少弐頼尚は南北朝時代の九州武将。足利尊氏を助け多々良浜で勝利するも、九州探題と対立。南朝と結ぶなど変節を重ね、筑後川合戦で大敗し没落した。
南北朝時代の九州史を語る上で、少弐頼尚(しょうに よりひさ、1294年 - 1371/72年) 1 という武将の存在は無視できない。彼は、室町幕府の創始者である足利尊氏が九州へ西走した際にいち早く馳せ参じ、多々良浜の戦いで尊氏を勝利に導いた最大の功労者として知られる。その一方で、幕府が設置した九州探題と激しく対立し、足利家の内紛(観応の擾乱)に乗じて尊氏に反旗を翻し、ついには宿敵である南朝方と手を結ぶなど、その生涯は変節と裏切りの連続であったかのように見える。
果たして、少弐頼尚は足利尊氏を支えた忠実な功臣だったのか、あるいは自己の権益のためだけに幕府や南朝を渡り歩いた野心的な策略家だったのか。従来の評価は、この両極端の間で揺れ動いてきた。しかし、彼の行動を一貫した視点から捉え直すことで、新たな人物像が浮かび上がってくる。本稿では、頼尚の全ての行動原理が「九州における少弐氏の伝統的権威と自立性の維持」という一点に集約されると仮定し、その生涯を再検証する。
本稿はまず、少弐氏が九州で築き上げた特異な地位とその歴史的背景を概観する。次に、父・貞経の時代に顕在化した鎌倉幕府末期の動乱と、そこで培われた少弐氏の政治的現実主義を分析する。続いて、頼尚の家督相続と足利尊氏との共闘、そして栄光の頂点であった多々良浜の戦いを詳述する。さらに、幕府成立後の九州探題との構造的対立、観応の擾乱における彼の複雑な立場変遷、そして没落の引き金となった筑後川合戦での決定的敗北へと筆を進める。最後に、彼の晩年と、その死後に息子・冬資を襲った悲劇を通じて、頼尚の生涯が持つ歴史的意味を考察し、その評価を試みたい。
少弐頼尚の行動を理解するためには、まず彼が背負っていた「少弐氏」という家門の特殊な歴史と権威を把握する必要がある。
少弐氏の歴史は、鎌倉時代初期、武藤資頼が源頼朝によって大宰府の次官である大宰少弐(だざいのしょうに)に任命されたことに始まる 3 。資頼の出自は藤原秀郷流とも道長流ともいわれ諸説あるが 3 、重要なのは、彼が平家方から源氏方に転じた後に頼朝から抜擢され、九州統治の要である鎮西奉行として、また北部九州諸国の守護として絶大な権力を与えられたという事実である 3 。
資頼の子・資能の代から、一族はその官職名を家名とし、「少弐氏」を称するようになった 3 。これは単なる名称の変更ではない。古代律令制以来、九州統治の中心であった大宰府の権威を、武家として世襲的に継承することを意味した。この「大宰少弐」という官職こそが、他の九州御家人とは一線を画す、少弐氏の特別な権威の源泉となったのである 6 。
少弐氏の名声を不動のものとしたのが、二度にわたる元寇(文永の役・弘安の役)であった。時の当主・少弐資能は、大宰府の責任者として、子である経資や景資ら一族を率い、来襲したモンゴル帝国の大軍と最前線で対峙した 3 。
弘安の役では、経資の子・資時が壱岐島で壮絶な戦死を遂げ、総指揮官であった資能自身もこの戦いで受けた傷がもとで亡くなるなど、少弐一族は日本全体の国難を一身に引き受ける形で多大な犠牲を払った 3 。この比類なき功績と犠牲により、少弐氏は「国を救った英雄」として九州武士団の中で絶大な名誉と権威を獲得した。戦後、恩賞として筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護職を兼任するに至り、その勢力は最盛期を迎えた 3 。
元寇における輝かしい戦功は、少弐氏に広大な所領だけでなく、他のいかなる御家人も持ち得ない「名誉」という無形の資産をもたらした。九州の他の有力守護である大友氏や島津氏と比較しても、少弐氏の家格は一段高いものと自他共に認識されていた 9 。この経験は、少弐氏の中に「我々こそが九州の真の支配者である」という強烈な自負心を醸成した。
この自負心こそが、後に少弐氏の「宿命」となる。彼らは、鎌倉幕府が設置した鎮西探題や、後に足利幕府が派遣する九州探題など、中央から送られてくるいかなる統治機関をも、自らの権威を脅かす存在と見なすようになった。彼らの後の時代の反抗的な行動は、単なる領土欲や権力欲から生じたものではなく、元寇の英雄として九州統治を担ってきたという自負心と、中央の代理人との根本的な立場の違いに根差していたのである。元寇の栄光は、皮肉にも、後の時代における不服従の精神的支柱となったのであった。
