最終更新日 2025-06-07

井伊直勝

「井伊直勝」の画像

井伊直勝公に関する調査報告書

序章

  • 本報告書の目的と概要
    本報告書は、徳川家康の譜代大名であり、徳川四天王の一人に数えられる井伊直政の嫡男として生まれながら、複雑な経緯を経て井伊家の家督を異母弟・直孝に譲り、上野国安中藩初代藩主となった井伊直勝(いい なおかつ)の生涯と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
    直勝の出自、彦根藩主としての初期の活動、家督交代の背景、安中藩での治績、そして晩年に至るまでの過程を、関連資料に基づいて詳細に記述し、その人物像と歴史的位置づけを考察する。
  • 井伊直勝という人物の歴史的位置づけの概観
    井伊直勝は、徳川四天王の一人である井伊直政の嫡男という名誉ある立場にありながら、江戸幕府初期の大名家の家督相続における政治的力学の複雑さを示す象徴的な人物である。父・直政が築いた彦根藩の基礎を継承する者として期待されつつも、最終的には分家として別個の道を歩むことになった彼の生涯は、個人の資質や運命が、時代の要請や権力者の意向によって大きく左右される様を物語っている。本報告書では、この井伊直勝という人物について、その生涯の各段階における動向と、彼を取り巻く状況を丹念に追うことで、より深く、多角的な理解を目指すものである。

第一章:井伊直勝の出自と彦根藩主時代

  • 一節:生い立ちと家族
    井伊直勝は、天正18年(1590年)2月、徳川四天王の一人に数えられる井伊直政の嫡長子として、遠江国浜松において誕生した 1。当時、父である直政は、豊臣秀吉による後北条氏攻め、いわゆる小田原の戦いに徳川軍の将として従軍しており、生まれたばかりの我が子を見る暇もなかったと伝えられる 1。
    直勝の生母は、直政の正室であり、徳川家康の養女であった花(唐梅院(とうばいいん)とも称される。松平康親の娘)である 1。そして、直勝の誕生とほぼ時を同じくして、同年2月11日には、直政の側室である「あこの方」から異母弟にあたる弁之介(べんのすけ)、後の井伊直孝(なおたか)が生まれている 1。この嫡男と庶子の近接した誕生は、後の井伊家における家督相続問題に大きな影を落とすことになる。
    直勝の幼名は、父・直政も用いた万千代(まんちよ)であった 1。元服後には初め直継(なおつぐ)と名乗り、後に直勝と改名することになる 2。官位は従五位下兵部少輔(ひょうぶのしょうゆう)に叙せられた 1。
  • 二節:家督相続と彦根藩の成立
    慶長7年(1602年)、父・井伊直政が関ヶ原の戦いの際に受けた鉄砲傷が原因となり、近江国佐和山城にて病死した 1。これを受けて、当時12歳であった直継(後の直勝)が、井伊家の家督(井伊氏第25代当主)を相続し、父の遺領である佐和山藩18万石の藩主となった 1。また、父・直政が率いた精強な軍団であり、「井伊の赤備え」として恐れられた部隊も引き継いだ 1。若年での家督相続は、父の急逝という状況を考えれば、当時の武家の慣習に沿ったものであった。
