日本の戦国史において、主家を滅亡に導いた「奸臣」として、久武親直(ひさたけ ちかなお)ほど鮮烈な印象を残す人物は多くない。長宗我部家に仕え、主君・元親、盛親の二代にわたり権勢を振るった彼は、通説において、策謀と讒言を弄して多くの忠臣を死に追いやり、最終的に長宗我部家改易の直接的な原因を作った張本人として描かれる 1 。その評価は、実兄である久武親信が遺したとされる「弟は腹黒く、必ずや御家の災いとなる」という予言的な言葉によって、決定的なものとされている 3 。
しかし、一人の家臣の奸智が、土佐を統一し、一時は四国の覇者となった巨大な戦国大名家を、かくも容易く崩壊させ得たのであろうか。この通説的な人物像は、果たして歴史の真実を余すところなく伝えているのだろうか。本報告書は、この久武親直という人物をめぐる一元的な評価に留まることなく、彼の生涯を多角的に検証することを目的とする。彼が武将として、また政治家として示した有能さ、その行動を可能ならしめた長宗我部家内部の構造的脆弱性、そして「奸臣・久武親直」という人物像が後世、特に江戸中期の軍記物語『土佐物語』などを通じていかに形成されていったのかを批判的に分析する。
親直が生きた時代は、長宗我部家が土佐の小領主から四国統一の夢に手をかける絶頂期と、豊臣政権への臣従、そして関ヶ原の戦いを経て滅亡に至る激動の転換期に重なる 4 。彼の生涯の軌跡は、このマクロな歴史の潮流と分かちがたく結びついており、その実像に迫ることは、長宗我部家興亡の力学をより深く理解することにも繋がる。本報告書は、断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせ、親直の功罪を再評価し、歴史の闇に葬られた一人の男の、より複眼的で深層的な人物像を提示することを目指すものである。
年代(西暦) |
主な出来事 |
久武親直の動向・役職 |
天文8年 (1539) |
長宗我部元親、誕生。 |
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天文20年頃 (1551頃) |
久武親直、久武昌源の次男として誕生(推定) 6 。 |
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永禄3年 (1560) |
長宗我部元親、家督相続。 |
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天正3年 (1575) |
四万十川の戦い。元親、土佐国を統一。 |
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天正7年 (1579) |
兄・久武親信、伊予岡本城攻めで戦死 1 。 |
兄の跡を継ぎ、家督を相続。佐川城主となる 1 。 |
天正10年 (1582) |
中富川の戦い。長宗我部軍、阿波・讃岐勢に大勝。 |
元親に進言し、勝利に貢献 3 。 |
天正12年 (1584) |
伊予軍代に任命される 1 。 |
深田城、黒瀬城などを攻略し、伊予平定に貢献 1 。 |
天正14年 (1586) |
戸次川の戦い。元親の嫡男・信親が戦死 1 。 |
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天正16年 (1588) |
長宗我部家後継者問題が深刻化。 |
元親の意向を汲み、四男・盛親を擁立。反対派の粛清に関与 1 。 |
天正16年 (1588) |
吉良親実、比江山親興らが切腹させられる 5 。 |
讒言により彼らを陥れたとされる。家中での権力を確立 1 。 |
慶長4年 (1599) |
長宗我部元親、死去。盛親が家督を正式に継承。 |
筆頭家老として家中の実権を握る。 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い。盛親は西軍に与し敗北。 |
