戦国大名里見氏、その百七十年にわたる房総支配の終焉を見届けた家臣、堀江能登守頼忠(ほりえのとのかみよりただ)。彼の名は、華々しい武功によってではなく、主家が最も困難な局面にあった際に見せた揺るぎない忠誠心と、卓越した政治手腕によって歴史に刻まれている。里見氏最後の当主・忠義に寄り添い、故郷安房を離れて終焉の地、伯耆国倉吉(現在の鳥取県倉吉市)まで従ったその生涯は、戦国の世が終わり、徳川の泰平の世へと移行する時代の大きな転換点を象徴する。
しかし、その人物像には多くの謎が残されている。出自は諸説紛々とし、史料にその名が登場するのはキャリアの後半からである。彼の評価は、しばしば『南総里見八犬伝』に代表される物語のイメージと混同され、「忠臣」という側面が強調される一方で、行政官としての具体的な功績は見過ごされがちであった。特に、彼の記憶が活動の拠点であった房総よりも、終焉の地・倉吉において色濃く継承され、祭りの中で顕彰され続けている事実は、歴史的記憶が形成される地域性と文化的背景を考察する上で、極めて興味深いテーマを提示している 1 。
本報告書は、断片的に残された棟札、古文書、そして各地の伝承といった史料を丹念に繋ぎ合わせ、堀江頼忠の生涯を多角的に検証するものである。出自の謎から、里見家臣としての功績、主家改易の際の苦渋の決断、そして倉吉での最期と後世における評価に至るまで、その実像を徹底的に追求する。これにより、単なる一地方武将の伝記に留まらず、戦国から近世への移行期を生きた家臣の生き様と、後世に「忠義」の記憶がどのように形成され、語り継がれていくのかという、より大きな歴史の力学を明らかにすることを目的とする。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物・事項 |
典拠・備考 |
不明 |
生誕 |
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生年不明。1568年説もある 2 。 |
元亀元年(1570) |
頼忠寺創建(寺伝) |
里見義頼、明室宗鑑 |
菩提寺である頼忠寺の寺伝による創建年 3 。史料上の裏付けは乏しい。 |
天正6年(1578) |
里見義弘死去、天正の内乱勃発 |
里見義頼、正木憲時 |
この内乱の際に、正木憲時を見限り義頼に仕えたとする説がある 4 。 |
天正15年(1587) |
鹿野山神野寺の棟札に名が見える |
里見義康 |
史料上の初見。「堀能」(堀江能登守)と記され、この時点で能登守を称していた 5 。 |
天正18年(1590) |
小田原征伐、里見氏減封 |
豊臣秀吉 |
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慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い |
徳川家康 |
里見氏は東軍に属し、戦後、常陸国鹿島3万石を加増される 7 。 |
慶長7年(1602) |
鶴谷八幡宮の棟札に名が見える |
里見義康 |
「堀江頼忠」として実名が確認できる 6 。この頃、鹿島領支配の奉行人を務める 1 。 |
慶長8年(1603) |
里見義康死去、忠義が家督相続 |
里見忠義 |
10歳で家督を継いだ忠義を、正木時茂らと共に補佐する 8 。 |
慶長16年(1611) |
忠義、大久保忠隣の孫娘と婚姻 |
大久保忠隣 |
この婚姻が後の改易の遠因となる 8 。 |
慶長19年(1614) |
大久保長安事件に連座し、里見氏改易 |
徳川秀忠 |
安房国を没収され、伯耆国倉吉へ3万石で移封。頼忠は忠義に従い倉吉へ赴く 8 。 |
元和3年(1617) |
9月12日、伯耆国倉吉にて病没 |
