日本の戦国時代、数多の武将が星の如く現れては消えていった。その中で、九州は肥前国(現在の佐賀県、長崎県の一部)に、龍造寺隆信の麾下として「龍造寺四天王」にも比肩する武勇を謳われながら、その生涯の多くが謎に包まれた一人の武将がいた。その名を執行種兼(しぎょう たねかね)という。彼は主君・江上氏の家臣として龍造寺氏の軍門に降り、各地の合戦で類稀なる武功を重ねた。しかし、天正12年(1584年)、九州の覇権を賭けた沖田畷の戦いにおいて、主君隆信と共に壮絶な最期を遂げ、その名は歴史の奔流の中に埋もれがちであった 1 。
一般に執行種兼は、「江上家臣でのち龍造寺家に属し、沖田畷合戦で具足をつけず羽織袴で奮戦し戦死した勇将」として知られる。しかし、この断片的な情報だけでは、彼の人物像や歴史における真の重要性を捉えることはできない。本報告書は、この執行種兼という一人の武将に焦点を当て、現存する史料を丹念に渉猟し、その出自の源流から、主家との関係性の変遷、記録に残る数々の輝かしい武功、そして沖田畷における悲劇的な最期と、その後に続く一族の運命に至るまで、彼の生涯の全貌を徹底的に解明することを目的とする。
本報告を通じて、単なる「勇将」という一面的な評価を超え、神職の家系という特異な背景を持つ武士が、いかにして戦国の乱世を駆け抜け、その名を歴史に刻んだのかを明らかにする。彼の生き様は、肥前という一地方の動乱を映す鏡であり、戦国武士の主従観、武勇、そして死生観を理解する上で、極めて貴重な事例を提供するものである。
年号(西暦) |
種兼の年齢(推定) |
出来事 |
大永3年(1523年) |
- |
祖父・執行(伴)兼貞が神職を辞し、武士となる 2 。 |
享禄3年(1530年) |
1歳 |
種兼、誕生(推定) 3 。祖父・兼貞が田手畷の戦いで少弐方として武功を挙げる 4 。 |
天文17年(1548年) |
19歳 |
龍造寺隆信が龍造寺宗家を継承する 6 。 |
永禄元年(1558年) |
29歳 |
長者林合戦。主君・江上武種と共に龍造寺軍と戦う 7 。 |
永禄12年(1569年) |
40歳 |
大友宗麟の肥前侵攻。主君・江上武種が大友氏に与し、種兼は嫡男を人質に出す 5 。 |
元亀元年(1570年) |
41歳 |
今山の戦い。龍造寺隆信が大友軍に大勝する。種兼は江上軍として大友方で参戦 5 。 |
元亀2年(1571年) |
42歳 |
龍造寺軍による勢福寺城攻め。種兼は城原衆を率いて奮戦し、一度は撃退 5 。江上武種が降伏し、隆信の子・家種を養子に迎える。 |
元亀3年(1572年) |
43歳 |
朝日山城攻め。家種の名代として出陣し、夜襲により城を陥落させる。功により隆信から200町を加増される 5 。 |
天正7年(1579年) |
50歳 |
筑前国早良郡にて、在番73名で大友方の小田部鎮元ら500余を奇襲し、将を討ち取る 5 。 |
天正12年(1584年) |
55歳 |
3月24日、沖田畷の戦い。龍造寺隆信が敗死。種兼も兄・頼兼、息子三人と共に討死 4 。 |
天正16年(1588年) |
- |
後継者と見られる執行兼在が、櫛田宮の社殿再建に関わる 10 。 |
執行種兼という武将の特質を理解するためには、まず彼の一族が歩んだ特異な歴史、すなわち神聖な職掌から武力の世界へという劇的な転換を深く掘り下げる必要がある。
執行氏のルーツは、古代の中央豪族である大伴氏に遡ると伝えられている 11 。弘仁14年(823年)、淳和天皇(諱が大伴親王)の即位に伴い、天皇の諱を避けるため大伴氏は「大」の字を去り、「伴(とも)氏」と改姓した 2 。この伴氏の血を引く一族が、肥前国における執行氏の直接の祖先となる。
その歴史が具体的に肥前の地に根を下ろすのは、平安時代末期の永久三年(1115年)のことである。時の鳥羽天皇の勅命により、肥前国神埼郡に鎮座する古社・櫛田宮の社殿修造が行われることになった。この際、勅使として京都から下向したのが、従四位下少納言・伴兼直であった 2 。兼直は修造の任を終えた後もこの地に留まり、櫛田宮の社務を統括する長官職である「執行別当職(しぎょうべっとうしょく)」に補任された。これが、執行家の始まりである 2 。
