本報告書は、戦国時代の武将・北条氏照について、その出自、武将としての事績、外交手腕、人物像、そして最期に至るまでを、現存する史料や研究成果に基づいて多角的に調査し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
後北条氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とし、約100年にわたり関東に覇を唱えた戦国大名である 1 。その三代目当主・北条氏康の子である氏照は、兄・氏政を補佐し、軍事・外交の両面で後北条氏の勢力拡大と維持に不可欠な役割を果たした 3 。関東の複雑な政治状況の中で、彼の活動は後北条氏の戦略を理解する上で極めて重要である。
後北条氏は数代にわたり関東で大きな勢力を築いたが、その中で氏照は単なる一武将ではなく、軍事司令官、外交官、そして重要拠点の城主という複数の重責を担った。これは、後北条氏の統治体制において、一族の有力者が広範な権限と責任を持って方面経営にあたるという特徴を反映している。氏照の活躍は、後北条氏の関東支配戦略の成功と限界を同時に示す事例と言える 3 。
北条氏照は、後北条氏三代当主・北条氏康の三男として誕生した 3 。母は今川氏親の娘である瑞渓院である 3 。
幼名は「藤菊丸」と推定されている 4 。この主な根拠は、神奈川県座間市の鈴鹿明神社に残る弘治二年(1556年)五月二日付の棟札に「北条藤菊丸」の名が見えることである 8 。弘治二年は氏照が元服前としても不自然ではなく、座間地域が初期から氏照と関連の深い土地であったことから、この藤菊丸が氏照の幼名である可能性が高いとされている 8 。
氏照の生年には、天文9年(1540年)、天文10年(1541年)、天文11年(1542年)などの説が存在する 3 。『石川忠総留書』には天正18年(1590年)の時点で「50ばかり」とあり、菩提寺の武蔵八王子宗閑寺の寺記(『小田原編年録』所収「北条氏系図」)には享年49と伝わる 7 。享年が明確で菩提寺の所伝であることから、逆算して天文11年(1542年)生まれとする説が有力視されている 7 。
戦国武将の生年が複数説存在することは珍しくない。これは、当時の記録の散逸や後世の編纂物の誤記、あるいは異なる情報源に基づく記述などが原因である。氏照の場合、複数の史料が異なる年を示唆しており、それぞれの史料的価値(一次史料か二次史料か、成立時期、記録の正確性など)を比較検討する必要がある。菩提寺の記録は比較的信頼性が高いとされるが、絶対ではない。生年の確定は、その人物の生涯の出来事を正確に位置づける上で基礎となるため、慎重な史料批判が求められる 8 。
父は「相模の獅子」と称された名将・北条氏康である 3 。母は今川氏親の娘・瑞渓院である 3 。
兄弟には、嫡男で後北条氏四代当主となった北条氏政 1 、武蔵鉢形城主の北条氏邦 1 、伊豆韮山城主で外交にも長けた北条氏規 6 、上杉謙信の養子となった上杉景虎(北条三郎) 1 などがいる。姉妹も多く、今川氏真、足利義氏、千葉親胤、太田氏資、武田勝頼などに嫁いでおり、後北条氏の婚姻政策の一端を担った 1 。
正室は武蔵守護代大石定久(一説には大石綱周)の娘・比佐である 6 。娘に霊照院殿(山中頼元室)がいる 6 。養子には北条源蔵、そして兄・氏政の子である千葉直重がいる 6 。
氏照自身が大石氏の養子となり、また兄の子を養子に迎えていることは、後北条氏が婚姻や養子縁組を領土拡大・勢力安定のための重要な戦略として用いていたことを示す。特に、氏照が大石氏を継承したことは、武蔵国への影響力拡大という明確な目的があった。兄弟姉妹の婚姻先も、周辺勢力との関係構築を意図したものであり、氏照もこの戦略ネットワークの一翼を担っていた 1 。
北条氏照関連略系図
関係 |
氏名 |
備考 |
父 |
北条氏康 |
後北条氏三代当主、「相模の獅子」 |
母 |
瑞渓院 |
今川氏親の娘 |
本人 |
北条氏照 |
|
兄 |
北条氏政 |
後北条氏四代当主 |
弟 |
北条氏邦 |
武蔵鉢形城主 |
弟 |
北条氏規 |
伊豆韮山城主、外交で活躍 |
