本報告書は、堀直清(ほり なおきよ、天正元年(1573年)生まれ、寛永18年(1641年)11月2日没)、すなわち堀直政の長男であった人物に関する詳細な調査結果を提示するものである。利用者様の依頼に基づき、当該人物の生涯、事績、関連人物、そして彼が生きた歴史的背景を、提供された資料を基に明らかにすることを目的とする。
本報告書の作成にあたり、特に以下の点に留意した。第一に、堀直次(ほり なおつぐ、慶長19年(1614年)生まれ、寛永15年(1638年)8月26日没)、すなわち堀直寄の長男であった人物との明確な区別を徹底すること。これは利用者様が特に重視されている点であり、報告書全体を通じて細心の注意を払う。第二に、日本語の文章中に不自然な形で英単語が単独で入り込むことを避けることである。
報告書の冒頭に、本報告の対象である堀直清(1573年生)と、混同されやすい堀直次(1614年生)の基本情報を比較する表を配置し、両者の違いを明確にする。これにより、読者が初期段階で両名を正確に識別できるようにする。
項目 |
堀直清(本報告の対象) |
堀直次(混同注意対象) |
氏名 |
堀 直清(ほり なおきよ) |
堀 直次(ほり なおつぐ) |
別名・通称 |
雅楽助、監物、直次 1 、直知(なおとも)説あり 3 |
三十郎 5 |
生年 |
天正元年(1573年) 1 |
慶長19年(1614年) 5 |
没年 |
寛永18年11月2日(1641年12月3日) 2 |
寛永15年7月17日(1638年8月26日) 5 |
続柄(父) |
堀直政(長男) 1 |
堀直寄(長男) 5 |
主な役職・立場 |
越後三条城主、堀家執政 8 |
越後村上藩世子 5 |
特記事項 |
史料により「直次」とも記され、堀直寄の長男・直次(1614年生)と混同されやすい。越後福嶋騒動により改易。 1 |
父・直寄に先立ち死去。妻は土井利勝の娘。 5 |
この人物比較表は、利用者様が最も懸念されている混同を報告書の最初で視覚的に解消し、本報告の主題が堀直清(1573年生)であることを明確に示すことを意図している。両者の基本的なプロファイルが一目で比較できることで、以降の記述内容の理解を助けるものと考える。
堀一族内における名称の類似性、特に「直次」という名が二人の人物(一方は堀直清の別名、もう一方は堀直寄の子の実名)に用いられている点は、単なる偶然ではなく、当時の武家の命名慣習や一族内での特定の名前の継承、あるいは意図的な区別の可能性を示唆しているかもしれない。堀直清が「直次」とも呼ばれた記録 1 と、堀直寄の子が「直次」であること 5 は、この問題を複雑にしている。このため、報告書全体を通じて、単に「堀直次」と記述する際には、どちらの人物を指すのかを常に明確にする必要がある。
堀直清の家系を理解する上で、まず父である堀直政とその出自について触れる必要がある。堀氏の本姓は奥田氏であり、その祖先は尾張国中島郡奥田城を拠点とした斯波氏の庶流であったと伝えられている 6 。堀直政(初名は奥田直政)は、従兄弟にあたる堀秀政の家老として仕え、その功績により堀の姓を与えられた 9 。この改姓は、主君との強い結びつきと、一門としての扱いを受けたことを示す重要な出来事であった。
直政は、織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え、特に堀秀政とその子・秀治の二代を補佐する重臣として活躍した 1 。天正13年(1585年)に秀政が越前北ノ庄へ移封された際に堀姓を賜り 16 、慶長3年(1598年)には、秀吉の命による上杉景勝の会津への移封に伴い、主君・堀秀治が越後春日山45万石の領主となると、直政もこれに従い、越後国沼垂郡に5万石を与えられ、三条城主(または城代)となった 9 。
堀直清は、こうした家系の背景を持つ堀直政の長男として、天正元年(1573年)に誕生した 1 。母については、堀直寄の実母が妙泉院とされる記録があるが 7 、直清の生母が同一人物であるかは、提供資料からは断定できない。
