戦国時代の関東に覇を唱えた後北条氏。その輝かしい五代百年の歴史の中で、北条為昌(ほうじょう ためまさ)という武将の名は、必ずしも広く知られているとは言えない。通説では、彼は後北条氏二代当主・北条氏綱の三男であり、三代当主・氏康の弟として位置づけられる 1 。叔父・北条氏時から相模国の要衝・玉縄城(神奈川県鎌倉市)を受け継ぎ、将来を嘱望されながらも、天文11年(1542年)に23歳という若さで夭折した悲劇の貴公子、というのが一般的なイメージであろう 3 。
為昌の名が歴史の表舞台から遠ざかった一因は、彼の死後、玉縄城主を継いだ北条綱成(つなしげ)の存在にある。綱成は「地黄八幡(じきはちまん)」の旗印を掲げ、河越夜戦をはじめとする数々の合戦で鬼神の如き武勇を示し、後北条氏随一の猛将としてその名を轟かせた 5 。結果として、玉縄北条氏の歴史は、その三代目である綱成の輝かしい功績から語られることが多く、二代目の為昌は、偉大な後継者への「つなぎ」役として、あるいはその名声の陰に隠れた存在として見過ごされがちであった 7 。
しかし、この通説的な為昌像は、人物の一側面に過ぎない。近年の研究、特に一次史料の丹念な再検討を通じて、彼の生涯には数多くの謎と、従来の見方を覆す可能性を秘めた論点が浮かび上がってきた。その出自、北条一門における真の位置づけ、そして綱成との関係性など、基本的な事柄においてすら、重大な問いが投げかけられている。
本報告書は、北条為昌という一人の武将の生涯を徹底的に再検証することを目的とする。それは単に歴史の片隅に追いやられた人物の復権を試みるものではない。為昌の実像に迫ることは、氏綱から氏康へと至る後北条氏の権力移行期の国家戦略、一門衆の形成と機能、そして危機管理体制といった、組織としての後北条氏の特質を解明する上で不可欠な作業である。通説の「夭折した貴公子」という静的なイメージを解体し、後北条氏の東方戦略を一身に担った「要石」としての動的な役割を明らかにすること。そこに、本報告書の最大の意義は存する。
北条為昌を理解する上で、まず対峙しなければならないのが、彼の出自という根本的な問題である。通説として広く受け入れられてきた「氏綱三男説」と、それを根底から覆す「遠江福島氏出自説」。この二つの説を比較検討することは、為昌個人のみならず、後北条氏の人材登用戦略を理解する鍵となる。
従来、最も広く知られてきた説は、為昌を永正17年(1520年)生まれの北条氏綱の三男(あるいは次男)とするものである 1 。この説に従えば、為昌は後北条氏三代当主・氏康の弟にあたり、血筋の上でも紛れもない北条宗家の一員ということになる。彼の早すぎる死は天文11年(1542年)、享年23(満22歳)であったとされる 2 。
この説の主な根拠は、『北条家過去帳』などの後代に編纂された系譜資料である 9 。戦国大名家が、宗家の子弟に分家を創設させて領国支配の支柱とするのは一般的な手法であり、この説は後北条氏の家門経営を分かりやすく説明する。すなわち、氏綱が弟の氏時に玉縄城を与え、その死後は自らの子である為昌に継承させたという、極めて自然な一門支配の形態として描かれるのである 10 。
しかし、この通説には、同時代の一次史料と照らし合わせた際に看過しがたい複数の矛盾点が存在する。それらの矛盾を合理的に説明するものとして、近年、為昌が遠江国(現在の静岡県西部)の国人・福島氏の出身であり、氏綱の養子として北条一門に迎え入れられたとする新説が提唱されている 9 。この説の論拠は多岐にわたる。
第一に、 諱(いみな)の特異性 である。後北条氏の宗家直系の男子は、初代・宗瑞(伊勢盛時)の「盛」や「時」を除けば、二代・氏綱以降、「氏」の字を諱の上または下に用いるのが通例(通字)であった。氏康、氏政、氏直といった歴代当主はもちろん、氏康の弟とされる氏尭(うじたか)、氏康の子である氏照(うじてる)や氏規(うじのり)もこの慣例に従っている。その中で、為昌の「為昌」という名は、「氏」の字を全く含んでおらず、極めて異例である 9 。新説では、この「為」の字は、かつて北条早雲と交流があった遠江福島氏の一族(福島範為など)が用いた字に由来し、「昌」の字は後見人であった大道寺盛昌から偏諱(へんき)として与えられたものと推測する 9 。
