本報告書では、戦国時代から江戸時代前期にかけて薩摩藩島津氏の重臣として活躍した山田有栄(やまだ ありなが)の生涯と業績について、現存する史料に基づき詳細に明らかにする。有栄は、関ヶ原の戦いにおける勇猛な撤退戦や、出水地頭としての善政、特に「出水兵児」の育成などで知られるが、その実像については多角的な検討が必要である。本報告書は、彼の出自、軍事行動、統治政策、人物像などを包括的に記述し、歴史における位置づけを考察することを目的とする。
山田有栄 略年表
年代(西暦) |
和暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
1578年 |
天正6年7月3日 |
1歳 |
生誕 |
1 |
1587年 |
天正15年 |
10歳 |
豊臣秀長の軍に父・有信が降伏し、人質として差し出される |
2 |
- |
文禄・慶長の役 |
- |
朝鮮へ従軍し武功をあげる |
1 |
1598年 |
慶長3年 |
21歳 |
大隅国福山の地頭に任じられる |
2 |
1599年 |
慶長4年 |
22歳 |
庄内の乱にて福山衆を率いて出陣(山田陣) |
2 |
1600年 |
慶長5年 |
23歳 |
関ヶ原の戦いに参陣。島津義弘の撤退を助け活躍 |
2 |
1629年 |
寛永6年 |
52歳 |
薩摩国出水地頭に任じられる |
1 |
1636年 |
寛永13年 |
59歳 |
島津家久(忠恒)の家老職を拝命 |
3 |
1637年-1638年 |
寛永14年-15年 |
60-61歳 |
島原の乱において薩摩藩総大将として参陣 |
3 |
1638年 |
寛永15年 |
61歳 |
「児請」の次第を定める |
6 |
1640年 |
寛永17年 |
63歳 |
藩主島津光久に出水の「六組十外城の制度」を披露し称賛を受ける |
7 |
1650年 |
慶安3年 |
73歳 |
家老職を辞任 |
3 |
1668年 |
寛文8年9月2日 |
91歳 |
出水郷軸谷にて病死 |
1 |
山田有栄は、天正6年7月3日(1578年8月6日)に生を受け、寛文8年9月2日(1668年10月7日)に91歳という長寿を全うして没した 1 。彼の生きた時代は、織田信長や豊臣秀吉による天下統一事業から江戸幕府の成立と安定期に至る、日本史における大きな転換期と重なる。91年という長い生涯は、同時代の武将の中でも特筆すべきものであり、それだけ多くの歴史的事件や社会の変化を見聞し、またその中で多様な役割を果たしてきたことを示唆している。
有栄は生涯を通じて複数の名を用いた。幼名は千代太郎と伝わる 2 。元服後の実名は有栄であるが、通称として弥九郎(や くろう)が用いられた 1 。また、官途名として民部少輔(みんぶのしょうゆう)を称した記録が残る 1 。後年には昌巌(しょうがん)と号し、これは法号としても用いられた 1 。戒名は昌巌松繁庵主(しょうがんしょうはんあんしゅ)である 1 。武士が成長や立場の変化に伴い複数の名を持つことは一般的であり、有栄の場合も幼名から実名、通称、官途名、そして晩年の法号へと変遷しており、これは彼の武士としてのキャリアパスと精神的な成熟の過程を反映しているものと考えられる。特に「民部少輔」という官途名は、島津家中において彼が一定の地位と公的な役割を担っていたことを示しており、「昌巌」という法号は、彼の晩年における宗教的な側面、あるいは武人としての厳格な一面を想起させる。
山田有栄が属した薩摩山田氏の出自については、いくつかの説が伝えられている。一つは、島津氏本宗の二代当主である島津忠時の庶長子・忠継を元祖とし、代々薩摩国谷山郡山田村(現在の鹿児島市山田町周辺)の地頭職を世襲したことから山田氏を称するようになったというものである 8 。この説に従えば、山田氏は島津氏の庶流ということになり、本家との結びつきは極めて強いものとなる。
一方で、元々は平氏の出であり、武蔵有国の子である式部少輔有貫(ありつら)が文治年間(1185年~1190年)に薩摩国へ下向し、日置郡山田の地を領したことから山田氏を名乗るようになったという説も存在する 9 。この場合、山田氏は鎌倉時代以来の在地領主としての性格を持つことになる。
