日本の戦国史を彩る数多の武将たちの物語において、その名は決して広く知られているわけではない。島津義久や義弘といった猛将たちの輝かしい武功の陰に、園田実明(そのだ さねあき)という一人の家臣の存在があった。彼は、歴史の表舞台で采配を振るうことはなかったかもしれない。しかし、主家の存亡という決定的な局面において、その忠義と的確な判断力によって歴史の流れを大きく変え、未来への道を切り拓いた人物である。
「島津家中興の祖」と称される島津貴久の命運を繋ぎ、ひいては近世薩摩藩の血脈的祖となったこの「影の功労者」の生涯は、断片的な逸話として語られることが多い。だが、彼の行動がなければ、後の島津家の栄光、そして九州を席巻するほどの飛躍は存在しなかった可能性すらある。本報告書は、この園田実明という人物に焦点を当て、彼の功績を当時の政治的文脈の中に正確に位置づけることで、その生涯が島津家の歴史に与えた決定的かつ長期的な影響を、現存する史料に基づき多角的に解き明かすことを目的とする。彼の物語は、一人の忠臣の行動が、いかにして一族の、そして一国の運命を左右しうるかを示す、稀有な実例と言えよう。
園田実明が生きた16世紀初頭の薩摩国は、深刻な政治的混乱の渦中にあった。鎌倉時代以来、南九州に君臨してきた守護・島津氏の宗家(奥州家)は、その権威を著しく失墜させていた。第12代当主・島津忠治、第13代当主・島津忠隆が相次いで早世し、若年の第14代当主・島津勝久が家督を継いだことで、宗家の統率力は著しく低下した 1 。
この権力の空白は、一族内に深刻な亀裂を生じさせる。伊作(いざく)を拠点とする分家の伊作家(後の相州家)を率いる島津忠良・貴久親子、そして出水(いずみ)を本拠とする有力庶家の薩州家(さっしゅうけ)当主・島津実久などが、それぞれ独自の勢力を拡大し、南九州はさながら群雄割拠の様相を呈していた 2 。もはや島津宗家の権威は名ばかりとなり、一族間の内紛は絶えることがなかった。
このような状況下、大永6年(1526年)、島津宗家の当主・勝久は、自らの脆弱な政治基盤を補強するため、当時最も勢力を有していた分家の一つ、相州家の島津忠良を頼り、その嫡男である貴久を養子に迎えて家督を譲るという決断を下す 1 。これにより、当時13歳の貴久は島津宗家第15代当主として、歴代当主の居城であった清水城に入った 1 。
しかし、この家督継承の背景には、より複雑な政治的力学が働いていた。近年の研究では、この養子縁組が勝久自身の積極的な意思によるものではなく、忠良の軍事力を背景に宗家の再建を図ろうとした家老(老中)たちの画策であった可能性が指摘されている 1 。貴久の立場は、家督を継承した当初から極めて不安定だったのである。
案の定、この継承劇は新たな火種を生んだ。薩州家の島津実久は、自らも宗家後継の座を狙っていたため、これに猛反発した 1 。さらに、勝久によって罷免されていた旧来の家老たちが実久と結託し、貴久の排除に動き出す。そして、事態を決定的にしたのは、養父である勝久自身の心変わりであった。実久の挙兵と旧家臣団の動きを見た勝久は、貴久との養子縁組を反故にし、自らが守護職に復帰することで権力を回復しようと画策したのである 1 。
こうして、清水城の戦いは単なる実久の反乱という単純な構図ではなく、島津宗家内部の権力闘争、新旧家臣団の対立、そして当主と前当主の反目といった複数の要因が絡み合った政争として勃発した。貴久は、養父にまで裏切られ、内外に敵を抱えるという、まさに四面楚歌の状況に追い込まれていた。この絶望的な状況こそが、次章で語られる運命の一夜の舞台となるのである。
大永7年(1527年)6月、政争はついに武力衝突へと発展する。貴久の実父・島津忠良が領内の反乱鎮圧のために鹿児島を離れた隙を突き、薩州家の島津実久は満を持して大軍を率い、貴久の居城である清水城を包囲した 1 。同時に、実久は前当主・勝久に守護職への復帰を働きかけ、貴久の政治的正統性を根底から覆しにかかった 1 。
軍事的に圧倒され、政治的にも完全に孤立した若き当主・貴久は、もはやこれまでと死を覚悟する。城を枕に討ち死にし、武士としての面目を保とうと、自刃の覚悟を固めていた 7 。島津宗家の命運は、風前の灯火であった。
この絶望的な状況に、「待った」をかけたのが園田実明であった。彼は、悲壮な決意を固める主君に対し、敢然と異を唱えた。史料によれば、実明は「ここで死を選ぶことは、天の使命に背くことです」と述べ、次のように貴久を説得したと伝えられる。
