塚原卜伝は、日本の戦国時代に生きた剣士であり、兵法家である。その卓越した剣技と高潔な人格、そして深遠な武術思想は、後世に多大な影響を与え、「剣聖」と称されるに至った。本報告書は、現存する史料や研究に基づき、塚原卜伝の生涯、剣の道、思想、そして彼が遺したものを多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。
戦国乱世という未曾有の動乱期において、武芸者の役割は単なる戦闘技術の保持者から、大名や領主の師範、あるいは戦略的助言者へと変化しつつあった。塚原卜伝は、まさにそのような時代を象徴する人物の一人である。彼は足利将軍家や伊勢国司・北畠具教といった当代の権力者に剣を指南し、師として厚遇された 1 。これは、卜伝の剣技が単に個人的な強さにとどまらず、指導者層からも求められる普遍的な価値を持っていたことを示唆している。
さらに、卜伝は鹿島新當流の創始者として、日本の武術史に大きな足跡を残した 1 。彼の流派は、実戦的な技法と精神性を兼ね備え、後の多くの剣術流派に影響を与えたと考えられる。卜伝の存在は、戦国時代における武術の発展と深化を理解する上で不可欠と言えるだろう。
塚原卜伝が「剣聖」と称えられる理由は、単に生涯無敗と伝えられる戦績 4 や、数々の華々しい逸話によるものだけではない。彼の評価は、より複合的な要因によって形成されたと考えられる。
第一に、彼が足利義輝や北畠具教といった社会の頂点に立つ人々に剣を指南し、彼らから師として遇されたという事実である 2 。これは、卜伝の剣技のみならず、その人格や識見が高く評価されていたことの証左と言える。第二に、「一の太刀」という奥義を編み出し、特定の人にしか伝授しなかったという事実は、その技の深遠さと、卜伝が伝授の可否を判断する権威を有していたことを示している 6 。これは、単なる武技の伝承を超えた、精神的な指導者としての側面を物語る。
そして第三に、「活人剣」 5 や「無手勝流」 4 といった、単なる殺傷術ではない、より高次元の武術哲学を提唱したことである。これらの思想は、武術を人間形成の道として捉えるものであり、後世の人々に深い感銘を与え、「聖」の字で称えられる大きな要因となった。これらの要素が複雑に絡み合い、塚原卜伝は単なる「剣豪」を超えた「剣聖」という特別な存在として、後世に語り継がれることになったのである。
塚原卜伝の生涯は、戦国時代の激動の中で、剣の道を一筋に追求したものであった。その出自から晩年に至るまで、彼の人生は数々の伝説と史実に彩られている。
塚原卜伝は、延徳元年(1489年)、常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)の鹿島神宮の神職であった卜部吉川覚賢(うらべよしかわあきかた)の次男として誕生した 1 。卜部氏は古来より卜占(占い)を専門とする神職の家系であり、鹿島神宮の祭祀において重要な役割を担っていた 11 。この神聖かつ呪術的な血筋が、卜伝の精神性や後の剣における神秘的な側面、例えば鹿島神宮での千日参籠や神託による「一の太刀」開眼といった逸話の背景にある可能性は否定できない。
幼少期に、父・覚賢の剣友であった塚原城主・塚原土佐守安幹(つかはらとさのかみやすもと)の養子となった 1 。塚原氏は常陸平氏の一族で、鹿島氏の分家であり、地域の有力な武家であった 3 。実家である神職の家と、養家である武士の家という二つの異なる環境が、卜伝の人間形成と武術的素養の育成に大きな影響を与えたと考えられる。特に、実父からは鹿島神宮に伝わる「鹿島の太刀」(鹿島古流・鹿島中古流)を、養父からは天真正伝香取神道流を学ぶ機会を得たことは、後の鹿島新當流創始の重要な布石となった。
卜伝の幼名は朝孝(ともたか)といった 3 。塚原家の養子となった後、元服し、諱(いみな)を高幹(たかもと)と改め、塚原新右衛門高幹と称するようになった 3 。
「卜伝」という号は、彼の生涯において重要な意味を持つ。この号の由来については諸説あるが、一つには実家である吉川家の本姓「卜部」に由来するという説 3 、そしてもう一つは、最初の廻国修行を終えて鹿島神宮に千日参籠した際に得た神託「心を新しくして事に当れ」という啓示に基づき、卜部の伝統の剣を新たに伝えるという意味を込めて自ら名乗ったという説である 12 。後者の説は、卜伝の剣が単なる技術の継承ではなく、精神的な探求と革新を伴うものであったことを示唆している。
卜伝の剣術形成において、実父・吉川覚賢と養父・塚原安幹の存在は極めて大きい。覚賢からは鹿島古流を、安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだとされ 3 、これが彼の武術の二大源流となった。
私生活においては、妻・妙(たえ)の存在が記録されている。妙は塚原安義の娘とされ 3 、卜伝が55歳の天文13年(1544年)3月3日に亡くなった 10 。戦国時代の武芸者としては比較的珍しく、夫婦仲は良好であったことを示す記録が残っている。例えば、妻の死後5ヶ月を経た同年8月3日には、夫婦連名で下生根本寺に門前の田を寄進しており 10 、さらに鹿嶋市須賀の梅香寺跡にある墓は、一つの墓石に夫婦二人の名前が並んで刻まれている 10 。このような事実は、常に死と隣り合わせであった戦国時代の武人としては異例とも言え、卜伝の人間的な温かさや、彼が提唱した「活人剣」の思想に通じる、生命や人間関係を尊重する精神性の一端を垣間見せるものであるかもしれない。単に強さを求めるだけでなく、人としての情愛や調和を重んじる姿勢が、彼の武術哲学の根底にあった可能性が考えられる。
