堀秀政が生きた戦国時代から安土桃山時代は、日本史上類を見ない激動の時代であった。室町幕府の権威は失墜し、各地で戦国大名が群雄割拠する下剋上が常態化する中で、旧来の価値観は大きく揺らぎ、個人の実力が何よりも重視される風潮が強まっていた。このような時代背景のもと、尾張の織田信長が「天下布武」を掲げて統一事業を推し進め、その半ばでの横死後は、羽柴(豊臣)秀吉が後継者としての地位を確立し、天下統一を成し遂げた。堀秀政は、この二人の天下人に仕え、その双方から類稀なる才覚を認められ重用された武将である。彼の生涯は、この時代の武士がいかにして激動の世を渡り、自らの道を切り拓いていったかを示す貴重な事例と言えよう。
本報告書は、現存する諸資料に基づき、堀秀政の出自から織田信長・豊臣秀吉両政権下における具体的な事績、その人物像、特に「名人久太郎」と称された所以、そして歴史における評価に至るまでを詳細に明らかにすることを目的とする。彼の生涯を丹念に追うことで、戦国末期から安土桃山期という時代の特質と、その中で輝きを放った一人の武将の実像に迫りたい。
まず、堀秀政の生涯を概観するために、以下の略年表を提示する。
表1:堀秀政 略年表
年号(西暦) |
出来事 |
典拠例 |
天文22年(1553年) |
美濃国茜部(現岐阜市)にて、堀秀重の子として誕生。幼名菊千代、通称久太郎。 |
1 |
永禄8年(1565年)頃 |
13歳で織田信長の小姓・側近として出仕。 |
2 |
天正元年(1573年) |
越前一向一揆平定戦に参加。 |
1 |
天正5年(1577年) |
紀伊雑賀攻めに従軍。 |
1 |
天正9年(1581年) |
伊賀平定作戦に従軍。近江長浜城主(2万5千石)に任ぜられる(※1)。 |
1 |
天正10年(1582年) |
甲州遠征に従軍。徳川家康饗応役を務める。本能寺の変後、山崎の戦いで羽柴秀吉軍の先鋒を務める。清洲会議で三法師の傅役となる。近江佐和山城主(9万石)となる。 |
1 |
天正11年(1583年) |
賤ヶ岳の戦いに従軍。 |
1 |
天正12年(1584年) |
小牧・長久手の戦いに従軍し、戦功を挙げる。 |
1 |
天正13年(1585年) |
越前北ノ庄城主(18万石余)となる。 |
1 |
天正15年(1587年) |
九州平定に従軍。 |
1 |
天正18年(1590年) |
小田原征伐に従軍。5月27日、陣中にて病没(享年38)。 |
1 |
※1 長浜城主の件については、天正9年(1581年)以降も羽柴秀吉が城主として同地を支配し続けたとする異説があり、堀秀政の長浜城主就任を疑問視する見解も存在する 8 。
堀秀政が、性格も統治手法も大きく異なる織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人から、終始変わらぬ信頼を得て重用されたという事実は、彼がいかに非凡な能力と時勢を読み解く洞察力、そして人間的魅力を備えていたかを物語っている。本報告の冒頭で「名人久太郎」という彼の異名に触れることは、彼が単なる武勇に秀でた武将ではなく、多岐にわたる分野で卓越した才能を発揮した人物であったことを示唆する上で重要である。この異名こそ、彼の複雑で奥行きのある人物像を理解する上での鍵となるであろう。
堀秀政は、天文22年(1553年)、美濃国厚見郡茜部(現在の岐阜県岐阜市)において、堀秀重の長男として生を受けた 1 。堀家は曽祖父の代から美濃の戦国大名斎藤氏に仕えた土豪であり 1 、その系譜は藤原北家利仁流斎藤氏族に連なるとされる 2 。秀政の幼名は菊千代、後に元服して久太郎と称した 1 。
秀政が織田信長に仕えるに至った正確な経緯は諸説あるが、当初は父祖同様斎藤氏に仕え、その後、織田信長に転仕したとされる 1 。一説には、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に短期間仕えた後、永禄8年(1565年)、13歳という若さで信長の小姓・側近として取り立てられたとも伝えられている 2 。この若年での抜擢は、信長の鋭い人物眼と、秀政が早くから非凡な才覚の片鱗を見せていたことの証左と言えよう。事実、秀政は16歳の時に、室町幕府第15代将軍足利義昭の仮住まいであった京都本圀寺の普請奉行という重責を担っており 2 、これは信長が能力主義に基づき、年齢に関わらず有能な人材を登用したことを示すとともに、秀政が若くして高度な実務能力と責任感を備えていたことを物語っている。信長の近習としては、菅屋長頼、福富秀勝、長谷川秀一といった面々と共に、その名が記録されている 2 。
