最終更新日 2025-06-30

寺島職定

越中戦国史に埋もれた戦略家 ― 寺島職定の生涯と神保家の内紛

序章:乱世の越中と一人の武将

戦国時代、日本の各地で数多の武将が勃興と滅亡を繰り返した。その多くは歴史の表舞台で華々しい活躍を見せることなく、地方史の片隅にその名を留めるのみである。越中国(現在の富山県)の武将、寺島職定(てらしま もとさだ)もまた、そうした歴史の奔流に埋もれた一人と言えるかもしれない。彼は、越中守護代・神保氏の家臣であり、新川郡池田城の城主であった 1 。その生涯は、主家である神保氏の内紛と、越後国の上杉謙信、甲斐国の武田信玄という二大勢力の狭間で翻弄された、まさに戦国乱世の縮図であった。

16世紀半ばの越中は、守護・畠山氏の権威が失墜し、守護代であった神保氏と椎名氏が国内を二分して激しい抗争を繰り広げていた 3 。さらに、この地域対立に、隣国の大名たちが介入する。越後の上杉謙信は椎名氏を支援し、甲斐の武田信玄は神保氏や一向一揆と結び、謙信を牽制しようと画策した 5 。これにより、越中は上杉と武田の代理戦争の様相を呈し、「境目の国」としての宿命を背負うこととなった 7

寺島職定は、この複雑怪奇な政治状況の中で、単なる一地方武将として受動的に運命を受け入れたわけではない。彼は自らの戦略に基づき、主家の路線に対しても敢然と異を唱え、大勢力と結びつくことで現状を打破しようと試みた。その挑戦は、結果として神保家の分裂を決定づけ、彼自身を歴史の舞台から退場させることになったが、その行動は越中の戦国史に無視できない大きな転換点をもたらした。

本報告書は、断片的な史料を繋ぎ合わせ、寺島職定という一人の武将の生涯を徹底的に追跡するものである。彼の出自と勢力基盤、本拠とした池田城の戦略的価値、そして彼の人生を決定づけた神保家の内紛と上杉謙信との死闘を詳細に分析する。さらに、彼の挑戦が潰えた後、一族がいかにして命脈を保ち、その記憶が地域社会にどのように受け継がれていったかを探る。これにより、寺島職定を単なる「敗者」や「反逆者」としてではなく、大国の論理に抗い、自らの戦略を貫こうとした「国衆」の代表として再評価し、越中戦国史の深層を明らかにすることを目的とする。

報告書の理解を助けるため、まず寺島職定に関連する主要な出来事を時系列で整理した年表を以下に示す。

寺島職定関連年表

年代(西暦/和暦)

寺島職定および神保家の動向

越中を巡る主要勢力の動向(上杉・武田・一向一揆)

典拠史料・文献

天文12年(1543)頃

神保長職、富山城を築城し、椎名氏との抗争(越中大乱)が激化する。

4

天文19年(1550)

寺島職定、能登畠山氏の内紛に介入。温井方に与し、遊佐方の氷見鞍川氏を討つ。

1

永禄3年(1560)

神保長職、上杉謙信の越中出兵により敗北。富山城を放棄し増山城へ逃れる。

上杉謙信、椎名氏の救援要請に応じ越中に出兵。

4

永禄5年(1562)

神保長職、再び蜂起するも謙信に敗北し降伏。養子とされる寺島盛徳が金屋村合戦で功を挙げる。

上杉謙信、再度越中に出兵。武田信玄、一向一揆に挙兵を促し神保氏を支援。

8

永禄11年(1568)頃

寺島職定、親上杉路線をとる主君・長職と対立。長職の子・長住を擁立し、武田方として挙兵。神保家が内紛状態に陥る。

武田信玄の調略により、上杉家臣・本庄繁長が謀反。椎名康胤も武田方に寝返る。

1

永禄11年(1568)

寺島職定、池田城に籠城し上杉軍と交戦するも敗北、落城。

上杉謙信、大規模な越中侵攻を敢行。

11

永禄12年(1569)

寺島職定、この頃の敗戦以降、史料から消息を絶つ。

上杉謙信、第5次越中侵攻。反上杉方の寺島氏が守る池田城を攻撃。

9

天正6年(1578)