頼尚が家督を継ぐ直前の時代、父・貞経の行動は、鎌倉幕府末期の混乱と、その中で生き残りを図る少弐氏の姿を象徴している。
少弐貞経(1272年 - 1336年) 10 は、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨を奉じて挙兵した肥後の菊池武時が鎮西探題を攻撃した際、当初は幕府への忠誠を示した。彼は探題の北条英時や大友貞宗と協力し、逆に菊池武時を攻め滅ぼしている 11 。
しかし、京都や関東で反幕府勢力が優勢であると知るや、貞経は即座に態度を豹変させる。今度は大友氏らと共に北条英時を攻撃し、鎮西探題を滅亡に追い込んだのである 3 。この一連の行動は、日和見主義的とも言えるが、激動の時代を生き抜くための冷徹な現実判断であった。この貞経の決断は、一方で菊池氏との間に消しがたい遺恨を生み、他方で息子の頼尚に「絶対的な忠誠よりも、時勢を読み、一族の実利を優先する」という政治的処世術を身をもって教える結果となった。
後に見られる少弐頼尚の複雑な立場変遷は、彼の独創によるものではない。それは、父・貞経が示した行動様式を色濃く受け継いだものであった。貞経が「幕府方」から「討幕方」へと転じたように、頼尚もまた、後の生涯で「北朝」から「直冬方」、さらには「南朝方」へと立場をめまぐるしく変えていく。
この父子の行動の根底に流れるのは、特定の思想や大義名分への固執ではなく、「九州という中央から離れた地で、名門・少弐氏の権益と自立をいかにして維持するか」という、極めて現実的な目的意識であった。父から子へと受け継がれたこのリアリズムこそが、南北朝の動乱期における少弐氏の行動を理解する鍵となる。
父・貞経の劇的な死と共に、少弐頼尚は歴史の表舞台に登場する。彼のキャリアは、足利尊氏という時代の寵児との出会いによって、輝かしい頂点を迎えることとなる。
建武3年(1336年)、建武政権に反旗を翻した足利尊氏は、京での戦いに敗れ、再起を図るべく九州へと西走した。この報を受けた頼尚は、尊氏を迎え入れるため、自ら兵を率いて長門国赤間関(現在の山口県下関市)へと赴いた 3 。
しかし、この主君不在の隙を、南朝方についた菊池武敏が見逃さなかった。菊池軍は、父・貞経が守る大宰府を急襲。貞経は宝満山中腹の有智山城に籠城して抵抗するも、城兵の内応によって敗れ、自刃に追い込まれた 12 。この悲報は、頼尚が家督を相続すると同時に、「父の仇である菊池氏への復讐」という強烈な個人的動機を背負うことを意味した。
尊氏の軍勢は当初わずか500騎、頼尚の兵を合わせても2,000騎ほどに過ぎなかった 16 。対する菊池武敏の軍勢は数万を数え、戦況は圧倒的に不利であった。同年3月2日、両軍は多々良浜(現在の福岡市東区)で激突する 18 。
頼尚率いる少弐軍にとって、この戦いは単なる勢力争いではなく、父の仇を討つ復讐戦であった。その士気は極めて高かったと想像に難くない 20 。折しも、強風が菊池軍に向かって吹き荒れ、砂塵が敵の視界を奪うという天運も味方した 20 。足利・少弐連合軍は、この好機を逃さず猛攻を仕掛け、奇跡的な大勝利を収めた。
この多々良浜の戦いは、窮地に陥った尊氏を蘇らせ、後の室町幕府成立を決定づけた、日本史における重要な転換点であった。頼尚はこの後、尊氏に従って東上し、湊川の戦いでも楠木正成軍と戦って軍功を挙げるなど、幕府創設に絶大な貢献を果たした 1 。この時期、頼尚は紛れもなく、その栄光の頂点に立っていた。
足利尊氏と共に天下を再編した少弐頼尚であったが、その栄光は新たな対立の火種を内包していた。
幕府成立後、頼尚は多々良浜での戦功を筆頭とする一連の功績により、筑前・豊前・肥後・対馬の四ヶ国の守護職を与えられた 1 。これにより、少弐氏の権勢は元寇直後をもしのぐ絶頂期を迎えた。
しかし、尊氏は九州統治を盤石にするため、腹心の一色範氏(法名・道猷)を九州探題として派遣した 18 。九州探題は、地域の軍事・行政権を統括する幕府の出先機関であり、その設置は、頼尚ら在地守護の権力を掣肘することを意味した。これが、頼尚と幕府中央との間に、修復不可能な亀裂を生むことになる。