信長政権下において、秀政は単なる側近に留まらず、主要な戦役にも積極的に参加し、武将としての頭角を現していく。天正元年(1573年)の越前一向一揆平定戦への参加を皮切りに 1 、天正5年(1577年)の紀伊雑賀攻めでは、信長本陣を離れて佐久間信盛や羽柴秀吉らと共に一隊を指揮するほどの信頼を得ている 1 。翌天正6年(1578年)の有岡城の戦い(荒木村重の謀反)では、万見重元や菅屋長頼らと共に鉄砲隊を率いて戦功を挙げた 2 。さらに天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱においては、信楽口から進軍する部隊を率い、伊賀勢の拠点の一つであった比自山城攻略などで目覚ましい働きを見せた 1 。これらの戦功、特に伊賀平定やそれ以前の荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功績が認められ、同年、信長から近江長浜城主として2万5千石の所領を与えられたと複数の史料は記している 1 。しかしながら、この長浜城主就任に関しては、当時の羽柴秀吉が依然として長浜城を拠点とし、その管轄地域を支配し続けていた事実から、秀政が実際に城主として入部したかについては疑問視する学術的見解も存在し 8 、この点は史料解釈における注意を要する。天正10年(1582年)には、武田氏滅亡を決定づけた甲州遠征にも信長に従って甲信地方へ入っている 1 。
戦場での武勇のみならず、秀政は信長政権下で行政官僚としても卓越した能力を発揮した。天正7年(1579年)の安土宗論の際には浄厳院の警固を担当し 1 、翌天正8年(1580年)には安土城下の埋立地をイエズス会宣教師の会堂及び住院として与える際の奉行人の一人を務めるなど 1 、宗教政策にも関与した。また、バテレン屋敷の造営奉行も務めている 2 。信長が発給する朱印状に副状を添える役割も担っており 1 、これは信長の意思を正確に理解し、伝達する能力が高く評価されていたことを示す。
外交面においても、秀政の活動は顕著である。特に徳川家康との関係においては、信長の意向を伝える奏者・取次としての役割を果たした記録が残っている 8 。天正7年(1579年)、家康が長男信康を追放するという重大事態に際し、家康は秀政に対し、これまでの懇切な取次への感謝を述べると共に、信長への報告を依頼する書状を送っている 8 。これは、秀政が両者の間の微妙な交渉において、いかに巧みにかつ信頼厚く立ち回っていたかを物語る。そして、本能寺の変の直前、天正10年(1582年)5月には、武田氏滅亡後の戦勝祝いと今後の同盟関係確認のために安土城を訪問した徳川家康一行の饗応役を、当初担当していた明智光秀が更迭された後、重臣の丹羽長秀と共に務めるという大任を拝している 1 。この饗応は織田・徳川同盟の結束を示す重要な外交儀礼であり、その責任者に任じられたことは、秀政が信長政権の中枢において極めて重要な人物とみなされていたことの現れである。
このように、堀秀政は織田信長の下で、若くしてその多才ぶりを発揮し、武功と実務の両面で目覚ましい実績を積み重ねていった。それは、信長の能力主義的な人材登用と、それに応えた秀政自身の非凡な資質と努力の賜物であったと言えよう。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都本能寺において家臣の明智光秀に討たれるという未曾有の事変(本能寺の変)が勃発した。この時、堀秀政は信長の命を受け、中国地方で毛利輝元の大軍と対峙していた羽柴秀吉の許へ、軍監(戦況監察及び指示伝達の役)として派遣される途上にあった 2 。秀吉が備中高松城を水攻めにしている最中であった。この軍監としての派遣自体が、信長の秀政に対する軍事的・戦略的判断への信頼の厚さを示している。