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主君・忠義に先立ち死去。享年不明(50歳説あり) 2 。 |
元和8年(1622) |
6月19日、里見忠義が倉吉にて死去 |
八賢士 |
忠義の死後、8人の家臣が殉死したと伝わる。頼忠はこれに含まれない 7 。 |
堀江頼忠の生涯を理解する上で、最初の、そして最大の障壁となるのが、その出自の不明瞭さである。彼のルーツについては、複数の説が提示されており、決定的な史料を欠く。これらの諸説を比較検討することは、単に彼の家系を辿るだけでなく、戦国期房総の複雑な権力構造の中で、彼の一族がどのようにして生き抜いてきたかを考察する上で不可欠である。
堀江頼忠の出自に関する研究は、主に二つの系統に大別される。
第一の説は、千野原靖方氏の研究に代表される「堀内氏改姓説」である 6 。これによれば、堀江氏はもともと「堀内」と称し、里見氏初代・義実の安房入国以来の譜代の家臣であったとされる 11 。そして、天文3年(1534年)に勃発した里見氏の内訌、いわゆる「稲村の変」の後に、姓を「堀内」から「堀江」へと改めたというものである 6 。この改姓が事実であれば、それは単なる名称の変更に留まらず、内乱という激動の中で一族の政治的立場を明確にし、新たな主従関係を再構築した証左と解釈できる。
第二の説は、佐藤博信氏らが提唱する「小弓公方家臣説」である 6 。この説の根拠は、古河公方足利家の内紛から派生し、下総国小弓城(現在の千葉市中央区)を拠点とした小弓公方・足利義明の家臣団の中に、「堀江下総守」や「堀江大蔵丞」といった人物がいたことが、同時代の史料『快元僧都記』によって確認されている点にある 6 。天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が北条氏綱に敗れて戦死し、小弓公方が事実上滅亡した後、その家臣団の一部が房総で勢力を拡大していた里見氏に仕官した可能性は十分に考えられる。
これら二つの説は、一見すると対立するように思えるが、必ずしも排他的なものではない。戦国期の武士が主君を乗り換えることは常であり、両説は一連の歴史的プロセスとして統合的に理解できる可能性がある。すなわち、房総の在地領主であった「堀内」氏の一族が、勢力を伸張した小弓公方に仕え、その家臣として「堀江」を名乗る。そして公方の滅亡後、新たな主君として里見氏を選択し、その後の内訌で功を立てて家中の地位を確立した、という流れである。この仮説に立てば、堀江頼忠の一族は、房総半島における権力構造の変遷、すなわち在地領主から小弓公方、そして里見氏へと、主たる権力者が移り変わる激動の時代を巧みに泳ぎ渡ってきた一族であると見ることができる。
「堀江」という姓は、房総に限らず全国各地に見られる。特に、越前国(現在の福井県)と遠江国(現在の静岡県西部)には、それぞれ有力な堀江一族が存在した。
越前の堀江氏は、鎮守府将軍藤原利仁を祖とする斎藤氏の支流を称する名族であり、室町時代には守護の斯波氏や、それに取って代わった朝倉氏の重臣として歴史に名を残している 18 。一方、遠江の堀江氏(大沢氏)は、浜名湖周辺を拠点とし、今川氏、後に徳川家康に仕え、江戸時代には高家として存続した 21 。
房総の堀江頼忠と、これら他国の堀江氏との直接的な系譜関係を示す一次史料は、現在のところ確認されていない。しかし、この事実は、戦国武士のアイデンティティ形成を考察する上で重要な示唆を与える。当時の地方武士は、自らの家格や権威を高めるため、中央の著名な氏族の系譜に自らを繋げようとする「系譜の仮冒」を行うことがしばしばあった。房総の堀江氏が、自らの出自を語る際に、これら同姓の名族の存在を意識し、その系譜に連なることを主張した、あるいは固く信じていた可能性は否定できない。これは直接的な証拠を欠く推論ではあるが、戦国期の社会通念を考慮すれば、彼らの自己認識を理解する上で見過ごせない視点である。
