本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた武将、小田友治(おだ ともはる)、通称を八田左近(はった さこん)として知られる人物の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に調査し、その実像に迫るものである。
彼の父は、常陸国(現在の茨城県)の小田城をめぐり幾度となく合戦を繰り返しては敗走し、「戦国最弱の大名」と揶揄されることもある小田氏治(おだ うじはる)です 1 。氏治が失われた旧領の回復という一つの目標に生涯を捧げたのに対し、その庶長子であった友治は、父とは全く異なる、流転と適応の人生を歩みました。彼は、滅びゆく主家を離れ、後北条氏、豊臣氏、そして徳川氏と、時代の覇者の下を渡り歩き、自らの才覚と人脈を頼りに激動の時代を生き抜きました。
友治の生涯は、中世的な「一所懸命」の価値観に固執した父・氏治の姿とは対照的です。彼は「小田」という名跡に縛られることなく、祖先の姓である「八田」を名乗り 5 、舟奉行や間諜といった専門技能を武器に、新たな支配体制の中で自らの存在価値を証明しようとしました。その生き様は、戦国乱世の終焉から近世武家社会の確立へと向かう、社会の大きな構造転換期を生きた一人の武士の生存戦略を鮮やかに映し出しています。本報告では、この小田友治という、著名な父の影に隠れがちな人物の生涯を丹念に追うことで、時代の変革期における武士の実像を浮き彫りにすることを目的とします。
和暦(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
天文17年(1548) |
1歳 |
小田氏治の庶長子として誕生。 |
小田氏治、芳賀貞利 |
6 |
時期不詳 |
- |
父・氏治と北条氏康の同盟に伴い、人質として小田原へ送られる。後に北条氏の家臣となる。 |
小田氏治、北条氏康 |
6 |
天正18年(1590) |
43歳 |
小田原征伐により後北条氏が滅亡。主家を失う。 |
豊臣秀吉、北条氏直 |
8 |
天正18年以降 |
43歳〜 |
速水守久の力添えで豊臣秀次に出仕。知行1000石を得る。 |
速水守久、豊臣秀次 |
7 |
文禄元年〜慶長の役(1592〜) |
45歳〜 |
朝鮮出兵において舟奉行を務める。また、東国大名の動静を探る間諜としても活動。 |
豊臣秀吉 |
6 |
時期不詳 |
- |
舟奉行としての功績により、播磨国赤穂・伊勢国羽田で合計3100石に加増される。 |
- |
7 |
文禄4年(1595) |
48歳 |
豊臣秀次事件に連座し、改易・失領。逃亡生活を送る。 |
豊臣秀吉、豊臣秀次 |
6 |
慶長3年(1598) |
51歳 |
堀尾吉晴の口添えで徳川家康に拝謁し、結城秀康に仕える。 |
堀尾吉晴、徳川家康、結城秀康 |
6 |
時期不詳 |
- |
結城家にて、嫡流である弟・守治との確執から退去。 |
小田守治 |
6 |
時期不詳 |
- |
松平定勝に仕えるが、程なくして致仕。 |
松平定勝 |
6 |
時期不詳 |
- |
奈良で隠居。後に京都東山に移り、「帰庵」と号して出家。 |
- |
6 |
慶長9年(1604) |
57歳 |
2月3日、京都にて死去。 |
- |
6 |
小田友治の人生を理解する上で、彼が属した小田氏の歴史的背景を把握することは不可欠です。小田氏は、鎌倉幕府の成立に功績を挙げた御家人・八田知家(はった ともいえ)を祖とする、由緒ある武家でした 5 。知家は宇都宮氏の一族であり、その子・知重が常陸国小田邑(現在の茨城県つくば市小田)を本拠とし、「小田」を称したことに始まります 5 。
一族は鎌倉時代を通じて常陸守護の地位を維持し、南北朝時代には南朝方の有力武将として北畠親房らを小田城に迎え入れるなど、歴史の重要な局面で大きな役割を果たしました 5 。室町時代には、その家格の高さから鎌倉公方によって「関東八屋形(かんとうはちやかた)」の一つに列せられ、関東地方における名門としての地位を確立していました 4 。