これらの説は一見すると矛盾するようにも見えるが、中世から戦国時代にかけての武家社会では、婚姻や養子縁組を通じて異なる家系が結びつくことは頻繁に見られた。そのため、両者の情報が何らかの形で統合されたり、あるいは時代によって家の認識が変化したりした可能性も否定できない。いずれの説が正しいにせよ、山田氏が薩摩において古くから続く有力な武家の一つであったことは確かであり、その家格が山田有栄の島津家中での立身に影響を与えた可能性は十分に考えられる。
山田有栄の父は、薩摩島津氏の重臣として名高い山田有信(ありのぶ)である。有信は天文13年(1544年)に生まれ、島津貴久、義久、義弘、そして有栄も仕えることになる家久(忠恒)の四代にわたって島津家に忠誠を尽くした 9 。宮之城や隈之城の地頭、さらには日向国高城の城主兼地頭を歴任した 9 。
有信の武名は数々の戦功によって高められたが、特に天正6年(1578年)、キリシタン大名・大友宗麟が率いる大軍に日向高城を包囲された際の籠城戦は、彼の名を不朽のものとした。有信はわずか300余の兵で城を守り抜き、島津本隊の到着まで持ちこたえ、耳川の戦いにおける島津軍の大勝利に決定的な貢献を果たした 9 。この時、有栄はまだ幼少であったが、父の武勇伝は彼の成長に大きな影響を与えたであろう。
さらに、天正15年(1586年)、豊臣秀吉による九州平定軍が日向に侵攻した際にも、有信は再び高城に300余の兵と共に籠城し、圧倒的な兵力差にも屈せず抵抗を続けた 9 。島津軍本隊が根白坂の戦いで敗れた後も、主君・島津義久への忠義を貫き、降伏勧告を拒み続けた。最終的には義久自身の説得により、嫡男である有栄を人質として差し出すことでようやく降伏に応じたという 2 。この時、有栄は10歳であった。父のこのような不屈の精神と主君への忠誠心は、多感な時期の有栄にとって強烈な印象を残し、後の彼の武士としての生き方の規範となった可能性が高い。
有信は天正17年(1588年)に島津氏の家老となり、藩政の中枢を担った 9 。慶長14年(1609年)、主君・島津義久が病に倒れると、有信は自らが身代わりとなることを神仏に願い、同年、後を追うように病没した。義久はその死を深く悼み、自ら棺の前に進み焼香したと伝えられている 9 。父・有信のこのような生涯は、山田有栄が島津家中で重きをなすための精神的、そして社会的な基盤を築いたと言えるだろう。
山田有栄の母は、薩摩の有力な国人であった町田氏の出身で、町田忠豊の娘である 2 。有栄には有貞(ありさだ)、有尊(ありたか)という兄弟がいたことが記録されている 2 。
妻は、同じく島津家臣である有川貞真(ありかわ さだざね)の娘を娶った 2 。有川氏もまた薩摩の旧家であり、このような婚姻は、島津家臣団内部における山田家の地位を強化し、家臣団の結束を高める上で重要な意味を持っていたと考えられる。
有栄には少なくとも二人の男子がいた。嫡男は有季(ありすえ)といったが、寛永8年(1631年)に24歳という若さで早世してしまった 2 。そのため、家督は次男である有隆(ありたか)が継承することとなった 2 。嫡男の早世は有栄にとって大きな悲しみであったろうが、有隆が家名を継いだことで山田家は存続し、その後の薩摩藩においても一定の役割を果たしていくことになる。
山田有栄 家系図
コード スニペット
graph TD
A[山田有徳] --> B(山田有信);
C[町田忠林娘] --> B;
B --> D{山田有栄};
E[町田忠豊娘] --> D;
D --> F[有貞];
D --> G[有尊];
H[有川貞真娘] --> D;
D --> I(有季<br>※早世);
D --> J(有隆<br>※家督相続);
山田有栄の武将としてのキャリアは、若くして経験した試練と実戦によって形作られた。天正15年(1587年)、父・有信が豊臣秀吉の圧倒的な軍事力の前に高城を開城した際、有栄はわずか10歳で豊臣方の総大将の一人である豊臣秀長のもとへ人質として送られた 1 。この人質生活の具体的な期間や状況については詳細な記録が乏しいものの、少年期の有栄にとって、強大な豊臣政権の威光や中央の政治情勢を間近に見聞する貴重な、しかし同時に過酷な経験であったと推察される。この経験が、後の彼の視野の広さや状況判断能力に影響を与えた可能性は否定できない。
