戦国時代の奥州にその名を刻んだ伊達家。その歴史は、しばしば二人の傑出した当主によって語られる。一人は、独創的な分国法『塵芥集』を制定し、広域な婚姻同盟網を築いて伊達家の勢力を飛躍的に拡大させた十四代当主・伊達稙宗 1 。もう一人は、その曾孫にあたり、「独眼竜」の異名で天下に覇を唱えようとした十七代当主・伊達政宗である。
この二人の偉大な当主の間に位置するのが、伊達家十五代当主・伊達晴宗(1519年 - 1577年)である 4 。彼の生涯は、奇しくも二つの世代間闘争によって色濃く彩られている。一つは、自らが主導し、父・稙宗と奥州全土を巻き込んで争った壮絶な内乱「天文の乱」。そしてもう一つは、成長した息子・輝宗によって自らの権力基盤が解体される政変「元亀の変」である。父との争いで家督を奪い、やがては子に実権を奪われるという彼の生涯は、単なる個人的な確執に留まらず、戦国期における大名家の権力継承の困難さと、その統治構造の変質を象徴するものであった。
本報告書では、伊達晴宗を単に「父と争い、子に敗れた人物」という一面的な評価から解き放ち、父が築いた旧来の支配体制を破壊し、混乱の中から新たな秩序を模索した「過渡期の統治者」として多角的に分析する。彼が繰り広げた政策、特に父の模倣から始まった婚姻外交の功罪を徹底的に検証し、伊達家の歴史、ひいては奥州戦国史における晴宗の真の役割を明らかにすることを目的とする。
伊達晴宗は、永正16年(1519年)、伊達家十四代当主・伊達稙宗の嫡男として生を受けた 4 。母は会津の戦国大名・蘆名盛高の娘である泰心院であり、この血縁は当時の伊達氏と蘆名氏の強固な同盟関係を象徴していた 4 。
父・稙宗は、自らの子女21人という多さを利して、周辺の有力大名家へ次々と縁組や養子縁組を進める、いわゆる「洞(うつろ)」と呼ばれる広域婚姻ネットワークを構築していた 3 。この政策により、伊達家の影響力は南奥羽全域に及び、稙宗は奥州の宗主として君臨するに至った。晴宗は、この急進的な拡大政策がもたらす栄華と、その裏で増大する家臣団や周辺勢力の軋轢の中で成長期を過ごした。
天文2年(1533年)、晴宗は室町幕府十二代将軍・足利義晴から偏諱(名前の一字)を賜り、「晴宗」と名乗る 6 。これは、父・稙宗が中央の権威である幕府との関係を重視し、奥州における伊達家の公的な地位を高めようとしていた戦略の一環であった。
晴宗の青年期を語る上で欠かせないのが、岩城重隆の娘・久保姫(栽松院)との婚姻である。彼女は「笑窪御前」とも呼ばれるほどの美貌で知られ、奥州一の美少女と評判であった 9 。
軍記物語などによれば、久保姫は当初、仙道の有力大名である白河結城氏の嫡男・結城晴綱への輿入れが決定していた 9 。しかし、その評判を聞きつけた晴宗は彼女に強く惹かれ、再三の申し入れが断られると、ついに嫁入り行列の道中を兵を率いて襲撃し、久保姫を略奪して自らの妻にしたと伝えられている 11 。
この「略奪婚」の逸話は、晴宗の情熱的な性格を示すものとしてしばしば語られるが、その背後には極めて高度な政治的計算が見え隠れする。この行動は、単なる恋愛感情の発露に留まらない。当時、勢力を拡大する伊達氏に対抗するため、岩城氏は白河結城氏との連携を模索していた 14 。晴宗の強硬手段は、この連携を物理的に阻止し、有力大名である岩城氏をライバルである白河結城氏から引き剥がして、伊達家の陣営に組み込むという極めて戦略的な意味合いを持っていた。事実、この婚姻に際しては、晴宗と久保姫の間に生まれた子を岩城氏の養子とすることが約束されており、単なる略奪ではなく、事後承諾や水面下での交渉があった可能性も示唆される 15 。この一件は、若き晴宗が父・稙宗の政略を理解しつつも、より直接的で強引な手法を厭わない気質を持っていたことを示しており、後の父との全面対決に至る彼の行動様式を予見させるものであった。