    家督を継いだ直継に対し、慶長8年(1603年)、徳川家康は西国諸大名への備えとして、領内に新たな城を築くよう命じた 1。これは、関ヶ原の戦いを経て天下人となった家康が、豊臣恩顧の大名が依然として勢力を保持する西国に対する警戒を怠っていなかったことを示している。新城の築城場所については、井伊家の重臣である木俣守勝(きまた もりかつ)が、琵琶湖の東岸に位置する彦根山(ひこねやま、別名:金亀山(こんきやま))を提案した 1。この地は、琵琶湖の水運を利用して京都と迅速に連絡が取れるという利点に加え、中山道と北陸道(北国街道)が交わる交通の要衝であり、古来より姉川の戦いや賤ヶ岳の戦いなど、数々の重要な戦いの舞台となった戦略的にも極めて重要な地点であった 1。
    彦根城の築城は、幕府が主導する「天下普請(てんかぶしん)」として、尾張藩や越前藩を含む周辺7ヶ国12家の大名が動員されて行われた 1。工事にあたっては、大津城の天守、小谷城の西之丸三重櫓、そして旧領主石田三成の居城であった佐和山城の太鼓門櫓などが移築・転用され、建設期間の短縮が図られた 1。こうして慶長11年(1606年)、新城は彦根城(または金亀城)として完成した 1。父・直政も、石田三成がかつて居城とした佐和山城を好まず、新たな城の建設を構想していたとされるが、彦根城の建設は実質的に直継(直勝)の治世下で推進され、完成を見たのである 1。この実績にもかかわらず、後に詳述する理由により、直継(直勝)は井伊家の公式な家譜においては彦根藩の第二代藩主とは見なされず、分家の祖として扱われることになる。しかし、彦根城を実質的に築き上げたという点において、彼を「実質的な初代彦根藩主」と評価することも可能であろう 1。
    若年で家督を相続した直継が、彦根城築城という国家的な大事業を主導する立場に置かれたことは、徳川家康が当初、井伊家、そして直継に対して、次世代の譜代筆頭としての重責を期待していた可能性を示唆している。家康は、この時点では直継の能力や将来性を見極めようとしていたか、あるいは少なくとも井伊家の当主として彼を立てて事業を推進しようとしていたと考えられる。この初期の期待と、その後の現実との間に生じた乖離が、後の家督交代劇の伏線となっていく。
    また、彦根城築城は、単に井伊家の新たな居城を建設するという以上の意味を持っていた。それは、徳川政権による西国支配体制の確立という、より大きな戦略的文脈の中に位置づけられる事業であった。その実行を、父を亡くしたばかりの若い直継が藩主として担うことになったのは、井伊家が徳川体制においていかに重要な役割を期待されていたかの証左であると同時に、直継にとっては大きな重圧でもあったと言えるだろう。この期待に彼が十分に応えられたか否かが、後の直継(直勝)の評価に繋がっていくのである。
  • 【表1:井伊直勝 略年譜】