人質生活から解放された後、有栄は島津軍の一員として文禄・慶長の役(1592年~1598年)に従軍し、朝鮮半島へ渡海した 1 。この戦役における有栄の具体的な戦功を記した一次史料は限られているが、複数の記録が彼が武功を挙げたことを伝えている。例えば、「敵の恐るべき大軍勢相手に歴戦の将にも負けぬ奮戦を見せた文武両道の男」との評価も残っており 11 、この朝鮮での過酷な実戦経験を通じて、有栄は武将としての力量を磨き、その名を知られるようになったと考えられる。朝鮮出兵は、多くの将兵にとって多大な困難を伴うものであったが、同時に武士としての名誉を懸けた戦いの場でもあった。有栄がこの戦役で示した武勇は、島津家内における彼の評価を高め、後の重要な役割へと繋がる第一歩となったと言えよう。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、山田有栄の武名を一躍高からしめた重要な転機であった。島津義弘を深く敬慕していた有栄は、西軍に与した義弘に従い、阿多長寿院盛淳らと共に同年9月13日、決戦の地へと向かう途上の大垣に着陣した 12 。この時の島津軍の兵力は、諸説あるものの、最終的に1500人程度であったとされ、決して大軍ではなかった 12 。
関ヶ原における島津軍の布陣については、いくつかの史料がその配置を伝えている。島津豊久隊が先手(先鋒)を務め、山田有栄の部隊はその右備えに位置したとされる 13 。『黒木左近・平山九郎左衛門覚書』という史料によれば、島津豊久の先備の中で、有栄は右備えを構成していたと記されている 15 。これは、島津軍が戦場において、敵の攻撃を正面から受け止める、あるいは機を見て打って出るための重要な位置を占めていたことを意味する。
関ヶ原の戦いは、小早川秀秋の裏切りなどにより西軍の敗北が決定的となった。その混乱の中、島津義弘は敵中を突破して薩摩へ帰還するという、極めて困難な撤退戦を敢行する。この「島津の退き口」として知られる壮絶な戦いにおいて、山田有栄は主君・島津義弘に一指も触れさせず、無事に戦線を離脱させるという目覚ましい働きを見せたと伝えられている 2 。この時、有栄は島津豊久と共に義弘の先鋒を務めたとも 1 、あるいは右備えとして側面を固めたともされるが、いずれにしても撤退戦の成功に不可欠な役割を果たしたことは疑いない。敵の大軍の中を切り抜けるこの作戦の成功は、有栄の卓越した武勇と冷静な指揮能力、そして何よりも主君に対する揺るぎない忠誠心の賜物であったと言えよう。
この撤退戦の最中、有栄の人柄と機知を示す有名な逸話が残されている。それが「黄金の鞘」の物語である。薩摩への敗走の途上、ある村で兵糧の提供と休息の便宜を受けた島津勢であったが、謝礼として支払うべき金銭が底をついてしまった。他の者たちが、そのようなものは踏み倒して先を急ぐべきだと主張する中、有栄はそれを制し、自らが佩いていた刀の金象嵌(きんぞうがん)の鞘を村に置き残したという 1 。この黄金の鞘は、有栄が上方での有事を察知し、来るべき事態に備えて私財を投じてあつらえさせたものであり、敗走の際には路銀や兵糧と引き換えるための資金源として用意していたものであった 11 。この行為は、単に物惜しみしないというだけでなく、武士としての誇りを保ち、困難な状況下でも民衆に対して誠実であろうとする有栄の高い倫理観を示している。この逸話は後に薩摩藩内で広く語り継がれ、有事に備えて蓄えをするという習慣が藩内に定着するきっかけになったとも言われている 11 。このことは、有栄の一つの行動が、個人の美談に留まらず、藩全体の規範意識にまで影響を与えた可能性を示唆している。
関ヶ原での一連の戦功、特に主君義弘を死地から救い出した働きは高く評価された。島津義弘は有栄の功績を「軍功並ぶものなし」と最大級の言葉で称賛したと伝えられる 2 。薩摩帰国後、有栄は義弘から200石の加増を受け、さらに島津家の当主であった島津義久(龍伯様)からは「丹波守吉道」の銘を持つ名刀を賜った 2 。武士にとって知行の加増と主君からの名刀下賜は、この上ない栄誉であり、有栄の島津家における地位を不動のものとした。これらの恩賞は、彼の武勇と忠誠が島津家にとって如何に価値あるものであったかを客観的に示しており、後の地頭職や家老職への登用へと繋がる重要な布石となったと考えられる。
関ヶ原の戦いに先立つ慶長3年(1598年)、山田有栄は大隅国福山(現在の鹿児島県霧島市福山町周辺)の地頭に任じられた 2 。地頭としての彼の最初の大きな試練は、翌慶長4年(1599年)に発生した庄内の乱であった。これは、島津家の重臣であった伊集院忠真が起こした反乱であり、関ヶ原の戦いを目前に控えた島津家にとって、領内の結束を揺るがしかねない深刻な内紛であった。