神保長住、織田信長の支援を得て富山城に復帰。

上杉謙信が急死。織田信長が越中への本格侵攻を開始。

3

天正10年(1582)

神保長住、家臣の離反により失脚し、信長によって追放される。

佐々成政が越中を支配。

3

-

寺島盛徳、神保家没落後は上杉氏、佐々成政、前田利家に仕え、寺島家は加賀藩士として存続する。

8


第一部:神保氏の重臣、寺島職定の台頭

第一章:出自と勢力基盤の形成

寺島職定が、いかにして神保家中で重きをなすに至ったのか。その背景には、彼自身の出自と、彼が築き上げた独自の勢力基盤があった。

寺島職定(「寺嶋」とも記される)は、通称を「三郎」といい、越中守護代・神保長職に仕えた重臣である 1 。その生没年は詳らかではないが、彼の活動が活発化するのは16世紀半ば、天文年間から永禄年間にかけてである。

彼の出自については、一つの重要な手がかりが存在する。それは、彼が「槻尾(つきお)氏」であった可能性である 16 。この史料は、神保氏の庶家である神保氏張が、弘治・永禄期(1555年~1570年)に氷見方面を支配した「寺島職定(槻尾氏)」に擁立されて守山城に在城したと記している。この記述は、寺島職定が単に神保家から所領を与えられた譜代の家臣というだけでなく、「槻尾氏」という独立した氏族の出身であり、越中西部、特に氷見周辺に強固な地盤を持つ在地領主、すなわち「国衆」であったことを強く示唆している。彼の権力は、主君からの信任のみに由来するのではなく、彼自身が率いる在地勢力に根差していた。この事実は、後に彼が主家の路線に異を唱え、家中を二分するほどの内紛を主導できた力の源泉を理解する上で極めて重要である。

彼の国衆としての実力と戦略眼を示す初期の事例が、天文19年(1550年)の能登畠山氏の内紛への介入である 1 。この年、能登で守護・畠山義続とその重臣である温井総貞・遊佐続光の間で内乱(能登天文の内乱)が勃発した。職定はこの機に乗じて温井方に与し、敵対する遊佐方の拠点であった氷見の鞍川氏を攻撃、これを討ち破った。この行動は、単に主家の命令に従ったものではなく、彼自身が越中の国境を越えた北陸全体の政治情勢を的確に把握し、自らの勢力圏拡大のために能動的に軍事行動を起こしたことを物語っている。越中の枠に留まらない広域的な視野を持つ戦略家としての側面が、この時点で既に見て取れる。

こうした独自の勢力基盤と軍事的手腕により、寺島職定は神保家中で急速に頭角を現し、やがては家老の小島職鎮と勢力を二分するほどの重臣へと上り詰めたのである 1

第二章:越中新川郡の要害・池田城

寺島職定の活動を語る上で欠かせないのが、彼の本拠地であった池田城である。この城の所在地と戦略的価値を分析することは、神保家における彼の役割と、後の彼の運命を理解する鍵となる。

まず、池田城の所在地を特定する必要がある。富山県内には氷見市にも同名の城跡が存在するが 18 、各種史料を照合すると、寺島職定の居城は越中国の新川郡、現在の富山県中新川郡立山町池田に存在した山城であることが確実である 1 。この城は、池田集落の南に聳える標高375メートル(比高120メートル)の山に築かれており、現在も曲輪、堀切、竪堀、土橋といった戦国期の山城の遺構を明瞭に残している 20

この池田城の立地こそが、神保家における寺島職定の役割を雄弁に物語っている。神保氏の伝統的な本拠地は、放生津(現在の射水市)を中心とする越中西部の射水郡や婦負郡であった 3 。一方で、長年のライバルであった椎名氏の勢力圏は、松倉城(現在の魚津市)などを拠点とする越中東部の新川郡であった 23 。寺島職定の池田城は、その椎名氏の勢力圏の喉元に突き刺すように位置している。

