宮部長房
宮部長房は豊臣秀吉の家臣。父継潤の功績で大名となるが、関ヶ原の戦いで西軍への寝返りを図り失敗、改易される。その後は南部藩に預けられ、盛岡で生涯を終えた。

宮部長房 ― 偉大なる父の影と、関ヶ原で潰えた大名の夢
序章:宮部長房という武将 ― 偉大なる父の影と時代の奔流
本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、宮部長房(みやべ ながふさ)の生涯を、その出自、豊臣政権下での立場、運命を決定づけた関ヶ原合戦における行動、そして改易後の後半生に至るまで、現存する史料に基づき多角的に解明することを目的とする。長房はしばしば、「関ヶ原の戦い前夜、西軍への寝返りを試みて失敗し、改易された悲運の武将」として、歴史の中に簡潔に位置づけられる 1 。しかし、この評価は彼の生涯の複雑性を十分に捉えているとは言い難い。
彼の物語は、単なる一個人の失敗談に留まらない。それは、豊臣政権から徳川幕府へと天下の支配体制が移行する激動の時代において、多くの豊臣恩顧大名が直面した「旧主への忠誠」と「家名を存続させるための現実的選択」という深刻なジレンマの縮図である。本稿では、偉大な父を持つ二代目としての重圧、豊臣家から受けた並々ならぬ恩義、そして彼自身の器量という複数の視座から、その人物像を立体的に再構築し、彼の決断が時代の大きなうねりの中でいかなる意味を持ち、どのような結果をもたらしたのかを徹底的に考察する。特に、彼の行動原理が、父・宮部継潤(けいじゅん)が築き上げた豊臣政権内での特殊な地位に深く根差していた点に着目する。父が遺した偉大な功績と人脈という「遺産」が、皮肉にも息子の運命を縛る足枷となり、その破滅的な決断へと導いた可能性を、史料を丹念に読み解きながら明らかにしていく。
第一章:宮部家の勃興と父・継潤の軌跡
宮部長房の生涯を理解するためには、まず彼の父であり、宮部家を一代で大名の地位にまで押し上げた宮部継潤の軌跡をたどることが不可欠である。継潤の功績と、彼が豊臣政権内で築いた特異な立場こそが、長房の人生の出発点であり、同時にその後の運命を規定する重要な要素となったからである。
一、近江の土豪から秀吉の腹心へ ― 宮部継潤の立身
宮部継潤は、近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の土豪、土肥真舜の子として生まれたと伝わる 3 。彼は若くして比叡山延暦寺に入り、僧侶として「継潤」を名乗った 3 。しかし、その本質は仏道よりも武道にあったようで、やがて還俗して宮部善祥坊と称し、北近江の戦国大名・浅井長政に仕えることとなる 3 。継潤は武勇に優れ、浅井氏の有力武将として織田信長との戦いで活躍した。その武名は敵方にも知れ渡り、『真書太閤記』には「宮部の城主善祥坊は、武勇勝れて、浅井一味の諸将の最も心悪き者」と、敵にとって極めて厄介な存在として評された記録が残る 6 。
彼の運命が大きく転回するのは、元亀3年(1572年)のことである。当時、浅井氏攻めの最前線であった横山城の城将・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、継潤の武勇と、彼の居城である宮部城の戦略的重要性に着目し、調略を仕掛けた 4 。この調略は、織田信長が継潤の古巣である比叡山を焼き討ちにした(1571年)直後という、心理的に極めて困難な状況下で行われた 6 。しかし継潤は、大局を見据え、秀吉の誘いに応じて織田方へと寝返るという重大な決断を下す。この寝返りは、浅井氏の本拠・小谷城を攻める上で極めて重要な意味を持ち、秀吉の戦功に大きく貢献した 5 。
その後、継潤は秀吉の与力として、その天下統一事業に深く関与していく。天正5年(1577年)からの中国攻めでは、秀吉の弟・羽柴秀長(後の豊臣秀長)の指揮下で但馬国方面の攻略に尽力し、秀長が別方面に転戦する際には山陰方面全体の指揮を任されるほどの信頼を得た 5 。天正9年(1581年)、秀吉による第二次鳥取城攻めが終結すると、継潤はその戦功と統治能力を高く評価され、因幡国鳥取城主に抜擢される 3 。秀吉は、凄惨な兵糧攻め、いわゆる「鳥取の渇え殺し」の後の因幡国を安定させるという重責を継潤に託し、彼を惣頭領として現地の国人衆を統括させたのである 7 。継潤はこの期待に応え、鳥取城を近世城郭へと改修し、後の鳥取藩の礎を築いた 8 。