堀江頼忠の出自に関する謎をさらに深めているのが、彼自身が開基となって創建した菩提寺、宮城山頼忠寺(千葉県館山市宮城)に伝わる伝承である。同寺の公式サイトなどでは、頼忠を「里見家八代義頼公の次男で里見家大家老」と明確に記している 3 。
しかし、この「義頼の次男」説は、里見氏の系図や『里見家分限帳』といった信頼性の高い史料とは完全に矛盾しており、歴史的事実として受け入れることは困難である 8 。これは、寺院がその創設者である頼忠の権威を後世において最大限に高めるために形成した「寺伝」と解釈するのが最も妥当である。
では、なぜこのような特異な伝承が生まれたのか。その背景には、頼忠が主家から受けた絶大な信頼と、彼が成し遂げた多大な功績がある。大家老という高い地位にあった頼忠への尊敬と感謝の念が、「実の息子同然の存在であった」という想いへと繋がり、やがて「義頼の次男であった」という、より具体的で権威ある伝承へと昇華した可能性が考えられる。この伝承は、史実ではないにせよ、頼忠がその所領であった宮城村周辺の地域において、単なる家臣ではなく、里見家にとって極めて特別な存在として記憶されていたことの何よりの証左と言えよう。
また、頼忠寺の創建年を元亀元年(1570年)とする寺伝 3 も、頼忠が史料に初めて登場する天正15年(1587年) 5 とは17年の隔たりがある。これもまた、寺の由緒を古く、権威あるものとして見せるための後世の付託である可能性を考慮する必要があるだろう。
堀江頼忠が里見氏の歴史において重要な位置を占めるのは、彼が単なる譜代の重臣ではなく、戦国末期から近世初頭にかけての激動期に、卓越した行政能力を発揮して主家を支えた能吏であったからである。彼の活躍は、棟札や知行地の記録、そして彼が残した土木事業の痕跡から具体的に浮かび上がってくる。
堀江頼忠の名が、信頼性の高い一次史料に初めて登場するのは、天正15年(1587年)に里見義康が造営した鹿野山神野寺(千葉県君津市)の棟札である 5 。この棟札には、造営に関わった奉行人の一人として「堀能」、すなわち堀江能登守の名が記されている。この時点で「能登守」という受領名を称していることから、彼はすでに里見家中で一定の地位を確立していたことが窺える。
さらに、彼のキャリアの起点を推測する上で重要なのが、その名である「頼忠」である。戦国時代の武家社会では、主君が家臣に自らの諱(いみな)の一字を与える「偏諱(へんき)」が、忠誠の証として広く行われていた。「頼」の字は、義康の父であり、天正15年に没した里見義頼からの拝領と考えるのが最も自然である 4 。このことから、頼忠は義頼の治世に元服し、その近臣としてキャリアをスタートさせ、若き新当主・義康の代に重臣としてその才能を開花させていったという経歴が推測される。
その実名「頼忠」が史料で確認できるのは、慶長7年(1602年)正月21日付の鶴谷八幡宮(千葉県館山市)の棟札である 6 。安房国総社である鶴谷八幡宮の社殿造営という国家的な大事業において、彼が奉行として名を連ねていることは、この時期の彼が里見家中枢において、政治・行政面で極めて重要な役割を担っていたことを示している。
里見氏の家臣団の構成を記した『里見家分限帳』によれば、堀江頼忠は家老職を務め、安房国内に1300石余(より詳細な史料では1352石)の知行地を与えられていた 1 。これは、総石高12万石の里見家臣団の中でも、御一門衆に次ぐ上級家臣であったことを示す具体的な数字である 23 。
しかし、彼の真価は知行高以上に、その行政手腕において発揮された。特筆すべきは、関ヶ原合戦後、里見氏が徳川家康から加増された常陸国鹿島領3万石の統治を任されたことである 1 。新領地の支配は、軍事的な制圧以上に、検地の実施、税収システムの構築、そして鹿島神宮に代表される在地寺社勢力との関係構築など、高度な内政能力が求められる。義康がこの大役を頼忠に委ねたという事実は、彼の行政官としての能力を高く評価していたことの証左に他ならない。彼は鹿島において、寺社への寄進や普請(土木事業)を積極的に行い、領民の生活を安定させることで、巧みに新領地を掌握したと伝わる 1 。
