大田原綱清に関する調査報告:戦国乱世を駆け抜けた那須家臣の生涯と大田原氏の興隆
1. はじめに
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本報告の目的と対象の概要説明
本報告は、戦国時代から安土桃山時代にかけて下野国那須郡を中心に活動した武将、大田原綱清(おおたわら つなきよ、1538-1590)の生涯と、彼を取り巻く歴史的背景、そして彼が大田原氏の発展に果たした役割を、現存する史料に基づいて詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。綱清は、那須七党(那須七騎とも)の一角を占める大田原氏の当主であり、主家である那須氏の興隆と衰退、そして豊臣政権による全国統一という激動の時代を生きた人物である。
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調査の範囲と主要な情報源の概観
調査範囲は、綱清の出自から、家督相続、那須家臣としての軍事的・政治的活動、千本氏謀殺事件への関与、小田原征伐への対応、そしてその死と大田原氏の近世大名への道筋までとする。主要な情報源としては、『大田原市史』などの自治体史、関連人物の事績を記した文献、古文書、および関連研究論文などを参照する。
2. 大田原綱清の出自と大田原氏の勃興
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大田原氏の系譜と那須七党における位置づけ
大田原氏の起源については諸説存在する。武蔵七党の一つである丹党に属し、忠清を祖とする説 や、宣化天皇の皇子・上殖葉王に遡る丹治姓とする説 などが伝えられている。当初は武蔵国阿保郷に住し阿保氏を称していたが、明応3年(1494年)に康清の代で那須郡に移り大俵氏を名乗り、那須氏に仕えたとされる。その後、大田原城築城とともに苗字を大田原に改め、那須氏の有力な家臣団である那須七党(那須七騎)の一つとして重きをなした。那須七党は、那須氏宗家を中心に、その支族や譜代の有力国衆によって構成された武士団連合であり、下野国北部の政治・軍事において重要な役割を担っていた。
この那須七党という枠組みは、綱清の生涯を理解する上で極めて重要である。七党は単なる家臣団ではなく、「連合組織」としての性格も有しており、各々がある程度の独立性を保持していたことがうかがえる。例えば、綱清の父・資清の時代には、大田原・大関・福原の三家を実質的に支配し、那須家中で最大の実力者となった事実 は、七党内部での勢力争いや、宗家に対する影響力の大きさを物語っている。綱清自身も、家督相続後に主君である那須氏と対立した時期があったこと
1
は、七党の国衆が常に宗家に一枚岩で従っていたわけではないことを示している。豊臣秀吉による小田原征伐の際には、那須宗家が遅参して改易の危機に瀕したのに対し、大田原氏は綱清の子・晴清の迅速な行動によって所領を安堵されており、これは七党各家が独自の判断で行動し得たこと、そして豊臣政権が個々の国衆を直接評価したことを示す好例である。したがって、綱清の行動原理を読み解くには、彼が属した那須七党という枠組みの特性、特に宗家との関係性の力学、すなわち主家への忠誠と自家の利益追求という戦国武将特有の行動様式を把握することが不可欠となる。
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父・大田原資清の時代:那須家中における勢力基盤の確立
綱清の父、大田原資清(1486-1560)は、大俵胤清の子として生まれ、智勇兼備の将としてその名を馳せた。資清は那須家内部の家督争いに積極的に介入し、天文11年(1542年)には対立関係にあった大関宗増の嫡男・増次を奇襲によって敗死させ、自身の長男である高増を大関氏の養嗣子として送り込むことに成功した。さらに次男の資孝を福原氏の養嗣子として送り込み、これにより那須七党のうち大田原・大関・福原という有力な三家を実質的な支配下に置くことで、那須家中で圧倒的な影響力を持つに至ったのである。また、主君である那須政資に自身の娘を嫁がせ、那須資胤を儲けさせるなど、主家との姻戚関係も巧みに強化した。
軍事・政治的基盤の強化として、資清は天文12年(1543年)あるいは天文14年(1545年)に、それまでの本拠地であった水口居館から新たに大田原城を築城して移り、大田原氏の勢力基盤を強固なものとした。この大田原城は、以後、明治維新に至るまで大田原氏の居城として機能し続けることとなる。
資清による高増の大関氏へ、資孝の福原氏への養子縁組は、単に縁戚関係を広げるという以上の、那須七党内における大田原派閥形成と、ひいては那須家全体への影響力掌握を狙った高度な政略であったと言える。戦国時代において養子縁組は有力な勢力拡大・同盟強化の手段であったが、資清は長男・次男という重要な駒を、那須七党の中でも特に有力な大関氏・福原氏に送り込んだのである
1
。これにより、大田原氏は自身の家だけでなく、大関氏・福原氏の軍事力・政治力をも間接的に行使できるようになったと考えられる。事実、この三兄弟(高増、資孝、そして後に家督を継ぐ綱清)は連携して千本氏を謀殺するなど、一体となって行動する場面が多く見られる
1
。資清自身が那須家中で「最有力の実力者」、「絶大な権力を有す」 と評される背景には、この養子戦略による勢力圏の拡大が大きく寄与していたことは疑いない。結果として三男の綱清が大田原本家を継ぐことになったのは、兄たちが他家を継承することで、大田原家の血統による支配ネットワークを那須七党内に構築するという、資清の深謀遠慮があった可能性が高い。この「兄弟による勢力圏」という視点は、綱清の生涯と彼が置かれた状況を理解する上で極めて重要である。
3. 大田原綱清の生涯
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生誕と家督相続
大田原綱清は、天文7年(1538年)、大田原資清の三男として誕生した。幼名は竹光丸と伝えられている。永禄3年(1560年)、父・資清が死去すると、綱清が家督を継承した 1。これは、長兄である大関高増が大関氏の養子に、次兄の福原資孝が福原氏の養子に入っていたためである 1。
綱清が三男でありながら本家を継いだ事実は、父・資清の周到な勢力拡大策の帰結であり、綱清自身は若い頃から兄たちとの連携を前提とした立場で成長した可能性が高い。通常、家督は長男が継ぐことが多いが、綱清の場合は兄たちが他家を継ぐことが父・資清の戦略によって確定していた
