豊臣政権の最高実務機関であった五奉行。その名を挙げるとき、多くの人々は筆頭格の石田三成を思い浮かべるだろう。しかし、三成と並び、時にはそれ以上の権勢を振るったとされる人物がいた。その男の名は、増田長盛(ました ながもり)。彼は、卓越した行政手腕で豊臣秀吉の天下統一事業を支え、大和郡山20万石を領する大大名にまで上り詰めた。一方で、秀吉の死後は徳川家康に内通し、関ヶ原の戦いでは西軍に属しながら東軍の勝利に貢献した「裏切り者」として、その評価は大きく揺れ動いてきた。
本報告書は、この増田長盛という複雑な人物の生涯を、現存する史料の断片から丹念に再構築し、その実像に迫ることを目的とする。彼の行動、特に秀吉死後の権力闘争から関ヶ原の戦いにかけての不可解な動きは、単なる日和見主義や保身術に過ぎなかったのか。それとも、そこには滅びゆく豊臣家の存続を願う、より高次の戦略と苦悩が隠されていたのか。能吏、そして権力者としての栄光、関ヶ原における政治的賭け、そして大坂の陣で迎えた悲劇的な最期までを追い、歴史の影に埋もれがちな一人の武将の真実に光を当てる。
読者の理解を助けるため、まず彼の生涯を概観できる年表を以下に示す。
表1:増田長盛 略年表
年号(西暦) |
長盛の年齢 |
出来事 |
天文14年(1545) |
1歳 |
尾張国または近江国にて生誕 1 。 |
天正元年(1573)頃 |
29歳頃 |
羽柴秀吉に仕官する 4 。 |
天正8年(1580) |
36歳 |
正室・森可成の娘との間に嫡男・盛次が誕生 4 。 |
天正9年(1581) |
37歳 |
鳥取城攻めにて「陣中萬の物商の奉行」を務める 5 。 |
天正12年(1584) |
40歳 |
小牧・長久手の戦いで戦功を挙げ、2万石に加増される 2 。 |
天正13年(1585) |
41歳 |
従五位下・右衛門尉に叙任される 1 。 |
天正18年(1590) |
46歳 |
小田原征伐に従軍。近江水口6万石の城主となる 5 。 |
文禄元年(1592) |
48歳 |
文禄の役で朝鮮へ渡海。石田三成らと共に奉行として駐留 6 。 |
文禄4年(1595) |
51歳 |
秀次事件で秀次の老臣を糾問 3 。大和郡山20万石を拝領 7 。 |
慶長3年(1598) |
54歳 |
五奉行の一人に任じられる 9 。 |
慶長5年(1600) |
56歳 |
関ヶ原の戦い。西軍に属し大坂城留守居役となるが、東軍に内通。戦後、改易され高野山へ追放 10 。 |
慶長19年(1614) |
70歳 |
大坂冬の陣。家康からのスパイ要請を拒否する 4 。 |
元和元年(1615) |
71歳 |
大坂夏の陣で息子・盛次が豊臣方として戦死。その責任を問われ、自刃を命じられる 4 。 |
増田長盛の生涯は、その始まりから謎に満ちている。生年は天文14年(1545年)とされているが、出生地については尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市)とする説 1 と、近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市)とする説 2 が並立し、今なお確定を見ていない。この出自の不確かさは、彼の人物像に多層的な影を落とす一因となっている。
父の身分についても、小領主であったとも、あるいは豪農の出であったともいわれ、定かではない 13 。しかし、彼のキャリアを方向づける重要な逸話が伝えられている。父は常々、長盛に「武は身を守るものなれど、算は国を守るものぞ」と説いて聞かせたという 13 。幼い頃から数を数え、米の量を計ることに長けていた長盛の才能を、父は喜んだとされる 13 。この「算用の才」こそ、後に彼が戦国の世を渡り、豊臣政権の中枢へと駆け上がるための最大の武器となった。彼の武士としての道は、刀ではなく、算盤によって切り拓かれたのである。
