慶長二十年(1615年)五月六日、大坂夏の陣。河内国八尾の地は、戦国の世の終焉を告げる最後の激戦の一つに揺れていた。この日、豊臣方の将として殿軍(しんがり)の重責を担い、藤堂高虎率いる徳川方の精鋭を相手に獅子奮迅の働きを見せた一人の武将がいた。彼の名は、増田盛次(ました もりつぐ) 1 。味方の退路を確保するため、彼は死を覚悟で敵の猛追を一身に受け止め、やがて壮絶な討死を遂げた 1 。
その死に様は、敵方である藤堂家の記録にさえ「はれなる」(晴れなる、見事な)と称賛をもって記された 1 。この一語は、彼の最期が単なる敗死ではなく、当時の武士たちが共有していた最高の美意識に適うものであったことを物語っている。
しかし、この「晴れなる」死には、一つの大きな謎が横たわる。増田盛次は、わずか半年前の大坂冬の陣では、徳川方として戦功を挙げていたのである 1 。なぜ彼は、豊臣方の敗色が誰の目にも明らかとなった夏の陣を前に、あえて滅びゆく大坂城へと身を投じたのか。その不可解な転身は、単なる豊臣家への忠義や徳川家への反逆に単純化できるものではない。
彼の選択は、戦国という時代の価値観と、徳川が築こうとする新たな秩序との狭間で揺れ動く、一人の武士の「個人の選択」であった。同時に、彼の死とそれに続く父・長盛の自刃は、豊臣恩顧の大名であった増田家の完全な終焉を意味し、一つの時代の幕引きを告げる象徴的な出来事でもあった 3 。本報告書は、増田盛次の生涯を丹念に追うことで、その選択の背後にあった武士としての矜持、父との相克、そして時代の大きなうねりを解き明かすことを目的とする。彼の「晴れなる」死に様が持つ真の意味を探ることは、戦国の終焉を生きた武士たちの魂の行方を問うことに他ならない。
増田盛次の生涯を理解するためには、まず彼の父であり、豊臣政権の中枢を担った増田長盛の存在を抜きにしては語れない。盛次の人格と運命は、父が築き上げた栄光とその後の没落の影に、色濃く染められている。
増田長盛の出自には、尾張国増田村(現在の愛知県稲沢市)とする説と、近江国益田郷(現在の滋賀県長浜市)とする説があり、その前半生は多くの謎に包まれている 6 。史料にその名が明確に現れるのは、天正元年(1573年)頃、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に二百石から三百石程度の禄で仕官してからである 5 。
秀吉の下で、長盛はその非凡な行政手腕を遺憾なく発揮した。天正九年(1581年)の鳥取城攻めでは、兵糧攻めの要となる「陣中萬の物商の奉行」に任じられ、兵站管理の重要性を担った 6 。また、天正十年(1582年)には奏者として上杉景勝との外交交渉を担当するなど、政権の潤滑油としての役割を果たした 9 。秀吉が天下統一を進める中で実施した「太閤検地」においては、石田三成や長束正家らと共に中心的な役割を担い、豊臣政権の財政基盤の確立に大きく貢献した 6 。
一方で、長盛は単なる文官ではなかった。天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いや翌年の紀州攻めでは、自ら兵を率いて敵将を討ち取る武功を挙げており、文武両道を兼ね備えた武将であったことが窺える 6 。これらの功績により、長盛は近江水口岡山城主六万石を経て、文禄四年(1595年)には豊臣秀長の旧領である大和郡山城主二十万石という大封を与えられ、豊臣政権の政務を分掌する五奉行の一人にまで上り詰めた 5 。
天正八年(1580年)、この増田家の栄光のただ中で、盛次は長盛の次男として生を受けた(一部史料では嫡子ともされる) 5 。彼には兄の長勝と弟の新兵衛がいた 1 。
盛次の血脈で特筆すべきは、その母方の出自である。彼の母は、織田信長の重臣であり、その勇猛さで敵味方から恐れられた武将・森可成の娘であった 5 。これにより、盛次は「猛勇」で知られた森可成の孫にあたる。この血筋を引く盛次もまた、祖父に劣らぬ武勇の持ち主であったと伝えられている 5 。
