出雲松江藩二代藩主、堀尾忠晴(1599-1633)は、今日の松江市の礎を築いた堀尾氏三代の最後の当主である。しかし、その名は豊臣秀吉の下で「仏の茂助」と称された祖父・吉晴の偉大な功績と、わずか三代で家が断絶するという悲劇的な結末の影に覆われ、歴史の中で正当な評価を受けてきたとは言い難い 1 。彼の人物像は、大坂の陣で見せた機知に富んだ逸話や、幼くして家督を継いだ薄幸の君主といった、断片的なイメージで語られることが多い 3 。
本報告は、こうした断片的な知識の集合に留まることなく、現存する史料を丹念に読み解き、堀尾忠晴の生涯を多角的に検証するものである。彼の誕生から、幼少期の御家騒動、武将としての初陣、そして藩主としての統治能力、さらには堀尾家改易の直接的な原因となった後継者問題の真相に至るまで、その全貌を体系的に再構築する。
忠晴の生涯は、豊臣恩顧の大名が徳川幕藩体制という新たな秩序の中でいかに生き、そして時に淘汰されていったかという、江戸時代初期の激しい政治力学を象徴する一つの縮図である。本報告を通じて、彼の人生の軌跡をたどることは、一人の武将の実像を明らかにするだけでなく、一つの時代が終わり、新たな時代が確立される過渡期の力学と、そこに生きた人々の運命を深く理解することに繋がるであろう。
堀尾忠晴の生涯を理解するためには、まず彼が背負った一族の歴史と、祖父・父が築き上げた遺産を把握することが不可欠である。堀尾家は、戦国の乱世を駆け上がり、徳川の世の黎明期に大藩を領するに至ったが、その栄光は常に危うい均衡の上に成り立っていた。
堀尾家の名を天下に知らしめたのは、忠晴の祖父である堀尾吉晴(1544-1611)である。尾張国の豪族・高階氏の支流に生まれた吉晴は、織田信長、そして豊臣秀吉に仕える中で頭角を現した 1 。その人柄は、温厚で情け深く、家臣や浪人に対しても手厚く遇したことから「仏の茂助」と称された 6 。しかし、ひとたび戦場に立てば、その勇猛さから「鬼の茂助」と恐れられるほどの武将であった 9 。この「仏」と「鬼」の二面性は、交渉と武勇が共に求められた乱世を生き抜くための資質であり、後の忠晴の人物像を考察する上でも重要な鍵となる。
吉晴は、山崎の合戦で鉄砲隊を率いて天王山を確保するなど数々の武功を立てる一方、その誠実な人柄から交渉役としても秀吉の厚い信頼を得た 6 。その結果、豊臣政権下では生駒親正、中村一氏と共に大老と奉行の調停役である「三中老」の一人に任じられ、遠江浜松12万石の大名にまで上り詰めた 1 。これは、堀尾家が単なる武功の家ではなく、豊臣政権の中枢を担う直系大名として、確固たる地位を築いていたことを示している。
吉晴の跡を継いだのが、忠晴の父である堀尾忠氏(1577/78-1604)である。慶長4年(1599年)、父の隠居に伴い家督を相続すると、彼は時代の大きな転換点に直面する 11 。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、忠氏は徳川家康率いる東軍に与し、前哨戦である岐阜城攻めなどで武功を挙げた 11 。この的確な政治判断と戦功が評価され、戦後、堀尾家は出雲・隠岐両国24万石へと加増転封され、忠氏は松江藩初代藩主となった 1 。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。忠氏は、山間の要害であった月山富田城から、水運の便に優れた松江の地へ拠点を移し、新たな城下町を建設するという壮大な計画に着手した矢先の慶長9年(1604年)、27歳(または28歳)という若さで急逝してしまう 1 。伝承によれば、その死因は領内視察中にマムシに咬まれたためとされている 3 。父の早すぎる死は、堀尾家に計り知れない衝撃を与え、わずか6歳の忠晴に過酷な運命を強いる直接的な原因となった。
堀尾忠晴は、慶長4年(1599年)、堀尾忠氏の長男として生を受けた。母は豊臣五奉行の一人であった前田玄以の娘・長松院であり、彼は豊臣政権の有力者たちの血を引く、まさに時代の申し子であった 1 。
しかし、彼が生まれた年は、豊臣秀吉が没し、徳川家康が天下掌握へと動き出す、まさに日本の歴史が大きく転換する激動の時代であった。豊臣恩顧の大名という出自と、徳川の世という新たな現実。この二つの要素の狭間で、堀尾家の、そして忠晴自身の運命は形作られていくことになる。祖父が築き、父が守り抜いた家を、彼は徳川の治世下でいかにして継承していくのか。その問いは、彼の誕生と共に始まったのである。
年号(西暦) |