さらに注目すべきは、彼が鹿島での統治経験を本国である安房の発展に還元した点である。館山城の普請にあたり、彼は鹿島領での手法を応用して大規模な濠の建設を献策した。この濠は、その由来から「鹿島堀」と呼ばれ、領民たちに記憶された 1 。これは、彼が単に与えられた任務をこなすだけでなく、統治で得た財源や技術、ノウハウを領国全体のために活用する、戦略的な視点を持ったテクノクラートであったことを示している。
堀江頼忠は、自らの知行地であった安房国山下郡宮城村(現在の館山市宮城)に、菩提寺として宮城山頼忠寺を創建(あるいは再興)した 1 。戦国武将が自らの菩提寺を建立することは珍しくないが、頼忠の場合、自らの名を寺号に冠している点が特徴的である 3 。これは、堀江家の永続的な繁栄と、一族の安寧を願う強い意志の表れであろう。
彼はこの寺に、自らの知行地から10石ないし20石の寺領を寄進しており 1 、これにより寺院の経済的基盤を安定させ、自らの権威を宗教的な形で永続させようとした意図が窺える。頼忠寺の宗派は、里見氏の菩提寺と同じく曹洞宗であり 23 、彼のこの選択は、主家への忠誠と宗教的な一体感を示すものでもあった。
寺には現在も頼忠の木像が祀られており 23 、彼が生前から家中で篤い尊敬を集めていたことを物語る物的証拠となっている。頼忠寺の存在そのものが、彼の里見家中における経済力と政治的地位、そして篤い信仰心を今日に伝える生きた史料なのである。
慶長19年(1614年)、房総に君臨した名門里見氏は、突如として徳川幕府から改易を命じられる。この未曾有の国難に際し、大家老・堀江頼忠は、感情的な反発に傾く家臣団を抑え、主家の存続を第一とする冷静な政治判断を下した。彼のこの時の行動は、その人物像を最も鮮明に浮かび上がらせるものである。
里見氏改易の直接的な引き金となったのは、慶長18年(1613年)に発覚した「大久保長安事件」である 4 。徳川家康の側近で、金銀山の開発などで絶大な権勢を誇った大久保長安の死後、その生前の不正蓄財が明るみに出た。この事件は、幕府内部における本多正信・正純親子らと、大久保忠隣との権力闘争の文脈で利用され、忠隣の失脚へと繋がった。
里見氏当主・忠義は、この大久保忠隣の孫娘を正室として迎えていた 8 。この姻戚関係が仇となり、里見氏は忠隣派の一味と見なされ、連座する形で改易処分を受けることになったのである。慶長19年(1614年)9月、江戸城に出仕した忠義に下された沙汰は、安房国・鹿島領合わせて12万石の所領を没収し、伯耆国倉吉に3万石で移封するという、事実上の改易であった 4 。
しかし、この処分は単なる姻戚関係による連座という表層的な理由だけでは説明がつかない。その背景には、全国支配体制を磐石なものにしたい徳川幕府にとって、関東の喉元である房総半島に12万石の外様大名が存在すること自体が、潜在的な脅威であったという政治的意図があったと推測される 8 。大久保長安事件は、この関東唯一の大藩であった里見氏の勢力を削ぐための、絶好の口実として利用されたのである。
主君・忠義が江戸で事実上の軟禁状態に置かれる中、改易の報は安房国館山城にもたらされた。城内は騒然となり、山本清七ら武断派の家臣たちは激昂し、城を枕に一戦に及ぶべしと息巻いた 10 。戦国の気風が色濃く残る家臣団にとって、理不尽な命令に黙って従うことは耐え難い屈辱であった。
