本報告書の目的は、戦国時代の武将、小山田信茂(おやまだ のぶしげ)の生涯、武田氏における役割、そして特に武田氏滅亡時における彼の行動とそれに伴う歴史的評価について、現存する資料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、多角的な視点から論じることである。
小山田信茂は、武田信玄・勝頼の二代に仕えた重臣でありながら、武田氏滅亡の際に主君を裏切った「逆臣」としての評価が長らく定着してきた。しかし近年、その評価は見直されつつあり、本報告書ではその背景にある史料の解釈や新たな研究動向も踏まえる。
本報告書は、歴史的事実を正確に、かつ学術的な日本語表現を心がけ、不自然な形で外国語の単語が用いられることのないよう留意して記述する。
小山田信茂は、天文8年(1539年)に誕生したと記録されている 1 。父は小山田出羽守信有(おやまだ でわのかみ のぶあり)、母は武田信縄(武田信虎の父)の娘であり、信茂は武田信玄の従甥(いとこおい、母方の従兄弟の子)という血縁関係にあった 1 。幼名は弥三郎、通称は左衛門尉と伝えられ、官位としては越前守を称した 1 。
小山田氏は、坂東八平氏の一流である秩父氏の血を引くとされるが、その出自については異説も存在する 3 。甲斐国東部の郡内地方(現在の山梨県都留市周辺)を本拠地とし、岩殿山城(いわどのやまじょう)を居城とした国衆(国人領主)であった 1 。信茂の出自が武田宗家と血縁的に近しいものであったことは、彼が武田家中で重用された背景の一つとして考えられる。譜代家老衆の一角を占める名門としての地位も、その影響力を物語っている 3 。
父である出羽守信有の死後、家督は当初、兄の弥三郎信有が継承した。しかし、永禄8年(1565年)に兄が病死したため、信茂が家督を相続することとなった 1 。ただし、家督相続の正確な時期や経緯については諸説あり、例えば、天文21年(1552年)に14歳で家督を継いだとする記述も見られる 5 。本報告書では、兄の死後、1565年に家督を継承したという説を主軸として論を進めるが、複数の説が存在することに留意が必要である。
戦国時代の甲斐国は、甲府盆地一帯を支配する武田氏、甲斐国南部を勢力圏とする穴山氏、そして甲斐国東部を領する小山田氏という、三つの有力な国人領主によって事実上分治されていた 5 。武田氏は甲斐守護の立場から戦国大名へとその勢力を拡大していったが、小山田氏は郡内領主として、武田氏に対してある種の独立性を保持していたことがうかがえる 5 。
武田氏と小山田氏は、鎌倉時代以降、婚姻関係を幾度も重ねる親戚関係にあった。両家の間には対立と和睦の歴史が繰り返されたが、武田信虎の時代になると、小山田越中守信有(信茂の祖父、または 5 の記述によれば15代当主)が信虎の妹を娶ることで和議が成立した 5 。
この小山田氏の「国衆」としての立場は、単に武田氏の家臣であるというだけでなく、同盟者に近い側面を持っていたことを示唆している。これは、武田氏滅亡時における信茂の行動を理解する上で、極めて重要な背景となる。彼らは武田氏の軍事力に貢献する一方で、自領の経営や領民に対する直接的な支配権を維持しており、例えば、富士参詣者からの通行税徴収を独自に行っていた記録などがその証左として挙げられる 5 。このような半独立的な立場は、武田氏から新たな領地を与えられることがなかったという事実とも関連している可能性がある 5 。武田氏は小山田氏の軍事力を利用しつつも、その独立性を完全に削ぐことはできず、両者の間には一種の緊張感をはらんだ共存関係があったと推測される。
小山田信茂の生涯における主要な出来事を時系列で把握するため、まず略年譜を以下に示す。