1
。この状況は、綱清が単独で大田原家を率いるというよりは、大関高増・福原資孝という有力な兄たちと「三兄弟同盟」とも言うべき体制で那須家中の勢力を形成することを父から期待されていた可能性を示唆する。実際に、綱清は家督継承後、兄たちと共同で行動する場面が多く見られる(例:千本氏謀殺
1
)。綱清の心理としては、兄たちが他家で大きな力を持つことへの自負と、自身が本家を継ぐ責任感、そして兄弟間の協調を維持する重要性を常に意識していたのではないだろうか。戦国武将の次男・三男の立場や心理は複雑であり、綱清の場合は兄たちが「外に出る」形であったため、例えば毛利家の隆元・元春・隆景の関係 とは様相を異にするものの、一族全体の勢力維持という点では共通の課題を抱えていたと言える。彼のリーダーシップや意思決定の背後には、常に兄たちとの関係性や、父・資清の描いた大田原一族のグランドデザインが存在したと推測され、彼の行動を「個」としてだけでなく、大田原一族という「集団」の戦略の中で捉える必要がある。
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那須家臣としての活動
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初陣と初期の戦歴:
綱清は天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いで初陣を飾り、戦功を挙げたとされている
1
。この戦いは那須高資が宇都宮尚綱を討ち取った那須氏にとって重要な戦いであり、若き綱清にとって大きな経験となったであろう。
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主君・那須氏との関係:
家督継承後、綱清はしばしば兄の大関高増ら上那須衆と共に、主君である那須氏(当主は那須資胤)と対立した時期があった
1
。S29の記述からは、資胤と高増の不和も示唆される。しかし、永禄11年(1568年)に和睦が成立すると、その後は下野宇都宮氏をはじめとする周辺勢力と戦い、主家を盛り立てた
1
。
綱清ら大田原三兄弟を中心とする勢力が、主君那須氏と一時的に対立したのは、戦国期における有力国衆の自立性の現れであり、単なる反抗ではなく、那須家中における発言力強化や所領問題などを巡る交渉の一環であった可能性が高い。戦国時代の国衆は、大名に従属しつつも、自立的な領域支配を行う存在であった。大田原資清の代に、大田原氏は那須家中で最大の実力者となっていたため、その力を背景に、綱清の代でも主家に対して強い態度で臨むことが可能だったと考えられる。「しばしば大関氏ら上那須衆と共に、主君・那須氏と対立した」
1
との記述や、那須資胤と大関高増(綱清の兄)が小田倉の戦いを機に不仲になったこと は、大田原(大関・福原含む)勢力が、主家の戦略や恩賞配分などに不満を持った場合、連携して圧力をかける能力があったことを示している。しかし、最終的には和睦し
1
、その後は主家のために戦っていることから、彼らの目的は那須家からの完全な離脱ではなく、那須家という枠組みの中で自らの権益を最大化することにあったと考えられる。これは、戦国大名と国衆の関係性において普遍的に見られる緊張と協調の力学であり、主家を完全に打倒する「下剋上」 とは異なる、より複雑な従属関係を示している。綱清の行動は、単なる忠臣でも反逆者でもなく、自家の存続と発展を第一に考える戦国武将のリアリズムに根差しており、主家との関係は、常にパワーバランスと利害関係によって変動するものであり、その中で綱清は巧みに立ち回ったと言える。
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薄葉ヶ原の戦い(天正13年/1585年):
主君である那須資晴と共に、塩谷義綱・宇都宮国綱連合軍を打ち破るという大きな戦功を挙げた
1
。この戦いは那須氏にとって重要な勝利であり、綱清の武将としての評価を一層高めたと考えられる。また、この戦いでは綱清の嫡男である晴清も初陣を飾っている。
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千本氏謀殺事件(滝太平寺の変、天正13年/1585年)への関与
薄葉ヶ原の戦いと同年の天正13年(1585年)暮れ、綱清は主君・那須資晴の許しを得て、兄である大関高増・福原資孝と共謀し、同じく那須七党の一角を占める千本常陸介資俊とその嫡子・十郎資政父子を烏山の滝寺(太平寺)に誘い出し謀殺するという事件(滝太平寺の変)に深く関与した 1。
事件の背景には複数の要因が絡み合っていた。第一に、千本氏はかつて那須高資(資晴の伯父)を謀殺した過去があり、那須家にとって仇敵と見なされていたこと。第二に、大関高増の娘が千本十郎資政に嫁いでいたが、姑との不和が原因で離縁され、これに高増が激怒していたこと。そして第三に、茂木氏も千本氏と不和であり、高増の誘いに乗ったことである。
実行にあたっては、大関高増、大田原綱清、福原資孝の三兄弟が中心となり、滝寺の別当をも味方につけて計画は遂行された。この事件により名門千本氏は滅亡し、その広大な遺領は那須資晴によって大関・大田原・福原の三氏に分配された 1。
この千本氏謀殺は、那須宗家の意向(積年の恨み)、大関高増の私憤、そして大田原三兄弟による那須家中での勢力拡大という複数の動機が絡み合った結果であり、彼らの冷徹な戦略性と強い結束力を示す象徴的な事件である。表向きの理由は「那須家の仇敵を討つ」という大義名分であったが、これは主君・那須資晴の許可を得る上で重要であった。直接的な引き金は、大関高増の娘の離縁問題であったが、結果として千本氏の遺領が三兄弟に分配されたこと
1
は、領土拡大という実利的な目的が大きかったことを強く示唆する。父・資清の代から続く大田原・大関・福原三家の連携体制が、この事件で最大限に機能したと言える。綱清は次兄・資孝と共に、長兄・高増の計画に積極的に加担した。この事件は、那須七党内部の勢力図を大きく塗り替え、大田原三兄弟の支配力を決定的なものにしたと考えられる。他の七党の家(芦野氏、伊王野氏)がこの事件にどう反応したかは史料からは詳らかではないが、三兄弟の結束力と実力を見せつけられたことは想像に難くない。『那須記』などの軍記物は特定の視点から描かれるため史料批判が必要であるが、S14の記述は『那須記』『那須由緒』を典拠としており、事件の骨子は事実と見てよいだろう。この事件は、戦国時代の「力こそ正義」という側面と、血縁(兄弟)を核とした勢力拡大のパターンを如実に示しており、綱清が単なる武勇の将ではなく、兄たちと連携して冷徹な謀略を実行できる政治的な側面も持ち合わせていたことを物語っている。