堀尾吉晴の動向・年齢 |
堀尾忠氏の動向・年齢 |
堀尾忠晴の動向・年齢 |
主要な歴史的出来事 |
天文13年 (1544) |
誕生 (1歳) |
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天正6年 (1578) |
秀吉に仕える (35歳) |
誕生 (1歳) |
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- |
天正10年 (1582) |
山崎の戦いで活躍 (39歳) |
(5歳) |
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本能寺の変 |
天正18年 (1590) |
遠江浜松12万石を拝領 (47歳) |
(13歳) |
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豊臣秀吉、天下統一 |
慶長4年 (1599) |
隠居、三中老に就任 (56歳) |
家督相続 (22歳) |
誕生 (1歳) |
前田利家死去 |
慶長5年 (1600) |
(57歳) |
関ヶ原の戦いで戦功、出雲・隠岐24万石に転封 (23歳) |
(2歳) |
関ヶ原の戦い |
慶長9年 (1604) |
孫・忠晴の後見人となる (61歳) |
急逝 (27歳) |
家督相続 (6歳) |
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慶長12年 (1607) |
松江城築城を開始 (64歳) |
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(9歳) |
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慶長16年 (1611) |
6月、死去 (68歳) |
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松江城完成、元服し「忠晴」と名乗る (13歳) |
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慶長19年 (1614) |
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大坂冬の陣に初陣 (16歳) |
大坂冬の陣 |
寛永10年 (1633) |
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9月、江戸で死去 (35歳) |
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寛永11年 (1634) |
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堀尾家、無嗣改易 |
父・忠氏の急逝は、堀尾家を未曾有の危機に陥れた。わずか六歳の藩主の誕生は、家中に深刻な動揺をもたらし、それはやがて「出雲騒動」として知られる御家騒動の伝承へと繋がっていく。しかし、この騒動は単なる家督争いの物語ではなく、忠晴が名実ともに藩主となるための、避けては通れない試練であった。
慶長9年(1604年)、父の死を受けて、忠晴(幼名:三之助)は出雲・隠岐24万石の大藩の当主となった 1 。しかし、六歳の幼児に藩政を担うことは不可能であり、隠居の身であった祖父・吉晴が後見人として再び政治の表舞台に立ち、事実上の藩主として采配を振るった 1 。この吉晴による後見政治は、彼が慶長16年(1611年)に没するまでの約7年間続く。この期間、堀尾家の最重要課題であった松江城の築城と城下町の建設が強力に推進された 3 。吉晴の存在は、幼君を戴く堀尾家の体制を安定させ、内外の危機から家を守る防波堤の役割を果たしたのである。
吉晴の後見体制下で、堀尾家の家督を巡る不穏な動きがあったと伝えられている。それが「出雲騒動」または「堀尾河内守の乱」と呼ばれる御家騒動の伝承である。
この伝承によれば、堀尾家の筆頭家老であり、吉晴の娘婿(忠晴の伯母の夫)でもあった野々村河内守(堀尾河内守とも)が、自らの子を忠晴に代わって当主に据えようと画策したとされる 3 。彼は、吉晴が松江城の普請に専念している隙を突き、居城であった月山富田城にいた幼い忠晴を奥深くに監禁し、刺客を放って暗殺しようと試みた。しかし、この企ては忠晴の乳母らの機転によって露見し、忠晴は辛くも難を逃れたという 3 。この物語は、大藩の家督を巡る生々しい権力闘争が、幼い当主の足元で繰り広げられていた可能性を示唆している。
