日本の戦国時代、数多の武将が武勇を競い合う中で、毛利元就は一代で中国地方の覇者へと成り上がった稀代の謀将として知られる。その輝かしい成功の影には、元就の覇業を武力ではなく、卓越した行政手腕と調整能力で支えた一人の家臣がいた。その人物こそ、児玉就忠(こだま なりただ)である。
主君・元就から「視野も広く人ざわりもよく、事務練達の者」と評された就忠は、毛利家の家督相続直後から側近として活躍し、後には毛利氏の統治機構の中核をなす「五奉行」の一員となった 1 。しかし、彼の真価は単なる有能な官僚という言葉に留まらない。毛利氏が安芸国の一国人領主から、中国地方を支配する広域戦国大名へと変貌を遂げる過程で構築された、複雑な権力構造の要として機能した点にこそ、彼の歴史的重要性が存在する。
武勇伝が華々しく語られる戦国史において、彼の功績はしばしば見過ごされがちである。本報告書は、この稀代の「文治の臣」の出自、キャリア、政治的役割、そして後世に与えた影響を、現存する史料に基づき徹底的に解明し、毛利氏の組織的安定性と持続的成長にいかに不可欠であったか、その実像に迫ることを目的とする。
表1:児玉就忠 略年表
年号(西暦) |
児玉就忠の動向 |
毛利家の動向 |
永正3年(1506) |
児玉元実の次男として生誕 1 。 |
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大永3年(1523) |
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毛利元就、兄・興元の子である幸松丸の夭逝により家督を相続 3 。 |
天文9年(1540) |
吉田郡山城の戦いに参加 4 。 |
尼子晴久(詮久)の大軍が吉田郡山城を包囲(吉田郡山城の戦い) 5 。 |
天文15年(1546) |
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元就が隠居を表明し、嫡男・隆元が家督を相続するも、元就は実権を保持 6 。 |
天文19年(1550) |
桂元忠と共に元就の奉行となり、五奉行の一員に任命される 1 。 |
元就主導で井上氏を粛清。隆元を当主とする五奉行制度が発足 7 。 |
時期不詳 |
吉川元春の婚姻に際し、元就の使者を務める 9 。 |
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弘治元年(1555) |
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厳島の戦いで陶晴賢を破る 3 。 |
弘治元年~3年(1555~57) |
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防長経略を敢行し、大内氏を滅ぼす 11 。 |
永禄5年(1562) |
4月29日、病死。享年57 1 。 |
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永禄6年(1563) |
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毛利隆元が急死。輝元が家督を相続し、元就が後見人となる 3 。 |
児玉就忠の人物像を理解するためには、まず彼が属した安芸児玉氏の歴史的背景と、一族内での彼の位置づけを把握する必要がある。
児玉氏のルーツは、遠く関東の地に遡る。彼らは平安時代末期から鎌倉時代にかけて武蔵国で勢力を誇った武士団「武蔵七党」の中でも、中心的な役割を担った名門であり、その本姓は有道氏(ありみちし)であった 13 。
児玉一族が安芸国に根を下ろすきっかけとなったのは、1221年(承久3年)に起こった承久の乱である。この乱において幕府方として戦功を挙げた児玉氏は、恩賞として安芸国豊田郡竹仁村(現在の広島県東広島市)の地頭職を与えられた。その後、元寇(文永・弘安の役)の頃に一族が本格的に武蔵国から安芸国へ下向し、在地領主としての地位を確立した 13 。