この危機的状況において、留守を預かる大家老であった堀江頼忠は、冷静に大局を見据えていた。彼は、蜂起を叫ぶ家臣たちの前に進み出て、こう一喝したと伝わる。「御館(おやかた)は江戸の掌中(しょうちゅう)にあり。御身に何事かあらん時に、蜂起する不忠の者がおるというのか」と 10 。主君の身が人質状態にあるという厳然たる事実を突きつけ、家臣の忠義心に直接訴えかけたのである。
さらに彼は、「御館は恐らく家臣を案じて(幕府の命令を)承服しよう。その御心に応えることこそ第一である。私心は捨てるべし」と続け、恭順の道こそが主君の意に沿うことであり、家臣としての本分であると説いた 10 。彼の言う「私心」とは、武士としての面子や一時的な怒りの感情である。頼忠は、もはや武力で物事を解決する時代ではないこと、そして徳川幕府の圧倒的な権力に抵抗することが、里見家の完全な滅亡を招くだけであることを的確に認識していた。
この堀江頼忠の冷静かつ現実的な説得によって、家臣団の暴発は回避された。彼のこの決断は、単なる恭順ではなく、主君の生命と里見家の名跡を守るための、極めて高度な政治判断であった。彼の危機管理能力がなければ、里見氏はその歴史を完全に閉じていた可能性が高い。
幕府の命令を受け入れた里見忠義は、慶長19年(1614年)秋、わずかな家臣と共に故郷安房を離れ、配流の地である伯耆国倉吉へと向かった。堀江頼忠もまた、大家老の地位を捨て、この苦難の旅路に付き従った一人であった 11 。
倉吉での生活は困窮を極めた。当初3万石とされた所領も、実質は4000石程度であったとされ、元和3年(1617年)に池田光政が因幡・伯耆の領主となると、里見氏はその客分として扱われ、さらに所領を減らされて百人扶持となり、監視下に置かれる幽閉同然の身の上となった 8 。
このような過酷な状況下にあっても、頼忠は忠義を支え続けた。その忠誠に対し、忠義は頼忠に「里見」の姓を与えるという、最大限の栄誉で応えたとされる 6 。これにより頼忠は「里見能登守頼忠」と名乗ったといい、これは義頼・義康・忠義の三代にわたる彼の功績が、主君によって公式に認められたことを意味する。故郷を捨て、栄華を失いながらも、最後まで主君に寄り添った彼の姿は、まさしく忠臣の鑑として、倉吉の地に記憶されることとなる。
堀江頼忠の生涯は、伯耆国倉吉の地で静かに幕を閉じた。しかし、彼の死後、その記憶は故郷の安房以上にこの終焉の地で鮮やかに語り継がれ、地域文化の中に深く根付いていく。大岳院に残る墓所と、現代に続く祭礼は、彼が「忠臣」としていかに顕彰されてきたかを雄弁に物語っている。
倉吉での苦難の生活の中、堀江頼忠は主家の再興を見ることなく、元和3年(1617年)9月12日に病のためこの世を去った 2 。慣れない土地での心労が、彼の命を縮めたことは想像に難くない。
ここで明確に区別すべきは、彼の死と、後世に『南総里見八犬伝』のモデルの一つとなったとされる「八賢士」の殉死伝説との関係である。主君・里見忠義が29歳の若さで亡くなるのは、頼忠の死から5年後の元和8年(1622年)6月19日のことである 7 。そして、忠義の死を悼んだ8人の家臣が、その後を追って殉死したと伝えられている 13 。
したがって、史実として堀江頼忠は殉死したのではなく、主君に先立って病没したのであり、八賢士の一人ではない。この事実は、彼の忠誠心を何ら貶めるものではなく、むしろ失意のうちに異郷で倒れたその最期は、里見家臣団が辿った悲劇的な運命を象徴している。彼の死は、物語的な殉死ではなく、より現実的で過酷な忠義の結末であった。
堀江頼忠の墓は、主君・忠義と同じく、倉吉市東町にある曹洞宗の寺院、大岳院に築かれている 27 。驚くべきことに、その墓所を訪れると、家臣であるはずの頼忠の墓塔が、主君・忠義の墓塔よりも大きく立派であることに気づかされる 1 。
