最終更新日 2025-05-22

今川氏輝

今川氏輝についての詳細報告

はじめに

本報告は、戦国時代に駿河国及び遠江国(現在の静岡県中西部)を支配した今川氏の第10代当主、今川氏輝(いまがわうじてる)に焦点を当てる。氏輝は、その治績や人物像において、著名な弟である今川義元の影に隠れがちであり、しばしば「病弱な当主」として語られてきた。しかしながら、近年の歴史研究の進展は、氏輝が発給した文書や具体的な政策の再検討を通じて、彼が単なる過渡期の当主ではなく、主体的に領国経営や外交・軍事活動に取り組んだ戦国大名であった可能性を示唆している 1

本報告では、現存する史料や研究成果に基づき、今川氏輝の出自、家督相続の経緯、その治世における内政・外交・文化的側面、そして彼の早すぎる死が引き金となった今川家の内訌「花倉の乱」の全貌を詳細に検討する。これにより、従来固定化されてきた氏輝像を見直し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。この試みは、戦国期研究における史料解釈の深化と、それに基づく人物像再構築の重要性を示す一例ともなり得るであろう。

第一章:今川氏輝の出自と家督相続

第一節:生誕と家系

今川氏輝は、永正10年(1513年)に生誕し、天文5年3月17日(西暦1536年4月7日)に24歳という若さでこの世を去った 3 。幼名は竜王丸(りゅうおうまる)、元服後の通称は五郎(ごろう)と伝えられる。その短い生涯は、戦国時代の激動期における今川家の運命に大きな影響を及ぼすこととなる。死後、臨済寺殿用山玄公大居士(りんざいじでんようざんげんこうだいこじ)という戒名が贈られ、墓所は静岡県静岡市葵区大岩町の臨済寺にある 3 。官位は従五位下(じゅごいのげ)、上総介(かずさのすけ)に叙せられ、室町幕府からは駿河・遠江二国の守護職に任じられていた 3

氏輝の父は、戦国大名としての今川氏の基礎を固めた今川氏親(うじちか)である。氏親は「今川仮名目録」を制定するなど、領国経営に優れた手腕を発揮した人物として知られる 1 。母は、京都の公家である中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘、寿桂尼(じゅけいに)である 3 。寿桂尼は、夫氏親の死後も氏輝の後見として、また氏輝の死後に勃発した花倉の乱においても重要な役割を果たし、「女戦国大名」とも評されるほどの政治的手腕を持った女性であった 4

氏輝の兄弟姉妹関係は、彼の死後の家督争いを理解する上で極めて重要である。氏輝には、同母弟として彦五郎(ひこごろう)がいたが、彦五郎もまた氏輝と同日に死去している 3 。異母兄弟としては、側室である福島助春(ふくしますけはる)の娘を母とする玄広恵探(げんこうえたん、または良真(りょうしん)とも)がおり、これが後の花倉の乱で氏輝の後継を争う一方の当事者となる 6

そして、氏輝の最も著名な弟が、後に「海道一の弓取り」と称される今川義元(よしもと)、出家時代の名を栴岳承芳(せんがくしょうほう)である。義元の生母については、寿桂尼とする説が通説であるが 3 、近年の研究では側室(福島氏の娘、あるいは蒲原氏の娘など)の子であり、後に寿桂尼の養子になったとする説も提示されている 6 。この義元の母を巡る問題は、花倉の乱における寿桂尼の動機や行動を解釈する上で重要な論点となる。その他、氏輝の姉妹には、吉良義堯(きらよしたか)室や、相模国の北条氏康(ほうじょううじやす)に嫁いだ瑞渓院(ずいけいいん)などがいる 3

兄弟間の母親の違い、特に玄広恵探と義元(仮に寿桂尼の子であったとしても、恵探とは母が異なる)の出自の違いは、戦国時代の家督相続においてしばしば見られた対立の火種を内包していた。嫡男である氏輝とその同母弟彦五郎が正統な後継者と目される一方で、側室の子である玄広恵探は、その母方の福島氏という有力な外戚の存在を背景に、一定の発言力を持っていたと考えられる。このような複雑な家族構成が、氏輝の早すぎる死によって一気に表面化し、今川家を揺るがす内乱へと発展していくのである。