伊達家の父子を、そして奥州の諸大名を巻き込む大乱の直接的な引き金となったのは、稙宗が推し進めた一つの養子縁組計画であった。天文11年(1542年)、稙宗は、後継者のいない越後国守護・上杉定実のもとへ、三男の時宗丸(後の伊達実元)を養子として送り込むことを最終的に決定した 8 。上杉定実は稙宗の娘婿の父であり、時宗丸は定実の曾孫にあたる血縁関係にあった 8 。
問題は、この養子縁組に際して、伊達家中の精鋭家臣100騎を時宗丸に付けて越後へ移住させるという破格の条件が付されていた点にあった 17 。この計画に対し、嫡男である晴宗は、伊達本家の軍事力を著しく削ぎ、屋台骨を揺るがしかねないとして、宿老の中野宗時や桑折景長らと共に真っ向から反対した 16 。伊達家の力を他国のために割くことへの不満が、譜代家臣団の間で燻っていたのである 3 。
話し合いによる解決が不可能と判断した晴宗は、ついに実力行使に出る。父・稙宗を居城であった桑折西山城に急襲し、捕縛・幽閉するというクーデターを敢行したのである 17 。しかし、稙宗は小梁川宗朝らの手引きによって城を脱出すると、自らを支持する姻戚大名や家臣を糾合して反撃に転じた 17 。ここに、父と子、そして奥州の諸勢力が二つに分かれて争う、6年にも及ぶ大内乱「天文の乱」の幕が切って落とされた。
この内乱において、奥州の諸勢力は複雑な利害関係と思惑から、稙宗方と晴宗方に分かれて参陣した。その対立構造は、単なる父子の争いという枠を遥かに超えるものであった。
陣営 |
主要大名 |
主要家臣 |
伊達家との関係・参陣理由 |
典拠 |
稙宗方 |
蘆名盛氏、相馬顕胤、田村隆顕、大崎義宣、葛西晴清、上杉定実 |
小梁川宗朝、懸田俊宗、亘理宗隆 |
稙宗の婚姻政策による姻戚(舅、義兄、婿など)。稙宗の築いた広域同盟網の受益者。 |
17 |
晴宗方 |
岩城重隆、留守景宗、大崎義直、長尾晴景(越後守護代) |
桑折景長、中野宗時、白石宗綱、鬼庭元実 |
稙宗の拡大政策に脅威を感じる勢力(岩城氏、長尾氏)や、伊達本家の国力維持を優先する譜代家臣団。 |
17 |
この勢力図を分析すると、天文の乱が持つ本質的な対立軸が浮かび上がる。稙宗方には、彼の婚姻政策によって伊達家と深く結びついた外部の大名が多く名を連ねている。彼らは稙宗が主導する広域秩序の維持に利害関係があった。一方、晴宗方には、伊達家内部の有力な譜代家臣団と、稙宗の拡大政策に直接的な利益を持たない、あるいはむしろ脅威を感じていた勢力が集結している。特に越後守護代の長尾晴景(上杉謙信の兄)が晴宗を支持したことは、上杉家への養子縁組が越後国内でも反発を招いていたことを示している 20 。
したがって、天文の乱は単なる父子の感情的な対立ではなく、稙宗が推進する「国際的(広域的)な勢力圏拡大」路線と、晴宗および譜代家臣団が主張する「伊達本家の国力維持・内政重視」路線のイデオロギー闘争であった。さらに、伊達当主による強力なトップダウン型の支配に対し、家臣団が自らの既得権益を守ろうとする抵抗という側面も色濃く、晴宗はその不満の受け皿として担ぎ上げられたのである。
乱の序盤は、稙宗が築き上げた広範な姻戚ネットワークが機能し、稙宗方が優勢に戦いを進めた 17 。しかし、戦いが長期化するにつれ、戦況は徐々に変化する。天文16年(1547年)、これまで稙宗方の主力を担ってきた蘆名盛氏が、田村氏との領土問題などを背景に晴宗方へと寝返ったことで、力関係は決定的に傾いた 21 。
6年にも及ぶ戦乱に南奥羽全体が疲弊する中、蘆名氏や岩城氏といった大名が仲介に乗り出し、ついには室町幕府十三代将軍・足利義輝(当時は義藤)から和睦勧告が出されるに至った 3 。これを受け、天文17年(1548年)9月、ついに父子の間で和議が成立した。
和睦の条件は、稙宗が家督を晴宗に譲り、伊具郡の丸森城へ隠居するというものであった 8 。これにより、晴宗は父を追放する形で、名実ともに伊達家十五代当主の座に就いたのである。
