北郷三久(ほんごう みつひさ)は、戦国時代の末期から江戸時代初期という、日本の歴史が大きく転換する激動の時代を生きた武将である。島津氏の有力な一門である北郷氏に生まれながら、彼は家督を継ぐ立場にはなかった。しかし、一族を襲う相次ぐ悲劇と時代の荒波は、彼を歴史の表舞台へと押し上げることになる。豊臣政権による天下統一、朝鮮半島への出兵、そして徳川幕府の成立という巨大な権力構造の変化の中で、三久は一門の存亡を背負い、武将として、また政治家として類稀なる才覚を発揮した。
彼の生涯は、失われた故地・都城(みやこのじょう)の回復という一族の悲願を成就させるための執念の物語であり、同時に、自らの功績をもって新たな家「平佐北郷家」を創設し、その初代当主となることで自らの道を切り拓いた、一人の男の自立の物語でもある。本報告書は、北郷三久の出自、武功、政治的役割、そして彼が後世に残した遺産を多角的に検証することで、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯を追うことは、戦国大名島津氏が近世大名へと変貌を遂げる過程の力学と、南九州の社会構造の変遷を理解する上で、重要な視座を提供するであろう。
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
1573年(天正元年) |
1歳 |
3月10日、日向国都城にて北郷時久の三男として誕生。幼名は堯千代、鶴丸 1 。 |
1586年(天正14年) |
13歳 |
島津義弘の軍に属し、豊後侵攻で初陣を飾る 2 。 |
1587年(天正15年) |
15歳 |
豊臣秀吉に島津氏が降伏。京都へ上り、秀吉に勤仕。島津義久の上洛に随行 2 。 |
1590年(天正18年) |
18歳 |
島津久保に従い、小田原征伐に参陣 2 。 |
1594年(文禄3年) |
22歳 |
兄で北郷氏当主の忠虎が朝鮮で病死。島津義久・義弘の命により、幼い甥・長千代丸の後見人として家督代に就任 1 。 |
1595年(文禄4年) |
23歳 |
太閤検地に伴う所領替えで、北郷氏は都城から祁答院へ転封。三久は平佐へ移る。都城は伊集院忠棟の所領となる 1 。 |
1598年(慶長3年) |
26歳 |
慶長の役における泗川の戦いで奮戦。三久勢だけで首級4,146を挙げる大功を立てる。この戦いで島津忠恒に命を救われる 1 。 |
1599年(慶長4年) |
27歳 |
島津忠恒が伊集院忠棟を斬殺したことに端を発し、庄内の乱が勃発。若き当主・忠能を補佐し、実質的な総大将として北郷勢を率いて奮戦 1 。 |
1600年(慶長5年) |
28歳 |
庄内の乱が終結。伊集院氏は移封され、北郷氏は悲願の都城復帰を果たす。三久は都城に戻らず、平佐北郷家を創設 1 。 |
1615年(元和元年) |
43歳 |
大坂夏の陣に出陣。この年、「加賀守」と改める 2 。 |
1620年(元和6年) |
48歳 |
4月19日、平佐にて死去。法名は「義山忠孝庵主」。家臣2名が殉死した 2 。 |
北郷三久の生涯を理解する上で、彼の個人的な資質のみならず、その出自の複雑さと、彼が属した北郷一門の歴史的背景を把握することは不可欠である。彼は島津氏の有力な支族に生まれながらも、その血筋は島津宗家と異例とも言える近しい関係にあり、このことが彼の運命に大きな影響を与えた。
北郷三久は、天正元年(1573年)3月10日、日向国都城において、北郷氏第10代当主・北郷時久の三男として生を受けた 1 。幼名を堯千代(ぎょうちよ)、または鶴丸といい、元服後は宗次郎、作左衛門と称した 1 。
