最終更新日 2025-07-13

堀内氏善

熊野の龍、肥後の虎に仕う ― 堀内氏善の生涯と激動の時代

序章:歴史の波間に忘れられた熊野の大名

日本の戦国時代史を彩る数多の武将の中で、堀内氏善(ほりうち うじよし)の名は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の輝かしい功績の陰に隠れ、一般に広く知られているとは言い難い。彼の名は、紀伊国の豪族、熊野水軍を率いた将、そして関ヶ原の戦いで西軍に与して没落した大名として、歴史書に断片的に記されるに過ぎない。

しかし、その生涯を丹念に追うとき、我々は一人の地方領主の姿を通して、戦国乱世の終焉から江戸初期に至る日本の社会構造の劇的な転換期を目の当たりにすることになる。氏善の人生は、熊野という聖性と俗性が交錯する特異な地域を基盤とする支配者として始まり、中央の巨大な権力と対峙し、やがてはその臣下として組み込まれ、最後は敗将として異郷の地で再起を図るという、まさに激動の時代そのものを体現したものであった。

本報告書は、散逸した史料を繋ぎ合わせ、堀内氏善という一人の武将の生涯を多角的に再構築する試みである。彼の出自の謎、権力基盤の特性、天下人との関係における現実的な生存戦略、そして没落後の意外な運命と子孫たちの活躍を詳述することで、これまで周辺的な存在として扱われてきた氏善の真の姿と、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。彼の物語は、中央の視点から描かれる歴史だけでは捉えきれない、地方の視点から見た戦国時代のリアルな様相を我々に示してくれるであろう。

第一部:熊野の支配者

第一章:堀内氏の出自と権力基盤

堀内氏善の生涯を理解するためには、まず彼が率いた堀内氏が、いかにして熊野地方にその権勢を確立したのかを探る必要がある。一族の出自は複数の伝承に彩られ、その権力基盤は軍事力と宗教的権威という二つの柱によって支えられていた。

第一節:謎に包まれた一族のルーツ

堀内氏の出自は、単一の系譜に収斂せず、複数の説が伝えられており、その出自自体が、一族の権威を多面的に補強するための戦略であった可能性を示唆している。

第一に、最も広く知られるのが「熊野別当後裔説」である。『寛永諸家系図伝』などの江戸時代の系図類によれば、堀内氏は源平合戦期に熊野水軍を率いたことで知られる熊野三山検校(別当)湛増(たんぞう)に連なる家系とされる 1 。これは、堀内氏が熊野の伝統的な宗教的権威の正統な継承者であることを主張するもので、彼らの熊野支配を根底から支える重要な系譜意識であった。

第二に、「清和源氏新宮氏説」がある。これは、源頼朝と対立した源為義の子、新宮行家(しんぐう ゆきいえ)の後裔とする説である 1 。武家の名門である清和源氏の血を引くことは、武士としての格式を高める上で極めて有効であった。

この他にも、藤原北家の流れを汲むとする「藤原氏説」も存在する 1 。一方で、こうした名門の系譜とは別に、より現実的な「在地領主説」も伝えられている。これは、一族が構えた館の周囲に堀を巡らせていたことから、人々が「堀の内殿」と呼んだことが、そのまま名字になったとする説である 1

これらの説が乱立している事実は、堀内氏が特定の固定された出自を持つ旧来の名家というよりは、戦国期に急速に台頭した新興勢力であり、自らの権威を高めるために、状況に応じて複数の由緒を巧みに利用していた可能性を示している。確実な史料でその名が確認できるのは、氏善の父である堀内氏虎の代からであり 4 、氏虎の時代に熊野地方で一気に勢力を拡大したことが窺える。

第二節:聖地と海の支配者 ― 熊野の二元的権力

堀内氏が紀伊半島南部に一大勢力を築き得た要因は、単なる軍事力に留まらない。その権力は、「宗教的権威」と「軍事的・経済的実力」という二元的構造によって成り立っていた。この二つの要素が相互に補完し合うことで、堀内氏は他の国人領主とは一線を画す、特異で強固な支配体制を構築したのである。

