井伊直政(いい なおまさ、1561年 - 1602年)は、徳川家康の天下統一事業と江戸幕府の創設において、極めて重要な役割を果たした戦国武将である 1 。家康配下の精鋭、「徳川四天王」の一人に数えられ 2 、その武勇は「井伊の赤鬼」として敵味方から恐れられた 3 。しかし、直政の真価は単なる猛将に留まらない。彼は、家康の譜代家臣が多くを占める徳川家臣団の中では比較的新参でありながら、その卓越した能力と家康からの深い信任によって異例の出世を遂げた人物である 5 。
直政の経歴は、戦場における軍事指揮官としての側面と、諸大名との折衝や戦後処理を担う外交官・政治家としての側面を併せ持つ点で特徴的である 2 。これは、単なる武勇や家柄だけではなく、実務能力と主君の意向を汲み取る政治感覚が、戦国末期から江戸初期にかけての激動期において、武将の価値を決定づける重要な要素であったことを示唆している。家康は、伝統的な三河以来の家臣団に加えて、直政のような外部から登用した有能な人材を重用することで、その勢力を拡大し、天下統一を成し遂げたのである。直政の生涯は、個人の能力と主君の抜擢がいかにして歴史を動かしうるかを示す好例と言えるだろう。本稿では、井伊直政の波乱に満ちた生涯を追い、その功績と歴史的意義、そして彼が後世に残した影響について、詳細に検討していく。
井伊直政は、永禄4年(1561年)2月19日、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市浜名区)の国人領主・井伊直親の嫡男として生を受けた 1 。幼名は虎松。井伊氏は代々井伊谷を領し、当時は駿河・遠江・三河を支配する今川氏に仕えていた 3 。しかし、直政を取り巻く環境は、誕生当初から極めて不安定であった。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏の勢力は急速に衰退。井伊家当主であった井伊直盛(直政の父・直親の従兄)もこの戦いで戦死した 3 。
さらに翌年の永禄5年(1562年)、父・直親が今川氏真から謀反の疑いをかけられ、誅殺されるという悲劇に見舞われる 3 。当時わずか2歳の虎松(直政)も命を狙われる立場となり、井伊家の家督は直盛の一人娘であった次郎法師が井伊直虎と名乗り、継承することとなった 3 。今川氏の追及を逃れるため、虎松は家臣の新野親矩にかくまわれたが、その親矩も永禄7年(1564年)に討死 3 。その後も、井伊家家老の小野道好によって命を狙われるなど、虎松の幼少期は常に死の危険と隣り合わせであった 3 。この時期、彼は出家させられ、寺を転々とする生活を余儀なくされた 3 。
こうした苦難の日々は、虎松の人間形成に大きな影響を与えたと考えられる。父の非業の死、家督相続の危機、そして自身の生命の危機という経験は、彼の中に強い危機感と、恩義に対する深い感覚を刻み込んだであろう。特に、彼を庇護し、その命を繋いだ井伊直虎や母・ひよ(後に徳川家臣・松下清景に再嫁)、龍潭寺の南渓瑞聞和尚といった人々への感謝、そして井伊家再興への強い意志は、後の彼の行動原理の根幹を成したと推察される。
転機が訪れたのは天正3年(1575年)、虎松が15歳の時であった。直虎や母、南渓和尚らの計らいにより、浜松城主となっていた徳川家康に謁見する機会を得る 3 。一説には、家康が鷹狩りを行った際に、虎松が母らの用意した衣装と四神旗(中国の霊獣を描いた旗)を持って家康の前に現れ、その目に留まったとされる 7 。この出会いは、単なる偶然ではなく、虎松とその保護者たちによる、家康への仕官を狙った計画的な行動であった可能性が高い。家康は、虎松がかつて今川氏によって殺害された井伊直親の子であることを知ると、その境遇に同情し、またその非凡な資質を見抜いたのか、直ちに召し抱えることを決めた 3 。家康は虎松に井伊万千代(まんちよ)の名を与え、旧領である井伊谷の領有を認め、自身の小姓として取り立てたのである 3 。
