戦国時代の闇に生きた忍者の中でも、加藤段蔵の名はひときわ異彩を放っている。一般に彼は、「飛び加藤」あるいは「鳶加藤」の異名を持つ卓越した忍者として知られる。その生涯は、越後の龍・上杉謙信に仕えるも、その常人離れした能力をかえって危険視され、越後を追放される。次いで甲斐の虎・武田信玄を頼るが、信玄にも同様にその力を恐れられ、遂には厠にて暗殺された、という劇的な物語として語り継がれてきた 1 。
しかし、この広く流布する加藤段蔵像は、果たして歴史の真実をどこまで映しているのであろうか。彼の生没年は1503年から1569年とされることもあるが 3 , その根拠は必ずしも明確ではない。本報告書は、この一般的な理解の範疇に留まることなく、加藤段蔵という存在が、史実、伝説、そして後世の創作物の中でいかにして形成され、変容を遂げていったのかを徹底的に分析・解明することを目的とする。
そのために、まず伝説の源流とされる江戸時代初期の軍記物や説話集を丹念に読み解き、物語の原型を探る。次に、「加藤段蔵」という名が確立され、その人物像が豊かに肉付けされていく過程を追跡する。さらに、物語の中核をなす上杉謙信・武田信玄との確執の背後にある、当時の武家社会の価値観や論理を考察する。そして、史料批判の視点から彼の実在性を問い、史実と伝説の境界線を明らかにすると共に、近現代の小説や大衆文化の中で彼がどのように再生され、現代に至るまで我々を魅了し続けるのか、その文化的意味を探求する。本報告書は、一人の忍者の生涯を追うことを通じて、伝説が生まれ、成長し、時代と共に生き続ける様相を多角的に描き出す試みである。
我々が今日知る「加藤段蔵」の物語は、一朝一夕に成立したものではない。その原型は、江戸時代初期の文献に散見される、別々の異能者の逸話にまで遡ることができる。この部では、伝説が融合し、一人の超人として結晶化する以前の、源流の姿を明らかにする。
加藤段蔵伝説の最も古い源流の一つは、武田信玄・勝頼父子の事績を記した軍学書『甲陽軍鑑』に見出すことができる。寛文元年(1661年)に刊行された『甲陽軍鑑末書結要本』には、後の段蔵像の核となる二つの、しかしこの時点では全く別個の人物として描かれた逸話が収録されている 4 。
『甲陽軍鑑末書結要本』巻九の第十三「まいす者嫌ふ三ヶ條の事」によれば、永禄元年(1558年)、武田信玄のもとに「とび加藤」と名乗る者が仕官を求めて現れた。彼は尺八を巧みに使い、いかなる堀や塀をも軽々と飛び越えてみせるという驚異的な跳躍術の持ち主であったという 4 。しかし信玄は、その異能を評価するどころか、一度は召し抱えたものの、密かに殺害してしまったと記されている。ここで注目すべきは、登場するのが「加藤段蔵」という固有名詞ではなく、「とび加藤」という異名を持つ、名もなき術者であったという点である。
同書は、続けて永禄2年(1559年)の出来事として、今度は上杉謙信のもとに現れた別の術者の話を記している。この男は「牛を呑む」と称する幻術を操り、衆目の前で披露していた。その最中、木に登って見ていた者が「あれは牛を呑んでいるのではない、ただ牛にまたがっているだけだ」と野次を飛ばし、術の種を暴露してしまう。これを恨めしく思った幻術使いは、その場で夕顔の種を蒔いて扇子で扇ぐと、みるみるうちに蔓が伸びて花が咲き、大きな実がなった。そして、その実を刀で切り落とすと、不思議なことに、木の上で野次を飛ばした男の首が斬り落とされていたという 4 。この常軌を逸した報復を見た謙信は、この術者を恐ろしく思い、密かに成敗したとされる。この幻術使いもまた、「とび加藤」とは全く別の存在として語られている。
『甲陽軍鑑』は、これら二つの逸話に加え、織田信長もまた同様の「まいす者」を嫌い成敗したという話を紹介し、「名将は『まいす者』を嫌う」という教訓で締めくくっている 4 。これは単なる逸話の羅列ではない。ここに示されているのは、戦国の世を生き抜いた武将たちのリアリズムと、泰平の世を迎えつつあった江戸時代初期の安定した封建社会から見た、「秩序を乱す異能者」への根源的な警戒心である。武士の厳格な主従関係や組織論理から逸脱した、個人の突出した能力、特にその出自が不明で忠誠の担保がない者の超人的な技は、賞賛の対象ではなく、むしろ組織の安定を根底から揺るがしかねない危険因子と見なされた。加藤段蔵という伝説の根底には、この「制御不能な才能への恐怖」というテーマが一貫して流れている。彼の悲劇的な末路は、個人の能力がいかに優れていようとも、それが組織の論理に組み込まれない限り排除されるという物語であり、後世の人々にとっての教訓、あるいは一種の社会批評として機能した可能性が考えられる。