卜伝には実子がおらず、三度目の廻国修行に出立する前、68歳の時に彦四郎幹重を養子として迎えた 15 。卜伝は塚原城主の地位や名誉をこの幹重に譲っている 15 。しかし、鹿島新當流の奥義である「一の太刀」は、技量不足を理由に卜伝から彦四郎幹重へは直接伝授されなかったと伝えられている 6 。興味深いことに、彦四郎幹重は後に伊勢国司・北畠具教から「一の太刀」の手ほどきを受けたとされる 6 。この事実は、鹿島新當流の奥義継承が、単なる血縁や家督相続とは一線を画し、個人の技量や奥義に対する理解度をより重視した可能性を示唆している。また、卜伝自身が北畠具教の剣才と理解力を高く評価し、彼を事実上の「一の太刀」の継承者の一人と認めていたことの現れとも解釈できる。卜伝の死後、流派の神髄が断絶することを避けるため、信頼できる高弟を介してでも奥義を次代に繋げようとした、流派存続のための柔軟かつプラグマティックな判断があったのかもしれない。
三度にわたる長年の廻国修行を終えた卜伝は、故郷である鹿島に戻り、塚原城近くの草庵に隠棲して、静かに弟子たちの指導にあたったと伝えられる 5 。
その生涯を剣の道に捧げた塚原卜伝は、元亀2年(1571年)2月11日、83歳という当時としては稀な高齢でその生涯を閉じた 1 。この没年と享年については、『鹿島史』や『天真正伝新当流兵法伝脉』といった史料に記録されている 3 。墓所は、鹿嶋市須賀の梅香寺跡にあり 1 、その法名は「宝剣高珍居士」と伝えられている 2 。
表1:塚原卜伝 関連年表
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
典拠例 |
1489年(延徳元年) |
1歳 |
常陸国鹿島にて卜部吉川覚賢の次男として誕生。幼名、朝孝。 |
1 |
時期不明 |
幼少期 |
塚原土佐守安幹の養子となる。塚原新右衛門高幹と改名。 |
1 |
1505年(永正2年) |
17歳 |
最初の廻国修行に出立。 |
5 |
1518年(永正15年) |
30歳 |
最初の廻国修行を終え帰郷。鹿島神宮に千日参籠。この後、「卜伝」と号したとされる。 |
5 |
1522年(大永2年) |
34歳 |
二度目の廻国修行に出立。「一つの太刀」を開眼した後とされる。 |
16 |
1532年(天文元年)頃 |
44歳 |
二度目の廻国修行を終え帰郷。塚原城主となり、妙を妻に迎える。 |
5 |
1544年(天文13年) |
56歳 |
妻・妙が死去。 |
10 |
1556年(弘治2年)頃 |
68歳 |
城を養子・彦四郎幹重に譲り、三度目の廻国修行に出立。将軍・足利義輝、伊勢国司・北畠具教らに「一の太刀」を伝授。 |
5 |
1566年(永禄9年)頃 |
78歳 |
三度目の廻国修行を終え帰郷。塚原城近くの草庵に住み、弟子を指導。 |
5 |
1571年(元亀2年)2月11日 |
83歳 |
沼尾の松岡則方の家で死去したとも伝えられる。墓所は鹿嶋市須賀の梅香寺跡。法名、宝剣高珍居士。 |
1 |
塚原卜伝の剣術は、彼が生きた戦国という時代背景と、彼自身の実践と探求の中で磨き上げられ、独自の流派「鹿島新當流」として結実した。その剣の道は、技法のみならず、深い精神性をも内包していた。
卜伝の武術的背景を理解する上で、彼が青年期に修めた二つの流派の存在は欠かせない。実父である鹿島神宮の神官・卜部吉川覚賢からは、鹿島に古くから伝わる「鹿島の太刀」、すなわち鹿島古流(鹿島中古流とも称される)を学んだ 3 。これは、鹿島神宮の武神・武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の神威と結びついた、神聖な武術的伝統であったと考えられる。
一方、養父である塚原土佐守安幹、あるいは一部の伝承では剣の師とされる松本備前守政信からは、天真正伝香取神道流を学んだ 1 。天真正伝香取神道流は、飯篠長威斎家直を流祖とし、関東地方に広範な影響力を持った古流儀である。この流派は、剣術のみならず、槍術、薙刀術、棒術、柔術などを含む総合武術としての性格を有していた。
卜伝が、関東武術の二大源流とも言える鹿島と香取の武術を深く修めたという事実は、彼の武術的基盤がいかに広範かつ深遠であったかを示している。鹿島神流が持つ神道的精神性と実戦性、そして天真正伝香取神道流の総合的な武術体系と合理的な技法、これら異なる特徴を持つ可能性のある二大流派の精髄を体得した経験こそが、後に彼自身が「鹿島新當流」という独創的かつ完成度の高い流派を編み出す上での、既存の枠にとらわれない発想や、より洗練された体系構築の源泉となったと言えるだろう。この二つの流れを汲むことで、卜伝の剣は、単なる一地方の技にとどまらない普遍性と、戦国の実戦を生き抜くための高度な専門性を獲得したのである。
塚原卜伝は、これらの伝統的な流派を修めた後、さらなる高みを目指し、鹿島神宮に千日間に及ぶ参籠を行ったと伝えられる 1 。この厳しい精神修行の末、鹿島大神より「心を新しくして事に当れ」との神託(神の啓示)を受け、ついに「一の太刀」の妙理を悟り、これを核として「鹿島新當流」を開いたとされる 1 。流派の名である「新當」の字義は、この神託の内容や、古伝の鹿島の太刀に新意を加えたという意味合い、あるいは香取神道流を意識した替字であるなど諸説ある 14 。