権力の一方の柱は、全国的な熊野信仰の中心地である熊野三山を統べる「熊野別当」としての宗教的権威であった 5 。熊野別当の職は、古くから熊野三山の統括者であり、その地位は朝廷によって公認されていた 7 。この地位にあることで、堀内氏は熊野詣に訪れる人々からの寄進や、全国に広がる社領からの収入といった莫大な経済的利益を享受した 5 。それ以上に重要だったのは、聖地の守護者としての精神的な権威である。この権威は、在地社会における彼らの支配を正当化し、人々の心を掌握する上で絶大な効果を発揮した。

もう一方の柱は、熊野灘の制海権を握る「熊野水軍」の長としての軍事的・経済的実力である 5 。熊野の海岸線は天然の良港に恵まれ、背後の紀伊山地からは良質な船材が産出されたことから、古くから水軍が発達していた 2 。堀内氏が率いた熊野水軍は、海賊衆とも呼ばれる強力な海上武装集団であり、その活動は海運業や漁業の支配といった経済活動から、時には他勢力の船舶を襲う海賊行為まで多岐にわたった 5 。この強力な水軍力は、堀内氏の勢力拡大における物理的な力の源泉であった。

これら二つの権力は、決して分離していたわけではない。むしろ、両者は密接に結びつき、互いを強化する関係にあった。熊野別当としての宗教的権威は、熊野水軍の軍事行動に「聖地の守護」という大義名分を与え、その活動を正当化した。一方で、熊野水軍の圧倒的な武力は、熊野三山の権益を外部の侵略から守り、対立する在地勢力を屈服させるための実力的な裏付けとなった。このように、「聖」の権威と「俗」の実力を両輪としていたことこそが、堀内氏を紀伊南部における比類なき支配者たらしめた根源であり、その特異性を理解する上で不可欠な視点である。

第二章:紀南の統一者、氏善の台頭

父・氏虎が築いた権力基盤を継承した堀内氏善は、巧みな戦略と武力によって周辺勢力を次々と併呑し、紀伊半島南東部に広大な支配圏を確立した。彼の代に、堀内氏の権勢は頂点を迎えることになる。

第一節:家督相続と有馬氏の併呑

堀内氏善は、天文18年(1549年)、堀内安房守氏虎の子として生まれた 5 。幼名は楠若(くすわか)、あるいは熊千代と伝えられる 5 。彼の青年期における最初の重要な動向は、隣接する有力国人・熊野有馬氏への関与である。当時、有馬氏は内紛によって衰退し、当主の有馬孫三郎には跡継ぎがいなかった 5 。この好機を捉え、氏虎は息子である氏善(楠若)を有馬氏の養子として送り込むことに成功する 4

そして天正2年(1574年)、父・氏虎が死去し、さらに家督を継ぐはずであった兄の氏高も早世していたため、氏善は有馬家から戻り、堀内宗家の家督を相続した 5 。これにより、当主を失った熊野有馬氏は事実上、堀内氏に吸収・併呑される形で歴史から姿を消した 4 。これは、婚姻や養子縁組を駆使して敵対勢力を内部から切り崩し、自らの勢力圏を拡大するという、戦国時代に典型的に見られる領土拡大戦略の巧みな実践例であった。

第二節:新宮への進出と在地勢力の掌握

堀内宗家を継いだ氏善は、それまでの拠点であった佐野(現在の新宮市佐野)から、熊野地方の中心地である新宮へと本拠を移した 4 。当時の新宮は、「新宮七上綱(しんぐうしちじょうこう)」と呼ばれる七家の有力土豪による合議制で支配されていた 4 。氏善は、この旧来の支配体制を武力で打破し、七上綱を屈服させる 10 。特に、最後まで抵抗を続けた最大勢力・新宮周防守行栄(ゆきえ)を天正年間初期に破ると 11 、その行栄の館のすぐ南隣に、自らの新たな居館(堀内氏屋敷)を築いた 4 。この場所は、現在の全龍寺一帯にあたり、四方を水堀で囲んだ堅固な平城形式の館であったと伝えられる 12 。これは、旧勢力に対する新支配者としての威厳を明確に示す、象徴的な行為であった。