表2:今川氏輝 関係主要人物一覧

関係

氏名

備考

主要関連資料

今川氏親

今川仮名目録制定者

1

寿桂尼(中御門宣胤の娘)

「女戦国大名」、氏輝の後見

3

同母弟

今川彦五郎

氏輝と同日に死去

3

異母弟

玄広恵探(母:福島助春の娘)

花倉の乱で義元と対立

3

今川義元(栴岳承芳)

母は寿桂尼説と側室説あり。花倉の乱で勝利し家督相続

3

姉妹

吉良義堯室

3

瑞渓院(北条氏康室)

後北条氏との同盟関係強化

3

中御門宣綱室

3

瀬名貞綱室

3

主要家臣など

太原雪斎

義元の教育係、花倉の乱で義元派の中心

15

福島氏(福島越前守、福島弥四郎など)

玄広恵探の外戚、花倉の乱で恵探派の中心

7

第二節:家督相続の経緯

大永6年(1526年)、父・今川氏親が死去すると、氏輝は14歳という若さで今川家の家督を相続した 3 。戦国時代において、若年の当主の出現は、しばしば家中の権力闘争や外部勢力による介入の隙を生じさせる要因となり得たが、今川家においては、氏輝の母・寿桂尼が後見人としてその政治手腕を遺憾なく発揮し、政務を補佐した 3 。寿桂尼は氏親の病床時から国政に関与していたとされ 5 、その卓越した能力は「女戦国大名」とも称されるほどであった。

氏輝の治世初期においては、寿桂尼の強い影響下にあったことは想像に難くない。事実、氏輝が親政を開始したとされる天文元年(1532年)頃 3 以降も、寿桂尼が発給したとされる文書が15通確認されており 3 、これは彼女が単なる後見に留まらず、実質的な共同統治者、あるいは重要な政策決定に関与する最高顧問のような立場にあった可能性を示唆している。この点は、氏輝が病弱であったという説を補強する材料とされる一方で、寿桂尼自身の政治的野心や、戦国期における女性の多様な政治参加のあり方を示す事例としても注目される。

しかし、寿桂尼の関与が大きかったとはいえ、氏輝自身が全くの傀儡であったわけではない。彼自身が発給した文書も40通以上現存しており 3 、天文2年(1533年)には遠江国で検地を実施するなど 3 、主体的な領国経営の意志を見せている。若年の当主が経験豊富な母の助言と協力を得ながら統治を行う、あるいは特定の分野(例えば寺社との交渉や外交の一部など)において寿桂尼が引き続き権限を有していたという、役割分担による共同統治体制であった可能性も考えられる。いずれにせよ、寿桂尼の存在は、若き氏輝の政権安定に大きく寄与したであろうことは疑いない。同時に、この母子の密接な関係と寿桂尼の強い影響力は、後の花倉の乱における彼女の行動を理解する上での重要な伏線とも言えるだろう。

表1:今川氏輝 略年表

年代(和暦)

年代(西暦)

年齢

主要な出来事

主要関連資料

永正10年

1513年

1歳

生誕(幼名:竜王丸)

3

大永5年

1525年

13歳

元服し、氏輝と名乗る

4

大永6年

1526年

14歳

父・今川氏親死去に伴い家督相続。母・寿桂尼が後見。

3

天文元年(大永8年/享禄5年)

1532年頃

20歳

親政開始(とされる)

3

天文2年

1533年

21歳

遠江国において検地を実施

3

天文4年

1535年

23歳

北条氏綱と連携し、甲斐国都留郡山中で武田信虎軍と交戦(山中合戦)

1

天文5年

1536年

24歳

冷泉為和と共に歌会のため小田原へ赴く(妹・瑞渓院の北条氏康への輿入れに同行した説あり)

3

天文5年3月17日

1536年4月7日

24歳

死去。同日に弟・彦五郎も死去。これにより花倉の乱が勃発。

3

第二章:今川氏輝の治世

第一節:領国経営

今川氏輝の支配領域は、父・氏親の代に確立された駿河国と遠江国(現在の静岡県中西部及び西部)を主たる基盤としていた 3 。氏親はこれらの国の守護職を得ており、氏輝もこれを継承し、今川氏の勢力の中核を成していた。