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慶長5年 (1600) |
津野親忠、殺害される。 |
盛親に讒言し、兄殺しを唆す。独断で殺害を実行したともされる 1 。 |
慶長5年 (1600) |
長宗我部家、改易。所領没収。 |
浦戸城の開城を主張 11 。 |
慶長6年以降 (1601-) |
肥後国にて加藤清正に1000石で仕官 1 。 |
その変節を非難されたと伝わる。以降の消息は不明。 |
元和元年 (1615) |
大坂夏の陣。長宗我部盛親、敗走後に捕縛され処刑。 |
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久武親直の生涯を語る上で、まず注目すべきは、彼が「奸臣」の烙印を押される以前、長宗我部家の勢力拡大に大きく貢献した有能な武将であったという事実である。彼の台頭は、輝かしい武功を立てた兄の死という悲劇を契機とし、主君・元親の絶対的な信頼を背景としていた。
久武親直は、長宗我部家の家臣である久武昌源(一説に親定)の次男として、土佐国長岡郡の岡豊城下で生を受けた 1 。その正確な生年は不明であるが、天文二十年(1551年)頃とする推測もある 6 。幼名は彦七といい、早くからその才能は注目されていたという 8 。
しかし、若き日の親直の前には、常に偉大な兄の存在があった。兄の久武親信は、武勇と誠実な人柄で知られ、主君・長宗我部元親から絶大な信頼を寄せられていた重臣であった 4 。親信は土佐統一戦で活躍し、特に鉄砲の名手として高く評価されていた 2 。その功績により高岡郡の要衝・佐川城を与えられ、天正5年(1577年)には伊予方面の軍権を統括する「伊予軍代」という要職に任命される 13 。さらに、有馬温泉で豊臣秀吉と偶然居合わせた際、その器量を見抜き、元親に秀吉との連携を進言したという逸話は、彼の先見の明を物語っている 14 。
この輝かしい兄の存在は、次男である親直にとって、乗り越えるべき壁であると同時に、常に比較される対象でもあった。そして、その兄弟の資質の違いを最も深く理解していたのは、他ならぬ兄・親信自身であったのかもしれない。天正7年(1579年)、親信は伊予岡本城攻めの最中、敵将・土居清良の策にはまり、壮絶な戦死を遂げる 1 。『土佐物語』をはじめとする後世の記録によれば、親信はこの最後の出陣に際し、主君・元親に対して次のような不吉な言葉を遺したとされる。
「この度の合戦で私が討ち死にしたとしても、私の弟の彦七(親直)には決して跡目を継がせないでください。彦七は腹黒く、あさましい男であり、将来必ずや御家の障りにはなっても、役に立つ者ではございません」 3 。
この言葉は、後に長宗我部家を襲う悲劇を予見した「予言」として、久武親直の人物像を決定づけるものとなった。忠誠心に厚い兄が、実の弟に対して遺したこの痛烈な警告は、親直の性格に潜む危うさを物語る、最も象徴的な逸話として語り継がれていくことになる。
兄・親信の死と、その不吉な遺言にもかかわらず、長宗我部元親は久武親直に家督を継がせ、兄の官途名であった「内蔵助」を名乗ることを許した 3 。この元親の決断の背景には、親直が有していた卓越した「政治力」や「才能」を高く評価していたことがある 3 。主君の期待に応えるかのように、親直は兄の死後、目覚ましい活躍を見せ始める。
家督を継いだ親直は、まず兄が果たせなかった伊予の平定事業に乗り出す。天正12年(1584年)には正式に伊予軍代に任命され、宇和郡の深田城や西園寺公広の居城・黒瀬城を陥落させるなど、兄が苦戦した戦線で着実に戦果を挙げた 1 。最終的に、5年の歳月をかけて西園寺氏を攻略し、東伊予の金子氏をも臣従させ、伊予一国の平定を成し遂げたのである 4 。これは、彼の軍事指揮官としての能力が兄に決して劣らないものであったことを証明している。