南北朝時代の動乱を経て、児玉氏は毛利氏の祖である毛利時親に従い、以降、毛利氏の譜代重臣として仕えることとなる 13 。この長年にわたる主従関係は、就忠の代における毛利家への揺るぎない忠誠心の基盤を形成した。彼は決して新参の家臣ではなく、何世代にもわたって毛利氏の興亡を共にしてきた、由緒ある家柄の出身だったのである。
児玉就忠は、永正3年(1506年)に児玉元実の次男として生まれた 1 。彼には兄の就兼、弟の就方(なりかた)がいた 1 。また、就忠は一族の児玉家行の養子に入り、その遺領を相続している 1 。これは、家の存続と所領の維持が複雑であった戦国時代において、次男以下の男子が分家の家督を継ぐことで一族全体の勢力を維持・拡大する、典型的な武家の慣行であった。
特筆すべきは、弟である児玉就方との鮮やかな役割分担である。就忠が行政手腕に長けた「文」の臣であったのに対し、就方は武勇に優れ、後に毛利水軍の中核を担う「武」の将として名を馳せた 17 。この対照的な兄弟の存在は、児玉一族が文武両面で毛利家を支える強力な家臣団であったことを示している。
表2:児玉兄弟(就忠・就方)の役割比較
項目 |
児玉就忠(兄) |
児玉就方(弟) |
専門分野 |
行政、政務、外交 |
軍事、水軍指揮 |
元就からの評価/逸話 |
「事務練達の者」と高く評価される 1 。 |
吉田郡山城の戦いで血気に逸り抜け駆けし、元就に咎められる 15 。 |
主な功績 |
五奉行として毛利家の内政・統治機構を統括 7 。 |
厳島の戦いや門司城の戦いで水軍を率いて武功を挙げる 17 。 |
役職 |
奉行 1 。 |
草津城主、川内警固衆(毛利水軍)指揮官 15 。 |
この兄弟の役割分担は、単に個人の資質の違いに起因する偶然の産物ではなかった可能性が高い。むしろ、それは児玉一族が毛利家内での影響力を最大化するための、高度な生存戦略であったと見ることができる。就忠は弟・就方を元就の側近に推挙し 15 、就方はその期待に応えて数々の戦で武功を挙げた。兄が政務の中枢を、弟が軍事の要である水軍を掌握することで、児玉一族は毛利家にとって文武両面で不可欠な存在となった。これは、他の家臣団に対する優位性を確保し、主家からの信頼を不動のものにするための、極めて合理的な戦略であった。奇しくもこれは、主君・元就が息子たちを吉川家・小早川家に養子として送り込み、毛利家の安泰を図った「毛利両川体制」の戦略思想と軌を一にする。元就の統治哲学が、家臣団の行動様式にも深く影響を与えていたことを示唆している。
毛利元就が安芸国の一国人から中国地方の覇者へと飛躍する過程で、児玉就忠の行政能力は不可欠な要素となっていった。
児玉就忠のキャリアを決定づけたのは、主君・元就からの絶対的な信頼であった。元就は就忠を「家中での人あたりもよく行政手腕に優れている」と高く評価した 1 。この評価は単なる賛辞ではなく、彼の能力を的確に見抜いた査定であり、その後の彼の登用に直結した。
毛利氏の領土が拡大し、統治機構の整備が急務となる中で、就忠は同じく元就の側近であった桂元忠と共に奉行に抜擢され、毛利家の政務の中心を担うことになった 1 。これは、戦国の世において武勇だけでなく、統治能力がいかに重要視されていたかを示す事例である。
就忠の活動は多岐にわたるが、その本領は戦場ではなく、後方の政務にあった。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いには一武将として参加した記録が残るものの 4 、他の家臣に比べて武功は目立たず、「合戦は不得手であった」と評されている 1 。彼の主戦場は、まさに行政と外交の舞台だったのである。
その能力が遺憾なく発揮された逸話として、元就の次男・吉川元春の婚姻が挙げられる。当時、元春は安芸国の有力国人・熊谷信直の娘を妻に迎えたいと希望した。しかし、その娘は「醜女(しこめ)」として知られていた。元就は元春の真意を測りかね、使者として就忠を派遣する。就忠は慎重に元春の意向を確認し、元春が「醜女であるからこそ妻に迎えるのだ。そうすれば父である信直は感激し、毛利家のために命を懸けて働くだろう」という深謀遠慮を抱いていることを見抜いた。この縁談は、熊谷氏という強力な武将を毛利家に引き込むための政略結婚であり、就忠はそのデリケートな交渉を円滑に進めるという大役を果たしたのである 9 。
