太田重正(おおた しげまさ)は、永禄4年(1561年)に生を受け、慶長15年8月2日(1610年9月18日)にその生涯を閉じた、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である 1 。その出自は、江戸城を築城したことで名高い太田道灌を高祖父に持つとされる江戸太田氏の嫡流に連なる 1 。父は太田康資と伝えられている 1 。
重正の生きた時代は、群雄割拠の戦国乱世が終焉を迎え、徳川幕府による新たな治世が確立されるという、日本史における一大転換期であった。彼の人生は、父・康資の代からの流転に始まり、有力大名のもとを渡り歩いた後、最終的には徳川家康に仕えることとなる。そして、彼の子の世代においては、大名へと立身出世を遂げるという、まさに一族の盛衰と再興を象徴するような道のりを辿った。
本報告は、太田重正に関して一般的に知られている情報、例えば徳川家臣であったこと、父が康資であること、かつて里見氏や佐竹氏に身を寄せたこと、そして妹が徳川家康の側室であったことなどを踏まえつつ、これらの情報の背景や詳細を深掘りすることを目的とする。さらに、それ以外の側面にも光を当て、太田重正の生涯を多角的かつ徹底的に明らかにすることを目指す。
特に、近年の研究で注目されている彼の出自に関する新たな説や、彼の家族、とりわけ妹である英勝院(お梶の方)が徳川家において果たした役割、そしてそれが太田家の再興、特に子・資宗の立身出世にどのように影響したのかといった点に焦点を当てる。これにより、太田重正という一人の武将の生涯を通じて、戦国末期から江戸初期にかけての武家の生き様や社会構造の一端を明らかにしたい。
太田氏は、清和源氏頼光流を称する武家であり、その名を一躍高めたのが、室町時代後期に扇谷上杉家の家宰として活躍し、江戸城を築いた太田道灌(資長)である 2 。道灌は武勇のみならず和歌にも通じた教養人としても知られ、その名は後世にまで語り継がれている 4 。
しかし、道灌が主君・上杉定正によって暗殺された後、太田家の系譜は複雑な様相を呈し、いくつかの系統に分かれたとされる 2 。太田重正の家系は、道灌の嫡男とされる太田資康に始まる「江戸太田氏」と称される流れを汲むとされている 2 。この江戸太田氏は、資康の子・資高が扇谷上杉氏の重臣として江戸城代を務めたことに由来する呼称である 2 。
太田道灌という著名な祖先の存在は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会において、その家の「格」や「由緒」を語る上で非常に重要な意味を持っていた。重正の家系が道灌に繋がるという認識は、後に徳川幕府の治世下で太田家がその地位を確立していく上で、少なからぬ影響を与えたと考えられる。
太田重正の父とされる太田康資(享禄4年(1531年) - 天正9年(1581年)?)は、江戸太田氏の当主・太田資高の嫡男(次男との説もある)として生まれた 6 。母は相模国の戦国大名・北条氏綱の娘である浄心院であり、康資は母方の伯父にあたる北条氏康から偏諱(名前の一字)を賜り「康資」と名乗ったとされる 6 。
当初、康資は母方の縁を頼って後北条氏に仕え、江戸城代の重職を担った 6 。当時の史料である『小田原衆所領役帳』には、康資が江戸や小机(現在の神奈川県横浜市)周辺に約2千貫に及ぶ所領を有していたことが記されており、後北条氏の家臣団の中でも有力な存在であったことが窺える 6 。
しかし、永禄5年(1562年)、康資は後北条氏に対して叛旗を翻す。その理由については、恩賞に対する不満など諸説あるが 6 、同族である岩槻城主・太田資正(三楽斎)を通じて、越後の上杉謙信に内通を試みた。しかし、この計画は露見し、康資は資正のもとへ逃亡を余儀なくされた 6 。