「執行」とは、元来、朝廷や幕府が任命する社寺の事務官、あるいは荘園の代官を指す職名であった 2 。伴兼直の子孫は、この執行別当職を代々世襲し、神埼の地で神職として家系を繋いでいった。当初、彼らは「伴」姓を名乗り続けており、「執行」はあくまで職名に過ぎなかった 4 。
室町時代が終焉に近づき、応仁の乱以降、中央の権威が地に堕ちると、日本各地で守護大名の力が衰え、国人領主や新興勢力が実力で覇を競う戦国時代が到来した。この時代の荒波は、神聖な領域であるべき社寺にも容赦なく押し寄せた。
執行家もその例外ではなかった。種兼の祖父にあたる伴治部大輔兼貞(かねさだ)の時代、大永三年(1523年)頃、彼は大きな決断を下す。代々受け継いできた櫛田宮の執行別当職を辞し、一族の存続を賭けて武士として生きる道を選んだのである 2 。この時、長年務めてきた職名である「執行」を、正式な名字として採用した。ここに、神職の伴氏から武士の執行氏への完全な転身が果たされた 2 。
武士となった執行兼貞は、当時、肥前国でなお権威を保っていた名門守護・少弐(しょうに)氏に仕えた。そして享禄三年(1530年)、周防の大内義隆が肥前に侵攻してきた際に起こった田手畷(たでなわて)の戦いにおいて、兼貞は少弐軍の一翼を担い、大内軍を相手に武功を挙げたと記録されている 4 。この戦功により、執行氏は肥前の武士社会にその名を確固として刻みつけたのである。
執行氏が神職から武士へと転身した背景には、戦国時代という時代の必然があった。守護大名である少弐氏の権威が揺らぎ、大内氏や、後に台頭する龍造寺氏のような新興勢力が武力で領土を切り拓いていく中で、神聖な権威のみで領地や一族の安全を保障することは不可能となっていた。自衛のため、あるいは時流に適応するために、自ら武装し、より強力な軍事勢力と主従関係を結ぶことは、生き残りのための合理的な選択であった。
しかし、この出自は単なる過去の経歴以上の意味を持っていた。執行氏が率いた「城原衆(きばるしゅう)」と呼ばれる家臣団にとって、彼らの主君は単なる武将ではなかった。地域の信仰の中心であり、天皇の勅使にまで遡る由緒を持つ櫛田宮の元神官という、神聖な権威を帯びた存在であった。この「神聖性」と、戦場で証明された「武力」という二重の権威は、他の多くの国人領主にはない、執行氏独自の強みとなった可能性がある。家臣団の強固な結束力や、後の執行種兼が見せる驚異的な武功の背景には、この精神的な支柱が大きく作用していたと推測される。この特異な成り立ちこそ、執行種兼という武将を理解する上で、決して見過ごすことのできない重要な要素なのである。
神職から武士へと転身した執行氏は、肥前国を舞台に繰り広げられる激しい覇権争いの渦中へと身を投じていく。主家の盛衰と共に、執行種兼の立場もまた、大きく揺れ動くこととなる。
執行氏が最初に仕えた少弐氏は、鎌倉時代に武藤資頼が大宰少弐に任じられたことに始まる名門であり、元寇の際には日本軍の主力として活躍し、一時は北部九州に広大な勢力を誇った 15 。しかし、戦国時代に入ると、西から周防の大内氏、そして足元からは龍造寺氏という新興勢力の挟撃に遭い、その勢力は急速に衰退の一途を辿った。
主家である少弐氏が没落していく中で、執行兼貞、その子で種兼の父にあたる直明、そして種兼自身は、新たな主君を求めざるを得なくなる。彼らが次に仕えたのは、神埼郡を本拠とする有力な国人領主であり、同じく少弐氏の旧臣でもあった勢福寺(せいふくじ)城主・江上武種(えがみ たけたね)であった 4 。これにより、執行氏は江上氏の配下となり、その重臣としての地位を築いていく。
その頃、肥前では一人の傑物がその頭角を現していた。「肥前の熊」の異名を持つ龍造寺隆信である。天文17年(1548年)に龍造寺氏の惣領家を継承した隆信は 6 、近隣の国人領主を次々と屈服させ、驚異的な速さで肥前国内の統一事業を推し進めていた 17 。