さらに、彼の出自を巡っては、甲賀忍者として活動していた、一向宗徒であった、あるいは六角氏の旧臣であったなど、様々な異説が存在する 4 。これらは直接的な証拠を欠くものの、彼の前半生が如何に不明瞭であるかの傍証であり、同時に彼が早くから多様な情報網や人脈を築いていた可能性を示唆している。
長盛が歴史の表舞台に姿を現すのは、天正元年(1573年)頃、28歳前後で羽柴秀吉に仕官してからである。当初の禄高は200石と、決して高いものではなかった 2 。しかし、彼の「算用の才」は、秀吉という稀代の経営者の下で瞬く間に開花する。
天正9年(1581年)、秀吉が因幡国・鳥取城を兵糧攻めにした際、長盛は「陣中萬の物商の奉行」に任じられた 5 。これは兵站、すなわち兵糧や物資の調達・管理を司る役職であり、合戦の勝敗を左右する極めて重要な役割である。この後方支援任務を完璧にこなしたことで、彼の行政官としての能力が初めて実戦の場で証明された。本能寺の変後、秀吉が中国大返しを敢行した際にも、長盛は兵糧手配と後方部隊の整理を担当し、秀吉から「汝の算用の才がなければ、この勝ちはなかった」と称賛されたと伝わる 13 。
彼のキャリアにおいて最初の大きな転機となったのが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。この戦いで長盛は、文官としての働きに留まらず、自ら先陣を務めて敵の首級を二つ挙げるという武功を立てた 6 。この功績により、彼の所領は一挙に2万石へと加増される 2 。この武功は、彼が単なる算術の士ではなく、戦場での指揮も可能な文武両道の将であることを証明した。しかし、彼のキャリアの本流は、この武功を「切符」として得た後の行政手腕の発揮にあった。秀吉は、彼の武人としての価値以上に、政権の基盤を固めるために不可欠な、稀有な実務能力をこそ高く評価していたのである。
この時期、織田家の重臣であった森可成の娘を正室に迎えていることも、彼の地位の向上を物語る 4 。森家は織田信長に重用された名家であり、そのような家から妻を迎えることができたのは、長盛が既に秀吉の家臣団の中で確固たる地位を築いていた証左に他ならない。
小牧・長久手の戦いを経て、秀吉の信頼を勝ち得た増田長盛の才能は、天下統一事業が本格化する中で遺憾なく発揮される。彼の名を不朽のものとした最大の功績は、豊臣政権の根幹事業である太閤検地における中心的な役割であった。
石田三成や長束正家らと共に検地奉行として全国を巡り、特に近江国や安房国などで検地を指揮した 5 。その仕事ぶりは正確無比を極め、秀吉をして「神の如し」と評せしめ、「長盛に検地されたら、一粒の米も隠せぬぞ」と諸大名に語らしめるほどであったという 13 。太閤検地は、それまで曖昧であった全国の土地の生産力(石高)を統一された基準で把握し、それに基づいて年貢や軍役を課すという画期的な政策であった。長盛の「算用の才」は、この国家規模の財政改革プロジェクトを成功に導き、豊臣政権の巨大な財政基盤を確立する上で、不可欠な力となったのである。
彼の能力は、土木・普請事業においても発揮された。主に土木担当の奉行として 15 、秀吉の権威の象徴である伏見城の建設 5 や、京の都のインフラ整備に深く関わった。特に、天正18年(1590年)に手掛けた京都・三条大橋の改修工事は有名であり、その橋の擬宝珠には今なお「増田右衛門尉長盛」の名が刻まれている 16 。これは、彼の功績が400年以上の時を超えて現代に伝わる、稀有な物証である。
文禄4年(1595年)、長盛のキャリアは頂点を迎える。この年、豊臣秀吉の弟・秀長の養子であった豊臣秀保が若くして亡くなると、長盛はその旧領の中心であった大和郡山城と20万石(22万石説もあり 10 )の所領を与えられたのである 3 。これは、一介の奉行から一国に匹敵する領地を持つ大大名への破格の出世であり、秀吉の彼に対する信頼がいかに絶大なものであったかを如実に示している。