中国路を進む中で信長横死の凶報に接した秀政は、驚愕と混乱の中でも冷静さを失わず、直ちに秀吉と行動を共にすることを決断する。秀吉は毛利氏と迅速に和睦を結ぶと、主君信長の仇を討つべく、全軍を率いて京都へ向けて驚異的な速さで引き返す「中国大返し」を敢行するが、秀政もこの歴史的な強行軍に加わった 3 。この迅速な帰属決定の背景には、秀政が若年期に秀吉に仕えたという旧知の関係 2 や、軍監として既に秀吉の指揮系統に近い立場にあったこと、そして何よりも、光秀討伐の正当性とそれを成し遂げる実行能力を秀吉に見出した、秀政自身の冷静な状況判断があったと考えられる。この決断が、その後の彼の運命を大きく左右することになる。
羽柴軍が畿内に到達すると、6月13日、山城国山崎において明智光秀軍との決戦(山崎の戦い)が行われた。この戦いで秀政は、中川清秀や高山右近らと共に秀吉軍の先鋒を務め、勇猛果敢に戦い、明智軍の撃破に大きく貢献した 1 。一部の記録には、この戦いで秀政が鉄砲を効果的に用いたとも伝えられている 3 。また、敗走した光秀を支援しようとした明智秀満を近江坂本城に追い詰め、自害へと追い込む戦果も挙げている 22 。
信長の死後、織田家の後継者問題と遺領配分を決定するために、同年6月27日に尾張清洲城で開かれた重臣会議(清洲会議)において、堀秀政は重要な役割を担うこととなる。会議の結果、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)が織田家の家督を継ぐことが決定されたが、秀政はこの三法師の傅役(後見し養育する役)に任じられたのである 1 。これは、会議を主導した羽柴秀吉による人事であり、秀政の能力と忠誠心に対する深い信頼を示すと同時に、織田家の将来を秀吉の意向に沿う形で方向付けるための戦略的な配置であったと言える。傅役という立場は、単なる世話役に留まらず、織田家の正統後継者の将来に大きな影響力を持つものであり、秀吉がこの重責を、旧織田家臣団の中でも特に信頼する秀政に託した意味は大きい。また、この清洲会議の結果、秀政は丹羽長秀に代わって近江佐和山城と9万石の所領を与えられ、同時に三法師の蔵入地(直轄領)の代官も務めることになった 1 。
本能寺の変という未曾有の国難に際し、堀秀政は的確な判断と迅速な行動によって、新たな時代の覇者となる羽柴秀吉の麾下に馳せ参じ、その後の豊臣政権下での輝かしいキャリアの礎を築いたのである。
本能寺の変後、羽柴秀吉の配下としてその天下統一事業に貢献した堀秀政は、秀吉から絶大な信頼を得て、豊臣政権下で目覚ましい躍進を遂げる。その信頼の証として、秀政は秀吉の昵懇衆(特に親しい側近)の一人に数えられ 1 、天正10年(1582年)10月には既に羽柴の姓を使用していることが確認されており、秀吉の一族以外では初めて羽柴姓を与えられた人物と目されている 2 。これは、秀政が単なる家臣ではなく、豊臣政権の中核を構成する特別な存在として秀吉に認識されていたことを示している。後に天正16年(1588年)には豊臣の姓も下賜された 2 。
秀政の武功は、豊臣政権下の主要な戦役において遺憾なく発揮された。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家軍を相手に軍功を挙げ、その勇猛な戦いぶりは敵対していた徳川家康からも賞賛され、家康が秀吉に宛てた書状の中で秀政の活躍を特筆しているほどであった 1 。
翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いは、秀吉軍全体としては徳川家康・織田信雄連合軍に苦戦を強いられた戦いであったが、その中で堀秀政の戦術眼は際立っていた。味方の池田恒興隊や森長可隊が壊滅し、秀吉軍が劣勢に立たされる中、秀政は冷静に戦況を判断。自軍を三隊に巧みに配置し、追撃してきた徳川軍の先鋒である大須賀康高や榊原康政らの部隊を桧ヶ根(現在の愛知県長久手市)付近で待ち伏せ、見事な挟撃によってこれを撃破し、一矢報いる活躍を見せた 1 。この戦功は、秀吉にとって苦境の中での大きな光明であり、秀政の評価を一層高めることになった。この戦いにおける彼の采配は、まさに「名人久太郎」の異名に恥じないものであった。
その後も、天正13年(1585年)の四国征伐 1 、天正15年(1587年)の九州平定においては先鋒部隊の一翼を担い、筑前岩石城攻めなどで活躍 1 、そして天正18年(1590年)の小田原征伐では左備の大将として豊臣秀次や徳川家康らと共に東海道を進軍し、北条氏の重要拠点であった山中城をわずか半日で陥落させるなど 1 、常に第一線で戦功を重ね続けた。