永禄7年(1564年)に発生した第二次国府台合戦では、康資は里見・太田連合軍の先陣として奮戦したが、北条軍に大敗を喫した 6 。この戦いで、康資は妻の父である遠山綱景を討ち取ったという逸話も軍記物には残されている 6 。敗戦後、康資は安房国の里見氏を頼って上総国へ逃れ、久留里城に入った 6 。この康資の離反と敗走は、江戸太田家の運命を大きく揺るがし、その子である重正が幼少期から流浪の身となる直接的な原因となった。
さらに悲劇的なことに、康資の嫡男であった駒千代は、当時後北条氏の人質として小田原に送られていたが、父の離反を受けて自害させられたと伝えられている 1 。この駒千代の死は、結果的に重正が康資の後継者としての立場を継承していく上で、間接的な影響を与えた可能性が考えられる。
里見氏のもとに身を寄せた康資は、その後、里見氏の外交交渉にも関わるなど活動を見せたが、里見氏内部の勢力争いや内紛(正木憲時の反乱など)に巻き込まれることとなる 6 。その結果、天正8年(1580年)頃、正木氏の居城であった小田喜城で自害したとも、あるいは小湊(現在の千葉県鴨川市)に隠遁して死去したとも伝えられている 6 。千葉県鴨川市の鯛の浦には、康資が北条方の追手から村人たちを守るために自刃したという伝説も残されている 6 。
康資の生涯は、戦国時代中期における関東地方の有力な国衆(在地領主)が、後北条氏、上杉氏、里見氏といった大大名の勢力争いの狭間で、いかにして自家の存続を図ろうとし、そして時には翻弄されていったかを示す典型的な事例と言えるだろう。歴史研究家の黒田基樹氏は、康資が太田家中で必ずしも厚い信頼を得ていなかった可能性を指摘している 6 。
太田重正の生母に関する具体的な記録は、現存する資料からは多くを見出すことができない。父・康資の正室は、前述の通り遠山綱景の娘(法性院、北条氏康の養女)、側室には太田下野守の娘がいたとされているが 6 、重正がどちらの母から生まれたのかは明確ではない。
さらに、重正が康資の実子であるかどうかについては、確証がないとする説が存在する 1 。この説の背景には、康資には確実な実子とされる駒千代がいたこと、そして太田氏の家系図が、重正の子である太田資宗の代になってから何らかの改竄が行われたのではないかという疑義が持たれていることがある 1 。
こうした状況に対し、近年、歴史学者の黒田基樹氏によって新たな見解が示されている。黒田氏は、太田康資が存命中の天正7年(1579年)に発給された古文書の中に、重正が仮名(通称)である「六郎」として登場していることを発見、指摘した 1 。この文書の存在が事実であり、その「六郎」が後の重正と同一人物であると確定されれば、重正が康資の子であることの疑義は解消されることになる。この黒田氏の研究は、重正の出自をめぐる議論に大きな一石を投じるものであり、今後の研究の進展が注目される。
以下に、太田重正の出自に関する諸説を整理する。
説 |
論拠・背景 |
備考 |
従来説 |
太田康資の実子として家系図に記載。ただし、嫡男・駒千代の存在により、当初の立場は必ずしも明確ではなかった可能性。 |
江戸時代に編纂された家譜などに基づく一般的な理解。 |
懐疑説 |
康資の確実な実子・駒千代の存在。太田氏の家系図が後代(特に資宗の代)に改竄された可能性の指摘 1 。 |
資宗の立身出世に伴い、家系の正当性を強調するために作為が加えられたとする見方。 |
黒田基樹氏説 |
天正7年(1579年)付の古文書に、康資存命中に重正が仮名「六郎」として登場していることを指摘 1 。 |
この「六郎」が重正本人であれば、康資の子であることの有力な証拠となる。今後の史料の発見や分析が待たれる。 |
この出自の問題は、太田重正という人物の生涯を理解する上での根幹に関わる部分であり、彼のアイデンティティやその後の行動原理にも影響を与えた可能性がある。
