本報告は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、陸奥国南東部の磐城地方を治めた岩城氏の第17代当主、岩城左京大夫常隆(いわきさきょうのだいぶつねたか)の生涯と事績、そして彼が生きた時代背景を詳細に検証するものである 1 。
岩城氏は、桓武平氏の流れを汲む海道平氏を祖とし、古くから磐城地方に勢力を築いた名門であった 3 。しかし、戦国時代に入ると、北に伊達氏、西に蘆名氏、南に佐竹氏という強大な戦国大名に囲まれ、その勢力圏の狭間で常に複雑な外交関係と軍事的緊張の中に置かれていた。特に常隆の時代は、伊達政宗の急激な台頭と豊臣秀吉による天下統一という、奥羽地方にとっても激動の時代であり、岩城氏の存亡は常に綱渡りのような状況にあった。
本報告を進めるにあたり、極めて重要な注意点がある。それは、岩城氏の系譜には同名の「岩城常隆」が複数存在し、特に本報告の対象である17代当主・左京大夫常隆と、それより以前の11代当主・下総守常隆との混同を避けねばならないという点である。この11代当主・下総守常隆は永正年間(1504年~1521年)に活動した人物であり 1 、時代も官途名も異なる。さらに問題を複雑にしているのは、両者の父親が奇しくも同名の「岩城親隆」であることである(ユーザー照会)。この点については、報告の後半で改めて詳述するが、本報告全体を通じて、対象とする人物が17代当主・左京大夫常隆であることを明確に意識し、記述を進めていく。
岩城常隆(17代)の出自は、当時の奥羽における有力大名間の複雑な姻戚関係を色濃く反映している。常隆は、岩城氏16代当主である岩城親隆の子として誕生した 6 。この父・親隆は、奥羽の雄、伊達氏14代当主・伊達晴宗の長男であり、母は岩城氏14代当主・岩城重隆の娘である久保姫であった 6 。天文3年(1534年)の合戦の際に、父・晴宗と外祖父・岩城重隆との間で結ばれた約定により、親隆は重隆の養嗣子として岩城氏の家督を継承することになったのである 6 。この事実は、常隆が伊達氏の血を濃く受け継いでおり、後に奥羽の覇権を争う伊達政宗とは従兄弟の関係にあたることを意味する 6 。
常隆の生年に関しては、直接的な記録は乏しいものの、「天正12年(1584)に当時18歳の岩城左京太夫常隆が、兵を小野郷に出した」という記録が『概説 平市史』に存在することから 1 、逆算すると永禄10年(1567年)頃の生まれと推定される。
常隆の母、すなわち岩城親隆の正室は、常陸国の有力大名・佐竹義昭の娘であった 6 。これにより、常隆は伊達・佐竹という、当時奥羽で勢力を二分する両大名の血を引くこととなり、その立場は極めて複雑かつ微妙なものであったことが窺える。
家督相続の経緯もまた、岩城氏が置かれた厳しい状況を物語っている。父・親隆は、養父・重隆が永禄12年(1569年)に没すると家督を継承したが、常陸国の佐竹氏との関係が悪化し、永禄11年(1568年)から元亀2年(1571年)にかけて度々軍事衝突を起こすなど、多難な治世であった 6 。その最中、養父・重隆は病死し、親隆自身もまもなく動静が不明となる。一説には、病により狂乱し、当主としての活動が不可能になったためとも伝えられている 6 。
親隆が統治能力を失った後、その正室であり常隆の母である佐竹義昭の娘が当主代行として家中を取り仕切り、彼女の実家である佐竹氏、特に佐竹義昭の子である佐竹義重が岩城氏の家政に深く介入するようになった 6 。この時期、岩城氏は実質的に佐竹氏の強い影響下に置かれることになったのである 8 。
このような状況下で、岩城常隆は天正6年(1578年)頃、母の後見のもとで岩城氏の当主に就任したとされている 6 。これは、父・親隆が記録上は文禄3年(1594年)まで存命していたにもかかわらず 6 、実質的には隠居、あるいは統治不能な状態にあったことを示唆している。
