最終更新日 2025-06-12

大関高増

「大関高増」の画像

戦国の梟雄、大関高増の実像

序章:戦国の梟雄、大関高増

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて下野国那須郡にその名を轟かせた武将、大関高増(おおぜきたかます、大永7年(1527年) - 慶長3年1月14日(1598年2月19日))の生涯と事績を、現存する史料に基づき多角的かつ詳細に検討し、その実像に迫ることを目的とする 1 。高増は、那須七党の一つである大関氏を継ぎ、権謀術数を駆使して主家である那須氏の家中で最大勢力を築き上げ、最終的には豊臣政権下で独立した大名へと転身を遂げた人物である 1 。彼の生涯は、下剋上が常であった戦国乱世の縮図とも言え、その知略と行動力は特筆に値する。

高増が生きた16世紀の下野国、特に那須地方は、那須氏を盟主としつつも、北関東の覇権を巡る佐竹氏(常陸)、宇都宮氏(下野)、蘆名氏(会津)、そして後には小田原北条氏といった周辺の大勢力による影響が複雑に絡み合い、国人領主間の抗争が絶えない不安定な情勢下にあった 1 。那須氏内部においても、那須七党(那須七騎とも称される)と呼ばれる有力な庶家や家臣団が存在し、彼らは那須宗家と時に協調し、時に自立的傾向を強めるという、一筋縄ではいかない主従関係を形成していた 3 。このような政治的・軍事的背景が、高増のような実力主義的な人物が台頭し、独自の勢力を伸張させる土壌となったのである。主家の統制力が絶対的でなかったからこそ、家臣が自らの才覚で勢力を築き、時には主家を凌駕するほどの力を持ち得た時代であった。高増の父・大田原資清の那須家中での権力掌握や、高増自身の那須氏との関係の変遷は、この流動的な状況を巧みに利用した結果と言えるだろう。彼の生涯は、戦国時代における「下剋上」や「実力主義」といった時代精神を色濃く反映しており、その行動様式は、当時の多くの地方武将に見られた生存と勢力拡大の戦略の典型例とも評価できる。

以下に、大関高増の生涯における主要な出来事を略年譜として示す。

表1:大関高増 略年譜

和暦(西暦)

出来事

典拠

大永7年 (1527年)

大田原資清の長男として誕生。幼名、熊満。

1

天文11年 (1542年)頃

父の政略により大関宗増の養子となり家督を相続、白旗城主となる。

1

天文18年 (1549年)

喜連川五月女坂の戦いで初陣し、戦功を挙げる。

2

天文20年 (1551年)

従五位下・右衛門佐に叙任される。後に美作守。

1

永禄3年 (1560年)

小田倉の戦いで那須資胤を援護するも、戦後、資胤と対立。

1

永禄3年~永禄10年

大田原氏らと共に佐竹氏に内通し、那須資胤と数度戦うも敗れる。

2

永禄11年 (1568年)

那須資胤と和睦。剃髪して安碩斎未庵と号し、謝罪。 이후, 那須七党筆頭として主家を支える。

1

天正4年 (1576年)

居城を白旗城から黒羽城に移し、城下町の整備に着手。

2

天正6年 (1578年)

次男・清増に家督を譲るが、実権は握り続ける。

1

天正13年 (1585年)

千本資俊・資政父子を太平寺に誘い出し謀殺する。

2

天正18年 (1590年)

豊臣秀吉の小田原征伐に際し、主家・那須氏に先んじて参陣。本領1万石、長男・晴増に3千石を安堵され、独立大名となる。

1

慶長3年1月14日 (1598年2月19日)

死去。享年72。

1

第一章:出自と大関家相続の経緯

大関高増は、大永7年(1527年)、下野国の有力国人領主であった大田原備中守資清(おおたわらすけきよ)の長男として生を受けた 1 。幼名は熊満(くままん)と伝えられる 1 。母は金丸河内守の娘であった 1 。高増の生家である大田原氏は、平氏繁盛流を称する家柄であり、那須氏の有力な庶家、あるいは重臣として那須郡に勢力を有していた 1

高増の生涯を語る上で、父・大田原資清の存在は極めて大きい。資清は権謀術数に長けた策略家として知られ、那須家中で急速にその影響力を拡大させた人物である 9 。資清はかつて、同じく那須七党の一角を占める大関宗増(おおぜきむねます)の讒言によって那須氏から追放されるという苦難を経験したが、天文11年(1542年)頃、那須政資(あるいは那須資房とも)の要請を受けて那須家に帰参を果たした 9