年代(西暦) |
年齢(数え年) |
主な出来事 |
典拠例 |
天文8年 (1539) |
1歳 |
誕生 |
1 |
弘治元年 (1555) |
17歳 |
第二次川中島の戦いに初陣(異説あり) |
7 |
永禄4年 (1561) |
23歳 |
第四次川中島の戦いに参陣、武田家「弓矢の御談合」七人衆に加わる |
2 |
永禄8年 (1565) |
27歳 |
兄・弥三郎信有の死去に伴い家督相続(異説あり) |
2 |
永禄10年(1567) |
29歳 |
下之郷起請文の取りまとめ奉行を務める |
11 |
永禄11年(1568) |
30歳 |
駿河侵攻作戦に先方衆として参陣 |
2 |
永禄12年(1569) |
31歳 |
三増峠の戦いで活躍 |
2 |
元亀2年 (1571) |
33歳 |
富士道者の関銭を半減 |
2 |
元亀3年 (1572) |
34歳 |
三方ヶ原の戦いに中央先鋒として参戦 |
2 |
天正3年 (1575) |
37歳 |
長篠の戦いで奮戦、勝頼の退却を援護 |
2 |
天正4年 (1576) |
38歳 |
武田信玄の葬儀で御剣を持つ |
2 |
天正7年 (1579) |
41歳 |
勝頼の名代として越後へ赴き、菊姫・景勝の祝言を取り仕切る |
2 |
天正10年(1582) |
44歳 |
3月、武田勝頼を裏切り、岩殿城への入城を拒否。3月24日、甲斐善光寺にて織田信忠に処刑される |
2 |
小山田信茂は、武田信玄配下の武将として数々の重要な戦役に参加し、その武勇を示した。
彼の初陣については、弘治元年(1555年)の第二次川中島の戦いであったとされ、父・信有(あるいは兄)と共に小山田勢を率いて参陣したと伝えられている 7 。その後も、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、高坂昌信が指揮する妻女山攻撃隊の一翼を担い、激戦に身を投じた 2 。
武田氏の勢力拡大に伴う主要な戦いにおいても、信茂の姿は見られる。永禄11年(1568年)に開始された駿河侵攻作戦では、富士川沿いに進軍する先方衆として参陣し、武田軍の進路確保に貢献した 2 。翌永禄12年(1569年)には、後北条氏との間で繰り広げられた三増峠の戦いにおいて、北条氏照の拠点であった甘里砦を陥落させ、さらに郡内衆を率いて北条氏照・氏邦軍と激戦を交え、武田軍の大勝に貢献した 2 。
西上作戦における元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、中央先鋒という重要な役割を担い、徳川家康軍を破る武田軍の勝利に大きく貢献したとされている 2 。この戦いに関して、信茂が投石隊を率いて巧みな采配を振るったという逸話が広く知られている 2 。しかしながら、『信長公記』や『三河物語』といった同時代の史料には、武田氏が投石隊を用いたという記述こそ見られるものの、それを信茂が率いたとする直接的な史料は確認されていない 3 。このため、投石隊の逸話は、近世以降の戦史資料における誤読や脚色によって成立した俗説である可能性が高いと考えられている 3 。この俗説が広まった背景には、小山田衆が何らかの特殊な戦闘技術を有していた可能性、あるいは信茂の戦術家としての一面を強調するために後世に付加されたイメージである可能性も考えられる。彼らが「最強軍団」 2 と呼ばれた背景には、史実とは異なるとしても、何らかの特筆すべき戦闘力があったと推測するのが自然であろう。