これらの輝かしい軍功と秀吉からの厚い信任を背景に、堀秀政の知行は飛躍的に増加していく。賤ヶ岳の戦功などにより近江佐和山9万石の城主となっていたが 1 、天正13年(1585年)、織田信雄の旧臣であった丹羽長秀が死去し、その後継者である丹羽長重が若年であったことなどを理由に、秀吉は北陸地方の鎮撫と統治の要として秀政に白羽の矢を立てた。秀政は越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)に18万石余(18万850石との記録もある 1 )という広大な領地を与えられ、大大名へと躍進した 1 。この時、加賀国の大名である前田利家と共に北陸道の要衝を抑える役割を期待され、与力として越前府中(後の武生)の村上義明(後の村上頼勝)や加賀大聖寺の溝口秀勝が付けられた 1 。この配置は、秀政個人の能力への信頼のみならず、彼を中心とした地域ブロックを形成し、広大な北陸地方を安定的に支配しようという秀吉の戦略的意図の表れであった。
表2:堀秀政 知行変遷表
時期(年号) |
領地(国・城) |
石高 |
授与者 |
関連する戦功・出来事 |
典拠例 |
天正9年(1581年) |
近江長浜 |
2万5千石 |
織田信長 |
伊賀平定等の功(※1) |
1 |
天正10年(1582年) |
近江佐和山 |
9万石 |
羽柴秀吉 |
清洲会議の結果 |
1 |
天正13年(1585年) |
越前北ノ庄 |
18万850石(※2) |
豊臣秀吉 |
四国平定等の功、丹羽長秀死去に伴う北陸統治の再編 |
1 |
※1 長浜城主就任については異説あり(上記参照)。
※2 石高については、18万石余 1、29万石 27 など諸説ある。
越前北ノ庄の領主となった秀政は、その統治においても手腕を発揮したと伝えられる。豊臣秀吉の全国統一政策に呼応し、領内において検地を実施して年貢収取の公平化と石高の正確な把握に努めたとされる 28 。また、治水工事や新田開発を推進し、領民の生活基盤の安定を図るとともに、鉱山の開発や商工業の振興にも力を注ぎ、藩財政の確立を目指したという 28 。これらの領国経営は「堀流国づくり」と称され、他国の大名からも高く評価されたと記す文献もあるが 28 、その具体的な政策や成果を示す一次史料は、現時点での調査範囲では限定的である。しかし、越前北ノ庄29万石を宛行われた際に家臣へ知行を配分している記録 27 や、後に子の秀治が越後で行った太閤検地方式の総検地 29 からも、秀政が先進的な領国経営に着手していたことがうかがえる。
堀秀政の豊臣政権下での目覚ましい活躍と栄進は、彼自身の卓越した能力と、それを見抜いた豊臣秀吉の的確な人材登用の結果であり、戦国乱世から統一政権へと移行する時代を象徴する立身出世物語の一つと言えるだろう。
堀秀政は、同時代の人々から「名人久太郎」あるいは「名人左衛門佐」と称賛された武将である 2 。この「名人」という評価は、単に一芸に秀でているという意味に留まらず、武勇、軍略、政務、外交、そして人心掌握に至るまで、あらゆる面において高度な能力を発揮し、何事もそつなくこなした彼の多才ぶりを的確に表現したものであった。部下の心をよく察し、その能力を最大限に引き出す統率力に長けていたことが、この異名の大きな理由の一つとされている 10 。その人物像は、数々の具体的な逸話を通して、より鮮明に浮かび上がってくる。
彼の人間的度量の大きさと、状況の本質を見抜く洞察力を示す逸話として、まず「旗持ちの逸話」が挙げられる。ある行軍の際、一人の旗持ちが隊列から遅れがちになり、周囲から咎められた。しかし秀政は、その旗持ちを叱責するのではなく、自らその旗を背負って歩いてみた。そして、「これは旗が重いのではなく、私の乗っている馬の脚が速すぎるためであろう」と述べ、わざと足の遅い馬に乗り替えた。すると、旗持ちは遅れることなく行軍についてくることができたという 2 。この逸話は、部下の立場や能力を的確に把握し、表面的な現象に惑わされず問題の根本原因に対処しようとする、秀政の優れたリーダーシップを象徴している。
