北条時政は鎌倉幕府初代執権。源頼朝の舅として幕府創設に貢献。頼朝死後、梶原景時や比企能員らを排除し権力を掌握。しかし、後妻牧の方との牧氏事件で実子義時・政子に追放された。
本報告書は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、伊豆国の一在地豪族から身を起こし、鎌倉幕府の初代執権として権力の頂点に上り詰めた人物、北条時政の生涯を包括的かつ詳細に解明することを目的とする。彼の謎に包まれた出自から、娘婿である源頼朝を支援して幕府創設に貢献した前半生、そして頼朝死後の激しい権力闘争を勝ち抜き、自らが創始した執権政治の座に就きながらも、最後は実子によって政界から追放されるという劇的な結末に至るまで、その全貌を多角的な視点から分析する。特に、梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱、そして自身の失脚に繋がった牧氏事件といった一連の政争については、幕府の公式史書である『吾妻鏡』の記述を批判的に検討しつつ、同時代の第三者の記録と比較することで、その深層に迫る。
北条時政は、娘・政子と流人であった源頼朝との婚姻を機に歴史の表舞台に登場し、頼朝の挙兵を支援することで、一代にして北条氏を幕府の最高権力者の地位へと押し上げた、鎌倉幕府の権力構造を事実上創出した人物である 1 。彼の政治手法は、頼朝の死後、幕府内の有力御家人を次々と謀略によって排除する冷徹なものであり、その過程で北条氏の権力基盤を盤石なものにした 3 。しかし、その権勢は長くは続かず、晩年には後妻・牧の方とその一族の利益を優先し、自らが擁立した三代将軍・源実朝の廃立を画策した結果、実子である北条政子と北条義時によって失脚させられるという、劇的な結末を迎えた 5 。
彼の功績は大きいにもかかわらず、その後の北条氏、特に孫の三代執権・北条泰時からは「実朝を殺害しようとした謀反人」として扱われ、その存在は公式には否定される傾向にあった 5 。江戸時代に入ると、鎌倉時代を題材とした歌舞伎などで権力欲に溺れた悪役として描かれることが多く、その評価は時代と共に大きく揺れ動いてきた 8 。本報告書では、こうした功罪相半ばする複雑な人物像の実態を、史料に基づき明らかにしていく。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
1138年 |
保延4年 |
1歳 |
伊豆国田方郡北条にて誕生。 |
9 |
1160年 |
永暦元年 |
23歳 |
伊豆へ流罪となった源頼朝の監視役を命じられる。 |
11 |
1177年頃 |
治承元年頃 |
40歳頃 |
娘・政子が頼朝と結婚。当初は反対するが、後に後援者となる。 |
12 |
1180年 |
治承4年 |
43歳 |
頼朝と共に挙兵。山木兼隆を討つが、石橋山の戦いで敗北。長男・宗時が戦死。安房国で再起を図る。 |
11 |
1185年 |
文治元年 |
48歳 |
頼朝の代官として上洛。後白河法皇と交渉し、守護・地頭の設置を認めさせる(文治の勅許)。 |
14 |
1199年 |
正治元年 |
62歳 |
源頼朝が死去。二代将軍・頼家を補佐する「十三人の合議制」の一員となる。 |
5 |
1200年 |
正治2年 |
63歳 |
梶原景時の変。景時を失脚、滅亡させる。 |
16 |
1203年 |
建仁3年 |
66歳 |
比企能員の変。能員を謀殺し、比企一族を滅ぼす。頼家を追放し、実朝を三代将軍に擁立。政所別当に就任し、初代執権となる。 |
4 |
1205年 |
元久2年 |
68歳 |
畠山重忠の乱。讒言を信じ、重忠を滅ぼす。これにより義時らとの対立が決定的に。同年、牧氏事件が発覚し失脚。出家して伊豆へ追放される。 |
19 |
1215年 |
建保3年 |
78歳 |
伊豆の北条邸にて死去。 |
5 |