鹿島新當流は、その名の通り、鹿島中古流と天真正伝香取神道流を源流としており 3 、両派の優れた要素を融合・昇華させたものと考えられる。特に、甲冑を着用した状態での実戦を強く意識した古武道としての特徴が顕著である 18 。具体的には、甲冑の隙間や構造的な弱点とされる小手、頸動脈、喉、胴の帯を通す部分などを正確に突いたり、斬ったりすることで相手を制する技法が重視された 18 。
鹿島新當流の口伝として「身は深く与え、太刀は浅く残して、心はいつも懸りにて在り」という言葉が伝えられている 18 。これは、相手に深く踏み込みつつも太刀は防御や即応性を失わないように浅く構え、心は常に臨戦態勢を保つという、実戦における極めて重要な心構えと体捌きを示している。また、足捌きにおいては、右転左転と変化を重視し、つま先をハの字に開くことを基本とする 18 。これは、重い甲冑を着用した状態での安定性と機動性を両立させるための工夫であったと考えられる。さらに、「霞む」という概念も重視されたとされ、これは相手の攻撃を受け流したり、幻惑したりする高度な技術や精神状態を指すものかもしれない 18 。
鹿島新當流は、その武術的価値と歴史的重要性から、茨城県の無形文化財に指定されており、現在も鹿島新當流彰古会によってその伝統が守り伝えられている 1 。
鹿島新當流の剣術体系は、基礎から奥義に至るまで段階的に構成されていたことが、残された伝書や口伝からうかがえる。その技法は、戦国時代という実戦の場での有効性を徹底的に追求したものであった。
具体的な形としては、「面ノ太刀 十二ヶ条」が基本として存在し、これには「一ノ太刀」から「柳の葉ノ太刀」までの十二の技が含まれていたとされる 18 。さらに段階が進むと、「中極意の技」として「七条ノ太刀 七ヶ条」や「霞ノ太刀 七ヶ条」といったより高度な技法群があり、最終的には「大極意の技」として「高上奥位十箇ノ太刀 十ヶ条」や「外の物太刀 十二ヶ条」といった奥義が存在した 18 。特に大極意は一子相伝とされ、その伝授は通常の稽古場所ではなく、火箸を用いて行われたという興味深い伝承もある 18 。これは、奥義の秘匿性と、それを伝える際の厳格さを示している。
太刀の扱い方としては、袈裟斬りが多用され、真っ直ぐに打ち下ろすことは比較的少なかったとされる 18 。また、上段に構えた相手に対しては、直接面を狙うのではなく、側面である耳を斬るように教えられたという 18 。これらは、甲冑の防御力を考慮した上で、より確実にダメージを与えるための実戦的な工夫であったと考えられる。
これらの技法体系は、単に個々の技の集合ではなく、鹿島新當流が甲冑着用時の実戦を強く意識していたことを明確に示している。それは、戦国時代という時代背景を色濃く反映したものであり、単なる道場での稽古や護身術の域を超え、戦場での生存と勝利を至上命題とした武術体系であったことを物語っている。基礎から段階的に奥義へと進む構成は、合理的な教授法が存在したことを示唆し、「身は深く与え、太刀は浅く残して」という口伝や、甲冑の弱点を狙う技、鎧着用を前提とした足捌きなどは、全て実戦における有効性を追求した結果と言えるだろう。
塚原卜伝の生涯を語る上で欠かすことのできないのが、三度にわたるとされる廻国修行である。これらの旅は、単に諸国を巡り武芸者と立ち合うというだけでなく、卜伝自身の剣術家としての成長、思想の深化、そして鹿島新當流の普及と密接に関連していた。
塚原卜伝は生涯に三度、諸国を巡る武者修行の旅に出たと伝えられている 1 。
一度目の廻国修行 は、永正2年(1505年)、卜伝が16歳または17歳の時に始まり、永正15年(1518年)、30歳頃に帰郷するまでの約13年から14年間に及んだ 5 。この若年期の修行は、主に自己の剣技を磨き、実戦経験を積むことを目的としていたと考えられる。実際に、『卜伝遺訓抄』に記された数々の真剣勝負や戦場での働きは、この最初の修行期間中に経験したものが多いとされる 3 。
鹿島神宮での千日参籠と「一つの太刀」開眼を経た後、 二度目の廻国修行 に旅立ったのは大永2年(1522年)頃で、天文元年(1532年)頃までの約10年間であった 5 。この時期の修行は、自らが悟った奥義「一つの太刀」を実戦の中で試し、さらに深化させるという意味合いがあったのかもしれない。
そして、 三度目の廻国修行 は、弘治2年(1556年)または天文年間末の1557年、卜伝が既に68歳という高齢に達してから始まり、永禄9年(1566年)頃までの約10年から11年間に及んだ 5 。この最後の旅は、もはや自己の技を磨くというよりも、自らが完成させたとされる剣技とその精神、特に「一の太刀」を後進、特に将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教といった特定の人々に伝えることを主眼としていたとされる 12 。
これらの廻国修行の目的は、時期によって変化している。初期には自己の武術の研鑽と名声の確立 3 、鹿島の剣を全国に広めるという使命感 16 、あるいは当時の武芸者にとって一般的であった仕官先を見つけるための活動 21 といった側面があったと考えられる。しかし、後年になるにつれて、自らが到達した剣の理念や奥義を次代に伝承するという、教育者・指導者としての性格が色濃くなっていく。この目的の変遷は、卜伝が単なる強さを求める武芸者から、武術を通じて道を説く指導者へと成熟していった過程を明確に示している。彼の廻国修行は、彼の生涯における重要な転換点を画定し、その剣術家としての成長段階(技の練磨 → 奥義の開眼 → 奥義の伝承)と密接に連動していたと言えるだろう。