また、越前北ノ庄城主時代に伝えられる「立て札事件」は、彼の謙虚さと建設的な姿勢を如実に示している。ある時、城下の大通りに、秀政の施政に対する批判や不満を書き連ねた立て札が掲げられた。これを見た家臣たちは激怒したが、秀政は「これは民の声であり、天からの授かりものである」と言って平然とし、その立て札を丁重に持ち帰らせた。そして、家臣たちを集めて立て札に書かれた批判の一つ一つを真摯に検討し、改めるべき点は改めるよう命じたという 10 。自らへの批判を成長の糧とする度量の大きさは、まさに「名人」と称されるにふさわしい器量であった。
部下に対する配慮と適材適所の考え方も、秀政の人柄を特徴づける要素である。彼は部下一人ひとりの個性や能力をよく見抜き、それぞれの長所を活かせるように配置したと伝えられる 10 。例えば、いつも会議中に居眠りをしているような部下に対しても、短絡的に能力がないと判断するのではなく、「彼は法事や葬式のような静かで長丁場の席にはうってつけだ」と言って、周囲からの解雇の進言を一蹴したという逸話が残っている 10 。
九州平定戦に従軍した際には、島津軍の捕虜に対して、豊臣軍の圧倒的な兵力と、連戦による自軍の兵士たちの疲労困憊ぶりをユーモラスに語り聞かせ、「どうかもう少し持ちこたえて、我々を少し休ませてくれないか」と伝言させた。これを聞いた島津方は、豊臣軍の強大さと余裕に戦意を削がれ、戦わずして士気が低下したという 10 。武力だけでなく、巧みな心理戦によっても勝利を手繰り寄せる知略家としての一面も持ち合わせていた。
財産の用い方に関しても、彼の堅実さと合理的な思考がうかがえる逸話がある。ある時、部下に路銀として金銭を与えた際、その金を包んでいた紙を丁寧に皺を伸ばして箱にしまいながら、「財産というものは、使うべき時に惜しんではならない。しかし、無用な時には、このような紙一枚であっても無駄にしてはならないのだ」と諭したという 10 。
容姿については、眉目秀麗であったとの伝承があり、織田信長がその美貌に惚れ込んだという説も存在するが、これについては明確な史料的裏付けはない 10 。しかし、彼が内外に優れた人物であったことは間違いないだろう。
文化的な側面では、福井市の長慶寺に所蔵されている堀秀政の肖像画は、秀政自身が描いた自画像であると伝えられている 2 。これが事実であれば、彼が武芸や政務だけでなく、絵画の才も持ち合わせていたことを示す。また、織田信長との関係が深かった本願寺の宗主・顕如からは「釋道哲」という法名を与えられており 2 、これは彼が単なる武人ではなく、当時の宗教勢力とも一定の関係を築き得る教養と交渉力を備えていたことを示唆する。さらに、九州大学附属図書館には、堀氏一族に伝来した古文書群である「堀文書」が所蔵されており、その中には堀秀政宛の豊臣秀吉朱印状(天正13年7月27日付)なども含まれている 34 。これらの一次史料は、彼の具体的な活動や豊臣政権における地位を裏付ける貴重なものである。また、中国製の青磁香炉である「千鳥香炉」を所持していたとも伝えられており 35 、彼の趣味や文化的関心の一端をうかがわせる。
これらの逸話や記録から浮かび上がる堀秀政像は、単に有能な武将というだけでなく、深い人間理解と公平性、そして状況を的確に判断し最善の行動を選択する知性を兼ね備えた、真の意味での「名人」であったと言えるだろう。彼のリーダーシップスタイルは、厳しい戦国の世にあって、力だけでなく徳によっても人々を率いることの重要性を示しており、その多才さと人間的魅力が、織田・豊臣という二人の天下人から厚い信頼を寄せられた大きな要因であったと考えられる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げとも言える小田原征伐が開始されると、堀秀政も豊臣軍の主要な武将の一人としてこれに従軍した。秀政は、豊臣秀次や徳川家康らと共に東海道を進む主力部隊に属し、左備(左翼軍)の大将を命じられた 2 。箱根口から北条氏の領内へと攻め上がり、箱根山中の要害堅固な山中城をわずか半日で陥落させるなど、その武勇と指揮能力を遺憾なく発揮し、豊臣軍の緒戦の勝利に大きく貢献した 2 。