氏輝の治世における主要な政策としては、まず天文2年(1533年)に実施された遠江国における検地が挙げられる 3 。検地は、領国内の土地と人民を把握し、年貢収取体制を整備するとともに、家臣団への知行配分を正確に行うための基礎となる、戦国大名にとって極めて重要な政策であった。この検地の実施は、氏輝が父の築いた支配体制を維持・強化しようとする積極的な姿勢の表れと見ることができる。

商業振興にも力を入れていたとされ、定期市の開設や楽市政策などを積極的に打ち出したと記録されている 1 。特に、駿府の近くにあった江尻湊(現在の静岡市清水区)の振興を図ったことは、物流の活性化を通じて領国経済の発展を目指したものであろう 4 。これらの商業政策は、戦国大名が富国強兵を進める上で不可欠な経済基盤の強化に繋がるものであった。

家臣団の統制と強化も氏輝の重要な課題であった。史料によれば、富士氏や興津氏といった有力な国人領主の子弟を「馬廻衆」として登用したとされる 3 。馬廻衆は当主の直属親衛隊であり、その編成は、家臣団の中核となる軍事力を育成するとともに、在地領主層を今川家の支配体制に組み込み、その忠誠心を高める狙いがあったと考えられる。

氏輝自身が発給した文書は40通以上現存しており、その内容は安堵状、沙汰状、免許状、寄進状など多岐にわたる 3 。これらの文書は、氏輝が領国支配の細部に至るまで関与し、裁定を下していたことを示している。一方で、母・寿桂尼が発給した文書も15通確認されており 3 、これは前述の通り、寿桂尼が依然として政治に深く関与していたことを物語っている。税制に関しては、寿桂尼が発給した制札の中に、先代氏親の時代の諸役免許を認めるものがあり、氏輝自身も同様の内容の文書を発給していることから、税制面での継続性が見て取れる 10 。また、大石寺のような有力寺社に対する棟別(家屋税)の賦課に関する史料も存在し、寺社への支配と財政確保の両面からのアプローチがうかがえる 11

これらの政策や文書発給の状況を総合的に見ると、今川氏輝の治世は、父・氏親が築いた「今川仮名目録」に代表される法治主義的な領国経営の路線を継承しつつ、検地による支配基盤の強化や商業振興といった独自の施策も積極的に展開していたことがわかる。これは、氏輝が単に前代の威光に頼るのではなく、自ら主体的に領国経営に取り組んだ戦国大名であったことを示している。寿桂尼との関係については、単純な傀儡政権と断じることはできず、経験豊富な母の助言や協力を得ながら、あるいは特定の分野で権限を分担しながら、より安定した統治を目指した共同統治、あるいは高度な連携体制であった可能性も考慮すべきであろう。このような統治のあり方は、戦国期における権力構造の多様性を示す興味深い事例と言える。

第二節:対外関係

今川氏輝の治世における対外関係は、東隣の相模国後北条氏との同盟を堅持しつつ、北方の甲斐国武田氏とは緊張関係にあったことが大きな特徴である。

甲斐国の武田信虎とは、しばしば軍事的な衝突を繰り返していた。特に天文4年(1535年)には、後北条氏綱と連携し、甲斐国都留郡の山中(現在の山梨県南都留郡山中湖村)において武田信虎の軍勢と大規模な合戦に及んだ 1 。この戦いで今川・北条連合軍は勝利を収め、一時的に甲斐国の半分ほどを占拠したとも伝えられており 3 、これは今川氏の軍事的能力の高さと、東国における勢力拡大への意欲を示す出来事であった。

一方、相模国の後北条氏とは、氏輝の父・氏親の代から続く駿相同盟を強固に維持していた 3 。この同盟関係は、氏輝の妹である瑞渓院が北条氏綱の子・氏康に嫁いだことにより、婚姻同盟としても強化されていた 3 。この駿相同盟は、今川氏にとって東方の国境線を安定させ、西方や北方への軍事行動や外交政策を展開する上で極めて重要な戦略的基盤であった。武田信虎との山中合戦において後北条氏と共同作戦をとれたのも、この強固な同盟関係があったからこそである。もし後北条氏との関係が不安定であったならば、今川氏は東西に敵を抱えることになり、武田氏に対する積極的な攻勢は困難であった可能性が高い。