帰参後の資清は、積年の恨みを晴らすかのように、あるいは那須家中の実権掌握を目指し、大胆な行動に出る。当時、大関宗増とその子・増次(ますつぐ)父子は那須家中で増長し、その横暴ぶりは目に余るものがあったとされる 3 。資清はこれを好機と捉え、増次が少人数で鷹狩りに出た隙を狙って奇襲をかけ、石井沢(いしいざわ)において増次を討ち取った 7 。この事件により、大関宗増は勢力を削がれ、隠居を余儀なくされた。この一連の動きは、資清の個人的な復讐心のみならず、那須家中の権力構造を自らに有利な形へ再編しようとする深謀遠慮の現れであった。

この大関増次の死によって後継者を失った大関氏に対し、資清は自らの影響力を浸透させる絶好の機会と捉えた。天文11年(1542年)頃、資清は長男である高増を、大関宗増(史料によっては大関顕増とも 2 )の養嗣子として送り込み、大関家の家督を相続させたのである 1 。大関氏は、武蔵七党の一つである丹党流、あるいは平国香を祖とする平氏の直系で名門小栗氏の家系とも伝えられる那須七党の有力な一家であった 1 。高増は大関氏の家督を継承するとともに、その本拠地である白旗城(しらはたじょう)の城主となった 1

資清の野心はこれに留まらなかった。彼は高増を大関家に送り込んだのに続き、次男の資孝(すけたか)を同じく那須七党の福原氏の養子とし、三男の綱清(つなきよ)には実家である大田原氏を継がせた 1 。さらに、伊王野氏といった他の有力国人とも姻戚関係を結び、娘を主君・那須政資に嫁がせて那須資胤を産ませるなど、大田原一族を中心とした広範な姻戚・同盟ネットワークを那須郡内に構築し、那須家中で随一の勢力を築き上げた 9 。資清は臨終の際、高増ら息子たちに対し、さらなる勢力拡大のためには、自身の娘婿であり名将として知られた佐久山義隆(さくやまよしたか)ですら障害となるならば暗殺せよと遺言したと伝えられており、高増ら三兄弟はこれを実行に移したという逸話も残っている 9 。この逸話の真偽はともかく、資清とその薫陶を受けた高増らの、権力に対する非情なまでの執着心と、目的達成のためには手段を選ばない冷徹な一面を物語っている。

高増の大関家相続は、決して平和的なものではなく、父・資清による周到かつ強引な計画、すなわち政敵である大関増次の排除という血腥い事件を背景としていた。資清の野心と戦略が、高増の初期のキャリアを方向付けたと言える。資清は、自らの一族全体の権力基盤を強化するために、息子たちを戦略的に要所へ配置したのであり、高増はその計画における重要な駒として大関家に入った。しかし、これは同時に、高増自身に独立した勢力基盤を与えることにも繋がり、後の飛躍の土台となった。このような一族全体の勢力拡大を目指す「家」の戦略は、戦国時代において広く見られた現象である。高増は、父・資清から権謀術数と非情な決断力を間近で学び、それを自らのものとしていった可能性が高く、この経験が後の高増自身の那須家中での権力闘争や、千本氏謀殺といった冷徹な行動に繋がったと推察される。

以下に、大関高増の生涯に関わった主要な人物を一覧で示す。

表2:大関高増 関係主要人物一覧

人物名

高増との関係

概要

典拠

大田原資清

権謀術数に長け、那須家中で勢力を拡大。高増の大関家相続を画策。

1

金丸河内守の娘

1

大関宗増

養父

資清に勢力を削がれ、高増を養子に迎える。

1

大関増次

養父・宗増の子

資清の奇襲により討死。

10

福原資孝

実弟(次男)

福原氏の養子となる。

1

大田原綱清

実弟(三男)

大田原氏の家督を継承。

1

佐久山義隆の室

実妹

夫・義隆は資清の命により高増らに暗殺されたとされる。

2

宇留野義元の娘

正室

1

大関晴増

長男

勇将として知られたが早世。

2

大関清増

次男

高増から家督を譲られたが早世。

1

大関資増

三男

兄たちの死後、家督を継ぎ黒羽藩初代藩主となる。

2

那須高資

主君(那須氏当主)

喜連川五月女坂の戦いなどで共に戦う。千本資俊に暗殺される。

3

那須資胤

主君(那須氏当主、高資の弟)

当初は高増と対立し戦うが、後に和睦。

1

那須資晴

主君(那須氏当主、資胤の子)