天文の乱は晴宗の勝利に終わったが、その代償は計り知れないほど大きかった。6年間の内乱は伊達家の力を著しく消耗させ、稙宗時代に築かれた奥州における絶対的な権威は大きく揺らいだ 3 。乱に乗じて周辺の諸大名は自立性を強め、晴宗はかつて父が君臨したような宗主としての立場ではなく、彼らと対等に近い立場で渡り合わねばならなくなった 3 。
さらに深刻だったのは領内の混乱である。乱の最中、父子双方が味方を増やすために恩賞として安堵状(所領の所有権を認める文書)を乱発した結果、一つの土地に複数の領主が存在するなど、所領の帰属が極めて不明確な状態に陥った 18 。当主となった晴宗にとって、最初の仕事は、この混乱した知行(家臣への給与地)を整理し、改めて家臣に所領を再給付するという、困難な戦後処理であった 6 。
晴宗は、この危機的状況を乗り越え、新たな統治体制を築くために矢継ぎ早に手を打った。
まず晴宗は、乱の最中から拠点としていた出羽国米沢城(現在の山形県米沢市)に、正式に本拠地を移した 8 。これは、父・稙宗が拠点とした伊達郡の桑折西山城からの政治的な決別を意味し、新たな晴宗体制の始まりを内外に宣言する象徴的な行動であった。
この米沢への移転には、政治的な意図に加え、重要な経済的側面があったと考えられる。米沢を含む置賜地方は、当時、木綿が普及する以前の衣料品の重要原料であった青苧(あおそ、カラムシという植物の繊維)の一大産地であった 24 。青苧は越後の上杉氏にとっても重要な財源となった産品であり、その生産と流通を直接掌握することは、戦国大名の経済力を大きく左右した 27 。晴宗の米沢移転は、父の旧体制からの脱却という政治的意図と共に、この重要な経済基盤を自らの手中に収めるという、極めて戦略的な判断であった可能性が高い。
次に晴宗は、和睦後もなお抵抗を続けていた稙宗方の最有力家臣・懸田俊宗を攻撃し、これを攻め滅ぼした 8 。この厳しい戦後処理によって、晴宗はようやく家中の完全掌握を成し遂げたが、それは彼の政権基盤がいかに脆弱であったかを物語っている。
天文の乱が残した最も大きな負の遺産の一つが、相馬氏との関係悪化であった。乱で稙宗に与した相馬氏は、乱後、晴宗が当主となった伊達家との敵対関係を決定的なものとした 18 。
特に、稙宗の隠居領であった伊具郡(現在の宮城県南部)を巡っては、永禄8年(1565年)に稙宗が没すると、相馬盛胤が「稙宗からこの地の相続を許された」と主張して軍事侵攻を開始した 29 。これに対し、晴宗と、後に家督を継ぐ輝宗は激しく抵抗し、伊具郡は両家が数十年にわたって血で血を洗う係争地となった 29 。天文の乱という父子の争いが、次世代にまで続く新たな紛争の火種を生み出してしまったのである。
父・稙宗の養子縁組政策に真っ向から反発し、内乱の引き金を引いた晴宗。しかし、彼が当主の座に就くと、皮肉にも父と全く同じ手法、すなわち婚姻外交を駆使して、低下した権威の回復と不安定な周辺情勢の安定化を図ることになる 5 。
晴宗は、正室・久保姫との間に六男五女、計11人もの子女に恵まれた 9 。彼はこの子供たちを戦略的に周辺の有力大名家へ養子や正室として送り込み、天文の乱で寸断された同盟網を、自らを中心とする新たな形で再構築しようと試みた。
晴宗が築いた婚姻・養子縁組のネットワークは、南奥羽の政治地図を理解する上で極めて重要である。
子女(生母:久保姫) |
縁組先(相手) |
縁組先(大名家) |
政治的意図・特記事項 |
典拠 |
長男:岩城親隆 |
岩城重隆(養子) |
岩城氏 |
妻・久保姫の実家を継承。天文の乱で味方した舅との約束を履行し、同盟を磐石にする。 |
4 |
長女:阿南姫 |
二階堂盛義(正室) |
二階堂氏 |
仙道(福島県中通り)の有力大名との連携強化。この縁組は後の蘆名氏との関係において重要な役割を果たす。 |
32 |
次男:伊達輝宗 |