父・長盛が行政能力に長けた「能吏」として立身したのに対し、母方からは戦場で輝くことを是とする「武勇」の血を受け継いだ。この二重性は、盛次の人格形成に決定的な影響を与えたと考えられる。父からは豊臣家への恩顧と政権中枢の政治力学を、母方からは純粋な武人としての魂を、それぞれ受け継いだのである。
しかし、父・長盛が築いた二十万石の権勢は、あくまで秀吉個人の信任に依存するものであり、譜代の家臣団や強固な領国支配に根差したものではなかった。秀吉という絶対的な庇護者を失った時、長盛のような吏僚派大名の立場は、徳川家康のような巨大な武家勢力の前では極めて脆弱なものとなる。盛次が青年期に目の当たりにしたであろう、この権勢の頂点とその下に潜む危うさは、彼の後の人生観を大きく左右することになる。
増田家が権勢の頂点を極める一方で、豊臣政権内部では秀吉の後継者をめぐる暗雲が垂れ込めていた。盛次の青年期は、この政争の渦と、それに続く関ヶ原の戦いによる家の没落という、激動の時代と重なっている。
盛次は天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の甥であり関白の地位にあった豊臣秀次に仕えることから、その武家としてのキャリアを開始した 1 。しかし、やがて秀吉と秀次の関係は悪化の一途をたどる。文禄三年(1594年)、秀吉は秀次から有力な家臣を引き離すための政治的な措置として、盛次に対して徳川家康の下で仕えるよう直接命令を下した 1 。
豊臣恩顧の大名の子である盛次が、政権内最大のライバルである家康に仕えるというこの移籍は、彼の立場を極めて複雑なものにした。そして翌年の文禄四年(1595年)、秀次が謀反の疑いをかけられて切腹に追い込まれると、元家臣であった盛次も連座を問われ、父・長盛の居城である大和郡山城での謹慎を余儀なくされた 1 。この一連の出来事は、青年期の盛次にとって、政治の非情さと自らの立場の不安定さを痛感させる最初の経験となったであろう。
秀吉の死後、豊臣政権は徳川家康と石田三成の対立を軸に分裂し、慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発する。この天下分け目の戦いにおいて、父・長盛は西軍に与し、家康の非を鳴らす弾劾状にも名を連ねた 6 。
しかし、長盛の行動は終始、曖昧であった。彼は積極的に戦場へ赴くことをせず、豊臣秀頼の守護を名目に大坂城西の丸に留まり、戦況を静観した 6 。そればかりか、裏では家康に内通し、西軍の動向を逐一報告していたとも伝えられている 6 。これは、どちらが勝っても家が存続できるよう両天秤にかける、現実的な処世術であった。
一方、息子の盛次はこの時、父と共に西軍に属し、大津城の戦いに参陣したという記録が残っている 1 。しかし、父のこうした日和見的な態度は、結果的に裏目に出る。西軍が敗北すると、家康はその中途半端な姿勢を許さず、増田家の所領二十万石は全て没収(改易)された 6 。命こそ助けられたものの、大名としての増田家はここに滅亡したのである。
この父の「失敗した処世術」は、盛次の生き方に決定的な影響を与えたに違いない。「保身を図ったがゆえの破滅」という父の姿は、盛次にとって強烈な反面教師となったはずである。父の曖昧な態度が家を滅ぼしたという事実は、「中途半端な生き方はしない」「仕えるべき主君には命を懸ける」という、より純粋で原理主義的な武士観を盛次の中に醸成したのではないか。彼の後の行動は、この父の失敗を繰り返すまいとする、強い意志の表れと解釈することができる。そして彼は、「主家を滅ぼした敵」の一族に仕えなければならないという、耐え難い矛盾を抱えながら、雌伏の時を過ごすこととなる。
盛次の生涯は、父・長盛の動向、徳川家との関係、そして大坂の陣で関わった人物たちとの因縁によって大きく左右された。これらの複雑な人間関係を以下に整理する。
人物名 |
盛次との関係 |
大坂の陣での所属 |
特記事項 |
関連資料 |
増田長盛 |
父 |
(蟄居中) |
五奉行。関ヶ原での曖昧な態度で改易。盛次の大坂城入りを承認後、連座して自刃。 |
1 |
徳川家康 |
旧主君 |
徳川方(大御所) |