江上武種は、この隆信の急激な勢力拡大に対して、当初は抵抗の姿勢を見せる。永禄元年(1558年)に起こった長者林(ちょうじゃばやし)の合戦では、三瀬城主・神代勝利(くましろ かつとし)の援軍を得て、隆信軍の先鋒である小田政光の軍勢を迎え撃った。この戦いにおいて、執行種兼も江上軍の主力として奮戦した記録が残っている 7 。
しかし、隆信の圧力は時を追うごとに増大し、江上武種は抵抗と和睦を繰り返す不安定な立場に置かれた 19 。永禄12年(1569年)、豊後の大友宗麟が龍造寺氏を討つべく大軍を率いて肥前に侵攻してくると、武種はこれを好機と見て龍造寺氏から離反し、大友氏に与した。この時、江上氏の忠誠の証として、執行種兼は自らの嫡男を人質として大友氏に差し出すという、重臣としての重い役割を果たしている 5 。
だが、元亀元年(1570年)、今山の戦いで龍造寺隆信が大友軍に対して奇跡的ともいえる大勝利を収めると、肥前の勢力図は一変する。勢いづいた隆信の逆襲が始まり、翌元亀二年(1571年)、後の佐賀藩祖・鍋島直茂を総大将とする龍造寺軍が、江上氏の本拠・勢福寺城へと攻め寄せたのである 5 。
勢福寺城を巡る攻防戦において、執行種兼は自らが率いる精鋭部隊「城原衆」を指揮して奮戦し、一度は鍋島直茂の軍勢を撃退する目覚ましい活躍を見せた 5 。しかし、衆寡敵せず、主君・江上武種はついに龍造寺隆信の圧倒的な力の前に屈服した。
この時、隆信は江上氏を完全に滅ぼすという選択をしなかった。代わりに、自らの三男(一説に次男)である龍造寺家種(いえかね)を武種の養子として送り込み、江上家の家督を継がせるという形で、その勢力を事実上乗っ取ったのである 20 。これにより、執行種兼の直接の主君は、江上武種から龍造寺の血を引く若き当主・江上家種へと代わった。執行氏は、江上氏の家臣という立場はそのままに、龍造寺氏という巨大な軍事組織の傘下へと組み込まれることになった 4 。
執行種兼の主家の変遷は、一見すると主君を次々と変える節操のない行動に見えるかもしれない。しかし、これは戦国時代の武士の主従観念を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。種兼の行動原理は、個人に対する忠誠というよりも、自らが属する「家(イエ)」、すなわち江上家そのものへの忠誠に基づいていた。彼の直接の奉公の対象は、あくまで「江上家の当主」であった。当主が武種であれば武種に命を捧げ、当主が養子の家種に代われば、今度は家種に忠誠を尽くす。これは、当時の武士社会においては極めて合理的かつ一般的な行動様式であった。
この事実は、執行種兼を単に「龍造寺家臣」と一括りにすることの単純さを戒める。彼は、鍋島直茂のような龍造寺氏の譜代直臣ではない。「龍造寺氏の有力家臣である江上氏の、そのまた重臣」という、多層的な主従関係の中に位置していたのである。この独特な立場が、後に見られる彼の独立性の高い軍事行動や、龍造寺隆信本人から直接加増を受けるといった異例の待遇の背景を説明する鍵となる。彼は、龍造寺家という巨大な軍団の中で、江上家という一つの方面軍を実質的に率いる、方面軍司令官にも似た役割を担っていたと解釈することができよう。
龍造寺氏の麾下に入った執行種兼は、その類稀なる武才を遺憾なく発揮し、肥前から筑前にかけての各地の合戦で目覚ましい戦果を挙げる。彼の武功は、単なる猪武者の勇猛さではなく、計算され尽くした知略に裏打ちされたものであった。
主君・江上武種が龍造寺隆信に最後の抵抗を試みた勢福寺城の攻防戦は、執行種兼の将としての力量を初めて明確に記録した戦いであった。鍋島直茂が率いる2,000の龍造寺軍が城に押し寄せた際、種兼は自らが手塩にかけて育て上げた精鋭部隊「城原衆」600から700名を自ら率いて出撃した。そして、巧みな指揮で龍造寺軍の猛攻を凌ぎ、一度はこれを撃退することに成功したのである 5 。最終的に江上氏は降伏するものの、この戦いにおける種兼の奮戦は、彼の武名と、彼が率いる城原衆の精強さを敵味方に強く印象付けた。