直清には複数の弟がいたことが確認されている。次男(または三男)とされる堀直寄(なおより、天正5年(1577年)生まれ) 7 、四男(または三男)とされる堀直之(なおゆき、天正13年(1585年)生まれ) 6 、五男(または四男)とされる堀直重(なおしげ、天正13年(1585年)生まれ) 6 などである。これらの兄弟、特に直寄との関係は、後の堀家の運命、そして直清自身の人生に極めて大きな影響を与えることになる。
堀直政の子供たちの名前(直清、直寄、直之、直重など)には「直」の字が共通して用いられている。これは当時の武家における命名の慣習、例えば一族で代々用いる通字(とおりじ)や、主君などから一字を拝領する偏諱(へんき)といった習慣を反映している可能性が高い。父・直政の「政」とは異なる「直」の字が用いられている背景には、奥田家あるいは堀家としての特定の由来があったか、あるいは一族としての結束や系譜を示す何らかの意図があったものと考えられるが、提供資料のみではその具体的な由来を特定するには至らない。
堀直清は、生涯を通じて複数の通称や別名で呼ばれていたことが史料からうかがえる。当初は「雅楽助(うたのすけ)」を名乗り、後に父・直政も称した「監物(けんもつ)」を名乗ったとされる 2 。
さらに重要な点として、一部の史料、特に『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などでは、堀直清の名を「直次(なおつぐ)」とも記している 1 。これが、本報告書で繰り返し注意を喚起している、堀直寄の長男である堀直次(慶長19年(1614年)生まれ)との混同を生む最大の要因となっている。
この実名に関する問題について、新潟郷土史研究会に所属する杉山巖氏は、注目すべき説を提示している。杉山氏によれば、系図などでは直清または直次と記されているものの、直清が残した同時代の文書(一次史料)においては、その署名が一貫して「直知(なおとも)」となっているという 3 。このことから、杉山氏は堀直清の実際の実名は「直知」であったのではないかと主張している。この「直知」説の存在は、歴史研究における史料批判の重要性を示している。後世に編纂された系図や記録だけでなく、人物本人が残した一次史料(この場合は署名のある文書)の価値を浮き彫りにするものであり、記録が転写される過程での誤記や、通称と実名の混用が後世に固定化された可能性を示唆している。堀直清(あるいは直知)の実名に関する議論は、単なる名前の問題に留まらず、歴史史料の扱い方や、人物の実像に迫る上での方法論に関わる重要な論点と言えるだろう。
堀直清は、父・堀直政と共に、堀氏の宗家当主である堀秀治、そして秀治の死後はその嫡男・忠俊に仕えた 1 。堀家は、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝が越後から会津へ移封されたことに伴い、それまでの越前北ノ庄18万石から越後春日山45万石へと大幅な加増転封となった 7 。この大規模な国替えは、直清の青年期における重要な出来事であり、堀家、そして直清自身の運命を大きく左右する舞台が越後の地へと移ったことを意味する。
越後国に移った堀一族は、広大な領国を分担して統治する必要に迫られた。父・堀直政は三条城5万石の領主(城代ともされる)となり、その長男である直清も、父の名代として、あるいは父の死後にその地位を継承し、三条城主(または城代)としての役割を担った 1 。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、日本全国の大名を巻き込む一大決戦であった。この天下分け目の戦いにおいて、堀家は父・直政の判断により東軍(徳川家康方)に与した 2 。この決定は、堀家の将来にとって極めて重要なものであった。当時、越後国内では、旧領主である上杉景勝を慕う勢力(上杉遺民)による一揆が頻発しており、東軍に与した堀家は、これらの勢力と対峙する必要に迫られた。直清は、父と共にこの上杉遺民一揆の鎮圧に尽力した。特に、慶長5年8月3日には、直清が守る三条城が一揆勢による攻撃を受けたが、これを撃退することに成功している 2 。この戦功は、徳川政権下における堀家の立場を一定程度確保する上で貢献したと考えられる。