秀吉の命で一時仕える。盛次の冬の陣での振る舞いを「流石増田の子」と評したとされる。 |
1 |
徳川義直 |
主君(尾張藩主) |
徳川方 |
関ヶ原後、盛次を家臣として召し抱える。盛次の大坂城入りを了承した。 |
1 |
長宗我部盛親 |
大坂方での上官 |
豊臣方 |
父・長盛が元服の烏帽子親を務めた縁。八尾の戦いで盛次が所属した部隊の将。 |
1 |
渡辺了(勘兵衛) |
元・槍の師範 |
徳川方(藤堂高虎家臣) |
元は増田家の客将。八尾の戦いでは敵として盛次を追撃。 |
3 |
磯野行尚 |
盛次を討った武将 |
徳川方(藤堂高虎家臣) |
八尾の戦いで殿軍の盛次と一騎打ちの末、討ち取る。元は石田三成の家臣。 |
1 |
藤堂高虎 |
敵将 |
徳川方 |
八尾の戦いで長宗我部・増田連合軍と交戦。渡辺了や磯野行尚の主君。 |
1 |
関ヶ原の戦いを経て大名家としての地位を失った増田家。父・長盛が蟄居生活を送る一方、息子・盛次は新たな主君の下で再起の機会を窺うことになる。しかし、その胸の内には、決して消えることのない豊臣家への思いと、武士としての葛藤が渦巻いていた。
関ヶ原の後、父・長盛は高野山へ追放され、その後、武蔵国岩槻城主・高力清長の預かりの身となった 8 。大名としての栄華を失い、静かな蟄居生活を送る長盛であったが、その心は決して徳川に屈していなかった。慶長十九年(1614年)、大坂の陣を前に徳川と豊臣の対立が深まると、家康は長盛に対し、大坂方との和睦交渉の仲介や、大坂城に入って内情を探るスパイとしての役割を打診した。しかし、長盛はこれを毅然として断ったと伝えられている 9 。関ヶ原で保身に走った彼が、最後の最後で豊臣家への恩義を裏切ることを拒んだこの態度は、息子・盛次の決断に大きな影響を与えたと考えられる。
一方、浪人となっていた盛次は、徳川家康の九男・徳川義直が藩主を務める尾張藩に仕官する 1 。具体的な禄高などの待遇に関する記録は乏しいが、かつての二十万石の大名の息子として、一定の敬意をもって迎えられたと推測される。こうして盛次は、父の家を滅ぼした徳川家の一員として、新たな道を歩み始めた。
慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、盛次は主君・義直に従い、徳川方として参戦し、戦功を挙げた 1 。表向きは徳川の忠実な家臣として振る舞う一方で、彼の心は明らかに敵陣である大坂城にあった。
陣中での彼の振る舞いは、周囲の目に奇異に映った。豊臣(大坂)方が優勢になれば顔をほころばせて喜び、徳川(寄せ手)方が優勢になれば苦々しい表情を浮かべたというのである 1 。この噂は、やがて大御所・徳川家康の耳にも達した。それを聞いた家康は、「流石増田の子」(さすがは増田の子だ)と評したと伝わる 1 。
この家康の言葉は、一見すると豊臣への忠義を忘れない盛次の気骨を褒めているかのようにも聞こえる。しかし、その真意は全く逆であった可能性が高い。天下人としての家康からすれば、自軍の将が敵に心を寄せることは、許しがたい不忠であり、潜在的な裏切り行為に他ならない。この言葉は、「やはり増田の血筋は信用ならぬ。豊臣への心を捨てきれぬ危険人物だ」という冷徹な評価であり、事実上の「断罪の宣告」であった。この一言によって、盛次が徳川の体制の中で武士として生きる道は、事実上閉ざされたと言ってよい。家康からの「賞賛」は、彼を死地へと追いやる、冷酷な政治的計算を含んだ一言だったのである。
大坂冬の陣が和睦によって終結し、大坂城の外堀・内堀が埋め立てられて裸城となると、豊臣方の敗北はもはや時間の問題となった。この絶望的な状況下で、増田盛次は常人には理解しがたい行動に出る。徳川の陣を離れ、滅びゆく大坂城へと向かうのである。
盛次のこの選択は、単なる豊臣家への「忠義」だけでは説明がつかない。もし純粋な忠義が動機であれば、まだ勝機があった冬の陣の前に味方しているはずである 3 。彼が動いたのは、冬の陣で目の当たりにした徳川方の現実に、武士としての魂が耐えられなくなったからであった。