塚原卜伝の武勇を伝える記録として最も有名なものの一つが、彼の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』の後書に記された戦績である。「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられている 3 。この驚異的な記録の大部分は、最初の廻国修行の間に達成されたものと考えられている 13 。
数ある対決の中でも特に知られているのが、武州川越における梶原長門との勝負である 5 。長門は刃渡り一尺四、五寸(約42~45センチメートル)の小薙刀(こなたぎなた)の使い手で、その技は飛んでいる燕を斬り落とすほど迅速であったと伝えられる 16 。多くの者が長門の特異な武器と早業に幻惑される中、卜伝は冷静に相手の動きと得物を見切り、長門が繰り出す小薙刀の柄を鍔元から切り落とし、間髪を入れず踏み込んで一刀のもとに長門を斬り伏せたとされる 11 。この対決については、『卜伝物語』などの後世の編纂物において、長門が卜伝を妻の情夫と誤解していたという劇的な背景が付け加えられるなど、物語的な脚色が施されている可能性も否定できないが 22 、卜伝の卓越した技量と冷静な判断力を示す逸話として広く知られている。
塚原卜伝の廻国修行は、単に各地の武芸者と技を競うだけでなく、彼の剣技と名声を聞きつけた大名や将軍家からの招聘を受け、指導にあたるという側面も持っていた。
特に著名なのが、室町幕府第13代将軍・足利義輝への剣術指南である 1 。義輝は自らも剣術を好み、「剣豪将軍」とも称された人物であり、卜伝から鹿島新當流の奥義「一の太刀」を伝授されたとも伝えられている 3 。将軍家への指南は、卜伝の剣名と鹿島新當流の権威を飛躍的に高めたと考えられる。
また、伊勢国司であった北畠具教も、卜伝に深く師事した一人である 1 。具教は自身も優れた剣客であり、卜伝を自領に招いて屋敷を建てるなど丁重に遇し、その教えを請い、「一の太刀」を伝授された 6 。具教の剣の腕前は全国屈指であったとされ、卜伝の養子・彦四郎幹重が卜伝から直接「一の太刀」を授けられなかった際に、具教から手ほどきを受けたとされる逸話は、具教が卜伝から深い信頼を得ていたことを物語っている 6 。
その他、教養人としても名高い細川藤孝(幽斎)にも剣を教えたとされ 2 、さらには武田信玄の軍師として知られる山本勘助にも剣術を指南したという伝承もある 3 。
これらの将軍や有力大名といった、当時の政治的・軍事的に重要な地位にあった人物たちへの指導は、卜伝の剣術が単なる護身術や個人的な決闘術の域を超え、統治や軍略にも通じる普遍的な原理や精神性を含んでいた可能性を示唆している。彼らとの繋がりは、卜伝自身の社会的地位を向上させるとともに、鹿島新當流の名声を全国に広め、その後の流派の普及に大きく寄与したと考えられる。
塚原卜伝の廻国修行は広範囲に及び、各地にその足跡や逸話を残している。特に二度目の廻国修行においては、特定の地に比較的長期滞在し、道場を開いて弟子を養成した記録がある 16 。
その一つが伊勢国である。伊勢の国司であった北畠具教との深い関係は前述の通りだが、松阪市には現在も「卜伝屋敷」と呼ばれる史跡が残っており 16 、卜伝がこの地で具教をはじめとする人々に「一の太刀」の秘法を伝授した往時が偲ばれる。
また、九州の太宰府にも道場を設け、弟子を育成したと伝えられている 16 。当時の九州は、大友氏、島津氏、龍造寺氏などが覇を競う戦乱の地であり、武術の需要も高かったと考えられる。そのような地で卜伝がどのような活動を行ったのか、具体的な記録は乏しいものの、彼の剣名が西国にまで及んでいたことを示している。
廻国修行の際の卜伝の行列は、時に80人もの多数の門弟を引き連れ、大鷹を三羽据えさせ、乗り換えの馬も三頭引かせるなど、非常に豪壮なものであったと『甲陽軍鑑』などに記されている 3 。これは、卜伝の武名と社会的地位の高さを示すと同時に、彼の廻国修行が単なる個人的な旅ではなく、一大デモンストレーションとしての性格も帯びていたことをうかがわせる。このような威勢を示すことで、各地の有力者からの注目を集め、指導の機会を得たり、流派の威信を高めたりする効果があったのかもしれない。
塚原卜伝の武名は、単に数々の実戦を生き抜いた強さだけでなく、彼が到達した独自の剣技と、その根底に流れる深遠な武術思想によって支えられていた。その象徴とも言えるのが、秘剣「一の太刀」であり、また、彼の人間性や哲学を映し出す「無手勝流」や「活人剣」といった理念である。
「一の太刀」は、塚原卜伝の剣術の奥義として、また鹿島新當流の神髄として、後世に語り継がれてきた秘剣である。その起源については、卜伝が鹿島神宮での千日参籠の末、神の啓示(神託)によって悟ったものとされるのが一般的である 12 。この伝承は、「一の太刀」が単なる人間的な技術の粋を超えた、神聖な領域に属するものとして捉えられていたことを示している。
一方で、その技法的な源流については、卜伝の師の一人とされる松本備前守政信の奥義「一之太刀」を、養父である塚原安幹を通じて伝授されたという説もある 3 。また、卜伝自身がそれまでの修行と経験、そして鹿島・香取両流の教えを基に独自に編み出したとする説も存在する 3 。これらの説は必ずしも矛盾するものではなく、卜伝が既存の奥義を継承しつつ、それに独自の工夫と精神的深化を加えて「一の太刀」を完成させた可能性も考えられる。