『甲陽軍鑑』において別々の人物として描かれた「とび加藤」と「幻術使い」の物語は、そのわずか数年後、寛文6年(1666年)に浅井了意によって刊行された仮名草子『伽婢子(おとぎぼうこ)』の中で、劇的な融合を遂げる。これにより、後の「加藤段蔵」の原型となる一人の超人的なキャラクターが誕生した 4 。
『伽婢子』巻七は、『甲陽軍鑑』の二つの逸話を巧みに一つの物語として再構成した 4 。「牛を呑む」幻術を披露して評判となった「飛加藤」を長尾謙信が呼び出し、その能力を試すという形で、二つのエピソードが連結されたのである。
さらに浅井了意は、物語をより面白くするために、中国の伝奇小説集『五朝小説』に収められた「崑崙奴(こんろんぬ)」の筋書きを大胆に取り入れた 4 。謙信は「飛加藤」に、重臣・直江山城守の屋敷に忍び込み、長刀を盗んでくるよう命じる。飛加藤はこれを成功させるだけでなく、命令にはなかったはずの屋敷の下働きの少女までをも攫ってきて、その超人的な能力を見せつけた 4 。この脚色により、彼は単なる術者から、高度な潜入・窃盗技術を持つ「忍者」としての性格を強く帯びることになった。
その能力に脅威を感じた謙信は、飛加藤の殺害を直江に命じる。しかし、飛加藤は幻術を用いて追手から逃亡し、甲斐国へと向かう 4 。そして、甲府にて武田信玄に仕官を願うが、信玄もまた彼を危険視し、あるいは武田家で起きた家宝の『古今集』盗難事件の犯人と疑い、密かに殺害した、とされる 4 。
こうして、『伽婢子』において、後の「加藤段蔵」の生涯の基本的なプロット、すなわち「謙信に試され、恐れられて追われ、信玄に疑われ、殺される」という流転の物語が完成したのである。
浅井了意のこの創作活動は、江戸時代初期の出版文化の隆盛と、大衆がより刺激的で分かりやすい英雄譚や奇人伝を求めていた社会背景を色濃く反映している。別々の人物であった「跳躍する忍者」と「幻術使い」が「飛加藤」という一人のキャラクターに集約されたこの瞬間は、伝説が史実の断片から大衆娯楽としてのエンターテインメントへと大きく舵を切った、決定的な転換点であったと言えよう。この統合によって、後の「加藤段蔵」は、跳躍術と幻術という二大看板を持つ、より魅力的で記憶に残りやすいキャラクターとしての素地を確立したのである。
以下の表は、加藤段蔵の人物像が、江戸時代の文献を通じてどのように変遷し、形成されていったかを示したものである。
文献名 |
成立年代(刊行年) |
呼称 |
出自 |
主な術 |
大名との関係 |
物語上の主な発展 |
『甲陽軍鑑末書結要本』 |
寛文元年 (1661) |
とび加藤 / 幻術使い |
不明 |
跳躍術 / 幻術(呑牛術、呪殺) |
信玄: 仕官を求めるも殺害される。 謙信: 幻術を披露するも成敗される。 |
「とび加藤」と「幻術使い」は別人物として登場 4 。 |
『伽婢子』 |
寛文6年 (1666) |
飛加藤 |
不明 |
幻術(呑牛術)、跳躍術、窃盗術 |
謙信: 試され、恐れられ、命を狙われる。 信玄: 亡命するも、窃盗の嫌疑で殺害される。 |
二つの逸話が統合され、一人の人物の物語となる。窃盗(長刀と童女)のエピソードが追加される 4 。 |
『風流軍配団』 |
元文元年 (1736) |
飛加藤 |
不明(風間三郎大夫の弟子) |
夜討ち、盗み |
謙信 : 仕えるが命を狙われ、離反する。 |
風間一族との関連性が示唆される。北条早雲との関わりも暗示される 4 。 |
『絵本甲越軍記』 |
文化6年-文政8年 (1809-1825) |
加藤段蔵 |
伊賀出身 |
忍術、幻術(呑牛術、生花術) |
(『伽婢子』の物語を踏襲) |
初めて「加藤段蔵」という姓名が与えられ、出自が「伊賀」に設定される 4 。 |