二、豊臣政権下における宮部家の地位
宮部家が他の豊臣恩顧大名と一線を画す特別な地位を築く上で、決定的な意味を持ったのが、豊臣秀次との関係である。継潤は浅井氏滅亡前の時期に、当時まだ治兵衛と名乗っていた秀吉の甥・秀次を養子として迎えている 5 。これは当初、寝返りの信憑性を担保するための人質としての意味合いが強いと考えられてきた。しかし近年の研究では、秀次が秀吉と継潤から一字ずつ取って「宮部吉継」と名乗り、継潤の養嗣子として元服した可能性が指摘されている 5 。
この養子縁組は、単なる人質交換という次元を超え、秀吉が継潤を自らの「擬制的親族」として政権の中枢に取り込むための、極めて高度な政治的行為であったと解釈できる。これにより宮部家は、豊臣一門に準ずる特別な地位を獲得した。この関係は、後に長房が異例の待遇を受ける直接的な背景となる。また、文禄4年(1595年)に秀次が切腹に追い込まれた「秀次事件」の際、多くの秀次近臣が連座し粛清・処罰されたにもかかわらず、宮部家がその難を逃れたのは、継潤自身の秀吉への長年の忠誠と功績に加え、この初期の強固な結びつきが作用した結果である可能性が高い。
継潤の功績は多岐にわたる。九州平定では、天正15年(1587年)の根白坂の戦いで島津家久軍を撃退する武功を挙げ、秀吉から「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」と賞賛された 5 。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣 5 。文禄の役(朝鮮出兵)では渡海こそしなかったものの、肥前名護屋城に在陣し後方を固めた 5 。さらに、大友義統改易後の豊後国で検地奉行を務め、因幡銀山の経営を任されるなど、武功のみならず算勘能力にも長けた能吏としての一面も発揮した 3 。その功績に応じて知行は加増を重ね、当初の2万石から最終的には8万石を超える大名へと成長した 5 。
慶長元年(1596年)、継潤は高齢を理由に隠居し、家督を嫡男・長房に譲る 1 。しかし、その後も秀吉の側近である御伽衆(おとぎしゅう)の一人として政務に深く関与し続け、実質的な権威は保持していた 3 。そして、天下の行く末に暗雲が垂れ込め始めた慶長4年(1599年)3月25日、偉大なる初代はその生涯を閉じた 3 。
第二章:二代目当主・宮部長房の登場
父・継潤が築き上げた栄光と盤石の地位を背景に、宮部長房は歴史の表舞台に登場する。しかし、その恵まれた環境こそが、彼の人間性を形成し、後の運命を大きく左右する要因となっていく。
一、恵まれた出自と若き日の長房
長房は天正9年(1581年)、父・継潤が鳥取城代に任じられ、宮部家が飛躍を遂げるまさにその年に誕生した 1 。彼は、父が築いた威光の恩恵を一身に受けて育つ。その象徴的な出来事が、天正14年(1586年)の叙任である。長房は、わずか6歳にして従五位下・兵部少輔に叙され、同時に豊臣の姓を与えられた 9 。これは同年代の他の大名子弟と比較しても、異例の速さであり、破格の待遇であった。
この栄達は、長房個人の資質や功績によるものでは決してない。それは、父・継潤の長年の功績と、かつて豊臣秀次が宮部家の養子であったという「義理の兄弟」にも等しい特別な関係性を、秀吉自身が重視した結果に他ならなかった 9 。この早熟な栄光は、長房の心に「自分は豊臣家にとって特別な存在である」という強い自己認識を植え付けたであろう。しかしその一方で、実力以上の評価という見えざる重圧は、彼の自己評価と現実の能力との間に乖離を生じさせた可能性がある。後に彼が直面する時代の転換期において、冷静な情勢判断を誤り、破滅的な行動へと突き進む、その精神的土壌は、この恵まれすぎた幼少期に形成されたと分析できる。
二、豊臣家臣としての務め