彼の出自を特徴づけるのは、その複雑な家族構成、とりわけ母の経歴である。三久の母は、同じく北郷一門の北郷忠孝の娘であった。彼女は当初、島津四兄弟の一人で勇将として名高い島津義弘の先妻であり、娘の御屋地(おやじ)をもうけた後、何らかの事情で離縁となった。その後、彼女は従兄弟にあたる北郷時久の後妻として嫁ぎ、三久を産んだのである 1 。この結果、北郷三久と、島津義弘の娘である御屋地は、父を異にする姉弟という極めて特殊な関係性で結ばれることになった。この血縁は、単なる家系図上の情報に留まらず、三久が島津宗家の最重要人物である義弘と近しい関係を持つことを意味し、彼の生涯における強力な政治的資産となった。
三久は三男であり、本来であれば家督を継承する立場にはなかった。彼には長兄・相久と次兄・忠虎がいた 1 。しかし、長兄の相久は父・時久との不和の末に廃嫡され、天正9年(1581年)に自刃するという悲劇的な最期を遂げた 7 。家督は次兄の忠虎が継いで北郷氏第11代当主となったが、彼の運命もまた、三久の人生を大きく変えることになる。三男という立場は、通常であれば一門の将来を左右する重責から離れた場所にあるはずだった。しかし、兄たちの相次ぐ悲劇は、期せずして三久に一族の命運を託すという宿命を背負わせるのである。
北郷氏の歴史は、南北朝時代にまで遡る。島津宗家第4代当主・島津忠宗の六男であった資忠が、北朝方としての軍功により足利氏から日向国北郷(現在の宮崎県都城市山田町周辺)の地を与えられ、その郷名を取って北郷氏を称したのが始まりである 4 。以来、北郷氏は島津氏の有力な庶流として、日向国庄内、すなわち都城盆地一帯を本拠地としてきた。
2代当主の義久が天授元年(1375年)に都之城を築いてからは、二百数十年間にわたり、この地は北郷氏の揺るぎない支配拠点となった 4 。戦国時代に入ると、8代当主・忠相(ただすけ)という名将が登場し、周辺の伊東氏や北原氏といった勢力と争いながら勢力を拡大、都城盆地一帯の支配を確立した 4 。さらに、9代当主の忠親が日向南部に勢力を持つ豊州島津家の家督を継いだことで、北郷一門の影響力は頂点に達した 4 。この時期、島津本家が有力者7名で交わした誓約書に、北郷氏から忠相・忠親・時久(三久の父)の3名が名を連ねていた事実は、北郷氏が島津家中でいかに重要な地位を占めていたかを物語っている 11 。
このように、北郷三久が生まれた北郷家は、単なる島津氏の家臣ではなく、長年にわたり都城の地を治め、時には本家の動向すら左右するほどの力と、自らの歴史に対する強い矜持を持った一門だったのである。
人物名 |
関係性 |
概要 |
北郷三久 |
本人 |
平佐北郷家初代。本報告書の主題。 |
北郷時久 |
父 |
北郷氏10代当主。北郷氏の最大版図を築く 4 。 |
北郷忠孝の娘 |
母 |
島津義弘の元妻。後に時久の後妻となり三久を産む 1 。 |
北郷忠虎 |
次兄 |
北郷氏11代当主。朝鮮出兵中に病死 1 。 |
北郷相久 |
長兄 |
父と不和になり廃嫡、自刃 7 。 |
御屋地 |
異父姉 |
母と島津義弘の間に生まれた娘。三久とは極めて近しい関係 1 。 |
北郷忠能 |
甥 |
兄・忠虎の子。北郷氏12代当主。三久が後見人を務める 1 。 |
島津義弘 |
義理の父 |
母の元夫。島津四兄弟の次男で猛将。三久の強力な後ろ盾 1 。 |
島津忠恒(家久) |
主君 |
義弘の子。初代薩摩藩主。泗川の戦いで三久の命を救い、強い信頼関係で結ばれる 2 。 |
伊集院忠棟 |
舅 / 政敵 |
薩摩藩家老。三久の最初の正室の父。後に島津忠恒に殺害される 1 。 |
伊集院忠真 |
宿敵 |