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家族
綱清の正室は角田源左衛門の娘であった。子には、嫡男で後に大田原藩初代藩主となる晴清 をはじめ、増清、勝政、忠為、勝清、典清がいた。また、娘たちは福原資広(次兄・資孝の子か)の正室、大関清増(長兄・高増の子)の正室、そして那須七党の一つである伊王野氏の伊王野資友の室となっている。
兄弟姉妹には、前述の長兄・大関高増、次兄・福原資孝のほか、佐久山義隆(那須七党佐久山氏)室、那須政資室がいた。特筆すべきは、姉婿にあたる佐久山義隆が、永禄6年(1563年)に高増・資孝・綱清ら兄弟によって謀殺され、佐久山氏もまた彼らによって追い落とされている点である。これもまた、大田原三兄弟による那須家中での勢力拡大の一環であった。
綱清自身、そしてその子供たちの婚姻は、父・資清の戦略を引き継ぎ、那須七党内および周辺の有力者との関係を強化し、大田原一族の勢力網をさらに拡大・維持するための重要な手段であった。綱清の娘たちが福原氏、大関氏、伊王野氏という那須七党の有力家に嫁いでいることは、父・資清が兄たちを養子に出した戦略と同様に、一族の結束を固め、影響力を保持するための政略結婚であったと言える。特に、兄たちの家(大関氏、福原氏)の子息に娘を嫁がせている点は、世代を超えた連携を意図したものであろう。伊王野氏との婚姻は、大田原・大関・福原以外の那須七党の家とも連携を深めようとした試みと見ることができる。戦国時代において婚姻は同盟の証であり、情報交換や相互支援の基盤となった。これらの婚姻戦略は、綱清が単に武力だけでなく、外交や一族経営にも長けていたことを示唆しており、これにより大田原氏は那須家中で孤立することなく、常に複数の連携先を確保し、変動する政治状況に対応できたと考えられる。
表1:大田原綱清 略年表
年代(和暦/西暦)
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出来事
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典拠
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天文7年(1538年)
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大田原資清の三男として誕生。幼名、竹光丸。
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S1, S9
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天文18年(1549年)
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喜連川五月女坂の戦いで初陣、戦功を挙げる。
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1
, S9
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永禄3年(1560年)
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父・資清死去に伴い、家督を相続。
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1
, S9
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永禄6年(1563年)
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兄・高増、資孝と共に姉婿・佐久山義隆を謀殺、佐久山氏を追い落とす。
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S13, S24
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永禄年間(1558-1570年頃)
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主君・那須氏と対立する時期がある。
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1
, S68
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永禄11年(1568年)
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那須氏と和睦。
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1
, S68
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天正13年(1585年)
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薄葉ヶ原の戦いで那須資晴と共に塩谷・宇都宮連合軍を破る。嫡男・晴清が初陣。
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1
, S9, S15
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天正13年(1585年)暮れ
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那須資晴の許しを得て、兄・高増、資孝と共に千本資俊・資政父子を謀殺(滝太平寺の変)。千本氏遺領を分配される。
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1
, S9, S14
