六角義賢(ろっかく よしかた、大永元年(1521年) - 慶長3年3月14日(1598年4月19日))は、戦国時代における近江国南部の有力大名である 1 。法名を承禎(じょうてい)と称したことでも知られる 1 。彼は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、鎌倉時代以来、近江守護職を世襲してきた名門・六角氏の当主であった 3 。本拠地は近江国蒲生郡の観音寺城であった 1 。
義賢が生きた16世紀中葉は、足利将軍家の権威が失墜し、各地で戦国大名が台頭して覇を競う激動の時代であった。近江国は京都に隣接し、東国と西国を結ぶ交通の要衝であったため、その戦略的重要性は極めて高かった。
本稿では、六角義賢(承禎)の生涯を辿り、彼が当初、中央政局に関与する有力大名であった状況から、いかにして家中の内紛や外部勢力との抗争によって勢力を衰退させ、最終的に織田信長との対決によって没落に至ったのかを検証する。その過程を通じて、伝統的権威を持つ守護大名が、戦国乱世の新たな権力秩序の形成という時代の奔流にいかに翻弄されたか、その実像に迫ることを目的とする。六角氏の持つ数百年にわたる守護としての家格と歴史的背景 4 は、義賢の政治的判断や行動に影響を与えたと考えられる。この由緒ある家柄ゆえの自負が、実力主義が台頭する戦国時代の変化に対応する上で、かえって足枷となった可能性も否定できない。
表1:六角義賢(承禎)関連略年表
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
意義 |
関連資料 |
1521年(大永元年) |
0歳 |
六角定頼の子として誕生 |
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1 |
1539年(天文8年) |
18歳 |
能登守護畠山氏の娘と婚姻、従五位下左京大夫に叙任 |
中央政界との繋がりを示す |
1 |
1552年(天文21年) |
31歳 |
父・定頼の死去に伴い家督を継承 |
六角氏当主となる |
1 |
1560年(永禄3年) |
39歳 |
野良田の戦いで浅井長政に敗北 |
浅井氏の独立を許し、六角氏の権威が動揺 |
5 |
1560-61年頃 |
39-40歳 |
出家し承禎と号す |
野良田敗戦が契機か |
1 |
1563年(永禄6年) |
42歳 |
観音寺騒動:子・義治が後藤賢豊父子を殺害 |
家中の深刻な内紛、当主の権威失墜 |
5 |
1567年(永禄10年) |
46歳 |
六角氏式目が制定される |
家臣団により当主の権限が制限される |
5 |
1568年(永禄11年) |
47歳 |
織田信長の上洛に抵抗、観音寺城が落城 |
本拠地を失い甲賀へ逃亡、有力大名としての地位を失う |
1 |
1570年(元亀元年) |
49歳 |
甲賀郡を拠点に抵抗を継続、信長と一時和睦 |
ゲリラ的抵抗を展開するも、勢力回復には至らず |
3 |
1574年頃(天正2年) |
53歳 |
六角氏の組織的抵抗が終焉 |
信長による近江支配が確立 |
3 |
1582年以降? |
61歳以上 |
豊臣秀吉に仕え御伽衆となる |
政治的影響力を失い、隠棲に近い生活を送る |
3 |
1598年(慶長3年) |
77-78歳 |
京都にて死去 |
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1 |
六角義賢は、近江守護として権勢を誇った父・六角定頼の嫡男として生まれた 1 。早くから父と共に政務に関与し 3 、1539年(天文8年)には能登守護畠山氏の娘を娶り、同年には上洛して従五位下左京大夫に叙任されるなど、名門の嫡子としての地位を確立していた 1 。1552年(天文21年)、父定頼の死去に伴い家督を継承した 1 。