高増が那須家中の最大実力者として後見。

1

千本資俊

那須七党の一、千本城主

那須高資を謀殺。後に高増の娘の離縁問題がこじれ、高増によって子と共に謀殺される。

11

佐竹義重

常陸国の戦国大名

高増が那須資胤と対立した際に一時内通。後に那須氏と和睦、同盟。

2

豊臣秀吉

天下人

小田原征伐後、高増・晴増父子に所領を安堵し、大関氏を独立大名として認める。

1

第二章:那須家との確執と協調

大関氏の家督を継いだ高増は、若くして戦場での経験を積んでいく。天文18年(1549年)、下野国喜連川(きつれがわ)の五月女坂(さおとめざか)において、那須高資(当時の那須氏当主)に従い、宇都宮尚綱の軍勢と戦ったのが高増の初陣であったとされ、この戦いで戦功を挙げたと記録されている 2 。この功績もあってか、天文20年(1551年)には従五位下・右衛門佐に叙任され、後に美作守にも任じられた 1 。官位を得たことは、高増が那須家中の有力武将として、また大関氏当主として公に認められたことを意味する。

しかし、高増と那須宗家との関係は、常に順風満帆だったわけではない。那須高資が家臣の千本資俊によって暗殺された後 3 、那須氏の家督は弟の那須資胤(すけたね)が継承した。永禄3年(1560年)、資胤は会津の蘆名氏や白河の結城氏といった周辺勢力からの侵攻を受け、小田倉の地で合戦となった(小田倉の戦い)。この戦いに高増も資胤に従って出陣し、主家を援護したが、戦闘における高増の戦いぶりに資胤が不満を抱いたことがきっかけとなり、両者の関係は悪化、高増は那須宗家と対立する立場へと転じた 1 。主君の評価に必ずしも従順でなかった高増の気質が窺える。

この対立を背景に、高増は実家である大田原氏や、同じく那須氏北部に勢力を持つ国人領主たち(上那須衆)と連携し、大胆にも常陸国の戦国大名である佐竹義昭・義重親子に内通した 1 。これは単なる主家への反抗というよりも、自らの勢力保持と拡大を企図した戦略的な判断であり、自己の存立をかけて外部勢力と結ぶという、戦国武将としてのリアリズムの現れであった。その後、永禄3年から約7年間にわたり、高増ら上那須衆は那須資胤との間で戦闘を繰り返した。永禄9年(1566年)には、佐竹氏や下野宇都宮氏の援軍を得て資胤の本拠である烏山城を攻撃したが、資胤の巧みな防衛戦の前に撃退された 1 。翌永禄10年(1567年)にも、高増は佐竹義重と共に大崖山で那須軍と戦ったが、再び敗北を喫している 2

数度にわたる戦いで資胤を打倒できなかった高増ら大関氏・大田原氏は、永禄11年(1568年)9月、ついに那須資胤との和睦に応じた 1 。この際、高増は反逆の罪を謝すため剃髪し、「安碩斎未庵(あんせきさいみあん)」あるいは単に「安碩」と号した 1 。これは現状では那須氏を単独で打倒することが困難であると判断した、現実的な対応であったと言えよう。しかし、この和睦は単なる高増の恭順を意味するものではなかった。和睦後、高増は那須七党の筆頭的な地位を占めるようになり、那須家中の実力者としての立場を確固たるものとしたのである 1 。これは、高増の軍事力と政治力が那須氏にとって無視できない存在であり続けたことの証左であり、単なる忠誠心からではなく、その実力を背景に有利な立場を確保した結果と解釈できる。

那須資胤の没後、その子である那須資晴(すけはる)が家督を継ぐと、大関高増の那須家中における影響力はさらに増大した。父・大田原資清の代から築き上げられてきた大田原氏・福原氏といった一門の強力な勢力を背景に、高増は那須氏の家政を左右するほどの最有力者として、主君・資晴を後見し、絶大な権勢を誇った 1 。この時期、那須氏の勢力は最盛期を迎え、その所領は那須郡全域のみならず、塩谷郡や芳賀郡の一部にまで及んだとされ、大関高増、大田原綱清、福原資孝といった勇猛な家臣団を擁していた 6 。天正15年(1587年)頃の那須氏の知行割によれば、那須宗家(烏山)が八万石であったのに対し、黒羽(大関高増)は千八百石、大田原(大田原綱清)は一万二千四百石、福原(福原資孝)は五千石と記録されており 6 、大関高増個人の名目上の石高は必ずしも突出して高くはない。しかし、実弟である大田原綱清や福原資孝の石高を合わせると、大田原一門としての勢力は那須宗家に匹敵、あるいは凌駕する可能性すらあったことが示唆される。高増の那須家における権勢の確立は、単に主家に従属する家臣という立場を超え、後の豊臣政権下での独立大名化への重要な布石となった。主家内部での影響力増大が、外部環境の大きな変化に対応する際の、極めて有利な条件を作り出したのである。