成人した長房は、豊臣家の大名として課せられた軍役を務める。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、八番隊に属し、中川秀政や浅野幸長といった武将らと共に朝鮮半島へ渡海した記録が残っている 2 。この従軍中、彼の経歴に一つの不穏な影を落とす事件が起きる。長房の陣中で開かれた饗応を受けた美濃大垣城主・加藤光泰が、その直後に原因不明の吐血をして急死したのである 9 。この事件が長房の評価に直接どのような影響を与えたかは定かではないが、彼のキャリアにおける不可解な一挿話として記憶されている。
慶長元年(1596年)12月28日、父・継潤の正式な隠居に伴い、長房は宮部家の家督を相続する 1 。この際、秀吉から発給された朱印状には、父・継潤が定めた家訓(継潤置目)に背くことなく、豊臣家への忠誠を尽くすよう念を押されている 9 。この時点で宮部家の知行は、因幡国および但馬国二方郡にわたり、13万石余に達したとする史料も存在する 14 。しかし、実質的な権力者であった父・継潤が慶長4年(1599年)に亡くなるまで、長房が真の意味で領国経営や家中統制の全権を掌握し、当主としての経験を積む期間は極めて短かった。父の死からわずか1年余りで、彼は天下分け目の大乱という、あまりにも過酷な試練に直面することになるのである 7 。
第三章:関ヶ原合戦 ― 運命を分けた一夜
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死によって生じた権力の空白は、ついに徳川家康と石田三成の対立を決定的なものにした。この天下の動乱は、宮部長房の、そして宮部家の運命を根底から覆すことになる。
一、天下分け目の前夜
この年、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、徳川家康は諸大名を率いて会津征伐の軍を起こした。宮部長房もまた、他の多くの豊臣恩顧大名と同様にこの号令に応じ、500人の兵を率いて東軍の一員として従軍した 9 。この時点では、彼は家康の指揮下で行動する大名の一人に過ぎなかった。
しかし、東軍が下野国小山にまで進軍した際、事態は急変する。家康不在の隙を突き、石田三成らが上方で挙兵したとの報が陣中に届いたのである。豊臣家を守るためという大義名分を掲げた西軍の蜂起は、東軍に参加していた豊臣恩顧の大名たちを激しく動揺させた。長房もまた、軍を反転させて西へ向かう中で、自らの進むべき道について重大な決断を迫られることになった 9 。
二、西軍への寝返り計画とその顛末
長房の心が西軍へと傾く直接的なきっかけは、尾張国鳴海(現在の名古屋市緑区)まで西上した際に届いた一通の書状であった。差出人は、彼の小舅(妻の兄弟)にあたる伊予大洲城主・池田秀氏。秀氏は既に西軍に与して伏見城攻めに参加しており、長房にも西軍への加担を強く促してきたのである 9 。
この誘いを受け、長房は家中の大将格である七人の重臣に自らの意向を相談した。しかし、家臣団の意見は真っ二つに割れた。三田村太郎右衛門と高坂清兵衛の二人は、主君の意を汲んで西軍参加を強く進言したが、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門といった譜代の重臣たちは、家康に与し続けるべきだと猛反対した 9 。この深刻な対立を前に、長房は当主としてのリーダーシップを発揮し、家臣団をまとめ上げることができなかった。彼は、多数派である慎重論を退け、少数の主戦派の意見と、豊臣家への忠誠心という自らの感情に従って、西軍への寝返りを独断で決行するという、極めて危険な賭けに出る。
その計画は、驚くほど杜撰なものであった。長房は、熱田の渡しから船で桑名へと密航し、西軍本隊に合流しようと企図した。しかし、東軍の監視が厳しく、昼間の渡航は不可能であった。そこで彼は、夜陰に乗じて渡るため、船頭に銀二百枚という大金を渡して密航を約束させる。一艘の船に大勢は乗れないため、長房はわずか13人の供回りのみを連れ、主力の軍勢を陣に残したまま、密かに陣中を抜け出した。しかし、約束の刻限になっても船は現れず、一行が闇の中で右往左往しているうちに、無情にも夜は明けてしまった。