この逸話は、彼が単なる事務官僚ではなく、主君やその子息の意図を正確に汲み取り、重要家臣との人間関係を調整する高度な政治感覚と交渉能力を備えていたことを物語っている。
また、彼の行政官としての具体的な活動は、彼が発給、あるいは連署した数々の書状からも窺い知ることができる 19 。これらの文書は、知行(所領)の配分や安堵、軍事指令の伝達、訴訟の裁定といった、大名権力の根幹をなす行政実務に、彼が深く関与していた動かぬ証拠である。
元就が就忠の「人あたりもよく」という点を特に評価した背景には、こうした複雑な人間関係や利害関係を調整する能力への信頼があった。当時の毛利家は、元就による強力なリーダーシップの下で、旧来の国人領主の連合体から、大名を中心とする中央集権的な組織へと急激な変革の途上にあった 5 。その過程では、天文19年(1550年)の井上氏一族の粛清のような強硬策も辞さず、家中の緊張は常に高かった 3 。このような状況下で、元就の政策を円滑に実行に移すためには、強権だけでなく、対立を和らげ、合意を形成する「ソフトパワー」が不可欠であった。就忠の「人あたりの良さ」とは、まさにこの組織の潤滑油として機能する高度な政治的調整能力を指しており、彼の本質的な価値がここにあったのである。
毛利氏の統治体制が新たな段階に入る中で、児玉就忠はさらに重要な役割を担うことになる。それが「五奉行制度」における彼の特異な立場である。
天文19年(1550年)、元就は家中で専横を極めていた井上元兼ら一族を粛清するという荒療治を断行した。この家中改革と並行して、嫡男であり名目上の当主であった毛利隆元の権威を高め、拡大する領国を効率的に統治するための新たな行政機関として「五奉行制度」が創設された 6 。
この制度の人選は、当時の毛利家の複雑な権力構造を色濃く反映していた。奉行に任命されたのは5名。まず、隆元の側近として信頼が厚かった赤川元保(筆頭)、粟屋元親、国司元相の3名。そして、これに加えて、依然として毛利家の実権を掌握していた元就の側近として、桂元忠と児玉就忠が選ばれたのである 7 。これは、隆元を支える行政組織でありながら、同時に元就の意向を直接反映させるための仕組みであり、意図的に緊張関係を内包した組織であった。
表3:毛利氏五奉行一覧と比較
奉行人名 |
派閥(立場) |
主な役割 |
その後の動向 |
赤川 元保 |
親隆元派(筆頭) |
隆元側近、奉行の統括 |
隆元死後、毒殺の嫌疑をかけられ自害 7 。 |
粟屋 元親 |
親隆元派 |
隆元側近 |
永禄4年(1561年)に病死 7 。 |
国司 元相 |
親隆元派 |
隆元側近 |
元亀元年(1570年)頃に引退 7 。 |
桂 元忠 |
親元就派 |
元就との連絡役 |
元亀元年(1570年)頃に引退 7 。 |
児玉 就忠 |
親元就派 |
元就・隆元間の連絡調整役 |
永禄5年(1562年)に病死 1 。 |
五奉行として、就忠の公式な立場は当主・隆元の補佐役であった。しかし、彼と元就との直接的な主従関係(被官関係)はそのまま維持されており、実質的には「元就の意向を隆元体制に反映させるための代理人」であり、父子の間を取り持つ「連絡調整役」という二重の役割を担っていた 12 。
この特異な立場は、元就が家督を譲った後も実権を握り続けるという、当時の毛利家の変則的な二頭体制そのものを象徴していた。就忠は、この二頭体制が機能不全に陥ることなく、円滑に運営されるための極めて重要な「インターフェース」の役割を期待されていたのである。実際に、元就が隆元に宛てた書状の中で、自らの側近である就忠と桂元忠の所領などを、隆元直属の奉行衆と同じように配慮してほしいと、わざわざ要請している史料が残っている 29 。これは、二人の立場がいかにデリケートで、家中に潜在的な軋轢があったかを物語る証左と言える。
五奉行という一つの組織の中には、明確な派閥が存在した。隆元を直接支える「親隆元派」(赤川元保、国司元相ら)と、元就の意思を代弁する「親元就派」(就忠、桂元忠)である 24 。史料には、就忠が奉行筆頭の赤川元保らと不仲であったことが記されているが 12 、これは単なる個人的な感情のもつれではなく、この構造的な対立が表面化したものと解釈できる。