第三章:黒羽城築城と領国経営の礎

那須家中で確固たる地位を築いた大関高増は、自らの勢力基盤をより強固なものとするため、新たな拠点城郭の構築に着手する。天正4年(1576年)、高増はそれまでの居城であった白旗城から、新たに築いた黒羽城(くろばねじょう)へと本拠を移した 1 。この黒羽城は、現在の栃木県大田原市黒羽地区に位置し、那珂川とその支流である松葉川が合流する地点を見下ろす丘陵上に築かれた、戦略的にも極めて重要な拠点であった 19

黒羽城への移転は、高増にとって単なる居城の変更以上の意味を持っていた。それは、自己の勢力圏の中心を明確に定め、より集権的で強固な支配体制を築こうとする意志の表明であった。高増は黒羽城の築城と並行して、その麓に城下町を形成することにも尽力したと伝えられており、これが後の黒羽藩の発展の基礎となったと評価されている 10 。白旗城から黒羽城への移転は、単に防御能力の向上を目指しただけでなく、領国経営の効率化や、那珂川水系を利用した交通の要衝を抑えるといった、より広範な戦略的意図があったと考えられる。城下町の整備に着手したことは、高増が黒羽を軍事拠点としてだけでなく、領内の経済的中心地としての機能も重視していたことを示唆しており、戦国武将から近世大名へと移行する過渡期に見られる、領国経営への意識の萌芽と見ることができる。

戦国期の高増による具体的な検地の実施や詳細な支配体制の確立については、現存する史料が限定的であるため不明な点も多い。しかし、黒羽という新たな戦略拠点への移動と城下町の整備は、それ自体が領国支配体制の強化と安定化に向けた重要な一歩であったことは間違いない。この黒羽城は、その後、明治維新に至るまで大関氏代々の居城として機能し続け、近世における山城の面影を今日によく伝えているとされる 8 。高増による黒羽城の選定と整備は、その後の大関氏数百年にわたる歴史の物理的な基盤を築いたと言える。この拠点が、豊臣政権下での所領安堵、そして江戸時代を通じての黒羽藩存続へと繋がる、極めて重要な布石となったのである。彼の先見性が、一族の長期的な繁栄に大きく貢献したと言えよう。

第四章:周辺勢力との抗争と外交戦略

大関高増は、那須家中の権力闘争や主家との関係だけでなく、周辺の諸勢力との間でも複雑な外交と抗争を繰り広げた。その中でも特に注目されるのが、同じく那須七党の一角を占める千本氏との関係である。

高増の次女は、那須七党の一つであり千本城主であった千本資俊(せんぼんすけとし、通称は常陸介)の子・資政(すけまさ、通称は十郎)に嫁いでいた 2 。しかし、この婚姻関係は長くは続かなかった。高増の娘は、嫁ぎ先である千本家で姑との関係が悪化したことなどが原因で、夫の資政によって離縁され、実家である大関氏のもとへ送り返されてしまったのである 2

この娘の離縁という事態に、高増は激怒し、千本氏を排除することを決意したと伝えられる 2 。高増は、この個人的な遺恨を晴らすため、あるいはこれを好機として千本氏の勢力を削ぐため、周到な策を巡らせた。彼は主君である那須資晴に対し、かつて天文20年(1551年)に千本資俊が資晴の伯父にあたる那須高資を千本城に誘い込んで謀殺した事件 3 を持ち出し、「千本氏は那須家にとって不倶戴天の仇敵であるから、この機会にこれを討ち果たし、積年の怨みを晴らすべきである」と進言した。資晴はこの進言を容れ、千本氏討伐の謀を高増に命じた 11