第二に、 活動年齢の問題 である。通説に従うと、為昌が初めて朱印状を発給した享禄5年(1532年)には、彼はわずか12歳であったことになる 1 。さらに、鶴岡八幡宮の再建事業という国家的な大事業で惣奉行の一人として辣腕を振るい、安房里見氏との軍事紛争で水軍を指揮するなど、その活動は少年が行うにはあまりにも高度で責任が重い 9 。これに対し新説では、為昌の生年を明応6年(1497年)頃と推定する 9 。この場合、彼が朱印状を発給したのは35歳頃となり、壮年の経験豊富な武将としてこれらの活動に従事したと考える方が、はるかに合理的である。
第三に、 同時代史料『快元僧都記』の記述 である。『快元僧都記』は、鶴岡八幡宮の僧・快元が天文元年(1532年)から11年(1542年)までを記録した貴重な日記であり、為昌も頻繁に登場する 11 。注目すべきは、為昌の呼称の変化である。当初、「為昌彦九郎殿」などと記されていたものが、天文4年(1535年)頃を境に「北条」の姓を冠して呼ばれるようになったり、氏康と並記されたりするなど、明確に北条一門として扱われるようになる 9 。これは、この時期に為昌が氏綱の養子となり、正式に「御一家衆」として迎え入れられたことを示唆している。
第四に、 公家・冷泉為和(れいぜい ためかず)の記録 である。天文5年(1536年)、駿河から小田原を訪れた冷泉為和は、その日記『為和集』に「本城において、彦九郎為昌興行当座」と記し、為昌が和歌の会を主催したことを記録している 9 。京都からの高名な文化人を招いて歌会を催すという大役を、通説の年齢である16歳の少年が務めたとは考えにくい。新説の年齢(40歳頃)であれば、相応の教養と地位を備えた武将として、この役割を果たすことは自然である。
これら二つの説を比較検討すると、一次史料との整合性の観点から、新説である「福島氏出自・養子説」に強い説得力があることがわかる。この説が示唆する歴史的意義は大きい。それは、後北条氏の極めてプラグマティックな人材登用戦略である。
氏綱の時代、後北条氏は領土を急拡大させたが、それに伴い、広大な領域と複数の軍団を統括する能力と忠誠心を兼ね備えた一門衆が慢性的に不足していた 9 。特に成人男性の親族は、弟の幻庵宗哲を除けば、ほとんどいなかった。この人材不足という国家的課題に対し、氏綱が打った手こそ、外部からの有力武将の戦略的登用であったと考えられる。
為昌は、もともと今川氏の勢力圏にいた福島氏の一族でありながら、何らかの理由で後北条氏を頼った。氏綱は彼を単なる客将としてではなく、「養子」という形で一門の最高位である「御一家衆」に組み込むことで、その能力を最大限に活用しようとした。これは、為昌という経験豊富な指揮官を得るだけでなく、彼が連れてきたであろう有能な息子・綱成をも同時に手に入れるという、一挙両得の妙手であった。為昌の出自をめぐる謎は、単なる家系図の問題に留まらず、後北条氏が血縁の枠を超えて、いかにして強固な支配体制を築き上げたかを示す、重要な事例なのである。
為昌の出自がどうであれ、彼が後北条氏の支配体制において極めて重要な地位を占めていたことは疑いようがない。その権力の中核にあったのが、玉縄城主としての立場である。彼の統治と軍事活動を追うことで、後北条氏の支城体制と「御一家衆」の具体的な役割が明らかになる。
玉縄城は、初代・北条早雲が三浦半島攻略の拠点として永正9年(1512年)に築城した、後北条氏にとって原点とも言うべき重要な城である 13 。初代城主は早雲の子(氏綱の弟)である北条氏時であったが、享禄4年(1531年)に氏時が死去すると、為昌がその後を継いだ 2 。
通説では当時12歳の為昌を補佐するため、宿老の大道寺盛昌や、後に義理の兄弟(あるいは養子)となる北条綱成が後見人として付けられたとされる 1 。為昌が支配した領域は「玉縄領」と称され、相模国東部から武蔵国久良岐郡(現在の横浜市南部)、さらには三浦半島にまで及ぶ広大なものであった 2 。