熊野の中心地を掌握した氏善の勢力は、その後も拡大を続ける。東は伊勢国との国境にあたる長島郷錦浦(現在の三重県紀北町錦)、西は田原(現在の和歌山県串本町田原)に至る広大な地域を支配下に置いた 10 。その所領は、表向きの石高は2万7,000石とされたが、熊野水軍がもたらす海運の利益や、熊野信仰に関連する経済活動を含めると、実質的な経済力は5万石から6万石にも及んだと推定されている 5 。こうして堀内氏善は、名実ともども紀伊半島南東部を支配する戦国大名として、その名を轟かせることとなったのである。

第二部:天下人との対峙と臣従

紀南の統一者となった堀内氏善であったが、その前途には織田信長、そして豊臣秀吉という、天下統一を目指す巨大な権力が立ちはだかっていた。氏善は、独立した地方領主として、中央政権との間で巧みな駆け引きを繰り広げ、自らの勢力の維持と拡大を図っていく。

第三章:織田・豊臣政権下の堀内氏

氏善の外交戦略は、一貫した忠誠よりも、状況に応じた現実的な判断を優先するものであった。それは、戦国の世を生き抜く地方領主のしたたかな生存術そのものであった。

第一節:信長の勢力圏と氏善の選択

織田信長が天下統一への歩みを進め、その勢力が伊勢国に及ぶと、堀内氏もその影響を免れることはできなかった。天正4年(1576年)、氏善は信長の次男で伊勢北畠家を継いだ北畠信雄(後の織田信雄)と、当時志摩国に属していた三鬼城や紀伊長島城の領有を巡って争っている 5 。この時点では、堀内氏は織田勢力と敵対する姿勢を示していた。

しかし、信長の圧倒的な力の前に、やがて方針を転換する。天正9年(1581年)には、信長から熊野社領の知行を安堵され、正式に織田氏の麾下に加わったとされる 5 。これは、抵抗の不利を悟り、中央の権威を認めることで自領の安寧を図るという、現実的な判断であった。

翌天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死すると、氏善は素早く次の天下の覇者を見極める。山崎の戦いにおいて、いち早く羽柴秀吉に味方し、その功によって7,000石を加増されたという記録も残っている(『朝野雑載』) 5 。この機敏な動きは、彼の政治的嗅覚の鋭さを示している。信長の死後、彼はこの機に乗じて志摩国南西部へ侵攻し、中村山城などを攻略。荷坂峠以南の地域を紀伊国牟婁郡に編入し、現在の三重県尾鷲市や紀北町の一部を自らの勢力圏に加えるなど、したたかに領土を拡大している 5

第二節:秀吉の紀州征伐 ― 抵抗から臣従へ

天正13年(1585年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、紀州の平定に乗り出す。この紀州征伐に際し、堀内氏善は当初、抵抗の構えを見せた 1 。熊野の険しい地形と強力な水軍を恃み、独立を保とうとしたのである。

しかし、秀吉が動員した圧倒的な大軍の前には、一個人の国人領主の力はあまりにも非力であった。氏善は、全面対決が破滅に繋がることを悟ると、速やかに降伏を決断し、秀吉の軍門に降った 5 。秀吉は氏善の能力を評価し、その本領を安堵した 5

この一連の行動は、堀内氏善の「現実主義的生存戦略」を如実に示している。彼の第一の目的は、中央の権力者が誰であろうと、自らの一族と領国を存続させることにあった。そのためには、面子や意地よりも、実利を優先する。抵抗が不可能と判断すれば、ためらわずに臣従し、新たな支配者の下で自らの地位を確保する。

さらに注目すべきは、紀州平定後、秀吉が推し進めた検地に反対する地侍や農民による一揆(北山一揆など)が勃発した際の氏善の対応である。彼は今度は秀吉方として、この一揆の討伐に積極的に参加している 5 。この行動は、新たな支配者である秀吉への忠誠を明確に示すと同時に、自領内における旧来の在地勢力を排除し、堀内氏の支配権をより一層強固なものにするという、二重の目的を持っていた。抵抗から臣従、そして新体制下での積極的な協力へという彼の変身は、戦国末期の地方領主が、いかにして中央の巨大な権力構造の再編に適応し、生き残りを図ったかを示す典型的な事例と言える。