しかし、輝かしい武功を重ねていた秀政を、予期せぬ病魔が襲う。小田原城包囲中の同年5月下旬、秀政は陣中にて疫病(具体的な病名は不明)に罹り、急速に病状が悪化した。そして、5月27日、多くの将兵が見守る中、小田原の陣中にて急逝した 1 。享年38歳 1 。まさに武将として、また領主として円熟期を迎えようとしていた矢先の、あまりにも早すぎる死であった。戦場での討ち死ではなく、陣中での病死という最期は、当時の過酷な軍旅生活や衛生環境、医療水準の限界を物語っている。
堀秀政の死は、豊臣秀吉にとって計り知れない衝撃と悲しみをもたらした。秀吉は秀政の才能と忠誠心を深く愛し、その将来に大きな期待を寄せていた。江戸時代の逸話集である『老人雑話』には、秀吉が秀政の死を大いに嘆き、「もし彼が生きていたならば、北条氏滅亡後の関八州(関東地方)の広大な領地を与えようと考えていた」と語ったというエピソードが記されている 2 。この言葉が事実であれば、秀政は豊臣政権の将来構想において、徳川家康に匹敵するほどの重要な位置を占める可能性があったことを示唆しており、彼の死が豊臣政権にとって戦略的にも大きな損失であったことを物語っている。
秀政の遺体は、一旦、陣没地に近い相模国小田原の海蔵寺(現在の神奈川県小田原市)に葬られた 2 。海蔵寺には現在も堀秀政のものと伝えられる墓碑(宝篋印塔)が残り、その戒名は「海蔵寺殿広岳道哲大居士」とされている 37 。その後、秀政の遺髪(または髷)のみが、彼の本領であった越前国北ノ庄(福井市)に持ち帰られ、居館の近くにあった長慶寺に墓が建立された 2 。この長慶寺には、秀政自身が描いたと伝わる肖像画も現存している 33 。さらに後年、家督を継いだ長男の堀秀治が越後国春日山(新潟県上越市)へ移封された際に、秀政の墓も春日山城下の林泉寺に改葬され、同寺は堀家三代の菩提寺となった 2 。このように複数の地に墓所や供養塔が存在するのは、当時の武将の埋葬慣習や、故人の遺徳を偲び、その霊魂がそれぞれの縁故の地を見守ることを願う家臣や子孫たちの深い敬慕の念の表れと言えよう。
堀秀政の早すぎる死は、彼個人の無念であったばかりでなく、豊臣政権の将来にも少なからぬ影響を与えた可能性があり、歴史の大きな転換点における一人の人間の存在の重さを改めて感じさせる出来事であった。
堀秀政の急逝により、彼が一代で築き上げた大名家としての堀家は、大きな転換期を迎えることとなる。秀政の死後、家督は嫡男の堀秀治が相続した。当時、秀治はまだ14歳か15歳という若年であった 1 。豊臣秀吉は当初、秀治が幼少であることを理由に、広大な越前北ノ庄18万石の相続を認めることを渋ったとされる。しかし、秀政の従兄弟であり、堀家の宿老であった堀直政が、生前の秀政の多大な功績を熱心に訴え、交渉を重ねた結果、秀吉は最終的に秀治の家督相続を認めた 40 。この際、堀家安泰のため、直政は自らの次男である直寄を秀吉の小姓として差し出し、実質的な人質としたとも伝えられている 43 。
その後、慶長3年(1598年)、秀治は豊臣秀吉の命により、越前北ノ庄18万石から越後国春日山30万石(資料によっては45万石とも記される)へと大幅に加増移封された 1 。これは、豊臣政権における堀家の重要性を示すものであったが、同時に、上杉景勝が会津へ移封された後の越後の安定化という困難な任務を担うことでもあった。
秀治は、父・秀政同様に智勇兼備の才俊と評されることもあり 41 、越後においては領内の総検地(堀検地)を実施するなど、幕藩体制の基礎を確立しようと努めた記録が残っている 29 。しかし、その治世は長くは続かず、慶長11年(1606年)、31歳(あるいは29歳から30歳)という若さで病没してしまう 28 。父に続いての当主の早世は、堀家にとって大きな痛手となった。
秀治の死後、家督はその嫡男である堀忠俊が、わずか11歳で相続した。当然ながら幼少の忠俊に藩政を執り行うことは難しく、藩の実権は引き続き家老の堀直政(秀治の叔父にあたる直政とは別人か、あるいは同一人物の継続的な補佐か、資料からは判然としない部分もある)らが握り、幼君を補佐する形で運営された 1 。しかし、家中では藩の主導権を巡る重臣間の対立が深刻化し、いわゆる「越後福島騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発する。この混乱を問題視した徳川家康は、慶長15年(1610年)、「家中取締不十分」を理由に、忠俊から所領を没収し、堀家は改易処分となった 1 。ここに、堀秀政が築き上げた越後30万石の大名としての堀家宗家は、彼の死からわずか20年で実質的に終焉を迎えたのである。忠俊はその後、陸奥磐城平藩主鳥居忠政預かりとなり、26歳の若さで失意のうちに没した 40 。