江上氏が龍造寺氏に降った翌年、種兼の生涯における最も輝かしい武功の一つが記録される。筑紫昭門(広門)が立てこもる朝日山城(現在の佐賀県鳥栖市)の攻略戦である。
この戦いで、種兼は新たな主君となった江上家種の名代として出陣した。彼は、自らが率いる城原衆わずか300余名という寡兵を率い、夜陰に乗じて敵城への奇襲を敢行した。この作戦は完璧に成功し、堅固な朝日山城を見事に陥落させるという大功を立てたのである 5 。
この功績は、直接の主君である江上家種を飛び越え、総大将である龍造寺隆信本人から絶賛された。隆信は、陪臣(家臣の家臣)に過ぎない種兼の並外れた戦功を高く評価し、直接200町もの領地を加増するという破格の恩賞を与えた 5 。この事実は、種兼がもはや単なる江上氏の一家臣ではなく、龍造寺家の軍事戦略全体から見ても、極めて重要な武将として認識されていたことを雄弁に物語っている。
龍造寺氏の勢力圏が筑前国にまで拡大すると、種兼は対大友氏の最前線である早良郡(現在の福岡市西部)に派遣され、大友方の諸城を抑えるという重要な任務に就いた 5 。天正7年(1579年)、彼の戦術家としての真骨頂が発揮される事件が起こる。
大友方の荒平城主・小田部鎮元と鷲岳城主・大津留鎮忠が、大友家の名将・立花道雪に兵糧の補給を要請した。これに応じた道雪が兵糧輸送隊を派遣すると、小田部・大津留らはこれを迎えに出るため、500から600余の兵を率いて出陣した。この動きを察知した種兼は、在番の兵わずか73名という、常識では考えられないほどの寡兵でこれを奇襲したのである。
結果は驚くべきものであった。種兼の部隊は敵の意表を完全に突き、大混乱に陥った大友勢を蹂躙。敵将である小田部鎮元と大鶴宗逸(鎮忠の子か)の両名を討ち取るという、信じがたい大戦果を挙げた 5 。これは、彼の卓越した戦術眼、大胆不敵な胆力、そして寡兵を率いて大軍を打ち破る指揮能力が、尋常ではなかったことを如実に物語る逸話である。
記録に残る執行種兼の輝かしい武功には、明確な共通点が見られる。それは、朝日山城攻め、早良郡の戦い共に、「夜襲」「奇襲」という手段を用い、「寡兵で大軍を破っている」という点である 5 。これは決して偶然ではない。彼の得意戦術が、敵の油断や弱点を正確に見抜き、最小限の兵力で最大限の効果を上げる、情報戦と機動力を重視した知略にあったことを示唆している。
これにより、執行種兼の人物像は、単なる「勇将」「猛将」という言葉だけでは捉えきれない、「智勇を兼備した名将」へと深化する。彼の武勇は、感情に任せた猪武者的なものではなく、冷静な状況分析と大胆な発想に裏打ちされた、極めて高度な戦術であった。龍造寺隆信が、自らの直臣でもない彼をこれほどまでに高く評価し、破格の待遇を与えた理由も、この並外れた戦術的才能にこそあったと考えるのが、最も合理的であろう。
数々の武功を重ね、龍造寺軍団の中核としてその名を轟かせた執行種兼であったが、その武運は、主君・龍造寺隆信と共に、肥前島原の地で突如として尽きることになる。
天正12年(1584年)、九州の覇権を巡る龍造寺氏と島津氏の対立は、もはや避けられない段階に達していた。島原半島の領主・有馬晴信が、龍造寺隆信の圧政に耐えかねて離反し、薩摩の島津氏に救援を求めたことが、この決戦の直接的な引き金となった 9 。
これに対し隆信は、島津・有馬を一挙に殲滅すべく、2万5千から5万ともいわれる大軍を動員し、自ら島原半島へと侵攻した 9 。対する島津・有馬連合軍は、総勢5千から8千程度とされ、兵力においては龍造寺軍が圧倒的に優位な状況であった 25 。
隆信は全軍を三隊に分け、鍋島直茂らが率いる山手軍、そして隆信の息子である江上家種・後藤家信らが率いる浜手軍、中央を自身が率いる本隊が進むという布陣を敷いた 1 。執行種兼は、彼の直接の主君である江上家種が指揮する浜手軍に所属し、この運命の戦いに臨んだ 1 。