『北越軍談』 |
江戸時代後期 |
鳶加藤(加藤段蔵) |
伊賀 |
幻術(瓢箪を育てる術) |
謙信 : 仕官を求め、術を披露する。 |
幻術の内容が夕顔から瓢箪に変化するなど、細部に異同が見られる 8 。 |
この表が示すように、「加藤段蔵」という人物像は固定されたものではなく、各時代の作者や読者の嗜好を反映しながら、段階的に、そして複合的に創り上げられてきた文化的産物であることがわかる。
『伽婢子』によって物語の骨格が形成された「飛び加藤」は、江戸時代後期に至り、ついに「加藤段蔵」という確固たる名と出自を得て、一人の伝説的忍者としてその姿を完成させる。この部では、彼のアイデンティティがどのように確立され、その人物像が豊かにされていったのかを詳述する。
江戸時代も後期に入り、講談や読本といった大衆文化が花開く中で、「飛び加藤」の物語はさらなる進化を遂げる。特に、彼のアイデンティティを決定づけたのが、速水春暁斎による読本『絵本甲越軍記』であった。
文化6年(1809年)から文政8年(1825年)頃にかけて刊行された『絵本甲越軍記』において、この謎多き忍者は初めて「加藤段蔵」という姓名を与えられた 4 。これにより、彼は単なる異名を持つ術者から、一個の人格を持つ物語の主人公へと昇華した。
さらに同書は、彼の出自を「伊賀出身の忍術名人」と明確に設定した 4 。これは、江戸時代を通じて「忍者といえば伊賀・甲賀」というブランドイメージが社会に広く浸透していたことを背景に持つ。読者にとって馴染み深く、権威ある「伊賀」という出自を与えることで、彼の超人的な能力に説得力を持たせる効果があった。一方で、後世には常陸国出身説 10 や、相模の風魔一党に連なるという説 2 も語られており、こうした出自の不確かさ自体が、彼のミステリアスな魅力を一層高める要因となっている。
「加藤段蔵」の名と共に、彼の得意とした術も「呑牛術(どんぎゅうじゅつ)」や「生花術(せいかじゅつ)」といった、より具体的な名称で呼ばれるようになった 10 。これらの幻術は、果たしてどのようなものであったのか。
「呑牛術」については、超自然的な力ではなく、高度な手品・奇術であったとする解釈が存在する。ある特定の角度から見ると、術者が牛を丸呑みにしているように見えるが、実際には巧みに牛に跨っているだけ、というトリックだったという説である 2 。また、江戸時代中期に実在し、実際に呑馬・呑牛の術を演じて人気を博した塩売長次郎という奇術師の存在も指摘されており、段蔵の伝説がこうした実在の興行師の芸と結びついて形成された可能性も考えられる 7 。
同様に「生花術」も、種を蒔いてから瞬時に花を咲かせ実らせるという奇跡的な現象であるが、これもまた、予め仕掛けを施した道具や、観客の心理を巧みに操る催眠術的な技術、あるいは薬草学の知識を応用したトリックであった可能性が探られている。物語における「幻術」とは、必ずしも我々の理解を超えた魔法ではなく、当時の人々の知識レベルを凌駕した、科学的・心理的な技術の総体であったのかもしれない。
加藤段蔵の物語の中核を成すのは、戦国最強と謳われた二人の大名、上杉謙信と武田信玄との緊張関係である。彼の類稀なる能力は、二人から賞賛されるどころか、かえって深い疑念と恐怖を呼び起こし、自らの命運を尽きさせる原因となった。
越後・春日山城下に現れ、その幻術で名を馳せた段蔵は、やがて上杉謙信の目に留まる。謙信は彼の能力を試すため、重臣・直江山城守の厳重に警護された屋敷に忍び入り、秘蔵の長刀を盗み出すよう命じた。段蔵はこの難題をやすやすと成功させたばかりか、命令にはなかったはずの下働きの童女までをも連れ出し、その技量の高さを証明して見せた 2 。
しかし、この結果は予期せぬ反応を引き起こす。謙信は段蔵の有能さを認めつつも、その度を超した能力に戦慄した。「過ぎたるは及ばざるが如し」 6 — 主君の命令以上の成果を上げてしまうその力は、もし敵に寝返った場合、自らにとって計り知れない脅威となる。この冷徹な判断に基づき、謙信は段蔵の抹殺を決意する。しかし、段蔵はその殺気をいち早く察知し、越後の地から姿を消した 2 。この逸話は、組織において突出した個人が、その能力ゆえに疎まれ、排除されるという皮肉な力学を見事に描き出している。