この家康との出会いは、没落した井伊家の嫡男であった万千代にとって、まさに人生を懸けた賭けであり、その成功は彼の将来を大きく開くこととなった。家康という強力な庇護者を得たことで、彼は井伊家再興への道を歩み始める。幼少期の苦難と、それを乗り越える過程で示された周囲の支援、そして自ら掴み取った機会は、後の直政の、主君家康への絶対的な忠誠心と、与えられた任務に対する並外れた責任感の源泉となったと考えられる。
天正10年(1582年)、井伊万千代は22歳で元服し、名を直政と改めた 3 。同年、織田信長の横死(本能寺の変)と、それに続く旧武田領(甲斐・信濃)を巡る争乱「天正壬午の乱」は、直政のキャリアにおける重要な画期となった。家康は、この混乱に乗じて甲斐・信濃を勢力下に収めることに成功するが、その過程で、かつて最強と謳われた武田家の旧臣たちの処遇が大きな課題となった。
家康は、武田旧臣の一部(約120名とも 3 )を、若き直政の配下に組み入れるという大胆な決定を下す 3 。さらに家康は、直政に対し、武田軍の代名詞とも言える「赤備え」を継承するよう命じた 3 。赤備えとは、兜や鎧、旗指物に至るまで、部隊の武具を朱色で統一した軍装であり、武田家においては飯富虎昌が創始し、その弟である猛将・山県昌景が引き継いで精鋭部隊として名を馳せていた 4 。
家康が直政に武田旧臣と赤備えを与えたことは、単なる軍団編成に留まらない、深い意味合いを持っていた。第一に、赤という色彩は戦場で極めて目立ち、部隊の所在を明確にし、統率を容易にする効果があった 3 。第二に、赤色は見る者に強烈な印象を与え、敵に対する威嚇効果や、味方の士気を高揚させる心理的効果が期待された 4 。そして第三に、最も重要な点として、これは武田の精強な軍事力と戦術体系を徳川に取り込み、それを直政に託すという、家康の強い意志の表れであった。武田軍団の象徴である赤備えを継承させることは、直政に対する家康の絶大な信頼と期待を示すものであり、同時に、経験豊富な旧武田家臣団を率いて、彼らに劣らぬ武功を挙げることを求める厳しい要求でもあった。
この期待に応えるべく、直政は配下の軍団を厳しく鍛え上げた。旧武田家臣は、かつての主家への誇りと、新たな主君の下での活躍を期す複雑な感情を抱えていたであろう。年若く、徳川家中でも新参の直政が彼らを統率するには、並々ならぬ力量と覚悟が必要であった。後に「人斬り兵部」と恐れられるほどの直政の厳格さは、こうした背景、すなわち家康の期待に応え、旧武田家臣という扱いの難しい集団をまとめ上げ、最強の部隊を作り上げるという重圧の中で培われた側面もあるのかもしれない。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いは、直政率いる「井伊の赤備え」が初めてその勇名を轟かせた戦いであった。赤一色で統一された軍装に身を固め、鬼の角のような立物を付けた兜をかぶり、長槍を振るって敵陣に突撃する直政の姿は、見る者を圧倒した 3 。この戦いでの活躍により、彼は「井伊の赤鬼」と称され、その武名は諸大名に広く知れ渡ることとなる 3 。家康の期待通り、井伊の赤備えは徳川軍団の中核を成す精鋭部隊として成長し、その伝統は幕末に至るまで井伊家に受け継がれていくことになる 4 。
井伊直政の価値は、戦場における武勇や赤備えの指揮官としてだけではなかった。彼は徳川家康にとって、極めて重要な外交官であり、政治顧問でもあった。その活動は、家康が勢力を拡大し、天下取りを進める上で不可欠なものであった。
早くも天正10年(1582年)の天正壬午の乱においては、北条氏との和議交渉を担当し、徳川方が甲斐・信濃を確保する上で重要な役割を果たしている 2 。その後も、豊臣秀吉による天下統一が進む中で、直政は家康の代理として、あるいは側近として、諸大名との折衝や情報収集に奔走した。特に秀吉死後、家康が天下の覇権を握ろうとする過程において、直政の外交手腕は遺憾なく発揮される。関ヶ原の戦いに先立ち、彼は黒田長政らと連携し、京極高次、竹中重門、加藤貞泰といった諸将を東軍(徳川方)に引き入れることに成功している 2 。これらの調略活動は、関ヶ原における東軍勝利の重要な布石となった。