元寇以来、九州の事実上の支配者として君臨してきたという自負を持つ頼尚にとって、外部から派遣されてきた探題の指揮下に入ることは、到底受け入れがたい屈辱であった 21 。頼尚は自由に兵を動員できる軍事力を保持する一方、九州全体の政治的権限は探題である一色範氏が握るという、いびつな権力の二重構造が生まれた 21 。
両者の衝突は必然であった。頼尚は範氏の命令に従うことを潔しとせず、ことごとく非協力的な態度をとった。これに業を煮やした範氏は、幕府に対して九度にもわたり辞職を願い出たと伝えられるほど、両者の関係は険悪であった 21 。この対立を通じて、頼尚の幕府中央に対する不信感は決定的なものとなり、彼は新たな活路を模索し始める。
幕府中央で足利尊氏と弟・直義の対立(観応の擾乱)が勃発すると、九州の政治情勢はさらに複雑化する。この混乱の中で、頼尚は一族の自立を賭けて、大胆かつ危険な政治的選択を繰り返した。
観応元年(1350年)頃、直義の養子である足利直冬が、尊氏との争いに敗れて九州へ下向してきた。頼尚はこれを、長年の宿敵であった九州探題・一色範氏(尊氏方)を排除する絶好の機会と捉えた。彼は直ちに直冬に接近し、自らの娘を嫁がせて婿として迎え入れ、明確に反尊氏方へと転じたのである 22 。
この時点で頼尚の主目的は、もはや北朝と南朝のどちらに与するかというイデオロギーの選択ではなかった。彼の狙いはただ一つ、九州における幕府の直接支配の象徴である一色氏を駆逐し、少弐氏が主導権を握ることであった。
直冬の勢力が衰え始めると、頼尚はさらに驚くべき行動に出る。正平8年(1353年)から数年間にわたり、彼は父の仇である菊池氏が中核をなす南朝の征西府(せいせいふ)と連携したのである 22 。この事実は、彼が南朝の年号である「正平」を使用した書状を残していることから確認できる 22 。
この一見、矛盾した行動も、「九州における幕府勢力への対抗」という一貫した目的から見れば、合理的な選択であった。彼は、利用できる勢力はたとえ宿敵であろうとも利用し、共通の敵である一色氏の残党勢力を一掃しようとしたのである 24 。しかし、この奇妙な同盟は長続きしなかった。豊前国の所領をめぐる問題で征西府とも対立し、頼尚は守護職を解任されるなど、結局は孤立を深めていった 1 。
表1:少弐頼尚の立場変遷(観応の擾乱期)
時期 |
所属勢力 |
主な敵対勢力 |
動機・背景 |
~1349年頃 |
北朝(足利尊氏方) |
南朝(菊池氏など) |
幕府創設の功臣としての立場。 |
1350年~ |
足利直冬方 |
北朝(九州探題・一色氏) |
九州における幕府権力(一色氏)の排除。 |
1353年~ |
南朝(征西府)方 |
北朝(一色氏残党) |
一色氏勢力の一掃のため、宿敵と一時的に連携。 |
1358年頃~ |
北朝(幕府方)へ復帰 |
南朝(征西府・菊池氏) |
征西府との対立、および九州の覇権を巡る最終対決へ。 |
この時期の頼尚の行動は、九州において「幕府中央(探題)」と「南朝(菊池氏)」という、二つの強大な勢力に挟撃されるという絶望的な状況から生まれたものであった。彼は、一方と結んで他方を叩くという綱渡りの外交戦略を展開したが、それは根本的な解決にはならず、自らの勢力基盤を消耗させるだけの結果に終わった。彼の行動は、九州の自立を目指した「第三勢力」の長としての、必然的かつ悲劇的な選択の連続であったと言える。彼は二正面作戦を強いられ、戦略的に袋小路へと追い詰められていったのである。
めまぐるしい変節の末、再び幕府方へ復帰した少弐頼尚を待っていたのは、九州の覇権を賭けた、南朝勢力との最終決戦であった。
九州で勢力を拡大し続けた南朝方の征西将軍宮懐良親王(かねよししんのう)と、その大将である菊池武光は、ついに九州全土の制圧に乗り出した。これに対し、頼尚は大友氏時ら北朝方の諸将と連合し、南朝軍を迎え撃つべく筑後国へと進軍した 6 。
正平14年/延文4年(1359年)8月、両軍は九州最大の大河である筑後川を挟んで対峙した。世に言う「筑後川合戦」、あるいは主戦場の地名から「大保原(おおほばる)の戦い」と呼ばれる、九州の歴史上最大規模の合戦の火蓋が切られたのである 7 。
軍記物によれば、少弐・大友連合の北朝軍は約6万、対する菊池武光率いる南朝軍は約4万と、兵力では北朝方が優勢であったとされる 25 。しかし、菊池武光は稀代の戦術家であった。彼は夜陰に乗じて決死隊に川を渡らせ、少弐軍の本陣を強襲させるという奇策を用いた 26 。さらに、別働隊を敵の背後に回り込ませるなど、巧みな用兵で数に勝る北朝軍を翻弄した 28 。