大和国は、有力な寺社勢力や国人衆が割拠する統治の難しい土地であったが 14 、長盛はここでも行政手腕を発揮する。城主となるや、郡山城の外堀の普請に着手し、秋篠川の流路を東に変更して城の防御機能を高めるなど、大規模な治水・土木事業を行った 7 。これらの事業は、城下町の発展と領国の安定に大きく寄与したと考えられる。
この大出世の直前、豊臣政権を揺るがす大事件が起こっていた。関白・豊臣秀次への謀反の嫌疑、いわゆる「秀次事件」である。この時、長盛は石田三成、前田玄以らと共に秀吉の命を受け、秀次のもとへ派遣され、その老臣たちを厳しく糾問する役目を担った 3 。
これは、彼が秀吉の腹心として、単なる清廉な能吏であるだけでなく、政権の安定のためには非情な任務も遂行する「汚れ役」も厭わない、冷徹な一面を持っていたことを示唆する。秀次事件の処理という、極めてデリケートで危険な任務を忠実に遂行したことと、その直後の大和郡山20万石拝領という時系列は、単なる偶然とは考え難い。この破格の報酬は、秀吉が長盛の忠誠心と実務能力を高く評価し、政権の暗部に関わる仕事への対価として与えたものと解釈するのが自然であろう。彼は、主君の非情な命令も遂行する、政権中枢の実力者としての地位を不動のものとしたのである。
豊臣政権における「奉行」とは、室町幕府以来の固定された官職とは異なり、秀吉の命令をその都度受けて実務を執行する、属人的な性格の強い役職であった 18 。秀吉が発給する文書の末尾に名を連ね、その意向を現場で実現するのが彼らの役割であり、その権限は秀吉個人の信任に直結していた。
慶長3年(1598年)、秀吉の晩年にこの奉行制度がより体系化され、浅野長政、石田三成、長束正家、前田玄以、そして増田長盛の五人が「五奉行」として政権運営の中核を担うことになった 9 。通説では、長盛は主に「土木」を担当したとされるが 15 、実際には司法担当の浅野長政、行政担当の石田三成と共に、政務全般に関与していた形跡が強い 4 。さらに、外交面でもその手腕は重要視され、上杉景勝や長宗我部元親、関東の諸大名との交渉窓口である「取次」役も務めており 21 、その活動は多岐にわたっていた。
注目すべきは、五奉行内部における彼の序列である。一般的には石田三成が筆頭格と見なされがちだが、当時の文書の研究によれば、奉行衆の中での序列は前田玄以、浅野長政に次ぐ3位であり、石田三成と同格、そして財政担当の長束正家よりも上位に位置づけられていた 18 。これは、長盛が単なる一奉行ではなく、政権内で極めて大きな発言権を持つ実力者であったことを示す重要な事実である。
慶長3年(1598年)8月、絶対的な権力者であった豊臣秀吉がこの世を去ると、政権内部に隠されていた対立が一気に表面化する。幼い秀頼を戴く豊臣政権は、五大老筆頭の徳川家康と、五奉行筆頭の石田三成との二大派閥に分裂し、激しい権力闘争の時代へと突入した。
この危機の時代にあって、長盛は当初、家康との協調によって政権の安定を図ろうとする現実的な路線を選択した。彼は家康の大坂城西の丸への入城を要請したり、会津征伐に向かう家康の不在を狙った三成らの不穏な動きを事前に密告したりと、明らかに家康を中心とした政権運営を支持する動きを見せる 10 。
その立場を最も象徴するのが、慶長4年(1599年)に起こったとされる「家康暗殺計画」への関与である。この計画は、前田利家の死後、反家康派の浅野長政らが家康の暗殺を企てたものとされるが、長盛がこれを家康に密告したことで未遂に終わったと伝えられている 22 。この逸話の真偽はともかく、五奉行という豊臣政権の屋台骨を支えるべき中枢が、もはや一枚岩ではなく、深刻な内部対立を抱えていたことは疑いようがない。長盛の行動は、個人的な保身という側面もあっただろうが、同時に、加藤清正ら武断派との対立を深める石田三成の強硬路線への反発と、もはや天下の実権を握りつつある家康との連携を模索する、冷徹な政治判断があったと見ることができる。彼は豊臣政権の「番頭」として、会社の将来を案じ、最大株主である家康との協調を選択したリアリストであった。