関ヶ原の戦いにおける堀家の東軍への参加は、堀直政の政治的判断が大きく影響していたことが史料からうかがえる 15 。ある記録によれば、上杉討伐に際して家中での評議が行われた際、弟の直寄が「太閤(豊臣秀吉)の恩に報いるため上杉と組むべき」と主張したのに対し、父・直政は「太閤のみの恩ではない、信長公の御恩から起こったのだ」と述べ、さらに「秀頼公の本心ではない、公の御為にもならない、家康の勝利は必定である」として東軍参加を決定したという 15 。直清はこの父の方針に従い、三条城代として一揆勢の攻撃を撃退するという具体的な軍功を挙げた。この時点では、堀家は徳川方として行動し、一定の評価を得たはずであるが、後に述べる家中の内紛と直清自身の行動が、この初期の功績をも覆す結果を招くことになる。
慶長11年(1606年)5月に堀宗家の当主・堀秀治が31歳の若さで死去し、嫡男の忠俊がわずか11歳で家督を相続すると 15 、藩政運営の重責は家老たちに委ねられることになった。そして、慶長13年(1608年)2月(資料によっては12月 15 )に父・堀直政が62歳で死去すると 15 、その長男である直清が父の遺領三条5万石と堀家の執政職を引き継ぎ、幼君・堀忠俊を補佐して藩政の実権を掌握するに至った 8 。
しかし、直清による藩政運営の手法は、次第に家中での不協和音を生じさせ、特に実弟である堀直寄との間に深刻な対立を引き起こすことになる 20 。これが、後に「越後福嶋騒動」と呼ばれるお家騒動へと発展し、堀家そのものの運命を揺るがす大きな要因となるのである。
堀直政の死後、堀家の執政として藩政を掌握した堀直清であったが、その統治は平穏なものではなかった。特に、越後坂戸城主であった実弟の堀直寄との間で、藩政の主導権を巡る深刻な対立が生じた 1 。この対立は、単なる兄弟間の感情的なもつれに留まらず、堀家の存亡に関わるお家騒動、いわゆる「越後福嶋騒動」へと発展していく 9 。
史料によれば、直寄は兄である直清が藩政を壟断し、専横な権力を行使しているとして強い危機感を抱いていたとされる 20 。直寄自身は、若年期に豊臣秀吉の小姓として仕えた経験を持ち、中央の政治情勢にも通じていた人物であった 7 。これに対し、直清はどちらかといえば内向きな性格で、他国の情勢に疎く、その統治手法には強引さが目立ったとも伝えられている 20 。こうした両者の性格や経験、政治観の違いが、対立を一層根深いものにした可能性が考えられる。
堀直清と直寄の対立が深刻化する中で、直清の行ったある宗教政策が、事態をさらに悪化させる決定的な要因となった。直清は、自らの権限において浄土宗と日蓮宗の僧侶を十数名集め、宗論(宗教上の教義に関する討論)を行わせた。そして、この宗論に敗れたと判定された浄土宗の僧侶全員を死罪に処するという、極めて厳しい措置を断行したのである 11 。
この強硬な宗教政策、特に僧侶の処刑という行為は、浄土宗の門徒たちから激しい反発を招き、領内は一揆寸前の不穏な状況に陥ったとされている 20 。さらに重要なことは、当時の天下人であった徳川家康の菩提寺が浄土宗(江戸の増上寺など)であったという事実である。家康が篤く帰依する宗派の僧侶を、陪臣の身である直清が独断で処刑したことは、家康の逆鱗に触れる行為であり、幕府の宗教政策に対する挑戦とも受け取られかねないものであった 20 。この事件は、堀家の内紛に幕府が介入する絶好の口実を与えることになった。
慶長15年(1610年)、弟の堀直寄は、兄・直清の専横と、浄土宗僧侶処刑事件の非道を駿府の徳川家康に直接訴え出た 1 。これを受けて家康は、堀一族(藩主・堀忠俊、堀直清、堀直寄ら)を駿府城に召集し、両者の言い分を聴取する形で論戦を行わせた。
その結果、家康は「家中取締不十分」であること、そして何よりも浄土宗僧侶を私的に処刑した直清の行為を「驕縦この上あるべからず」と断じ、これを重大な問題とした 11 。最終的に、藩主であった堀忠俊は改易の上、陸奥磐城平藩主・鳥居忠政預かりとなり、堀直清も同様に改易され、その身柄は出羽山形藩主・最上義光に預けられることとなった 1 。これにより、堀直清は越後三条5万石の所領を全て没収された。