父・太田康資は、前述の通り天正9年(1581年)頃に死去したとされている 6 。この時、永禄4年(1561年)生まれの重正は20歳前後であった計算になる 1 。父の死は、若き重正にとって大きな転機となったであろう。
康資の死後、重正がそれまで父と共に身を寄せていた里見氏のもとを離れた具体的な経緯については、現存する史料からは必ずしも明確ではない。しかし、父という最大の庇護者を失ったことが、新たな道を模索する直接的な契機となった可能性は高い。里見氏内部の不安定な情勢も、重正の離脱を促した一因であったかもしれない。
父の死後、太田重正は常陸国(現在の茨城県)の有力大名である佐竹義重のもとへと赴いた。そして、当時佐竹氏の庇護下にあり、同地に亡命していた同族の太田資正(三楽斎道誉)を頼ったとされている 1 。
この太田資正は、太田道灌の孫にあたる太田資頼の次男で、武蔵国岩槻城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)の城主であった人物である 8 。しかし、後北条氏との長年にわたる抗争の末に岩槻城を失い、佐竹氏の客将として常陸国片野城(現在の茨城県石岡市)に拠点を移していた 8 。資正は生涯を通じて反北条氏の姿勢を貫き、その武勇と知略は広く知られていた。
後ろ盾を失った若き重正にとって、同じ太田一族であり、かつ父・康資と同様に反北条氏という共通の立場にあった太田資正の存在は、戦国乱世を生き抜くための極めて重要な繋がりであったと言える。関東地方で大きな勢力を有していた佐竹氏の影響下に入ることで、重正はひとまずの安息の地と活動の足掛かりを得たと考えられる。太田資正は佐竹氏から客将としての待遇を受け、片野城を与えられるなど一定の地位を確保していたことから 8 、重正も資正を通じて佐竹氏から何らかの扶助や支援を受けていた可能性が高い。当時の客将は、主家に対して軍事的な協力や助言を行う見返りに、所領や扶持を与えられることが一般的であった 11 。
太田重正の「重正」という名乗りについては、興味深い推測がなされている。それは、彼が身を寄せた佐竹氏の当主・佐竹義 重 と、庇護者となった太田 資正 から、それぞれ一字ずつを与えられたのではないか、というものである 1 。
戦国時代の武将が、主君や有力者から偏諱(名前の一字)を授かることは、その人物との間に主従関係やそれに近い強固な結びつきがあること、またその庇護下にあることを示す重要な意味を持っていた。この推測が事実であるとすれば、「重正」という名は、彼が佐竹義重および太田資正の保護と影響下にあったことを象徴するものと言えよう。
佐竹氏や太田資正のもとを離れた後の重正の動向については、一時的に京都に移り住んだという伝承も存在する 1 。
この京都移住説の真偽については、現在のところ確たる史料に乏しく、慎重な検討が必要である。しかし、もしこれが事実であったとすれば、後に徳川家康に仕官するまでの間に、重正が当時の日本の政治・文化の中心地であった京都の情勢に触れる機会を得ていた可能性を示唆する。この時期の経験が、後の彼の人生に何らかの影響を与えたことも考えられるが、具体的なことは不明である。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が実行され、関東に覇を唱えた後北条氏は滅亡した 17 。この歴史的事件は、関東地方の勢力図を根底から塗り替えるものであった。
同年、豊臣秀吉の命により、徳川家康はそれまでの本拠地であった三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国から、旧北条領を中心とする関東六カ国(武蔵・相模・伊豆・上野・下野・下総・上総の一部)へ移封され、江戸を新たな本拠地と定めた 18 。この家康の関東入府は、重正を含む多くの旧北条家臣や、北条氏と敵対していた在地勢力にとって、新たな主君を求める機会、あるいは旧領回復や新たな知行を得る機会の到来を意味した。