主君の承認という大義名分を得た高増は、天正13年(1585年)12月8日、実弟である大田原綱清らと共謀し、千本資俊とその子・資政を黒羽近郊の太平寺(史料によっては滝寺とも)に誘い出した。そして、油断していた千本父子を不意に襲撃し、謀殺したのである 2 。この事件により、那須七党の有力な一角であった千本氏は滅亡し、その所領は那須氏によって再編された。高増の娘はその後、同じく那須七党の蘆野氏の当主・蘆野盛泰に再嫁した 2 。この千本氏謀殺事件は、高増の冷徹な性格と、目的のためには権謀術数を駆使することも厭わない非情な側面を如実に示している。個人的な遺恨を、主家の過去の因縁と巧みに結びつけて正当化し、政敵を排除したこの一件は、単なる私憤の発散というよりも、那須家中における大関氏及び大田原一門のさらなる権力集中と、潜在的な競争相手の排除という、高度に戦略的な意図があった可能性が高い。これは、父・大田原資清の行動様式とも通じるものであり、高増が主君・那須資晴を動かし、自らの意図を実行させるほどの影響力を有していたことを物語っている。

高増は、佐竹氏や宇都宮氏といった下野国周辺の有力大名との関係においても、状況に応じて巧みな外交戦略を展開した。前述の通り、那須資胤との対立期には常陸国の佐竹義重と結び、那須氏を攻撃するという大胆な行動に出ている 1 。那須氏と和睦した後も、那須氏は佐竹氏や宇都宮氏としばしば戦を交えており、高増も那須氏の重臣としてこれらの戦いに関与したと考えられる 6 。しかし、敵対関係が永続したわけではなく、天正15年(1587年)には、那須資晴が佐竹氏と和睦し、資晴の妹が佐竹義重の子である佐竹義宣に嫁いでいる 6 。このような外交関係の変化には、高増のような家中の有力者の意向も少ならず影響したと推察される。さらに、天正17年(1589年)に奥州の伊達政宗が佐竹領へ侵攻した際には、那須資晴は佐竹氏からの救援要請に応じ、援軍を派遣している。この時、大関高増の長男である大関晴増が那須軍の先鋒として奮戦し、伊達・岩城勢を撃退するなどの軍功を挙げたと伝えられている 6 。これらの事実は、高増とその一族が、単に那須家中の内政に関与するだけでなく、より広域な北関東の政治・軍事情勢にも深く関わっていたことを示している。

第五章:豊臣政権への対応と近世大名への道

戦国時代の終焉を告げる豊臣秀吉による天下統一事業は、大関高増とその一族にとっても大きな転機となった。天正18年(1590年)、秀吉は関東の雄であった小田原北条氏を討伐するため、大軍を率いて小田原征伐を開始した。この時、高増の主家である那須氏の当主・那須資晴は、かつて北条氏と誼を通じたこともあり 4 、秀吉への対応が遅れ、小田原への参陣が遅延した 1

これに対し、大関高増(この時期、実質的な家督は長男の晴増が担っていた可能性も指摘されている 7 )は、主家である那須氏の動向とは一線を画し、いち早く豊臣方に味方することを決断。那須氏に先んじて小田原の秀吉のもとに参陣し、恭順の意を明確に示した 1 。この迅速かつ的確な情勢判断が、その後の大関氏の運命を大きく左右することになる。長年にわたり那須家中で実力を蓄え、半ば独立した勢力を形成していた高増(あるいは晴増)だからこそ可能であった、主家の判断に盲従せず、自家の存続と発展を最優先する戦国武将としての現実主義と先見性が際立つ行動であった。

豊臣秀吉は、大関氏のこの早期の帰順を高く評価した。その結果、高増には一万石、そして小田原攻めで武功を挙げた長男・晴増には三千石の所領が安堵された 1 。これにより、大関氏は合計一万三千石の所領を有する独立した大名として、豊臣政権から正式に認められることとなったのである。この時、長男の晴増は浅野長政の指揮下に入り、北条方であった成田氏長の忍城攻めにも参加し、戦功を挙げている 14

一方で、参陣が遅れた主家の那須氏は、秀吉の不興を買い、改易処分となり一時的に没落した(後に一部所領を回復し、那須藩として存続する道は残された) 1 。この結果、大関氏は名実ともに、かつての主家であった那須氏から完全に独立した存在となった 12 。那須氏の改易と大関氏の独立大名化は、時代の大きな転換期における対応の差が、文字通り家の盛衰を分けた典型的な事例と言えるだろう。高増のこの決断は、大関氏が近世大名として幕末まで黒羽の地を治める礎を築いた、最も重要な戦略的成功であった。戦国乱世を生き抜くためには、軍事力だけでなく、時流を読む鋭敏な政治的嗅覚と、時には主家をも見限る非情なまでの決断力が必要であることを、高増の行動は雄弁に物語っている。大関氏の存続は、まさしくこの一点の判断にかかっていたと言っても過言ではない。