忠棟の子。庄内の乱で三久と敵対 5 。 |
島津歳久の娘 |
妻 |
島津四兄弟の三男・歳久の娘。三久の継室となるが後に離縁 14 。 |
上井覚兼の娘 |
妻 |
薩摩藩の重臣・上井覚兼の娘。三久の継室で、嫡男・久加の母 3 。 |
北郷久加 |
嫡男 |
平佐北郷家2代当主。後に薩摩藩家老となる 3 。 |
北郷三久が、単なる一門の三男から島津家中で武名を轟かせる驍将へと変貌を遂げたのは、豊臣秀吉による天下統一事業と、それに続く文禄・慶長の役という未曾有の対外戦争の渦中においてであった。これらの戦いは、彼に武将としての経験を積ませると同時に、一門の命運を背負うという重責を担わせ、その能力を覚醒させる決定的な舞台となった。
三久の軍歴は、天正14年(1586年)、弱冠13歳の時に始まる。島津氏が九州統一の総仕上げとして敢行した豊後大友氏攻め、いわゆる「豊薩合戦」において、叔父にあたる島津義弘が率いる軍勢に加わり、初陣を飾った 2 。この戦いで若き三久は、戦国の世の厳しさを肌で感じたであろう。
しかし、島津氏の栄光は長くは続かなかった。翌天正15年(1587年)、圧倒的な物量で九州に侵攻した豊臣秀吉の前に、島津氏は降伏を余儀なくされる。この歴史的な転換点において、三久は15歳で京都へ上り、天下人である秀吉への勤仕を経験した。同年、当主の島津義久が上洛した際にも随行しており、中央の政治情勢と豊臣政権の強大さを直接見聞する機会を得た 2 。さらに天正18年(1590年)には、島津義弘の嫡男・島津久保に従い、秀吉の天下統一の総仕上げである小田原征伐にも参陣している 2 。これらの経験は、彼に地方の論理だけでは通用しない、新たな時代の到来を痛感させたに違いない。
三久の運命が大きく転回したのは、文禄・慶長の役の最中であった。文禄3年(1594年)、北郷氏の当主であった次兄・忠虎が、朝鮮の巨済島にて病に倒れ、39歳の若さで陣没した 1 。父の時久は既に高齢であり、忠虎の嫡男・長千代丸(後の忠能)はわずか5歳という幼さであった 3 。一門の危機に際し、島津宗家の義久と義弘は連署の命をもって、三久を「長千代丸が17歳になるまで」という期限付きで北郷氏の家督代に任命した 1 。正式な当主ではなく、あくまで甥が成人するまでの「代理」という不安定な立場ではあったが、この瞬間から三久は北郷一門の全権を担うことになった。この重圧こそが、彼を飛躍的に成長させる土壌となったのである。
家督代就任の翌年、文禄4年(1595年)、北郷氏にさらなる衝撃が走る。豊臣秀吉の命による太閤検地とそれに伴う所領替えによって、北郷氏は始祖・資忠以来、二百数十年にわたり支配してきた故地・都城を召し上げられ、薩摩国祁答院へと転封させられたのである 1 。三久自身も三股から平佐へと移された 1 。そして、先祖伝来の地である都城は、島津家の家老でありながら秀吉に直接取り入って権勢を振るっていた伊集院忠棟に与えられた 4 。この屈辱的な処遇は、北郷一族の心に深い無念と伊集院氏への遺恨を刻み込み、後の「庄内の乱」へと繋がる直接的な伏線となった。
このような苦境の中、三久は家督代として一門を率い、慶長の役で朝鮮半島を転戦する。彼の武名は、慶長3年(1598年)10月の泗川(サチョン)の戦いで不動のものとなる。この戦いで島津義弘・忠恒父子が率いる約7,000の島津軍は、数万とも20万ともいわれる明・朝鮮連合軍を迎え撃った 15 。三久はこの戦闘で獅子奮迅の働きを見せ、『泗川表討捕首注文』によれば、彼が率いた部隊だけで敵兵の首級4,146を挙げたと記録されている 1 。この功績は島津軍の中でも突出しており、戦後、高千石の加増という形で報いられた 2 。