この配置が意味するものは明らかである。池田城は、防御的な城ではなく、神保長職が進めた対椎名氏政策、すなわち越中東方への勢力拡大戦略における最前線の攻撃拠点であった。そして、その極めて重要な拠点を任されていたのが、寺島職定だったのである。この事実は、彼が単なる城主ではなく、神保氏の東進戦略を実質的に担う「槍の穂先」とも言うべき司令官であったことを示している。主君・長職からの信頼がいかに厚かったか、そして彼自身がその期待に応えるだけの軍事的能力を有していたかが窺える。池田城は、彼の栄光と、そして後の悲劇の舞台となる運命を背負った城であった。


第二部:神保家の分裂と大いなる賭け

第三章:主家の内紛 ― 親上杉か、親武田か

永禄年間、神保家は存亡を賭けた大きな岐路に立たされた。それは、家の外交・安全保障政策を巡る根本的な路線対立であり、この対立が寺島職定を主家への反逆に駆り立て、神保家を破滅的な内紛へと導くことになる。

永禄3年(1560年)と5年(1562年)、神保長職は椎名氏を支援する上杉謙信の圧倒的な軍事力の前に二度にわたって大敗を喫し、その軍門に降ることを余儀なくされた 3 。これにより、神保家は事実上、上杉氏の従属国人となる。この敗北を受け、主君・長職と家老の小島職鎮らは、上杉氏に従属することで家の安泰を図るという現実的な道を選択した。これが「親上杉派」の路線である。

しかし、寺島職定はこの現状維持路線に真っ向から異を唱えた。彼にとって、上杉氏への従属は屈辱であり、神保氏の独立を回復することこそが至上命題であった。彼は、上杉氏の支配を覆すための活路を、謙信の宿敵である甲斐の武田信玄との連携に求めた 1 。当時、信玄は北信濃を巡って謙信と激しく争っており、その背後を脅かすべく、越中の国衆や一向一揆への調略を活発化させていた 5 。職定は、この信玄という外部の強力な勢力を引き込むことで、上杉氏の支配という固定化された現状を打破しようとする、壮大かつ危険な賭けに出たのである。

このクーデターを正当化するため、職定は巧みな政治的手段を講じた。彼は、主君・長職の嫡子であった神保長住を擁立したのである 1 。これにより、彼の行動は単なる家臣の謀反ではなく、「旧主の誤った政策を正し、正統な後継者を立てて家を再興する」という大義名分を得ることになった。これは、家中の主導権を握るための、計算され尽くした政治的駆け引きであった。

こうして永禄11年(1568年)頃、神保家は、長職・小島職鎮を中心とする「親上杉・現状維持派」と、職定・長住を中心とする「親武田・独立回復派」とに完全に分裂し、武力衝突を伴う内紛へと突入した 1 。この対立は、単なる家臣同士の権力闘争ではなかった。それは、家の存亡を賭けた外交政策上のイデオロギー闘争であり、戦国時代に頻発した「国衆の自立化」の動きの典型例でもあった。寺島職定の行動は、もはや単なる「家臣」の枠を超え、自らが地域の運命を決定しようとする独立した「国衆」としての強い意志の現れであった。彼の賭けは、神保氏と越中の未来を大きく左右するものであった。

第四章:上杉謙信との死闘

寺島職定が仕掛けた大いなる賭けは、戦国最強と謳われた武将、上杉謙信の直接介入によって、無残にも打ち砕かれることとなる。

永禄11年(1568年)、神保家の内紛と、それに呼応した椎名氏の離反(武田方への寝返り)という事態を重く見た上杉謙信は、自ら大軍を率いて越中へと侵攻した 6 。これは、自らの勢力圏の動揺を断固として許さないという、謙信の強い意志の表れであった。反乱の中核をなす寺島職定の拠点・池田城は、当然のことながら上杉軍の主要な攻撃目標となった。

職定は池田城に籠城し、果敢に抵抗を試みた。しかし、その戦略の根幹をなしていた武田信玄からの支援は、謙信の電光石火の進軍には間に合わなかった。信玄は、上杉家臣の本庄繁長に謀反を起こさせるなど後方攪乱には成功したものの 5 、池田城で孤立する職定を直接救うための援軍を送り込むことはできなかった。