この危機に際し、有栄は福山郷の兵を率いて出陣し、反乱軍の進攻ルートの一つと目された荒神山に関所を設け、陣を敷いて防備を固めた(「山田陣」と呼ばれる) 1 。この迅速かつ的確な軍事行動は、反乱の拡大を防ぎ、最終的な鎮圧に貢献したと考えられる。庄内の乱における有栄の働きは、彼が単に個人的な武勇に優れるだけでなく、一軍を指揮し、戦略的な判断を下す能力をも備えた武将であることを示すものであった。この経験は、彼の地頭としての統治能力を内外に示す機会となり、島津家中の信頼をさらに高めることになったであろう。
山田有栄の経歴において、出水地頭としての治績は特に重要である。寛永6年(1629年)、有栄は52歳で薩摩国出水(いずみ、現在の鹿児島県出水市)の地頭に任じられた 1 。出水は肥後国(現在の熊本県)との国境に位置し、薩摩藩にとっては国防上の最重要拠点の一つであった 11 。このような要衝の地の統治を任されたことは、島津家が有栄の能力と忠誠心に絶大な信頼を寄せていたことを物語っている。
有栄の出水赴任に際して、彼の人となりを示す有名な逸話が残されている。新任の地頭である有栄に対し、現地の郷士たちは一種の「手荒い歓迎」として、あるいはその力量を試すために、歓迎の宴席で蛙汁(かえるじる)を差し出した。これは、「帰る」と「蛙」をかけた洒落であり、遠回しに「鹿児島へ帰れ」という意思表示であったとされる 1 。このような中央から派遣された上役に対する地方の反発や縄張り意識は、当時の武家社会では珍しいことではなかった。しかし、有栄はこの挑発的なもてなしに全く動じることなく、平然と蛙汁を食した。そして、「関ヶ原から逃げる時も蛙は食べなかったが」と静かに言い放ったという 11 。その泰然自若とした態度と、かつての関ヶ原での苦難を想起させる言葉は、かえって郷士たちを感服させ、彼らのわだかまりを解き、有栄に対する敬意を抱かせたと伝えられる。この逸話は、有栄が単なる武辺者ではなく、度量の大きさと機知、そして困難な状況にも冷静沈着に対処できる精神力を兼ね備えた人物であったことを示している。その後、有栄は「縫い針のように出水に定着する」と宣言し、その言葉通り生涯を終えるまで出水の地を離れることはなかったとされ 11 、その言行一致の姿勢が、現地の武士たちの信頼を勝ち得る上で決定的な役割を果たしたと考えられる。
山田有栄の出水における最大の功績の一つとして、「出水兵児(いずみへこ)」と呼ばれる独特の気風を創り上げ、精強な武士団を育成したことが挙げられる 1 。彼は、勤倹尚武の徳を奨励し、軽薄な風潮を厳しく戒め、善政を敷くことによって、質実剛健かつ気骨ある武士道を体現する「出水兵児」の精神的土壌を育んだ 3 。
この「出水兵児」の精神を具体的に示したものとして「出水兵児修養掟」が知られている。この掟は、単なる武勇だけでなく、「ものの哀れを知る」こと、すなわち他者への共感や深い人間理解を求める点を重視した点で、他の郷中教育(薩摩藩独特の青少年教育システム)の規範と比較しても優れていたと言われている 18 。しかしながら、この「出水兵児修養掟」の文章自体は、有栄の没後である正徳5年(1715年)に刊行された儒教的な教訓書『明君家訓』の中の家臣の道を説く部分からの引用が多く見られることから、有栄自身が直接起草したものではなく、後世に彼の教えや出水兵児の気風を基盤として、例えば大正時代に旧制出水中学校の依頼で溝口武夫らによって成文化された可能性が高いと考えられている 18 。有栄が直接「出水兵児修養掟」を著したわけではないとしても、彼が築き上げた「出水兵児」の精神的基盤が、後世の教育理念として成文化されるほど大きな影響力を持ち続けたことは、彼の統治と教育が単なる一時的なものではなく、出水の地に深く根付いた持続的な文化を形成した証左と言えるだろう。「ものの哀れ」を重視したとされる点は、武勇一辺倒ではない、より人間的な深みを持った武士の育成を目指した有栄の教育観を反映している可能性があり、これが「出水兵児」の気風の独自性となったのかもしれない。