彼の活躍は伊予方面に留まらない。天正10年(1582年)に阿波の十河存保らと雌雄を決した中富川の戦いでは、元親本陣の参謀として渡河のタイミングを進言し、長宗我部軍を大勝利に導いた 3 。また、阿波の牛岐城主・新開道善が長宗我部家に降った際には、丈六寺にて酒宴を催し、油断した道善を謀殺するという冷徹な策略を実行している 3 。さらに、豊臣秀吉による四国征伐が迫る中、伊予の同盟者であった金子元宅に起請文を送って結束を固めるなど、外交・調略の面でも手腕を発揮した 3 。
これらの功績は、久武親直が単なる「奸臣」ではなく、実務能力に長けた有能な武将であり、策略家であったことを明確に示している。兄・親信が危惧した「腹黒さ」とは、見方を変えれば、勝利のためには手段を選ばない非情なまでの合理性と、目的達成への執着心であった。元親にとって、この親直の能力は、四国統一という大事業を推進する上で不可欠な力と映ったに違いない。親信の警告は、親直が次々と打ち立てる功績の前に、次第にその重みを失っていったのである。親直の「有能さ」と、後に家を蝕むことになる「危うさ」は、この時点では分かちがたく結びつき、表裏一体のものとして存在していた。その能力が主家の利益に貢献している限り、それは「功績」として称賛された。しかし、その能力のベクトルが、ひとたび家中の権力闘争に向けられた時、それは長宗我部家そのものを破壊する力へと転化する危険性を、当初から内包していたと言えよう。
久武親直の有能さが長宗我部家の拡大に貢献した一方で、その権力志向と策謀は、主家が大きな岐路に立たされた時に、その負の側面を露呈させる。嫡男の死によって心に深い傷を負った主君・元親。その弱みに付け込むかのように、親直は家中の権力闘争を勝ち抜き、ついには主家を破滅へと導く引き金を引くことになる。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した長宗我部軍は、豊後戸次川において島津軍の罠にはまり、壊滅的な敗北を喫する。この戦いで、元親が将来を嘱望し、慈しんできた嫡男・信親が討ち死にした 1 。享年22歳であった。この悲劇は、英明で知られた元親の精神を根底から揺るがし、その後の彼の判断力に深刻な影を落とすことになる 16 。かつての覇気を失い、時に人の意見を聞き入れず、苛烈で非情な決断を下すようになった元親の変貌は、多くの家臣を戸惑わせた 18 。
信親の死は、長宗我部家に深刻な後継者問題をもたらした。元親には信親の他に三人の男子がいたが、それぞれ他家を継いでおり、状況は複雑であった 20 。
失意の元親は、家中の序列や慣習を無視し、偏愛する四男・盛親に家督を継がせ、さらに戦死した信親の娘を娶わせることを画策し始める 1 。この元親の意向は、当然ながら家中に大きな波紋を広げた。多くの重臣がこの異例の決定に反対の意を示す中、久武親直は誰よりも早く元親の心中を察し、盛親擁立のために動き出す。若年で扱いやすく、自身と関係の深い盛親を推すことは、親直自身の政治的地位を盤石にする絶好の機会でもあった 1 。長宗我部家の運命を左右する、深刻な内部対立の幕が切って落とされたのである。
氏名 |
立場・関係性 |
後継者問題での主張 |
結末 |
長宗我部元親 |
当主 |
四男・盛親を偏愛し、後継者に指名。 |
慶長4年(1599)病死。 |
長宗我部信親 |
嫡男 |
将来を嘱望された後継者。 |
天正14年(1586)戸次川で戦死。 |
香川親和 |
次男(香川家養子) |
正統な後継者候補と目される。 |
後継者問題に心労を重ね、天正15年(1587)病死。 |
津野親忠 |
三男(津野家養子) |
後継者候補の一人。 |
慶長5年(1600)久武親直の讒言により殺害される。 |
長宗我部盛親 |
四男 |
元親の指名により後継者となる。 |
関ヶ原後に改易。大坂の陣で豊臣方に付き、元和元年(1615)処刑。 |
久武親直 |
家老・側近 |
元親の意向を支持し、盛親を強力に擁立。 |
長宗我部家改易後、加藤清正に仕官。没年不詳。 |
吉良親実 |