弟 |
上杉景虎 |
北条三郎、上杉謙信養子 |
正室 |
比佐 |
大石定久(または綱周)の娘 |
子(娘) |
霊照院殿 |
山中頼元室 |
養子 |
千葉直重 |
北条氏政の子 |
(主な人物のみ記載)
氏照は、武蔵国守護代であった大石氏の家督を継承するため、大石定久(一説には大石綱周)の娘・比佐を娶り、養子となった 3 。時期については諸説あるが、弘治2年(1556年)頃には大石領への関与が見られ、永禄2年(1559年)頃に由井城(滝山城の前身または近隣の城)に入り、大石氏の家督を継いだとされる 7 。
元服して「源三氏照」と名乗り 4 、大石氏継承後は「大石源三氏照」または「油井源三」と称した 6 。この「油井」は由井城に由来すると考えられる 6 。
後北条氏にとって、武蔵国は関東支配の要衝であった。大石氏は武蔵国に勢力を持つ国衆であり、その家督を氏康の子である氏照が継承することは、武蔵国における後北条氏の支配権を強化し、在地勢力を取り込むための極めて戦略的な一手であった。これは、単なる武力制圧ではなく、婚姻や養子縁組を通じた穏健かつ確実な勢力拡大策の一環と言える 3 。
その後、氏照は北条姓に復帰し、大石氏を家臣団に組み込んだ 3 。復姓の正確な時期は不明だが、永禄11年(1568年)12月19日付の書状で「平氏照」と署名しており、大石氏が源姓であることから、この頃には北条(平)姓に復していたと考えられる 12 。
大石氏を継承して在地勢力との関係を安定させた後、北条姓に復帰したことは、氏照が後北条一門としてのアイデンティティを明確にし、大石領が完全に後北条氏の支配体制下に組み込まれたことを内外に示す意味があった。これは、養子縁組が一時的な戦略的手段であり、最終的には後北条氏の宗家による支配を強化する方向性であったことを示唆する 3 。
氏照は滝山城(東京都八王子市)を居城とし、武蔵国西部の支配拠点とした 3 。滝山城は、大石氏の築城とも、氏照による大改修とも伝えられる 17 。滝山城は、多摩川の断崖を利用した天然の要害であり、氏照はここを拠点に領国経営や軍事活動を展開した 3 。滝山城の城下町は、後の八王子宿の原型の一つとなった 12 。
永禄12年(1569年)、武田信玄が小田原城攻撃の途上で滝山城を攻撃した(三増峠の戦いの前哨戦) 18 。氏照は寡兵ながらも滝山城を守り抜き、武田軍を撃退したが、この戦いで滝山城の防御上の弱点(特に南側からの攻撃に対する脆弱性)を認識したとされる 18 。この経験が、より堅固な山城である八王子城築城の一因となったと考えられる 18 。この戦いでは、武田勝頼と氏照が直接槍を合わせたという伝承も残る 20 。
滝山城での武田信玄との攻防戦は、氏照にとって大きな試練であったと同時に、防衛戦略を見直す契機となった。名将信玄の攻撃を凌いだものの、城の弱点を露呈した経験は、単に既存の城を改修するのではなく、より防御に適した立地に新たな城を築くという大胆な決断に繋がった。これは、氏照が実戦の教訓を活かし、将来の脅威に備えるための長期的な視点を持っていたことを示している 17 。
滝山城での経験や、武田氏との緊張関係、さらには来るべき豊臣秀吉の脅威など、戦略的状況の変化に対応するため、氏照は新たな拠点として八王子城(東京都八王子市元八王子町)の築城を開始した 3 。築城開始は天正10年(1582年)頃、滝山城からの拠点移転は天正15年(1587年)頃とされる 18 。
八王子城は、深沢山(現在の城山)に築かれた大規模な山城で、小仏峠を押さえる甲州口の要衝に位置し、小田原城の重要な支城であった 18 。織田信長の安土城を模して石垣を用いたともいわれ 21 、当時の最新の築城技術が取り入れられた堅固な城であった 24 。城内には御主殿(居館)や複数の曲輪が設けられ、優れた縄張り(城郭設計)であったと評価され、「日本100名城」にも選定されている 24 。
八王子城の選地、構造、そして築城のタイミングは、氏照の優れた戦略眼と、当時の軍事技術に対する深い理解を示している。滝山城の経験を踏まえ、より防御力に優れた山城を選び、石垣などの新技術を導入したことは、単なる拠点移転以上の意味を持つ。これは、来るべき大規模な戦役に備え、後北条氏の防衛ラインを強化しようとする氏照の強い意志の表れであり、彼の軍事思想の成熟を示すものと言える 3 。