「一の太刀」の具体的な技法については、残念ながら詳細かつ統一された記録は乏しく、諸説紛々としている 16 。『関八州古戦録』には、「およそ一箇の太刀の内、三段の差別あり」と記されているが、その具体的な内容は不明である 16 。より詳細な記述としては、江戸時代中期の土佐藩士・玉木正英が相伝した神道流伝書に見られるものがある。それによれば、「鹿島の一つの太刀とは、太刀を後ろに引くように持ってもよく、振りかぶってもよい。太刀で体を防ぐことなく、体を敵に向かい無防備の状態にしておく。隙に誘われた敵が打ってくると、その太刀先が我が身より一寸(約3センチメートル)以上離れておれば見捨て、五分(約1.5センチメートル)以内に斬り込んでくれば、こちらから踏み込んで相手を斬る。これを一寸のはずれ、五分のはずれという」と説明されている 16 。これは、極限の状況判断と間合いの見切り、そして一瞬の応変を要する高度な技であったことをうかがわせる。
また、『甲陽軍鑑』においては、「一つの位、一つの太刀、一つ太刀、かくのごとき太刀一つを三段に見分け候」と説かれ、敵の太刀先を五分(ごぶ)の際で見切り、必ず敵を両断できる絶対的な間合いから、全身全霊の気力と、天の時、地の利、そして我が身の技能という三つの要素を見極めて一撃で敵を倒す、究極の集中力と決断力を指すものと解釈されている 16 。
これらの記述の多様性や秘匿性は、「一の太刀」が単一の固定化された技の形ではなく、むしろ状況や相手に応じて千変万化する応変の理合、あるいは高度な戦術的判断力と研ぎ澄まされた精神的境地を含む、包括的な武術の極意であった可能性を示唆している。神託や厳しい精神修行と結びつけられている点は、当時の武術が単なる技術の練磨に留まらず、人間としての成長や精神的な探求の道でもあったという価値観を色濃く反映していると言えよう。「国に平和をもたらす剣」とも称されるように 7 、その根底には深い哲学的、あるいは倫理的な意味合いが含まれていたのかもしれない。
この奥義は、唯授一人(ただ一人にのみ授ける)とされ、極めて限られた人物にしか伝えられなかった 21 。そのため、早い時期にその具体的な形は失伝してしまったのではないかという指摘もある 21 。北畠具教や足利義輝といった当代一流の人物に伝授された記録がある一方で 3 、卜伝自身の養子である彦四郎幹重でさえ、技量不足を理由に直接は伝授されなかったという事実は 6 、その習得の困難さと、伝授に際して人格や深い理解度を含めた厳しい選別が行われていたことを物語っている。
表3:「一の太刀」に関する史料記述比較
史料名 |
「一の太刀」に関する記述内容の要約 |
技法に関する示唆 |
精神性・思想に関する示唆 |
備考 |
『関八州古戦録』 |
「一箇の太刀の内、三段の差別あり」と記述。 |
具体的な技法は不明だが、段階や区別が存在することを示唆。 |
|
16 |
神道流伝書(玉木正英伝) |
無防備に見せかけ、敵の攻撃距離に応じて見捨てるか踏み込むかを判断し一撃で斬る。「一寸のはずれ、五分のはずれ」という間合いの概念。 |
極めて精密な間合いの見切りと、一瞬の応変の技。防御よりも攻撃を重視。 |
高度な判断力と決断力が必要。 |
16 |
『甲陽軍鑑』 |
「一つの位、一つの太刀、一つ太刀」を三段に見分ける。敵の太刀先を五分にはずし、必殺の間合いから気力・天の時・地の利・我が身の技能を見極め一撃で倒す集中力。 |
間合い、タイミング、自己の能力、環境要因を総合的に判断しての一撃。 |
精神集中、状況判断、自己認識の重要性。 |
16 |
各種伝承 |
鹿島神宮での神託により開眼。 |
神がかり的な要素、あるいは直感的な悟り。 |
精神修行の成果、武術と神道の結びつき。 |
14 |
|
「国に平和をもたらす剣」 |
|
単なる殺傷術ではなく、より高次の目的を持つ剣。 |
12 |
塚原卜伝の武術思想を象徴するもう一つの有名な逸話が「無手勝流」である。これは、琵琶湖の渡し船の中で、ある武者に真剣勝負を挑まれた際の出来事として語り継がれている 3 。卜伝は、その挑戦に応じるふりをして相手を湖中の小島に降ろし、自分は船から上がらずにそのまま船を漕ぎ出し、「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って、血気にはやる相手を戒めたという 4 。
この逸話は、卜伝流の異称として「無手勝流」という言葉が用いられるきっかけともなった 8 。その本質は、単に武器を持たずに勝つということ以上に、刀を交えることだけが勝負の全てではなく、機知に富んだ対応や状況判断によって、誰も傷つけることなく勝利を収めるという、卜伝の人間性と思想の深さを示している 4 。
ある研究では、卜伝の剣技の真髄とは、「一の太刀」のような必殺技そのものよりも、むしろ徹底的に自分自身と相手を分析し、状況を把握することで勝利を確実なものとし、究極的には「戦わずして勝つ」ことを目指す点にあると解釈されている 25 。この「無手勝流」の思想は、物理的な戦闘を回避し、より高い次元で争いを解決しようとする知恵であり、卜伝の武術観の重要な一面を示している。
「無手勝流」と並び、塚原卜伝の武術哲学の核心を成すのが「活人剣」(かつじんけん)の理念である。これは、「剣は人をあやめる道具にあらず、人を活かす道具なり」という思想であり、卜伝が戦国乱世という殺伐とした時代にあって、平和を希求する独自の思想を持っていたことを示している 5 。