この泗川の戦いは、三久にとって二重の意味で決定的な転機となった。一つは、具体的な数字で示される圧倒的な「武功」であり、これにより彼の武将としての名声は島津家中に轟き、後の発言力の基盤が築かれた。そしてもう一つが、島津宗家の後継者である島津忠恒との間に生まれた「個人的な絆」である。『本藩人物誌』などによれば、泗川の戦いの激戦の最中、三久は明の武将と馬上でもみ合い、両馬の間から落下して絶体絶命の危機に陥った。その窮地を救ったのが、他ならぬ忠恒であった。忠恒は馬を駆け寄せて敵を討ち果たし、三久は九死に一生を得たのである 2 。この出来事は、二人の間に単なる主従関係を超えた強固な信頼関係を育んだ。この忠恒からの「恩」は、後の庄内の乱において三久が忠恒の下で戦う際の強い動機となり、さらには乱後に彼が「平佐北郷家」という別家を立てることを宗家から公認される上で、計り知れないほど重要な後ろ盾となったのである。
朝鮮半島での激戦から帰国した島津家中を待ち受けていたのは、藩の存亡を揺るがす最大の内乱、「庄内の乱」であった。この争乱は、島津宗家と重臣伊集院氏との長年にわたる確執が爆発したものであったが、北郷一族にとっては、失われた故地・都城を奪還するための千載一遇の好機でもあった。北郷三久は、この乱において中心的な役割を担い、一族の悲願成就のためにその持てる全ての能力を発揮することになる。
慶長4年(1599年)閏3月、京都伏見の島津屋敷で衝撃的な事件が起こる。島津宗家の後継者である島津忠恒が、父・義弘と対立し、また豊臣政権と直結することで絶大な権勢を誇っていた家老・伊集院忠棟を自らの手で斬殺したのである 5 。この報が日向に届くと、忠棟の嫡男・伊集院忠真は、父の仇を討つべく、本拠地である都城で挙兵した。忠真は庄内地方の諸城に一族や家臣を配置して籠城し、島津宗家に対し徹底抗戦の構えを見せた 5 。これが、島津家中最大の内乱と称される「庄内の乱」の始まりである。
この事態は、祁答院の地で雌伏していた北郷一族にとって、まさに天佑であった。かつて自分たちの本拠地であった都城を伊集院氏から奪還するという明確な目標が、一族を強力に結束させた。旧領回復という大義名分を掲げた北郷氏の士気は極めて高く、この内乱に一族の命運を賭して臨むことになった 3 。
乱の鎮圧のため、忠恒は自ら大軍を率いて庄内へ進軍した。この鎮圧軍の中核を担ったのが、北郷氏であった。この時、三久は二重のリーダーシップを発揮している。一つは、元服して北郷忠能と名乗ったばかりの10歳の甥を名目上の当主として出陣させ、その権威を内外に示す「後見人」としての役割である 3 。そしてもう一つが、朝鮮出兵で培った経験を活かし、軍勢を実質的に指揮する「総大将」としての役割であった。名目上の主君を立てつつ、実権を握って一族を勝利に導くという彼の巧みな指導力は、単なる猛将ではない、政治的成熟を遂げた武将としての姿を浮き彫りにする。
北郷勢は、鎮圧軍の先鋒として山田城や恒吉城などの攻略戦で目覚ましい活躍を見せた 5 。その奮戦ぶりは、総大将である忠恒から感状を送られるほどであった 1 。軍記物である『庄内軍記』にも、三久が士卒を鼓舞し、その士気を高めたことが記されており、彼が精神的支柱としても機能していたことがうかがえる 5 。
戦いは、伊集院方の頑強な抵抗により膠着状態に陥ったが、最終的には徳川家康の仲介によって和睦が成立する。慶長5年(1600年)3月、伊集院忠真は降伏し、大隅国頴娃(えい)へと移封された。そして、遂に北郷氏は、5年ぶりに故地・都城への復帰という悲願を達成したのである 1 。