北条時政は、1138年(保延4年)、伊豆国田方郡北条(現在の静岡県伊豆の国市)に生まれたとされる 9 。父は北条時方(ときかた)あるいは時兼(ときかね)、母は伊豆国の在庁官人であった伊豆掾(いずのじょう)伴為房(とものためふさ)の娘と伝わるが、複数の系図で記載が異なり、確たるものはない 1 。『吾妻鏡』においても、時政の登場場面で「当国の豪傑なり」と記されるのみで、これは特筆すべき事績がない場合の常套句であり、彼の前半生が中央の歴史記録において重要視されていなかったことを示唆している 11 。
鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』は、北条氏を桓武平氏の名門、平直方(たいらのなおかた)の五代の孫であると記している 11 。平直方は平安中期の軍事貴族であり、この系譜は、源氏の棟梁である源頼朝の舅(しゅうと)という立場になった北条氏の家格を権威づけるために、後年になって整えられた可能性が研究者によって指摘されている 23 。実際には、時政以前の北条氏の系譜は複数の系図が存在し、内容もまちまちで、確定的なものがないのが現状である 11 。近年の研究では、時政は北条家の嫡流ではなく、甥の時定の父・時兼が「北条介」を名乗っていたことから、分家筋の出身であった可能性も示唆されている 23 。
確かなことは、北条氏が伊豆国の国衙(こくが、現在の県庁にあたる)において、国司の指揮下で行政実務を担当する在地採用の役人、すなわち在庁官人(ざいちょうかんにん)であったという点である 25 。在庁官人は、京から派遣される国司と現地の武士社会との間に立つ、独特の立場にあった。しかし、当時の坂東における北条氏の勢力は、相模の三浦氏や下総の千葉氏といった大豪族に比べれば、はるかに小規模なものであった 14 。頼朝挙兵の際に北条氏が動員できた兵力は、わずか50騎程度であったことからも、その規模がうかがえる 1 。
時政が歴史の表舞台に登場するのは、1160年(永暦元年)のことである。前年の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の嫡男・源頼朝が、14歳で伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流罪となると、当時23歳であった時政がその監視役を命じられた 4 。この重要な役目に時政が選ばれた背景には、時政の後妻となる牧(まき)の方の一族(父または兄の牧宗親)が、平清盛の異母弟・平頼盛の家人であり、平家方と繋がりがあったためと考えられている 12 。
この出自の曖昧さと、在庁官人という特異な立場こそが、後の時政の行動様式を理解する鍵となる。彼は、伝統的な坂東武士団の家格や慣習に縛られることなく、また中央の貴族社会の論理にも通じているという、二つの世界にまたがる存在であった。このことが、旧来の枠組みにとらわれない、極めて現実的かつ機会主義的な判断を可能にした。流人の頼朝と娘の婚姻という、常識的には考えられない「一か八かの賭け」 1 に出ることができたのも、彼の出自がもたらした柔軟な思考の産物であったと言えるだろう。彼は、出自の低さという不利な条件を、逆に既成概念に縛られないという強みへと転換させることで、歴史を動かす好機を掴んだのである。
頼朝の監視役という立場は、時政の運命を大きく変える転機となった。成長した娘の北条政子が、流人である頼朝と恋仲になったのである。当時、平家の権勢は絶頂期にあり、平家に敵対した源氏の嫡流との婚姻は、北条家にとって破滅を招きかねない危険な行為であった。当然、時政は二人の交際に猛反対し、政子を伊豆の有力豪族である伊東祐親(いとうすけちか)の子、山木兼隆(やまきかねたか)に嫁がせようとした 11 。しかし、政子は頼朝への想いを貫き、激しい雨の夜に家を抜け出して頼朝のもとへ駆け落ちしたと伝えられる 12 。既成事実を作られた時政は、最終的に二人の婚姻を認め、危険を承知で頼朝の後援者となる道を選んだ 11 。
1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が発した平家追討の令旨(りょうじ)が頼朝のもとに届くと、時政は重大な決断を迫られた。頼朝を捕らえて平氏政権に差し出せば、在庁官人としての地位は安泰となる。逆に、頼朝と共に挙兵すれば、一族の存亡を賭けた戦いに身を投じることになる 1 。ここで時政は、後者を選択した。これは単なる娘婿への情だけでなく、平家政権の将来性を見限り、源氏の再興という大きな可能性に賭けるという、彼の鋭い政治的嗅覚に基づく判断であった 1 。