沖田畷の戦いにおける執行種兼を語る上で、最も有名な逸話が、彼が具足(鎧兜)を身に着けず、羽織袴という平時の礼装で奮戦したというものである。この逸話の直接的な一次史料を特定することは困難であるが、江戸時代に成立した『北肥戦誌』などの軍記物や、佐賀藩に伝わる伝承に由来するものと考えられる。
羽織袴は、江戸時代には武士の正装・礼装として定められており 28 、戦場で着用するものでは到底なかった。この一見不可解な行動は、単なる奇行や大軍を恃んでの油断と解釈すべきではない。むしろ、それは武士としての強烈な「覚悟(かくご)」の表明であったと見るべきである。戦場という非日常の極致において、あえて日常の、しかも最も格式の高い礼装で臨むことは、「この戦こそが自らの死に場所である」と定め、泰然として運命を受け入れるという、固い決意の現れに他ならない。生きて帰ることを想定しない、潔さをこそ至上とする武士の美学が、この行動には凝縮されている。この逸話は、彼の死をより一層劇的で印象深いものとして、後世に語り継がせる大きな要因となった。
天正12年3月24日、戦いの火蓋は切られた。しかし、戦場となった沖田畷は、その名の通り狭い道(畷)が縦横に走る湿地帯であった。島津軍の総大将・島津家久は、この特異な地形を巧みに利用し、伏兵と鉄砲隊を効果的に配置する戦術をとった。大軍の利を活かせず、狭い畷で動きを封じられた龍造寺軍は、たちまち苦戦に陥った 31 。
やがて、中央軍の総大将である龍造寺隆信が、島津方の川上忠堅によって討ち取られるという衝撃的な事態が発生する 9 。総帥を失った龍造寺軍は指揮系統が完全に崩壊し、全軍総崩れとなって敗走を始めた。
この大混乱の中、浜手軍もまた撤退を余儀なくされた。執行種兼は、この絶望的な退却戦の最中に、奮戦及ばず討ち死を遂げた。そして、この時、彼の嫡男・種直、次男・種国、三男・信直、さらには兄である頼兼といった、執行一族の主だった男たちもまた、彼と運命を共にしたのである 4 。彼が率いた精鋭・城原衆も、その多くが主君一族と共に島原の地に斃れたと伝えられる。享年55歳であった 3 。一人の名将は、一族の主力を道連れに、その生涯の幕を閉じた。
沖田畷の戦いにおける執行種兼と息子たちの壮絶な死は、一族にとって壊滅的な打撃であった。しかし、執行家の歴史はここで途絶えることはなかった。悲劇の中から家名を再興し、後世にその血脈と名誉を繋いでいく。
執行家の系譜には、一つの大きな謎が存在する。複数の史料、特に『北肥戦誌』などを基にした記録では、沖田畷の戦いで執行種兼と共に、嫡男・種直、次男・種国、三男・信直の三人の息子が討死したと明確に記されている 4 。ところが、一族の源流である櫛田宮に伝わる執行家の系図には、種兼の次に「九郎五郎 執行兼在(かねあり)」という人物の名が記され、彼が沖田畷の悲劇からわずか4年後の天正十六年(1588年)に、龍造寺政家の名で再建された社殿の棟木にその名を連ねている記録が残っているのである 10 。
この矛盾をどう解釈すべきか。いくつかの仮説が考えられる。
第一に、記録にはない四男、あるいは庶子が存在し、彼は戦に参加していなかったために生き残り、家督を継いだという可能性。
第二に、嫡流が絶えたため、一族の傍流から兼在を養子に迎え、家名を存続させたという可能性。これは、家名の断絶を何よりも恐れた戦国・江戸時代の武家社会において、極めて一般的に行われた家督維持の方法である。
第三に、戦死者に関する記録に若干の混乱があり、息子の一人が実は生き延びていたという可能性。三男・信直については「甥とも」という注記がある史料も存在し 5、情報の錯綜が窺える。
これらの仮説の中で、最も蓋然性が高いのは第二の「養子説」であろう。一族の主力が壊滅した絶望的な状況下で、家の断絶を避けるべく、近親者から後継者として兼在が立てられたと考えるのが最も自然である。この系譜の謎は、沖田畷の悲劇の大きさと、それでもなお家名を後世に繋ごうとした一族の強い意志を物語る、何よりの証左と言える。
伴兼直(櫛田宮執行別当職・始祖)