堀家宗家は断絶したものの、堀氏の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。秀政の次男であった堀親良(ちかよし)は、関ヶ原の戦いにおいて東軍に与して戦功を挙げ、徳川家康から所領を安堵された 46 。親良はその後、下野国烏山藩主となり、その子孫は信濃国飯田藩(2万石)の藩主として江戸時代を通じて存続し、幕末の廃藩置県まで家名を保った 40 。飯田藩主の中には、第10代藩主堀親寚(ちかしげ)のように、江戸幕府の若年寄や老中格といった要職を歴任し、天保の改革にも関与した人物も輩出している 47 。また、秀政の従兄弟であり、堀家宗家の重臣として活躍した堀直政の子である堀直寄も、主家の改易後も大名として存続を許され、信濃国飯山藩4万石などを領した 40 。
幕末期、信濃飯田藩主であった第12代堀親広(ちかひろ)の代に、飯田藩は明治維新と廃藩置県を迎えることとなる 48 。戊辰戦争に際しては、当初は藩論が必ずしも一枚岩ではなかったものの、最終的には新政府側に恭順の意を示し、北越方面や甲州方面へ藩兵を出兵させている 48 。
堀秀政個人の卓越した能力と、豊臣秀吉からの絶大な信頼によって急速に勢力を拡大した堀家であったが、秀政とその子秀治の相次ぐ早世、そして後継者の若年化と家臣団の内部対立は、戦国末期から江戸初期にかけての大名家がいかに当主個人の力量と、中央政権との関係、そして時代の激しい変化にその存亡を左右されたかを象徴的に示している。一方で、分家が巧みに時勢に適応し、血脈を繋いでいった事実は、堀一族の持つ強靭な生命力と処世術の一端を物語っていると言えよう。
堀秀政は、その短い生涯にもかかわらず、戦国時代から安土桃山時代にかけての歴史において、特筆すべき足跡を残した武将である。彼に対する評価は、仕えた二人の天下人、織田信長と豊臣秀吉からの絶大な信頼にまず表れている。
織田信長は、秀政が13歳という若さで出仕して以来、その才能を高く評価し、近習として常に側に置き、重要な戦役や奉行職を歴任させた 2 。信長の苛烈とも言える能力主義の中で、秀政が若くして頭角を現し、最後まで信頼を失わなかったことは、彼の非凡な能力と忠誠心の証左である。
豊臣秀吉に至っては、秀政を「傑出の人」とまで評し 26 、その死を心から悼んだと伝えられる。秀吉は、自身の一族以外では初めて秀政に羽柴の姓を与えるなど 10 、彼を単なる家臣としてではなく、豊臣政権の中核を担うべき腹心の一人と見なしていた。前述の通り、『老人雑話』には、秀吉が「秀政が生きていれば、北条氏滅亡後の関八州を与えようと考えていた」と語ったという逸話が記されており 2 、これは秀政に対する秀吉の期待がいかに大きかったかを物語っている。秀政の早すぎる死は、秀吉にとって戦略的にも感情的にも大きな痛手であったことは想像に難くない。
同時代の史料や後世の編纂物においても、堀秀政は一貫して高く評価されている。彼の代名詞とも言える「名人久太郎」あるいは「名人左衛門佐」という呼称は 2 、その多才ぶり、特に部下を巧みに使いこなし、あらゆる任務をそつなくこなす卓越した手腕を称えたものである。この「名人」という評価は、単に戦場での采配が巧みであったというだけでなく、行政手腕、外交交渉、人心掌握術、さらには危機管理能力といった、およそ指導者として求められるあらゆる資質において秀でていたことを示唆している。彼が、性格も統治スタイルも異なる信長と秀吉という二人の天下人の下で、常に高い評価を得て活躍し続けることができたのは、まさにこの多層的な「名人」としての能力があったからに他ならない。
