのである。
しかし、戦局は常に流動的である。元亀2年(1571年)、筒井順慶は織田信長の支援を得て勢力を盛り返し、辰市城の戦いで松永軍に決定的な勝利を収める。この力関係の逆転を好機と見た秀祐は、再び筒井氏の陣営に帰参する 2 。
信長の畿内平定という新たな政治秩序の下で大和一国の支配を認められた筒井順慶にとって、秀祐のような人物は極めて有用な存在であった。興福寺官符衆徒としての出自を持ち、大和国内の複雑な利害関係や統治の実務に精通した秀祐の行政手腕は、順慶が大和国主としての支配を確立していく上で不可欠であったと考えられる 9 。秀祐は、順慶の下でその官僚的才能を存分に発揮し、徐々に筒井家中で頭角を現していく。彼の帰属先の変更は、単なる日和見主義的な裏切りではなく、自らの能力を最も高く評価し、活用してくれる庇護者を的確に見出すという、計算された戦略であった。この経験は、主君を絶対的な忠誠の対象としてではなく、自らの能力を活かすためのパートナーとして捉える、彼の独特な主従観を形成する上で決定的な役割を果たしたに違いない。
天正12年(1584年)、筒井家の屋台骨を支えてきた名君・筒井順慶が病没する。跡を継いだのは、順慶の従弟であり養子であった若年の筒井定次であった 3 。指導者の交代は、家中のパワーバランスに決定的な変化をもたらし、かねてから燻っていた内部対立を表面化させることになる。その象徴が、中坊秀祐と、後に石田三成の腹心として天下に名を轟かせる島清興(左近)との確執であった。
島清興は、「筒井家の右腕」と称された猛将であり、その軍事的能力は家中随一であった。一方の中坊秀祐は、前述の通り行政手腕に長けた官僚タイプの武将である。いわば、清興が筒井家の「武」を、秀祐が「文」を象徴する存在であり、先代の順慶はこの「両輪」を巧みに使いこなすことで、大和の支配を安定させていたと考えられる。しかし、統率力に欠ける若き主君・定次の下で、この絶妙なバランスは崩壊する。
天正14年(1586年)、筒井家が伊賀へ転封された後、事件は起こる。領内の灌漑用水の利用を巡って、秀祐と清興の間で深刻な争いが生じたのである 4 。この水利問題の裁定を任された主君・定次は、あろうことか秀祐の主張を全面的に認める判断を下した。この裁定は、単に水の問題に留まらず、家中の実権が「武」の清興から「文」の秀祐へと完全に移行したことを示すものであった。定次が、軍事の重鎮である清興よりも、日常的に政務を補佐し、身近に仕える秀祐の言を信じた、あるいは秀祐の政治的工作に取り込まれていた可能性は高い。
この裁定を、自らの功績と面目を踏みにじるものと受け取った清興は、憤慨の末に筒井家を出奔する 5 。重要なのは、この時期に筒井家を去ったのが清興だけではなかったという事実である。後の有力大名となる松倉重政や、森好高といった家中の有力な武将たちも、相次いで定次の下を去っている 5 。史料が「秀祐らの台頭と専断があった」と記すように 5 、これら一連の家臣の離反は、秀祐が主君を後ろ盾に反対派閥を粛清し、家中における権力を一手に掌握した結果と見るべきである。
秀祐は、この権力闘争に勝利した。しかし、それは筒井家にとって致命的な損失を伴う「成功」であった。最強の武将とそれに連なる家臣団を失ったことで、筒井家の軍事力は著しく弱体化し、組織としての屋台骨は大きく傾いた。秀祐は自らの権力基盤を固めるために、自らが仕える家の寿命を、その手で縮めてしまったのである。
天正13年(1585年)、筒井家は豊臣秀吉の命により、本拠地であった大和国から伊賀国上野へ20万石で転封となる 3 。これは石高の上では栄転であったが、先祖代々の土地から引き離され、統治の難しい土地へ移されるという側面も持っていた。
新領地・伊賀での統治は、当初から多難を極めた。入封直後に発生した大規模な一揆への対応を巡り、家臣団は「武力鎮圧派」と「講和派」に分裂。主君の定次は講和を望んだものの、強硬派の家臣を抑えることができず、戦闘へと突入してしまう 3 。結局、武力だけでは鎮圧できず、定次らが介入してようやく事態を収拾したこの一件は、若き当主のリーダーシップの欠如と、島清興らの出奔によって深刻化していた家中の不統一を白日の下に晒すものであった。