- |
伊達家 |
家督継承者。後の十六代当主。 |
4 |
次女:鏡清院 |
伊達実元(正室) |
伊達一門 |
叔父(実元)に嫁がせる。天文の乱の原因となった実元を完全に一門内に取り込み、結束を固める狙い。 |
4 |
三男:留守政景 |
留守顕宗(養子) |
留守氏 |
仙台平野南部の有力国人・留守氏を事実上乗っ取り、支配下に置く。後の仙台藩の基盤の一つとなる。 |
9 |
四男:石川昭光 |
石川晴光(養子) |
石川氏 |
仙道南部の有力大名・石川氏を掌握し、勢力圏を南に拡大する。 |
9 |
四女:彦姫 |
蘆名盛興、のち蘆名盛隆(正室) |
蘆名氏 |
宿敵であった蘆名氏と和睦し、同盟を再構築するための最重要カード。輝宗の養女として嫁ぐ。 |
6 |
五女:宝寿院 |
佐竹義重(正室) |
佐竹氏 |
南奥の強豪・常陸の佐竹氏との同盟。伊達家の南下政策における重要な布石となる。 |
4 |
六男:国分盛重 |
- |
国分氏 |
仙台平野北部の国分氏を継承。しかし後に政宗と対立し、出奔する。 |
9 |
七男:杉目直宗 |
- |
杉目氏(伊達分家) |
晴宗の隠居城である杉目城を継承。若くして没する。 |
9 |
三女:益穂姫 |
小梁川盛宗(正室) |
小梁川氏(伊達庶流) |
有力な一門家臣との結束を強化する。 |
4 |
この一覧が示すように、晴宗の婚姻外交は極めて合理的かつ戦略的であり、南奥羽の主要な政治勢力をほぼ網羅している。しかし、この政策は単純な成功物語では終わらなかった。それは、血縁を介した新たな介入の口実や、相続を巡るさらなる紛争の火種を生み出す「諸刃の剣」でもあった。
特に蘆名氏との関係は、その複雑性を象徴している。晴宗の娘・彦姫が嫁いだ蘆名盛興が早世すると、彦姫は二階堂家から養子に入った蘆名盛隆(晴宗の孫にあたる)と再婚する。さらにその盛隆も亡くなると、後継者として佐竹義重の子(母は晴宗の娘・宝寿院)が養子として迎えられるなど、血縁関係が幾重にも絡み合い、伊達・蘆名・佐竹の三家による複雑な権力ゲームの舞台となった 33 。晴宗は、父が残した混乱を、より複雑で緻密な血縁の網を張り巡らせることで解決しようとした。それは天文の乱で失われた伊達家の影響力を一時的に回復させる上で絶大な効果を発揮したが、同時に問題を先送りし、次世代の政宗の時代に奥州の勢力図を塗り替える大きな伏線となったのである。
永禄7年(1564年)頃、晴宗は46歳という当時としても比較的若い年齢で家督を次男の輝宗に譲り、自身は信夫郡の杉目城(現在の福島市)に隠居した 4 。しかし、これは父・稙宗がそうであったように、名目上の隠居に過ぎなかった。晴宗はなおも家中における実権を保持し続け、輝宗を後見するという名目のもと、政治の主導権を握り続けようとしたのである 6 。
しかし、当主となった輝宗は父の操り人形であることを良しとせず、独自の政治・外交路線を模索し始めた。これにより、晴宗と輝宗の間には次第に深刻な対立が生じていく 22 。
その対立が顕在化したのが、晴宗の娘(輝宗の妹)・彦姫を蘆名盛興に嫁がせる際の出来事である。輝宗は、父・晴宗の反対を押し切ってこの縁組を進め、さらに彦姫を自らの「養女」という形にしてから輿入れさせた 22 。これは、蘆名氏との外交チャンネルを父から奪い、自身の手中に収めようとする明確な意思表示であり、父から子への権力移譲を巡る象徴的な事件であった。
父子の対立は、やがて家中を二分しかねない危機へと発展する。その中心にいたのが、宿老の中野宗時であった。宗時は、天文の乱で晴宗を擁立した第一の功臣であり、晴宗政権下で絶大な権勢を振るっていた 6 。彼は晴宗の権威を背景に、輝宗の政務にも深く干渉しており、輝宗にとって宗時の存在は自らの親政を阻む最大の障害となっていた。