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天正18年(1590年)
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病に倒れ、嫡男・晴清に家督を譲る。
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S9, S39
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天正18年8月17日(1590年9月15日)
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死去。享年53。
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S1, S9
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この年表は、綱清の生涯における主要な出来事を時系列で俯瞰することを可能にし、彼の活動の変遷や、特定の時期に集中している出来事(例えば、天正13年の軍功と謀略)などを視覚的に理解しやすくする。レポート全体の理解を助ける基礎情報となる。特に、薄葉ヶ原の戦いと千本氏謀殺が同年に起きている点は、この年が綱清にとって軍事的にも政治的にも極めて重要な年であったことを示唆しており、年表によってその点が強調される。
表2:大田原綱清 関係主要人物一覧
人物名
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続柄・関係
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備考
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典拠
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大田原資清
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父
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那須家中の実力者、大田原氏の勢力基盤を築く。
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S1, S23, S24
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大関高増
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長兄
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大関氏養子。白旗城主。綱清・資孝と連携し那須家中で権勢を振るう。
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S1, S3, S11, S77
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福原資孝
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次兄
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福原氏養子。綱清・高増と連携。
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S1, S13, S79
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角田源左衛門娘
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正室
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S1, S68
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大田原晴清
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嫡男
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大田原藩初代藩主。小田原征伐で活躍、関ヶ原の戦功で加増。
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S1, S2, S8, S15
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大田原増清
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次男
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兄・晴清を助け、小田原征伐や関ヶ原後の相馬中村城守備などに従事。
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S1, S2, S15
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(娘)
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福原資広 正室
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S1, S2
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(娘)
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大関清増 正室
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S1, S2
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(娘)
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伊王野資友 室