彼がこのような高邁な理念に至った背景には、数多の死線を乗り越えてきた廻国修行での経験や、鹿島神宮での千日参籠といった厳しい精神修行を通じて得た、生命に対する深い洞察があったと考えられる 12 。単に敵を倒す技術(殺人剣)を極めるだけでなく、その力をいかにして建設的に用いるか、いかにして争いを未然に防ぎ、人を生かす道へと転換させるかという問いに対する、卜伝なりの答えが「活人剣」であったと言えるだろう。この思想は、卜伝が後世「剣聖」と称えられる大きな理由の一つとなった 5 。
「無手勝流」が争いを避ける具体的な知恵であるとすれば、「活人剣」はその根底にあるより普遍的な生命尊重の精神と言える。これらは表裏一体の関係にあり、卜伝の武術が単なる技術論に終始せず、人間としてのあり方や社会との関わり方までをも射程に入れた、深い哲学的思索に裏打ちされていたことを示している。戦国時代の力こそが正義とされがちな価値観の中で、このような思想を提唱したことは、卜伝の非凡さと先見性を物語っている。それは、争いを根本から解決し、相手を生かすことによって自らも生かされるという、より高度で調和的な武のあり方を示しており、現代社会においても示唆に富む理念と言えるだろう。
塚原卜伝の剣名と鹿島新當流の教えは、彼自身の手による指導と、その薫陶を受けた多くの優れた弟子たちによって、全国各地へと広まっていった。弟子たちは、卜伝から学んだものを基礎としながらも、それぞれが独自の工夫を凝らし、新たな流派を興すなど、卜伝流の多様な展開に寄与した。
塚原卜伝の門下からは、後世に名を残す多くの剣客が輩出した。
これらの弟子たちの活躍を見ると、彼らが卜伝から学んだ鹿島新當流を基礎としながらも、必ずしもそれを墨守するだけでなく、各自の個性や探求心、あるいは他の流派からの影響などを取り入れ、独自の流派を創始したり、特定の武器術を発展させたりしたケースが見られる。例えば、斎藤伝鬼房が新当流を学んだ後に天流を開いたのはその典型である。
卜伝の影響は、単に剣術の技法に留まらず、その武術に対する真摯な姿勢や、技と精神の統一を目指す求道的な精神性といった面にも及んだと考えられる。弟子たちは、師から受け継いだものを核としつつ、それぞれの時代や環境の中でそれを発展させ、次代へと繋いでいったのである。
塚原卜伝の名声と鹿島新當流の教えは、彼自身や弟子たちの活動を通じて、全国の諸藩へと伝播していった。その過程で、流派の内容が剣術だけでなく総合武術へと多様化したり、それぞれの地域の特性や需要に応じて変化したりする様相が見られる。これは、卜伝自身の武術が元々包括的なものであった可能性、あるいは弟子たちがそれぞれの得意分野を発展させたり、他の武術と融合させたりした結果と考えられる。また、藩の公式な武術として採用されることは、流派の安定的な存続とさらなる発展に大きく寄与した。
これらの事例は、塚原卜伝の教えが、剣術という枠組みを超えて多様な形で各地に広まり、それぞれの地域文化や武術的伝統と融合しながら独自に発展・変容していったことを示している。これは、武術流派の伝播と変容の一つの興味深いパターンと言えるだろう。
表2:塚原卜伝 主要門弟と卜伝流伝承
弟子名(読み、別名) |
卜伝との関係 |
主な功績・逸話 |
創始または関連した流派 |
卜伝流が伝承された藩・地域 |
典拠例 |
雲林院 松軒(うじい しょうけん、弥四郎光秀) |
直弟子(相伝確認) |
伊勢の剣豪。子・光成も剣豪で熊本藩に仕官。柳生宗矩が高く評価。 |
新当流(卜伝より継承) |
伊勢 |
3 |
諸岡 一羽(もろおか いちう) |
直弟子 |
土岐原氏に仕える。後に仕官を固辞し道場を開く。 |
(一羽流の祖とされることもあるが、卜伝流の系統として弘前藩に伝わる) |
弘前藩 |
3 |
真壁 氏幹(まかべ うじもと、道無) |
直弟子 |
常陸国の武将。剣術を学ぶが棒術で名を成す。 |
(霞流棒術などとの関連も指摘される) |
常陸 |
3 |
斎藤 伝鬼房(さいとう でんきぼう、勝秀) |
直弟子 |
新当流を学んだ後、鶴岡八幡宮参籠により天流を開く。 |
天流(天道流) |
関東各地 |
3 |
北畠 具教(きたばたけ とものり) |
指南を受けた弟子 |
伊勢国司。卜伝から「一の太刀」を伝授される。卜伝の養子・幹重にも手ほどき。 |
新当流(卜伝より継承) |
伊勢 |
3 |
足利 義輝(あしかが よしてる) |
指南を受けた弟子 |
室町幕府第13代将軍。「一の太刀」を伝授されたとも。 |
新当流(卜伝より継承) |
京 |
1 |
細川 藤孝(ほそかわ ふじたか、幽斎) |
指南を受けた弟子 |
武将、文化人。卜伝に剣術を学ぶ。 |
|
京、丹後など |
2 |
山本 勘助(やまもと かんすけ) |
指南を受けたとされる |
武田信玄の軍師。 |
|
甲斐 |
3 |
(卜伝流の伝承者) |
(卜伝の教えを継ぐ) |
|
卜伝流(剣術、槍術、柔術、鎖鎌、手裏剣など多様) |
松代藩、水戸藩、新庄藩など |
28 |
塚原卜伝の実像に迫るためには、彼に関する記述が残る同時代から後世にかけての各種史料を丹念に読み解く必要がある。これらの史料は、卜伝の武勇や思想、そして彼がどのように認識されていたかを多角的に示してくれるが、同時に史料批判の視点も不可欠である。
これらの史料は、それぞれ成立した時代や筆者の立場、目的が異なるため、記述内容には濃淡があり、時には相互に矛盾する情報も含まれる。しかし、これらを総合的に分析することで、塚原卜伝という人物が、同時代および後世において、いかに卓越した剣客として、また特異な思想を持つ武術家として認識されていたかを知ることができる。