父・親隆の伊達家からの入嗣は、岩城氏が伊達氏との連携を強化する意図があったと考えられるが 6 、その親隆が統治不能に陥り、代わって親隆の妻(常隆の母)が佐竹氏出身であったことから、その実家である佐竹義重が岩城氏の家政に介入するという事態を招いた 6 。さらに、常隆自身も後に佐竹氏から養女を正室の一人として迎え、後継者として佐竹義重の子である貞隆を養子に迎えている 9 。これらの事実は、常隆の時代の岩城氏が、伊達・佐竹という二大勢力の狭間で、特に佐竹氏の強い影響を受け、その自立性が大きく揺らいでいたことを明確に示している。常隆の家督相続そのものも、佐竹氏の意向が強く働いた結果である可能性が極めて高いと言えるだろう。これは、単に家督を継いだという表面的な事実の裏に隠された、岩城氏の置かれた厳しい国際環境と、大勢力への従属を余儀なくされた当時の実態を浮き彫りにしている。
岩城常隆の治世は、周辺大名との緊張関係と、中央政権である豊臣秀吉の台頭という内外の大きな変動の中で展開された。
常隆の時代の岩城氏の居城は、飯野平城(いいのひらじょう)、別名大館城(おおだてじょう)であったと伝えられている 5 。この城は岩城氏代々の本城であり、磐城地方支配の拠点であった。領国の石高については、常隆の死後、養子の岩城貞隆が豊臣秀吉から磐城平12万石を安堵されていることから 10 、常隆の治世下においても同程度の経済規模を有していたと推定される。
若き当主としての常隆の軍事行動としては、天正12年(1584年)、18歳の時に小野郷(現在の福島県小野町周辺)に兵を出したという記録が残っている 1 。これが具体的にどのような目的の出兵であったかは詳らかではないが、当主としての初陣に近い経験であった可能性も考えられる。
岩城氏の領国支配の構造については、近年の研究で「洞(どう)」と呼ばれる一族・家臣団の結合形態の存在が指摘されている 13 。この「洞」は、当主との族縁関係を中心とした共同体であり、岩城親隆の書状にも「洞中」という言葉が見られる 13 。泉田邦彦氏の研究によれば、岩城常隆が発給した文書における花押(かおう)の使い分けが確認されており 14 、これは領内統制を目的とした対内的な文書(〝内〟)と、外交交渉など対外的な文書(〝外〟)とで、その権威の示し方や意思伝達のあり方を戦略的に変えていた可能性を示唆している。戦国大名は、文書を発給する相手や内容によって花押を使い分けることがあり 18 、これは外交儀礼の遵守や、より明確な意思伝達を意図したものであった 19 。常隆の領国経営は、単に軍事力に依存するだけでなく、こうした伝統的な家臣団組織である「洞」を基盤としつつ、文書行政においては花押を戦略的に使い分けるなど、当時の戦国大名として標準的でありながらも、一定の洗練された統治システムを有していたことを示している。これは、彼が単なる周辺大国の傀儡ではなく、主体的に領国経営に関与していた証左ともなり得るだろう。
天正16年(1588年)、伊達政宗と蘆名義広・佐竹義重ら連合軍との間で起こった郡山合戦において、岩城常隆は両者の仲介・調停役という重要な役割を担った 6 。この合戦は、安積郡(現在の福島県郡山市周辺)の郡山城や窪田城を巡って、伊達軍と佐竹・蘆名連合軍が対峙したものであった 20 。
具体的な動きとしては、同年7月2日、岩城常隆の使者として重臣の志賀甘釣斎玄湖(しがかんちょうさいげんこ)が伊達政宗の陣所に派遣され、常隆による調停の意思を伝えた 20 。政宗はこの申し入れを受け入れ、7月12日には志賀甘釣斎父子に料理を振る舞い、能を舞わせた後、甘釣斎に馬や小袖、虎皮などを与えたという記録が残っている 20 。
この調停役としての行動は、岩城氏の領地が伊達氏と佐竹・蘆名連合の勢力圏の中間に位置していたという地政学的な要因に加え、常隆自身が伊達氏(父方を通じて)と佐竹氏(母方、そして後に妻や養子を迎えることになる)の双方に血縁関係を持っていたという複雑な人的背景が大きく影響していると考えられる 6 。このような立場にあったからこそ、両陣営から一定の信頼を得て、調停役として機能し得たのであろう。ただし、この調停がどちらか一方に特に利するものであったのか、あるいはあくまで中立を保とうとした結果なのかについては、さらなる史料の分析が必要である。いずれにせよ、この調停行動は、岩城氏が単独で周辺大名と武力で渡り合うことが困難な状況下で、外交によって自らの存在意義を示し、勢力均衡の中で生き残りを図ろうとした巧みな戦略の一環と見ることができる。これは、弱小勢力がいかにして大勢力の間で立ち回り、自家の存続を図ったかを示す好例と言える。