同年8月17日、時政の館を拠点として 5 、頼朝軍は挙兵の第一歩として伊豆目代であった山木兼隆の館を襲撃し、これを討ち取った 1 。この初戦の勝利により、坂東における反平氏の動きは一気に本格化した。
しかし、挙兵直後の頼朝軍は、相模国で平家方の大庭景親(おおばかげちか)が率いる大軍と衝突し、石橋山の戦いで壊滅的な敗北を喫する。この戦いで、時政は長男の北条宗時を失うという悲劇に見舞われた 11 。敗戦後の時政の行動については、史料によって記述が異なる。『吾妻鏡』は、頼朝の命令を受けて甲斐源氏に援軍を要請するため、次男の義時と共に甲斐国へ向かったと記す 13 。一方、『延慶本平家物語』などでは、頼朝とは別行動をとり、甲斐へ敗走したとされている 29 。いずれにせよ、時政は安房国(現在の千葉県南部)で頼朝と無事に合流し 11 、その後、甲斐国へ赴いて武田信義ら甲斐源氏を味方につけるという重要な任務を成功させた 31 。この甲斐源氏の加勢が、続く富士川の戦いでの平家軍に対する圧倒的な勝利の原動力となった。
平家を西へ追いやり、鎌倉を本拠地として東国の支配を固めた頼朝は、1185年(文治元年)、弟・源義経との対立が深刻化すると、義経追討を名目に全国的な支配権の確立を目指した。この重大な局面で、頼朝が代官として京都へ派遣したのが時政であった 14 。時政は後白河法皇との交渉に臨み、義経追討の許可を得ると同時に、それを口実として、諸国の荘園・公領に守護・地頭を設置する権利を朝廷に認めさせた(文治の勅許) 14 。これは、軍事力と治安維持権を幕府が掌握し、武家政権の支配を全国に及ぼすという、画期的な成果であった。
この一連の動きは、時政の能力が単なる戦場での武勇にあるのではなく、むしろ情勢を的確に読み、大胆な賭けに出て、外交交渉によって実利を勝ち取るという高度な政治的手腕にあったことを示している。頼朝在世中、時政の幕府内での序列は必ずしも最上位ではなかったが 5 、この国家の根幹に関わる重要な交渉役に抜擢されたことは、頼朝が彼の「政治力」をいかに高く評価していたかを物語っている。在庁官人として培った京の公家社会への理解と、坂東武者としての現実主義を併せ持った時政ならではの功績であった。
1199年(正治元年)正月、鎌倉幕府の絶対的な支配者であった源頼朝が急死すると、幕府は大きな転換期を迎えた。跡を継いだのは、頼朝と政子の嫡男で18歳の源頼家であった 12 。しかし、若くして強大な権力を手にした頼家は、御家人の所領を理不尽に取り上げるなど、独裁的な振る舞いが目立ち、宿老たちの反発を招いた 14 。この事態を危惧した母・北条政子や有力御家人たちは、同年4月、頼家の訴訟に関する直接の裁決権(親裁)を停止し、幕府の重要政務を宿老13人の合議によって決定する体制を導入した 14 。これが世に言う「十三人の合議制」であり、時政もその一員として名を連ねた 16 。
この合議制は、近年の研究では将軍の権力を完全に停止したものではなく、「訴訟案件の取り次ぎを13人に限定した」制度であったと見られているが 16 、実質的には将軍権力を抑制し、有力御家人による集団指導体制への移行を意味していた。しかし、その内実は各派閥の思惑が渦巻く、極めて不安定な権力闘争の舞台であった。
No. |
人名 |
役職・立場 |
派閥・背景 |
1 |
北条時政 |
伊豆・駿河・遠江守護 |
北条一門(将軍外戚) |
2 |
北条義時 |
寝所警護衆 |
北条一門(時政の子) |
3 |
大江広元 |
政所別当 |
文官(頼朝側近・京下り官人) |
4 |
中原親能 |
政所公事奉行人 |
文官(広元の兄) |
5 |
三善康信 |
問注所執事 |
文官(頼朝側近・京下り官人) |
6 |
二階堂行政 |
政所執事 |
文官(京下り官人) |
7 |
比企能員 |
信濃・上野守護 |
比企一門(頼家乳母夫・外戚) |
8 |
梶原景時 |
侍所別当 |