年号

西暦

出来事

備考

出典

天正18年2月

1590年

遠江国浜松にて井伊直政の嫡長子として誕生。幼名、万千代。

母は直政正室・花(唐梅院)。

1

慶長7年2月1日

1602年

父・直政死去。

関ヶ原の戦いの戦傷が原因。

1

慶長7年

1602年

家督を相続し、近江国佐和山藩主(18万石)となる。名を直継と改める。

12歳。

1

慶長8年

1603年

徳川家康の命により、彦根山に彦根城の築城を開始。

天下普請として行われる。

1

慶長11年

1606年

彦根城完成。居城を彦根に移し、彦根藩主となる。

実質的な初代彦根藩主。

1

慶長19年~元和元年

1614-15年

大坂の陣。

直継は参陣せず、弟・直孝が出陣し武功を挙げる。

3

元和元年(2月)

1615年

幕命により家督を弟・直孝に譲る。上野国安中藩主(3万石)となる。名を直勝と改める。

彦根藩主としての履歴は抹消される。

3

寛永9年12月15日

1632年

隠居し、家督を長男・直好に譲る。

43歳。

2

正保2年6月

1645年

藩主・直好が三河国西尾藩(3万5千石)に移封。直勝もこれに従う。

2

万治2年1月

1659年

藩主・直好が遠江国掛川藩(3万5千石)に移封。直勝もこれに従う。

2

寛文2年7月11日

1662年

遠江国掛川城にて病死。

享年73。墓所は袋井市の可睡斎。

2

第二章:家督交代と安中藩への道

  • 一節:家督相続を巡る動き
    井伊直政の死後、嫡男である直継(後の直勝)が家督を相続したものの、その地位は盤石なものではなかった。彼の資質、そして何よりも徳川家康の意向と、異母弟である直孝の存在が、井伊家の家督の行方に複雑な影響を及ぼすことになる。
    直勝の資質については、複数の史料が一致して「温和」な性格であったと伝えている。彼は生まれた時から井伊家の御曹司として大切に育てられた影響か、異母弟の直孝が持つような「鋭さ」や「自己顕示欲」には乏しかったという 3 。母である花姫(唐梅院)は、息子のそのような性格の「弱さ」を気にかけつつも、藩主としての基本的な能力においては直孝と大差はないと信じていたようである 3 。しかし、戦国の気風がいまだ色濃く残る時代にあっては、そのような温和な性格は、必ずしも指導者としての強みとは見なされなかった。後世の評価では、「病弱」であった 5 、あるいは「将器に欠ける」人物であった 6 とされることがあり、ある史料では「乱国の将としては不向き」で、「温雅の中に優遊するタイプの人物であった」とまで評されている 8
    このような直勝の資質に対し、徳川家康や、家康が井伊家に付けた家臣団は、直勝の藩主としての能力を認めなかったとされている 3 。むしろ家康は、早くから直政の後継者として、直勝よりも弟の直孝を考えていた節がある 3 。その証左として、家康は井伊家の家臣団を二つに分け、直勝には井伊家譜代の臣を、そして直孝には家康自身が選んだ家臣団を配したという記録がある 3 。この家康が付けた家臣団は、質・量ともに譜代の臣を圧倒しており、この配分自体が、家康の意中が直孝にあったことを明確に示していると言える 3 。さらに、家康に忠誠を誓う優秀な譜代の家臣の一部も、直孝に従うようにされたという 3 。一方、直孝自身は、徳川秀忠(家康の子で後の二代将軍)のもとで重要な役目を与えられ、その能力を発揮し、徐々に頭角を現していた 3
    家督相続の行方を決定づける大きな転機となったのが、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて起こった大坂の陣であった。この豊臣家との最終決戦において、井伊軍の指揮官として出陣を命じられたのは、兄の直勝ではなく、弟の直孝であった 3 。直孝は、この戦いで家康の期待に見事に応える働きを見せ、その武名を一層高めた 3 。対照的に、直勝(当時は直継)は、「病弱」を理由に参陣できなかったとされ 5 、あるいは、自身の領地である上野国安中に赴き、後方の牧・碓氷(うすい)の関所を警固するよう命じられたと記録されている 6 。この大坂の陣における兄弟の役割の明確な差は、家督交代を決定づける上で極めて重要な意味を持った。