第三節:豊臣大名として ― 各地への転戦と「熊野惣地」

豊臣政権に組み込まれた堀内氏善は、一地方の国人領主から、豊臣大名として新たな役割を担うことになった。彼の有する強力な熊野水軍は、秀吉の天下統一事業において大いに活用された。

氏善は水軍を率いて、天正13年(1585年)の四国攻め、天正18年(1590年)の小田原征伐、そして文禄・慶長の役(朝鮮出兵)と、豊臣軍の主要な合戦に次々と従軍した 5 。特に文禄・慶長の役では、水軍の将として重要な役割を果たし、晋州城攻めや蘇州古城の守備などに574人の兵を動員した記録が残っている 5

こうした軍功が評価され、天正19年(1591年)、氏善は秀吉から「熊野惣地」に任命される 4 。これは、熊野地方全域における彼の支配権を豊臣政権が公式に承認したことを意味し、堀内氏善の権勢が頂点に達した瞬間であった。

慶長3年(1598年)8月、秀吉がその生涯を閉じると、その遺品分与に際して、氏善は名刀「村正」を拝領している 5 。これは、彼が豊臣家にとって軽んじることのできない、重要な大名の一人として認識されていたことの証左である。一介の地方豪族から、天下人の下で熊野一円を支配する大名へ。氏善は、秀吉の時代にその栄華を極めたのである。

第三部:没落と再起

豊臣秀吉という絶対的な権力者の死は、日本の政治情勢を再び流動化させた。堀内氏善は、天下分け目の大戦において、一族の運命を賭けた大きな決断を迫られる。その選択は、彼を栄光の座から引きずり下ろす一方で、予期せぬ再起の道へと繋がっていく。

第四章:関ヶ原、運命の決断

慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦い。この歴史的な大戦において、堀内氏善は西軍に与するという選択を下した。

第一節:西軍加担の背景 ― 八万石の野望と義父・九鬼嘉隆

氏善が西軍に加担した背景には、二つの大きな要因があった。第一は、石田三成から提示された破格の条件である。三成は氏善に対し、西軍が勝利した暁には、現在の所領に加えて紀伊国牟婁郡一円、実に8万石もの加増を約束したという 5 。当時、実質6万石近くを支配していたとはいえ、公称2万7,000石の大名であった氏善にとって、この提案は自らの勢力を飛躍的に増大させる絶好の機会であり、その野心を大いに刺激するに足るものであった。

第二の要因は、姻戚関係である。氏善の正室は、同じく熊野灘に勢力を張る水軍の将、九鬼嘉隆の養女(一説には有馬中務の娘で、嘉隆の養女となったとされる)であった 5 。この九鬼嘉隆もまた、息子の守隆が東軍に付いたにもかかわらず、自身は旧恩に報いるとして西軍に加担していた。義理の親子という強い絆で結ばれた嘉隆と行動を共にすることは、氏善にとって自然な選択であった可能性が高い 5 。野心と義理、この二つが、氏善を西軍へと導いたのである。

第二節:伊勢での戦いと敗走、そして改易

西軍への加担を決めた氏善は、約350名の軍勢を率いて、九鬼嘉隆と共に伊勢方面へ侵攻した 5 。しかし、彼らの戦いが決着を見る前に、同年9月15日、美濃国関ヶ原における本戦で、西軍はわずか半日で壊滅的な敗北を喫してしまう。

主力の敗報に接した氏善は、戦意を喪失。直ちに軍を返し、居城である新宮城へと逃げ帰った(逐電) 5 。しかし、もはや彼の安住の地はどこにもなかった。同年10月には、東軍に属する和歌山城主・桑山一晴の軍勢が新宮城に迫る。抵抗する術もなく、氏善は降伏し、城を明け渡した 5

戦後、徳川家康による論功行賞と処罰が行われ、西軍に与した堀内氏善は、その全ての所領を没収された 4 。熊野に君臨した戦国大名・堀内家は、ここに改易となり、歴史の表舞台から一旦姿を消すことになったのである。

第五章:肥後の客将として

大名としての地位を失った堀内氏善であったが、その人生はまだ終わらなかった。彼の持つ類稀な能力が、意外な形で再評価され、異郷の地・肥後国で第二の人生を歩むことになる。