太田重正は、この後北条氏滅亡と徳川家康の関東移封という大きな時代の転換点において、関東に移ってきた徳川家康の家臣となった 1 。具体的な仕官の経緯、例えば誰の紹介であったのか、あるいはどのような働きかけがあったのかといった詳細については、現時点では明確な史料が見当たらない。
しかし、注目すべき点として、重正の妹である英勝院(お梶の方)が、この天正18年(1590年)に家康の側室となっていることが挙げられる 20 。この妹の存在が、重正の徳川家仕官に何らかの形で影響を与えた可能性は十分に考えられる。父・康資がかつて後北条氏に叛旗を翻した経緯を持つ重正にとって、旧北条領国の新たな支配者として関東に入った家康に仕えることは、ある意味で自然な選択であったかもしれない。また、太田道灌以来の江戸との所縁を意識し、新たな時代における太田家の再興を期したという側面も考えられる。
徳川家康に仕官した太田重正は、天正19年(1591年)、武蔵国豊島郡蓮沼(はすぬま)において500石の知行を与えられた 1 。この蓮沼の地は、現在の東京都板橋区蓮根(れんこん)周辺に比定されると考えられている 21 。
江戸時代初期の旗本にとって、500石という知行高は中堅クラスに位置づけられるものであった 23 。この知行を得たことにより、重正は徳川家臣団の一員として一定の地位を確保し、生活の基盤を築いたと言える。しかしながら、この500石という石高は、直ちに大名への道が開かれるような規模ではなく、後に彼の子である太田資宗が遂げる飛躍的な立身出世がいかに大きなものであったかを逆説的に示している。
徳川家康の関東支配においては、旧北条氏の家臣や関東地方の在地勢力を積極的に登用する政策が取られたことが知られている 18 。太田氏のような、かつて関東に勢力を持った旧名族の末裔を取り立てることは、家康による関東支配の正当性を高め、領内の安定を図る上でも有効な手段であったと考えられる 26 。伊奈忠次 29 や大久保長安 31 といった、他国出身者や旧武田家臣らが家康のもとで重用された事例と比較検討することで、重正の徳川家仕官の背景や位置づけがより明確になるだろう。
太田重正が徳川家康に仕官した後、具体的にどのような役職に就き、いかなる活動を行ったのかについては、残念ながら提供された資料からは詳細な記述を見出すことが難しい。
江戸幕府によって編纂された『寛政重修諸家譜』などの公式な系譜史料には、太田家に関する記述が含まれており、その中に重正に関する情報が断片的にでも記されている可能性がある 17 。これらの史料を丹念に調査することで、彼の具体的な職務や功績の一端が明らかになるかもしれない。
しかし、現時点での情報からは、重正自身が徳川家臣団の中で特に目覚ましい武功を立てたり、重要な政務を担ったりしたという記録は確認されていない。このことから、彼自身は徳川家中で突出した活躍を見せることはなかった可能性も考えられる。太田重正という人物の歴史的な重要性は、むしろ彼の家族、特に妹である英勝院や息子である太田資宗との関連性において、より顕著になると言えるだろう。
今後の研究においては、国立公文書館などが所蔵する『寛政重修諸家譜』の太田家の巻 36 や、その他の一次史料(古文書、日記など)を広範に渉猟し、太田重正の徳川家臣としての具体的な活動を示す記録を発掘することが期待される。
太田重正の生涯を語る上で、彼の家族、特に妹の英勝院と息子の太田資宗の存在は欠かすことができない。彼らの活躍と徳川家における地位が、重正自身の立場や太田家のその後に大きな影響を与えた。