また、今川氏は室町幕府から駿河・遠江二国の守護職に任じられており、氏輝の代の将軍は足利義晴であった 3 。氏輝は朝廷に対して献上物を送るなど、中央権威との関係維持にも意を用いていたことが記録されている 3 。守護職という幕府公認の権威は、領国支配の正当性を内外に示す上で有効であり、また朝廷との繋がりは文化的な権威を高める意味も持っていたと考えられる。

このように、氏輝の外交政策は、後北条氏との伝統的な同盟関係を基軸とし、それを背景に甲斐の武田氏とは敵対するという、当時の関東・東海地方における典型的な合従連衡の力学の中で展開されていた。この安定した東方との関係が、武田氏への積極的な軍事行動を可能にした重要な要因の一つであったと言えるだろう。

第三節:文化的側面

今川氏は、足利氏一門という高い家格を背景に、代々京都の文化を積極的に領国に導入し、本拠地である駿府を「小京都」と称されるほどの文化都市へと発展させてきた。今川氏輝もまた、この文化的伝統を継承し、和歌や連歌といった文化活動に深く関与していた。

史料によれば、氏輝の治世下では、京都から多くの公家が駿河に滞在し、彼らと共に歌会などが頻繁に催されていた 3 。氏輝自身も、当代一流の歌人であった冷泉為和(れいぜいためかず)の門弟として和歌を学び、自らも歌会に参加するほどの教養人であったと伝えられている 3 。また、『新古今和歌集』などの古典籍を所蔵していたことも記録されており 3 、その文化的な関心の高さがうかがえる。

戦国時代において、武将が文化的素養を身につけることは、単なる個人的な趣味や教養の域を超え、政治的な意味合いを持つことも少なくなかった。特に、京都を中心とする中央の文化に通じていることは、大名としての高いステータスを示すものであり、他大名に対する優位性を印象づける効果があった。歌会などを通じて公家や文化人と交流することは、最新の情報を入手する機会であると同時に、人脈を形成し、さらには今川氏の文化的な先進性を内外にアピールする場ともなった。氏輝の母・寿桂尼が京都の公家出身であったことも 3 、氏輝が京文化に親しむ環境にあった一因と考えられる。

したがって、今川氏輝の文化活動への関与は、今川家の伝統的な文化政策の継承であると同時に、戦国大名としての権威を高め、中央(京都)との繋がりを維持・強化するという、政治的・外交的戦略の一翼を担うものであったと評価できる。文化を通じたソフトパワーの行使は、今川氏のブランドイメージを向上させ、領国支配や外交交渉を有利に進める上でも無視できない要素であったと言えるだろう。

第三章:今川氏輝の死と花倉の乱

第一節:氏輝の急死

天文5年3月17日(西暦1536年4月7日)、今川氏輝は24歳という若さで急逝した 3 。さらに不幸なことに、氏輝の有力な後継者候補と目されていた同母弟の彦五郎も、同日に死去するという異常事態が発生した 3 。若年の当主とその弟の同時死は、今川家にとって計り知れない衝撃であり、瞬く間に権力の空白を生み出すこととなった。

氏輝の死因については諸説あり、明確な定説は確立されていない。最も一般的な説は、氏輝が元来病弱であったとする病死説である 3 。しかし、彦五郎との同日死という状況は、単純な病死では説明がつきにくい部分もある。そのため、疫病説も有力視されている。『勝山記』には、天文5年に今川領と隣接する甲斐国都留郡で疫病が流行したという記録があり 3 、また、冷泉為和の歌集からは、氏輝が小田原を訪問した際に彦五郎が同行していたことが確実視されているため 3 、兄弟揃って同じ疫病に罹患した可能性も否定できない。

一方で、この不可解な死の状況から、毒殺説や自殺説といった憶測も絶えない 3 。特に注目されるのが、氏輝の入水自殺説である。この説は、氏輝の許嫁であったとされる三条家の姫君(武田信玄の正室となった三条夫人)との婚約が破棄され、政略によって武田信玄(当時は晴信)に奪われる形になったことへの絶望が原因であるとするもので 13 、『浅羽本系図』に「為氏輝入水、今川怨霊也」と記されていることが根拠の一つとして挙げられている 13 。氏輝が当時まだ独身であったこと 13 、そして母・寿桂尼が京都の公家出身であることから、氏輝自身も公家との婚姻を望んでいた可能性が指摘されており 13 、この説が事実であれば、氏輝の死は単なる病死ではなく、戦国時代の非情な政略に翻弄された末の悲劇的な選択であったということになる。