第一節:加藤清正との邂逅 ― 敗将の再登用

改易後、氏善は紀伊国海部郡加太村(現在の和歌山市加太)に蟄居していたと伝えられる 14 。しかし、ほどなくして彼は赦免される。その理由として、「西軍への加担は消極的であったため」と記録されているが 5 、これは表向きの名分であった可能性が高い。

氏善を救ったのは、肥後熊本52万石の大名、加藤清正であった。清正は、敗将である氏善を2,000石の客将として自らの家中に召し抱えたのである 5 。この一見、温情にも見える采配の裏には、清正の冷徹な戦略的判断があった。

清正が治める肥後国は、かつて佐々成政の失政が原因で大規模な国人一揆が勃発するなど 22 、在地勢力の力が強く、統治が極めて難しい土地であった 25 。また、有明海と八代海という二つの内海に面しており、海上交通の管理と海防体制の構築は、領国経営における最重要課題の一つであった。

ここに、清正が氏善を登用した真の理由が見出せる。堀内氏善は、数十年間にわたり熊野水軍を率い、豊臣政権下では朝鮮出兵にも従軍した、日本でも屈指の水軍指揮官であった 5 。彼の持つ海事に関する豊富な知識、操船技術、そして水軍編成の経験は、肥後の海を掌握しようとする清正にとって、金銭では購えないほどの価値があった。清正は、能力さえあれば出自や過去を問わない実力主義的な人材登用で知られており 26 、氏善の招聘は、まさにその経営感覚の鋭さを示すものであった。これは単なる敗将の救済ではなく、肥後統治という大きな戦略目標を達成するための、極めて合理的な人事だったのである。

第二節:宇土城代としての統治と最期

加藤清正の家臣となった堀内氏善は、宇土城の城代(城番)に任じられた 5 。宇土は、関ヶ原で清正に滅ぼされたキリシタン大名・小西行長の旧本拠地であり、肥後の中でも特に重要な戦略拠点であった。かつての敵将の拠点を、同じく西軍の敗将であった氏善に任せるという人事にも、清正の周到な配慮が窺える。

氏善は数年間、宇土城代としてその任を務めたが、慶長17年(1612年)、幕府の一国一城令によって宇土城が破却されると、城代の職を解かれた 5

その後の氏善の最期については、史料によって若干の差異が見られる。通説では、慶長20年(1615年)4月10日、主君・清正の死から約4年後、熊本城内において67歳で病死したとされている 5 。一方で、慶長14年(1609年)に没したとする記録も存在し 28 、その没年には検討の余地が残る。

彼の法名は「笑翁(しょうおう)」 5 。熊野の大名として栄華を極め、関ヶ原で全てを失い、最後は異郷の客将として静かに生涯を終えた男の法名としては、どこかその波乱万丈な人生を達観したかのような響きがある。その墓は、かつて城代を務めた宇土市の三宝院に、今も静かに佇んでいる 5 。また、長崎県南島原市の安楽寺にも墓所が伝わっている 5


表1:堀内氏善 関連年表

西暦

和暦

氏善の年齢

堀内氏善・堀内家の動向

関連する国内外の出来事

主要な関連人物

1549年

天文18年

1歳

紀伊国にて堀内氏虎の子として誕生 5

-

堀内氏虎

1574年

天正2年

26歳

父・氏虎の死と兄・氏高の早世により、堀内家の家督を相続。有馬氏を併呑 5

-

-

1576年

天正4年

28歳

北畠信雄と志摩・紀伊国境の城を巡り争う 5

-

北畠信雄

1581年

天正9年

33歳

織田信長に仕え、熊野社領を安堵される 5

-

織田信長

1582年

天正10年

34歳

本能寺の変後、山崎の戦いで羽柴秀吉に属す 5

本能寺の変、山崎の戦い

羽柴秀吉

1585年

天正13年

37歳

秀吉の紀州征伐に対し降伏し、本領を安堵される。その後、秀吉方として一揆鎮圧に参加 5

秀吉、関白に就任。

豊臣秀吉

1591年

天正19年

43歳

秀吉より「熊野惣地」に任命される 4

-

豊臣秀吉

1592年

文禄元年

44歳

文禄の役(朝鮮出兵)に熊野水軍を率いて従軍 5

文禄の役

-

1600年

慶長5年

52歳

関ヶ原の戦いで西軍に属し、伊勢方面へ侵攻。敗戦により改易、所領を没収される 5

関ヶ原の戦い

石田三成, 九鬼嘉隆, 徳川家康

(時期不詳)