この劇的な伝承は、しかし、史料と照らし合わせるといくつかの矛盾点が見られる。伝承では慶長13年(1608年)頃の事件とされることが多いが、当事者である堀尾河内守は、元和3年(1617年)の神社の棟札に忠晴と共に大願主として名を連ねており、この時点では藩の重臣として活動していたことが確認できる 20 。
実際に堀尾河内守が失脚するのは、元和6年(1620年)のことである。史料によれば、この年、成人した忠晴は自ら「家臣の不届き」を幕府に訴え出ている。これを受けて二代将軍・徳川秀忠が裁可を下し、堀尾河内守は隠岐へと流罪に処された 20 。この一連の動きは、伝承にあるような陰謀の発覚という形ではなく、藩主である忠晴が幕府の権威を背景に、藩内の特定勢力を排除した「政治的事件」であったことを強く示唆している。
つまり、「出雲騒動」の実態は、後見人であった祖父・吉晴の死後、親政を開始した忠晴が、藩内の旧来の権力構造を刷新し、自らの支配体制を確立するために行った政治的粛清であった可能性が高い。幼君の時代に権勢を振るった重臣を、成人した藩主が幕府の権威を利用して排除するという構図は、江戸初期の大名家では決して珍しいものではなかった。この元和6年の事件が、後世に脚色され、より劇的な「暗殺未遂事件」という伝承として語り継がれていったと考えられる。この一件は、忠晴が単なるお飾りの君主ではなく、自らの権力基盤を築くために行動する、主体的な統治者であったことを示す最初の重要な証拠と言えるだろう。
祖父・吉晴の死と家中の整理を経て、名実ともに松江藩主となった堀尾忠晴。彼が武将としての器量を天下に示す機会は、まもなく訪れた。慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣である。この戦いで彼が残した逸話は、忠晴の人物像を語る上で欠かすことのできない輝きを放っている。
大坂の陣に先立つ慶長16年(1611年)、祖父・吉晴が没すると、忠晴は江戸に参府し、二代将軍・徳川秀忠に拝謁した。この時、将軍の名の一字である「忠」の字を賜り、それまでの幼名「三之助」から「忠晴」と名乗るようになった 3 。これは、単なる元服の儀式ではない。将軍から偏諱を受けることは、徳川家への臣従を誓い、その幕藩体制の一員として正式に認められたことを意味する。豊臣恩顧の大名であった堀尾家にとって、これは徳川の世を生き抜くための極めて重要な政治的儀礼であった。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、忠晴は16歳の若さで徳川方として初陣を飾る。戦場は、大坂城の東方を守る要衝・今福であった。この戦いで、友軍である佐竹義宣の部隊が豊臣方の猛攻に遭い、苦戦を強いられていた。これを見た忠晴は、すぐさま自軍を動かして佐竹隊を救援し、見事に敵を打ち破って武功を立てた 3 。
しかし、この武功が思わぬ事態を招く。戦後、佐竹家から忠晴の陣に使者が訪れ、礼を述べるどころか、「先の退却は敵を深く誘い込むための偽装であった。貴殿の救援はその作戦を台無しにした」と抗議してきたのである。さらに、この一件は幕府の軍監の耳にも入り、忠晴は軍令を無視した行動であるとして軍奉行から詰問を受けることになった 3 。
絶体絶命の若き藩主。しかし、忠晴は臆することなく、微笑みさえ浮かべてこう応じたと伝えられている。
「古来より、眼前に苦戦する友軍を見捨て、また迫り来る敵を『これは誰々の担当すべき敵だ』と言って見過ごした武士がいたでしょうか。今後も、我が前に敵が現れれば、それが誰の敵であろうと戦う所存です。ご容赦ありたい」 3
この堂々たる返答に、歴戦の軍奉行も返す言葉を失い、忠晴の器量に感心したという。
この逸話は、忠晴の単なる若武者としての勇猛さを示すものではない。それは、徳川が定めた新しい時代の「軍法」という秩序と、戦国時代から続く武士の「道理」という価値観が衝突した瞬間であった。忠晴の対応は、幕府の権威を前にしても決して萎縮せず、武門の理をもって自らの正当性を主張する、冷静な判断力と類稀なる胆力、すなわち「大将の器量」を証明するものであった。