現代における歴史学的な位置づけとしても、堀秀政は実務能力と武勇を兼ね備え、人間的魅力にも富んだ、バランスの取れた武将として評価されている。彼は、織田・豊臣両政権下で、単なる戦働きに留まらず、政権運営の円滑化や領国経営においても重要な役割を果たした人物と認識されている。近年では、PHP研究所発行の歴史雑誌『歴史街道』2021年12月号において「堀秀政・『名人』と称された男」と題する特集が組まれるなど 8 、その生涯と人物像は専門の研究者だけでなく、一般の歴史愛好家の間でも改めて注目を集め、再評価の機運が高まっている。これは、彼の持つバランスの取れた能力や、人間的な魅力、特に部下への配慮や批判への謙虚な対応といった側面が、現代社会における理想的なリーダー像とも重なり、共感を呼んでいるためかもしれない。また、従来、織田信長や豊臣秀吉といった巨星の陰に隠れがちであった有能な家臣たちにも光を当て、歴史の多様な側面を掘り起こそうとする近年の研究動向の表れとも言えるだろう。
ゲームなどの大衆文化における創作物においても、堀秀政の能力はしばしば高く設定される傾向が見受けられるが 51 、これは彼の史実における多才な評価を反映したものと解釈できる。
しかし、その輝かしい功績と高い評価にもかかわらず、38歳という若さでの死は、彼自身にとっても、また豊臣政権にとっても大きな損失であった。秀吉が彼に関八州を与えようとしたという伝承が示すように、秀政は豊臣政権の将来構想において、極めて重要な役割を担うことが期待されていた。彼の死は、豊臣政権の安定化や後継体制の構築において、秀吉の計算を狂わせる一因となった可能性は否定できない。特に、徳川家康の関東移封後の勢力拡大を牽制しうる有力なカウンターバランスとなり得た人物の不在は、その後の歴史の展開に間接的な影響を与えたとも考えられる。
堀秀政の生涯は、美濃の小領主の子という出自から、戦国乱世の二人の巨人、織田信長と豊臣秀吉に見出され、その双方から類稀なる才能と揺るぎない忠誠心を認められて重用された、まさに立志伝中の人物の軌跡であった。彼は、信長の近習としての卓越した実務能力、数々の戦役における武勇と冷静沈着な指揮能力、そして「名人久太郎」と称賛された人心掌握術、公平無私な判断力、さらには先見性をも兼ね備え、文武両道に秀でた稀有な武将であったと言える。
豊臣政権下においては、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州平定、小田原征伐といった主要な戦役で常に第一線に立ち、輝かしい戦功を挙げ続けた。その結果、近江佐和山城主を経て、最終的には北陸の要衝である越前北ノ庄18万石(異説あり)を領する大大名へと栄進し、豊臣政権の北陸統治の重責を担うに至った。
戦国時代から安土桃山時代という、日本の歴史上でも特異な変革期において、堀秀政が果たした歴史的意義は大きい。彼の生涯は、旧来の権威が失墜し、個人の実力が全てを決定する実力主義が貫かれた乱世から、強力な中央集権体制へと移行する過渡期にあって、一人の武士がいかにしてその多岐にわたる能力を開花させ、目覚ましい立身出世を遂げたかを示す好例である。彼の持つ、行政官僚としての一面と、優れた軍事指揮官としての一面は、この時代に求められた理想的な武将像の一つを体現していたと言えよう。武勇、知略、実務能力、政治感覚、そして人間的魅力といった複数の要素が彼の中で高度に融合していたからこそ、彼は時代の荒波を乗りこなし、二人の天下人の下で常に輝きを放ち続けることができたのである。
しかしながら、天下統一が目前に迫った小田原征伐の陣中における、38歳というあまりにも早すぎる死は、彼自身の無念は言うまでもなく、豊臣秀吉とその政権にとっても計り知れない損失であった。秀吉が彼に関東の広大な領地を与えようと考えていたという伝承が事実であれば、秀政の死は豊臣政権の将来構想における重要な「失われた環」であり、もし彼が長命を保っていたならば、その後の豊臣政権の安定、徳川家康とのパワーバランス、ひいては関ヶ原の戦いの様相や江戸幕府成立の過程にさえ、少なからぬ影響を与えた可能性が指摘される。秀吉の天下統一事業が完成に近づくにつれ、豊臣秀長や千利休といった政権を支える重要人物が相次いで世を去る中で、秀政のような、秀吉が全幅の信頼を寄せ、将来の政権運営の中核として期待していた人物の早逝は、豊臣政権内部における人材層の薄体化を招き、秀吉死後の政権運営の不安定化の一因となった可能性も否定できない。
堀秀政の生涯は、歴史における個人の影響力の大きさと、時として非情な「もしも」の重要性を我々に改めて認識させる。彼の存在と早すぎる退場は、日本の歴史の大きな転換点において、一つの大きな可能性が失われたことを物語っているのかもしれない。