慶長年間

50代

加藤清正に2,000石で召し抱えられ、宇土城代となる 5

-

加藤清正

1615年

慶長20年

67歳

熊本城内で病死(異説あり)。享年67 5

大坂夏の陣

-


第四部:堀内家の遺産

堀内氏善個人の物語は肥後の地で幕を閉じたが、「堀内家」の歴史はそこで終わらなかった。むしろ、氏善が残した多くの子息と、彼らが紡いだ人間関係が、一族の血脈を近世、そして現代へと繋ぐ礎となった。それは、当主一人の成功や失敗だけでは測れない、一族全体の生存戦略の勝利であった。

第六章:子孫たちの行く末

氏善の死後、彼の子らは父の旧領回復を夢見て、再び歴史の渦中へと身を投じる。その選択は、一族に新たな危機と、そして劇的な再興の機会をもたらした。

第一節:大坂の陣と千姫救出 ― 旗本・堀内氏久の誕生

慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発すると、氏善の子である新宮行朝(しんぐう ゆきとも)や堀内主水氏久(ほりうち もんど うじひさ)らは、旧領回復を期して豊臣方の招きに応じ、大坂城に入城した 5 。彼らは、父が失った熊野の地を取り戻す最後の好機と捉えたのであろう。

翌慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣家は滅亡する。豊臣方として戦った堀内家の兄弟たちも、本来であれば死罪か、よくても厳しい処罰を免れないはずであった。しかし、この絶体絶命の状況で、劇的な出来事が起こる。

燃え盛る大坂城から脱出しようとしていた徳川家康の孫娘であり、豊臣秀頼の正室であった千姫の一行に、息子の一人・堀内氏久が偶然遭遇したのである。氏久は彼女を護衛し、徳川方の坂崎直盛の陣まで無事に送り届けた 5

この功績は、敵方であった氏久の運命を大きく変えた。家康は孫娘の命の恩人である氏久の罪を特別に許し、それどころか下総国に500石の知行地を与え、徳川家の直参である旗本として召し抱えたのである 29 。関ヶ原で改易された堀内家は、当主・氏善の死の直後、その息子・氏久の働きによって、江戸幕府の体制下で家名を再興するという、数奇な運命を辿った。

第二節:藤堂家、紀州徳川家に仕えた子ら

堀内氏久の千姫救出の功績は、彼自身だけでなく、大坂城に籠城した他の兄弟たちの命も救った。彼らもまた赦免され、それぞれが新たな主君の下で武士としての道を歩むことになった。

兄の新宮行朝(本名・堀内氏弘)は、伊勢国津藩の藩主・藤堂高虎に仕官したと伝えられる 5 。また、別の息子である堀内右衛門兵衛氏治(うじはる)も、同じく藤堂家に仕えた。氏治の仕官には明確な背景があった。彼の妻は、藤堂家の重臣であった長(ちょう)氏の娘であり、しかもその姉妹は二代藩主・藤堂高次の生母であった 29 。この極めて有力な縁故を頼り、氏治は藤堂家から千五百石という厚遇で迎えられている 2

さらに、有馬氏時(うじとき)と名乗った息子は、旧領・紀伊国を治めることになった紀州徳川家に仕えた 5

これらの事実を俯瞰すると、堀内一族の巧みな生存戦略が見えてくる。氏善は、関ヶ原の戦いで大名としての地位を失うという大きな失敗を犯した。しかし、彼は多くの子息を残し、また生前から藤堂家のような有力大名家と婚姻関係を結ぶなど、周到な布石を打っていた。その結果、一族は旗本、藤堂家臣、紀州徳川家臣と、それぞれ異なる有力な権力基盤を持つ家中に分散して仕えることになった。これは、一つの家が没落しても、別の家が生き残ることで一族全体の血脈を存続させるという、戦国時代の大名がしばしば用いた「分散投資」的な戦略の成功例と見ることができる。氏善は当主としては敗者であったかもしれないが、一族の長としては、結果的に堀内家の血を近世へと繋ぐことに成功したのである。