元亀元年(1570年)4月、輝宗はついに動く。中野宗時と、その子で同じく宿老であった牧野久仲の父子に謀反の疑いありとして、電撃的に討伐の兵を挙げたのである 18 。不意を突かれた宗時らは居城の小松城に籠もるも支えきれず、相馬領へと逃亡。これにより、晴宗政権を支えた中野一族の権力は完全に失墜した。
この「元亀の変」は、公式記録上は「姦臣・中野宗時の驕慢と謀反」が原因とされている。しかし、その真相は、輝宗が父・晴宗の政治的影響力を完全に排除し、自らの権力基盤を確立するために仕掛けたクーデターであった可能性が極めて高い 22 。後の仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』などは、この事件を宗時の専横の結果とすることで、輝宗と晴宗の直接対決という伊達家にとって不都合な事実を隠蔽し、輝宗の権力掌握を正当化したと考えられる 32 。輝宗は、父・晴宗が祖父・稙宗に対して行ったような大規模な内乱という手段を避け、父の権力の源泉であった最有力家臣を排除するという、より洗練された方法で権力闘争に勝利したのである。
元亀の変により、自らの手足ともいえる重臣を失った晴宗は、全ての政治的実権を失い、杉目城で静かな隠居生活を送ることになった 6 。権力を巡る争いが終わった後は、輝宗との親子関係も改善されたと伝えられている 6 。
そして天正5年(1577年)12月5日、晴宗は59年の波乱に満ちた生涯を閉じた。墓所は、自身が家臣の霊を弔うために建立した福島市の宝積寺にあり、今も静かにその地を望んでいる 4 。
伊達晴宗は、父子二代にわたる内乱に深く関与し、伊達家の勢力を一時的に衰退させたことから、後世、特に江戸時代の伊達家の公式な歴史観においては、父を追放し、家中に混乱を招いた「暗君」として描かれる傾向があった 6 。
しかし、その評価は一面的に過ぎる。見方を変えれば、彼は父・稙宗が築いた、拡大しすぎた旧来の支配体制(洞体制)がもたらす矛盾と家臣団の不満を背景に、それを破壊した「革命家」であった。そして、乱後の混乱の中から、本拠地を米沢に移し、新たな婚姻外交によって、より現実的な勢力圏へと伊達家を再編しようとした「再編者」と評価することも可能である。彼の治世は、戦国大名家が旧来の国人領主連合的な体制から、より集権的な領国支配へと移行していく過渡期の苦悩そのものであった。
晴宗の治世が次代に残したものは、功罪相半ばする複雑なものであった。
負の遺産として、天文の乱をきっかけとする相馬氏との決定的な対立関係や、彼が張り巡らせた複雑な婚姻関係が挙げられる。これらは輝宗、そして孫の政宗の代にまで続く紛争の火種として残り、奥州の情勢を不安定化させる一因となった。
一方で、意図せざる礎も築いている。天文の乱と元亀の変という二度の内乱は、結果的に伊達家中の旧来の勢力や権勢を振るう宿老を淘汰する効果をもたらした。この混乱を収拾する過程で、息子・輝宗は遠藤基信のような新たな人材を登用し、旧来の重臣合議制から脱却した、より強固な当主中心の集権体制を築き上げることに成功する 18 。晴宗が引き起こし、そして敗れた混乱があったからこそ、輝宗による権力基盤の再強化が可能となり、それが孫・政宗の飛躍の土台を(皮肉にも)準備したと言えるのである。
伊達晴宗の生涯は、父を乗り越えようとして闘い、やがては子に乗り越えられるという、戦国時代の非情な世代間闘争の力学を凝縮したものであった。彼の苦闘と試行錯誤は、伊達家が中世的な領主から近世大名へと脱皮していくための、避けては通れない産みの苦しみそのものであった。
彼は、偉大な父と偉大な孫の間に埋もれた凡庸な当主ではない。歴史の転換点に立ち、父の築いた秩序を破壊し、新たな秩序を模索する中で次代への道を拓いた、極めて重要な人物として再評価されるべきである。彼の存在なくして、輝宗の集権化も、政宗の覇業も語ることはできない。伊達晴宗とは、相克の生涯を通じて、伊達家の歴史を次なるステージへと押し上げた、まさしく「過渡期の将」であった。