    井伊直勝の家督交代劇は、単に「病弱」や「将器」といった個人の資質の問題として片付けられるものではない。そこには、徳川家康による譜代大名統制という大きな政治的意図と、井伊家内部の権力構造、具体的には譜代の家臣と家康が派遣した家臣との間の潜在的な対立といった要素が複雑に絡み合っていたと考えられる。直勝の「温和」 3 、「温順」 8 といった性格は、戦国末期から江戸初期にかけて求められた武断的な指導者像とは異なっていた可能性が高い。家康は、直孝の持つ「鋭さ」や「自己顕示欲」 3 、そして大坂の陣で見せた武功 3 を高く評価し、徳川体制の重鎮である井伊家を、より強力な指導者の下に置こうとしたのであろう。家臣団の分割 3 は、家康が井伊家の内部統制にも深く関与し、直孝を支持する基盤を意図的に強化したことを示している。譜代の臣を直勝につけたのは、彼らを井伊家の主流から遠ざけるという、ある種の切り離しの意味合いも含まれていたのかもしれない。そして、「病弱」という理由は、家督交代を正当化するための公的な口実として強調された可能性も否定できない。事実、直勝は後に弟の直孝よりも長生きしているのである 2
  • 二節:安中藩立藩と彦根藩からの離別
    大坂の陣が終結した元和元年(1615年)、徳川家康の決定により、弟の井伊直孝が正式に井伊家の惣領として家督を継ぐことが定められた 3。これにより、直孝は彦根藩18万石の所領のうち15万石を相続した 3。一方、兄である直勝には、残りの3万石が分与され、上野国安中(あんなか)藩の初代藩主とされた 3。この大きな転機にあたり、直継は名を直勝と改めた 4。この石高の差は、当時の直勝側の無念さを物語るように、「想像を絶する兄弟の石高の差」と表現されている資料もある 3。
    さらに衝撃的であったのは、直勝が彦根藩主であったという事実そのものが、井伊家の公式な歴史から抹消されたことであった 3。井伊家宗家(彦根藩)の系譜上では、初代直政に次ぐ第二代藩主は直孝とされ、直勝はあくまで井伊家の分家である安中藩井伊家の初代として位置づけられることになったのである。ある史料では、この措置について「ここで、直勝の痕跡をすべて消し去った」と、その徹底ぶりを強い言葉で記している 3。
    この彦根藩主としての直勝の「履歴抹消」は、単なる家督交代の結果に留まらず、徳川幕府による歴史的正統性の構築という、より大きな文脈の中で理解する必要がある。井伊家は譜代筆頭として、江戸幕府内で特別な地位を占める大名家であった 11。そのため、その家督相続の経緯は、幕府の安定にとっても極めて重要な問題であった。直孝を正統な後継者として明確に位置づけるためには、兄である直勝の藩主としての実績や存在感を相対的に薄める必要があったと考えられる 3。これは、江戸時代初期の幕府権力確立期に見られた、他の大名家における相続問題への介入や改易といった、ある種強権的な手法とも軌を一にするものである。直勝の痕跡を消し去ることで、井伊宗家の歴史は初代直政から第二代直孝へと、あたかもスムーズに継承されたかのように見せかけ、家中の動揺や外部からの疑念を抑える効果も狙ったのであろう。
    また、直継から直勝への改名も、この家督交代と分家創設という大きな転機において、象徴的な意味合いを持っていたと考えられる。武士が改名を行うのは、人生の大きな節目や状況の変化に際してしばしば見られることである 4。「直継」という名は、文字通り「家を継ぐ者」を意味するが、結果として彼はその役割を全うすることができなかった。新たに名乗った「直勝」という名にどのような具体的な意図が込められていたかは明確ではないものの、新たな道を歩むという心機一転の決意や、あるいは幕府の決定を完全に受け入れたという従順さを示す意味合いがあったのかもしれない。いずれにせよ、この改名は、彼にとって彦根宗家とのある種の決別と、安中藩主としての新たなスタートを内外に示す行為であったと言えるだろう。