しかし、戦国時代に入ると、小田氏を取り巻く環境は厳しさを増します。北からは常陸統一を目指す佐竹氏、南からは関東全域の制覇を目論む後北条氏という、二つの強大な戦国大名の勢力圏に挟撃される形となったのです 4 。友治の父である第15代当主・小田氏治の時代には、この両勢力からの圧迫は極限に達していました。氏治は、佐竹義昭・義重父子や下総の結城政勝らとの間で、本拠地である小田城をめぐる熾烈な争奪戦を幾度となく繰り広げます 4 。彼は領民からは慕われ、城を追われてもその支援によって奪還を果たすこともありましたが、大局的に見ればその勢力は衰退の一途をたどり、常陸南部に僅かな所領を維持する一介の小大名へと転落していました 5 。友治は、まさにこの没落していく名家という、栄光と衰亡が交錯する時代の渦中に生を受けたのです。
小田友治は、天文17年(1548年)、小田氏治の長男として生まれました。しかし、彼の母は正室ではなく、氏治の側室であった芳賀喜兵衛貞利の娘(芳賀局)でした 8 。この「庶長子」という立場が、彼の運命を大きく左右することになります。
常総市に伝わる「小田家遺品」に含まれる記録によれば、友治の誕生に際し、外祖父である芳賀貞利と父・氏治との間で、「友治を嫡子とする」という約束が交わされていたとされます 8 。当時の小田氏にとって、家臣団の一員である芳賀氏の支援は、周辺勢力と渡り合う上で極めて重要でした。この約束は、その協力関係を確固たるものにするための政治的な意味合いが強かったと考えられます。友治は、生まれながらにして小田家の次期当主の座を約束された存在だったのです。
ところが、この約束は脆くも崩れ去ります。その後、氏治の正室、すなわち水戸城主・江戸但馬守忠通の娘が、男子を産んだのです 8 。この正室から生まれた男子こそ、後に彦太郎守治(ひこたろう もりはる)と名乗り、小田家の家督を継ぐことになる人物でした 8 。正統な血筋を持つ嫡男が誕生したことにより、側室の子である友治を後継者とする約束は反故にされ、彼は家督相続の権利を失いました 8 。
この一連の出来事は、友治のその後の人格形成と行動原理に決定的な影響を与えたと推察されます。単なる庶子であることと、「一度は後継者と約束されながら、その座を奪われた庶子」であることの意味は全く異なります。この経験は、彼の中に父・氏治や「小田家」という枠組みそのものに対する複雑な感情を植え付けた可能性があります。彼が後年、自らを「小田」ではなく、一族の祖である「八田」と名乗った行為 5 は、自らを拒絶した小田家ではなく、より根源的な祖先の姓を名乗ることで、自らのアイデンティティと正統性を再構築しようとした試みであったと解釈することもできるでしょう。この家督問題に端を発する屈折した感情は、後の彼のキャリア、特に弟・守治との関係において、幾度となく影を落とすことになります。
小田家における自らの立場を失った友治は、新たな活路を求めざるを得ませんでした。史料によれば、彼は祖父(母方の芳賀貞利か)と共に、父・氏治が同盟関係にあった相模国の後北条氏康を頼って小田原へ赴いたとされています 8 。これは、小田・北条間の同盟を強化するための「人質」という側面が強かったと考えられます 6 。
しかし、友治は小田原で単なる人質としての日々を送ったわけではありませんでした。彼は氏康自らの手で養育を受け、やがて正式に後北条氏の家臣として取り立てられます 7 。そして、氏康、氏政、氏直の三代にわたって仕えることになりました 6 。この後北条氏に仕えた期間に、彼は名を「八田左近」と改めたとみられます 8 。この改姓は、前章で述べたように、自らの出自を「小田」ではなく、より根源的な「八田」に求めるという、彼のアイデンティティの表明であった可能性が考えられます。
さらに彼は、母方の一族である芳賀伯耆守の娘を妻として迎えています 6 。これは、後北条氏の家臣団の中で、彼が自身の足場を固め、一定の地位を築きつつあったことを示唆しています。人質という従属的な立場から、自らの能力で家臣としての地位を確立していく過程は、彼のその後の人生を特徴づける、逆境における適応能力の高さを早くも示しています。
友治が後北条氏の家臣として過ごした天正年間(1573-1592)は、関東の政治情勢が激しく揺れ動いた時代でした。後北条氏は、常陸の佐竹氏を盟主とし、宇都宮氏、佐野氏らで構成される反北条連合軍と、関東の覇権をめぐって熾烈な抗争を繰り広げていました 13 。特に天正12年(1584年)に起きた「沼尻の合戦」は、両陣営が総力を挙げて激突した大規模な戦いとして知られています 13 。