頼尚率いる北朝軍はこの奇襲に対応できず、大混乱に陥り総崩れとなった。懐良親王自身も三箇所の傷を負うほどの激戦であったが、結果は南朝方の圧倒的な勝利に終わった 27 。この歴史的な大敗により、頼尚は本拠地である大宰府を追われ、九州における少弐氏の支配力と権威は、決定的に失墜したのである 1 。
表2:主要合戦における両軍の比較
項目 |
多々良浜の戦い |
筑後川の戦い(大保原の戦い) |
年月日 |
延元元年/建武3年3月2日 |
正平14年/延文4年8月 |
少弐方 |
総大将: 足利尊氏、少弐頼尚 兵力: 約2,000 |
総大将: 少弐頼尚、大友氏時 兵力: 約6万 |
敵方 |
総大将: 菊池武敏(南朝) 兵力: 数万 |
総大将: 懐良親王、菊池武光(南朝) 兵力: 約4万 |
結果 |
少弐(足利)方の圧勝 |
少弐(北朝)方の大敗 |
意義 |
足利尊氏の再起、室町幕府成立の礎 少弐頼尚の権勢の頂点 |
南朝方の九州制覇 少弐氏の決定的没落 |
筑後川での大敗は、少弐頼尚の政治生命に事実上の終止符を打った。そして、彼の死後、少弐氏にはさらなる悲劇が待ち受けていた。
筑後川合戦の後、本拠地の大宰府を南朝方に奪われた頼尚は、豊後国へ逃れ、かつての同盟者であった大友氏のもとに身を寄せたとされる 1 。その後の彼の足跡は定かではない。京都に滞在したという説や、建徳2年/応安4年(1371年)、大宰府で討死したという説 1 もあるが、いずれにせよ、九州における政治的影響力を完全に失ったまま、78歳でその波乱の生涯を閉じた。
頼尚の死後、家督を継いだ嫡男・少弐冬資の時代、幕府は九州の南朝勢力を掃討すべく、新たな九州探題として今川了俊(貞世)を派遣した。了俊は優れた武将であると同時に、冷徹な策略家でもあった。
永和元年/天授元年(1375年)、了俊は南朝方の菊池氏を討伐するためと称し、九州の諸将を肥後国水島(現在の熊本県菊池市七城町)の陣に招集した 30 。かつての父と同様、幕府の探題に不信感を抱く冬資は当初参陣をためらったが、薩摩の島津氏久の仲介もあって、やむなく水島の陣へと赴いた 31 。
しかし、これは了俊の罠であった。了俊は冬資を歓迎する宴を催すと、その席上で家臣に命じて冬資を謀殺させたのである 33 。この「水島の変」と呼ばれる卑劣な騙し討ちにより、少弐氏は再起の核となるべき当主を失い、その力は完全に削がれることとなった。
少弐冬資の謀殺は、単なる一族の悲劇的な後日談ではない。それは、父・頼尚が生涯を通じて抱き続けた「中央権力(探題)への根源的な不信」が、決して杞憂ではなかったことを残酷な形で証明した事件であった。今川了俊という有能な探題は、九州を恒久的に安定させるためには、常に抵抗勢力の筆頭となりうる名門・少弐氏の首領を、いかなる手段を用いてでも排除する必要があると判断した。この謀殺は、頼尚がその生涯を賭して求めた「九州の自立」という夢が、中央集権化を進める室町幕府の論理の前には決して容認されないものであったことを、決定的に示したのである。
少弐頼尚の生涯は、単なる変節と没落の物語として片付けるべきではない。それは、元寇以来の栄光と誇りを背負う九州の名門が、室町幕府という新たな中央集権体制の確立という時代の大きな潮流に抗い、一族の伝統と自立性を守るために戦い抜いた、壮絶な記録である。
彼の行動は、父・貞経から受け継いだ政治的現実主義に貫かれており、その目的は終始一貫して「九州における少弐家の権益維持」にあった。彼は時代の激流の中で、幕府、足利直冬、そして南朝という、利用可能なあらゆるカードを駆使して生き残りを図った。しかし、最終的には「中央から派遣された探題」と「在地で勢力を拡大する菊池氏」という二つの強大な勢力に挟撃される二正面作戦を強いられ、力尽きた。
少弐頼尚は、時代の転換期において、地方の自立性を代表する勢力として中央権力に挑み、そして敗れ去った悲劇の当主として評価されるべきである。彼の戦いと、その子・冬資の非業の最期は、中世における中央と地方の権力闘争の厳しさと非情さを、今に伝えている。
少弐頼尚の生涯をたどる上で重要な史跡は、現在の福岡県と熊本県に点在している。