この一件は、祖父・吉晴が持っていた「鬼の茂助」の武勇と、「仏の茂助」の理知的な側面の双方を、忠晴が確かに受け継いでいたことを示唆している 21 。彼は、新しい時代の秩序に従う一方で、武士としての矜持を失わないという、過渡期に生きる大名としての絶妙なバランス感覚を体現していた。この初陣での輝きは、忠晴が単なる名目上の藩主ではなく、実戦において家臣を率いるに足る、信頼すべき武将であることを内外に強く印象付けたのである。
大坂の陣で武将としての評価を確立した堀尾忠晴は、その後、藩主として領国経営にその手腕を発揮する。父祖の遺志を継いで完成させた松江城と城下町は、彼の統治者としての最大の功績であり、その先進的な思想は今日の松江の街並みにまで受け継がれている。
堀尾氏が出雲に入封した当初、その居城は中世以来の山城である月山富田城であった。しかし、父・忠氏は、この山城が平時の領国経営や経済活動には不向きであると判断し、水陸交通の要衝である宍道湖畔の亀田山に新たな城と城下町を建設することを計画した 14 。
この壮大な計画は、忠氏の早世と吉晴の後見を経て、忠晴の代に引き継がれた。そして慶長16年(1611年)、5年の歳月をかけた難工事の末、壮麗な天守を持つ松江城が完成する 3 。これにより、忠晴は名実ともに松江城の初代城主となった 9 。
特筆すべきは、城下町の巧みな設計である。堀尾氏は、城の周囲に広がる湿地帯という地理的弱点を逆手に取り、これを防御と水運のための広大な水路網として活用した 24 。内堀や外堀に加え、京橋川や米子川といった自然の河川を巧みに組み合わせ、城の守りを固めると同時に、城下町の隅々まで物資を運ぶための水運の幹線を整備したのである 24 。この合理的かつ綿密な都市計画こそが、今日の「水の都・松江」の原型を築いたのであり、忠晴の治世における最大の功績と言える。
祖父・吉晴の死後、親政を開始した忠晴は、藩主として主体的な統治を展開する。元和6年(1620年)以降、忠晴自身が発給する文書が増加しており、彼が藩政の主導権を完全に掌握したことがうかがえる 20 。
藩内においては、第二章で述べた堀尾河内守の処罰などを通じて家中の権力構造を刷新し、自らの支配体制を固めた。その下で、堀尾采女のように、若い藩主を補佐し、時には遊興に耽る忠晴を諫言する有能な重臣たちが藩政を支えた 26 。
対外的には、外様大名として幕府への忠勤に励んだ。元和5年(1619年)、同じく豊臣恩顧の有力大名であった福島正則が改易された際には、広島城の城受け取りという重要な役目を滞りなく務めている 3 。また、寛永9年(1632年)には幕命により伊勢亀山城の修築作業を担うなど、普請役も忠実に果たした 3 。さらに、領内の重要産業であった製鉄業においても、環境への影響を考慮してか「鉄穴流し」を一時禁止するなど、産業への統制も行っていた記録が残る 23 。
堀尾家が徳川体制下で生き残るための最大の布石が、将軍家との姻戚関係であった。忠晴は、正室に二代将軍・徳川秀忠の養女であるビン姫を迎えた 18 。ビン姫は、徳川家康の長女・亀姫の孫、すなわち家康の曾孫にあたる女性であり、血筋の上でも極めて将軍家に近い存在であった 18 。
この婚姻は、堀尾家が単なる外様大名ではなく、将軍家の縁戚、すなわち準親藩ともいえる特別な地位を得たことを意味する。これは、豊臣恩顧という出自を持つ堀尾家にとって、これ以上ない強力な安全保障となるはずであった。藩主としての着実な統治と、幕府への忠勤、そして将軍家との強固な縁。忠晴は、堀尾家が徳川の世で永続するためのあらゆる手を打っていた。しかし、その盤石に見えた体制は、彼の早すぎる死によって、あまりにもあっけなく崩れ去ることになる。
藩主として着実に治績を積み、徳川家との関係も盤石にしたかに見えた堀尾忠晴。しかし、彼の人生と堀尾家の運命は、あまりにも突然に、そして悲劇的な形で終焉を迎える。それは、個人の力では抗いようのない、江戸初期の厳格な武家社会の論理と、幕府の冷徹な政治判断が交錯した結果であった。
寛永10年(1633年)9月、忠晴は参勤交代のため滞在していた江戸の藩邸で病に倒れ、35歳という若さで急逝した 1 。正室のビン姫との間にも、また側室との間にも、家を継ぐべき男子は生まれていなかった 1 。これにより、出雲・隠岐24万石を領する大名・堀尾家は、突如として断絶の危機に瀕したのである。
忠晴の死によって、堀尾家の後継者問題は極めて複雑な様相を呈した。なぜなら、彼には二人の「後継者候補」が存在したからである。
第一の候補は、堀尾泰長であった。彼は忠晴の母方の従兄弟にあたり、公家である三条西家の五男・公紀であったが、以前から万が一に備えて忠晴の養子として迎えられていた 18 。