八田左近こと小田友治も、後北条氏の家臣として、これらの数々の戦いに関与していたことは間違いありません 8 。彼の出身地である常陸や、その隣国である下野は、まさにこの抗争の最前線でした。後北条氏にとって、常陸の旧名家の出身である友治の存在は、単なる一武将以上の価値を持っていたはずです。彼が持つ常陸・下野方面の地理に関する知識、そして敵方である佐竹氏やその周辺国衆の内部事情に通じている可能性は、後北条氏の軍事作戦、特に諜報や調略活動において大いに活用されたと考えられます。
友治が後北条氏に仕えた十数年間は、決して不遇な雌伏の期間ではありませんでした。むしろ、この時期に培われた軍事的な経験と、関東の政治・地理・人物に関する深い知見こそが、彼の武将としての能力を飛躍的に高める重要な「投資期間」であったと評価できます。ここで得た「敵国に関するインテリジェンス」という無形の資産が、後北条氏滅亡後、豊臣秀吉という新たな天下人の目に留まり、彼のキャリアを再び切り拓くための最大の武器となったのです。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて関東に侵攻した「小田原征伐」により、100年にわたり関東に君臨した後北条氏は滅亡しました 17 。これにより、八田左近こと小田友治は仕えるべき主君を失い、再び流浪の身となります 8 。
しかし、この最大の危機において、彼を救ったのは過去に築いた人脈でした。史料には、彼の従兄弟であったとされる速水守久(甲斐守)の力添えによって、秀吉の甥であり、当時関白の地位にあった豊臣秀次に仕えることができたと記されています 8 。速水守久は、秀吉の近習から後に秀頼の側近である七手組頭の一人に数えられるほどの、豊臣政権の中枢に近い人物でした 19 。この速水守久との血縁、あるいはそれに準ずる親密な関係が、滅亡した北条氏の旧臣という不利な立場にあった友治にとって、政権中枢にアクセスするための極めて重要な生命線となったのです。
こうして友治は、豊臣秀次の家臣となり、1000石の知行を与えられて、武将としてのキャリアを再スタートさせました 6 。この仕官は、彼の人生における大きな転機であり、彼の能力が中央政権の舞台で発揮されるきっかけとなりました。
豊臣政権に仕えた友治は、文禄・慶長の役(1592-1598年の朝鮮出兵)において、「舟奉行(ふなぶぎょう)」という重責を担います 6 。この役職は、単に水軍を率いて海戦を行うだけでなく、より広範な兵站管理をその任務としました。
当時の日本軍は、総勢16万人以上ともいわれる大軍を朝鮮半島へ派遣しており、その作戦行動を支えるためには、肥前名護屋城(現在の佐賀県唐津市)を拠点として、朝鮮半島との間で兵員、兵糧、弾薬、武具といった膨大な物資を滞りなく海上輸送する必要がありました 22 。舟奉行は、この国家規模の兵站、すなわちロジスティクスの責任者であり、作戦の成否そのものを左右する極めて重要な役割でした 25 。友治がこの役職に抜擢されたことは、豊臣政権が彼の能力を高く評価していたことの証左と言えます。
友治はこの大役を見事に果たし、その功績によって加増を受けました。彼は播磨国赤穂(現在の兵庫県赤穂市周辺)および伊勢国羽田(はだ、現在の三重県いなべ市周辺か)において、合計3100石の所領を与えられたと記録されています 6 。特に伊勢国の羽田郷については、自らの姓である「八田」と音が通じることから、地名を「八田村」と改めさせたと伝えられています 6 。この逸話は、彼が自らの手で築き上げた新たな所領に、自身のアイデンティティを強く刻み込もうとした意志の表れとして、非常に興味深いものです。
舟奉行としての公務と並行して、友治は豊臣秀吉のために、より機密性の高い任務にも従事していました。史料には、彼が「帰郷と称して東国に出入りし、東国大名の動静を秀吉に伝える、間諜としての行動もとっている」と記されています 6 。
これは、第二章で考察した通り、彼の後北条氏家臣としての経験が最大限に活かされた役割でした。天下統一を果たした秀吉にとって、旧北条領やその周辺に広大な領地を持つ伊達政宗や佐竹義重といった有力大名の動向は、政権安定化における最大の懸念事項でした。これらの東国大名が徳川家康と結びつく可能性を常に警戒していた秀吉にとって、友治のような現地の内部事情に精通した情報提供者は、まさに不可欠な存在だったのです 29 。