為昌の領国経営における手腕は、彼が発給した朱印状からも窺えるが、その最も顕著な実績は、鶴岡八幡宮の再建事業における役割である。大永6年(1526年)の里見氏との合戦で焼失した社殿の再建は、鎌倉武士の守護神を復興させるという、後北条氏の関東支配の正統性を示すための国家的な大事業であった 18 。為昌は、この事業の惣奉行の一人として、天文元年(1532年)から始まる十数年間の工事を実質的に指揮した 19 。『快元僧都記』には、為昌が職人たちを督励し、資材の調達に奔走する姿が詳細に記録されており、彼が単なる名目上の城主ではなく、高度な行政能力を備えた統治者であったことを物語っている 11 。
為昌の権限は、玉縄領だけに留まらなかった。彼は同時に、武蔵国の川越城(埼玉県川越市)、小机城(神奈川県横浜市)、そして三浦半島先端の三崎城(神奈川県三浦市)の城主、あるいは城代を兼務していた 1 。この事実こそ、為昌が後北条氏の戦略上、いかに重要な存在であったかを如実に示している。
これらの城の配置を見れば、その戦略的意図は明らかである。玉縄城は、鎌倉の支配と、東京湾を挟んで対峙する安房里見氏への備えの拠点であった 13 。小机城は、武蔵国中央部を押さえる要衝。そして川越城は、北関東の扇谷・山内両上杉氏に対する最前線基地であった。さらに三崎城は、後北条水軍の根拠地の一つである。
これら東方及び北方戦線の最重要拠点をすべて一人の人物の管轄下に置いたことは、氏綱・氏康の為昌に対する絶大な信頼を物語る。彼は単なる一介の支城主ではなく、後北条氏の東方方面軍司令官とも言うべき役割を担っていた。その権能は、次世代において氏康の子である北条氏照(滝山城・八王子城主)や氏邦(はちがた城主)が担った方面軍司令官の役割の先駆けと見なすことができる 7 。為昌が、自らの軍団を組織し、独立した軍事行動を展開する権限を持つ最高位の一門衆、「御一家衆」として遇されていたことは、この広範な支配領域からも裏付けられる 8 。
為昌が単なる行政官ではなく、有能な軍事司令官であったことを示す記録も残されている。天文2年(1533年)、房総半島で里見氏の内紛(天文の内訌)が勃発した際、為昌は里見義堯を支援するため、水軍を派遣している 2 。これは、彼が玉縄・三崎を拠点とする後北条水軍の指揮権を掌握し、対岸の複雑な政治情勢に積極的に介入するだけの戦略眼と実行力を持っていたことを示している。後北条氏にとって、房総半島を安定させ、背後の脅威を減らすことは喫緊の課題であり、為昌はその最前線で外交と軍事を一体的に運用する役割を担っていたのである。
為昌の生涯を語る上で、北条綱成との関係は避けて通れない。通説の「養父と養子」という関係は、後世の玉縄北条氏の系譜を分かりやすく説明するが、ここにもまた、近年の研究によって新たな光が当てられている。
多くの軍記物や後代の系譜では、為昌が子に恵まれなかったため、今川家臣・福島正成の子である綱成を養子に迎え、綱成がその家督を継いだとされている 1 。綱成は、父・正成が今川家の内紛である花倉の乱で敗れた後に後北条氏を頼り、その類稀な才能を氏綱に見出されたとされる 25 。
しかし、この説には大きな課題がある。それは、綱成が為昌よりも年長であったという事実である 1 。綱成は永正12年(1515年)生まれ、為昌は通説によれば永正17年(1520年)生まれである。年下の者が年長者を養子にすることは、戦国時代においても極めて異例であり、この一点だけでも単純な養子縁組説には疑問符が付く。
この矛盾を解消するのが、黒田基樹氏らの研究によって提唱された「義兄弟説」である 8 。この説によれば、綱成は為昌の養子ではなく、氏綱の娘(大頂院殿)を妻に迎えた、氏綱の娘婿であった 8 。つまり、為昌にとっては義理の兄にあたる。
この関係性で捉え直すと、多くの事象が合理的に説明できる。氏綱の娘婿として正式に北条一門(一門衆)に迎え入れられた綱成は、その立場と能力から、若き義弟である為昌の後見役・補佐役を務めるにふさわしい人物であった。為昌の死後、綱成が玉縄城主を継いだのも、養子としての相続ではなく、一門の有力者として、当主氏康の判断によって後任に指名されたと考える方が自然である。