第二の候補は、石川廉勝(通称:宗十郎)である。彼は忠晴の父方の従兄弟であると同時に、忠晴の一人娘の夫、すなわち娘婿であった 18 。祖父・吉晴の血を引く、堀尾一門で最も血縁の近い男性親族の一人であった。
死の床にあった忠晴が最後に望んだのは、この娘婿・廉勝を「末期養子(まつごようし)」として家を継がせることであった。彼は、既に養子としていた公家出身の泰長ではなく、血の繋がりのある廉勝に堀尾家の未来を託そうと、幕府に必死の嘆願を行ったのである 3 。
堀尾忠晴の養子縁組関係図
Mermaidによる関係図
図注:この図は、堀尾忠晴の死に際しての後継者問題の複雑な人間関係を示している。
しかし、忠晴の最後の願いは、幕府によって無情にも退けられた。その背景には、当時の幕府が敷いていた厳格な大名統制策があった。
第一に、幕府は当主が死の直前に後継者を指名する「末期養子」を、原則として認めていなかった 30 。これは、大名家の跡目相続に幕府が介入し、その権威を示すための重要な政策であった。養子縁組は、当主が存命のうちに幕府の許可を得ておくのが絶対のルールであり、忠晴の願いはこれに真っ向から抵触した。
第二に、寛永期は三代将軍・家光の下で幕府の権力基盤が確立された時期であり、加藤家(熊本藩)や蒲生家(会津藩)といった有力な外様大名が、些細な理由で次々と改易されていた 30 。豊臣恩顧の大藩である堀尾家もまた、幕府の警戒対象であり、後継者問題という絶好の機会を捉えて取り潰しの対象とされた可能性は高い。
忠晴の誤算は、二重の備えが逆に仇となったことかもしれない。既に公家から養子(泰長)を迎えているにもかかわらず、死に際に別の人物(廉勝)を立てようとしたことは、幕府に「家中の相続が定まっていない」と見なされ、介入の格好の口実を与えてしまった。将軍秀忠の養女を娶るという最大の安全保障も、その秀忠が前年に死去していたこともあり、家光政権下では何ら効力を発揮しなかった。
かくして、後継者なしと判断された堀尾家は、「無嗣断絶」として改易を命じられた。出雲・隠岐24万石の広大な所領は全て没収され、祖父・吉晴の代から三代続いた大名家としての堀尾家は、その歴史に幕を下ろしたのである 2 。
忠晴のあらゆる努力と、家の存続にかけた願いは、時代の非情な論理の前に水泡に帰した。彼の死後、松江藩は京極忠高、そして徳川家康の孫である松平直政へと引き継がれていく 14 。堀尾家の悲劇は、江戸初期における「家」の存続が、当主の能力や努力だけではどうにもならない、巨大な政治システムの中に組み込まれていたことを痛切に物語っている。
堀尾忠晴の生涯は、35年という短いものであり、その終わりは家の断絶という悲劇的な結末を迎えた。しかし、彼の存在を単なる悲劇の主人公として片付けることは、その歴史的功績を見誤ることになる。彼が遺したものは、今日の私たちにも確かに受け継がれている。
忠晴の最大の功績は、祖父・吉晴と共に、現在の島根県の県都である松江市の礎を築いたことである 2 。彼らが計画し、完成させた松江城と、水の特性を巧みに利用した城下町は、単なる軍事拠点や政治の中心地ではなかった。それは、近世城下町としての機能性と合理性を備えた先進的な都市計画の結晶であり、その骨格は400年以上の時を経た今もなお、「水の都」松江の美しい景観として生き続けている。藩主としての彼の治績は、もっと評価されて然るべきである。
同時に、忠晴の生涯は、一つの時代を象徴するものであった。戦国の遺風を色濃く残しながらも、徳川が築く新たな秩序に適応しようと苦心した外様大名の典型であった。大坂の陣で見せた武士の矜持、幕府への忠実な奉公、そして将軍家との姻戚関係。それら全ては、激動の過渡期を生き抜くための必死の努力であった。その成功と最終的な挫折は、徳川幕藩体制が確立していく過程の光と影そのものを映し出している。
改易後、堀尾一族の血脈が完全に途絶えたわけではない。一部は他家に仕官するなどして、その名を後世に伝えた 18 。また、忠晴の墓所は、彼が築いた松江の円成寺や京都の妙心寺春光院などに現存し、その短いながらも濃密な生涯を静かに今に伝えている 18 。さらに、堀尾家の家紋である「分銅」は、後に高家前田家によって使用され、明治時代にはその家系から堀尾姓の分家が届け出られることで、形を変えつつも家名は復興を果たした 18 。
堀尾忠晴の物語は、大名家の断絶という終着点だけで語られるべきではない。それは、新しい時代の秩序を築き上げた統治者としての顔と、巨大なシステムの前に夢破れた一人の人間の顔を持つ、複雑で奥行きのある歴史の一幕なのである。