氏照は八王子城の築城とともに、城下町の整備にも力を入れた 19 。滝山城下から町や宿を移し、都市基盤を構築したとされる 12 。八王子城の城下町は、落城後に現在の八王子市街地に移され、甲州街道の宿場町「八王子宿」として発展した 19 。この滝山城下→八王子城下→現在の八王子宿という変遷は「三宿三転」と呼ばれる 17 。
領国経営に関する具体的な政策(検地、税制、用水路整備、産業振興など)についての氏照個人の詳細な記録は、提供された資料からは限定的だが、後北条氏全体としては検地や税制改革、目安箱の設置など先進的な領国経営を行っていた 2 。氏照もその一環として、八王子周辺の統治にあたっていたと考えられる。八王子城の御主殿跡からは水路遺構も発見されており 27 、城内のインフラ整備にも意を用いていたことが窺える。
氏照による八王子城下町の整備は、単に軍事拠点の付属施設としてではなく、地域の経済的・交通的中心地としての機能も視野に入れていた可能性がある。「三宿三転」という歴史的経緯は、氏照が築いた都市基盤が、その後の江戸時代の宿場町発展の礎となったことを示唆している。これは、氏照が短期的な軍事目標だけでなく、地域の持続的な発展にも目を向けていた可能性を示し、領国経営者としての側面をうかがわせる 12 。
氏照は家中でも「戦上手」と評されるほどの軍事的才能を発揮し、北関東や信濃方面でたびたび軍の指揮を執った 3 。『北条記』では「氏政の舎弟の中にても武勇勝れて殊に大名なり」と評されている 15 。
永禄12年(1569年)、武田信玄の小田原侵攻からの撤退時に行われた三増峠の戦いでは、弟の氏邦と共に北条軍の主力として武田軍と激突した 3 。氏照は甲州街道守備軍を率い、武田軍の退路を遮断しようと試みた 28 。緒戦では北条軍が優勢だったが、武田軍別働隊の奇襲により苦戦を強いられた 29 。この戦いは戦国時代最大級の山岳戦とされ、両軍ともに大きな損害を出したが、武田軍が辛くも撤退に成功した 28 。北条側の史料では損害は軽微とされ、氏照自身は勝利したとの書状も残している 29 。
三増峠の戦いにおける氏照の行動は、彼の勇猛さと戦術眼を示す一方で、戦略的な連携の難しさも露呈した。武田軍の動きを読んで先手を打とうとした点は評価できるが、結果的に挟撃作戦は成功せず、大きな損害を被った。これは、当時の情報伝達の限界や、各部隊の連携の複雑さ、そして何よりも敵将・武田信玄の卓越した戦術眼による部分が大きい。氏照が戦後「勝利」を主張した背景には、政治的な意図や、自軍の士気維持の必要性があった可能性も考えられる 3 。
下総関宿城攻めでは主将を務め、これを陥落させて後北条氏の下総における軍事拠点を確保した 4 。天正12年(1584年)の沼尻の合戦では、佐竹・宇都宮連合軍と対峙し、北条軍の主要指揮官の一人として参戦した 31 。この合戦は大規模なものとなったが、決着はつかず講和に至った。しかし、戦後の処理は北条氏優位に進み、北関東における後北条氏の勢力拡大に繋がった 31 。
関宿合戦や沼尻の合戦など、氏照が関与した主要な戦いは、後北条氏が関東一円でその覇権を維持・拡大するために、絶えず軍事的な圧力をかけ、また敵対勢力からの挑戦に対応し続けていたことを示している。氏照はこれらの戦いで中心的な役割を担い、後北条氏の軍事力を具体的に行使する存在であった 4 。
氏照は「陸奥守」の官位を称した 6 。これは天正3年(1575年)から天正4年(1576年)の間に称し始めたとされる 15 。鎌倉幕府において陸奥守は北条氏嫡流や有力一門が名乗った官職であり、氏照がこれを称したことは、後北条家における彼の政治的地位の向上と、その権威を内外に示す意図があったと考えられる 15 。
官位は、戦国武将にとって実質的な権力だけでなく、その正統性や格を示す象徴的な意味を持った。氏照が「陸奥守」を称したことは、単なる名誉職ではなく、後北条氏の外交・軍事戦略において、彼が北関東方面(陸奥にも通じる)の責任者としての地位を確立し、その方面における広範な裁量権を持っていたことを示唆する。これは、彼の外交活動の範囲とも符合する 14 。