秀吉死後の権力闘争は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いという形でついに天下分け目の決戦へと至る。この歴史的な岐路において、増田長盛は極めて複雑で、二元的な行動を取ることになる。
石田三成が毛利輝元を総大将に担ぎ上げて挙兵し、大坂城を掌握して西軍が実権を握ると、それまで家康に協力的であった長盛は態度を豹変させる。彼は西軍の主要メンバーとして名を連ね、関ヶ原の前哨戦である伏見城攻めに自軍を派遣した 10 。さらに、他の奉行と共に家康の豊臣家に対する違背行為を13か条にわたって弾劾する「内府ちがひの条々」に連署し、これを全国の諸大名に送付した 24 。これは、彼の公式な立場が西軍にあったことを示す、動かぬ証拠である。
しかし、その水面下で、長盛は真逆の行動を取っていた。彼は西軍の内部情報を、逐一徳川方に流し続けていたのである。その最も決定的な証拠が、同年7月12日付で家康の家臣・永井直勝に宛てて送った密書である 26 。この書状の中で長盛は、「垂井において、大谷刑部少輔(吉継)両日相煩い、石田治部少輔(三成)出陣の申し分、ここもと雑説申し候」と記し、三成と大谷吉継の挙兵計画を具体的に密告している。
この内通行為は一度きりのものではなく、三成から軍資金の提供を要請された際にはこれを渋るなど 6 、西軍への協力は終始、極めて消極的であった。表向きは西軍の重鎮として振る舞いながら、裏では東軍の勝利のために動くという、まさに二重スパイのような行動であった。
そして関ヶ原の戦い当日、長盛は「豊臣秀頼公の守護」という、誰も反論できない大義名分を掲げ、西軍総大将の毛利輝元と共に大坂城に留まった 10 。彼は主戦場に一兵も送ることなく、東西両軍の激突を大坂城から静観したのである。
この一連の行動は、単なる日和見主義や裏切りという言葉だけでは説明がつかない。彼は、石田三成の挙兵を「性急で諸大名の心を掴みきれていない」と冷静に分析しており 13 、西軍の勝利を確信していなかった。彼の最優先事項は、どちらかの陣営の勝利ではなく、豊臣家の存続であった。そのために、彼は究極のリスクヘッジ戦略を実行したのである。
すなわち、公式には西軍に属することで、万が一西軍が勝利した場合の立場を確保する。同時に、水面下で東軍に決定的な情報を提供することで、東軍が勝利した場合に豊臣家(と自分自身)が粛清されるのを防ぐ「保険」をかけた。そして、大坂城に留まるという行動は、この戦略の核心であった。どちらの陣営にも直接的な敵対行動を取らないことで、戦後の交渉の余地を最大限に残したのである。これは、忠義一筋の長束正家や、中立を保った前田玄以とは明らかに異質であり、主家の滅亡という最悪のシナリオを回避するための、冷徹なまでのリアリストによる政治的判断であった。
表2:五奉行の関ヶ原における動向比較
奉行名 |
担当分野(通説) |
関ヶ原での公式な立場 |
実際の行動 |
戦後の処遇 |
増田長盛 |
土木 |
西軍 |
大坂城留守居。東軍へ内通。 |
改易・追放(後年自刃) |
石田三成 |
行政 |
西軍(首謀者) |
関ヶ原で主力として戦う。 |
敗戦後、捕縛され処刑 |
長束正家 |
財政 |
西軍 |
南宮山に布陣するも戦闘に参加できず。 |
敗戦後、居城で自刃 |
浅野長政 |
司法 |
東軍 |
息子・幸長が東軍主力として参戦。 |
隠居していたが、戦後加増 |
前田玄以 |
宗教 |
西軍 |
大坂城留守居。中立を維持。 |
所領安堵 |
この表は、五奉行の運命がいかに多様であったかを示している。長盛の選択は、他の誰とも違う、極めて計算されたものであり、その政治的判断の巧みさと危うさを浮き彫りにしている。