重臣(元親の従兄弟) |
序列を重んじ、親和を推して盛親擁立に強く反対。 |
天正16年(1588)親直の讒言により切腹させられる。 |
比江山親興 |
重臣 |
吉良親実と共に盛親擁立に反対。 |
天正16年(1588)親直の讒言により切腹させられる。 |
元親の盛親擁立の意向に対し、公然と異を唱えたのが、一門の重臣である吉良親実と比江山親興であった 1 。特に吉良親実は元親の従兄弟であり、長宗我部家の宿老として重きをなす人物であった。彼は家臣団の前に進み出て、長幼の序を説き、叔父と姪の結婚が人倫にもとる行為であると、筋道を立てて元親を諫めた 9 。その主張は正論であったが故に、信親を失った悲しみと盛親への偏愛に心を囚われた元親の不興を買う結果となった 9 。
この状況を、久武親直が見逃すはずはなかった。親直は、かねてより吉良親実と犬猿の仲であったとされ、その対立は、親実が親直の非礼を咎めて矢を射かけた事件をきっかけに、決定的なものとなっていたという 10 。親直は、この後継者問題を、政敵である親実らを排除する絶好の機会と捉えた。彼は、傷心の元親の側に侍り、「吉良親実や比江山親興は、次男の親和様を唆して、いずれは殿の寝首を掻こうと企んでおります」といった類の、ありもしない讒言を執拗に吹き込んだのである 1 。
主君の心の隙間に入り込み、その猜疑心を煽るという親直の策謀は、絶大な効果を発揮した。元親の心の内で、忠臣であったはずの親実らへの不信感は日増しに膨れ上がり、ついに怒りとなって爆発する。天正16年(1588年)10月、元親は吉良親実と比江山親興に対し、謀反の疑いありとして切腹を命じた 1 。親実は碁を打っている最中に切腹の報せを受け、動じることなく一局を終えると、自邸に戻り、「佞臣(親直)によって忠義の道を絶たれた。当家は間もなく滅びるであろう」と言い残し、見事な作法で腹を十文字に掻き切り、壮絶な最期を遂げたと伝わる 9 。
この宿老粛清事件は、長宗我部家中に計り知れない衝撃と恐怖を与えた。親実らに連座して多くの家臣が処罰され、彼らの怨霊が「七人みさき」という七人一組の祟り神となって夜な夜な徘徊し、人々を祟ったという怪異譚が生まれた 21 。恐怖に駆られた元親が、その怨霊を鎮めるために吉良神社を建立して彼らを祀ったという伝承は、この粛清がいかに凄惨で、理不尽なものであったかを物語っている 22 。この一連の事件により、家中の反対派は一掃され、久武親直は名実ともに筆頭家老として、長宗我部家の実権を完全に掌握するに至ったのである。
この悲劇は、単に親直一人の奸悪さによって引き起こされたものではない。そこには、嫡男を失い、正常な判断力を喪失した主君・元親の心理的脆弱性という、決定的な要因が存在した。傷ついた元親にとって、親実らの正論は自らの過ちを突きつける苦痛な響きでしかなく、むしろ自らの非合理的な願望(盛親擁立)を肯定し、その障害となる者たちを排除するための「大義名分」(謀反の疑い)を提供してくれる親直の言葉こそが、心の安寧をもたらすものであった。元親は親直を利用して自らの意思を貫徹し、親直は元親の権威を盾に政敵を葬り去る。この主君の弱さと家臣の野心が結びついた「悲劇の共生関係」こそが、長宗我部家を衰退へと導く、真の病巣であった。
元親の死後、慶長4年(1599年)に家督を継いだ長宗我部盛親であったが、その統治基盤は宿老粛清の爪痕が深く、極めて脆弱なものであった 25 。そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。盛親は西軍に与したが、戦いに参加する機会を得られぬまま西軍は敗北。長宗我部家は、絶体絶命の窮地に立たされた 1 。
盛親は徳川家康に謝罪し、所領安堵を嘆願するため奔走する。この国家存亡の危機において、久武親直は再びその策謀を巡らせる。彼は盛親に対し、盛親の兄であり、土佐中央部を領する津野親忠が、徳川方の将・藤堂高虎と内通し、土佐半国を代償に寝返ろうとしている、と讒言したのである 1 。これは、未だ盛親の家督相続に不満を持つ可能性のある親忠を、この混乱に乗じて排除しようとする、親直による最後の権力闘争であった。