一方で、訴えを起こした堀直寄も無傷では済まされず、それまでの坂戸・蔵王堂合わせて5万石の所領から、信濃飯山藩4万石へと1万石の減封の上で転封を命じられた 2 。この一連の処分により、豊臣恩顧の大名であった越後堀氏の本家(春日山・福嶋45万石)は事実上取り潰され、その広大な所領は幕府によって再編されることになった 8 。
この越後福嶋騒動とそれに続く堀氏本家の改易は、単なる一地方大名の内紛処理という側面だけでなく、関ヶ原の戦い以降、全国支配体制の確立を目指す徳川幕府による、豊臣恩顧の大名の勢力を削ぎ、幕府の権威を強化していくという、より大きな政治的意図の中で展開されたと解釈することができる。堀直清の独断専行ともいえる行動、特に宗教政策上の失策は、家康にとって堀家、ひいては豊臣系大名への介入を正当化する格好の口実を提供したと言えるだろう。
以下の表は、越後福嶋騒動における主要な関連人物とその動向を時系列でまとめたものである。
年月 |
出来事 |
関連人物 |
結果・影響 |
慶長11年 (1606) |
堀秀治死去、嫡男・忠俊(11歳)が家督相続 |
堀秀治、堀忠俊 |
幼君のため、家臣団による藩政運営が開始される。 |
慶長13年 (1608) |
堀直政死去 |
堀直政 |
長男・堀直清が執政職を継承し、藩政の実権を掌握。 |
慶長13年以降 |
堀直清と弟・堀直寄の間で藩政を巡る対立が顕在化・深刻化 |
堀直清、堀直寄 |
家中の不安定化。 |
時期不詳 |
堀直清、浄土宗と日蓮宗の宗論を行わせ、敗れた浄土宗僧侶10余名を処刑 |
堀直清 |
浄土宗門徒の反発、徳川家康の不興を買う。 20 |
慶長15年 (1610) |
堀直寄、徳川家康に堀直清の専横と浄土宗僧侶処刑を訴える |
堀直寄、徳川家康 |
幕府による堀家内紛への介入。 |
慶長15年 (1610) |
徳川家康、堀一族を駿府城に召集し裁定 |
徳川家康、堀忠俊、堀直清、堀直寄 |
堀忠俊・堀直清は改易。直清は最上義光預かりとなる。直寄は信濃飯山4万石へ減転封。越後堀氏本家は事実上の取り潰し。 1 |
最上義光預かりとなった堀直清の、その後の具体的な生活ぶりについては、提供された資料からは残念ながら詳細を明らかにすることはできない 2 。配流の身とはいえ、一定の監視下に置かれながらも、大名家預かりとして相応の処遇は受けていたものと推測されるが、具体的な記録は見当たらない。
さらに留意すべき点として、預かり先であった最上家も、元和8年(1622年)にお家騒動(最上騒動)を理由に改易されている 22 。このため、堀直清がいつまで最上家の庇護下にあったのか、最上家改易後にどのような処遇を受けたのか、あるいは別の預かり先に移されたのかといった点についても、現時点では判然としない。これらの詳細は、今後の研究による史料発見が待たれるところである。
改易後、その詳細な動向が不明な時期が続く堀直清であるが、最終的には寛永18年11月2日(グレゴリオ暦換算:1641年12月3日)に死去したことが記録されている 2 。この時、享年69であった。
しかし、その死没地や具体的な死因については、提供された資料からは明らかにすることができなかった 23 。最上家預かりとなった後、同家が改易されたため、晩年をどこでどのように過ごし、どのような状況で最期を迎えたのかは、依然として謎に包まれている部分が大きい。
堀直清の戒名は「真雄院殿恍厳日喜大居士(しんゆういんでん こうごん にっき だいこじ)」と伝えられている 2 。この戒名は、彼の死後の仏教上の称号であり、その人物の社会的地位や信仰の篤さなどを示すものとされる。
しかしながら、この「真雄院殿恍厳日喜大居士」という戒名が、具体的にどの寺院の過去帳に記録されているのか、また、歴史上、他に同じ戒名を持つ人物が存在したのかどうかといった詳細な情報については、提供された資料からは確認することができなかった 2 。戒名の典拠や、菩提寺に関する情報は、今後の調査によって明らかになる可能性が残されている。
堀直清の墓所の所在地についても、現時点では明確な情報は得られていない 20 。
参考として、父である堀直政の墓所については、和歌山県の高野山正智院 27 や、越後国三条(現在の新潟県三条市)の圓昌寺 15 など、複数の伝承地が存在する。また、弟である堀直寄の墓は、いくつかの変遷を経た後、最終的に越後国村松(現在の新潟県五泉市村松)の英林寺に改葬されたという記録がある 40 。