彼の目には、数十万の大軍で裸城を囲み、ただ徳川の顔色をうかがって自らの保身に汲々とする諸大名の姿が、武士の本来あるべき姿からかけ離れたものとして映った。「真の武人は、こんなものではない」という鬱屈した思いが、彼を突き動かしたのである 3 。彼が求めたのは、政治的な勝利ではなく、武士としての名誉ある死に場所であった。
その理想像には、かつて増田家の客将であり、盛次に槍の手ほどきをしたともいわれる剛直な武人・渡辺勘兵衛(了)の生き様が影響していた可能性が指摘されている 3 。勘兵衛は、関ヶ原後に主君・長盛の命令書がなければ城は断じて明け渡さないと抵抗した、筋を通す気骨の持ち主であった 22 。盛次にとって、新しい時代に失われつつある、こうした古風な武士の矜持こそが、命を懸けるに値する価値観だったのである。彼の行動は、特定の主君への忠誠というよりも、自分が理想とする「武士道」そのものへの殉教に近かった。大坂城は、彼にとって最後の「死に場所」として選ばれた舞台であった。
盛次の大坂城入りは、衝動的な出奔ではなかった。彼は武士としての筋を最後まで通そうとした。まず、武蔵岩槻に蟄居する父・長盛に密かに相談し、その許しを得ている 1 。父が守ろうとした豊臣家への最後の「一分(いちぶん)」を、息子である自分が武士として体現する。この父子の間には、暗黙の覚悟の共有があった。
次に盛次は、主君である尾張藩主・徳川義直に対し、真正面から「大坂方へ参りたい」と願い出た。驚くべきことに、義直はこの前代未聞の申し出を許したと記録されている 1 。常識的に考えれば、家臣の敵方への離反を主君が許すなどあり得ない。義直のこの「許し」は、温情から出たものではなく、冷徹な政治判断の結果であった可能性が高い。冬の陣での盛次の振る舞いと家康からの評価を受け、彼を藩内に留め置くことは、尾張藩にとって極めて危険な「爆弾」を抱え込むに等しい。盛次を「本人の意志」という形で穏便に送り出すことは、義直にとって最も賢明な厄介払いであった。
こうして盛次は、父の承認と主君の黙認という、異例の形を経て、自らの死に場所である大坂城へと向かった。家康もこの動きを察知し、父・長盛への監視を緩めるよう指示したとの伝承も残っており 1 、徳川方にとって彼の行動はある程度織り込み済みであったことが窺える。
慶長二十年(1615年)五月六日、増田盛次は、その武士としての生涯を締めくくる最後の戦場へと向かった。大坂城を出た豊臣方の軍勢は、徳川の大軍を側面から奇襲すべく、二手に分かれて河内路を進んだ。
盛次は、木村重成の部隊と共に大坂城を出撃した 19 。そして彼が配属されたのは、長宗我部盛親が率いる約5,300の部隊であった 1 。長宗我部盛親は、かつて盛次の父・長盛が元服の際に烏帽子親を務めたという深い縁のある人物であり 3 、関ヶ原の戦いで土佐一国を没収された浪人の大将であった。盛次もまた、関ヶ原で全てを失った家の息子である。この戦場は、関ヶ原の敗者たちが、それぞれの因縁を背負って再起を期す場でもあった。
彼らが進軍した八尾・若江の一帯は、複数の川が流れる湿地帯であり、大軍の行動には不向きな地形であった。豊臣方は、徳川方が油断しているこのルートから奇襲をかける作戦であった 19 。
夜明け頃、八尾の地に達した長宗我部・増田連合軍は、立ち込める濃霧の中、徳川方の先鋒である藤堂高虎の軍勢(約5,000)と予期せず遭遇し、激戦の火蓋が切られた 19 。
戦いは当初、豊臣方が優勢に進めた。長宗我部盛親は、長瀬川の堤防に兵を伏せさせ、敵を十分に引きつけてから一斉に槍で突撃させるという巧みな戦術を用いた 25 。この奇襲は成功し、藤堂勢は混乱に陥り、藤堂高刑といった有力武将を失うなど大きな損害を受けた 24 。
しかし、戦況は別の戦線で急変する。若江方面で戦っていた木村重成の部隊が、徳川方の井伊直孝隊の猛攻の前に敗れ、将の重成が討死したという報せが届いたのである 3 。これにより、長宗我部隊は敵中に孤立する危険に晒され、やむなく勝利を目前にしながら大坂城への撤退を決断せざるを得なくなった。