「生きて機を図るのです! 薩州を討って恥をすすぐこともまた、武士の面目ではございませぬか。殿は、宗家だけでなく、三州(薩摩・大隅・日向)に平穏をもたらすために天が遣わした最後の望みなのです」 8
この熱のこもった諫言は、死を決していた貴久の心を強く揺さぶった。実明の言葉は、単なる延命策の進言ではなかった。それは、貴久の存在が持つ歴史的使命を説き、生き延びて再起を図ることこそが真の忠義であり、武士の本懐であると訴える、気迫に満ちたものであった。この説得には、同じく忠臣として知られる木脇祐兄(きのわき すけよし)も同調し、ついに貴久は城からの脱出を決意する 7 。
大永7年6月15日、夜陰に乗じて、貴久は僅かな供回りと共に清水城を密かに抜け出した。この決死行に付き従ったのは、園田実明、木脇祐兄をはじめ、山田伊代守、川越重実、長井善左衛門、鎌田政心、井尻祐宗、そして貴久の乳母であった宇多氏という、まさに腹心中の腹心たちだけであった 9 。
一行の背後からは、敵軍50騎の追手が迫っていた。絶体絶命の状況下で、実明はその機転と地理的知識を最大限に発揮する。彼は一行を、自らの所領である小野村(現在の鹿児島市小野)へと導いたのである 8 。清水城から西へ約6キロというこの場所は、追手を振り切り、一時的に身を隠すには絶好の戦略的拠点であった。
小野村に到着した一行を、実明は自らの屋敷に匿った。この屋敷跡は、現在の鹿児島市小野四丁目に位置する「あけぼの幼稚園」の敷地であると伝えられている 9 。さらに、追手の目を欺くため、貴久を屋敷の裏山にあった聖之宮(ひじりのみや)へと移し、潜伏させた 7 。
この地で、貴久一行は追撃してきた実久軍と戦闘になったとされ、木脇祐兄らの奮戦によりこれを撃破したという。勝利の歓声を上げ、鼓を打ち鳴らしたことから、この一帯は後に「鼓ヶ筒(つづみがつづ)」と呼ばれるようになったと伝えられている 7 。
実明の忠義は、単に主君を庇護しただけではなかった。彼は自らの所領という物理的・地理的資産を最大限に活用し、主君に安全な潜伏場所を提供し、さらには反撃の機会をもたらしたのである。小野村での危機を脱した貴久一行は、その後も犬迫、栗之迫、鬢石(びんし)といった険しい山道を経由し、数日をかけてようやく父・忠良の待つ田布施の亀ヶ城へとたどり着いた 7 。園田実明の戦略的な判断と行動がなければ、貴久の命も、そして島津宗家の未来も、この時点で潰えていたことは想像に難くない。
表1:清水城脱出事件 関係者一覧
役割 |
人物名 |
所属・背景 |
当主(脱出者) |
島津貴久 |
島津宗家第15代当主。相州家出身。 |
主導者・庇護者 |
園田実明 |
貴久の家臣。小野村領主。脱出を主導し、自領に匿う。 |
同行家臣 |
木脇祐兄 |
貴久の家臣。脱出劇の同志。 |
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山田伊代守 |
貴久の家臣。 |
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川越重実 |
貴久の家臣。 |
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長井善左衛門 |
貴久の家臣。 |
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鎌田政心 |
貴久の家臣。 |
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井尻祐宗 |
貴久の家臣。 |
同行者 |
宇多氏 |
貴久の乳母。 |
敵対勢力(首謀者) |
島津実久 |
薩州家当主。貴久の家督継承に反対し、清水城を攻撃。 |
敵対勢力(同調者) |
島津勝久 |
島津宗家第14代当主(前当主)。貴久の養父であったが、実久に同調。 |
1
園田実明の忠義の背景には、彼と彼の一族が薩摩国に深く根差した武士であったという事実がある。薩摩藩が編纂した地誌『三国名勝図会』によれば、園田氏は室町時代の応永年間(1394年~1428年)に島津家8代当主・久豊から小野の地を拝領して以来、代々この地を治めてきた一族であった 11 。実明の時代には、既に100年以上にわたって小野の領主として君臨していたことになる。
また、実明は通称を「清左衛門」と名乗り、官位として「筑後守(ちくごのかみ)」を称していたことが複数の史料で確認できる 8 。これは、彼が単なる一兵卒ではなく、島津家臣団の中でも相応の家格と地位を有していたことを示している。彼の忠誠心は、代々島津家に仕えてきた譜代の家臣としての誇りに裏打ちされたものであったのだろう。