表2:堀内氏 略系図

Mermaidによる関係図

graph TD A[堀内氏虎] --> B["堀内氏善 安房守"] A --> C["堀内氏高 早世"] subgraph 堀内氏善の子女 B --> D["新宮行朝 (氏弘) 藤堂高虎に仕官"] B --> E["堀内氏久 (主水) **旗本として家名再興** (千姫救出の功)"] B --> F["堀内氏治 (右衛門兵衛) 藤堂高虎に仕官 (妻の縁故)"] B --> G["有馬氏時 紀州徳川家に仕官"] B --> H["その他"] end I((九鬼嘉隆)) -- 養女 --> B

注:系図は主要な人物と動向を簡略化して示している。氏善には重朝、道慶、氏清など、他にも複数の子がいたと伝えられるが、その詳細は史料によって異なり、錯綜している 5


第三節:赤穂事件と堀内伝右衛門 ― 一族の記憶

堀内一族の名は、江戸時代中期、意外な形で再び歴史の記録に現れる。元禄15年(1702年)の赤穂事件である。吉良邸への討ち入り後、赤穂浪士の一団(大石主税ら十七名)を預かることになった肥後熊本藩細川家において、その世話役を務めた人物の中に、「堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん)」という武士がいた 5

この堀内伝右衛門は、堀内氏善の一族の子孫であったとされている 5 。彼は浪士たちに深い同情を寄せ、親身に世話をしたことで知られる。そして、彼が浪士たちとの対話やその最期の様子を詳細に書き残した『堀内伝右衛門覚書』(別名『赤城義臣対話』)は、赤穂事件の実像を伝える第一級の史料として、今日まで高く評価されている 37

熊野の大名であった堀内氏善の血脈が、時代を経て、肥後の地で細川家の家臣となり、日本の歴史上最も有名な事件の一つである赤穂事件の重要な証言者としてその名を残した。これは、堀内一族の物語が、単なる一地方領主の興亡史に留まらず、形を変えながらも日本の歴史の節目節目に関わり続けていたことを示す、興味深いエピソードである。

終章:堀内氏善が残したもの

堀内氏善の67年の生涯は、まさに戦国時代の激動を凝縮したものであった。熊野という、宗教的権威と海上軍事力が密接に結びついた特異な地域を基盤とし、巧みな戦略で紀伊半島南部に覇を唱えた。彼は、織田、豊臣という中央の巨大権力と渡り合い、時には抵抗し、時には臣従することで、一時は豊臣大名としてその栄華を極めた。しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いにおける一つの判断が、彼と彼の一族を没落へと導いた。その意味で、彼は戦国乱世に生き、そして時代に取り残された典型的な武将の一人であったと言える。

しかし、彼の物語は単なる敗者のそれではない。大名としての堀内家は滅びたが、一族としての堀内家は生き残った。氏善が残した多くの子息と、彼が生前に築き上げた多様な人脈は、一族存続のための強固な「保険」となった。大坂の陣での千姫救出という奇跡的な功績は、その最たる例である。結果として、堀内家の血脈は旗本として、また有力大名の家臣として、江戸時代を通じて受け継がれていった。

堀内氏善の生涯は、我々に二つの重要な視点を提供する。一つは、中央集権化の大きな歴史の潮流の中で、地方の独立勢力がどのように翻弄され、あるいは適応していったかというミクロな視点である。彼の現実主義的な選択の連続は、イデオロギーや忠誠心だけでは語れない、戦国武将の生々しい生存戦略を浮き彫りにする。

もう一つは、個人の成功や失敗を超えた、一族という単位でのレジリエンス(回復力)の物語である。当主の没落が必ずしも一族の終わりを意味しないという事実は、戦国から近世への移行期における社会の複雑さと、人々が駆使した多様な生存術の奥深さを示している。

歴史の波間に埋もれがちな熊野の龍、堀内氏善。その生涯を深く掘り下げるとき、我々は中央の英雄たちの物語だけでは見えてこない、もう一つの戦国史の姿を発見するのである。

引用文献

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