死因が何であれ、氏輝に嫡子がいなかったこと 3 、そして有力な後継者であった彦五郎も同時に失ったことは、今川家の後継者問題を深刻化させ、家督を巡る骨肉の争いである花倉の乱を誘発する直接的な引き金となった。氏輝と彦五郎の同日死という異常な状況は、当時の人々に大きな衝撃を与え、様々な憶測や伝承を生む土壌となった。「今川怨霊」という言葉が史料に残されていることは 13 、氏輝の死が尋常ではないものと捉えられ、何らかの祟りや不吉な出来事として人々の記憶に刻まれたことを示唆しているのかもしれない。

第二節:花倉の乱

今川氏輝及び彦五郎の急死は、今川家における深刻な後継者問題を引き起こし、天文5年(1536年)5月から6月にかけて、家督を巡る内訌、いわゆる「花倉の乱(はなぐらのらん)」へと発展した 14

この乱の主要な対立軸は、氏輝の異母弟である玄広恵探(良真)と、同じく弟である栴岳承芳(後の今川義元)の二派であった。玄広恵探は、今川氏親の三男で、母は側室の福島助春の娘であった 6 。そのため、母方の親戚である福島氏一族(福島越前守、福島弥四郎など)に擁立された 7 。福島氏は、今川家の有力な被官であり、特に遠江方面や甲斐国との外交・軍事を担当するなど、一定の勢力を有していた 15

一方の栴岳承芳は、今川氏親の五男であり、母は正室の寿桂尼であるとするのが通説であるが、近年では側室の子で寿桂尼の養子となったとする説も有力視されている 6 。承芳は、母(あるいは養母)である寿桂尼、教育係であった臨済宗の僧・太原雪斎(たいげんせっさい)、そして岡部親綱(おかべちかつな)や興津清房(おきつすがふさ)といった今川家の重臣たちによって支持された 7 。さらに、承芳派は相模国の後北条氏(当主は北条氏綱)からの支援も取り付けることに成功した 15

乱の経過は以下の通りである。天文5年5月24日、寿桂尼が玄広恵探派の説得を試みるも不調に終わる 15 。翌25日、玄広恵探派は遠江国の久能城(ただし、駿河国の久能城との混同の可能性も指摘される)で挙兵し、駿府の今川館を襲撃したが、守りが堅く失敗に終わった 15 。その後、恵探派は駿河国志太郡の方ノ上城(かたのかみじょう、現在の焼津市)や花倉城(葉梨城(はなしろ)とも。現在の藤枝市)を拠点として抵抗を続け、遠江国などでも恵探に同調する動きが見られた 15

これに対し、栴岳承芳派は6月10日、岡部親綱が方ノ上城を攻撃し、これを陥落させる 15 。勢いに乗った承芳派は、続いて玄広恵探が籠る花倉城を総攻撃した。激戦の末、花倉城も支えきれず、恵探は城を脱出して瀬戸谷(せとのや、現在の藤枝市)の普門寺(ふもんじ)に入り、そこで自刃して果てた 15 。これにより花倉の乱は終結し、栴岳承芳は還俗して今川義元と名を改め、今川家の家督を相続した。

花倉の乱は、今川家の権力構造と歴史に大きな影響を与えた。第一に、義元による家督掌握は、その後の今川氏の宗主権強化と領国支配の安定化に繋がった。第二に、玄広恵探を支持した福島氏をはじめとする勢力は後退を余儀なくされ、今川家中の権力バランスに変化が生じた。特に、義元擁立に功のあった太原雪斎の政治的影響力は一層増大し、その後の今川氏の政治・外交を主導していくことになる。第三に、義元は家督相続を確実なものとするため、隣国の甲斐武田氏との和睦を成立させ 15 、また乱の鎮圧に際して支援を受けた後北条氏との連携をより強固なものとした 15

この内乱は、単なる兄弟間の家督争いに留まらず、今川家内部の有力被官や外戚、さらには隣国大名の思惑も絡んだ複合的な権力闘争であった。この試練を乗り越えたことで、今川義元は強力なリーダーシップを確立し、今川氏の最盛期を築くための基盤を固めることに成功したと言える。しかし同時に、この骨肉の争いは、今川家臣団の間に少なからぬ亀裂や不信感を生んだ可能性も否定できず、その後の義元政権における家臣団統制に影響を与えたことも考えられる。