越後を追われた段蔵は、次なる主君を求めて甲斐の武田信玄のもとへ赴く。しかし、甲斐の虎もまた、越後の龍と同じ結論に至る。信玄は段蔵の術を試した上で、その得体の知れない能力を危険視し、あるいは上杉家が送り込んだ密偵(間者)ではないかと深く疑った 2 。そして、召し抱える素振りを見せて油断させた後、暗殺を命じたとされる。
この暗殺の実行者については、剣の達人であった土屋平八郎 10 や、武田四天王の一人である馬場信春 12 などの名が挙げられている。また、暗殺された場所は厠であったという説も広く知られている 1 。
暗殺の直接的な動機についても、複数の説が伝えられている。
なぜ二人の名将は、これほど有能な人材を拒絶し、抹殺しようとしたのか。この問いは、戦国大名という巨大組織のトップが直面する、究極的な人事問題の本質を突いている。加藤段蔵は、現代の組織論に当てはめれば「組織文化に適合しない天才」や「管理不能なトップパフォーマー」と言えるかもしれない。彼の存在は、能力主義という価値観と、組織の秩序や構成員からの信頼という、もう一つの重要な価値観との間に存在する根源的な対立を浮き彫りにする。段蔵の死は、個人の才能がいかに傑出していても、それが組織の論理と信頼関係の中に組み込まれなければ、最終的には排除されるという、古今東西を問わぬ冷徹な現実を物語っている。
伝説上の人物として確立された加藤段蔵。しかし、その華々しい逸話の裏で、歴史上の人物としての彼の実在性は、依然として謎に包まれている。この部では、史料批判の視点から彼の実在の可能性を探るとともに、後世の文学や大衆文化に与えた影響を分析し、現代にまで続くその生命力の源泉を明らかにする。
加藤段蔵という人物の実在性を検証する上で、彼の物語が記された文献そのものの性質を理解することが不可欠である。特に、伝説の根幹を成す『甲陽軍鑑』と『北越軍談』の史料的価値については、慎重な評価が求められる。
武田家の軍学書である『甲陽軍鑑』は、江戸時代から合戦記述の誤りなどが指摘され、その史料的価値は長らく否定的に見られてきた。しかし近年の研究では、一部に誇張や脚色はあるものの、武田家の内部事情や当時の武士の価値観を伝える貴重な史料として、その価値が見直される傾向にある 13 。山本勘助の実在性が再評価されたのも、この流れの一環である 14 。
一方、上杉家の事績を記した『北越軍談』は、上杉謙信を英雄として描く軍記物語としての性格が非常に強く、謙信と信玄の一騎打ちといった劇的な場面を含むなど、史実として確認できない創作的な内容を多く含んでいると評価されている 11 。
これらの文献の性質を踏まえると、そこに記された加藤段蔵の逸話を、そのまま歴史的事実として受け取ることは困難である。
加藤段蔵の実在性については、主に以下の三つの説が考えられる。
以上の検討から、最も妥当な結論は次のように考えられる。同時代の確実な一次史料の中に「加藤段蔵」という名の人物を見出すことはできない。しかし、「飛び加藤」と称された、何らかの特異な能力を持つ忍びが実在した可能性は否定しきれない。したがって、我々が知る「加藤段蔵」とは、史実の微かな断片を核として、後世の人々の旺盛な好奇心と娯楽への希求によって豊かに肉付けされ、成長を遂げた「伝説上の人物」であると位置づけるのが適切であろう。彼は、純粋な歴史上の人物でも、完全な架空の人物でもない。史実と伝説、そして文学が交差する境界線上に存在する、二重の性質を帯びた存在なのである。
その出自や人物像が曖昧であるからこそ、加藤段蔵は後世のクリエイターたちにとって、自らのテーマや世界観を投影する格好の「器」となった。彼は時代時代の要請に応え、様々な姿で再生を繰り返してきた。
文豪・司馬遼太郎は、短編集『果心居士の幻術』に収められた一編「飛び加藤」において、この伝説の忍者に独自の光を当てた 4 。司馬が描く段蔵は、単なる超人ではない。その常人離れした能力ゆえに、常人からは理解されず、権力者からは恐れられる。彼は、歴史の大きなうねりの中で翻弄される、孤高の異能者としての深い孤独と悲哀を体現する存在として描かれている 19 。これは、歴史の表舞台に立つ英雄だけでなく、その埒外に生きる人々の生にも光を当てる、司馬史観の一つの典型と言えるだろう 21 。