義賢は父の代から引き続き、室町幕府の中央政局に深く関与した。足利義晴・義輝の両将軍を擁立し、京都や畿内近国において三好長慶らと戦った 1 。また、畿内の将軍家、細川京兆家、三好家、畠山家などの間で繰り広げられる抗争の調停役を務めることもあった 3 。これは、近江という地理的条件に加え、六角氏が有する伝統的な権威と軍事力を背景としたものであり、当時の六角氏が畿内政治において重要な役割を担っていたことを示している。
しかし、こうした中央政局への積極的な関与は、六角氏の威信を高める一方で、その勢力を畿内方面に分散させる結果も招いた。京都周辺での軍事行動や政治工作に注力するあまり、足元である近江国内の統制、特に北近江における支配力の維持や、家臣団の掌握が疎かになるという側面があった可能性は否定できない。この中央志向が、後の浅井氏の離反や家中の内紛といった、領国経営における綻びを間接的に引き起こす一因となったとも考えられる。
六角氏にとって、北近江の国人領主であった浅井氏は、本来、被官的な存在であった。浅井長政(当時は賢政)が、義賢(当主名:義賢)から「賢」の一字を与えられて「賢政」と名乗っていたこと 6 や、六角氏家臣の娘を正室としていたこと 6 は、当時の浅井氏が六角氏に従属的な立場にあったことを示している 8 。
しかし、長政の父・浅井久政の代になると、六角氏への従属に対する家臣団の不満が募り始める 6 。久政が六角氏との戦いに敗れて臣従を余儀なくされたことや、その弱腰と見なされた外交姿勢が背景にあった 6 。やがて、武勇に優れた若き賢政(後の長政)への期待が高まり、家臣団によるクーデターが発生。久政は隠居させられ、賢政が浅井家の当主となった 6 。
当主となった賢政は、六角氏からの自立を目指し、大胆な行動に出る。1560年(永禄3年)、六角氏からの独立を宣言 8 。六角氏家臣の娘であった妻を離縁して送り返し 6 、さらに義賢から与えられた「賢」の字を捨て、後に「長政」と改名した 6 。これは、六角氏との主従関係を完全に断ち切るという明確な意思表示であった。
この浅井氏の公然たる反旗に対し、義賢はこれを討伐すべく大軍を率いて北近江へ侵攻した。しかし、1560年8月に行われた野良田の戦いにおいて、六角軍は浅井長政率いる軍勢にまさかの敗北を喫してしまう 5 。この敗戦は、単なる一戦の敗北に留まらず、六角氏の近江における権威を大きく揺るがす結果となった。北近江における支配権を事実上喪失し 3 、浅井氏の独立を承認せざるを得なくなったのである。義賢がこの敗戦を契機として出家し、「承禎」と号した 1 ことからも、この出来事が彼と六角氏にとって如何に大きな衝撃であったかがうかがえる。野良田での敗北は、六角氏の軍事的な弱体化を露呈させ、他の家臣や周辺勢力に対しても、六角氏の支配力に疑問符を投げかける契機となり、後の内部崩壊へと繋がる伏線となった。
野良田の戦いでの敗北と浅井氏の独立によって、六角氏の権威は既に揺らいでいた 5 。義賢は出家して承禎と号し、家督を嫡男の義治に譲ってはいたものの、依然として実権の一部を握っていたとみられる 3 。こうした不安定な状況下で、六角氏の屋台骨を揺るがす致命的な内紛が発生する。それが1563年(永禄6年)10月の観音寺騒動である 5 。
事件の中心となったのは、家督を継いだばかりの若き当主・六角義治であった。義治は、宿老であり、かつて進藤貞治(騒動当時は病没)と共に「六角氏の両藤」と称され、奉行人として当主の代理を務めるほどの権力を持っていた後藤賢豊とその子を、観音寺城内で突如殺害したのである 5 。この暴挙の背景には、若年の義治が自らの権力を確立しようとして、父・義賢(承禎)の影響下にあるとも見られていた旧来の権力構造、すなわち後藤賢豊を中心とする宿老層との間に生じた確執があったと考えられている 5 。当主としての執行権を取り戻そうとした結果が、宿老の暗殺という凶行に繋がった可能性が高い。
しかし、この行動は完全に裏目に出た。後藤賢豊は家中で人望が厚く、その殺害は他の家臣たちの激しい怒りを買った。進藤氏をはじめとする多数の家臣が結束し、義治・承禎父子に対して反旗を翻したのである。その結果、父子は居城である観音寺城から追放されるという屈辱を味わうことになった 3 。