この対立の根底には、慎重で穏健な統治を志向する隆元と、時に謀略や強硬策も辞さない現実主義者の元就との間の、政策決定における路線の違いがあった可能性も指摘されている。就忠は、この両派の間に立ち、対立が毛利家の決定的な分裂へと発展しないよう、その調整能力を発揮することが強く期待されていた。五奉行制度は、単なる行政機関ではなく、元就が意図的に作り出した、家中の権力バランスを保つための政治的なアリーナであった。その中で就忠は、二人の主君への忠誠を保ちつつ、同僚との軋轢を管理するという、極めて困難な役割を担っていたのである。
児玉就忠の生涯は、毛利家がまさに飛躍しようとする直前に幕を閉じる。しかし、彼が残した影響は、その死後、より大きな形で毛利家の歴史に刻まれることになった。
永禄5年(1562年)4月29日、就忠は病のためこの世を去った。享年57であった 1 。これは、毛利氏が宿敵・尼子氏との最終決戦である第二次月山富田城の戦いに向けて動き出す矢先のことであり、政務の中枢を担った彼の死が、毛利家の運営に与えた影響は小さくなかったと推察される。
就忠の死後、家督と五奉行の地位は嫡男の児玉元良が継承した 12 。父が築き上げた主家からの絶大な信頼と家臣団内での地位があったからこそ、奉行職という重要ポストの世襲が可能となった。元良もまた、父の遺志を継ぎ、毛利輝元の代まで奉行として重用され、毛利家を支え続けた 12 。
児玉就忠の生涯における功績は、生前の行政手腕に留まらない。むしろ、彼の死後、その血脈が毛利家の未来に決定的な役割を果たしたことこそ、最大の貢献であったと評価できる。
その鍵を握るのが、就忠の孫娘、すなわち息子・元良の娘である二の丸殿(にのまるどの、後の清泰院)である。彼女は絶世の美女として知られ、時の当主・毛利輝元の目に留まり、その側室として迎え入れられた 13 。
当時、輝元は正室との間に長らく男子が生まれず、後継者問題は毛利家の将来を揺るがす極めて重大な懸案事項であった。この危機的状況を救ったのが二の丸殿であった。彼女は輝元との間に、後に長州藩初代藩主となる毛利秀就と、その弟で徳山藩初代藩主となる毛利就隆という二人の男子を産んだのである 13 。
これにより、毛利家の家名は安泰となり、関ヶ原の戦いにおける敗北と大幅な減封という最大の危機を乗り越え、江戸時代を通じて西国の雄として存続する長州藩の礎が築かれた。就忠の奉行としての働きが「毛利家の組織」を盤石にしたとすれば、彼の血脈は「毛利家そのもの」の存続を保証したと言える。この事実は、彼の歴史的評価を、単なる有能な家臣から、毛利家の存続に不可欠であった「外戚(がいせき)」、すなわち藩主の母方の親族という極めて重要な地位を占める人物へと引き上げる。
なお、就忠の血を引く家系はその後も続き、徳山藩士となった児玉家からは、日露戦争の勝利に大きく貢献した明治時代の陸軍大将・児玉源太郎が輩出されている 13 。戦国時代の一家臣の家系が、時代を超えて日本の歴史に大きな影響を与え続けた稀有な事例として、特筆に値する。
児玉就忠の生涯は、戦国乱世における武将のあり方に、武勇とは異なる一つの理想像を提示している。彼は、主君・毛利元就が絶対の信頼を置く卓越した行政官僚であり、元就と隆元の二頭体制という複雑な権力構造下で、対立を調停し組織を円滑に機能させる不可欠な調整役であった。そして何よりも、彼の死後、その血脈が毛利宗家の後継者を生み出し、家の存続という最大の貢献を果たした。
毛利氏の成功は、元就や「毛利両川」と称された吉川元春・小早川隆景といった英雄的な武将たちの武功のみによって成し遂げられたのではない。その背後には、児玉就忠に代表されるような、組織の基盤を固め、内部の軋轢を吸収し、円滑な統治を可能にした優れた官僚たちの地道な働きがあった。彼ら「文治の臣」の存在なくして、毛利氏の覇業はあり得なかったであろう。
児玉就忠は、戦国乱世において武力ではなく「治世の才」をもって主家を支え、その血脈を通じて未来にまで貢献した、まさに「内治の宰相」と評価されるべき人物である。彼の生涯は、華々しい武功の影に隠れた、組織を支える「縁の下の力持ち」の重要性を、現代にまで静かに、しかし力強く伝えている。