武田信玄は、小山田信茂の才能を高く評価し、厚い信任を寄せていたことが複数の逸話からうかがえる。特に有名なのは、「文のことは信茂に聞け」という信玄の言葉である 2 。これは、信茂が単に武勇に優れた武将であるだけでなく、学問や教養、さらには政務能力にも長けていたことを示すものとして解釈される。実際に、信茂が郡内領の統治において示した手腕や、元亀2年(1571年)に富士道者のために領内の関銭を半減する政策を実施したことなどは 2 、その表れと言えるだろう。
信玄からの信任を示す具体的な事例としては、永禄4年(1561年)に、武田家の軍事・戦略に関する最高諮問機関ともいえる「弓矢の御談合七人衆」の一人に加えられたことが挙げられる 2 。これは、信茂の戦略眼や判断力が信玄に認められていた証左である。
また、天文23年(1554年)、武田信玄の息女である黄梅院が、相模の北条氏康の子・氏政に嫁ぐという重要な外交儀礼において、信茂は「蟇目(ひきめ)」という大役を務めた 2 。この際、三千騎もの供を率い、金銀で飾られた鞍や黄金造りの太刀など、盛大な行列を滞りなく取り仕切ったと伝えられている。当時まだ若年であった信茂がこの大役を成功させたことは、彼自身の才覚はもとより、彼を支える家臣団の結束力、そして小山田家が三代にわたって築き上げてきた武田家からの信頼の厚さを示すものであった。
永禄10年(1567年)、武田信玄の嫡男・武田義信の廃嫡事件は、武田家中に大きな動揺をもたらした。この事件に関連して、武田家臣団が信玄への忠誠を改めて誓う「下之郷起請文(生島足島神社起請文)」が作成され、生島足島神社に奉納された。この重要な起請文の取りまとめを行う奉行の一人に、小山田信茂(当時は弥五郎を称していたか)が任じられたとされている 11 。
この事実は、信茂が武田家の中枢において、家臣団の結束を固めるという機密性の高い任務に関与するほど、信玄から深く信頼されていたことを示している。義信事件という武田家の内的な危機に際し、その収拾に信茂が関与したことは、彼の政治的な立場と能力の高さを物語るものである。この起請文には、対立していた長尾景虎(上杉謙信)を討つことや、戦功を立てることなどが記されており 12 、対外的な緊張感が高まる中で、家中の引き締めを図るという信玄の強い意志が反映されていた。
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が信濃伊那郡駒場で死去し 3 、四男の武田勝頼が家督を継ぐと、小山田信茂は引き続き武田家の重臣として勝頼を支えた。その忠誠心を示す行動の一つとして、天正4年(1576年)4月16日に行われた信玄の正式な葬儀において、信茂は御剣を持つという名誉ある役を務めている 2 。
天正3年(1575年)5月、武田勝頼率いる軍勢は、織田信長・徳川家康連合軍と長篠・設楽原で激突した(長篠の戦い)。この戦いで武田軍は、織田軍の鉄砲隊の前に多くの将兵を失い、壊滅的な大敗を喫した。このような絶望的な戦況の中、小山田信茂は自ら馬防柵に突撃して敵陣を撹乱し、多くの犠牲を払いながらも主君・勝頼の身辺を警護し、戦場からの退却を助けたと伝えられている 2 。軍記物である『甲陽軍鑑』には、信茂が徳川勢と激しく競り合ったとの記述も見られる 3 。
この長篠の戦いにおいて、小山田勢は800人もの死者を出すという、武田軍の中でも最大の犠牲者を出した部隊の一つとなった 2 。この甚大な被害は、武田家の軍事力を著しく低下させただけでなく、信茂を含む生き残った家臣たちの心理にも深刻な影響を与え、後の武田氏の衰退を加速させる一因となった可能性が考えられる。
武田勝頼の時代においても、小山田信茂は外交面で重要な役割を担った。特に、越後の上杉氏との外交交渉(甲越同盟の締結など)においては、中心的な人物として活躍したことが記録されている 9 。