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S1, S2, S80
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那須資胤
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主君(綱清の家督相続初期)
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綱清の母方の甥にあたる可能性(資清娘が政資に嫁ぎ資胤を産んだため S23, S24)。綱清らと対立後和睦。
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S1,
1
, S29
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那須資晴
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主君(綱清の活動後期)
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薄葉ヶ原の戦いを共に戦う。千本氏謀殺を許可。小田原征伐で遅参し改易。
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S1,
1
, S9, S17
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千本資俊・資政
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敵対者(那須七党)
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滝太平寺の変で綱清ら三兄弟に謀殺される。
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1
, S9, S14
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この表は、綱清の人間関係ネットワークを一覧化することで、彼の行動や意思決定に影響を与えたであろう人物群を明確にする。特に、父や兄たちとの関係、主君との関係、そして婚姻関係を通じた他家との繋がりは、綱清の生涯を理解する上で不可欠な要素である。大田原三兄弟(高増、資孝、綱清)の連携は綱清の活動の鍵となるため、彼らを明記することは重要である。
4. 豊臣秀吉の小田原征伐と大田原氏
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小田原征伐(天正18年/1590年)の背景と関東諸将の動向
天正18年(1590年)の小田原征伐は、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げとして、関東に覇を唱えた北条氏政・氏直親子を討伐するために行われた一大軍事行動であった。秀吉は後陽成天皇から節刀を授けられ、関白として天皇の施策遂行者という名分をもってこの戦いに臨んだ。北条氏は関東の諸大名に出陣を要請したが、多くの関東の国衆は、強大な秀吉軍への参陣か、旧来の関係から北条方への加担か、あるいは中立を保つかという、自家の存亡を賭けた極めて困難な選択を迫られた。
このとき、常陸の佐竹義重・義宣親子は早くから秀吉に恭順の意を示し、小田原に参陣して常陸国54万石の所領を安堵された。下野の宇都宮国綱も参陣し所領を安堵されている。一方で、小田氏治は参陣しなかったために改易され、由良国繁や成田氏長らは小田原城に籠城したが、後に秀吉に降伏し、限定的ながらも所領を得るなど、関東諸将の対応は実に様々であった。
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主君・那須資晴の対応とその結果
このような状況下で、大田原綱清の主君である那須資晴は、秀吉からの小田原参陣の呼びかけに応じるのが遅れた。秀吉が奥州仕置のために下野国に入り、小山に駐留した際にようやく参見するという有様であった。秀吉はこの遅参を厳しく咎め、那須氏の所領(八万石とも言われる)を没収し、居城であった烏山城も織田信雄に与えられた。これにより、那須宗家は一時的に改易の危機に瀕することとなった。
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綱清の病と嫡男・大田原晴清の対応
この国家的にも地域的にも極めて重要な時期に、大田原綱清は病に倒れていた。綱清に代わって采配を振るったのは、嫡男の大田原晴清(当時24歳)であった。晴清は、弟の増清と共に那須衆の動向を見極め、主君・那須資晴が小田原に参陣しなかったのとは対照的に、独自の判断で行動した。晴清は駿河国沼津において豊臣秀吉に謁見し、臣従の意を示したのである。この時、弟の増清は既に秀吉との謁見を済ませていたとも伝えられており、大田原氏が周到に準備を進めていたことがうかがえる。
この迅速かつ的確な対応が功を奏し、他の那須七騎の諸氏が減封処分を受ける家が出る中で、大田原氏は7,100石の所領を安堵された 2。この時、晴清は秀吉より備前国勝光・宗光両作の太刀を賜り、これにちなんで「備前守」を称するようになったとされている 2。
主家那須氏が対応を誤り危機に瀕する中、病床の綱清に代わった晴清が、的確な情報収集と迅速な判断に基づき、豊臣秀吉に直接臣従の意を示すことで、大田原家の存続と所領安堵を勝ち取ったことは特筆に値する。小田原征伐は、関東の国衆にとって生き残りをかけた一大転機であったが、那須宗家は遅参という失態を犯した。綱清は病床にあったが、嫡男・晴清が「弟・増清が既に秀吉と謁見を済ませていたこともあって」 所領安堵を得ている事実は、大田原氏が那須宗家とは別に、独自の外交ルートや情報網(例えば、S93, S94で示唆されるような商人や僧侶のネットワークも考えられる)を駆使し、判断を下せる体制を整えていたことを強く示唆する。増清が先に謁見していたという事実は、兄弟で手分けして、あるいは先行して情報を集め、最適なタイミングで秀吉に接触しようとした戦略の現れかもしれない。秀吉は、参陣の意思やタイミングを重視したとされ、晴清の沼津での謁見は、この秀吉の方針に合致した行動であった。他の那須七党(伊王野氏、芦野氏 など)も個別に秀吉に謁見し、それぞれ異なる結果(安堵、減封など)となっている。これは、豊臣政権が国衆を個別に評価し、直接的な主従関係を構築しようとしたことの証左であり、大田原氏が7,100石を安堵されたのは、単なる幸運ではなく、周到な準備と的確な行動の結果であった可能性が高い。この出来事は、大田原氏が単なる那須氏の家臣ではなく、自立した政治主体として行動し得る能力を持っていたことを示し、綱清の代までの勢力伸張と、晴清の代での的確な判断が、大田原氏を近世大名へと導く重要な布石となったと言える。