彼の知行が3100石という、一介の武将としては決して低くない禄高であった背景には、舟奉行としての公的な功績だけでなく、この種の諜報活動に対する報酬も含まれていたと考えるのが妥当でしょう。彼は、表の顔(舟奉行)と裏の顔(間諜)を使い分けることで、豊臣政権内部で自らの地位を確固たるものにしていったのです。
順風満帆に見えた友治のキャリアは、文禄4年(1595年)、突如として暗転します。彼の主君であった関白・豊臣秀次が、叔父である太閤・秀吉から謀反の嫌疑をかけられ、高野山で切腹を命じられるという「秀次事件」が勃発したのです 33 。
この事件は、秀吉に実子・秀頼が誕生したことに伴う後継者問題が引き起こした、豊臣政権最大の内部抗争でした 34 。秀次の粛清は、彼の妻子や近臣たちにも及び、多くの大名や武将が連座して処罰されました。秀次の家臣であった友治も例外ではなく、この事件に連座して全ての所領を没収され、改易処分となってしまいます 5 。彼は再び全てを失い、処罰を逃れるために逐電(ちくでん)、すなわち身を隠し、逃亡生活を送ることを余儀なくされました。
友治の失脚は、彼個人の能力や忠誠心に問題があったわけではありません。むしろ、豊臣政権が抱えていた後継者問題という構造的な欠陥の、直接的な犠牲者であったと言えます。秀次への仕官は彼に飛躍の機会を与えましたが、その主従関係こそが、彼のキャリアを根底から覆す最大のリスクでもありました。特定の個人への忠誠が自らの運命を左右するという、戦国的な主従関係の危うさが、この事件によって如実に示されたのです。友治の栄達と失脚の物語は、秀吉個人の意向に過度に依存し、極めて不安定であった豊臣政権の権力基盤の脆弱性を象徴する一つの事例として位置づけることができます。
秀次事件による失脚と逃亡生活を経て、友治は慶長3年(1598年)、再び再起の機会をうかがいます。彼が頼ったのは、またしても過去の人脈でした。かつて豊臣秀次の付家老を務め、事件には連座しなかった堀尾吉晴(当時は茂助)の口添えにより、天下の実権を掌握しつつあった徳川家康への拝謁が実現します 8 。
家康は、友治の経歴と能力を評価し、自身の次男である結城秀康の家臣として召し抱えることにしました 6 。結城秀康は、友治の父・氏治の娘を側室として迎えており、小田氏とは縁戚関係にありました 4 。この縁も、友治の再仕官を後押ししたと考えられます。
しかし、この結城家への仕官は、友治に新たな苦悩をもたらします。結城家には、父・氏治と共に秀康の客分となっていた弟の小田守治も仕えていました 4 。守治は、小田家の家督を継いだ「嫡流」です。一方、友治は一度家を出て、他家に仕え、自力でキャリアを築いてきた「庶流」でした。一つの家臣団の中に兄弟が組み込まれたことで、彼らの間に存在した序列と確執の問題が、ここで一気に表面化します。
史料によれば、友治は「守治が嫡流にあたることからその家臣になるよう迫られ、結局結城家を退去するに至った」とされています 6 。これは単なる兄弟喧嘩ではなく、徳川の世が到来し、家格や血統といった「家」の秩序が再編されていく中で生じた、深刻な対立でした。自らの功績と能力で禄を得てきた友治にとって、嫡流であるという理由だけで弟の下に付くことは、そのプライドが許さなかったのでしょう。庶子として家督を奪われた過去の記憶も、彼の決断に影響したのかもしれません。こうして、兄弟の絆は「家」の論理の前に、最終的に引き裂かれることになりました。
結城家を自ら去った友治は、なおも仕官の道を模索します。彼は再び小田家や結城家との縁を頼り、徳川家康の異父弟であり、当時、伊勢国桑名藩主であった松平定勝に仕えることになりました 6 。
松平定勝は家康の信頼厚い重臣であり、その家臣団に加わることは、友治にとって安定した地位を得る最後の機会であったかもしれません。しかし、この仕官も長くは続かず、彼は程なくして致仕、すなわち自ら職を辞しています 6 。その具体的な理由は史料に残されていませんが、度重なる主家の変転と、弟との確執に疲弊した彼の心境が窺えます。この致仕は、彼の波乱に満ちた武将としてのキャリアが、事実上の終焉を迎えたことを意味していました。