直政がこれほどまでに重要な外交・政治的役割を担うことができた背景には、家康からの並外れた信任と寵愛があった。家康は、直政の能力を高く評価するだけでなく、個人的にも深い愛情を注いでいたとされる 5 。史料の中には、家康が関ヶ原で負傷した直政を、同じく負傷した実子・松平忠吉以上に気遣い、自ら手当てをしたという逸話も残されている 5 。江戸初期に編纂された大名系図『寛永諸家系図伝』などでは、直政を「開国の元勲」と称賛しており、幕府創設における彼の功績がいかに高く評価されていたかが窺える 6 。
さらに、戦国時代の史料である『甲陽軍鑑』には、若き日の直政(万千代)が家康の「御座をなおす」存在、すなわち夜伽を務める相手であったという記述が見られる 10 。こうした主従間の男色関係(衆道)の真偽を現代において証明することは困難であるが、当時の武家社会において、衆道は必ずしも否定されるものではなく、むしろ主君からの寵愛の証として、政治的な後援と結びつくこともあった 5 。家康と直政の関係の正確な性質はともかく、記録に残るほどの家康の深い寵愛は、直政が徳川家中で急速に地位を高め、軍事・外交の両面で重責を担うことができた大きな要因の一つであったと考えられる。他の四天王と比較しても、直政の経歴は異彩を放っている。
表1:徳川四天王の比較
項目 |
井伊直政 |
酒井忠次 |
本多忠勝 |
榊原康政 |
出自 |
遠江国人 (井伊氏) 3 |
三河譜代 (酒井氏左衛門尉家) |
三河譜代 (本多氏) |
三河譜代 (榊原氏) |
家康への仕官時期 |
比較的遅い (1575年) 3 |
古参 |
古参 |
古参 |
主な役割 |
軍事指揮、高度な外交・交渉 2 |
筆頭家老、軍事指揮、行政 |
軍事指揮 (猛将) |
軍事指揮、行政 |
合戦参加記録 (推定) |
比較的少ない (9件) 11 |
多い (20件) 11 |
最も多い (34件) 11 |
多い (24件) 11 |
特徴的な呼称・評価 |
「赤鬼」 3 , 「人斬り兵部」 7 , 「開国の元勲」 6 |
「海老すくい」 |
「生涯無傷」 |
「小平太」 |
出典: 2 等に基づく。合戦参加件数は『寛政重修諸家譜』等からの集計例 11 。
この表が示すように、直政は他の三河譜代の宿老たちとは異なる経歴を持つ。彼の合戦参加数が本多忠勝などに比べて少ないことは、彼が単なる前線の指揮官ではなく、家康の側近くにあって、より広範な政治・外交活動に従事していた時間の長さを物語っている 11 。家康にとって直政は、戦場での武勇だけでなく、複雑化する政治状況に対応するための知略と交渉力をも兼ね備えた、まさに「右腕」とも呼ぶべき存在だったのである。その多岐にわたる貢献が、彼を徳川家中で特別な地位へと押し上げたと言えるだろう。
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、井伊直政は東軍の勝利に決定的な貢献を果たした。彼はこの戦いにおいて、東軍全体の目付役である軍監(ぐんかん)という重責を担った 2 。戦いに先立つ外交工作で多くの西軍諸将を味方に引き入れた功績に加え 2 、本戦においても彼の行動は戦局に大きな影響を与えた。
合戦の火蓋は、井伊直政と家康の四男・松平忠吉(直政が後見役を務めていた 5 )による抜け駆けによって切られた 2 。本来、東軍の先鋒は福島正則が務める手筈であったが、直政らはこれを無視して宇喜多秀家隊に発砲したのである 2 。この軍律違反とも取れる行動の意図については諸説ある。濃霧の中で偶発的に敵と遭遇したという説 13 、あるいは家康の暗黙の指示、もしくは直政自身の判断によって、徳川家主導で戦端を開くという政治的デモンストレーションを狙ったという説などである 14 。いずれにせよ、この一撃が合戦開始の合図となり、東軍諸隊は一斉に突撃を開始した。この抜け駆けは、単なる軍事行動に留まらず、戦いの主導権が徳川にあることを内外に示すという、高度な政治的判断が含まれていた可能性も否定できない。