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那須氏再興への晴清による貢献
小田原落城後、大田原晴清は、遅参の罪で所領を没収された旧主・那須氏の再興を願い出るという行動に出た。那須資晴の子である資景(藤王丸)を伴い、奥州仕置の途中で大田原城に着陣した秀吉に直接陳謝したのである 2。
晴清のこの行動が功を奏し、那須資景は新たに秀吉から5,000石を与えられ、那須氏は小規模ながらも領主として存続することができた 2。S17の末尾には資景と資晴に各5千石が与えられたとの記述もあり、那須宗家の完全な断絶は免れた。
晴清による那須氏再興支援は、単なる旧主への恩義に留まらず、那須地域における大田原氏の立場を強化し、豊臣政権に対する「律儀者」としての評価を高めるという、高度な政治的計算が含まれていた可能性がある。大田原氏は那須氏の家臣であったが、小田原征伐では那須氏とは別行動で所領安堵を得た。これにより、事実上、那須氏から独立した存在に近い形となった。しかし、那須地域における長年の主従関係や勢力バランスを考えると、那須宗家が完全に没落することは、大田原氏にとっても望ましくない状況(例えば、他の有力国衆の台頭や、新たな支配者による地域の不安定化)を生む可能性があった。晴清が那須氏の再興を秀吉に願い出ることで、秀吉に対して「旧主を思う律儀な武将」という印象を与え、自身の評価を高める狙いがあったかもしれない。戦国武将の書状には感情が吐露されることもあり、こうした行動は評価に繋がりやすい。また、弱体化したとはいえ那須宗家を存続させ、その「恩人」という立場に立つことで、那須地域における大田原氏の優位性を間接的に確立しようとしたとも考えられる。結果的に那須氏は5,000石で再興し、大田原氏は7,100石を安堵された。この石高の差は、両者の力関係の変化を象徴している。晴清の行動は、単なる忠誠心の発露ではなく、新たな政治秩序の中で自家の地位を最大限に高めようとする戦略的な動きであったと解釈でき、これは、綱清の代までに培われた大田原氏の政治的洞察力の現れとも言える。
表3:小田原征伐における那須七党(および那須宗家)の動向比較
氏名(当時の当主または代表者)
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勢力
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小田原征伐への対応
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結果
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典拠
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那須資晴
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那須宗家
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遅参(小山にて秀吉に謁見)
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改易(後に晴清らの働きかけで資景に5千石、資晴に5千石で再興)
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S17, S18
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大田原晴清(父・綱清は病床)
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大田原氏
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秀吉に早期謁見(沼津)、弟・増清はさらに先行して謁見
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7,100石安堵、秀吉から太刀拝領
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S8, S15,
2
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大関高増(またはその子弟)
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大関氏
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秀吉に謁見(S18に分割して与えられたとあることから参陣・安堵か)
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所領安堵または加増(S18、S92に加増の記述あり)
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S18, S92
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福原資孝(またはその子弟)
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福原氏
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秀吉に謁見(S18に分割して与えられたとあることから参陣・安堵か)
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所領安堵(S18に言及あり)
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S18