園田実明の評価は、清水城での一度の功績に限定されるべきではない。彼は、主君を救った忠臣であると同時に、実戦能力に長けた有能な武将でもあった。その証左となるのが、清水城脱出から10年後の天文6年(1537年)に起きた戦いである。
この年、島津貴久は失地回復を着実に進め、再び鹿児島への進出を果たしていた。これに対し、長年の宿敵である島津実久は再び兵を挙げ、貴久の勢力圏に攻め込んだ。この時、実明は自らの本拠地である小野の地において実久の軍勢を迎え撃ち、見事これを撃破するという武功を挙げている 9 。
この勝利は、貴久が薩摩半島を完全に平定していく過程における重要な一戦であった。実明が10年前に主君を匿った小野の地は、今や敵を打ち破る反撃の拠点となったのである。この事実は、実明の忠誠心が持続的なものであったこと、そして彼が貴久の覇業において具体的な軍事力として貢献したことを明確に示している。彼の人物像は、単なる「忠義の人」から、戦略眼と実行力を兼ね備えた「有能な武将」へと深化する。
園田実明に関する我々の知識の多くは、江戸時代に薩摩藩が公式に編纂した史料に基づいている。その中心となるのが、藩士の経歴をまとめた人名録である『本藩人物誌』(鹿児島県史料刊行委員会編)である 9 。本書における実明の記述は、彼の生涯を研究する上で最も信頼性の高い一次史料と見なされている。
また、前述の『三国名勝図会』においても、小野村の聖之宮の項で「園田氏宅地なり」と記され、稲荷社が園田氏の氏神であったことなどが記載されており、園田家がこの地に根付いた旧家であったことを裏付けている 7 。これらの藩政史料が存在することで、園田実明という一武将の活躍が、400年以上の時を超えて現代に伝えられているのである。
園田実明の生涯において、そして島津家の歴史において、彼が後世に与えた最大の影響は、その娘を通じてであった。彼の娘は、島津貴久の次男であり、「鬼島津」の異名で天下にその武勇を轟かせた猛将・島津義弘の妻となったのである。
義弘は、木崎原の戦いや朝鮮出兵における泗川の戦いなど、数々の合戦で鬼神の如き強さを見せた武人として知られる 17 。しかしその一方で、茶の湯を深く愛する文化人であり、家臣や兵卒を分け隔てなく慈しみ、さらには戦場に猫を連れて行って時刻を計ったという逸話が残るほど、生き物に対して情け深い人物でもあった 19 。そして、彼は戦国武将には珍しく、生涯にわたって一人の妻を深く愛し続けた愛妻家としても知られている。その妻こそ、園田実明の娘、後の実窓院(じっそういん)、通称「宰相殿(さいしょうどの)」であった 17 。
義弘と実明の娘との出会いは、一つの美しい逸話として後世に伝えられている。江戸時代に書かれた『盛香集』などによれば、若き日の義弘が鷹狩りのために小野村を訪れた際、川辺で一心に大根を洗っている美しい女性の姿が目に留まった 10 。その姿に心惹かれた義弘は、馬を止め、「見事な大根であるな。一つ譲ってはくれぬか」と声をかけた 17 。
突然、高貴な武士に声をかけられ、娘は驚きつつも大根を一本差し出そうとした。しかし、その時、彼女は機転を利かせる。泥のついた野菜をそのまま手渡すのは無作法であり、かといって自分が被っていた菅笠を器代わりにするにしても、自らの頭が触れた不浄な側を向けるわけにはいかない。そう考えた彼女は、菅笠の、頭に触れていない清浄な側を指でそっとへこませて即席の器とし、そこに洗い清めた大根を載せて恭しく義弘に献上したのである 17 。
この何気ない、しかし洗練された心遣いと優雅な仕草に、義弘は深く感じ入り、一目で恋に落ちたという 17 。この「大根が結んだ縁」は、二人の運命を決定づける出会いとなった。
この逸話は、戦国時代には極めて稀な恋愛結婚の物語として語られることが多い 17 。しかし、この婚姻を成立させるまでには、当時の厳格な社会規範を乗り越える必要があった。島津宗家の次男である義弘と、一家臣に過ぎない園田実明の娘とでは、あまりにも身分が違いすぎたのである。
この問題を解決するため、一つの政治的措置が取られた。娘は嫁ぐにあたり、一旦、広瀬助宗という別の家臣の養女となるという形が取られたのである 9 。これは、両家の家格の差を埋めるための形式的な手続きであり、この物語が単なる純粋な恋愛譚ではなく、武家社会の現実的な秩序の中で成立したものであることを示している。