第三章:安中藩主としての井伊直勝

  • 一節:安中での藩政
    元和元年(1615年)、兄から家督を譲られた井伊直孝が彦根藩15万石の藩主となった一方、直勝は上野国安中において3万石を与えられ、安中藩の初代藩主となった。新たな領地において、直勝は藩政の基礎固めに着手する。
    まず取り組んだのは、居城となる安中城の普請と城下町の整備であった。当時の安中城は、戦国時代に築かれたものを基礎としていたが、一部は田畑と化すなど荒廃しており、その修復と拡張が急務であった 6。直勝はこの事業に力を注ぎ、城下町の建設においても一定の成果を上げたとされる 12。ただし、安中城の規模については、陣屋程度であったという記述も見られる 13。
    安中へ移るにあたり、直勝は母である花姫(唐梅院)の意向もあって、井伊家譜代の家臣をできる限り多く引き連れて行ったと伝えられる 12。これらの譜代家臣は、直勝にとって信頼のおける存在であり、新たな藩を運営していく上での支えとなるはずであった。その筆頭家老として、直勝は鈴木重辰(すずき しげたつ)に3000石という破格の知行を与えている 12。鈴木重辰は、かつて井伊直政に付けられた家臣である鈴木重好(しげよし)の子で、父・重好が井伊家から追放された後も井伊家に留まり、大坂冬の陣では井伊軍の先鋒を務めるなど武功のある人物であった。直勝が安中藩に移封されると、重辰もこれに従い、家政を取り仕切る中心的な役割を担った 14。
    しかし、3万石という限られた石高の安中藩にとって、3000石という鈴木重辰への知行は大きな負担であり、他の譜代家臣への配分が十分に行き届かず、結果として彼らの間に不満が生じた可能性も指摘されている 12。また、彦根藩においては、家康が付けた家臣団が大きな力を持っていたため、相対的に目立たない存在であった小野氏や奥山氏といった井伊谷以来の譜代の家臣たちが、安中藩においては藩政の中枢で重きをなしたという記録もある 12。小野氏は井伊家の草創期からの重臣の家系であり、その登用は直勝の譜代重視の姿勢を示すものであった 15。
    安中藩における直勝の藩政は、彦根18万石から安中3万石へと大幅に削減された石高という厳しい財政的制約の中で始まった。加えて、井伊家宗家である彦根藩や、家督交代を主導した江戸幕府に対する複雑な感情を抱えながらの統治であったと推察される。譜代家臣を多く召し連れたものの、彼らに十分な知行を与えることは難しく、これが新たな不満の火種となった可能性は否めない 12。これは藩政運営における不安定要因となり得た。ある資料には「幕府からの厳しい目を向けられる」12 との記述もあり、直勝が常に幕府の顔色を窺いながら、慎重に藩政を行わなければならなかった当時の状況がうかがえる。そのような困難な状況下にあって、安中城の修復拡張や城下町の整備 6 は、藩主としての権威を示し、領内を安定させるための数少ない具体的な実績であり、重要な事業であったと言えるだろう。
    井伊家譜代の小野氏や奥山氏が安中藩で重用されたことは、直勝が父祖伝来の家臣を信頼し、彼らと共に新たな藩を築こうとした意志の表れであると解釈できる。彦根藩では徳川家康が付けた家臣団が主導権を握り、譜代の臣の比率は相対的に低かったとされる 3。これに対し、直勝は安中藩において、自らに従ってきた譜代の臣を重用することで 12、彼らとの間に、彦根時代には十分に築けなかったかもしれない強固な主従関係を再構築しようとしたのではないだろうか。これは、彦根宗家とは異なる、直勝独自の家臣団構成と統治体制を目指した動きと見ることもできる。しかし、それは同時に、幕府や彦根宗家からのさらなる警戒を招く可能性もはらんでいたと言えるかもしれない 12。