為昌と綱成の関係性の実態を最も雄弁に物語るのは、天文11年(1542年)の為昌死後の遺領の配分である。もし綱成が為昌の唯一の養子であり、正統な後継者であったならば、為昌が支配していた玉縄・川越・小机・三崎にまたがる広大な領地と権限を、すべて相続するのが自然な流れであろう。
しかし、現実はそうではなかった。為昌の遺領は分割され、綱成は中核である玉縄領のみを継承した 8 。一方、戦略的要地であり価値の高い川越領は、宿老の大道寺盛昌が城代として引き継いだのである 18 。
この遺領分割は、綱成が単純な相続者ではなかったことを明確に示している。為昌の急死という予期せぬ事態に直面した新当主・氏康は、その権力基盤を再編する必要に迫られた。その結果、為昌が一人で担っていた巨大な権限を、実績と信頼のある複数の人物、すなわち義弟である綱成と、父の代からの宿老である大道寺盛昌に、戦略的に再配分したのである。綱成の玉縄城主就任は、自動的な家督相続ではなく、氏康による新たな統治体制構築の一環としての戦略的な任命であった。後世に語られる「養子縁組」の物語は、綱成から始まる玉縄北条氏の家系の正統性を強調し、継承の経緯を簡潔に説明するために、後から作られた可能性が高い。
為昌の生涯は、政治と軍事がその中心であったが、断片的な史料からは、彼の私生活や文化的な側面も垣間見える。それらは、彼という人物に人間的な深みを与えると同時に、後北条氏一門の結束の固さをも示している。
為昌の正室が誰であったかは、現在に至るまで不明である。かつては、綱成の母である養勝院が為昌の妻(あるいは側室)とされたこともあったが、彼女が綱成の実母であることが確認されたため、この説は否定されている 1 。
一方で、為昌には実の娘がいた可能性が極めて高い。その人物は、後世の系譜では氏康の娘として記録されている「種徳寺殿(しゅとくじでん)」である 28 。彼女は後北条氏の家臣・小笠原康広(おがさわら やすひろ)に嫁いだ 30 。
彼女が為昌の実娘であると推定される最大の根拠は、寺院の歴史にある。為昌の菩提寺は小田原に創建された本光寺であった 1 。種徳寺殿は、嫁いだ後、この父の菩提寺を江戸の赤坂に移し、「種徳寺」と改名して再興したのである 1 。夫の一族でもなく、養父である氏康のためでもなく、伯父にあたる為昌の菩提を弔うために寺を移転・再興するという行為は、実の父娘という強い絆がなければ考えにくい、深い孝心の表れである。
この事実は、二つの重要な側面を浮き彫りにする。一つは、為昌の血筋が、娘を通じて後世に伝えられていたこと。もう一つは、後北条氏一門の強い結束力である。氏康は、若くして亡くなった弟の遺児(姪)を自らの養女として引き取り、家臣団の有力者に嫁がせることで、その将来を保障した。親兄弟や一族間で骨肉の争いが絶えなかった戦国時代において、このような一門内の相互扶助の精神は、後北条氏の安定した支配を支える大きな要因であったと言えよう 31 。
為昌が単なる武辺一徹の武将ではなかったことは、第一章でも触れた『為和集』の記述から明らかである 9 。天文5年(1536年)、小田原城において、当代一流の文化人である冷泉為和を招き、自ら歌会を主催したという事実は、彼が和歌に通じた相応の教養人であったことを示唆している。これは、武力だけでなく、領国経営や文化振興にも力を注いだ後北条氏の家風を体現するものであり、為昌が「御一家衆」として、文武両面にわたる高い資質を求められていたことを物語っている。
本報告書を通じて行ってきた北条為昌の再検証は、彼が通説で語られるような「夭折した悲劇の貴公子」という一面的なイメージに収まる人物ではないことを明らかにした。出自の問題から、彼が北条氏綱の実子であったか、あるいは戦略的に登用された養子であったかについては、なお議論の余地がある。しかし、いずれの説に立とうとも、彼が氏綱・氏康の時代において、後北条氏の支配体制の根幹を担う、極めて重要な役割を果たしたことは疑いようがない。