頼朝側近 |
9 |
和田義盛 |
侍所別当 |
三浦一族系 |
10 |
三浦義澄 |
相模守護 |
三浦一族の長 |
11 |
八田知家 |
常陸守護 |
関東有力御家人 |
12 |
安達盛長 |
三河守護 |
頼朝流人時代からの側近 |
13 |
足立遠元 |
公文所寄人 |
関東有力御家人 |
出典: 16
合議制が成立してわずか半年後の1199年11月、最初の政争が勃発する。頼朝の寵臣として権勢を振るい、侍所別当として御家人を監察する立場にあった梶原景時が、他の御家人たちの強い反感を買い、失脚に追い込まれたのである 38 。三浦義村が中心となって作成した景時弾劾の連判状が提出され、景時は鎌倉を追放された 40 。翌1200年(正治2年)正月、一族を率いて上洛を目指す途上で討たれ、梶原氏は滅亡した。この事件の背後で糸を引いていたのは、時政であったと見られている 16 。頼家の有力な側近であった景時を排除したことで、将軍の権力はさらに弱体化した。
次に時政が標的としたのは、二代将軍頼家の乳母夫(めのとぶ)であり、頼家の嫡男・一幡(いちまん)の外祖父として、将軍家外戚の地位を固めていた比企能員であった 18 。頼朝の死によって外戚の地位から一御家人へと転落していた時政にとって、比企氏の台頭は座視できない脅威であった 18 。
1203年(建仁3年)8月、頼家が重病に陥り危篤状態となると、後継者問題を巡って両者の対立は頂点に達した。9月2日、時政は「仏事の相談」と称して能員を自邸に呼び出すと、待ち構えていた天野遠景、仁田忠常らに命じて謀殺した 15 。これを合図に、北条義時を大将とする軍勢が、能員の一族が立てこもる一幡の邸(小御所)を攻撃し、比企一族は抵抗の末に滅亡した 18 。
この事件の真相については、史料によって見解が大きく異なる。『吾妻鏡』は、能員が先に頼家と共謀して時政討伐を企て、それを政子が障子越しに立ち聞きして時政に伝えたことが発端であると、比企氏の謀反として描いている 44 。しかし、事件と同時代に天台宗の座主であった慈円が記した史論書『愚管抄』では、頼家が出家して一幡に家督を譲ろうとしたため、比企氏の全盛時代になることを恐れた時政が、一方的に能員を呼び出して殺害したクーデターであったと記されている 44 。
項目 |
『吾妻鏡』(北条氏側の公式記録)の記述 |
『愚管抄』(同時代の第三者・慈円の記録)の記述 |
事件の発端 |
頼家と比企能員が時政討伐を密談。それを政子が立ち聞きし、時政に密告。 |
頼家が病で出家し、一幡に家督を譲ろうとした。比企氏の台頭を恐れた時政が先制攻撃を計画。 |
能員殺害 |
時政邸に呼び出され、謀反人として誅殺される。 |
時政邸に呼び出され、一方的に殺害される。 |
比企一族討伐 |
政子の命令により、謀反を起こした比企一族を討伐。 |
時政が能員殺害に続き、一幡を殺すために軍勢を派遣。 |
一幡の最期 |
小御所合戦の際に焼死したとされる。 |
母に抱かれて一度は逃げ延びるが、後に義時の郎党によって捕らえられ、刺殺される。 |
出典: 18
京都の貴族たちの日記にも、事件直後に鎌倉から「頼家が死去し、その後継を巡り時政が頼家の子を殺した」という報告が届いたと記録されており、時政が頼家の病篤しを好機と捉え、周到に計画したクーデターであったとする『愚管抄』の記述の信憑性が高いと考えられている 18 。
この政変の結果、頼家は将軍職を剥奪されて伊豆の修禅寺に幽閉され、翌年、時政の送った刺客によって暗殺された 17 。そして時政は、自らの娘である阿波局(あわのつぼね)が乳母を務める頼家の弟・千幡(せんまん、後の源実朝)を12歳で三代将軍に擁立し、幕府の実権を完全に掌握したのである 5 。
比企一族を滅亡させた直後の1203年(建仁3年)10月、時政は鎌倉の最高政務機関である政所(まんどころ)の長官(別当)に、文官筆頭の大江広元と並んで就任した 4 。武士出身の時政が政所別当となったことは、将軍の外祖父として、そして御家人の筆頭として、名実ともに幕府の頂点に立ったことを意味した。この就任をもって、時政は事実上の「初代執権」となり、ここに北条氏による執権政治が始まったとされる 10 。