その具体的な活動として、天正7年(1579年)には、勝頼の名代として越後へ赴き、勝頼の妹である菊姫と上杉景勝との祝言の進行を取り仕切った 2 。これは、信茂が単なる武勇の将ではなく、複雑な外交儀礼にも通じた練達の人物であったことを示している。信玄時代からの「文のことは信茂に聞け」という評価は、勝頼の時代においても、外交という「文事」の領域で遺憾なく発揮されたと言えるだろう。武田家が外交的にますます困難な状況に置かれる中で、信茂のような経験と実績を兼ね備えた人物が交渉の前面に立ったことは、勝頼政権にとって不可欠なことであったと推察される。
岩殿山城(一般には岩殿城とも呼ばれる)は、甲斐国都留郡、現在の山梨県大月市に位置する山城である。標高634メートルの岩殿山に築かれ、その険峻な地形を利用した堅固な城塞として知られていた 14 。古くは修験道の霊山であったとも伝えられている 15 。
伝統的に、この岩殿城は郡内地方を支配した国衆・小山田氏の居城、特に小山田氏が平時に政務を執った谷村館(現在の都留市)の詰城(戦時の最終拠点)であると考えられてきた 1 。小山田氏の重要な軍事拠点として、その歴史の中で大きな役割を果たしたとされてきた。
しかしながら、近年ではこの伝統的な見解に対して疑問が呈されている。主な理由として、谷村館から岩殿城までの距離が約9キロメートル以上と、詰城として機能するには遠すぎるという点が指摘されている 14 。この地理的な隔たりは、緊急時に迅速な連携や移動を困難にするため、詰城としての実用性に疑義を生じさせる。
前述の詰城説への疑問に加え、近年の歴史研究においては、岩殿城は小山田氏の城ではなく、武田氏が直接管理・運営する城(武田氏直轄の城)であったとする説が有力視されつつある 15 。
この説を裏付ける根拠としては、いくつかの点が挙げられる。まず、武田氏が甲斐国を統一した後、東方の脅威である相模国の後北条氏への備えとして、また同時に、郡内地方に勢力を持つ小山田氏を監視する目的で、武田氏自身が岩殿城を築城、あるいは既存の砦を大規模に改修し、甲府(国中)から城番を派遣して直接管理していた可能性が指摘されている 15 。このような支配構造は、武田氏が甲斐国南部の有力国衆である穴山氏に対して用いた統制策とも類似点が見られる 16 。
さらに具体的な証拠として、天正9年(1581年)、武田勝頼が甲斐府中に新たな本拠地として新府城を築城していたのとほぼ同時期に、岩殿城の在番(城の守備)と普請(城の修築・整備)を、武田氏の監察役である横目衆の荻原豊前守に命じている記録が存在することが確認されている 15 。この事実は、岩殿城が小山田氏の管轄下ではなく、武田氏の直接的な管理下にあったことを示す強力な証拠と見なされている。
もし岩殿城が武田氏の直轄の城であったとすれば、天正10年(1582年)に武田勝頼が織田・徳川連合軍に追われて岩殿城を目指した行動は、単に家臣である小山田信茂を頼ったというよりも、自らの支配下にある戦略的拠点へ退避しようとしたと解釈することが可能になる。この場合、小山田信茂による勝頼の入城拒否は、主君に対するより直接的かつ重大な反逆行為と見なされる余地が大きくなる。さらに、武田氏が小山田氏の監視という目的も込めて岩殿城を直轄化していたとすれば、それは武田氏と小山田氏の間に潜在的な緊張関係が存在したことを示唆する。この根深い緊張関係が、武田氏が滅亡の危機に瀕した際に、信茂の最終的な決断に影響を与えた可能性も否定できないであろう。
天正10年(1582年)2月、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐が開始されると、武田方の諸城は戦わずして降伏するか、あるいは瞬く間に陥落するという状況に陥った 15 。武田一門の中でも有力な親族衆であった木曾義昌や穴山梅雪までもが織田方に寝返り、武田家の屋台骨は急速に崩壊していった 5 。