第六章:高増の人物像、家族、そして晩年

大関高増は、一般に戦略家であり、武勇にも優れた武将であったと評価されている 1 。天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いでの初陣の功 2 や、その後、主君・那須資胤と敵対し、数度にわたり干戈を交えた経験 1 は、彼の武将としての一面を物語っている。同時に、父・大田原資清譲りの権謀術数にも長けており、大関増次父子の排除や千本資俊父子の謀殺など、政敵を排除し自らの勢力を拡大するためには、冷徹な手段も辞さなかった 9 。一部史料には「不明な点も多いが、下級武士から名をあげ黒羽城主となる」との記述も見られるが 1 、父が大田原資清という那須郡の有力国人であったことを考慮すると、「下級武士」という表現はやや実態と異なる可能性がある。むしろ、有力国人の子として生まれ、その家柄と父の築いた勢力を巧みに利用し、さらに自らの才覚でそれを発展させたと見るべきであろう。

家督の継承に関しては、高増は天正6年(1578年)、当時14歳であった次男の清増(きよます)に家督を譲ったとされている 1 。しかし、これは形式的なものであり、実権は依然として高増自身が握り続けていた。長男の晴増(はるます、永禄4年(1561年)生)は、勇将として知られ、一時は白河義親の養子となる話もあったが、これは後に解消されている 2 。晴増は小田原征伐後に父とは別に三千石の所領を与えられるなど、将来を嘱望されたが、文禄の役(朝鮮出兵)に際して肥前名護屋城まで出陣した後、病を得て、弟の資増に家督を譲り、慶長元年(1596年)に36歳という若さで早世してしまった 2 。また、家督を譲られた次男の清増も、天正15年(1587年)に23歳で早世している 2 。高増が次男に家督を譲りつつ実権を握り続けたのは、戦国時代の慣習として珍しいことではないが、長男・晴増の器量(例えば、佐竹義重から五万石での臣従を誘われた際に、独立大名への野心を抱き固辞したという逸話も残る 14 )を考えると、晴増への期待も大きかったと推察される。しかし、期待した息子たちの相次ぐ早世は、高増にとって大きな痛手であり、大関家の将来設計にも影響を与えたであろう。

結果として、高増の三男である資増(すけます、天正4年(1576年)生)が、長兄・晴増の跡を継ぐ形で大関家の家督を相続し、後に徳川家康に仕えて黒羽藩初代藩主となった 2

高増の家族構成は以下の通りである。父は大田原資清、母は金丸河内守の娘 1 。養父は大関宗増(または顕増) 1 。実の兄弟には、福原氏へ養子に入った福原資孝(次弟)、大田原氏の本家を継いだ大田原綱清(三弟)、そして佐久山義隆に嫁いだ女子(妹)らがいた 1 。正室は宇留野義元の娘であり、慶長19年(1614年)6月19日に没し、法名を献宝院殿珠英宗玉という 1 。一部史料には「妻は佐竹氏の出のため、大関氏の血脈はこの代で断絶している」との記述もあるが 2 、これは宇留野氏が佐竹氏の一族であったか、あるいは佐竹氏と極めて強い同盟関係にあったことを示唆しているのか、さらなる検討が必要である。一般的には宇留野氏の娘とされる。

高増の子女としては、前述の長男・晴増、次男・清増、三男・資増のほか、長女は那須氏の庶流である金丸資満に嫁ぎ(慶長17年(1612年)没、法名:妙蓮院聯室元芳) 2 、次女は千本資政に嫁いだが離縁され、後に蘆野盛泰に再嫁した 2 。また、四男として浄法寺茂直がおり、浄法寺胤資の養子となった 2 。高増が大関氏を継いだことにより、大関氏の血脈は実質的に大田原氏の系統に置き換わったと言える。これは、戦国時代において「家」の存続が、純粋な血統よりも実質的な勢力と家名の維持に重きを置いていたことを示す一例である。

大関高増は、慶長3年(1598年)1月14日(西暦では2月19日)に、72年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。その墓所は、現在の栃木県大田原市(旧黒羽町)寺宿にある光厳寺(こうごんじ)に存在する 1 。戒名は弘境院栽岩道松(こうきょういんさいがんどうしょう) 2 。生前は安碩斎未庵、あるいは単に安碩と号した 1 。大田原市には、市指定有形文化財として「紙本著色 大関美作守高増画像」(大雄寺蔵)が伝えられており、これは高増の没後間もない頃に描かれたとされ、生前の姿を最もよく映しているものと推測されている 2