この間、主君の姿が見えないことに気づいた宮部家の家臣団は、長房が西軍へ走ったに違いないと察知する。しかし、置き去りにされた彼らには、主君を追う術も、自らの進退を決する術もなかった。混乱の末、彼らはかつて宮部家に仕えた縁故を頼り、東軍の岡崎城主・田中吉政の軍勢に合流するという自己防衛の道を選んだ 16 。
一方、長房はもぬけの殻となった自陣に戻り、呆然と立ち尽くしていた。その無様な姿は、騒動を聞きつけた徳川方の目付によって発見され、彼は身柄を拘束されて岡崎城に幽閉されることとなった 9 。大名が単身で敵陣に寝返ろうとして失敗し、捕虜になるという前代未聞の失態であった。
三、鳥取城の攻防と開城
長房が上方でこのような失態を演じている頃、国元の因幡鳥取城は東軍の猛攻に晒されていた。城主不在の中、城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者たちが必死の防戦を続けた 19 。しかし、9月15日の関ヶ原本戦で西軍の敗北が決定すると、鳥取城の運命も尽きた。東軍に与した鹿野城主・亀井茲矩、若桜鬼ヶ城主・斎村政広らの激しい攻撃の前に、ついに開城を余儀なくされたのである 19 。
四、なぜ長房は寝返ろうとしたのか ― 動機の多角的考察
長房の行動は、結果として宮部家を滅亡に導いた。なぜ彼は、これほどまでに無謀な行動に走ったのか。その動機は、複数の要因が複雑に絡み合った結果と見ることができる。
第一に、豊臣家への純粋な忠誠心である。父・継潤の遺訓や、自身が幼少期から受けた破格の待遇から、豊臣家、特に幼い秀頼への恩義を誰よりも強く感じていた可能性が高い。彼にとって、家康は豊臣家をないがしろにし、天下を簒奪しようとする裏切り者に見えたのであろう。
第二に、情勢判断の甘さと情報戦における孤立である。彼の与力であった木下重堅や垣屋恒総が既に西軍に走っていたことや 16 、姻戚の池田秀氏からの誘いといった、ごく身近で感情に訴えかける情報に流され、天下の大勢を見誤った。一方で、徳川家康が黒田長政や井伊直政らを通じて水面下で進めていた周到な調略工作の網からは、彼は完全に外れていた 22 。情報戦で完全に敗北し、孤立していたことが、彼の判断を狂わせた。
第三に、二代目当主としての焦りである。偉大な父・継潤が亡くなってから、まだわずか1年。自らの手で宮部家の存在感を示し、父に劣らぬ武将であることを証明したいという功名心や焦りが、冷静な判断力を曇らせた可能性も否定できない。
長房の行動の特異性は、関ヶ原で同じく去就が注目された他の大名と比較することで、より鮮明になる。
武将名 |
当初の所属 |
内通・調略の有無と相手 |
寝返りの動機(推測) |
実行のタイミングと成否 |
家臣団の動向 |
戦後の処遇 |
宮部長房 |
東軍 |
無し(西軍の池田秀氏から誘い) |
豊臣家への忠誠心、情勢判断の誤り |
戦前 に単独で西軍へ合流試図 → 失敗 、拘束 |
東軍派と西軍派に分裂。主君の離脱後、主力は東軍(田中吉政)に合流 |
改易 (死罪は免れる) |
小早川秀秋 |
西軍 |
有り(東軍・黒田長政、井伊直政ら) |
石田三成への不信、家康からの領地安堵の約束 |
本戦中 、家康の催促を受け、大谷吉継隊を攻撃 → 成功 |
家老の平岡頼勝、稲葉正成らが東軍内応を主導 |
備前岡山51万石へ 大加増 |
脇坂安治 |
西軍 |
有り(東軍・藤堂高虎ら) |
豊臣家への恩義は薄く、家康の勝利を予測 |
本戦中 、小早川の寝返りに呼応して大谷隊を攻撃 → 成功 |
事前に当主と嫡子で内応を合意済み |
伊予大洲5万3千石を 安堵 |
朽木元綱 |
西軍 |
有り(東軍・藤堂高虎ら) |
生き残りのための現実的判断 |
本戦中 、小早川らに呼応して大谷隊を攻撃 → 成功 |
当主の決断に従う |
2万石から9550石へ 減封 |
小川祐忠 |
西軍 |
有り |
生き残りのための現実的判断 |
本戦中 、小早川らに呼応して大谷隊を攻撃 → 成功 |