中央で勢力を確立した豊臣秀吉は、天正13年(1585年)頃から奥羽地方への関与を強め、天正15年(1587年)12月には関東・奥羽の諸大名に対して私闘を禁じる惣無事令(そうぶじれい)を発令した 21 。これにより、奥羽の諸大名も秀吉の強大な権威に服していくことになる。
岩城常隆もこの天下の趨勢に従い、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めに参陣した 1 。これは、秀吉政権への臣従を明確に示す行動であり、自領の安堵を得るためには不可欠な選択であった。
小田原征伐に先立つ天正17年(1589年)、伊達政宗は摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし 23 、さらに二階堂氏の須賀川城をも陥落させるなど、南奥羽での勢力を急拡大させていた。この政宗の動きに対し、相馬義胤の記録によれば、岩城常隆は伊達氏と和睦したとされている 24 。この和睦が小田原参陣の直前であったのか、あるいはその過程で行われたのかは定かではないが、秀吉による奥州仕置を見据えた上での、伊達氏との一時的な関係改善であった可能性も考えられる。
常隆の治世は、周辺の有力大名との複雑な外交関係によって特徴づけられる。
以下に、岩城常隆(17代当主)の主要な動向をまとめた年表を示す。
年代(西暦) |
岩城常隆(17代)の動向 |
関連する周辺の動向 |
主要史料 |
永禄10年頃 (1567) |
生誕(推定) |
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1 |
永禄12年 (1569) |
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父・親隆の養父・岩城重隆没、親隆が家督継承 6 |
6 |
(この間) |
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父・親隆の動静不明、母(佐竹氏)が当主代行、佐竹義重介入 6 |
6 |
天正6年頃 (1578) |
家督相続(母の後見) 6 |
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6 |
天正12年 (1584) |
18歳、小野郷へ出兵 1 |
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1 |
天正16年 (1588) |
郡山合戦で伊達・佐竹蘆名連合軍を調停 20 |
郡山合戦 |
20 |
天正17年 (1589) |
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伊達政宗、蘆名氏を滅ぼす(摺上原の戦い) 23 |
23 |
(この頃) |
伊達政宗と和睦 24 |
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24 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐に参陣 1 |
豊臣秀吉、小田原北条氏を滅ぼす |
1 |
天正18年7月27日 |
鎌倉星谷にて病没(24歳) 1 |
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1 |
天正18年7月30日 |
実子・隆道(後の伊達政隆)誕生 29 |
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29 |
天正18年 (1590) |
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養子・岩城貞隆(佐竹義重三男)が家督継承、秀吉が12万石を安堵 10 |
10 |
岩城常隆の短い生涯における家族関係は、戦国時代の武家の常として、政略的な側面が色濃く現れている。
常隆には複数の正室、あるいは正室とそれに準じる立場の妻がいたことが記録されている。