また、山田有栄が出水兵児の育成のために、出水麓に「揆奮館(きふんかん)」という学舎を建てたという伝承も存在する 7 。この「揆奮館」という名称は、後に旧制出水中学校(現在の出水高等学校)の記念館にも用いられるなど、出水の教育の伝統を象徴する言葉として受け継がれている 7 。揆奮館の実在性や有栄による設立が確実な史料で裏付けられるかについては更なる調査が必要であるが、このような伝承が残ること自体が、有栄の教育に対する熱意と、彼が後世の出水の人々に与えた影響の大きさを物語っている。もし揆奮館が有栄によって設立されたとすれば、それは彼の教育理念を具現化する具体的な場であり、「出水兵児」育成の中心的な役割を担ったと考えられる。
出水地頭としての山田有栄の重要な業績として、藩境防衛体制の整備が挙げられる。寛永17年(1640年)、有栄は当時の藩主であった島津光久に対し、出水における「六組十外城(ろくくみじゅうとじょう)の制度」を披露し、称賛を受けたと記録されている 7 。これは、薩摩藩が領内各地に設けた「外城」と呼ばれる防衛・行政拠点を、出水という特に重要な国境地帯において、より実戦的かつ効率的に機能させるための組織再編であったと考えられる。薩摩藩は一国一城令の後も、鹿児島城(鶴丸城)を本城としつつ、領内各地に多くの麓(ふもと)と呼ばれる武士の集住地を外城として維持し、藩全体の防衛体制を構築していた 23 。出水麓の整備は、初代地頭本田正親の時代から有栄の時代まで約30年かけて行われたとされ、藩内でも最大規模であり、他の麓の手本となったと言われる 3 。
また、有栄は「児請(ちごもうし)」と呼ばれる制度の確立にも関わった。これは、島原の乱(1637年~1638年)から出水衆を率いて帰陣した直後の寛永15年(1638年)、有栄が60歳の時にその詳細を定めたとされる、国境警備に関する軍事的な体制であった 6 。島原の乱という大規模な派兵と戦闘を経験したことが、藩境防衛の重要性を再認識させ、より実効性のある制度構築へと繋がったと推察される。これらの制度の確立は、有栄が単に武勇に優れた武将であっただけでなく、戦略的な思考力と組織構築能力にも長けていたことを示している。藩主光久がこれらの制度を称賛したという事実は、有栄の施策が藩政全体においても高く評価されていたことの証左と言えよう。
山田有栄は、武事だけでなく民政にも力を注いだ。特に、用水溝の開発や産業の振興に意を用いたと伝えられている 1 。用水路の開発は農業生産性の向上に直結し、領民の生活安定と藩の財政基盤強化に不可欠であった。また、産業の振興は地域の経済的活性化を促す。出水のような国境地帯においては、軍事力の維持と共に、領民の生活の安定が領国経営の根幹を成す。有栄の民政を重視する姿勢は、長期的な視野に立った統治者としての資質を示している。具体的な用水路の建設場所や規模、あるいはどのような産業を振興したかについての詳細な記録は現時点では確認できないが、これらの取り組みが「出水兵児」の育成と並んで、彼の地頭としての重要な治績とされている。
寛永13年(1636年)、山田有栄は島津家久(忠恒)の家老職を拝命した 2 。これにより、彼は島津家の藩政運営の中枢に参画することとなり、その職責は出水地頭としての地方統治に加え、藩全体の運営にも及ぶことになった。
家老として、有栄は島津家家臣団の教育にも尽力したと記録されている 2 。これは、先述した出水における「出水兵児」育成の実績と経験が、藩全体の武士教育にも活かされた可能性を示唆している。薩摩藩では、郷中教育をはじめとする独自の武士教育システムが発達していたが、有栄のような実戦経験豊富で、かつ文武両道に秀でた人物が家老として教育に関与したことは、藩士の質の向上に貢献したと考えられる。
山田有栄は、江戸詰家老として、薩摩藩の重要な財源であった金山開発にも深く関与していた。寛永17年(1640年)4月26日付で、有栄(民部少輔)、伊勢貞昌、北郷久加が連署し、国元である鹿児島の重役に宛てた書状が現存している 26 。この書状は、薩摩藩が他所から招いた山師(金山技術者)である笠伊兵衛尉と、現地の協力者であった内山予右衛門との間で生じた金山管理の責任者(山先役)の任命や報酬に関する紛争について触れており、江戸家老たちが国元の担当者に対応を指示する内容となっている 26 。この史料から、有栄が江戸にあって藩の重要プロジェクトである金山経営に関する意思決定や問題解決に携わっていたことが明らかになる。金山開発は藩財政の根幹を揺るがしかねない重要事項であり、その運営には高度な判断力と交渉力が求められる。有栄がこの問題に深く関与していたことは、彼が藩政の中枢において多岐にわたる重要任務を担い、藩主から厚い信頼を得ていたことを裏付けている。