関ヶ原の戦いは、増田長盛の読み通り、徳川家康率いる東軍の圧勝に終わった。戦後、長盛は西軍に与した罪を問われるが、水面下での内通の功績が家康に認められ、死罪は免れた 13 。しかし、彼の政治的賭けは完全な成功とは言えなかった。大和郡山20万石の所領は全て没収(改易)され、大名としての地位を完全に失った 1 。彼は高野山へ追放された後、武蔵国岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にて、家康の家臣・高力清長の監視下に置かれることとなり、雌伏の歳月を送ることになった 10 。
それから14年の歳月が流れた慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立は決定的となり、大坂の陣が勃発する。この時、家康は長盛に対し、「そなたは秀頼公からの恩が深いであろう。大坂城に入り、お側にいて情報を逐一報告せよ」と、かつての関ヶ原と同じスパイ任務を依頼したという 4 。
しかし、この時、長盛は家康の依頼を明確に拒絶した 4 。この拒絶は、彼の心境の大きな変化を物語っている。関ヶ原での彼の戦略は、あくまで豊臣家を「存続」させるためのものであった。しかし、14年後のこの時点では、家康の最終目的が豊臣家の「滅亡」にあることは、もはや誰の目にも明らかだった。もはや両天秤にかける意味はなく、家康の依頼を受けることは、かつての主家を滅ぼす片棒を担ぐことに他ならなかった。彼の拒絶は、家康の非情なやり方への決別であり、かつて仕えた豊臣家への最後の忠節を、土壇場で貫こうとする覚悟の表れであった。
長盛の最後の忠義は、息子の行動を通じて示される。大坂冬の陣の時点では、長盛の嫡男・盛次は尾張藩主・徳川義直に仕えており、徳川方として参戦していた 4 。しかし、和議が破れ、夏の陣が始まると、盛次は父・長盛と相談の上で 10 、徳川家を出奔して大坂城に入り、豊臣方として戦う道を選ぶ。彼は長宗我部盛親の隊に属し、八尾・若江の戦いで奮戦の末、壮絶な討死を遂げた 4 。
元和元年(1615年)5月、大坂城は落城し、豊臣家は滅亡した。戦後、徳川幕府は盛次が大坂方に与したことの責任を、父である長盛に問うた。そして、長盛に自刃が命じられる。同年5月27日、増田長盛は71年の生涯に自ら幕を下ろした 12 。
彼の死は、単なる敗者への処罰ではない。息子を豊臣方へ送り込み、自らも死を受け入れることで、彼は生涯を通じて抱き続けた豊臣家への恩義に、最後の形で応えたのである。関ヶ原での複雑な政治的判断によって曖昧になった自らの忠誠心を、死をもって純化させ、豊臣家への殉死者として歴史に名を刻むことを選んだ。彼の生涯は、政治的リアリズムに生きた能吏が、最後の最後で武士としての死に様を選んだ、悲劇的な物語として完結するのである。
増田長盛の生涯を俯瞰するとき、そこには「算用の才」で身を立て、太閤検地や数々の普請事業を成功させ、豊臣政権の屋台骨を支えた卓越した能吏の姿が鮮やかに浮かび上がる。彼は、戦乱の世にあって武力ではなく、計数管理能力と行政手腕という、近代的なスキルで最高権力者からの信頼を勝ち得た、時代の先駆者であったと言える。
秀吉死後の彼の行動は、長らく「裏切り」や「日和見主義」という単純なレッテルで語られてきた。しかし、本報告書で詳述したように、その行動原理はより複雑なものであった。彼の関ヶ原における二元的な行動は、滅びゆく主家をどうにか存続させようとした、冷徹な現実主義者としての苦渋の選択であり、究極のリスクマネジメントであったと再評価できる。
その政治的賭けは、結果として彼自身が大名としての地位を失うという失敗に終わった。しかし、その後の大坂の陣において、家康からのスパイ要請を毅然と拒絶し、息子を豊臣方として死なせ、自らも殉死する道を選んだことは、彼の心の奥底にあった豊臣家への恩義と忠節を雄弁に物語っている。
増田長盛は、歴史の激流の中で、忠義と現実の間で揺れ動き、悩み、そして最後には武士としての本分を全うした、極めて人間的な深みを持つ人物である。華々しい合戦の陰で国家の基盤を築いた「影の実力者」として、そして時代の転換期に苦悩した一人の人間として、彼は歴史の中に正当に位置づけられ、再評価されるべきである。