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伊王野資信
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伊王野氏
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遅参したが、本領伊王野740石(または735石)は安堵
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740石(または735石)安堵
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S53, S54
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芦野盛泰
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芦野氏
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小田原に赴き秀吉に謁見、奥州仕置の際に慰労。秀吉から腰刀と黄金を賜る。
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所領安堵
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S55
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千本氏
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千本氏
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天正13年に大田原綱清らにより滅亡済み。名跡は茂木氏の子が継承(S14)。
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(該当なし)
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S14
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この表は、豊臣秀吉による全国統一という画期において、同じ那須七党という立場にありながら、各家がどのような判断を下し、その結果どのような運命を辿ったのかを比較することで、大田原氏(晴清)の行動の的確さと、それが後の発展にどう繋がったのかを際立たせる。小田原征伐は関東の諸勢力にとって「踏み絵」のようなものであり、那須七党という共通の枠組みにありながら、各家の対応には差異が見られた。この差異と、それによってもたらされた結果(所領安堵、減封、改易)を比較することで、各家の政治判断の巧拙が浮き彫りになる。特に、宗家の那須資晴が遅参して改易の危機に瀕したのに対し、家臣である大田原晴清が迅速に行動して所領を安堵され、さらに旧主家の再興にも貢献したという対比は非常に重要である。この表は、大田原氏の「成功」が、単なる偶然ではなく、他の那須七党と比較して優れた戦略と行動力の結果であったことを示すための強力な視覚的証拠となる。
5. 綱清の晩年と死、そして大田原氏のその後
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病による家督の晴清への譲渡と逝去
天正18年(1590年)、小田原征伐という天下の趨勢が決する重要な局面において、大田原綱清は病に倒れ、家督を嫡男の晴清に譲った。そして同年8月17日(西暦1590年9月15日)、綱清はこの世を去った。享年は53であった。死因は病死とされている。
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墓所
綱清の墓は、栃木県大田原市中田原にある大田原氏墓所(上坊)に、父・資清、祖父・胤清と共に葬られている 3。この墓所は、大田原氏の初期の本拠地であった水口居館の東方約500メートルに位置し、大田原氏初期の当主たちが眠る場所である 3。
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嫡男・晴清の時代と大田原藩の立藩
綱清の跡を継いだ大田原晴清は、父が築いた基盤と、自身が小田原征伐で示した的確な判断と行動力を元に、大田原氏をさらなる発展へと導いた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、晴清は東軍に属し、徳川家康の指示のもとで重要な役割を果たした。具体的には、会津の上杉景勝の動向を諜報し家康に報告したり、大田原城に徳川方の軍勢を迎え入れて陸奥国境の城郭修造にあたるなどした。その忠勤に対し、家康からは正恒の太刀と黄金100両、徳川秀忠からは金熨斗付きの長船師光の刀を与えられている。
これらの戦功により、関ヶ原の戦後、晴清は下野国森田に800石を加増されて合計7,900石となり、さらに慶長7年(1602年)には下野国芳賀郡・那須郡、そして陸奥国磐城郡に合わせて4,500石を加増され、総石高1万2,400石を領する大名となった。これにより、下野大田原藩が立藩し、大田原氏は近世大名としての地位を確立したのである。
綱清の生涯にわたる那須家中での勢力固めと、小田原征伐という危機を乗り切った実績は、息子・晴清が関ヶ原の戦いで的確に時流を読み、徳川方について功績を挙げるための強固な基盤となった。綱清は天正18年(1590年)に死去しており、関ヶ原の戦い(1600年)には直接関与していない。しかし、晴清が関ヶ原で東軍として活躍し、大名に取り立てられた背景には、綱清の代までの大田原氏の歩みが不可欠であった。具体的には、(a) 父・資清と綱清自身による那須家中での勢力確立と大田原城を中心とした領国経営の安定