盛親は当初、「兄に限ってそのようなことはあるまい」と、この讒言を一蹴したと伝わる 1 。しかし、親直の行動は主君の判断を超えていた。彼は独断で、あるいは執拗に盛親を説き伏せた末か、盛親の命令であると偽り、香美郡の山田郷に幽閉されていた津野親忠のもとへ兵を送った。そして、弁明の機会も与えぬまま、親忠に切腹を強要し、殺害してしまったのである 1 。
この「兄殺し」という凶報は、戦後処理を進めていた家康の耳に届き、家康を激怒させた 11 。家康は盛親の誅伐を決定したが、徳川四天王の一人・井伊直政が、盛親が直接関与したわけではないと必死にとりなしたことで、辛うじて死罪だけは免れた 3 。しかし、家康の怒りは収まらず、この津野親忠殺害事件が決定的な要因となって、長宗我部家は全所領没収、すなわち「改易」という最も厳しい処分を下されることになった 1 。
主君のコントロールを離れた親直の権力は、もはや主家の利益を顧みることなく、自らの地位保全のためだけに暴走した。その結果が、長宗我部家の滅亡という破滅的な結末であった。四国に覇を唱えた名門の終焉は、一人の家臣の最後の暗躍によって、その幕が引かれたのである。
主家を滅亡に導いた久武親直は、その後、どのような人生を歩んだのか。そして、彼を「稀代の奸臣」とする評価は、いかにして形成され、定着していったのか。その晩年と後世の評価を検証することは、歴史における個人の実像と、語り継がれる物語との関係性を浮き彫りにする。
慶長5年(1600年)、長宗我部家の改易が決定すると、土佐の旧臣たちの間では激しい動揺が走った。特に浦戸城に立てこもった家臣たちは、新領主となる山内一豊への城の明け渡しを拒否し、徹底抗戦を主張した(浦戸一揆)。この時、久武親直は、城を枕に討ち死にしようと息巻く彼らを制し、降伏と開城を説いた 3 。これは戦後の状況を冷静に判断した現実的な選択であったが、最後まで旧主家への忠義を貫こうとした者たちからは、早々と主家を見限った「変節」と見なされたことだろう。
長宗我部家という拠り所を失った親直は、再仕官の道を探る。その謀略や讒言の多さから佞臣との評判が立ち、仕官は困難であったとも、一時帰農したとも伝わる 3 。しかし、最終的に彼は海を渡り、肥後国熊本城主・加藤清正に仕えることに成功する。禄高は1000石であったという 1 。戦国の世にあって、大名家が改易された後にその重臣が他家に仕官することは珍しくない。だが、親直の場合は、主家滅亡に至る経緯があまりにも異様であったため、その仕官は「変節」として周囲から強い非難を浴びたと記録されている 11 。加藤家で重用されたという記録は見当たらず、おそらくは静かな晩年を送ったものと推測されるが、その後の詳しい消息や正確な没年は不明である 1 。
なお、親直の子である千助は、父と共に加藤家に仕えた後、寛永9年(1632年)に加藤家が改易されると浪人となるが、その後、新たに肥後に入部した細川家に仕官したと伝わっている 8 。久武家そのものは、主家の滅亡と流転の末に、肥後の地で家名を存続させたのである。
久武親直の「奸臣」という人物像を形成する上で、決定的な役割を果たしたのが、江戸時代中期の宝永5年(1708年)頃に成立したとされる軍記物語『土佐物語』である 26 。この書物は、長宗我部氏の興亡を劇的に描き、土佐において広く読み継がれたが、成立は親直の死から約100年後であり、同時代の一次史料ではない。軍記物語というジャンルの特性上、史実をありのままに伝えることよりも、物語としての面白さや教訓的な意図が優先される傾向がある 28 。親直の評価を考える上で、この『土佐物語』の史料的性格を批判的に吟味することは不可欠である。