表3:花倉の乱 主要関係者と支持勢力

対立派閥

中心人物

主要支持勢力・人物

主要拠点

玄広恵探派

玄広恵探(良真)

福島氏(福島越前守、福島弥四郎など)、遠江国の一部国人勢力

方ノ上城、花倉城

栴岳承芳派 (今川義元派)

栴岳承芳(今川義元)

寿桂尼、太原雪斎、岡部親綱、興津清房、朝比奈氏、三浦氏、葛山氏など今川家譜代・有力家臣、後北条氏(北条氏綱)

今川館(駿府)

第四章:今川氏輝の人物像と評価

第一節:史料に見る人物像

今川氏輝の人物像については、従来「病弱」という評価が一般的であったが、近年の研究では、より活動的で主体的な統治者としての一面が注目されている。

統治能力に関しては、父・氏親の政策を踏襲しつつも、遠江国における検地の実施 3 、定期市や楽市といった商業振興策の推進 1 、さらには家臣団の中核となる馬廻衆の編成 3 など、積極的な領国経営に取り組んでいたことが史料から確認できる。また、軍事面においても、甲斐国の武田信虎としばしば合戦を行い、一時は甲斐国の一部を占拠するほどの戦果を挙げるなど 1 、決して文弱なだけの当主ではなかったことがうかがえる。これらの事績は、氏輝が単に母・寿桂尼の傀儡であったり、病床に伏せっていたりしただけでは説明がつかない。

健康状態については、依然として病弱であったとする説も根強い。その根拠としては、母・寿桂尼が氏輝の治世中も多数の文書を発給していること 3 や、若くして弟の彦五郎と同日に死去したという事実 3 が挙げられる。しかし一方で、天文5年(1536年)には冷泉為和と共に歌会のために小田原へ赴くなど 3 、一定の活動が見られることも事実であり、その健康状態については多角的な検討が必要である。

文化的な側面では、氏輝は高い教養の持ち主であった。京都から駿河に下向していた多くの公家たちと歌会を催し、今川家の文化的な中心性を高めることに貢献した 3 。氏輝自身も冷泉為和の門弟として和歌を学び、歌会にも積極的に参加していたとされ、『新古今和歌集』などの古典籍を所蔵していたことも伝えられている 3 。これは、足利氏一門としての高い家格と、京文化を重視する今川家の伝統を受け継いだものであったと言えよう。

氏輝の人物像は、従来の「病弱な当主」という一面的な評価から、近年では「文武両面に意欲を見せた若き当主」へと変化しつつある。この評価の変遷は、史料の再解釈や新たな史料の発見によるものであり、歴史像が固定的なものではなく、研究の進展によって常に更新されうることを示している。弟である義元が後年、「公家かぶれ」「軟弱」といった逸話と共に語られることがあるが 19 、そうしたイメージが兄である氏輝にも影響を与え、過小評価に繋がった可能性も考慮に入れるべきかもしれない。氏輝の短い治世と、その後の義元の華々しい活躍、そして桶狭間における劇的な最期という歴史的インパクトの大きさが、相対的に氏輝の業績を目立たなくさせてきた側面も否定できないだろう。

第二節:関連する逸話・伝承

今川氏輝の生涯、特にその死に関しては、いくつかの印象的な逸話や伝承が残されている。これらは史実そのものではないとしても、当時の人々の感情や、出来事が与えた衝撃の大きさを反映している場合があり、氏輝という人物を多角的に理解する上で興味深い。

最も顕著なのは、弟・彦五郎との同日死に関する謎である 3 。若年の当主とその有力な後継者候補が同じ日に亡くなるという事態は極めて異例であり、これが様々な憶測を呼ぶ要因となった。

中でも特に劇的な伝承として、三条家の姫君との婚約破棄に絶望した氏輝が入水自殺したというものがある 13 。この説によれば、氏輝の許嫁であった三条家の姫君(後の武田信玄正室・三条夫人)が、今川家の政略的判断により武田信玄(当時は晴信)に嫁ぐことになり、これに深く傷心した氏輝が自ら命を絶ったとされる。この伝承の根拠の一つとして、『浅羽本系図』に「為氏輝入水、今川怨霊也」という記述が見られることが挙げられる 13 。この「今川怨霊」という言葉は、氏輝の死が尋常ではないものとして当時の人々に認識され、何らかの祟りや不吉な出来事として恐れられたことを示唆している。