一方、歴史小説家の海道龍一朗は、その名も『惡忍』というシリーズで、加藤段蔵を全く異なる角度から描いた 22 。海道の段蔵は、「人を欺き己の任務を遂行するのが忍者であるとするなら、その忍者たちをもさらに欺く極悪忍」 24 であり、大名を手玉に取り、己の才覚のみを頼りに乱世を自由奔放に駆け抜ける、痛快なピカレスク・ロマンの主人公である 25 。ここでは、体制や権威に屈しないアンチヒーローとしての魅力が最大限に追求されている。読者からは、その人間離れした圧倒的な強さに対して、爽快であるという評価と、人間味が感じられず共感しにくいという評価の両方が見られる 23 。
加藤段蔵の物語は、現代の漫画やゲームの世界でも、さらに自由な発想で再創造され続けている。原哲夫の『花の慶次』では荒唐無稽なキャラクターとして描かれ 4 、ゲーム『信長の野望 覇道』では味方に特殊効果をもたらす強力な武将として登場する 1 。
中でも特筆すべきは、人気ゲーム『Fate/Grand Order』における設定である。この作品の加藤段蔵は、生身の人間ではなく、「初代・風魔小太郎の技術を搭載して、幻術使い・果心居士によって造られた絡繰(からくり)人形」という、極めて斬新な解釈がなされている 11 。これは、彼の超人的な能力の数々を「人造」というSF的なガジェットで説明する試みであり、古典的な伝説の現代的な再創造の最たる例と言える。彼女が放つ宝具(必殺技)の名が、伝説の原点である「呑牛」の術に由来する「絡繰幻法・呑牛(からくりげんぽう・どんぎゅう)」であることは象徴的である 9 。
このように、加藤段蔵という存在は、その実像の不確かさゆえに、無限の解釈を許容するキャンバスとして機能してきた。司馬遼太郎は彼に歴史の無常と個人の悲哀を投影し、海道龍一朗は体制への反逆者としての魅力を描いた。そして現代のゲームクリエイターは、彼をサイバーパンク的な「からくり忍者」として再生させた。この多様な変遷は、日本人が「忍者」という存在に何を求め、どのようにその物語を享受してきたか、その文化史そのものを映し出す鏡なのである。
本報告書を通じて行ってきた分析の結果、戦国時代の忍者「加藤段蔵」は、単一の歴史上の人物として捉えることはできず、むしろ複数の層が重なり合って形成された、極めて複合的な存在であることが明らかになった。その構造は、以下の三層から成ると結論付けられる。
第一に、その核には、「飛び加藤」と称された、類稀な身体能力を持つ忍び、あるいはそれに類する異能者が実在したかもしれないという「史実の断片」が存在する。
第二に、その核の上に、江戸時代初期の『甲陽軍鑑』や『伽婢子』といった書物を通じて、別の幻術使いの物語や中国の伝奇小説の要素が融合し、一人の超人としての「伝説の肉付け」がなされた。
第三に、江戸時代後期の読本『絵本甲越軍記』で「加藤段蔵」という名と「伊賀出身」という出自が与えられ、さらに近現代の小説、漫画、ゲームといった創作物によって多様な解釈と人格が吹き込まれることで、「創作による魂」が与えられた。
彼の物語が、なぜこれほどまでに時代を超えて語り継がれ、再創造され続けてきたのか。それは、単なる忍者の奇抜な活躍譚に留まらない、普遍的なテーマを内包しているからに他ならない。上杉謙信や武田信玄との確執の物語は、「制御不能な才能と組織の論理との対立」という、現代にも通じる問題を提起する。また、特定の主人に生涯を捧げるのではなく、自らの技量を頼りに大名の間を渡り歩く姿は、「自由な個人と封建的な権威との相克」というテーマを象徴している。
出自は曖昧で、その生涯は謎に満ち、最期は権力者に疎まれて非業の死を遂げる。この余白の多い悲劇的なプロフィールこそが、後世の創作者たちの想像力をかき立てる源泉となった。結果として、加藤段蔵はもはや単なる史実上の人物という枠を遥かに超え、日本文化における「孤高の異能者」の原型の一つであり、時代と共にその姿を変えながら生き続ける、一つの文化的アイコンへと昇華したのである。彼の伝説は、これからも新たな解釈を得て、語り継がれていくに違いない。