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、(b) 小田原征伐における晴清の功績と豊臣政権からの所領安堵、(c) これらを通じた大田原氏の政治的・軍事的な実力の証明、といった要素が挙げられる。関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康は、豊臣政権下で一定の評価を得ており、かつ地理的に重要な位置(対上杉)にある大田原氏(晴清)を味方につけることを重視したと考えられる。晴清が大田原城の修築を命じられ、援軍や兵器が送られたこと がその証左である。綱清が病床にありながらも、晴清に家督を譲り、彼が小田原征伐で活躍する道を開いたことは、結果的に大田原氏の未来を大きく左右したと言える。戦国末期から近世初期にかけて、多くの国衆が淘汰される中で大名として生き残るためには、中央政権との的確な交渉、領国経営の安定、そして時流を読む戦略眼が求められたが、大田原氏はこれらの要素を兼ね備えていた。綱清の時代に蒔かれた種が、晴清の代で開花し、大田原氏は国衆から近世大名へと飛躍を遂げたのであり、綱清の生涯は、単なる一地方武将の歴史に留まらず、戦国時代の国衆が激動の時代をいかに生き抜き、近世大名へと転身していくかという、より大きな歴史的プロセスの縮図として捉えることができる。綱清の「遺産」がなければ、晴清の「飛躍」もなかった可能性が高い。
6. 大田原綱清の人物像と歴史的評価
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史料から推察される綱清の人物像
大田原綱清の人物像を史料から推察すると、まず武将としての勇猛さが挙げられる。喜連川五月女坂の戦いや薄葉ヶ原の戦いでの戦功 1 は、その証左と言えよう。一方で、兄である大関高増、福原資孝と緊密に連携し、千本氏謀殺や佐久山氏追放といった謀略を主導、あるいは積極的に実行した点 1 は、目的達成のためには冷徹な手段も辞さない戦国武将としてのリアリズムと、兄弟間の強い結束力をうかがわせる。
主家である那須氏としばしば対立しつつも 1、最終的には和睦し、主家のために戦っている点は、自家の利益と主家への忠誠との間で巧みにバランスを取ろうとした、あるいは状況に応じて立場を使い分ける高度な戦略性を持っていた可能性を示唆する。
天下分け目の小田原征伐の際に病床にあったことは彼にとって不運であったが、その危機を嫡男・晴清が乗り越え、大田原氏の存続を確実なものにした背景には、綱清の代までの領国経営や家臣団統制、そして晴清への教育や適切な時期の権限委譲が適切に行われていた可能性が考えられる。
江戸中期に描かれた「紙本著色 大田原資清と一族の肖像画」に綱清も描かれていること は、後世における彼の一族内での位置づけを示すものであり、直接的な人物像の史料ではないものの、その評価を考える上で参考になる。ただし、S41やS42に見られるような逸話は綱清に直接関連するものではないため、人物像の推察には慎重を期すべきである。
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戦国武将としての綱清の役割と那須七党における影響力
綱清は、父・資清が築き上げた那須家中における大田原氏の優位な立場を継承し、兄たちとの強固な連携を通じて、那須七党ひいては那須地域全体の政治・軍事動向に大きな影響を与えた。彼の活動は、那須氏の勢力維持に貢献する一方で、大田原氏自身の自立性を高め、後の近世大名化への道筋をつける重要なものであったと言える。
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大田原氏の存続と発展における綱清の貢献
綱清の治世は、戦国時代の終焉と豊臣政権による天下統一という、日本史における一大転換期と重なる。この激動の時代において、綱清(およびその代理としての晴清)は、巧みな戦略と果断な行動によって大田原氏の存続を確実なものとした。千本氏謀殺による領地拡大や、小田原征伐における所領安堵は、大田原氏が近世において大名として飛躍するための経済的・政治的基盤を強化したと言える。
そして何よりも、綱清の最大の貢献は、優秀な後継者である晴清を育て、彼に適切なタイミングで家督を譲ったこと、そして晴清がその期待に応えて大田原氏をさらなる高みへと導いたことにあると言えるかもしれない。
7. おわりに
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大田原綱清の生涯の総括と歴史的意義
大田原綱清は、戦国末期の下野国において、父祖の代からの勢力を巧みに維持・拡大し、主家との緊張関係の中で自家の自立性を高め、豊臣政権による全国統一という未曾有の変革期を乗り越え、次代の飛躍への確固たる礎を築いた武将であった。彼の生涯は、中央の大きな権力変動の波が地方の国衆にいかなる影響を与え、彼らがそれにどう対応して生き残りを図ったかを示す典型的な事例の一つとして、歴史的に重要な意味を持つ。綱清の存在なくして、その後の大田原氏の発展、すなわち近世大名大田原藩の成立は考えられなかったであろう。
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今後の研究課題(もしあれば)
大田原綱清に関する研究は、なお深掘りの余地がある。具体的には、綱清自身が発給した書状などの一次史料が発見されれば、その人物像や具体的な政策についてより詳細な分析が可能となるであろう。また、那須七党間の関係性や、綱清と他の七党当主との具体的な交流を示す史料の探索も期待される。綱清時代の領国経営、例えば検地の実施や城下町の整備などに関する具体的な記録の有無についても調査が必要である。さらに、『那須記』など後世の編纂物における綱清像の分析と、同時代史料との比較検討を進めることで、より客観的な綱清像に迫ることができると考えられる。
引用文献
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大田原綱清 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E7%B6%B1%E6%B8%85
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大田原晴清 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%99%B4%E6%B8%85
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大田原氏墓所(おおたわらしぼしょ) 市指定史跡 | 大田原市
https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082769145/