英勝院(えいしょういん)は、天正6年(1578年)に太田康資の娘として生まれ、慶長19年(1642年)に没した女性で、重正の妹にあたる 1 。一般には「お梶の方」あるいは「お勝の方」の名で知られている。
英勝院は天正18年(1590年)、徳川家康の側室となり、後に松姫と市姫という二人の女子を儲けたが、いずれも早世したと伝えられる 20 。彼女は家康から深い寵愛を受け、その聡明さを示す逸話が数多く残されている。例えば、家康が家臣たちに「この世で一番美味いものは何か、また一番不味いものは何か」と尋ねた際、他の者たちが様々な答えを出す中で、英勝院はどちらも「塩である」と答えたという話は有名である。「どのような料理も塩がなければ味が調わず美味しくないし、逆にどれほど美味しい料理でも塩を入れ過ぎれば食べられない」という彼女の機知に富んだ答えに、家康や家臣たちは感心したと伝えられている 48 。また、関ヶ原の戦いや大坂の陣に男装して騎馬で従軍したという勇ましい伝承も残るが、これらについては後世の創作である可能性も指摘されている 48 。
英勝院は聡明さだけでなく、倹約家としても知られ、その人柄から家康の絶大な信頼を得て、駿府城の奥向きの一切を任されるほどであったという 48 。さらに、後に水戸藩の初代藩主となる徳川頼房の養育も任されている 20 。この頼房との関係は、後の太田家、特に資宗の代に大きな意味を持つことになる。
家康の死後、英勝院は出家し、その名を英勝院と号した。そして寛永11年(1634年)、鎌倉の扇ガ谷(おうぎがやつ)に、自身の菩提寺として英勝寺を建立した 20 。この英勝寺は、太田道灌の屋敷跡であったとも伝えられている。
英勝院の徳川家における影響力は、実家である太田家の再興と発展に極めて大きな貢献を果たした。特に、甥にあたる太田資宗を自身の養子として迎え入れ 1 、二代将軍・徳川秀忠に仕えさせたことは、資宗とその子孫が幕府内で順調に出世していく道を開く上で決定的な役割を果たしたと言える 48 。英勝院の家康からの寵愛、そして春日局との関係にも見られるような彼女の政治的な立ち回り 48 は、太田家にとってまさに救世主的な存在であった。彼女の生涯は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会において、女性が持ち得た影響力の一端を示す好例と言えよう。
太田資宗(おおた すけむね)は、慶長5年(1600年)に太田重正の次男として生まれ、延宝8年(1680年)に没した人物である 1 。母は都築秀綱の娘とされている 58 。
資宗の生涯において特筆すべきは、叔母にあたる英勝院の養子となったことである 1 。この養子縁組は、彼のその後のキャリアにおいて極めて有利に作用したことは想像に難くない。英勝院という強力な後援者を得た資宗は、徳川幕府内で目覚ましい昇進を遂げることになる。
慶長11年(1606年)、資宗はわずか7歳で大御所・徳川家康に拝謁する機会を得た。そして慶長15年(1610年)、父・重正の死去に伴い家督を相続し、武蔵国豊島郡蓮沼の500石の知行を継いだ。この時、家康の側近となり、家康から偏諱(名前の一字)を与えられ、当初は祖父と同名の「康資」と名乗ったとされている 58 。
その後、資宗は着実に加増を重ねていく。元和9年(1623年)には家禄が5,600石に達した。そして寛永10年(1633年)には、三代将軍・徳川家光の側近として、松平信綱、阿部忠秋らと共に「六人衆」(後の若年寄に相当する重職)の一人に抜擢され、幕政の中枢に参与することとなった 58 。この抜擢は、英勝院の影響力と資宗自身の能力が高く評価された結果であろう。