これらの逸話や伝承は、氏輝の死が単なる病死として平穏に受け止められたわけではなかったことを物語っている。その死の不可解さ、悲劇性が、人々の想像力を刺激し、様々な物語を生み出す背景となったのであろう。特に自殺説や怨霊伝承は、氏輝個人の悲劇性を際立たせるとともに、その直後に起こる花倉の乱という骨肉の争いの前触れとしての不吉な出来事として、後世の人々の記憶に強く刻まれた可能性がある。

第三節:後世の評価の変遷と研究史上の論点

今川氏輝に関する評価は、時代と共に変遷してきた。江戸時代の軍記物語などにおいては、弟・義元の華々しい活躍や悲劇的な最期が大きく取り上げられる一方で、氏輝については多く語られることはなかった。近代以降の歴史研究においても、長らく「病弱な当主」あるいは「義元へのつなぎの当主」といった評価が主流であった。

しかし、戦後の実証的な歴史研究の進展、特に一次史料の丹念な分析が進むにつれて、氏輝の人物像は再検討されるようになる。小和田哲男氏や有光友学氏といった専門家による今川氏研究の中で、氏輝自身の発給文書や具体的な政策が明らかにされ 3 、彼が主体的に領国経営や外交・軍事活動を行っていた側面が注目されるようになった 1 。小和田哲男氏は、氏輝期に見られる馬廻衆の登用や商業振興策を新しい施策として評価しつつも、史料的制約からそれらが氏輝の創始であると断定することには慎重な見解も示している 3 。有光友学氏は、今川氏が発給した文書を網羅的に収集・分析することで、氏輝を含む歴代当主の具体的な統治活動を史料に基づいて明らかにしようと努めている 9

氏輝の死因や、その死が引き金となった花倉の乱の解釈についても、研究者間で見解が分かれる点が存在する。例えば、氏輝の死因については、従来の病死説に加え、疫病説、さらには前述の自殺説などが提起され、活発な議論が交わされている 3 。また、花倉の乱における寿桂尼の役割や、義元の母の出自に関する問題なども、依然として重要な研究テーマとなっている 6

今川氏輝の研究史は、戦国時代研究全体の進展と深く結びついていると言える。初期の物語的な評価から、実証的な史料研究に基づく評価へと移行し、近年では地域史研究の深化や関連史料の新たな発見・再検討により、より多角的で詳細な人物像が描かれつつある。氏輝の評価の変遷は、歴史学において「定説」とされてきたものが絶対的なものではなく、常に新たな研究によって見直され、より深められていく可能性を秘めていることを示す好例である。現在も、氏輝の具体的な政策が領国社会に与えた影響の度合いや、寿桂尼との権力分担の具体的な実態、花倉の乱に至るまでの詳細な政治過程など、解明されるべき論点は多く残されている。これらの論点に対する今後の研究の進展が、今川氏輝という戦国武将の歴史像をさらに豊かなものにしていくことが期待される。

おわりに

本報告では、戦国時代の駿河・遠江を支配した今川氏第10代当主、今川氏輝について、現存する史料と近年の研究成果に基づき、その出自、家督相続、治世、そしてその死と花倉の乱に至るまでを詳細に検討してきた。

従来、氏輝は弟・義元の陰に隠れ、病弱で短い治世であったという印象が強かった。しかし、本報告で見てきたように、氏輝は若年で家督を相続した後、母・寿桂尼の後見を受けつつも、天文年間に入ると親政を開始し、遠江国の検地、商業振興策、家臣団の整備、さらには隣国甲斐の武田信虎との軍事衝突など、内外に積極的な活動を展開していたことが明らかになった。また、和歌などの文化活動にも親しみ、教養人としての一面も持ち合わせていた。これらの事績は、氏輝が単なる過渡期の当主ではなく、戦国大名として主体的に領国経営に取り組んだ人物であったことを示している。

その一方で、氏輝の治世はわずか10年、親政期間はさらに短い約4年で幕を閉じる。24歳という若さでの、弟・彦五郎との同日死という謎に満ちた最期は、今川家に深刻な権力空白を生み、骨肉の争いである花倉の乱を引き起こした。この内乱は、結果として今川義元という稀代の戦国大名を誕生させる契機とはなったものの、今川家にとって大きな試練であったことは間違いない。