「卜伝物語」という特定の書物の存在や内容について、提供された資料群からは直接的かつ詳細な情報は得られなかった。しかし、一般的に剣豪の生涯や逸話を描いた物語は、後世の講談や小説などによって脚色され、大衆化する過程で史実から離れた創作的要素が多く含まれる傾向がある。例えば、宮本武蔵に関する肥後系の伝記の中には、他の史料と比較して信憑性に欠ける記事内容が多いという指摘がある 36 。
塚原卜伝を主人公としたテレビドラマ(NHK BS時代劇「塚原卜伝」)は、津本陽氏の小説などを原作としている可能性があるが、その内容には鹿島の内紛の前日談といった、原作にはない独自の要素も取り入れられていることが示唆されている 37 。これは、映像作品としてのエンターテインメント性を高めるための創作であろう。
したがって、仮に「卜伝物語」と呼ばれるような伝承や書物が存在する場合、その成立年代、筆者、記述の典拠などを明らかにし、他の一次史料との比較検討を通じて、史実と創作部分を慎重に見極める史料批判の作業が不可欠となる。
塚原卜伝の生涯には、その武勇や人柄を伝える数多くの逸話が残されているが、その中には史実とは考え難い伝説的な話も少なくない 11 。
最も有名な例が、宮本武蔵との対決、特に武蔵が食事中の卜伝に不意打ちを仕掛けたところ、卜伝がとっさに鍋の蓋でそれを受け止めたという「鍋蓋試合」の逸話である 3 。この話は、江戸時代の浮世絵師・月岡芳年の錦絵などによって広く知られるようになったが 5 、卜伝の没年(元亀2年・1571年)と武蔵の一般的な生年(天正12年・1584年頃)を比較すると、両者が活躍した時代には隔たりがあり、この対決は史実としてはあり得ないフィクションであると結論づけられている 3 。これは、後世の人々が、塚原卜伝と宮本武蔵という日本の二大剣豪の対決を夢見て創作した物語であると考えられる 25 。
梶原長門との対決 5 や、「無手勝流」の逸話 3 なども、卜伝の剣技や機知、思想を示すものとして広く知られているが、これらの話も伝承される過程で物語的な脚色が加えられている可能性は常に考慮する必要がある。
塚原卜伝に関する伝説や、史実とは考えにくい逸話がこれほど多く創作され、語り継がれてきた背景には、彼が「剣聖」として理想化され、民衆の心に深く刻まれた英雄像と結びついたことがあると考えられる。人々は、卓越した強さだけでなく、高い徳性や人間的魅力を備えた理想的な剣客像を卜伝に投影し、様々な物語を付加していったのであろう。これらの伝説は、史実の卜伝そのものではないとしても、彼という人物が後世の人々に与えた影響の大きさや、彼に託された理想の姿を理解する上で、極めて重要な手がかりとなる。したがって、これらの伝説を単に史実ではないと切り捨てるのではなく、それがなぜ生まれ、どのように受容されてきたのかを分析することで、当時の人々の価値観や卜伝に対するイメージをより深く理解することができるのである。
塚原卜伝の卓越した剣技と深遠な武術思想は、彼自身の時代のみならず、後世にも大きな影響を及ぼし続けた。その名は「剣聖」として語り継がれ、彼ゆかりの地や流派は文化財として現代にその面影を伝えている。また、文学作品や映像作品の題材としても繰り返し取り上げられ、時代を超えて多くの人々を魅了し続けている。
塚原卜伝が「剣聖」と称されるに至った評価は、一朝一夕に確立されたものではない。その過程には、いくつかの段階と要因が考えられる。
まず基礎となったのは、生前の彼の目覚ましい活躍である。三度にわたる廻国修行を通じて全国にその武名を轟かせ、将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教といった当代一流の人物に剣を指南したという事実は、彼の剣技と人格が最高水準にあったことを示している 1 。
卜伝の死後、その評価を不動のものとしたのは、弟子たちによる鹿島新當流の伝承と、数々の逸話の流布であった。特に講談などの大衆芸能を通じて、彼の武勇伝や人間味あふれるエピソードが語り広められ、庶民の間にも「剣豪・塚原卜伝」のイメージが浸透していった 3 。
さらに重要なのは、卜伝の武術が単なる強さの追求に留まらなかった点である。「活人剣」という生命を尊ぶ思想 5 や、「無手勝流」という戦わずして勝つ知恵 4 は、彼を単なる武芸者ではなく、高い徳性を備えた「聖人」として捉える視点を生み出した。これらの思想的側面は、時代を超えて人々の共感を呼び、卜伝の評価を一層高めることになった 15 。
加えて、卜伝の出身地である鹿島が、古来より武神・武甕槌大神を祀る鹿島神宮を中心とした「武の聖地」としての性格を持っていたことも、彼の「剣聖」像形成に影響を与えた可能性がある 40 。鹿島の神威と卜伝の剣技が結びつけられることで、その存在はより神聖視されていったと考えられる。
塚原卜伝の墓は、茨城県鹿嶋市須賀503番地内にある梅香寺の跡地に現存している 1 。卜伝は元亀2年(1571年)に83歳で没した後、この地に葬られたと伝えられる 1 。
特筆すべきは、その墓石が一基でありながら、卜伝とその妻・妙の名前が並んで刻まれている点である 10 。これは、戦国時代の武士としては比較的珍しく、夫婦の絆の深さを物語っている。
梅香寺は後に焼失し、現在は墓のみが残されているが 3 、その地は今なお「剣聖」卜伝を偲び、剣の道を志す多くの人々が訪れる場所となっている 15 。墓所の管理には、鹿嶋市観光協会などが関わっている様子がうかがえる 41 。