そして寛永12年(1635年)、資宗は下野国足利郡山川(現在の栃木県足利市)に1万石を加増され、合計1万5,600石を領する大名に列せられた 1 。ここに、かつて500石の旗本であった太田家は、大名家としての地位を確立したのである。その後も資宗は昇進を続け、最終的には遠江国浜松藩(現在の静岡県浜松市)の藩主となり、3万5千石を領するに至った 58 。
資宗の業績としてもう一つ重要なのが、武家系譜の編纂事業への関与である。寛永18年(1641年)、資宗は奉行(総裁)に任じられ、当代一流の学者であった林羅山らを実務担当者として、幕府公式の武家系譜である『寛永諸家系図伝』の編纂を開始した。この大事業は寛永20年(1643年)に完成し、将軍家光に献上された 36 。
資宗がこの『寛永諸家系図伝』の編纂責任者となったことは、太田家の「家格」と「由緒」を幕府公認のものとして確立する上で、極めて大きな意味を持った。これは、徳川幕府初期における支配体制の整備と、諸大名・旗本の序列化という大きな歴史的流れの中に位置づけられる。太田道灌という偉大な祖先を持つ太田家にとって、その由緒を公式の記録として残すことは、家の名誉と権威を高める上で非常に重要であった。
父・重正が500石の旗本であったのに対し、その子である資宗が大名にまで昇進し、幕政の中枢にも関与したという事実は、まさに劇的な立身出世と言える。これは、叔母・英勝院による強力な後押し、資宗自身の能力と努力、そして時代の好機が複合的に作用した結果であったと考えられる。
太田重正には、次男の資宗以外にも複数の子女がいたことが記録されている。
これらの記録から、資宗以外の男子も、水戸徳川家の家臣や旗本として徳川家に仕えており、太田家が一族として一定の家格を維持し、徳川の世に根を下ろしていった様子が窺える。
以下に、太田重正を中心とした近親者と、その後の太田家の主要な流れを示す略系図を掲げる。
Mermaidによる家系図
この系図は、太田重正が太田道灌という名高い祖先から続く家系に生まれ、父・康資の代に一時的な困難を経験しながらも、妹・英勝院の徳川家における立場と、子・資宗の活躍によって、一族が再興し近世大名として存続していく流れを視覚的に示している。特に、英勝院と資宗のラインが、太田家の運命を好転させる上で決定的に重要であったことが理解できる。
太田重正は、慶長15年8月2日(西暦1610年9月18日)にその生涯を閉じた 1 。享年は50歳であった。彼の死は、徳川幕府による支配体制が徐々に固まりつつある時期にあたる。戒名は覚林院(かくりんいん)とされている 1 。
太田重正の墓所は、静岡県三島市玉沢に現存する日蓮宗の寺院、妙法華寺(みょうほっけじ)にある 1 。
太田氏は代々、日蓮宗を篤く信仰していたと伝えられている 57 。その祖である太田道灌も、江戸城の鎮護を祈願する目的で、武蔵国平河村に本住院(現在の東京都墨田区にある法恩寺の前身)を建立したとされている 57 。重正の父・太田康資の墓は、日蓮聖人ゆかりの地である千葉県鴨川市の誕生寺に営まれている 6 。
妙法華寺と太田家の関わりは深く、重正の子である太田資宗もこの寺の建立に大きく尽力したと記録されている 58 。妙法華寺の塔頭(たっちゅう、大きな寺院の境内にある小寺院)である覚林院は、重正の戒名「覚林院日宗」に因んで名付けられたものである 66 。また、資宗自身の墓も、父・重正と同じく妙法華寺に築かれている 58 。
さらに、重正の妹である英勝院も妙法華寺の再興に力を貸したとされ 57 、後に掛川藩(現在の静岡県掛川市)の藩主となった太田家代々の墓もこの妙法華寺に置かれることとなった 64 。このように、妙法華寺は太田重正・資宗以降の江戸太田氏嫡流にとって、重要な菩提寺としての役割を担うことになった。一族の菩提寺が定まることは、その家の結束を象徴し、信仰のあり方を示すものであった。特に、大名となった資宗による寺への寄進や関与は、単なる信仰心の発露に留まらず、大名家としての権威と財力を示す行為でもあったと言える。史料によれば、太田資宗(道顯公と同一視される)らの絶大な支援により、妙法華寺に大伽藍「玉澤道場」が竣工したと記されており 65 、資宗がいかに深く寺の興隆に関わったかが窺える。