結果、寺島職定は、同盟軍の支援を得られないまま、単独で上杉軍本隊と対峙するという絶望的な状況に追い込まれた。圧倒的な兵力差の前に、池田城は「敢えなく鎮圧され」 1 、「敗北し落城する」 11 。この戦いは、永禄11年(1568年)から翌12年(1569年)にかけての出来事とされる 9 。上杉方の武将・江馬輝盛と敵対する「反江馬方」として職定が明確に認識されていた史料も残っており 13 、彼が上杉軍にとって最優先で排除すべき敵であったことがわかる。

この池田城の戦いでの敗北を最後に、寺島職定の名は歴史の記録から完全に姿を消す 2 。彼がこの戦いで討ち死にしたのか、あるいは城を脱出してどこかで隠遁生活を送ったのか、その最期を知るすべはない。

寺島職定の敗因は明白であった。それは、大国間の代理戦争における「代理人」の悲劇である。彼の戦略は武田信玄との連携が生命線であったが、敵である上杉謙信は、問題の根源である彼を直接、迅速に叩くという最も効果的な手を選んだ。大国のチェス盤の上で、敵のキングに直接狙われたポーンの如く、職定は為す術もなく盤上から取り除かれた。彼の挑戦と敗北は、地方の国人領主が巨大な中央集権的権力の前にいかに無力であったか、そして大国の戦略に依存することの危うさを物語る、教訓的な事例として歴史に刻まれたのである。


第三部:寺島氏の命脈と後世への影響

第五章:一族の存続戦略 ― 養子・盛徳の道

寺島職定自身の野心的な挑戦は、池田城の落城と共に潰え去った。しかし、「寺島」という家そのものは、戦国の荒波を乗り越えて存続していく。その鍵となったのが、職定の養子とされる寺島盛徳(てらしま もりのり)の、義父とは全く対照的な生き方であった。

寺島盛徳は、通称を牛介(うしのすけ)といい、職定とは別人であり、その養子であったと伝えられている 2 。彼は兄弟の小島国綱と共に、剛勇をもって知られた武将であった 8 。彼の生涯は、激動する越中の政治情勢に巧みに適応し、主君を次々と変えながらも家名を保つという、現実主義的な処世術に貫かれている。

職定が親武田・反上杉の旗幟を鮮明にして敗れ去った後、盛徳はまず、皮肉にもその仇敵である上杉氏に仕え、本領である五位庄を安堵されている 8 。これは、大勢に逆らわず、新たな支配者に従うことで家の存続を図るという、プラグマティックな選択であった。

やがて時代が移り、天正6年(1578年)の上杉謙信の死後、織田信長の勢力が越中に及ぶと、状況は再び一変する。盛徳は上杉景勝の越中侵攻に呼応して織田軍に抵抗した時期もあったが 8 、最終的に越中が織田方の武将・佐々成政によって平定されると、今度は成政に仕える道を選んだ。禄高五千俵という厚遇で迎えられ、成政の主要な戦いである末森城攻めにも従軍して奮戦している 8

さらに、天正13年(1585年)、その佐々成政が豊臣秀吉に敗れて越中を追われると、盛徳はまたもや新たな支配者である加賀の前田利家、そしてその子・利長に仕えた。最終的に1500石の知行を与えられ、寺島家は加賀藩士として近世大名家の家臣団に組み込まれることで、安定した地位を確保したのである 8

寺島職定と盛徳の生涯は、戦国乱世を生き抜くための二つの対照的な戦略を我々に示している。職定は「神保氏の独立回復」という、ある種のイデオロギーに殉じ、歴史の表舞台から消えた。一方、盛徳は「寺島家の存続」という極めて現実的な目標を最優先し、その時々の強者に仕えるという柔軟さによって、それを達成した。職定が「国衆」として自立を賭けて戦う道を選んだのに対し、盛徳は新たな支配体制に組み込まれる「藩士」への道を歩んだ。寺島家の歴史は、職定の劇的な挑戦と敗北、そして盛徳の地道な適応と存続という、二つの物語が組み合わさって初めて、その全体像を理解することができるのである。

第六章:記憶の中の池田城 ― 立山町に伝わる落城の物語

寺島職定の挑戦と池田城の落城は、政治史・軍事史的には一つの事件の終焉を意味した。しかし、その記憶は古文書の中だけに留まらなかった。事件の舞台となった富山県立山町の地域社会において、それは新たな文化を生み出す「創世神話」として再解釈され、今日まで語り継がれている。