  • 二節:家族との関係
    藩主としての公務の傍ら、直勝の私生活、特に家族との関係もまた、彼の人生を理解する上で重要な側面である。
    母である唐梅院(花姫)との関係は、終生良好であったと考えられる。唐梅院は、夫・直政の死後、若くして家督を継いだ直勝を支え、井伊家の安泰に心を砕いたとされている 17。直勝が彦根藩主の座を追われ、安中藩主として移る際にも、唐梅院は息子に従って安中城に入り、寛永16年(1639年)にその地で生涯を終えた。遺骸は安中市内の大泉寺に葬られた 18。現在も大泉寺には、直勝の母である唐梅院の墓と共に、直勝の側室であり、後の安中藩二代藩主・直好(なおよし)の母となった女性の墓も残されている 20。これらの事実は、直勝が母や、子を成した側室を大切に弔ったことを示しており、彼らの間の絆の深さをうかがわせる。
    一方、正室であった鳥居忠政(とりい ただまさ)の娘との関係は、複雑な様相を呈していた。この正室は、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで壮絶な討死を遂げ、徳川家康から「最高の忠臣」と称賛された鳥居元忠(もとただ)の子、鳥居忠政の娘であった 2。この縁組は、家康自身によって決められたものであり、井伊家と幕府重臣である鳥居家との結びつきを強化する意図があったと考えられる 3。
    しかし、家康が直勝の弟・直孝を井伊家の後継者として優遇するような態度を取り始めると、直勝は幕府や直孝に対する不満を漏らすようになり、時には怒りから我を忘れることもあったという 3。そのような状況下で、正室である鳥居忠政の娘は、苦悩する夫を支えるどころか、むしろ冷たく見下すような態度を取ったとされ、その結果、直勝が彼女に暴力をふるってしまうことさえあったと記録されている 3。
    最終的に、直勝はこの正室と離縁することになる 3。この離縁には、母である花姫も賛成していた。その理由として、鳥居忠政の娘が正室として井伊家(安中藩)にいる限り、幕府に対して過度な遠慮をせざるを得ず、小藩である安中藩の藩主として堂々と藩政を執行する上で、彼女の存在が障害になると考えられたためであった 3。このエピソードは、直勝の個人的な苦悩が、藩政運営という公的な領域にまで影響を及ぼしていた可能性を示唆している。正室との離縁は、単なる夫婦間の不和という私的な問題を超えて、安中藩の自立性を少しでも高めようとする直勝、そしておそらくは母・花姫の、ある種の政治的決断であったと解釈することも可能である。正室の父・鳥居忠政は幕府の重臣であり、その娘が正室として存在することは、安中藩に対する幕府の監視や影響力を強化する要因となり得た 3。離縁によって、直勝は幕府の直接的な影響力、あるいは妻を通じた干渉をある程度排除し、より主体的に藩政を行おうとしたのかもしれない。これは、彼が家督争いに敗れた後、完全に無気力になっていたわけではなく、自らの置かれた状況の中で最善を尽くそうとしていた証左とも言えるだろう。
    正室との離縁後、直勝は中島新左衛門(なかじま しんざえもん)の娘を継室として迎えた 2 。この継室、あるいは前述の側室が、直勝の嫡男であり、後に安中藩の家督を継ぐことになる井伊直好の母である 20 。直好は後に安中藩を継いだ後、三河国西尾藩、さらに遠江国掛川藩へと移封されていくことになる 2