この絶望的な撤退戦において、増田盛次は自ら最も危険な殿軍(しんがり)の任を買って出た 1 。殿軍とは、味方を無事に逃がすために、自らの部隊を犠牲にして敵の追撃を食い止める、最も過酷で、同時に最も名誉ある役目である。死を覚悟して大坂城に入った盛次にとって、これこそが武士としての本懐を遂げるための、最高の「晴れ舞台」であった。
藤堂高虎軍の追撃は熾烈を極めた。その追撃部隊の中には、皮肉にも、かつて盛次に槍を教えたともいわれる渡辺了(勘兵衛)の姿もあった 3 。盛次は鬼神の如く奮戦し、その戦いぶりは敵方からも称賛されたという。しかし衆寡敵せず、最後は藤堂家の家臣・磯野行尚(いその ゆきなお)との一騎打ちの末、ついに力尽き、討ち取られた 1 。一説に享年三十六 3 。その見事な討死は、敵である藤堂家の記録に「はれなる」と記された 1 。
奇しくも、盛次を討った磯野行尚もまた、関ヶ原の因縁を背負う人物であった。彼は元は石田三成の近習であり、関ヶ原で敗走する主君・三成に最後まで付き従った忠臣だったのである 18 。関ヶ原の敗者の息子が、同じく敗者の忠臣によって討たれる。八尾の戦場は、まさに戦国の因果が交錯する、時代の終焉を象徴する場所となった。盛次はただ討たれるのではなく、自らの死に「味方を救う」という積極的な意味を与え、追い求めた滅びの美学を、戦場で完璧に体現して見せたのである。
増田盛次の「晴れなる」死は、彼自身の物語の終結であると同時に、増田家の完全な終焉、そして戦いを生き延びた者たちの新たな人生の始まりを意味した。彼の記憶は、公式の歴史書からこぼれ落ちながらも、意外な形で後世に語り継がれていく。
盛次の大坂城入りと戦死の責任は、蟄居中の父・長盛に及んだ。大坂夏の陣が終結すると、徳川幕府は長盛に自刃を命じた 5 。元和元年(1615年)五月二十七日、長盛は七十一年の波乱の生涯を自ら閉じた 8 。関ヶ原で「生き残る」ための現実的な選択をした父は、結果として家を失い、不名誉な蟄居生活の末に、息子の「名誉ある死」に連座する形で命を絶たれたのである。父が失った武士としての名誉を、息子が自らの命と引き換えに取り戻したとも言えるこの対照的な最期をもって、豊臣五奉行まで務めた大名・増田家は、歴史の舞台から完全に姿を消した。
長盛の墓は、蟄居先の武蔵国岩槻にあった平林寺に葬られた。後に寺が現在の埼玉県新座市に移転した際に改葬され、今も同寺の広大な境内林の中に、華美を排した武骨な自然石の墓石が、ひっそりとその最期を伝えている 5 。
盛次を討ち取った藤堂家臣・磯野行尚は、その功績により加増された 32 。しかし、討ち取った直後、その大将が誰なのかすぐには判明しなかった。後に盛次の遺臣が藤堂家を訪ね、「錦の羽織を着た大将を討ち取ったと聞いたが、それは我が主君・盛次殿ではないか」と尋ねてきて、ようやくその身元が確認されたという逸話が残っている 32 。
一方、盛次の師とも、そして最後の敵ともなった渡辺了(勘兵衛)は、この戦いの後、主君・藤堂高虎が追撃を制止したことなどに不満を抱き、藤堂家を去って浪人として生涯を終えたと伝えられる 3 。戦国の気風を色濃く残す彼もまた、徳川による新たな秩序の時代に馴染めなかった一人であった。
増田盛次は、歴史の主役となることはなかった。しかし、彼の壮絶な生き様と最期は、人々の心を強く捉えた。特に、河内の地で繰り広げられた磯野行尚との一騎打ちは、悲劇的な英雄譚として格好の題材となった。その記憶は、泉大津市板原町をはじめとする地域の地車(だんじり)に、「増田盛次と磯野平三郎(行尚)の組討ち」という勇壮な彫刻として、今なお鮮やかに生き続けている 3 。
為政者が残す正史の中では脇役に過ぎない盛次が、地域の祭礼という民衆文化の中で英雄として記憶されている事実は、極めて興味深い。それは、彼の物語が持つ「判官びいき」を誘う悲劇性や、一騎打ちという視覚的に分かりやすいクライマックスが、文字の記録以上に人々の心を動かしたからであろう。
増田盛次の生涯は、勝者によって描かれる歴史の陰で、敗者がどのように生き、そして死んでいったのかを我々に教えてくれる。彼は戦国時代の終焉という大きな転換点において、旧時代の武士の意地と美学を貫き通し、敵からも「はれなる」と称賛されるほどの鮮烈な最期を遂げた人物として、歴史の中に確かな足跡を残している。