家中を掌握したはずの秀祐にとっても、この状況は看過できるものではなかっただろう。そして、主君・定次への不信感を決定的にしたのが、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際のできごとである。定次は手勢を率いて肥前名護屋城に在陣したが、朝鮮へ渡海することはなかった 11 。問題は、この名護屋での陣中生活にあった。『和州諸将軍伝』によれば、定次は「酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させた」という 5 。
この「憂慮」という言葉に、秀祐の複雑な心境が凝縮されている。それは、主君の身を案じる忠臣の嘆きという純粋な感情だけではなかったはずだ。島清興らを排除し、自らが筒井家の実権を握った秀祐にとって、この家はもはや「自分が切り盛りする組織」であった。その組織のトップである定次が、リーダーシップを発揮できないばかりか、対外的な公務の場で不行状を重ねることは、秀祐が築き上げた権力基盤そのものを揺るがし、組織全体の評価を失墜させる行為に他ならない。「このままでは、この家も、そして自分のキャリアも破綻する」―秀祐の「憂慮」とは、こうした極めて現実的な危機認識の発露であったと解釈できる。
この時点で、秀祐の中で筒井定次は「守り育てるべき主君」から、組織の存続を脅かす「切り捨てるべきリスク要因」へと、その認識が変質し始めていた可能性が高い。彼の後の行動は、この主君への見切りと、自らの将来への危機感の延長線上にあると考えるのが、最も自然な解釈であろう。
天下分け目の関ヶ原の戦いを経て、世は豊臣から徳川へと大きく舵を切った。この新たな時代の到来は、中坊秀祐に最後の、そして最大の大博打を打つ決意を固めさせた。慶長13年(1608年)、秀祐はついに主君・筒井定次の不行状を、天下人・徳川家康に直訴するという挙に出る。これにより、大和の名門・筒井家は改易され、その歴史に幕を閉じることになった 3 。
この主家を破滅させた訴えの動機は、重層的に分析する必要がある。まず、個人的な動機として、秀祐と定次の間には決定的な亀裂が生じていた。一説には、秀祐が息子の秀政に自らの役目を譲ろうとした際、定次にこれを拒否されたことが直接の引き金になったとも言われている 3 。長年にわたる主君への不満が、この一件で爆発したという見方である。
しかし、この事件は単なる一個人の怨恨や、お家騒動の次元に留まるものではない。その背後には、徳川家康による天下統一事業という、より大きな政治的文脈が存在した。家康にとって、豊臣家が依然として影響力を持つ大坂城にほど近い、戦略的要衝・伊賀の地は、極めて重要であった。その伊賀を、豊臣恩顧の大名である筒井定次が治めている状況は、将来の豊臣家との決戦を見据えた場合、看過できないリスクであった。家康は、定次を排除し、外様でありながら自身への忠勤に厚い藤堂高虎を伊賀に配置することで、大坂包囲網の重要な一角を築こうとしていた 3 。
ここに、中坊秀祐の個人的動機と、徳川家康の政治的戦略とが、奇跡的に利害の一致を見る。秀祐は、関ヶ原以前から家康の側近である大久保長安と旧知の間柄であり、徳川方とのパイプを既に構築していた 3 。彼は、自らの不満を解消し、新たな支配者である徳川の下で生き残るために、家康がまさに求めていた「定次を排除するための口実」を、自ら進んで提供したのである。秀祐が訴え出た定次の不行状(酒に溺れるなどの失政)は、家康にとってまさに渡りに船であった 3 。
したがって、筒井家改易は、中坊秀祐の訴えという「引き金」と、徳川家康の周到な戦略という「弾丸」とが組み合わさって実現した、「合作」であったと言える。秀祐は単なる告発者ではなく、徳川幕府による新たな地方支配体制の再編に、能動的に協力する「エージェント(代理人)」としての役割を果たしたのである。それは、かつて松永氏と筒井氏の間を渡り歩いた彼のリアリズムの、究極的な発露であった。