このような絶望的な状況の中、武田勝頼は同年3月3日、本拠地としていた新府城に自ら火を放って放棄した 14 。この際、重臣である真田昌幸は、自らの居城である上州岩櫃城(群馬県)への退去を進言したが、勝頼は小山田信茂らの進言(都留郡への撤退論)を受け入れ、岩殿城を目指すことを決断したとされている 15 。
勝頼が信茂の進言を採用した背景には、岩殿城が天然の要害であり堅固な城であったことへの期待や、信茂との血縁関係(信茂の母は武田信縄の娘)、そして長年にわたる主従関係への信頼があったと考えられる。しかし、この時点で既に武田軍の士気は著しく低下しており、兵の離散が相次いでいた。勝頼の周囲には、もはやわずかな手勢しか残されていなかったのである 15 。
武田勝頼一行が、最後の望みを託して岩殿城へ向かう途中、小山田信茂は突如としてその態度を豹変させ、主君である勝頼の入城を拒否した 14 。一部の史料によれば、信茂は笹子峠で勝頼一行に対して鉄砲を撃ちかけて追い払ったとさえ記されており、この行為が彼の「裏切り」を決定的なものとした 15 。
この「裏切り」に至る具体的な状況については、主要な史料間で記述に食い違いが見られる。以下にその比較を示す。
史料名 |
勝頼の岩殿山城目指す経緯 |
信茂の対応・離反時期 |
人質の扱い(信茂の母) |
裏切りとされる具体的行動 |
備考 |
甲陽軍鑑 |
信茂らの進言により岩殿城へ |
3月9日、小山田八左衛門(信茂の従弟)らが裏切り |
八左衛門らが奪取 |
勝頼一行に鉄砲を撃ちかける(八左衛門らによる) |
記述の信憑性には疑問が呈されている 19 |
甲乱記 |
(詳細な進言の記述は 17 にはなし) |
駒飼(現在の甲州市勝沼町)にて信茂の母の行方不明により、信茂の離反が発覚 |
行方不明 |
(直接的な攻撃行動の記述は 17 にはなし) |
比較的簡潔な記述 |
理慶尼記 |
(詳細な進言の記述は 17 にはなし) |
3月7日に信茂が離反 |
信茂が母を伴い自領の郡内へ逃亡 |
笹子峠に兵を出し勝頼一行の移動を阻止 |
具体的な日付を記載 |
信長公記 |
(詳細な進言の記述は 17 にはなし) |
(この段階での信茂の裏切りに関する具体的記述は 17 にはなし) |
(信茂の母に関する記述は 17 にはなし) |
(この段階での信茂の裏切りに関する具体的記述は 17 にはなし) |
勝頼が新府城で近隣諸国の人質を焼き払ったと記述 17 |
これらの史料間の記述の差異は、当時の混乱した状況や、各史料が成立した背景、編者の立場などを反映している可能性がある。特に『甲陽軍鑑』は、江戸時代に成立した軍学書であり、物語性が強く、他の一次史料に近い記録との比較検討が不可欠である。信茂の母が人質として勝頼側にいたという点は多くの史料で共通しており 17 、彼女の存在が信茂の行動に何らかの影響を与えたことは想像に難くない。裏切りの主体が信茂自身であったのか、あるいは周囲の状況に流された結果であったのか、現存する史料のみから断定することは困難である。しかし、この行動が武田勝頼の運命を決定づけたことは間違いない。
岩殿城への道を絶たれ、進退窮まった武田勝頼一行は、最後の望みを託して天目山を目指したが、その麓の田野(現在の山梨県甲州市大和町)において織田軍に追いつかれた。そして天正10年(1582年)3月11日、勝頼は嫡男の信勝らと共に自刃し、ここに戦国大名としての武田氏は滅亡した 3 。