直清自身は最上義光預かりとなったことから、山形県内に墓所や供養塔が存在する可能性も考えられるが、現時点では特定に至っていない。また、その後の消息が不明であるため、他の地域に移動し、そこで没した可能性も否定できない。子孫が仕えた藩の領内なども含め、広範な調査が必要となるだろう。
堀直清は改易によって大名としての地位を失ったが、その血筋は子供たちによって受け継がれ、それぞれ異なる道を歩んだ。
これらの堀直清の子孫たちの系統は、藩主として明治維新まで家名を保った弟の堀直寄(村松藩祖)、堀直重(須坂藩祖)、堀直之(椎谷藩祖)の系統とは異なり、大名としての地位を回復することはなかった 9 。しかし、それぞれが新たな主君を見出し、武士としての家名を繋いでいったことがうかがえる。これは、江戸時代において改易された大名家の構成員が、縁故を頼ったり、個人の能力を認められたりして再仕官の道を見出すという、比較的一般的な動向を示す事例と言えるだろう。特に次男・直浄が一時的に叔父・直寄に仕えたという記録は、一族内の繋がりが完全に断絶したわけではなかった可能性を示唆しており、興味深い点である。
堀直政の子孫のうち、藩主として幕末まで存続した直寄、直重、直之の系統は、明治時代に入ってから本姓である奥田氏に復姓している 9 。直清の系統がその後も堀姓を名乗り続けたのか、あるいは奥田姓に復したのか、または別の姓を名乗ったのかといった点については、提供された資料からは判明しないが、藩主家とは異なる道を歩んだことは明らかである。
堀直清(1573年生)は、堀直政の嫡男として生まれ、父の死後は越後堀家の執政として藩政を担う立場にあった。初期には関ヶ原の戦いに関連した上杉遺民一揆の鎮圧において、三条城を守り抜くなどの武功も見られる 2 。これは、父・直政の指導のもと、あるいはその遺志を継いで、徳川方に与するという堀家の方針に忠実に従った結果であろう。
しかしながら、執政としての彼の藩政運営、特に実弟である堀直寄との深刻な対立、そして独断で行ったとされる浄土宗僧侶の処刑という宗教政策上の失策は、結果として徳川家康の介入を招き、主家である越後福嶋藩(堀忠俊)と共に改易されるという最も厳しい結末を迎えることになった 1 。
父・堀直政が織田・豊臣政権下で戦功を重ね、徳川政権への移行期にも巧みに立ち回り家名を高めたのに対し、また、弟・堀直寄が兄との対立を経て一度は減封されるものの、後に長岡藩主、さらには村上藩主へと転じ、幕藩体制下で大名家としての地位を確立したのとは対照的である。これらの比較から、堀直清は、父や弟が有していたとされる政治的手腕や時勢を読む洞察力において、何らかの課題を抱えていた可能性が示唆される 20 。
彼の生涯は、戦国時代から江戸時代初期という大きな社会変動期において、大名家(あるいはその重臣)が直面した複雑な状況と、個人の資質や判断が家の存亡に直結し得た時代の厳しさを物語っている。家中を統率し、中央政権との良好な関係を維持することの難しさが、彼の事例からも浮き彫りになる。
本報告書では、提供された資料に基づき、堀直清(1573年生、堀直政長男)の出自、生涯、事績、特にお家騒動である越後福嶋騒動とそれに伴う改易の経緯、そしてその後の消息と子孫についてまとめた。利用者様の要望に基づき、堀直次(1614年生、堀直寄長男)との混同を避けることに最大限の注意を払いつつ、関連情報を整理した。
しかしながら、堀直清に関する情報は断片的であり、特に改易後の詳細な動向や、人物像を深く理解するための一次史料は限られている。今後の研究課題としては、以下の点が挙げられる。
これらの課題の解明には、関連諸藩(旧最上藩領、直清の子孫が仕官した小浜藩、新発田藩、飯田藩、熊本藩など)の藩史や家臣団の記録、現存する古文書、各地の地方史誌、寺社縁起などの更なる渉猟と、それらに基づく専門的な歴史研究の進展が期待される。
堀直清の生涯は、近世初期における大名家の盛衰、幕藩体制成立過程における中央と地方の関係、そして個人の運命が時代の大きなうねりの中で翻弄される様を考察する上で、興味深い事例の一つと言えるだろう。