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(略)
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執行(伴)兼貞(治部大輔・武士化の祖)
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執行直明(摂津守)
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┏━━━━━━━╋━━━━━━━━┓
執行頼兼 執行種兼(越前守) (兄弟)
(沖田畷で戦死) |
┏━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━┓
執行種直 執行種国 執行信直 執行兼在
(嫡男) (次男) (三男) (九郎五郎)
(沖田畷で戦死) (沖田畷で戦死) (沖田畷で戦死) (家督継承者)
注:信直については「甥とも」いう説がある 5 。兼在と種兼の関係(実子か養子か)は明確ではないが、沖田畷での息子三人の戦死の記録から、養子または戦に参加しなかった実子の可能性がある。
沖田畷の悲劇を乗り越えた執行家は、新たな時代に適応していく。龍造寺氏に代わり鍋島氏が肥前を治める佐賀藩が成立すると、執行家はその家臣団に組み込まれた。そして、江戸時代を通じて、執行家の子孫は佐賀藩において「着座(ちゃくざ)」という高い家格を与えられ、重臣の一角を占めるに至った 4 。
「着座」とは、藩主一門や家老に次ぐ上級家臣の家柄であり、藩の重要な儀式などで決められた席に着くことを許された名誉ある地位である。これは、執行種兼の生前の輝かしい武功と、主家のために一族を挙げて殉じた忠節が、新時代の支配者である鍋島家からも高く評価され、その功績が子孫に報いられた結果に他ならない。
さらに時代は下り、明治期には、種兼の遠孫にあたる執行弘道(しぎょう ひろみち)が外交官、そして実業家としてアメリカで活躍し、日本美術の紹介に努めるなど、国際的な舞台でその名を残している 34 。執行家の血脈は、戦国の動乱、江戸の泰平、そして近代化の波を乗り越え、確かに受け継がれていったのである。
執行種兼の生涯を今に伝える史料は限られているが、その人物像を浮かび上がらせる上で重要なものがいくつか存在する。
執行種兼は、その活躍の期間や知名度において、戦国時代を代表する武将とは言えないかもしれない。しかし、肥前という一地方を舞台に生きた彼の生涯は、戦国という時代の激動と、そこに生きた武士の有り様を凝縮した、極めて示唆に富むものであった。
第一に、彼の出自は、神職の家が武士へと転身するという、中世から近世への社会変革期を象徴するものであった。神聖な権威を背景に持ちながら、実力主義の武士社会を生き抜いた彼の存在は、他に類を見ない特異なものである。
第二に、彼の武功は、単なる個人の勇猛さに留まらない。寡兵をもって大軍を打ち破るその戦術は、卓越した知略と戦術眼に裏打ちされたものであり、彼を「勇将」というよりも「智勇兼備の名将」と評価するのがより適切であろう。陪臣という立場でありながら、主家の垣根を越えて総大将・龍造寺隆信から直接評価された事実は、その実力が並外れていたことの証明である。
第三に、沖田畷における羽織袴での奮戦と、一族を挙げての壮絶な最期は、彼の武士としての美学と、主君への忠節、そして死を恐れぬ覚悟を象徴する逸話として、強烈な印象を残す。その悲劇的な死にもかかわらず、子孫が佐賀藩の重臣として家名を後世に繋いだという事実は、彼の功績と忠義がいかに高く評価されていたかを物語っている。
執行種兼は、龍造寺四天王のような著名な武将たちの影に隠れがちな存在である。しかし、その実力、生き様、そして死に様は、彼らに何ら劣るものではない。彼は、激動の時代を駆け抜けた、肥前が生んだ真の名将の一人として、より深く記憶され、再評価されるべき人物である。本報告書が、その一助となることを期待する。