全ての公職から身を引いた友治は、大和国奈良で隠居生活を送りました。その後、京都の東山に移り住む際に正式に出家し、「帰庵(きあん)」と号したと伝えられています 6 。後北条氏の家臣として始まり、豊臣政権下で栄達と失脚を経験し、徳川の世で再起を図りながらも流転の人生を送った彼が、最終的に選んだのは、俗世を離れた静かな余生でした。
慶長9年(1604年)2月3日、友治は京都の地でその生涯を閉じました。享年57歳でした 6 。彼の法名は「南岳院殿磨甎道安大居士(なんがくいんでん ませんどうあん だいこじ)」とされています 6 。その名は、彼の波乱に富んだ人生を静かに物語っているかのようです。
小田友治の死後、彼の息子たちは父とは異なる形で、それぞれの時代の荒波に立ち向かいました。長男・義治は父の無念を晴らすべく滅びゆく豊臣家に殉じ、次男・友重は新たな支配体制の中で家名を存続させる道を選びます。彼らの対照的な生き様は、戦国が終わり、新たな秩序が形成される中で、旧家の武士たちが直面した厳しい選択を象徴しています。
友治の嫡子であった小田義治(よしはる)は、父が果たせなかった夢、すなわち小田家の再興を自らの手で成し遂げようとしました 28 。彼は、徳川の世にあって、敢えて豊臣方につくという茨の道を選びます。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、義治は叔父にあたる速水守久を頼って大坂城に入り、豊臣秀頼に仕えました 8 。その際、「大坂方が勝利した暁には、先祖代々の地である常陸国の旧領を回復させる」という約束を取り付けたと伝えられています 28 。この約束を信じ、彼は常陸や全国各地から小田氏の旧臣を多数集め、豊臣軍の一翼を担って奮戦しました 39 。
翌年の大坂夏の陣では、激戦の中で負傷しながらも、奇跡的に生き延びます 28 。しかし、ご存知の通り大坂城は落城し、豊臣家は滅亡。義治の夢は潰えました。戦後、彼は安芸広島藩主・福島正則に客分として招かれますが、その翌年の元和2年(1616年)、志半ばで病死しました 39 。彼の死は、武力による旧領回復という、戦国的な価値観に殉じた悲劇的な結末であり、友治の家系のひとつの可能性がここで途絶えたことを意味します。
一方、友治の次男であった小田友重(ともしげ)は、兄・義治とは全く対照的な、現実的で粘り強い生存の道を歩みました。彼は早くから後北条氏の家臣・宇都宮為明の養子となっていましたが 6 、小田原落城後は独自の道を模索します。
関ヶ原の戦いでは、東軍の徳永寿昌の陣に加わり 42 、戦後は父や兄も頼った親戚の縁を辿って、伊勢桑名藩主・松平定勝の客分となりました 42 。彼は兄のように旧領回復の夢を追うのではなく、新たな支配者である徳川幕府の体制下で、いかにして小田家を再興し、家名を存続させるかに心血を注ぎます。元和3年(1617年)には、幕府に対して自らが小田氏の正統な嫡流であることを主張する「書状草案」を提出し、立身出世を図った形跡も見られますが、これは残念ながら実現しませんでした 42 。
注目すべきは、彼が武士としての技能を磨き続けた点です。友重は、甲州流軍学の祖として名高い小幡景憲(おばた かげのり)の高弟であった小早川能久に師事し、兵法を学んでいます 8 。これは、血筋や家格だけでなく、実学としての兵法を身につけることで、新たな時代を生き抜こうとする彼のしたたかな姿勢を示しています。
最終的に、友重が選んだ現実的な路線は実を結びます。彼の家系は、父・友治も一時仕えた松平定勝・定行親子に正式に仕官し、藩主の伊勢桑名から伊予松山(現在の愛媛県松山市)への転封にも従い、伊予松山藩士として定着することに成功しました 8 。
友重の子孫である八田朝栄(はった ともひで)や小田成朝(おだ なりとも)も代々松山藩に仕え、友重が学んだ甲州流軍学を継承し、藩内で兵法家としての地位を確立しました 8 。