太田重正自身の徳川家臣としての具体的な功績については、史料上詳らかではない部分が多い。しかし、彼の血脈は、その子である太田資宗の代に大きく花開くこととなる。前述の通り、資宗は叔母・英勝院の強力な支援を受け、旗本から大名へと立身出世を遂げた。そして、資宗を初代とする太田家の家系は、掛川藩主などとして明治維新に至るまで近世大名として存続したのである 1 。
戦国時代の動乱期には数多くの武家が興亡を繰り返し、その多くが歴史の波間に消えていった。また、江戸時代に入っても、改易などにより家名が断絶する大名家も少なくなかった。そうした中で、太田重正の家系が近世大名として幕末まで家名を維持し得たことは、特筆すべき点である。これは、言うまでもなく妹・英勝院の徳川家における影響力と、子・資宗自身の能力と努力、そして時流に乗る幸運が複合的に作用した結果であった。太田重正自身は、その輝かしい再興への「繋ぎ」の役割を、静かに、しかし確実に果たした人物として評価することができるだろう。
太田重正の生涯を振り返ると、彼自身が歴史の表舞台で華々しい武功を立てたり、幕政の中枢で辣腕を振るったりしたという記録は乏しい。父・太田康資の代に後北条氏から離反し、流浪の身となった後、自身も若き日を不安定な状況下で過ごした。最終的に徳川家康に仕官し、500石の旗本としての地位を得たものの、そこから大きな立身出世を遂げることはなかった。
しかしながら、太田重正という存在があったからこそ、彼の家系は断絶することなく、次代へと繋がれた。特に、妹である英勝院が徳川家康の側室となり、深い寵愛を受けたことは、太田家にとって計り知れない恩恵をもたらした。そして、その恩恵を最大限に活かし、一族再興の夢を実現したのが、重正の子である太田資宗であった。資宗は英勝院の養子となり、その支援を背景に幕府内で順調に昇進を重ね、ついに大名の列に加わったのである。
したがって、太田重正の歴史的評価は、一個の武将としての個人的な功績よりも、名門・江戸太田氏が戦国乱世の荒波を乗り越え、近世大名として家名を後世に伝える上での、まさに「結節点」としての役割を果たした点に求められるべきであろう。彼は、一族存続という重責を担い、次代への橋渡しという大任を果たした人物と言える。
太田重正の人生は、戦国時代末期から江戸時代初期という激動の時代を生きた多くの武士たちの姿を映し出している。主家の没落、有力大名への依存、新たな主君への仕官、そして縁戚関係を通じた家の浮沈――これらは、当時の武士たちが日常的に直面したであろう困難であり、また、彼らが駆使した処世術でもあった。
特に、妹が将軍の側室となるという幸運が、一族の運命を劇的に好転させるという太田家の事例は、近世初期の武家社会における外戚関係の重要性を如実に示している。個人の武勇や才覚だけではどうにもならない運命の力、そして血縁や婚姻によって結ばれる人間関係のネットワークが、時に個人の人生や一族の盛衰を大きく左右したのである。
太田重正個人の武功や政治的手腕に関する記録は乏しいかもしれない。しかし、彼の血脈が太田道灌という輝かしい名祖に連なり、妹・英勝院が徳川家康の寵愛を受け、子・資宗が幕府の要職を歴任し大名として家名を高めたという一連の事実は、戦国末期から江戸初期にかけての武家の「家」の存続戦略、個人の能力を超えた運命の潮流、そして女性を含む縁者のネットワークが持つ力の大きさを、私たちに雄弁に物語っている。太田重正は、その激動の時代において、「家」を継承し、次代へと繋ぐという、地味ではあるが極めて重要な役割を、静かに、しかし確実に果たした人物として、歴史の中に記憶されるべきであろう。