一方、主君を見捨てた小山田信茂は、その後、織田信長に降伏し、嫡男を人質として差し出すなどして命乞いを試みた 14 。しかし、信長の嫡男である織田信忠は、信茂の主君に対する不忠義を厳しく咎め、その降伏を許さなかった 14 。武士の道に悖る裏切り行為は、特に織田家においては厳しく断罪される傾向にあった。
その結果、天正10年3月24日(『甲乱記』や長生寺の『月日過去帳』による日付 2 )、小山田信茂は甲斐善光寺において、母、妻子、そして同行していた重臣らと共に処刑された 2 。享年は43歳または44歳であったと伝えられている 2 。
信茂の死後、小山田一族のその後については、いくつかの情報が残されている。信茂の長男であった信綱は、処刑の難を逃れて相模の北条氏直に仕えた。小田原合戦で北条氏が滅亡した後は、徳川家康の次男である結城秀康に仕え、後に徳川家の旗本となった。この信綱の系統は、さらに後に陸奥の南部藩に仕えたが、江戸時代に高家として再興された武田家とは明治期に至るまで交流が続いていたという 13 。
また、信茂には香具姫(天光院殿とも呼ばれる)という養女がいた。彼女の実父は教来石左近大夫、母は信茂の娘である 3 。武田氏滅亡後、香具姫は信玄の娘である松姫に連れられて武蔵国横山村(現在の東京都八王子市)に落ち延びた。その後、彼女は磐城平藩主である内藤忠興の側室となり、嫡男の内藤義概らをもうけた 3 。
特筆すべきは、この内藤忠興と香具姫の血筋が、後に高家として公式に再興される武田家と繋がることになる点である 5 。信玄の次男・竜宝の系統である武田信正(信玄―信親―信道―信正)は、大久保長安事件に連座して流罪となった後、赦免された。その子である武田信興が高家武田家の初代となるが、この信興の母は内藤氏の娘、すなわち小山田信茂の血を引く女性であった 22 。主家を裏切った「逆臣」とされた小山田信茂の血が、形を変えて武田家の血脈の公式な存続に寄与したという事実は、歴史の皮肉とも言える複雑な縁を示している。
小山田信茂に対する歴史的評価は、長らく「逆臣」という厳しいものであった。土壇場で主君・武田勝頼を裏切り、武田家滅亡を決定づけた「不忠者」として語り継がれてきたのである 5 。この評価は、特に江戸時代以降の武家社会において重視された忠義の観念と、軍記物である『甲陽軍鑑』などの記述によって形成され、強化されてきたと考えられる 24 。
しかし近年、このような一方的な評価は見直されつつある。信茂の行動は、武田家滅亡がもはや避けられない状況下で、自らの領地である郡内とそこに住む領民を戦禍から守るための苦渋の決断であったとする「領民救済説」が、一部の研究者や郷土史家によって提唱されるようになってきた 5 。
この説の論拠としては、以下の点が挙げられる。第一に、当時の戦国領主にとって、自らの領土と領民の安全を保全することは、主君への忠誠と並び、あるいはそれ以上に重要な責務であったという点である 5 。第二に、織田・徳川連合軍の圧倒的な兵力と、抵抗する者に対しては「焼き尽くす」という苛烈な作戦方針を前にして 5 、武田方としての抵抗は無意味であり、郡内地方を戦場と化すことを避けた結果、実際に郡内の領民や神社仏閣は一切の被害を受けなかったとされている 5 。第三に、信茂が離反する以前に、武田一門の木曾義昌や穴山梅雪といった有力な親族衆も既に織田方に寝返っており、武田家の命運は事実上尽きていたという状況認識である 5 。
さらに、近年の研究では、勝頼の最後の9日間の行動が詳細に解明されつつあり、その過程で、郡内地方を通って武蔵国方面へ逃れた武田家の遺臣が多数いたことも判明してきている 5 。この事実は、信茂が必ずしも武田家の全ての家臣を敵視し、その逃亡を妨害したわけではなかった可能性を示唆しており、彼の行動の背景にある複雑な事情をうかがわせる。