この友重の家系の存続は、歴史を研究する我々にとって、極めて重要な意味を持ちます。本報告書で頻繁に参照している、友治の生涯に関する詳細な記録を含む貴重な史料群「小田家遺品」は、まさにこの伊予松山藩士となった友重の子孫たちによって、大切に保管され、現代に伝えられたものなのです 8 。もし、兄・義治のように豊臣家に殉じる道を選んでいれば、これらの貴重な記録は歴史の渦に呑まれ、散逸していた可能性が非常に高いでしょう。現実と折り合いをつけ、新たな支配体制の中で藩士として生きる道を選んだ友重の家系こそが、結果として一族の歴史を後世に伝えるという、計り知れない役割を担ったのです。家の「存続」が、歴史の「記録」を可能にした、稀有な事例と言えるでしょう。
小田友治の生涯を総括すると、彼は戦国時代から江戸時代への移行期という、日本の歴史における大きな断層を体現した人物であったと言えます。彼の父・氏治が、失われた領地という具体的な「土地」に固執し、中世的な「一所懸命」の理念に生きた最後の世代の武将であったとすれば、友治は、その価値観から脱却し、新たな時代を生き抜いた、近世的武士の先駆けともいえる存在でした。
庶子として生まれ家督を継げなかったという出自は、彼に「小田家」という枠組みに依存しない生き方を強いました。後北条氏の家臣として過ごした青年期は、彼に関東の情勢に通じた諜報能力という専門技能を与え、それが豊臣政権下での飛躍の礎となりました。舟奉行としての活躍は、彼に大名に準ずるほどの禄高をもたらしましたが、その栄光は主君・秀次の失脚と共に脆くも崩れ去ります。彼のキャリアの浮沈は、豊臣政権の権力構造がいかに個人の意向に左右される不安定なものであったかを物語っています。
徳川の世が到来すると、彼は再び仕官の道を探りますが、嫡流である弟との確執の末に結城家を去り、最後の仕官先であった松平家も程なくして辞するなど、その晩年は平穏とは言い難いものでした。しかし、彼の息子たちの世代になると、その家系は伊予松山藩士として確固たる地位を築き、家名を未来へと繋いでいきます。
小田友治の人生は、主家を乗り換え、自らの技能と人脈を駆使して中央政権を渡り歩いた、一人の武将の流転の物語です。それは同時に、戦国乱世の終焉と、血統や家格が厳格に序列化される江戸幕藩体制の確立という、巨大な社会変動の中で、無数の武士たちがいかにして生き残り、家を存続させようとしたかの、貴重なドキュメントでもあります。「戦国最弱」と評される父の影に隠れた彼の生涯に光を当てることは、歴史の勝者だけでなく、時代に翻弄されながらも、したたかに、そして必死に生き抜いた人々の姿を、我々に示唆してくれるのです。
人物名 |
読み |
友治との関係 |
概要 |
小田 氏治 |
おだ うじはる |
父 |
常陸の戦国大名。「戦国最弱」と評されるが、何度も小田城を奪還した。 |
小田 守治 |
おだ もりはる |
異母弟 |
氏治の嫡男。父と共に結城秀康に仕える。友治と確執があった。 |
芳賀 貞利 |
はが さだとし |
母方の祖父 |
小田氏家臣。友治を嫡子とする約束を氏治と交わしたとされる。 |
北条 氏康 |
ほうじょう うじやす |
旧主君 |
後北条氏3代目当主。友治を人質として預かり、養育したとされる。 |
北条 氏直 |
ほうじょう うじなお |
旧主君 |
後北条氏5代目当主。友治は氏直の代まで仕えた。 |
豊臣 秀吉 |
とよとみ ひでよし |
主君 |
天下人。小田原征伐後、友治を間諜や舟奉行として用いた。 |
豊臣 秀次 |
とよとみ ひでつぐ |
主君 |
秀吉の甥で関白。友治は秀次の家臣となるが、秀次事件に連座し失脚。 |
速水 守久 |
はやみ もりひさ |
従兄弟(とされる) |
豊臣氏家臣。友治の豊臣政権への仕官や、その子・義治の大坂城入りを助けた。 |
堀尾 吉晴 |
ほりお よしはる |
仲介者 |
豊臣氏家臣。秀次事件で失脚した友治が、徳川家康に拝謁するのを仲介した。 |
徳川 家康 |
とくがわ いえやす |
主君の主君 |
江戸幕府初代将軍。友治を自身の次男・結城秀康に預けた。 |
結城 秀康 |
ゆうき ひでやす |
主君 |
家康の次男。友治は一時彼に仕えるが、弟・守治との確執で退去。 |
松平 定勝 |
まつだいら さだかつ |
主君 |
家康の異父弟。友治が最後に仕えた主君。友治の次男・友重も仕えた。 |
小田 義治 |
おだ よしはる |
長男 |
友治の嫡子。大坂の陣で豊臣方として戦うも、戦後、広島で病死。 |
小田 友重 |
おだ ともしげ |
次男 |
友治の次男。松平定勝に仕え、伊予松山藩士として家名を存続させた。 |