また、正保3年(1646年)12月17日付で、山田有栄(民部少輔)、佐渡守某、因幡守某の三名が連署した「山利用ニ関スル諸定達書」という文書も都城島津邸に現存している 28 。この史料は、有栄が家老として、藩の重要な資源である山林の利用に関する規定の制定にも関与していたことを示している。山林資源の管理は、治水、用材の確保、さらには燃料供給といった観点から、藩の経済と民政にとって極めて重要であった。有栄がこのような法令の制定に関わっていたことは、彼の行政手腕が軍事面だけでなく、内政面にも及んでいたことを示唆している。金山開発と山林利用という、藩の経済・資源政策の両面に深く関与していた事実は、有栄が文武両道に加え、経済や行政にも通じた多才な人物であったことを改めて示している。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱は、江戸幕府初期における最大規模の一揆であり、幕府の威信をかけた鎮圧戦となった。この大規模な内乱に際し、山田有栄は薩摩藩の総大将として、藩主・島津家久(忠恒)の名代として軍勢1000名を率いて参陣した 2 。
薩摩藩兵を率いた有栄は、寛永14年(1637年)10月にまず獅子島(現在の鹿児島県長島町)に渡り、態勢を整えた後、翌寛永15年(1638年)正月には一揆勢が立てこもる天草(現在の熊本県天草市)へ出陣した 3 。そして、同年2月27日に行われた原城(現在の長崎県南島原市)への総攻撃には、有栄率いる出水衆も参加し、激戦を繰り広げたと記録されている 3 。
島原の乱における薩摩藩の総大将という重責を担ったことは、有栄の軍事的な経験と指揮能力が島津家中で高く評価されていたことの証左である。この大規模な戦闘への参加は、有栄自身にとっても貴重な経験となり、彼の戦術眼をさらに磨く機会となったであろう。また、藩の軍勢を率いて他藩の軍勢と共に戦った経験は、薩摩藩の軍事制度や兵士の練度を客観的に見直す契機ともなった可能性がある。前述したように、有栄が国境防衛体制である「児請」制度を定めたのが、島原の乱からの帰陣後である寛永15年(1638年)とされていることは 6 、この乱での経験が彼の藩政における施策に直接的な影響を与えたことを強く示唆している。
山田有栄は、長年にわたり島津家の重臣として多大な貢献を果たしたが、慶安3年(1650年)、家老職を辞任した 2 。辞任時の年齢は73歳であり、高齢であったことが一因と考えられる。また、後進に道を譲るという意図もあったのかもしれないが、その具体的な理由については明確な記録は残されていない。
家老職を辞した後も、有栄は島津家から厚遇されていたことがうかがえる。万治2年(1659年)の時点で、彼は2020石の知行を与えられていた 2 。これは当時の島津家中においても高禄であり、彼の長年の功績が十分に評価されていたことを示している。
晩年は、かつて地頭として善政を敷いた出水の地、具体的には出水郷軸谷(現在の出水市上鯖渕萩之段田之頭地区)に隠居したと伝えられている 2 。そして、寛文8年(1668年)9月2日、91歳という当時としては驚異的な長寿を全うし、その波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。長年にわたる軍務と政務から解放された晩年は、彼が愛着を寄せた出水の地で、比較的穏やかに過ごしたのではないかと推察される。家老職を辞した後も出水の地に留まったことは、彼が出水に対して特別な思い入れを持っていたこと、あるいは隠居後も何らかの形で地域に影響力を持ち続けていた可能性を示唆している。91年という長い生涯を通じて、戦国乱世の終焉から江戸幕府による泰平の世の確立という、日本の歴史における大きな転換期を見届けた有栄の知識や経験は、その最晩年に至るまで、周囲の人々にとって貴重なものであったに違いない。
山田有栄の生涯を概観すると、彼が単なる武勇に優れた武将であっただけでなく、知略や統治能力にも長けた「文武両道」の人物であったことが浮かび上がってくる。
武の側面においては、若き日の朝鮮出兵での奮戦 11 に始まり、関ヶ原の戦いにおける島津義弘の決死の撤退支援 2 、庄内の乱における的確な陣の構築と指揮 2 、そして島原の乱における薩摩藩総大将としての大任遂行 2 など、数々の実戦経験を通じてその武勇は証明されている。特に、関ヶ原での敵中突破や島原の乱での大軍の指揮は、卓越した戦術眼と強靭な精神力がなければ成し遂げられないものであった。