歴史上の大きな悲劇、特に名門一族の滅亡といった出来事を後世に物語る際、その複雑な原因はしばしば単純化され、特定の個人の責任に集約される傾向がある。読者や聞き手にとって、理解しやすい明快な「物語」を構築するためである。長宗我部家の滅亡という悲劇において、久武親直は、この「悪役」を一手に引き受ける格好の存在であった。
第一に、武勇に優れ忠義に厚い兄・親信との鮮やかな対比は、物語を劇的にする上で極めて効果的である 4 。
第二に、その兄が遺したとされる「予言」は、親直の破滅的な未来を暗示する見事な伏線として機能する 3。
第三に、粛清された吉良親実らが悲劇の忠臣として描かれれば描かれるほど、彼らを讒言で陥れた親直の奸悪さは際立つ 9。
そして最後に、主家改易後に他家の加藤清正に仕官したという事実は、彼を「不忠者」「裏切り者」として断罪することを決定的に容易にした 11。
これらの要素は、親直を長宗我部家滅亡の責任を一身に背負う「スケープゴート」として描くための、完璧な材料であった。『土佐物語』の作者たちが、長宗我部家滅亡という複雑な歴史的事象を、読者に対して分かりやすく解説するための物語的装置として、久武親直を意図的に「奸臣」として造形した可能性は極めて高いと考察される 26 。
我々が今日知る「久武親直」の姿は、史実の人物そのものというよりは、長宗我部家滅亡という壮大な悲劇を説明するために後世に「創作」された、物語上の登場人物としての側面が色濃く反映されたものである。彼の武将としての有能さや、主君・元親の意向に(少なくとも表向きは)忠実に従った側面は、この「奸臣」という物語の枠組みの中では矮小化されるか、あるいは「狡猾さ」の証拠として再解釈されてしまう。彼の本当の実像は、この後世に作られた物語のフィルターを慎重に取り除き、断片的な事実からその輪郭を再構築しようと試みることでしか、見えてこないのである。
久武親直の生涯を徹底的に調査した結果、彼は通説で語られるような単細胞な「奸臣」ではなく、有能さと危うさ、忠誠と野心、そして功績と罪過が複雑に絡み合った、極めて多面的な人物であったことが明らかになる。
彼は間違いなく、有能な武将であり、卓越した政治家であった。兄の死後、その跡を継いで伊予平定を完遂し、中富川の戦いでは参謀として主君を勝利に導くなど、長宗我部家の勢力拡大に大きく貢献した事実は動かない。その能力がなければ、元親の側近として重用されることも、家中の実権を握ることもなかったであろう。
しかし、その能力は、主家の内的な脆弱性と結びついた時、破壊的な力へと変貌した。嫡男・信親の死によって心に深い傷を負い、正常な判断力を失った主君・元親。この権力の空白と主君の心理的弱点は、親直の権力志向を増長させる格好の土壌となった。彼は元親の願望を代行する形で政敵を粛清し、ついには主君の統制を離れて暴走し、津野親忠殺害という致命的な失策を犯す。彼の行動が長宗我部家滅亡の直接的な引き金の一つとなったことは、紛れもない事実である。
だが、その全責任を彼一人に帰する「奸臣」という評価は、後世に形成された物語的側面が強いと言わざるを得ない。長宗我部家の滅亡は、親直一人の策謀によるものではなく、英明な君主であった元親の晩年の変貌、後継者問題という構造的欠陥、そして関ヶ原の戦いという外部環境の激変など、複数の要因が複合的に絡み合った結果である。その複雑な悲劇を説明するために、久武親直は「悪役」という分かりやすい役割を与えられ、歴史のスケープゴートとされたのである。
久武親直は、主君の弱さに付け込むことで権力を手に入れた策謀家であると同時に、戦国乱世という時代の大きな転換期の中で、自らの生き残りを図った現実主義者でもあった。そして、長宗我部家滅亡の責任を一身に背負わされ、歴史の闇に葬られた男でもあった。彼の生涯は、一個人の資質や行動が、組織の脆弱性や時代の潮流といった外的要因と相互作用する中で、いかに予測不可能な結果を生み出すかを示す好例である。そして、単純な善悪二元論で歴史上の人物を断罪することの危うさと、史料を批判的に読み解き、複眼的な視点から人物の実像に迫ることの重要性を、我々に強く教えてくれるのである。