第四章:晩年、死、そして後世

  • 一節:隠居と移封
    安中藩主として一定期間藩政を執った井伊直勝は、寛永9年(1632年)12月15日、家督を長男である直好に譲り、隠居の身となった 2。この時、直勝は43歳であった。隠居に至った具体的な理由は史料上必ずしも明確ではないが、ある記述によれば、「安中藩政を安定させ、戦禍を受け荒廃していた安中城を修復拡張し、城下町建設では成果を上げた自負があった。そして、1632年、家督を子の直好に譲って隠居した」とされており 12、藩主として一定の役割を果たしたという区切りをつけたというニュアンスが感じ取れる。
    隠居後の直勝は、藩主となった息子・直好の動向に完全に寄り添う形で余生を送ることになる。直好はまず、正保2年(1645年)6月、安中藩から三河国西尾藩へ3万5千石で移封された 2。この際、隠居していた直勝も直好に従って西尾へ移った。西尾藩時代の直好は、西尾城の改築を完成させるなど、藩政に努めていたことが記録されている 7。
    その後、万治2年(1659年)1月には、直好はさらに遠江国掛川藩へ同じく3万5千石で移封となり、直勝もこれに同行した 2。これらの記録からは、直勝が隠居後に藩政に再び影響力を行使したような形跡は見当たらず、彼が自らの運命を受け入れ、息子・直好の代を静かに見守る立場に徹したことがうかがえる。一度権力の中枢から外れた人物が、静かに余生を送るという、江戸時代の大名の典型的な姿の一つと言えるだろう。
  • 二節:最期と墓所
    度重なる移封を経て、最終的に遠江国掛川に至った井伊直勝は、寛文2年(1662年)7月11日、掛川城内において病のためその生涯を閉じた 2。享年は73歳であった 2。
    特筆すべきは、「病弱といわれていたが、結果として井伊宗家の家督を継いだ(異母弟の)直孝より長命であった」という事実である 2。井伊直孝は万治2年(1659年)に70歳で死去しており 23、直勝の方が3年長く生きたことになる。この事実は、直勝の家督交代の理由の一つとしてしばしば挙げられる「病弱説」について、再考を促すものである。彼の「病弱」が、必ずしも深刻な身体的虚弱さのみを指していたのではなく、当時の武将に求められた気質や行動様式(例えば、武断的な指導力や積極性など)の欠如を婉曲に表現したものであった可能性、あるいは家督交代を正当化するための方便として用いられた可能性を補強する。直勝の温和な性格 3 や、武将としての「鋭さ」「自己顕示欲」の欠如 3 が、周囲、特に徳川家康に「頼りない」「藩主として不適格」という印象を与え、それが「病弱」という言葉に置き換えられた、あるいは一時的な体調不良が誇張されたという見方も成り立つかもしれない。
    直勝の遺骸は、静岡県袋井市にある曹洞宗の古刹、可睡斎(かすいさい)に葬られた 2 。息子である掛川藩主・井伊直好は、父・直勝の葬地をこの可睡斎と定め、寺への追福として仏供田(ぶくでん)として新田十石を寄進したと伝えられている 26 。江戸初期における十石という米の量は、一人の武士、あるいは数人の農民を一年間養うことができる程度の量であり、寺領としては決して広大なものではないものの、藩主家からの寄進としては相応の意味を持つものであったと考えられる(例えば、松本藩主から寺領十石が寄進された例もある 27 )。可睡斎は、この井伊直勝・直好父子を、寺領寄進の功績があったとして開基の一人に数えている 26 。掛川での死と可睡斎への埋葬、そして息子・直好による仏供田の寄進は、直勝の穏やかな晩年と、彼を追慕する親子の情を物語っている。現在も可睡斎の境内には、井伊直勝の墓が静かに佇んでいる 25
  • 三節:井伊家における直勝の位置づけと子孫
    井伊直勝の血筋は、彼が初代藩主となった安中藩井伊家(後に井伊兵部少輔家と称される家系)として存続した。この家系は、安中藩主の後、前述の通り三河国西尾藩主、遠江国掛川藩主を経て、最終的には越後国与板(よいた)藩主(2万石)として明治維新まで続いた 2。与板藩は、井伊直勝を藩祖として代々その祭祀を続けていた 29。
    しかし、井伊家宗家である彦根藩(井伊掃部頭家(かもんのかみけ))との関係においては、直勝の系統は支藩という立場に置かれ、その存在感は宗家に比べて次第に薄れていったとも言われている 12。ある資料では、「直勝の安中藩は国替えが続き改易に追い込まれ、彦根藩から後継が入り続き、直勝の家系ではなくなる」とまで記述されている 12。この記述は、与板藩主家が直勝の血統で幕末まで存続したという他の多くの史料 2 とは一部矛盾する可能性があり、慎重な解釈が求められる。「改易に追い込まれ」という表現は、必ずしも正式な改易処分を指すのではなく、度重なる移封による藩財政の疲弊や、宗家との圧倒的な格差(彦根藩は最終的に35万石格の大藩となった 5)を比喩的に表現したものかもしれない。あるいは、与板藩の歴史のどこかの時点で直勝の直系が途絶え、彦根宗家から養子が入った時期があったことを示唆している可能性も考えられる。この点については、与板藩の藩史をより詳細に調査することで明確になるであろう。いずれにせよ、この記述は、分家が宗家に対して常に弱い立場に置かれ、宗家の意向や幕府の政策によってその存続が左右されることがあるという、江戸時代の藩システムの厳しさの一側面を示していると言える。
  • 【表2:井伊直勝系井伊家と井伊直孝系井伊家の比較】

項目

井伊直勝系(兵部少輔家)

井伊直孝系(掃部頭家)

初代藩主

井伊直勝(初名:直継)

井伊直孝

主な藩(変遷)

上野国安中藩 → 三河国西尾藩 → 遠江国掛川藩 → 越後国与板藩

近江国彦根藩

石高(初期)

3万石(安中藩)

15万石(彦根藩)

石高(最終的)

2万石(与板藩)