「領民救済説」は、小山田信茂の行動を、戦国時代という特殊な時代のリアリズムの中で捉え直そうとする試みである。絶対的な忠誠が必ずしも最善の結果をもたらすとは限らない極限状況下で、一地域の領主としての責任をどのように果たすべきかという視点から見ると、彼の行動は単なる裏切りという言葉では片付けられない、多面的な背景を持つものとして理解され得る。
小山田信茂の故地である山梨県都留市など、旧郡内領を中心として、近年、小山田信茂公顕彰会が組織され、信茂の事績を再評価し、長年にわたる「武田家を滅ぼした男」という汚名を晴らすための活動が積極的に行われている 2 。顕彰会は、講演会の開催や史跡めぐりなどを通じて、信茂に対する新たな視点を提供し、地域史における彼の役割を正当に評価しようと努めている。
歴史研究の分野においても、小山田氏に関する新たな研究が進展している。特に歴史学者の丸島和洋氏は、国衆論や取次論といった最新の研究手法を駆使し、小山田氏一族を単なる「不忠者」という従来の評価の呪縛から解き放つことを試みている 13 。
丸島氏の著作である『郡内小山田氏―武田二十四将の系譜』(戎光祥出版) 13 などは、小山田氏の系譜、武田氏との関係性、支配領域の特質などを詳細に検討し、信茂の行動を当時の政治状況や国衆としての立場から再解釈する上で、重要な学術的貢献を果たしている。これらの研究は、小山田信茂が置かれていた複雑な状況や、彼の決断に至る背景をより深く理解するための一助となっている。
顕彰会の活動と学術研究の進展は、歴史上の人物に対する評価が固定的なものではなく、時代や視点、そして新たな史料の発見によって変化しうることを示している。小山田信茂の事例は、歴史解釈そのものが持つダイナミズムを象徴するものの一つと言えるだろう。彼の「裏切り」とされてきた行動は、単に一個人の倫理の問題として捉えるのではなく、戦国という時代の構造的な要因や、地域領主としての立場、さらには家臣団内部の力学などが複雑に絡み合った結果として理解されるべきであるという認識が広まりつつある。
小山田信茂は、武田信玄・勝頼の二代にわたり、その武勇と知略をもって仕えた重臣であり、同時に甲斐国郡内地方に強固な地盤を持つ有力な国衆でもあった。主君信玄からは「文のことは信茂に聞け」と評されるなど、その多岐にわたる能力は高く評価されていたことがうかがえる。
しかしながら、武田氏が滅亡するという未曽有の危機に際して、主君である武田勝頼の岩殿城への入城を拒否した彼の行動は、長らく「裏切り」として厳しく非難されてきた。この評価は、近年の研究や史料の再検討、そして郷土史における再評価の動きの中で、「領民救済のための苦渋の決断」であったとする見方も有力になりつつある。
現存する史料には、彼の行動について異なる記述が見られ、その真相を完全に解明することは現代においても困難である。しかし、当時の彼が置かれていた立場や周囲の切迫した状況を総合的に考慮すると、その決断は単純な忠・不忠の二元論では割り切れない、極めて複雑な背景と動機があったと推測される。
小山田信茂の生涯と、それに対する評価の変遷は、戦国時代の武将が直面した厳しい現実と、歴史的評価そのものが持つ多面性・流動性を示唆する好個の事例であると言える。今後も新たな史料の発見や研究の深化により、彼の人物像はさらに多角的に理解されていくことが期待される。
特に、彼が「国衆」として、武田氏という巨大な戦国大名とどのような関係性を築き、自領の維持と発展をどのように図ろうとしたのか、そして最終的にどのような選択を迫られたのかという視点は、戦国時代史研究において、個別の武将を超えた普遍的な問いを投げかけるものである。小山田信茂の生き様は、戦国という時代を理解する上で、引き続き多くの示唆を与えてくれるであろう。