戦闘中、直政は戦況全体を見渡し、諸将を督戦した。特に、西軍の小早川秀秋の寝返りを促す工作にも関与し、東軍勝利を決定づける上で重要な役割を果たした 2 。
戦いが東軍の勝利に終わると、直政は退却を開始した島津義弘の部隊を激しく追撃した 2 。島津軍は決死の覚悟で「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれる壮絶な撤退戦を展開。直政は本多忠勝らと共にこれを追うが、深追いしすぎたためか、配下の兵が追いつけず、単騎駆けに近い状態になったとも言われる 15 。この時、島津兵(一説には柏木源藤 7 )の放った鉄砲玉が直政の右腕(あるいは肘、または足 5 )を撃ち抜き、彼は落馬、重傷を負ってしまう 2 。この負傷は、彼のその後の人生に大きな影響を与えることとなる。直政の勇猛さを示す逸話であると同時に、彼の「赤鬼」としての気質が、時に strategic な判断よりも突撃を優先させた可能性、あるいは敵の力量を見誤った可能性も示唆している。
しかし、直政の真価が発揮されたのは、むしろ戦闘終結後であった。彼は重傷の身を押して、戦後処理の陣頭指揮を執った 12 。西軍総大将であった毛利輝元との講和交渉をまとめ、毛利氏の改易を回避させることに成功 7 。また、島津氏との和平交渉も担当し、粘り強い交渉の末に和睦を成立させた 2 。さらに、長宗我部盛親の謝罪の仲介や、敗将となった真田昌幸・幸村(信繁)父子の助命にも尽力し、彼らを死罪ではなく流罪に留めることに貢献したとされる 2 。
関ヶ原の戦いは、軍事的な勝利だけでなく、その後の政治的な処理によって初めて完成する。直政は、負傷にも屈せず、その卓越した交渉力と政治感覚をもって、西国の大大名たちとの複雑な交渉をまとめ上げ、徳川による新たな支配体制の基盤固めに大きく貢献した。彼の戦後処理における働きは、関ヶ原の勝利を確実なものとし、江戸幕府の成立を円滑に進める上で、計り知れないほど重要であったと言えるだろう。
関ヶ原の戦いにおける多大な功績により、井伊直政は徳川家康から破格の恩賞を与えられた。西軍の首謀者であった石田三成の旧領、近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石の城主となったのである 2 。これは、徳川譜代家臣の中でも最高クラスの石高であり、直政に対する家康の評価の高さを物語っている。
佐和山城主となった直政は、新たな領地の経営に着手するとともに、江戸幕府の基盤づくりにも参画した 2 。しかし、彼は石田三成の居城であった佐和山城を嫌い、近くの彦根山に新たな城(彦根城)を築き、拠点を移す計画を進めていた 16 。このため、直政自身は彦根城の完成を見ることなく世を去るが、実質的な彦根藩の創業者と見なされている 6 。
しかし、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷は、直政の身体を蝕んでいた。佐和山入封からわずか2年後の慶長7年(1602年)、直政は佐和山城にて42歳(数え年)の若さでこの世を去った 1 。その死因については、関ヶ原での戦傷が悪化したこと(破傷風や鉛中毒など 7 )、あるいは戦後処理などの激務による過労が原因であったとも言われている 7 。いずれにせよ、彼の早すぎる死は、成立間もない徳川政権にとって大きな損失であった。軍事・外交の両面で家康を支え、将来を嘱望されていた有能な人材を失ったことは、家康にとっても痛恨事であっただろう。