武田信玄の駿河侵攻により甲相駿三国同盟が破綻すると、後北条氏は宿敵であった越後の上杉謙信(輝虎)との同盟(越相同盟)を模索する 29 。氏照は弟の氏邦と共にこの困難な外交交渉に深く関与し、永禄12年(1569年)に越相同盟の成立に貢献した 3 。氏照は上杉氏に同盟を申し入れる書状を送るなど、交渉の初期段階から主導的な役割を担ったとされる 33 。
長年の宿敵であった上杉氏との同盟は、後北条氏にとって大きな外交方針の転換であり、極めて高度な政治判断と交渉力が求められた。氏照がこの交渉で中心的な役割を果たしたことは、彼が単なる武辺者ではなく、複雑な利害関係を調整し、大局的な戦略に基づいて行動できる外交感覚を持っていたことを示している。これは、戦国時代の外交が、敵味方が流動的に変化する中で、いかに現実主義的なものであったかを示す好例である 3 。
中央で勢力を拡大する織田信長とも接触を持ち、天正7年(1579年)には信長に鷹3羽を進上するなど、友好関係の構築を図った 4 。信長との取次ぎも担当し、情報収集にも長けていたとされる 3 。
信長の死後、天下統一を進める豊臣秀吉との外交交渉も担当したが、秀吉の要求に対しては強硬な姿勢を崩さなかったとされる 4 。この姿勢が、小田原征伐の一因になったとも考えられている 4 。小田原征伐直前の交渉経緯については史料が乏しいが 36 、秀吉は北条氏の惣無事令違反などを理由に宣戦布告している 37 。
氏照の対秀吉外交における強硬姿勢は、彼の「直情剛毅」な性格 3 や、後北条氏の関東における独立大名としての自負、そして過去の成功体験(上杉・武田の大軍を退けた経験)に根差していた可能性がある。しかし、秀吉の圧倒的な力と天下統一の意志を見誤った結果、北条家を滅亡へと導く一因となった。これは、外交における情報収集能力と情勢分析の重要性、そして時には柔軟な対応が求められることを示す教訓と言える 3 。
徳川家康とも交渉を行っており 18 、天正10年(1582年)には北条氏直と家康の間で和睦が成立している 35 。小田原征伐時には家康は秀吉方として参陣したが、戦後処理において北条氏旧臣の登用などに関わっている 40 。
奥州の伊達氏 5 や蘆名氏 15 など、広範な勢力との外交を担当し、北条家の外交ネットワークの維持に努めた。
豊臣秀吉は惣無事令違反(名胡桃城事件など 37 )を理由に、天正18年(1590年)、北条氏討伐の軍を起こした(小田原征伐 37 )。北条家中では和平派と主戦派で意見が対立し、いわゆる「小田原評定」が長引いたとされる 42 。氏照は兄・氏政と共に主戦論を強硬に主張した中心人物であった 3 。
氏照が主戦論を唱えたことは、彼の性格やこれまでの武功、そして北条家内での発言力の大きさを物語る。しかし、圧倒的な兵力差と秀吉の天下統一の意志を前に、籠城策と徹底抗戦という選択は、結果的に北条家の滅亡を早めた可能性がある。和平派の意見(例えば弟の氏規 6 )が通らなかった背景には、氏政・氏照兄弟の強い影響力と、過去の籠城戦成功体験への過信があったかもしれない 3 。
氏照は小田原城に籠城し、自身の居城である八王子城は城代・横地監物や家臣の中山家範、近藤綱秀、狩野一庵らに守らせた 6 。天正18年6月23日、前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら率いる豊臣軍別働隊(約1万5千から数万)の猛攻を受け、八王子城はわずか1日で落城した 21 。
守備側は兵力約3千(農民兵含む)と劣勢であったが、中山家範らは奮戦した 40 。しかし、多勢に無勢であり、城代の横地監物は脱出後自害 42 、多くの城兵が討死し、氏照の正室・比佐をはじめとする婦女子も自刃したり、御主殿の滝に身を投げるなど、悲惨な結末を迎えた 21 。
八王子城の落城は、小田原城籠城中の北条方の士気を著しく低下させ、降伏開城を早める一因となった 21 。氏照は八王子城落城の報を聞き、床を叩いて号泣したと伝えられる 40 。