30万石(後に幕府城付米5万石預かりで35万石格)

主な役職・特記事項

幕府の役職に就くことは稀。分家として存続。

譜代筆頭。大老職を多数輩出(直孝自身も大政参与として重用される)。

出典

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この表は、家督交代後の両系統の基本的な情報を比較したものである。嫡流でありながら分家扱いとなった直勝の系統と、庶子でありながら宗家を継いだ直孝の系統が、その後にどのような道を辿ったのかを視覚的に対比できる。石高の推移、藩の変遷、そして幕府内での地位(特に直孝系からの大老輩出)を比較することで、家督交代が井伊家全体、そして各系統に与えた長期的な影響の大きさを具体的に理解することができる。これは、単に個人の運命だけでなく、江戸時代の藩体制における宗家と分家の関係性や、家の「格」が持つ意味を考察する上でも重要な示唆を与える。

結論

  • 井伊直勝の生涯の総括
    井伊直勝の生涯は、徳川四天王・井伊直政の嫡男という名門の血筋に生まれながらも、江戸幕府初期という時代の大きな潮流と、最高権力者である徳川家康の深謀遠慮により、井伊家の本流から外れた道を歩むことを余儀なくされたものであった。
    父の死後、若くして家督を継ぎ、彦根城築城という国家的な大事業を主導する立場にありながら、その功績や藩主としての存在は、後に家督を継いだ異母弟・井伊直孝の輝かしい活躍の陰に隠れがちであった。しかし、上野国安中藩の初代藩主としては、3万石という限られた領地と、宗家や幕府への複雑な立場という困難な状況下にありながらも、安中城の普請や城下町の整備に尽力し、新たな藩の基礎を築こうとした形跡がうかがえる。
    彼の「温和」と評された性格は、戦国乱世の終焉と新たな治世の到来という過渡期において、必ずしも為政者としての強みとは見なされなかったかもしれない。しかし、彼はその運命を受け入れ、与えられた状況の中で藩主としての務めを果たし、結果として73年という当時としては長寿を全うし、その血筋を越後与板藩井伊家として後世に伝えたのである。
  • 歴史における井伊直勝の意義と評価
    井伊直勝という人物の存在は、江戸幕府初期における大名家の家督相続のあり方、特に幕府(とりわけ徳川家康)の強い影響力と、それによって大名の運命が大きく左右された実態を示す貴重な事例として歴史的な意義を持つ。彼の人生は、個人の能力や意思だけではいかんともし難い、近世武家社会の厳しさや複雑さを浮き彫りにしていると言えよう。
    単に家督争いの「敗者」や井伊家の「傍流」として片付けてしまうのではなく、彼が彦根藩主として果たした初期の役割、安中藩初代藩主としての具体的な治績、そして困難な状況下で見せたであろう苦悩や努力にも光を当てることで、より多角的で人間的な歴史理解が可能となる。
    彼の生涯を通じて、井伊家内部の権力構造の変遷、譜代家臣団の動向、そして徳川幕府による地方支配戦略の一端を垣間見ることができる。井伊直勝の人生は、華々しい成功物語ではないかもしれないが、時代の転換期を生きた一人の大名の姿として、我々に多くのことを示唆してくれるのである。

補注

  • 本報告書は、提示された資料群を基に構成されており、情報の解釈には最大限の注意を払った。特に 12 の記述など、一部の資料については他の資料との整合性に関してさらなる検討を要する可能性も存在するが、本稿においては提供された情報を最大限に活用し、論理的な推論を試みた。
  • 井伊直勝に関する一次史料は、異母弟である井伊直孝に関するものと比較して、現存するものが少ないと推察される(例えば、 29 には「井伊直継に係る直接的文書が極めて少い現今」との記述が見られる)。そのため、彼の人物像や業績の詳細な評価は、断片的な情報を丹念につなぎ合わせる作業に依拠する部分が大きいと言わざるを得ない。今後の研究による新たな史料の発見と、それに基づく更なる分析が期待される。

引用文献

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