その代表例が、立山町に伝わる二つの無形民俗文化財である。

一つは、米道(よねじ)地区に伝承される盆踊り、「米道踊」である。この踊りの起源について、地元では次のように伝えられている。永禄11年(1568年)、上段にあった池田城が越後の上杉謙信の攻略によって落城した際、その難を避けて米道村に住み着いた池田城の家臣・加野半右衛門という人物がいた。彼は歌舞音曲に長けた風流人で、彼が伝えたものがこの踊りの始まりである、という 12

もう一つは、目桑(めくわ)地区に伝わる糸ひき唄、「目桑ちりめん節」である。この唄もまた、池田城の落城にその起源を求める伝承を持つ。天正年間(1573年~1592年)に、池田城が落城した際にこの地に土着した家臣・鈴木兵助が、ちりめん織りを村に広めた。その際に唄われたのが、この「ちりめん節」の始まりだとされている 27

これらの伝承が示唆するものは非常に興味深い。歴史的事実としての「池田城の落城」は、城主・寺島職定とその家臣団にとっては紛れもない悲劇であり、共同体の崩壊を意味した。しかし、地元に残された人々にとって、この出来事は「我々の踊りや唄のはじまり」という、ポジティブな起源譚へと見事に変換されている。

これは、歴史上の大きな出来事が、その舞台となった地域の人々によって、自らの文化的アイデンティティを形成するための資源として利用され、再生産されていく典型的なプロセスを示している。「落城と家臣の離散」という破壊的な記憶が、「新たな文化の種が蒔かれた」という創造的な物語へと昇華されているのである。寺島職定の物語は、古文書や城跡といった史料の中だけでなく、今なお人々の暮らしの中に息づき、地域の文化として生き続けている。歴史とは、勝者の記録であると同時に、敗者の記憶が形を変えて受け継がれていく、多層的な営みなのである。


終章:寺島職定とは何者だったのか

寺島職定。彼の生涯を追跡してきた我々は、今一度、彼が何者であったのかを問わねばならない。彼は単なる主家を裏切った反逆者だったのか。それとも、時代の流れを読み違えただけの、先見の明なき武将だったのか。

本報告書の分析を通じて浮かび上がる寺島職定像は、そのいずれとも異なる。彼は、上杉、武田という大国の狭間で翻弄される地方勢力にあって、上杉氏への従属という現状維持を良しとせず、武田信玄という外部勢力と結託してでも主家の独立と自らの影響力拡大を追求した、野心的かつ戦略的な思考を持つ「国衆」であった。彼の行動は、守護代という中間権力が解体し、実力を持つ国人領主が自立していく戦国時代の大きな潮流を体現していた。

しかし、彼の壮大な計画は、上杉謙信という戦国最強クラスの武将が振るった、迅速かつ圧倒的な軍事力の前に脆くも崩れ去った。彼の敗北は、一個人の戦略の失敗に留まらない。それは、戦国時代における地方勢力の限界と、より強大な領域支配を目指す中央集権的な大名権力への移行という、時代の不可逆的な流れを象徴する出来事であった。彼の賭けは、あまりにも相手が悪すぎたのである。

だが、彼の行動が無意味だったわけではない。寺島職定が引き起こした内紛は、神保氏の衰退を決定づけた。これにより越中の勢力バランスは崩壊し、結果的に織田信長による越中平定、そしてその後の佐々成政、前田氏による支配へと繋がる道筋をつけた。その意味で、彼は意図せずして、越中の歴史を新たな時代へと動かすための重要な触媒として機能したと言える。

寺島職定は、歴史の勝者ではない。しかし、彼の物語は、成功者の栄光だけが歴史ではないことを我々に教えてくれる。大国の論理に翻弄されながらも、自らの戦略を信じて抗い、そして敗れ去った一人の武将の選択と挑戦の中にこそ、戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた人間の息遣いが宿っている。越中戦国史に埋もれたこの戦略家の生涯は、敗者の視点から歴史を読み解くことの重要性と豊かさを、静かに、しかし力強く示しているのである。

引用文献

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