玉縄城を拠点として広大な「玉縄領」を統治し、同時に川越・小机・三崎といった戦略拠点を束ねることで、後北条氏の東方・北方戦線を一身に担った方面軍司令官。鶴岡八幡宮の再建事業を指揮する優れた行政官。そして、和歌の会を催す教養人。これらが、断片的な史料から浮かび上がる為昌の多面的な実像である。彼は、次世代の氏照や氏邦に先駆けて、後北条氏の方面軍団制の原型を築いた人物と評価できる。
この観点から見れば、天文11年(1542年)の為昌の死は、単なる一個人の死に留まらない、後北条氏にとっての重大な戦略的危機であった。父・氏綱が没してわずか一年、家督を継いだばかりの若き当主・氏康は、自らの右腕とも言うべき弟(あるいは義兄)であり、東方戦線の「要石」であった為昌を失ったのである。この権力の空白は、一歩間違えれば、里見氏や上杉氏といった外敵につけ入る隙を与えかねない、深刻な事態であった。
しかし、氏康はこの危機を見事に乗り越えた。為昌の遺領と権限を、義弟の北条綱成と宿老の大道寺盛昌に巧みに再配分することで、指揮系統の混乱を最小限に食い止め、支配体制を迅速に再構築した。この危機管理能力の高さこそ、氏康が名将と謳われる所以であり、後北条氏という組織の強靭さを示すものであった。
結論として、北条為昌は、その短い生涯にもかかわらず、後北条氏の歴史において決定的な役割を果たした戦略的要人として再評価されるべきである。彼の存在は、氏綱時代の拡大戦略を支え、彼の死は、氏康時代の新たな支配体制への移行を促す契機となった。北条為昌の生涯を深く掘り下げることは、後北条氏の国家経営の巧みさと、危機を乗り越え成長していく組織のダイナミズムを理解するための、不可欠な鍵なのである。
項目 |
通説(氏綱三男説) |
新説(福島氏出自・養子説) |
生年(推定) |
永正17年(1520年) |
明応6年(1497年)頃 |
氏綱との関係 |
実の三男 |
養子 |
綱成との関係 |
養父(為昌が年下) |
義兄(為昌が義弟) |
享年 |
23歳(満22歳) |
46歳(満45歳)頃 |
初朱印状発給時の年齢 |
12歳 |
35歳頃 |
主な論拠 |
後代の系譜、『北条家過去帳』など |
『快元僧都記』、諱の特異性、活動年齢の合理性、『為和集』の記述など |
西暦(和暦) |
出来事 |
為昌の年齢(通説) |
為昌の年齢(新説) |
関連史料・備考 |
1497年(明応6年) |
(新説)為昌、福島九郎として生まれる。 |
- |
1歳 |
9 |
1515年(永正12年) |
北条氏康、北条綱成が生まれる。 |
- |
19歳 |
27 |
1520年(永正17年) |
(通説)為昌、氏綱の三男として生まれる。 |
1歳 |
24歳 |
1 |
1531年(享禄4年) |
叔父・北条氏時が死去。為昌が玉縄城主を継承。 |
12歳 |
35歳 |
2 |
1532年(享禄5年) |
為昌、初の朱印状を発給。鶴岡八幡宮の再建事業が始まる。 |
12歳 |
35歳 |
1 |
1533年(天文2年) |
里見氏の内紛に介入し、水軍を派遣。 |
14歳 |
37歳 |
2 |
1535年(天文4年) |
(新説)為昌、氏綱の養子となり正式に北条一門となる。 |
16歳 |
39歳 |
9 |
1536年(天文5年) |
冷泉為和を招き、小田原城で歌会を主催。 |
17歳 |
40歳 |
9 |
1539年(天文8年)頃 |
『快元僧都記』などから為昌の名が見えなくなり始める。病に臥したか。 |
20歳 |
43歳 |
1 |
1541年(天文10年) |
父(養父)・北条氏綱が死去。兄(義兄)・氏康が家督を継承。 |
22歳 |
45歳 |
2 |
1542年(天文11年) |
5月3日、為昌が死去。 |
23歳 |
46歳 |
1 |
(為昌死後) |
娘・種徳寺殿が氏康の養女となる。 |
- |
- |
28 |
(為昌死後) |
綱成が玉縄城を、大道寺盛昌が川越城を継承。 |
- |
- |
8 |