乱が終結し、北郷本家は若き当主・忠能のもとで都城へ帰還した。しかし、この乱における最大の功労者であるはずの北郷三久は、都城には戻らなかった。彼はそのまま平佐の地を所領とし、新たに「平佐北郷家」を創設したのである 1 。これは、北郷氏が都城の「本家」と平佐の「分家」に事実上、分割されたことを意味する。一見不可解にも見えるこの決断の背景には、島津宗家の思惑と三久自身の深謀遠慮が複雑に絡み合っていた。
この決断を多角的に分析すると、三つの要因が浮かび上がる。
第一に、島津宗家の政治的計算である。庄内の乱を通じて、北郷氏の強固な結束力と高い戦闘能力は改めて証明された。宗家、特に忠恒にとって、強大になりすぎた北郷氏の力を分割し、一門内のパワーバランスを巧みにコントロールする必要があった。実力者である三久を平佐に独立させることで、都城の本家を牽制しつつ、両家をそれぞれ宗家に直結させるという、高度な統治術がそこにはあったと考えられる。
第二に、 三久自身の役割の完了 という側面である。彼の公式な立場は、あくまで「甥の忠能が17歳になるまでの家督代」であった 1 。乱が終結し、忠能が当主として都城に復帰した時点で、彼の代理としての役目は名実ともに終わった。もし彼が都城に戻れば、功労者ではあるものの、その立場は「当主の叔父」という名誉職的なものに甘んじることになったであろう。
第三に、そして最も重要なのが、 三久自身の創業者としての野心 である。平佐に留まり、新たな家を興すという選択は、他者の後見人としてキャリアを終えるのではなく、自らが「初代当主」となる道を主体的に選んだ結果に他ならない 3 。泗川の戦いと庄内の乱で築き上げた自身の武功と、忠恒との強固な信頼関係を背景に、宗家の公認を得て独立した家を創設することは、彼の功績と自負に見合った最良の選択であった。
結論として、三久が都城に戻らなかったのは、単なる個人的な感情によるものではなく、島津宗家の権力分散の意図、家督代という役割の終了、そして彼自身の新たな家を興すという野心が複合的に絡み合った、極めて高度な政治的判断であったと分析できる。
庄内の乱を乗り越え、一族の悲願を成就させた北郷三久は、その後の人生を新たに創設した平佐北郷家の初代領主として歩む。彼の晩年は、単に戦の功労者としての日々ではなく、薩摩藩体制下における有力な私領主として、また一つの家の創始者として、その礎を固めるための重要な時期であった。
平佐北郷家の初代当主となった三久は、1万3500石余の所領を治めることとなった 2 。彼は平佐城を居城とし、この地で領地経営の基礎を築いた 2 。彼の役割は、平穏な領主生活に留まらなかった。元和元年(1615年)、徳川家と豊臣家の最終決戦である大坂夏の陣が勃発すると、三久は43歳にして島津家久(忠恒)に従い出陣、家臣260人を率いて参戦している 2 。この時、官名を「加賀守」と改めており、これは江戸幕府という新たな全国政権下においても、彼が島津家の一翼を担う重要な武将として認識されていたことを示している。
また、三久は信仰心と家族への想いが篤い人物でもあった。慶長元年(1596年)には、父・時久の菩提を弔うため、平佐に曹洞宗の寺院である長照山梁月寺を創建した 2 。さらに、かつて非業の死を遂げた兄・相久の霊を慰めるため、平佐に若宮八幡(後の兼喜神社)を創建しており、彼の行動の根底には、常に一族への深い情愛があったことがうかがえる 2 。
三久の婚姻関係は、彼の政治的立場を反映して複雑であった。最初の正室として、庄内の乱で敵対することになる伊集院忠棟の娘を迎えたが、これは乱の前に結ばれた政略的な縁であったと考えられる 1 。その後、薩摩藩の重臣である上井覚兼の娘を継室に迎え、この女性との間に嫡男・久加(ひさます)が誕生した 3 。さらに、島津四兄弟の一人・島津歳久の娘である花屋夫人も継室として迎えたが、後に不和となり離縁している 1 。これらの婚姻は、島津家中の有力者との結びつきを強化し、平佐北郷家の地位を安定させるための政略的な側面が強かったと見られる。