主家を改易に追い込むという大役を果たした中坊秀祐に対し、徳川家康からの論功行賞は破格のものであった。彼は筒井家の旧臣という立場から一躍、徳川幕府の直臣である旗本に取り立てられ、かつての主家の本拠地であった大和の行政を司る奈良奉行に任命された 1 。さらに、大和国吉野郡に3500石という、一介の奉行としては異例とも言える知行を与えられた 1 。この厚遇は、彼の行動が徳川幕府にとって、いかに価値のある「功績」と見なされたかを何よりも雄弁に物語っている。彼は、旧時代の主従関係を清算し、新時代の勝者として栄光の頂点に立ったかに見えた。
しかし、その栄華はあまりにも短かった。慶長14年(1609年)2月29日、奈良奉行就任からわずか半年後、秀祐は滞在先の伏見にて59年の生涯を閉じる 1 。その死は、病死ではなく、極めて暴力的なものであったと伝えられている。
複数の史料が一致して示唆するのは、「筒井家臣時代の同僚であった山中氏に暗殺された」という説である 1 。この「山中氏」が具体的に誰を指すのかは定かではないが、文脈から考えて、改易によって禄を失い、主家を滅ぼされたことを恨む筒井家の旧臣による、復讐であった可能性が極めて高い。
秀祐の最期は、彼の生涯を象徴する皮肉な結末であった。彼は、徳川幕府という新たな秩序の中で、自らの官僚としての能力を最大限に評価され、成功を収めた。彼は、新しい時代の論理に適応した「功臣」であった。しかし、彼が切り捨てた筒井家という旧共同体の人間たちは、幕府の法や論理ではなく、旧来の「忠義」や「遺恨」といった、より情念的な論理で動いていた。秀祐の暗殺は、この新旧二つの秩序、二つの論理が激しく衝突した結果、引き起こされた悲劇であった。
徳川幕府は秀祐に高い地位と俸禄を与えることはできたが、過去の怨念という亡霊から彼の身を守ることまではできなかった。秀祐は、時代の移行期を誰よりも巧みに泳ぎ切り、栄達を掴んだ。しかし、その移行期であるがゆえの混沌と暴力によって、その生涯の幕を引かれることになったのである。
中坊秀祐の生涯を振り返る時、「奸臣」という一言で彼を断罪することは、あまりにも容易である。島清興を追い、主君・定次を売り、名門・筒井家を滅亡させたという事実だけを見れば、その評価は揺るがないように思える。
しかし、本報告書で検証してきたように、彼の行動の背後には、より複雑で多層的な動機と、時代の大きなうねりが存在した。興福寺の行政官僚という出自を持つ彼は、生涯を通じて、旧来の「忠義」という観念よりも、一族と自らが生き残るための「合理性」を追求し続けた、冷徹なリアリストであった。松永氏への一時的な帰属、筒井家内での権力掌握、そして徳川家康への接近という一連の行動は、その場限りの裏切りではなく、時代の潮流を鋭敏に読み解き、常に最も有利な立場を確保しようとする、一貫した政治的計算に基づいていた。
彼は、中世的な主従関係が崩壊し、近世的な官僚制へと社会が移行する、まさにその時代の狭間に生きた人物であった。彼は旧来の価値観を躊躇なく切り捨て、新たな秩序に自らを最適化させることで、乱世を生き抜こうとした。その意味で、彼の生涯は戦国という時代の終焉と、江戸という新たな時代の始まりを、誰よりも色濃く体現していたと言える。
最終的に彼は、自らが切り捨てた過去からの報復によって命を落とした。それは、彼の生き方が孕んでいた危うさの必然的な帰結であったのかもしれない。
中坊秀祐を「権謀の臣」と呼ぶことはできる。しかし、その権謀の裏には、激動の時代を生きる人間の強烈な生存本能と、自らの能力に対する絶対的な自信、そして時代の変化を見抜く非凡な洞察力があったことを見過ごすべきではない。彼の生涯は、善悪の二元論では到底割り切ることのできない、戦国末期という時代の複雑さと、そこに生きた人間の業(ごう)そのものを、我々に教えてくれる。中坊秀祐という人物の真の再評価は、この単純化を拒む複雑さを受け入れることから始まるのである。