この結婚の背景には、さらに深い意味合いがあったと考えられる。それは、主君・島津貴久による、命の恩人・園田実明への報恩である。かつて自らの命を救い、島津家の再興に尽くした忠臣に対し、貴久は息子の嫁としてその娘を迎え入れるという、武家社会において望みうる最高の栄誉で報いたのである 7 。この結婚は、義弘個人の恋心、武家社会の身分秩序、そして主君の恩賞という三つの要素が交差する、戦国時代の人間関係と社会構造を象徴する出来事であったと言えるだろう。
園田実明の娘・実窓院(宰相殿)は、島津義弘との間に、後に島津忠恒(しまづ ただつね)と名乗る男子を産んだ 9 。この忠恒こそ、豊臣秀吉による天下統一、そして関ヶ原の戦いという激動の時代を乗り越え、徳川幕藩体制下において薩摩藩77万石の初代藩主となった人物である 21 。彼は後に名を家久(いえひさ)と改めている。
この歴史的事実により、園田実明の立場は劇的に変わる。一介の地方領主、島津家の一家臣であった彼は、近世大名・薩摩藩の藩祖の母方の祖父、すなわち「国祖の祖父」という、比類なき栄誉を歴史に刻むこととなった。
これは、武士の功績に対する報奨として、単なる加増や昇進といった次元を遥かに超えるものである。清水城での忠義という一つの行動が、娘の幸運な婚姻という機会を生み、その結果として生まれた孫が巨大な藩の支配者となる。この壮大な因果の連鎖を辿るとき、実明が下した最初の決断が、数十年という歳月を経て、自らの一族の血を薩摩の頂点に連なる系譜へと繋げたことがわかる。彼の生涯は、一個人の忠誠心と行動が、数世代にわたって一族の運命を決定づける力を持つことを示す、究極のモデルケースと言えよう。
表2:園田実明と島津家の血脈図
9
園田実明の血脈が島津宗家と結びついた後も、園田一族そのものは彼の本拠地であった小野村に根を張り続けた。史料によれば、実明の子孫は江戸時代を通じて小野村の領主としての地位を保ち、幕末まで存続した 9 。江戸期の薩摩藩の記録にも「園田清左衛門」の名が散見されることから、園田家が藩士として代々続いていったことがうかがえる 23 。長きにわたる領主としての支配は、明治維新後の農地改革によって、その幕を閉じたと記録されている 9 。
園田実明の生涯は、永禄12年(1569年)に終わりを告げた 9 。彼は、島津四兄弟やその子・忠恒のような、歴史の教科書に名を連ねる人物ではない。しかし、彼の功績を丹念に追っていくと、その歴史的評価は決して小さなものではないことが明らかになる。
彼の功績は、大永7年(1527年)の清水城における一夜の忠節に留まるものではない。それは、島津家中興の祖・貴久の命脈を保ち、その息子である猛将・義弘と自らの娘を結びつけ、そして孫である初代藩主・忠恒の誕生へと繋がる、壮大な因果の連鎖の起点であった。彼は、自らの行動によって、島津家の未来を物理的にも血脈的にも救ったのである。
園田実明は、歴史の表舞台で華々しく活躍するタイプの武将ではなかった。しかし、主家の存亡という最も重要な局面において、私心を捨て、大局を見据えた正しい判断を下し、身を挺して未来への道を切り拓いた。彼の存在なくして、戦国大名島津氏のその後の飛躍も、近世薩摩藩の成立も語ることはできない。彼はまさに、島津家の栄光の歴史の「礎」を築いた、隠れたる最重要人物の一人として記憶されるべきである。
その記憶は、今なお鹿児島市小野の地に息づいている。彼が主君を匿った屋敷跡とされる「あけぼの幼稚園」、潜伏先となった「聖之宮」、そして後に貴久が敵味方の区別なく戦死者を供養するために建立したという「六地蔵塔」 7 。これらの史跡は、一人の忠臣が歴史に刻んだ、深く、そして静かな足跡を、現代の我々に語りかけている。
西暦 |
和暦 |
出来事 |
不詳 |
|
園田実明、誕生。 |
1526年 |
大永6年 |
島津貴久、島津勝久の養子となり島津宗家の家督を継承する。 |
1527年 |
大永7年 |
6月、島津実久が清水城を攻撃。 園田実明 、貴久を説得し、自領の小野村に匿った後、田布施の亀ヶ城へ送り届ける。 |
1537年 |
天文6年 |
園田実明 、本拠地である小野の地で島津実久の軍勢を撃破する。 |
1539年 |
天文8年 |
島津貴久、紫原の戦いで実久に勝利し、薩摩半島の平定をほぼ完了させる。 |
時期不詳 |
|
園田実明 の娘(後の実窓院)、島津義弘に嫁ぐ。 |
1569年 |
永禄12年 |
園田実明 、死去。 |
1571年 |
元亀2年 |
島津貴久、死去。 |
1576年 |
天正4年 |
園田実明 の孫にあたる島津忠恒(後の薩摩藩初代藩主・家久)が誕生する。 |
1601年 |
慶長6年 |
島津忠恒(家久)、薩摩藩初代藩主となる。 |
出典: 1