終章:大関高増の歴史的意義と評価

大関高増は、戦国時代から安土桃山時代という激動の時代を、下野国那須郡という一地方において、類稀なる知謀と戦略、そして時には非情な手段を駆使して生き抜き、自らの一族を近世大名へと導いた傑出した人物であった。

彼の生涯を貫く特徴の一つは、父・大田原資清から受け継いだと思われる卓越した権謀術数である。これを駆使し、主家である那須氏の内部で巧みに勢力を伸張させ、時には那須宗家と対立し、時には協調しながらも、最終的には那須家中で最大の発言力を持つに至った。その過程で見せた、千本氏父子謀殺に代表されるような、目的達成のためには非情な手段も辞さない冷徹な判断力は、戦国武将としての現実主義を色濃く反映している。

しかし、高増の真価は、単なる謀将としての一面だけでは語れない。豊臣秀吉による小田原征伐という、天下の趨勢が大きく動いた決定的な局面において、彼は的確な情勢判断を下した。主家である那須氏が対応に遅れる中、それに先んじて秀吉に恭順の意を示し、自家の存続のみならず、独立大名としての地位を確立した先見性は特筆に値する 1 。この一点の決断が、その後の大関家の運命を決定づけたと言っても過言ではない。

また、高増は近世黒羽藩の礎を築いた創業者としても評価されるべきである。天正4年(1576年)に居城を黒羽城に移し、城下町の整備に着手したことは 2 、後の黒羽藩一万八千石 12 の物理的・経済的基盤を準備した重要な布石であった。高増の代に独立大名としての地位を確立したことが、江戸時代を通じて大関氏が一度も国替えされることなく黒羽の地を治め続けることができた直接的な要因となったのである 12

高増の築いた基盤は、息子たちの早世という困難を乗り越え、三男・資増へと継承され、その後の歴代黒羽藩主によって守り育てられた。大関家は幕末まで家名を保ち、明治維新後には子爵に列せられるに至った 1 。現在も、栃木県大田原市内には、黒羽城址公園(旧黒羽城跡) 16 、大関家の菩提寺である大雄寺 2 、そして高増自身の墓所がある光厳寺 1 など、高増ゆかりの史跡が数多く残り、その事績が偲ばれている。また、那須神社は、主家であった那須氏が一時没落した後、大関氏の氏神として崇敬され、天正5年(1577年)に大関氏(高増)によって本殿などが再興されたと伝えられており 18 、これは高増の宗教政策の一端を示すものとしても興味深い。

大関高増の成功は、彼個人の卓越した資質(戦略眼、決断力、武勇)に加え、父・大田原資清から受け継いだ権力基盤と、戦国乱世で生き抜くための非情とも言える教育、そして何よりも時代の潮流を的確に捉える能力が複合的に作用した結果であった。彼の生涯は、伝統的な権威が揺らぎ、新たな秩序が形成される過渡期において、いかにして地方の国人領主が生き残り、そして飛躍を遂げたかを示す好例と言える。その評価は、単に「梟雄」や「謀将」といった側面だけでなく、激動の時代を生き抜き、次代に繋がる確固たる基盤を築き上げた「創業者」としての側面も十分に考慮されるべきであり、その歴史的意義は大きい。彼の生涯は、戦国時代から近世への移行期における地方権力の変容を理解する上で、極めて貴重な事例を提供している。

補遺:同名・類似名の人物について

大関高増の名を持つ人物、あるいは同じ大関氏で著名な人物が歴史上複数存在するため、混同を避けるためにここに記す。

まず、本報告書の主題である戦国武将・大関高増の曾孫にあたる人物として、江戸時代前期の黒羽藩三代藩主・大関高増が存在する。この人物は慶長16年(1611年)に生まれ、正保3年(1646年)に没した 25 。黒羽藩二代藩主・大関政増の長男であり、従五位下土佐守に叙任されている 25 。大坂加番や駿河加番といった幕府の要職も勤めた 23 。寛永18年(1641年)に那須神社の社殿を大規模に改修した際の施主として記録されている「大関土佐守丹氏高増」とは、この江戸時代の高増のことである 24