当主の決断に従う |
事前内通が評価されず 改易 |
赤座直保 |
西軍 |
有り |
生き残りのための現実的判断 |
本戦中 、小早川らに呼応して大谷隊を攻撃 → 成功 |
寝返りが主体的でないと見なされ 改易 |
|
この表が示すように、小早川秀秋や脇坂安治といった寝返りの「成功者」たちは、いずれも事前に東軍と周到な交渉を重ね、家臣団の合意を取り付けた上で、戦局を見極めて行動している 25 。彼らの行動は、冷徹な政治的計算に基づいていた。対して宮部長房の行動は、事前交渉も、家臣団の統率も、実行計画も欠落した、極めて衝動的で未熟なものであった。彼の失敗は不運ではなく、政治的・戦略的思考の欠如がもたらした必然的な帰結だったのである。
第四章:改易、そして流浪の後半生
関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の圧勝に終わり、宮部長房の運命もまた、勝者によって裁かれることとなった。大名としての栄光は一夜にして潰え、彼の後半生は流浪と悔恨の日々となった。
一、戦後処理と宮部家の改易
戦後の処分を決定する詮議において、西軍に加担しようとした長房の罪は重く、死罪を命じられる可能性が極めて高かった 9 。しかし、ここで意外な人物が彼の救済に動く。関ヶ原で東軍として武功を挙げ、戦後に筑後柳川32万石の大大名となった田中吉政である。吉政は家康に対し、「長房は私の旧主である宮部継潤の子であり、かつての恩義が忘れられません」と、涙ながらに助命を嘆願したと伝わる 9 。
この嘆願の背景には、複雑な人間関係が存在する。田中吉政は元々、宮部継潤に仕える一介の家臣であった 28 。かつての主家の嫡子を、今や大大名となった元家臣が救うというこの構図は、下剋上の世のダイナミズムと、それでもなお人の心を繋ぐ封建的な「恩義」という価値観が交錯する、象徴的な出来事であった。吉政の嘆願は、単なる旧主への情だけではなく、長房の行動が実害を伴わない「未遂」に終わったことや、敵将にすら情けをかける自身の度量を示すことで家康への忠誠をアピールする、高度な政治的計算も含まれていたかもしれない。
吉政の嘆願は功を奏し、長房は死罪を免れた。しかし、西軍への加担を進言した家老の三田村太郎右衛門と高坂清兵衛の二人は、責任を取る形で切腹を命じられた 9 。そして、宮部家が代々治めてきた因幡鳥取の所領はすべて没収され、大名としての宮部家は、継潤の死からわずか1年余りで歴史の舞台から姿を消した 14 。
二、南部藩預かりの身として
助命された長房は、当初は田中吉政の預かりとなったが、慶長6年(1601年)12月17日、その身柄は遠く陸奥国盛岡藩主・南部利直に預けられることになった 9 。
流人の身となった長房であったが、その処遇は罪人としては破格のものであった。南部家からは「現米123駄70人扶持」を給されたと記録されている 9 。これは石高に換算すると約460石に相当し、かつて10万石を超える大名であったことへの配慮と、彼の身柄を預かる南部家の格式を示すものであった。
盛岡の地で、長房は静かに歳月を重ねた。やがて彼は剃髪して仏門に入り、「長令(ちょうれい)」と号した 9 。そして寛永11年(1634年)11月18日、栄光と挫折に満ちた54年の生涯を、流浪の地である盛岡で閉じた 1 。彼の墓は、盛岡市内の光臺寺(こうだいじ)に今も現存している 18 。
三、晩年の弁明とその真意
長房の後半生において、特筆すべきは死の4年前にあたる寛永7年(1630年)の行動である。彼は突如として、江戸幕府に対し一通の文書を提出した。その内容は、「関ヶ原における自らの寝返り未遂事件は、実は田中吉政に騙されたためである」という、驚くべきものであった 9 。
しかし、この弁明が提出された時点で、当事者である田中吉政は既に慶長14年(1609年)に亡くなっており、真相を検証できる人物の多くはこの世にいなかった。そのため、幕府もこの訴えをまともに取り上げることはなく、「沙汰止み」として処理された 9 。