家臣団との和解と観音寺城への帰還は容易ではなかった。最終的に、承禎・義治父子は家臣団の要求を受け入れざるを得なくなる。1567年(永禄10年)には「六角氏式目」が制定され、当主の専制的な権限は大幅に縮小され、有力家臣が国政運営に参与する体制が定められた 5 。さらに、義治は形式的に家督を弟の義定(承禎の次男)に譲ることを余儀なくされた 5 。
観音寺騒動は、六角氏にとってまさに自滅行為であった。当主と家臣団との間の信頼関係は完全に崩壊し、指導者層の権威は失墜した。家中の結束力は著しく弱まり、大名としての統治能力は深刻なダメージを受けた。この内部崩壊は、奇しくも織田信長が上洛の機会をうかがっていた時期と重なる。式目によって当主権力が制限され、家中の意思統一もままならない状態にあった六角氏は、わずか1年後に迫る信長の上洛という未曾有の外的脅威に対し、極めて脆弱な状態で臨むことになったのである。
1568年(永禄11年)、尾張・美濃を平定した織田信長は、足利義昭を将軍として擁立するため、大軍を率いて京都への上洛を開始した 1 。その進路上には、近江国が位置しており、六角氏の領国を通過する必要があった。
信長は六角氏に対し、義昭の上洛への協力を求め、軍勢の通行許可を要求した。しかし、六角義賢(承禎)・義治父子はこの要求を拒絶し、信長と対決する道を選んだ 1 。この決断の背景には、六角氏が伝統的に足利将軍家(当時は義栄、あるいはそれ以前の義輝)を支持してきた立場 1 や、名門守護としてのプライド 3 、そして信長の急速な台頭に対する警戒感があったと考えられる。また、観音寺騒動後の混乱から立ち直れていない自身の状況や、信長の真の実力を見誤っていた可能性も指摘されている 9 。
信長は、六角氏の抵抗を排除すべく、ただちに行動を開始した。当時、六角氏と敵対関係にあった北近江の浅井長政らと同盟を結び 3 、近江へ侵攻した。六角氏の居城・観音寺城は、標高400メートルを超える繖山(きぬがさやま)に築かれ、18もの支城群を持つ難攻不落の山城として知られていた 3 。しかし、信長軍の攻撃は迅速かつ苛烈であった。丹羽長秀らの活躍により、わずか1日のうちに、城郭群の要所であった箕作城(みつくりじょう)と和田山城が陥落したのである 3 。
主要な支城が瞬く間に攻略されたことで、観音寺城の防衛線は崩壊した。防戦意欲を失った義賢(承禎)・義治父子は、観音寺城を放棄し、南部の甲賀郡へと逃亡した 3 。これにより、六角氏は本拠地と南近江の支配権を失い、戦国大名としての地位から事実上転落した。1568年9月のことであった 7 。
観音寺城のあまりにも早い落城は、信長軍の優れた軍事力と組織力を示すものであると同時に、観音寺騒動によって六角氏内部がいかに弱体化していたかを物語っている。家臣団の結束は乱れ、一部は信長方に寝返る者もいた 5 。指導者層は式目による制約や士気の低下により、有効な防衛策を講じることができなかった。伝統的な権威に固執し、新興勢力である信長の力を過小評価して抵抗を選んだ義賢の判断は、結果的に六角氏の滅亡を決定づける致命的な誤算となったのである。
観音寺城を追われ、甲賀郡の石部城などに拠点を移した六角義賢(承禎)・義治父子であったが、完全に抵抗を諦めたわけではなかった 3 。甲賀地域は、「甲賀衆」と呼ばれる独立性の高い地侍集団が活動する土地柄であり、彼らの一部勢力と結びつきながら、ゲリラ的な抵抗活動を展開した 3 。信長が京都や他の戦線で戦っている隙を突いて、近江国内の織田方の拠点や輸送路を襲撃するなど、嫌がらせを続けたのである 3 。1570年(元亀元年)5月には、近江国内で信長が鉄砲で狙撃される事件も発生しており、これが六角方の仕業であった可能性も考えられる 7 。
信長にとって、甲賀に潜む六角残党の抵抗は、近江支配を安定させる上で看過できない問題であった。そのため、六角氏の抵抗は断続的に続き、信長もこれに対応する必要があった 7 。元亀元年(1570年)11月には、信長包囲網が形成される中で、信長と六角父子の間で一時的な和睦が成立したことも記録されている 7 。これは、信長が他の敵対勢力との戦いに集中するための戦術的な判断であった可能性が高い。