次に、江戸時代後期に黒羽藩中興の英主として知られる大関増業(おおぜきますなり)がいる。この人物は天明元年(1781年)に生まれ、弘化2年(1845年)に没した 26 。伊予国大洲藩主・加藤泰衑(やすみち)の八男として生まれたが、黒羽藩十代藩主・大関増陽(ますあき)の養嗣子となった 10 。養父よりも養子の方が年上という、極めて異例な養子縁組であったことが記録されている 26 。増業は藩主として藩政改革を断行し、殖産興業に尽力したほか、学問を深く愛好し、『創垂可継(そうすいかけい)』や医学書『乗化亭奇方(じょうかていきほう)』、故実書『止戈枢要(しかすうよう)』など、多岐にわたる分野で多くの著作を残した名君として高く評価されている 10

これらの人物は、本報告書で詳述した戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した大関高増とは別人であり、時代も事績も異なるため、歴史上の人物を特定する際には十分な注意が必要である。同名や類似名の人物が存在することは歴史研究においてしばしば混乱の原因となるが、それぞれの人物を正確に区別し理解することが、より深い歴史認識へと繋がる。特に、戦国期の高増とその曾孫である江戸期の高増は、活動時期も役割も全く異なるため、明確な区別が不可欠である。曾孫の高増が那須神社を改修した事実は、戦国期の高増が氏神として崇敬した那須神社への信仰が、大関家代々にわたり受け継がれていったことを示唆しているとも言えよう。

引用文献

  1. 大関高増 おおぜきたかます - 坂東武士図鑑 https://www.bando-bushi.com/post/ohzeki-takamasu
  2. 大関高増 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E9%AB%98%E5%A2%97
  3. 那須家当主列伝 http://shimotsuke1000goku.g2.xrea.com/nasutousyu.htm
  4. 喜連川の謀将 - さくら市 https://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/manage/contents/upload/66ea4047e65c4.pdf
  5. 夫が32歳で病死、後継者はまだ9歳…北条政子にならって誕生した、“宇都宮の尼将軍”と呼ばれる女性家長の功績 - 本の話 - 文春オンライン https://books.bunshun.jp/articles/-/8235
  6. 【1 那須資晴】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021090/
  7. 大関高増 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/OozekiTakamasu.html
  8. 黒羽陣屋 - BIGLOBE http://www5f.biglobe.ne.jp/~mononofu/kurobanezinya.html
  9. 下野戦国争乱記 那須の武将能力値 http://shimotsuke1000goku.g2.xrea.com/henkoun.htm
  10. 黒羽の人物 - 大田原市立図書館 https://www.lib-ohtawara.jp/study/kurohane-people.html
  11. 千本資俊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%AC%E8%B3%87%E4%BF%8A
  12. 黒羽藩(くろばねはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E7%BE%BD%E8%97%A9-58078
  13. 大関増次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E5%A2%97%E6%AC%A1
  14. 大関晴増 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E6%99%B4%E5%A2%97
  15. 【(12)千本氏の滅亡(滝太平寺の変)】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021080
  16. 松尾芭蕉が旅の途中最も長く滞在した栃木県大田原市「黒羽城」 - トラベルjp https://www.travel.co.jp/guide/article/37650/
  17. 黒羽城跡 - とちぎいにしえの回廊|文化財の歴史 https://www.inishie.tochigi.jp/detail.html?course_id=2&id=12
  18. 奥の細道歩き旅 大田原~黒羽 https://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-9.html
  19. 大田原市-地域史資料デジタルアーカイブ:『黒羽町誌』 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/texthtml/d100070/mp000010-100070/Index.html
  20. 戦国時代において有数の巨大城郭として知られた栃木の名城「烏山城」【栃木県那須烏山市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26443
  21. 「おくのほそ道」をいろいろ考える~黒羽編①「館代」とは何か? | 林誠司 俳句オデッセイ https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498751199.html
  22. 大雄寺報 第4号 https://www.daiouji.or.jp/wp-content/uploads/jihou2005.pdf
  23. 史料群概要 - 国文学研究資料館 https://archives.nijl.ac.jp/siryo/ac1971205.html
  24. 那須神社 本殿 楼門 - とちぎの文化財 https://bunkazai.pref.tochigi.lg.jp/cultural/%E3%80%90%E9%82%A3%E9%A0%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E6%9C%AC%E6%AE%BF%E3%80%80%E6%A5%BC%E9%96%80%E3%80%91/
  25. 大関高増 (江戸時代) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E9%AB%98%E5%A2%97_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3)
  26. 大関増業とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E9%96%A2%E5%A2%97%E6%A5%AD
  27. 黒羽藩 - 栃木県:歴史・観光・見所 https://www.totitabi.com/jyouka/kurobane.html