将軍に就任した実朝はまだ12歳であり、政治の実権は完全に後見人である時政が握っていた。時政は、将軍の命令を奉じて発給される奉書(ほうしょ)形式の文書である「関東下知状(げちじょう)」を、自らの単独署名で発給し、御家人たちの所領安堵や相続の承認、裁判の判決といった幕府の重要政務を執行した 5 。これは形式上、将軍の意思を代行するものであったが、実質的には時政の意思そのものであり、御家人たちの間では「遠州(時政)下知」などと呼ばれ、時政の専横と見なされることもあった 33 。
この「執権」という役職は、最初から制度として設計されたものではなかった。時政が政敵を排除し、幼い将軍の後見人として政所別当の地位に就いたことで、結果的に生まれた「事実上の最高権力者」の地位であった。彼の権力は、制度に裏付けられた安定的なものではなく、謀略と実力、そして将軍の外戚という立場を巧みに組み合わせた、極めて個人的なものであったと言える。この権力行使が一部の御家人から反発を買ったという事実は 33 、彼の権力がまだ不安定で、制度として確立されていなかったことの証左である。
時政の政治が目指したものは、第一に、それまで政治の脇役であった武士の地位を向上させ、公家に対する武家の優位性を確立すること。第二に、頼朝というカリスマを失った後の御家人たちを権力によって統合し、その頂点に北条氏が君臨する体制を築くことであった 1 。彼は、元来の教養の高さと政治的駆け引きの巧みさを駆使して、他の御家人を政争で圧倒し、執権政治の原型を創り出した 1 。この路線は、後に息子の義時、孫の泰時によって、より洗練され、制度化された形で受け継がれていくことになる。
時政の権力が絶頂に達した頃、その足元では崩壊の予兆が現れ始めていた。その中心にいたのが、時政が深く寵愛した後妻・牧の方であった 6 。牧の方は平頼盛の一族に連なる家柄で、京の貴族社会との繋がりを持ち 52 、時政の政治判断に大きな影響力を持っていたとされる。時政と牧の方の間には、後の将軍廃立計画で中心的な役割を果たすことになる娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)らがおり、北条家内部に新たな派閥を形成していた 5 。
時政失脚の直接的な引き金となったのが、1205年(元久2年)に起きた畠山重忠の乱である。
この一連の出来事は、単なる後妻の讒言や時政の老耄が原因ではなく、より構造的な問題を内包していた。それは、北条家内部における「先妻派(政子・義時ら)」と「後妻・牧の方派(時政・朝雅ら)」との深刻な派閥抗争であり、同時に、伊豆の在地豪族としての感覚を持つ旧世代の時政と、鎌倉という政治の中心で育ち、より合理的で安定的な統治を目指す新世代の義時との間の、世代交代を懸けた権力闘争の側面を持っていた 66 。畠山重忠の粛清という時政の致命的な失策は、義時にとって父を排除し、自らが権力を掌握するための絶好の大義名分を与える結果となったのである 67 。
畠山重忠の乱からわずか1ヶ月後の元久2年(1205年)閏7月、時政と牧の方は最後の賭けに出る。三代将軍・源実朝を殺害または追放し、自分たちの娘婿である平賀朝雅を新たな将軍に擁立しようと画策したのである 6 。これが「牧氏事件(牧氏の変)」である。
しかし、この陰謀は事前に政子と義時の知るところとなっていた。畠山重忠の件で父との対決を決意していた二人は、迅速に行動を起こす。まず、有力御家人の三浦義村らを味方につけ、幕府内の支持を固めた 6 。そして、陰謀が噂として流れたその日のうちに、将軍・実朝の身柄を時政の邸宅から義時の邸宅へと移し、保護した 7 。将軍を失った時政は、武力を行使する大義名分を失い、完全に孤立無援となった 22 。
計画が完全に失敗したことを悟った時政は、事件発覚当日のうちに出家し、政界からの引退を表明した 1 。翌日には鎌倉を追われ、故郷である伊豆へと下った。幕府の公式記録である『吾妻鏡』は時政の自発的な出家・隠居と記すが、同時代の貴族・藤原定家の日記『明月記』は「伊豆国に幽閉された」と記しており、事実上の追放であった 7 。時政が擁立しようとした平賀朝雅も、義時の命を受けた追討軍によって京都で誅殺された 6 。この義時による独断での朝雅誅殺は、朝雅を近臣としていた後鳥羽上皇の激しい怒りを買い、後の承久の乱の遠因の一つとなった 7 。