儒教的な主従の秩序が重んじられた江戸時代において、この序列の逆転は極めて異例である。なぜこのようなことが起きたのか。一説には、この立派な墓塔は、忠義がまだ存命中に、頼忠への深い感謝の意を示すために自ら建立したものだと伝えられている 1 。もしこの説が正しければ、忠義が頼忠に対して抱いていた恩義がいかに絶大なものであったかを物語っている。幼少期から自らを支え、主家最大の危機の際には家臣団をまとめて命を救ってくれた大家老への感謝の念が、身分の序列という形式を超越して、墓塔の大きさに表れたのである。
この墓は、単なる墓石ではなく、堀江頼忠の忠義を後世に伝えるための記念碑(モニュメント)としての性格を色濃く帯びている。主君が家臣のためにこれほど立派な墓を建てるという行為そのものが、その忠功を顕彰する最も雄弁なメッセージとなった。大岳院に佇むこの墓塔の存在こそが、堀江頼忠が「忠臣」として記憶される最大の要因であり、冷徹な政治史料からは読み取れない、主従を超えた人間的な情愛の記録として、非常に高い価値を持つ。
堀江頼忠の記憶は、現代の倉吉市においても生き続けている。毎年秋に開催される「倉吉里見時代行列」では、物語上の存在である八犬士に加えて、唯一の「正史家臣」として堀江頼忠の役が登場し、行列の重要な一角を占めている 1 。彼の活動の主舞台であった館山市の祭りが一時中断した時期があったのに対し、終焉の地である倉吉でその記憶が篤く継承されているという事実は、歴史的記憶が形成される場所の重要性を示唆している 1 。
倉吉の地にとって、悲運の大名・里見忠義とその家臣団の物語は、自らの町の歴史を彩る重要な一頁である。その物語を語る上で、最後まで主君に寄り添った大家老・堀江頼忠の存在は、歴史的なリアリティを与える重石として不可欠な役割を果たしている。
彼が現代の祭りで特別な扱いを受ける背景には、江戸時代を通じて培われた「忠臣蔵」に代表されるような、忠臣を尊び、その義を顕彰する文化が深く影響している 35 。堀江頼忠の物語は、地域共同体が自らの歴史的アイデンティティを確認し、後世に伝えていくための格好の題材となった。彼はもはや単なる歴史上の人物ではなく、倉吉という土地の文化的な象徴(アイコン)の一部として、人々の心に生き続けているのである。
堀江頼忠の生涯を多角的に検証した結果、彼は単なる「忠臣」という言葉だけでは語り尽くせない、立体的で複雑な人物像として浮かび上がる。
第一に、彼は戦国的な武功によってではなく、近世的な行政能力によって主家を支えた、卓越した能吏であった。鹿島領の統治や「鹿島堀」の普請に見られるその手腕は、武力から統治能力へと価値の尺度が移行する時代の変化を体現している。
第二に、主家改易という絶体絶命の危機において彼が下した決断は、戦国武将の意地や名誉よりも、主君の生命と家の存続という現実的な利益を最優先する、冷静な政治感覚の表れであった。彼のこの行動がなければ、里見氏は歴史から完全に抹消されていた可能性が高い。
第三に、彼の出自をめぐる諸説や、菩提寺に伝わる「義頼の次男」という伝承は、史実としては否定されるべき点が多い。しかし、これらの謎や伝承は、彼の一族が房総の激動の歴史をいかに生き抜いたか、そして彼自身が地域でいかに敬愛されていたかを示す、もう一つの「真実」を伝えている。
第四に、彼の記憶と顕彰が、故郷の房総よりも終焉の地・倉吉で色濃く継承されているという事実は、歴史的記憶の形成過程における地域性の重要性を物語る。大岳院の壮大な墓塔と、現代に続く祭礼は、彼の忠義が倉吉の歴史物語と分かちがたく結びつき、文化的な象徴として昇華されたことを示している。
総じて、堀江頼忠は、個人の能力や忠誠心だけでは抗うことのできない巨大な政治の奔流に翻弄されながらも、最後まで武士としての本分を全うした人物であった。彼の生涯の研究は、戦国から近世への移行期における家臣の生き様と、歴史的記憶が後世に形成されていく力学を理解する上で、極めて貴重な事例を提供するものである。彼は、房総里見氏の最後の輝きと、その悲劇的な終焉を静かに見届けた、まぎれもない「賢臣」であったと評価できよう。