今川氏輝の歴史的評価は、依然として発展途上にあると言える。彼の具体的な政策が領国社会に与えた長期的な影響、母・寿桂尼との権力関係の実態、そしてその死の真相など、解明されるべき課題は多く残されている。しかし、近年の研究によって、氏輝が単に「病弱な当主」という一言で片付けられるべき人物ではなく、短いながらも戦国大名として確かな足跡を残した存在であったことが徐々に明らかになりつつある。

今後、関連史料のさらなる発掘や、既存史料の多角的な再検討が進むことによって、今川氏輝の歴史的実像はより鮮明なものとなり、戦国時代史における彼の位置づけも確固たるものとなっていくであろう。本報告が、その一助となれば幸いである。

主要参考文献

  • 有光友学『戦国大名今川氏の研究』吉川弘文館、1994年。 14
  • 有光友学「戦国大名今川氏発給文書の研究(一)」『横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学』24号、1978年。 9
  • 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」黒田基樹編『北条氏康とその時代』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年。 3 (間接的に関連)
  • 小和田哲男『今川氏の研究』清文堂出版、2001年。 14
  • 小和田哲男『駿河今川氏十代』戎光祥出版〈中世武士選書〉、2015年。 14
  • 久保田昌希『戦国大名今川氏と領国支配』吉川弘文館、2005年。 14
  • 黒田基樹『今川氏親』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究〉(刊行年不明、氏親に関する記述が氏輝の背景理解に資する)
  • 静岡県『静岡県史』通史編・史料編(関連箇所) 10
  • 富澤一弘・佐藤雄太「今川氏の制札の研究」『高崎経済大学論集』第53巻第4号、2011年。 10
  • 長倉智恵雄『戦国大名駿河今川氏の研究』東京堂出版、1995年。 14
  • 前田利久「花蔵の乱と駿府―今川氏の「構」について―」『戦国史研究』22号、1991年。(本報告書作成に直接利用した資料には含まれていないが、関連研究として重要) 22

(その他、本報告書中で引用した各ウェブサイト資料)

引用文献

  1. 今川氏~駿河に君臨した名家~:静岡市公式ホームページ https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009495.html
  2. 駿府の今川氏 - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012154.html
  3. 今川氏輝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E8%BC%9D
  4. 今川氏輝(いまがわ・うじてる)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E8%BC%9D-1056311
  5. 今川仮名目録 ~スライド本文・補足説明~ https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/1649/1/4-2.pdf
  6. 今川氏親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E8%A6%AA
  7. 寿桂尼-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44322/
  8. 今川義元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83
  9. ynu.repo.nii.ac.jp https://ynu.repo.nii.ac.jp/record/977/files/KJ00004464368.pdf
  10. www1.tcue.ac.jp http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/53_4/tomizawasato.pdf
  11. www.i-repository.net https://www.i-repository.net/contents/osakacu/kiyo/04913329-73-112.pdf
  12. ocu-omu.repo.nii.ac.jp https://ocu-omu.repo.nii.ac.jp/record/2006393/files/04913329-73-112.pdf
  13. 武田晴信の記憶 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n4526cx/18/
  14. 今川氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F
  15. 花倉の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%80%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
  16. 花倉の乱の決戦地、花倉城へ行ってきました。 - note https://note.com/good5_/n/n11f1ce43206b
  17. 花倉を舞台の一つとした今川氏の家督争い - 天文五年の花蔵の乱 - 藤枝市 https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/material/files/group/125/shishi06.pdf
  18. 武田信虎が直面した北条・今川との戦いと家臣の離反 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20303
  19. 教養の高い名君が急速に衰退、今川義元「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57622
  20. 今川義元が辿った生涯と人物像に迫る|人質・家康を育て、今川氏最盛期を築いた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1101081
  21. 今 川 氏 の 制 札 の 研 究 - 高崎経済大学 http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/55_1/tomizawa.pdf
  22. 戦国史研究会 http://www.sengokushi-kenkyukai.jp/kaishi21-40.html
  23. 寿桂尼 /ホームメイト - 戦国時代の姫・女武将たち - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46519/