こうして、鎌倉幕府の初代執権・北条時政は、権力の座から完全に滑り落ちた。彼は二度と政治の表舞台に立つことなく、追放から10年後の建保3年(1215年)1月6日、伊豆の北条邸にて、持病であった腫物のために78年の生涯を閉じた 5 。
一方、事件の元凶とされた牧の方は、時政と共に伊豆へ下ったが、時政の死後、公家と再婚した娘を頼って京都へ移り住み、裕福な余生を送ったと伝えられている 6 。嘉禄3年(1227年)には、京都で時政の十三回忌の法要を営んでおり、単なる悪女の一言では片付けられない複雑な人物像がうかがえる 7 。
北条時政の生涯は、鎌倉幕府という新たな武家政権の草創期における光と影を、一身に体現したものであった。
その 功績 は、何よりもまず、伊豆の小豪族という微力な立場から身を起こし、源頼朝を支えて鎌倉幕府の創設に多大な貢献をした点にある 1 。特に、頼朝の代官として上洛し、守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたことは、武家政権の支配の根幹を築く画期的な成果であった 1 。さらに、頼朝死後の幕府の混乱期にあって、次々と政敵を排除することで権力闘争を収拾し、結果的に北条氏による執権政治の原型を創り出したことも、その後の幕府の安定を考えれば大きな功績と言える 1 。
一方で、その 罪 もまた大きい。権力を維持・拡大するために、梶原景時、比企能員、畠山重忠といった幕府の有力御家人を次々と謀略によって滅ぼし、幕府内に深刻な対立と不信感を生んだ 3 。その手法は冷徹を極め、多くの悲劇を生んだ。そして晩年には、後妻・牧の方への私情と一族の権力への野心に駆られ、自らが擁立した将軍・実朝の廃立まで企てた 6 。これは自らが築き上げてきた幕府の秩序を自ら乱す行為であり、最終的に実子である政子と義時による追放という、皮肉な結末を招いた。
時政の評価は、後世、特に北条氏によって編纂された『吾妻鏡』の影響を強く受けている。『吾妻鏡』において、時政は北条氏の偉大な祖でありながらも、その晩年の失策、特に牧の方の讒言に惑わされた愚かな老人として描かれる側面がある 66 。これは、時政を失脚させた息子・義時の行動を正当化するための意図的な記述であった可能性が高い。こうした描写は、江戸時代の歌舞伎などを通じて大衆に広まり、権力欲の権化、あるいは悪妻の言いなりになる愚鈍な権力者という、単純化された悪役像を定着させる一因となった 8 。
史実の冷徹な権力者像とは別に、時政には伝説的な側面も残されている。軍記物語『太平記』には、時政が子孫繁栄を祈願して江の島に参籠した際、弁財天の化身である大蛇(龍神)が現れ、「子孫は永く日本の主となるであろう。ただし、非道を行えば七代で滅びる」と予言し、その証として三枚の鱗を落としていったという有名な逸話が記されている 72 。時政はこの三枚の鱗をかたどり、北条氏の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」としたと伝えられる 76 。この伝説は、北条氏による支配の正当性を神仏の権威によって裏付けようとするものであり、時政の人物像に神秘的な色彩を与えている。
結論として、北条時政は、公家支配という旧来の秩序が崩壊し、武士が新たな時代の主役となる動乱期において、卓越した政治的嗅覚と大胆な決断力、そして躊躇なき謀略によって成り上がった、典型的な「時代の寵児」であった。彼の行動は、清廉な理想ではなく、極めて現実的な権力への意志に貫かれていた。その冷徹な権力闘争は多くの血を流したが、彼が創始した執権政治というシステムは、結果としてその後100年以上にわたる北条氏支配の礎となった。彼は、自らが築いた権力の論理によって、最後は実の子にその座を追われるという皮肉な運命を辿った、鎌倉時代初期という時代そのものを象徴する、複雑で魅力的な人物であると言えよう。