一方で、知略や統治者としての能力も際立っている。出水地頭としては、現地の郷士たちの心を掴んだ「蛙汁」の逸話に始まり 11 、勤倹尚武を奨励し「出水兵児」の気風を育て上げ 3 、用水路の開発や産業振興といった民政にも力を注いだ 1 。さらに、藩境防衛の要である出水において、「六組十外城」の制度や「児請」制度を構築し、藩の防衛体制強化に貢献した 7 。家老としては、藩の財政基盤に関わる金山開発の問題解決や 26 、山林利用に関する規定の制定にも関与しており 28 、その行政手腕の高さを示している。
これらの事績は、有栄が戦場での勇猛さだけでなく、平時における組織運営や政策立案、人心掌握といった多岐にわたる能力を有していたことを物語っている。戦国乱世の終焉から江戸幕府による新たな統治体制が確立される過渡期において、このような文武に秀でた人材は極めて貴重であり、島津家が有栄を重用した理由もここにあると考えられる。彼の「文武両道」 1 という評価は、単なる美辞麗句ではなく、彼の具体的な行動と業績に裏打ちされたものであったと言えよう。その資質は、勇猛果敢な武将であった父・有信から受け継いだものに加え、島津家における教育、そして彼自身の弛まぬ研鑽によって培われたものと推察される。
山田有栄は、武勇や統治能力に優れていただけでなく、豊かな教養と人間的魅力を備えた人物であったことが、残された記録や逸話からうかがえる。
史料によれば、有栄は島津家の後継者であった島津忠恒(後の初代薩摩藩主・家久)と親しい関係にあり、共に茶の湯や和歌といった当時の武士にとって必須の教養を嗜んでいたと記されている 11 。茶の湯は精神修養の場であると同時に重要な社交の手段であり、和歌は感情表現やコミュニケーションの洗練された方法であった。これらを嗜んでいたことは、有栄が単に武辺一辺倒の人物ではなく、文化的な素養も深く身につけていたことを示している。主君の嫡男とこのような文化的活動を共にしていたという事実は、彼が島津家中枢においても人間的な魅力と知性を認められていたことの証左と言えるだろう。
有栄の人柄を伝える逸話として、既述の「黄金の鞘」のエピソード 2 は特に印象的である。敗走という極限状況下にあって、目先の利便性よりも義理や武士としての矜持を重んじ、さらには民衆への配慮を忘れなかった彼の行動は、高い倫理観と人間的な温かさを示している。また、「蛙汁」の逸話 11 における冷静沈着かつユーモアさえ感じさせる対応は、彼の度量の大きさと、困難な状況を乗り越える精神的な強靭さを物語っている。これらの逸話は、彼が周囲の人々から信頼され、敬愛された理由を理解する上で重要な手がかりとなる。
『名越時敏史料七』には、「(有栄)部事」「一高城後詰 並 軍物語事」「一織田貞置噂の事」「一山田利安死去の事」「一龍伯様御詠歌の事」「一本田か城責 並 詠歌の事」「一膝突栗毛の事」「一村尾清」といった項目名が確認できる 4 。これらの項目は、有栄の関与した事件や関連人物、あるいは彼に関する逸話や記録がまとめられていた可能性を示唆しており、特に「龍伯様御詠歌の事」や「本田か城責 並 詠歌の事」といった項目は、有栄自身の和歌の才能や、主君や他の武将との文化的な交流があったことをうかがわせる。これらの史料が具体的にどのような内容を含んでいるのか、さらなる調査によって有栄の教養や人柄に関するより詳細な情報が得られることが期待される。
山田有栄の功績と人柄は、彼が生きた時代だけでなく、後世にも大きな影響を与えた。特に、出水地頭として育成した「出水兵児」の気風は、薩摩武士の精神性を象徴するものの一つとして長く語り継がれた。前述の通り、「出水兵児修養掟」の成文化は有栄の直接の業績ではない可能性が高いものの、その根底にある精神は有栄によって培われたものであり、彼の教育者としての一面を強く印象付ける 18 。
また、関ヶ原の戦いにおける「黄金の鞘」の逸話は、単なる武勇伝としてだけでなく、武士の心得や民衆への配慮を示す教訓として語られ、薩摩藩における有事への備えの習慣形成に繋がったとされる 11 。これは、一個人の行動が組織文化にまで影響を及ぼした稀有な例と言えるだろう。
島津家内部での評価も極めて高かったことは、義弘による「軍功並ぶものなし」との称賛や、義久からの名刀下賜、そして家久(忠恒)、光久といった歴代藩主からの重用ぶりからも明らかである 2 。家老職を長く務め、藩政の枢要に関与し続けたことは、彼への信頼の厚さを物語っている。