塚原卜伝の偉業を顕彰する銅像が、JR鹿島神宮駅近くの鹿詰公園内に建てられている 13 。この銅像は、塚原卜伝の生誕500年を記念して建立されたものである 42 。
銅像が立つ鹿詰公園には、「茨城百景 鹿島神宮景勝地」と記された石碑も併設されている 42 。銅像の傍らには顕彰碑も存在するようだが、その碑文の具体的な内容については、現時点での資料からは詳細を読み取ることができなかった 43 。この銅像は、現代における卜伝顕彰の一つの象徴と言えるだろう。
塚原卜伝が創始した鹿島新當流は、その歴史的価値と武術的価値が認められ、茨城県の無形文化財に指定されている 1 。この剣術は、卜伝の甥である吉川晴家に伝えられた後、代々受け継がれ、現在では鹿島新當流彰古会によってその伝統が守り伝えられている 1 。無形文化財としての指定は、卜伝の遺した武術が、地域社会にとって重要な文化的遺産であることを公的に認めるものである。
塚原卜伝の波乱に満ちた生涯、卓越した剣技、そして「剣聖」という神秘的なイメージは、後世の多くの創作者の想像力を刺激し、小説や映像作品の格好の題材となってきた。
小説においては、津本陽氏の『塚原卜伝』が知られ、その作品では斬り合いの場面描写に迫力があると評される一方で、人物描写は比較的少ないとの感想も見られる 44 。中山義秀氏も『塚原卜伝』という作品を著しているが 45 、これらの作品における具体的な卜伝像の詳細については、さらなる調査が必要である。その他、峰隆一郎氏によるチャンバラ小説 46 や、小島英記氏の『塚原卜伝 古今無双の剣豪』 47 など、様々な作家が卜伝を主題に作品を生み出している。
映像作品としては、2011年にNHK BS時代劇として放送された、堺雅人氏主演の「塚原卜伝」が記憶に新しい 5 。このドラマは、時代考証や演出に力を入れ、室町時代の風俗や文化を忠実に再現しようと試みた意欲作と評価されている 37 。また、原作にはない鹿島の内紛の前日談といった独自の要素も取り入れられ、剣豪劇としてだけでなく時代劇としての深みも追求された 37 。主演の堺雅人氏の演技や脚本については概ね好評であったが、全7回という話数の短さを惜しむ声もあった 48 。
塚原卜伝がこのように繰り返し文学や映像のテーマとなるのは、彼の生涯が持つドラマ性、剣技の超人性、そして「剣聖」という謎めいたカリスマ性が、創作者にとって魅力的な素材であり、多様な解釈や脚色を許容する懐の深さを持っているためであろう。それぞれの作品で描かれる卜伝像は、必ずしも史実通りではないかもしれないが、その時代の価値観や英雄観、あるいは作者の卜伝に対する解釈を反映しており、それらを比較検討することは、「語り継がれる卜伝像」の変遷を理解する上で興味深い視点を提供する。
塚原卜伝は、戦国時代という激動の時代に生き、剣の道を極め、後世に「剣聖」と称えられるに至った稀有な人物である。彼が遺したものは、単に武術の技法や流派に留まらず、その生き方や思想を通じて、現代社会に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。
武術史において、塚原卜伝の功績は計り知れない。第一に、鹿島古流と天真正伝香取神道流という二大源流を修めた上で、独自の工夫と精神的深化を加えて「鹿島新當流」を創始したことである 3 。この流派は、実戦性と合理性を兼ね備え、後の多くの剣術流派に影響を与えた。
第二に、その奥義とされる「一の太刀」に象徴されるように、単なる技術の巧みさだけでなく、技と精神の高度な統一を目指した武術の深遠さを示したことである 14 。これは、武術を人間形成の道として捉える日本の武道精神の源流の一つとも言える。
第三に、足利義輝や北畠具教をはじめとする多くの高名な弟子を育成し、指導者としても卓越した能力を発揮したことである 1 。彼の教えは、弟子たちを通じて各地に広まり、日本の武術文化の発展に大きく貢献した。
塚原卜伝の武術と思想は、過去の遺産としてのみ価値を持つのではない。むしろ、現代社会が抱える様々な課題に対して、示唆に富む普遍的な知恵を提供し得る可能性を秘めている。
彼が提唱した「活人剣」の理念は、力を他者を傷つけるためではなく、他者を生かし、社会に貢献するために用いるべきであるという、現代における倫理観や平和思想とも共鳴する 5 。競争や対立が絶えない現代社会において、この思想は、他者との共生や調和をいかにして実現するかという問いに対する一つの指針となり得る。
また、「無手勝流」の逸話に示される、戦わずして勝つという知恵は、物理的な力に頼るのではなく、対話や交渉、あるいは状況を的確に判断する洞察力によって問題を解決しようとする、現代の紛争解決やコミュニケーション論にも通じる柔軟な思考の重要性を示している 4 。
さらに、三度にわたる廻国修行や鹿島神宮での千日参籠といった、生涯を通じて自己研鑽を怠らなかった卜伝の姿勢は、絶え間ない学びと成長を求める現代人の自己実現や生涯学習の精神とも重なる 1 。礼節を重んじ、自らの信念を貫き通したその生き方は 15 、情報が氾濫し価値観が多様化する現代において、確固たる自己を確立し、より良く生きるためのヒントを与えてくれる。
塚原卜伝の生涯と彼が遺した武術や思想は、単に剣術の歴史の一コマとしてではなく、人間としての成長、社会との関わり、そして平和への希求といった普遍的なテーマを内包している。その探求は、現代に生きる我々自身の生き方を見つめ直すための貴重な鏡となるであろう。
本報告書の作成にあたり、以下の資料を参照した。