氏照が心血を注いで築いた八王子城の早期落城は、豊臣軍の圧倒的な兵力と戦術を示すと同時に、北条方の防衛戦略の限界を露呈した。この悲報は、小田原城内の主戦論者であった氏照自身にとっても大きな衝撃であり、他の将兵の戦意喪失にも繋がった。堅城と信じられていた支城の陥落は、本城である小田原城の運命を暗示するものであり、降伏決断への心理的圧力を強めたと考えられる 21 。
7月5日、当主・北条氏直は降伏を決意し、小田原城は開城した 21 。戦の責任を問われ、氏照は兄・氏政と共に切腹を命じられた 3 。
切腹は天正18年7月11日(西暦1590年8月10日)、小田原城下の医師・田村安栖(長伝)の屋敷で行われた 7 。享年50(または51、49など生年説により変動) 4 。介錯人については、氏政は弟の氏規、氏照は伊勢大和守であったとする説がある 51 。氏照の介錯を氏規が行ったとする説もあるが 21 、史料的検討が必要である 53 。
辞世の句は「天地(あめつち)の 清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり」 21 。兄・氏政の辞世の句と内容が類似している 54 。
氏照の切腹は、敗軍の将としての責任を取るという戦国武士の倫理観を示すものである。辞世の句「天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり」は、仏教的な無常観や自然回帰の思想が反映されており、死を目前にした氏照の心境を垣間見ることができる。兄・氏政と類似した辞世の句であることは、兄弟間の精神的な繋がりや、当時の武士階級に共通する死生観の表れかもしれない 21 。
「直情剛毅」 3 で頑固な性格と評される一方、戦場での勇猛さから部下の信頼も厚かった 3 。思慮深い兄・氏政とは対照的であったとも言われる 15 。家族思いの一面もあり、特に弟の上杉景虎の死を深く悲しみ、その救援に向かおうとした逸話が残る 3 。領民に対しては「横柄な態度を取ってはならぬ」「困っている者がいれば手を差し伸べよ」と家臣に訓示していたという記録もある 56 。
「直情剛毅」という評価は、彼の主戦論や戦場での勇猛さと一致する。一方で、家族思いであったり、領民への配慮を訓示したりする側面は、単なる猛将ではない人間的な深みを示唆する。これらの異なる側面が一人の人物の中で共存していたことは、戦国武将の複雑な人間性を理解する上で重要である 3 。
文武両道に秀で、「文武の達人」と評された 3 。横笛の名手として知られ、秘蔵の笛「大黒」に関する逸話(笛継観音伝説)も残る 3 。和歌も嗜み、八王子城下の景勝を詠んだ「八王子八景」が伝えられている 58 。その中には「桑都青嵐」という養蚕の盛んさを詠んだ歌も含まれる 58 。
中国の陶磁器コレクションを趣味としていた 3 。鷹狩りも好んだ 3 。鷹は外交の進物としても用いられた 35 。茶の湯にも造詣が深く、茶人・山上宗二とも交流があったとされる 56 。山上宗二は小田原に来遊し、北条氏に世話になっていた時期があり 60 、氏照が宗二から『山上宗二記』を送られたという記述もあるが 56 、これは板部岡江雪斎の逸話との混同の可能性も指摘されている 56 。
氏照の多様な文化的活動は、単なる個人の趣味に留まらず、当時の武士階級の教養の高さを示すと同時に、政治的・社会的な意味合いも持っていた可能性がある。例えば、茶の湯は有力者間の社交や情報交換の場であり、鷹狩りは武威の誇示や外交儀礼の一環でもあった。和歌や陶磁器収集は、彼の美的感覚や教養を示すものであり、これらを通じて他の文化人や武将との交流を深めていたかもしれない 3 。
氏照は「如意成就」と刻まれた龍文の印章を使用した 5 。これは後北条氏宗家の虎朱印に対応するものとされる 6 。
「如意成就」の印章は、文字通り氏照の願いや目標の達成を祈念するものであったと考えられる。龍の紋様は、虎の紋様を用いた宗家との関連性を示しつつ、氏照自身の権威と独自性を象徴するものであった可能性がある。印章は当時の公文書の真正性を示す重要なものであり、そのデザインや文言には使用者の思想や立場が反映されることが多い 5 。