この行動は、法的な名誉回復を本気で目指したものとは考えにくい。むしろ、30年もの長きにわたり、自らの人生最大の汚点であり続けた「愚かな決断」という重荷に苦しんできた長房が、死を目前にして、その記憶を何とか糊塗しようとした痛切な心理的欲求の表れと見るべきであろう。自分の判断ミスを認める苦しさから逃れ、責任を転嫁する相手として、自分を助けてくれた恩人であり、かつての父の家臣であり、関ヶ原で大功を立てた大物・田中吉政を選んだ。そうすることで、自らを「恩を仇で返された悲劇の武将」という物語の中に位置づけ、失われた自己の尊厳を保ち、子孫に一つの「言い訳」を残そうとしたのではないか。この晩年の行動は、彼の後半生がいかに深い苦悩と悔恨の中にあったかを物語る、痛ましいエピソードである。
終章:宮部長房の生涯と後世への影響
宮部長房の生涯は、偉大な父の影に生まれ、時代の激流に翻弄され、一度の過ちで全てを失った武将の悲劇として語ることができる。彼の人生と、その後の宮部家の歩みは、我々に多くのことを示唆している。
一、宮部長房という人物像の再評価
宮部長房という人物を評価する上で、父・継潤との比較は避けられない。継潤は、智勇と政治力を兼ね備え、僧侶という異色の経歴から身を起こし、時代の流れを的確に読んで大大名へと成り上がった、まさに戦国の体現者であった 31 。対照的に長房は、父が築いた巨大な遺産を守ることができず、時代の転換点において致命的な判断ミスを犯した。彼の生涯は、「創業の才」と「守成の才」は全く別物であることを示す好例と言える。
彼の行動は一貫して受動的であり、周囲の意見や断片的な情報に流されやすい傾向が見られる。家臣団をまとめきれず、杜撰な計画で自滅した関ヶ原での一件は、彼が戦国の修羅場を生き抜くにはあまりに純朴、あるいは未熟であったことを物語っている。彼は、私利私欲に走る「悪人」ではなかったかもしれない。むしろ、豊臣家への恩義を信じ、その忠誠を貫こうとした「善人」であった可能性すらある。しかし、その純粋さが、冷徹な判断が求められる政治の世界では命取りとなったのである。
二、宮部家のその後
大名としての宮部家は、長房の代で滅亡した。しかし、その血脈は絶えることなく、新たな形で歴史を紡いでいく。
長房の子孫は、そのまま盛岡に留まり、南部藩の家臣として仕え続けた。長房の子・頼母長官の代には、徳川幕府を憚ってか、姓を「多賀」と改めている 9 。多賀家は南部藩内で着実に地位を築き、長英、長郷と二代続けて家老職を務めるまでに家格を回復させた 9 。藩政の中枢を担う重臣として、宮部家は新たな形でその存在価値を示したのである。
そして、江戸幕府が倒れ、明治維新という新たな時代の変革が訪れると、彼らは宮部姓に復姓した。その末裔からは、自由民権運動家として名を馳せた宮部謙吉のような人物も輩出された 9 。
関ヶ原での一度の失敗により、大名としての地位を失った宮部長房。彼の人生は悲劇であったかもしれない。しかし、その後に続く子孫たちの歩みは、家名の断絶を乗り越え、武士の家系としての誇りを保ちながら、新たな時代に適応し、社会に貢献していった再生の物語である。それは、長房の悲劇的な生涯の後に続く、ささやかながらも確かな救いであり、宮部家の歴史に深い奥行きを与えている。
引用文献
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- 宮部長房(みやべながふさ)『信長の野望・創造パワーアップキット』武将データ http://hima.que.ne.jp/souzou/souzouPK_data_d.cgi?equal1=0604
- 宮部継潤 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/MiyabeKeijun.html
- 宮部継潤出生地 | 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト https://kitabiwako.jp/spot/spot_3073
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