出水においては、その善政と「出水兵児」育成の功績から、今日に至るまで敬愛されており、墓所も大切に守られている 1 。出水麓歴史館には、有栄が関ヶ原の合戦で使用したとされる槍や、彼の位牌などが展示されており、その事績を今に伝えている 6 。
総じて、山田有栄は、戦国末期から江戸初期という激動の時代において、武勇、知略、統治能力、そして人間的魅力を兼ね備えた稀有な武将であり、薩摩藩の発展と安定に大きく貢献した人物として、高く評価することができる。
山田有栄の生涯や業績を明らかにする上で、いくつかの重要な史料が存在する。
これらの史料を相互に比較検討し、批判的に吟味することによって、山田有栄の実像により深く迫ることが可能となる。
山田有栄の墓は、彼が晩年を過ごし、地頭として長年統治した鹿児島県出水市に現存している 1 。具体的には、出水市野田町下名にある薩州島津家の墓地内に、彼の墓が確認されている 1 。
史料によれば、有栄の墓は薩州島津家墓所の中でも小高くなった丘の頂上に単独で存在しており、その法名は「昌巌松繁庵主」と刻まれている 1 。この配置は、彼が薩州島津家、あるいは出水の地において特別な敬意をもって遇されていたことを示唆している可能性がある。
また、出水麓歴史館には、正面に「昌巌松繁庵主尊位」、裏面に「寛文八戊申年九月初二日 山田有栄」と刻まれた位牌が、古い厨子に納められて保管されている 6 。この位牌は江戸時代初期の様式と考えられ、長らく大川内地区の「山田講」によって大切に管理されてきたが、近年出水市へ管理が移譲された 6 。
これらの墓所や位牌は、山田有栄という歴史上の人物が、現代に至るまで地域の人々によって記憶され、顕彰されていることを示す貴重な文化遺産であると言える。
本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけて薩摩藩島津氏の重臣として活躍した山田有栄の生涯と業績について、現存する史料に基づいて多角的に検討した。
山田有栄は、天正6年(1578年)に生まれ、寛文8年(1668年)に91歳で没するまで、島津義弘、家久(忠恒)、光久の三代に仕え、武勇と知略をもって藩政に大きく貢献した人物である。その生涯は、人質としての苦難に始まり、文禄・慶長の役での実戦経験、関ヶ原の戦いにおける主君救出の武功、庄内の乱鎮圧への貢献、そして出水地頭および島津家家老としての優れた統治能力の発揮へと展開した。
特に、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」での活躍と、その際の「黄金の鞘」の逸話は、彼の武勇と機転、そして高い倫理観を象徴するものとして後世に語り継がれている。出水地頭としては、「蛙汁」の逸話に見られる度量の大きさと人心掌握術をもって現地の武士たちの信頼を得、「出水兵児」と呼ばれる精強な武士の気風を育成し、薩摩藩独自の郷中教育の発展に寄与した。また、藩境防衛体制の確立(「六組十外城」制度、「児請」制度)や用水路開発、産業振興といった民政にも手腕を発揮し、地域の安定と発展に貢献した。
家老としては、藩の財政に関わる金山開発や山林利用の規定策定に関与し、島原の乱においては薩摩藩総大将として軍勢を率いるなど、藩政の中枢で重責を担った。これらの事績は、彼が単なる武人ではなく、行政、経済、軍事の各方面にわたる総合的な能力を備えた、まさに「文武両道」の将であったことを示している。
山田有栄の人物像は、武勇に優れる一方で、茶の湯や和歌といった教養も深く、主君や同僚、そして領民に対しても配慮を忘れなかった温情ある一面も持ち合わせていたと推察される。彼の行動や施策は、当時の薩摩藩において規範となり、後世の藩士育成や藩の気風形成にも少なからぬ影響を与えた。
現存する『山田晏斎覚書』や『薩藩旧記雑録』、連署状などの古文書、そして出水市に残る墓所や位牌は、山田有栄という歴史的人物とその時代を理解する上で不可欠な史料であり、今後のさらなる研究によって、彼のより詳細な実像が明らかになることが期待される。
総じて、山田有栄は、戦国乱世の終焉から近世社会の確立という激動の時代を生き抜き、島津家と薩摩藩の発展に多大な貢献を成した、特筆すべき武将であり、優れた統治者であったと結論付けられる。