井伊直政は、その生涯を通じて複雑な評価を受けてきた人物である。戦場では「井伊の赤鬼」と恐れられる猛将であり、部下に対しては些細な失敗も許さず手討ちにすることもあったため、「人斬り兵部」(彼の官位である兵部少輔に由来 19 )という異名も持つほどの厳格さで知られた 7 。その一方で、彼は優れた外交手腕を持ち、敗軍の将である真田父子の助命に尽力するなど、情に厚い一面も見せている 2 。また、寡黙で人の話をよく聞き、相手の誤りを指摘する際にも人前で恥をかかせないよう配慮したという逸話も残っており 7 、単なる冷徹な武将ではなかったことが窺える。この一見矛盾するような評価は、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代の転換期において、武将に求められる資質が多様化していたことを反映しているのかもしれない。戦場での厳しさと、平時における政治的な柔軟性や人間的な配慮を、彼は状況に応じて使い分けていたのだろう。
直政の死後、井伊家は嫡男・直継(後に直勝と改名)を経て、次男・直孝が家督を継いだ 4 。直孝の代に彦根城は完成し、井伊家は彦根藩主として30万石を超える大領(幕府からの預かり米を含む)を有する、譜代大名筆頭の家格を誇る存在となった 6 。その後、井伊家は江戸時代を通じて一度も国替えされることなく彦根を治め、幕末の大老・井伊直弼など、多くの重要な人物を輩出して、幕政に重きをなした 6 。この井伊家の繁栄の礎を築いたのが、まさしく井伊直政であった。彼が家康から得た信任と、その生涯をかけて成し遂げた功績は、子孫に巨大な政治的遺産として受け継がれたのである。江戸初期の記録が彼を「開国の元勲」と讃えたように 6 、井伊直政は徳川幕府の創設に不可欠な役割を果たした、歴史に名を刻むべき武将であった。
井伊直政は、徳川家康による天下統一と江戸幕府創設という、日本の歴史における一大転換期において、極めて重要な役割を果たした人物である。彼の生涯は、没落した小領主の嫡男という逆境から始まり、主君・家康への絶対的な忠誠と、自身の持つ類稀なる能力によって、徳川家中で最高位の家臣へと駆け上がった、劇的な立身出世の物語であった。
直政の功績は多岐にわたる。第一に、彼は「井伊の赤鬼」と恐れられた勇猛な武将であり、武田の旧臣を率いて編成した「井伊の赤備え」は、徳川軍団最強の精鋭部隊として数々の戦功を挙げた。第二に、彼は卓越した外交官・政治家であり、天正壬午の乱における北条氏との交渉から、関ヶ原の戦いに至るまでの複雑な外交工作、そして戦後の西国大名との講和交渉に至るまで、家康の意を受けて重要な折衝を成功させ、徳川の覇権確立に大きく貢献した。第三に、彼は家康から絶大な信任と寵愛を受け、常にその側近くにあって、軍事・政治の両面から家康を支える「右腕」として機能した。
その一方で、直政は「人斬り兵部」とも呼ばれるほどの厳格さを持つ、複雑な人物でもあった。しかし、その厳しさは、家康の期待に応え、困難な任務を遂行するための強い責任感の裏返しであったとも解釈できる。戦国乱世を生き抜き、新たな時代を切り拓くためには、時に非情とも思える決断力と、組織をまとめ上げるための厳格な規律が不可欠であった。直政は、戦場の勇猛さと政治的な冷静さ、そして主君への忠誠心を兼ね備えることで、この激動の時代を駆け抜けたのである。
彼の早すぎる死は惜しまれるが、その功績は井伊家のその後の繁栄に繋がった。彦根藩主として譜代大名筆頭の地位を確立した井伊家は、江戸時代を通じて幕政に重きをなし、直政が築いた礎の上に、その名声を確固たるものとした。江戸時代の史書が彼を「開国の元勲」と評したように 6 、井伊直政は徳川幕府の成立に不可欠な貢献を果たした、日本史上特筆すべき人物である。その劇的な生涯と鮮烈な個性は、現代においても大河ドラマ 18 や漫画 21 などで描かれ、人々を惹きつけてやまない。井伊直政の物語は、個人の能力と忠誠心、そして時代の要請が結びついた時、いかに大きな歴史的影響を生み出すかを示す、力強い証左と言えるだろう。