しかし、こうした抵抗も、大局を覆すには至らなかった。六角氏が失った南近江の広大な領地と影響力を回復することはできず、ゲリラ的な抵抗は次第にその勢いを失っていった。信長は着実に近江国内の支配を固め、かつての六角氏の本拠地・観音寺城のすぐ近くに、壮大な安土城の建設を開始した 3 。これは、近江における支配者が交代したことを象徴する出来事であった。六角氏による組織的な抵抗は、1574年(天正2年)頃にはほぼ終息し、ここに戦国大名としての六角氏は事実上滅亡したと見なされている 3 。
甲賀での粘り強い抵抗は、義賢の執念を示すものではあるが、同時に、本拠地と領国という基盤を失った勢力が、強大な統一権力に対していかに無力であるかを物語っている。局地的な戦闘で一時的に信長軍を悩ませることはできても、戦略的な状況を逆転させることは不可能であった。この時期は、名門六角氏が歴史の表舞台から完全に姿を消していく、最後の、そして長い凋落の過程であったと言える。
織田信長との抗争に敗れ、大名としての地位を失った六角義賢(承禎)であったが、その後も生き延びた。信長の死後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の時代になると、義賢は秀吉に仕え、その御伽衆(おとぎしゅう)の一員となった 3 。
御伽衆とは、大名の側近として、話し相手を務めたり、教養や見識をもって助言したりする役職であり、多くの場合、かつての有力者や文化人がその任に就いた。義賢がこの役職に迎えられたことは、彼がもはや政治的・軍事的な脅威とは見なされておらず、むしろその名門の出自や過去の経験、あるいは文化的な素養が評価された結果であろう。それは、かつての権勢とは比較にならないものの、比較的平穏な晩年であったことを示唆している。
義賢は、山城国、すなわち京都でその生涯を終えた。慶長3年(1598年)3月14日、78歳(満77歳)であった 1 。奇しくも、彼が仕えた豊臣秀吉が没したのと同じ年であった 2 。
六角義賢の歴史的評価は、主に、鎌倉以来の名門である六角氏を最終的に滅亡に至らしめた当主として記憶されている 1 。しかし、一方で、六角氏が観音寺城の城下町で実施していたとされる「楽市楽座」政策が、後に織田信長によって安土城下などで大規模に展開された同名の政策の先駆けとなった可能性も指摘されている 3 。この点については、六角氏の政策の実態や信長への影響度に関して、歴史家の間でも議論があるものの、注目すべき点である。もし事実であれば、敗者となった義賢の時代の施策が、勝者である信長の革新的な政策の中に、間接的にせよ影響を与えていた可能性を示唆しており、歴史の皮肉を感じさせる。
秀吉の御伽衆としての晩年は、義賢が完全に政治の舞台から降りたことを物語る。かつての敵対者であった秀吉の側に仕えることで、その存在は無力化され、むしろ秀吉の天下の権威を補強する、過去の時代の生きた象徴としての役割を担っていたのかもしれない。
六角義賢(承禎)の生涯は、畿内近国の有力守護大名として中央政局に関与した前半生から、家中の内紛と外部勢力の挑戦によって苦境に陥り、最終的には織田信長という時代の変革者の前に敗れ去り、最後は天下人の側近として静かに余生を送るという、劇的な転変の軌跡を辿った。
彼の指導下における六角氏の没落は、単一の原因によるものではなく、複合的な要因が絡み合った結果であった。
六角義賢の物語は、戦国時代という激動期において、多くの伝統的な守護大名家が辿った運命を象徴している。世襲された権威や家格だけではもはや通用せず、領国経営の安定、家臣団の強力な統率、そして時代の変化に対応する柔軟な戦略眼を持たなければ、いかに名門であろうとも淘汰されていく。義賢と六角氏の衰亡は、旧勢力が織田信長や豊臣秀吉といった新たな統一権力によって駆逐され、中央集権的な体制へと移行していく、日本の歴史における大きな転換点を映し出しているのである。