同時代の史料や、江戸初期に成立した『北条記』『北条五代記』などでは、氏照の武勇や才幹は高く評価されている 3 。『北条記』では「氏政の舎弟の中にても武勇勝れて殊に大名なり」 15 、『北条五代記』では「世にひいでたる。文武の達人たり」 15 と記されている。同時代人の評価としても、兄・氏政からの信頼の厚さや、敵方であった石田三成がその外交手腕を警戒していたことなどが伝えられる 62 。
江戸時代の軍記物などでも、優れた武将として描かれることが多い 62 。近代以降の歴史研究においても、後北条氏の重要人物として、その軍事・外交両面での活動が注目されている 62 。特に、氏照の発給文書の研究 65 、滝山城・八王子城といった拠点城郭の研究 64 、領国支配 64 、外交政策における役割 65 などが専門的に進められている。八王子などの地域史においては、地元の英雄として、あるいは悲劇の武将として語り継がれている側面もある 70 。
北条氏照の評価は、時代や立場によって多層的な様相を呈する。同時代や江戸初期の軍記物では武勇や才幹が強調される一方、近代以降の実証的な歴史研究では、発給文書や考古学的成果に基づいて、領国経営や外交における具体的な役割が分析されている。また、地域史においては、中央の歴史とは異なる視点からの伝承や評価が存在する。これらの評価の変遷を追うことは、歴史像がどのように形成され、再解釈されていくのかを理解する上で重要である 15 。
北条氏照は、後北条氏の全盛期から滅亡期にかけて、軍事・外交・領国経営の多岐にわたる分野で中心的な役割を担った傑出した武将であった。彼の生涯は、戦国時代の武家の生き様、戦略、そして時代の大きな変化に翻弄される姿を象徴している。
「直情剛毅」と評された性格、文武両道の教養、そして家族や領民への配慮など、人間的な側面も豊かであり、その多面性が彼の魅力を形成している。彼の活動と最期は、後北条氏の興亡を理解する上で不可欠であり、戦国時代史における重要な研究対象であり続ける。
北条氏照関連年表
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
典拠例 |
1540年頃~1542年頃 |
天文9~11年 |
北条氏康の三男として誕生(諸説あり、天文11年説が有力)。幼名「藤菊丸」と推定。 |
3 |
1556年 |
弘治2年 |
元服し「源三氏照」と名乗る。鈴鹿明神社棟札に「北条藤菊丸」の名が見える。大石領への関与開始か。 |
4 |
1559年 |
永禄2年 |
大石定久(綱周)の養子となり、大石氏の家督を継承。由井城(滝山城の前身か)に入り、「大石源三氏照」と称する。 |
7 |
1568年 |
永禄11年 |
北条姓に復帰したと見られる(「平氏照」の署名)。 |
12 |
1569年 |
永禄12年 |
越相同盟の交渉に関与し、成立に貢献。三増峠の戦いで武田信玄軍と交戦。滝山城が武田軍の攻撃を受ける。 |
3 |
時期不明 |
|
関宿合戦で主将を務め、関宿城を攻略。 |
4 |
1575年~1576年頃 |
天正3~4年 |
「陸奥守」を称し始める。小田原城総奉行を務める。 |
15 |
1579年 |
天正7年 |
織田信長に鷹3羽を進上。 |
35 |
1582年頃 |
天正10年頃 |
八王子城の築城を開始。 |
18 |
1584年 |
天正12年 |
沼尻の合戦で佐竹・宇都宮連合軍と対陣。 |
31 |
1587年頃 |
天正15年頃 |
居城を滝山城から八王子城に移す。 |
23 |
1590年 |
天正18年 |
豊臣秀吉による小田原征伐。氏照は小田原城に籠城。 |
3 |
1590年6月23日 |
天正18年 |
八王子城が前田利家・上杉景勝軍の攻撃により落城。 |
21 |
1590年7月5日 |
天正18年 |
小田原城開城。北条氏直が降伏。 |
21 |
1590年7月11日 |
天正18年 |
小田原城下の医師・田村安栖の屋敷にて、兄・氏政と共に切腹。享年49~51(諸説あり)。辞世「天地の 清き中より…」。 |
7 |