三久の死後、家督は嫡男の久加が継ぎ、平佐北郷家第2代当主となった 3 。久加は父の遺産をよく守り、後に薩摩藩の家老職を務めるなど、父が築いた家をさらに発展させた 3 。三久が創設した平佐北郷家は、その後も代々薩摩藩の要職を担う家臣を輩出し、幕末には第13代当主・北郷久信が西洋式の軍備導入や殖産興業を推進し、戊辰戦争では軍艦の艦長として活躍するなど、薩摩藩の近代化に大きく貢献した 2 。この事実は、三久が築いた基盤がいかに強固なものであったかを物語っている。
元和6年(1620年)4月19日、北郷三久は波乱に満ちた生涯を閉じた。享年48 1 。その法名は「義山忠孝庵主」という 2 。彼の死に際して、河野四郎左衛門と竹下次郎左衛門という二人の家臣が殉死しており、彼がいかに家臣から深く敬慕されていたかがわかる 2 。
墓所は、彼自身が創建した平佐の梁月寺跡に現存している 1 。特筆すべきは、その墓塔の形式と規模である。三久の墓は、高さ2.5メートルにも及ぶ壮大な石屋に納められた、重厚な五輪塔である 2 。島津一門の墓の多くが宝篋印塔という形式で造られているのに対し、この巨大な五輪塔はひときわ異彩を放っている 2 。
墓の形式は、故人の生前の地位や自己認識を雄弁に物語る。武家の墓として格式高い五輪塔、そしてその圧倒的な大きさは、三久が自らを単なる「島津宗家に従属する一門の長」という枠に収まる存在とは考えていなかったことを示唆する。これは、自らの武功と才覚で一代を築き上げた「独立した家の創始者」としての強い自負と矜持の表れであり、石に刻まれた最後の自己主張と解釈できる。彼の墓は、平佐北郷家初代としての威光と格式を後世に永く伝えるための、強力なシンボルとして建立されたのである。
北郷三久の生涯は、戦国末期の動乱から江戸初期の安定期へと移行する時代の縮図であった。彼は単に勇猛な武将であっただけでなく、一門の危機を乗り越える卓越した指導力、時代の変化を的確に読む政治的判断力、そして新たな家を創設する先見性を兼ね備えた、稀有な人物であった。
彼の歴史的役割は、中世以来の伝統を誇る島津氏の有力一門「北郷氏」と、近世薩摩藩体制下における「平佐北郷家」という新たな組織とを繋ぐ、重要な架け橋であった点にある。都城の北郷本家が、後に宗家からの養子相続が続き、最終的に島津姓に復して「都城島津家」となったのに対し、三久が創設した平佐北郷家は「北郷」の姓を幕末まで守り続けた 3 。これは、彼の家が、歴史ある「北郷」の名とアイデンティティを近世において継承する役割を担ったことを意味する。彼の遺産は、血脈や所領に留まらず、歴史そのものであったと言えよう。
北郷三久の人生はまた、戦国大名・島津氏が、その内部に多くの自律的な「私領」を抱えるという、全国的にも特異な統治構造を持つ近世大名へと移行していく過渡期の力学を象徴している。彼は、宗家の権力強化という大きな流れの中で、自らの功績を最大限に活用し、一門の存続と自家の創設という二つの目標を同時に達成した。
結論として、北郷三久は、三男という決して恵まれてはいない出自から、自らの武勇と才覚で運命を切り拓き、一族の悲願を成就させると同時に、その血脈を確固たる家の創設という形で後世に遺した。彼は、時代の転換期において、伝統の継承と新たな創造を見事に両立させた、南九州の歴史における特筆すべき人物として、高く評価されるべきである。