一人目の正室として知られるのは、須賀川城主・二階堂盛義の娘、通称「岩城御前」である 1 。彼女は常隆との間に実子・隆道(後の伊達政隆)を儲けたが、後に常隆と離縁している。離縁後、彼女は伊達政宗の重臣である伊達成実の妻となった 9 。この離縁と再婚の具体的な経緯や理由については、残念ながら現存する史料からは詳らかにされていない 9 。しかし、当時の大名家間の婚姻が高度に政治的な意味合いを持っていたことを考慮すれば、岩城氏と二階堂氏、あるいは伊達氏との関係性の変化が背景にあった可能性は否定できない。
二人目の正室(あるいは次室)として、佐竹義重の養女を迎えている 1 。これは、前述の通り岩城氏が佐竹氏の強い影響下にあったことを裏付けるものであり、両家の関係をさらに強固にするための政略結婚であったと考えられる。
常隆には、正室である二階堂盛義の娘との間に、実子・岩城隆道(いわきたかみち)がいた 6 。隆道は、後に伊達政宗に仕え、伊達姓と政宗からの一字を与えられて伊達政隆(だてまさたか)と改名している 20 。
隆道の生年月日は天正18年(1590年)7月30日と記録されている 29 。一方、父である岩城常隆が鎌倉で急逝したのは、同年の7月27日であった 1 。つまり、隆道は父・常隆の死のわずか3日後に誕生した、いわば遺児であったのである 20 。
この出生のタイミングが、隆道の運命を大きく左右することになった。父の死という非常事態に加え、既に岩城氏の後継者としては佐竹義重の子である貞隆を養子として迎える体制が整っていたため 10 、血筋としては正嫡であるはずの隆道が岩城家の家督を継ぐことはなかった。結果として、隆道は父方の従兄にあたる伊達政宗のもとに引き取られ、伊達家臣として生涯を送ることになったのである 20 。彼は元和元年(1615年)に26歳で没し、その子・国隆が後を継いだとされる 29 。
常隆の急逝、実子・隆道の出生が父の死の直後であったという不運、そして既に佐竹氏から養子・貞隆を迎える体制が構築されていたこと。これらの要因が複合的に作用し、血筋としては正嫡であるはずの隆道が家督を継げず、伊達政宗のもとへ送られたと考えられる。これは、個人の運命が、家の存続や大名間のパワーバランスという政治的判断によって冷徹に左右された戦国時代の非情な現実を物語っている。隆道が伊達姓を名乗り、伊達家臣となったことは、岩城氏の直接的な血統よりも、より広範な伊達・佐竹両氏との関係性の中で彼の将来が決定づけられたことを示唆している。
常隆には実子・隆道がいたものの、前述の通り家督を継ぐことはなく、岩城氏の後継者となったのは養子の岩城貞隆(いわきさだたか)であった。貞隆は、常陸の太守・佐竹義重の三男として天正11年(1583年)に生まれ、母は伊達晴宗の娘である宝寿院であった 1 。つまり、貞隆もまた伊達氏の血を引いており、常隆とは父方も母方も伊達氏に繋がるという複雑な血縁関係にあった。
常隆が天正18年(1590年)に死去すると、貞隆は岩城氏の家督を継承し、豊臣秀吉からも磐城平12万石の領主としてその地位を認められた 10 。秀吉がこの家督継承を認めた具体的な理由については史料からは明らかではないが 10 、強大な佐竹氏との連携を重視したか、あるいは奥羽地方の安定化のために既成事実を追認した可能性などが考えられる。貞隆の母が伊達晴宗の娘であるため、彼が岩城氏を継ぐことは、岩城氏の旧主筋との血縁的連続性が完全に途絶えたわけではないという側面も、秀吉の判断に影響したかもしれない。
岩城常隆の生涯は、戦国末期の激動の中で短くも濃密なものであったが、その最期はあまりにも突然であった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣した岩城常隆は、北条氏が降伏し、秀吉による奥州仕置の方針が示される中、その帰途についた。しかし、その道中である鎌倉の星谷(現在の神奈川県鎌倉市)において急病を発し、同年7月27日にこの世を去った 1 。享年24(数え年)という若さであった 1 。
死因については「急病」としか伝えられておらず、具体的な病名は不明である 1 。当時の衛生状態や医療水準、長期間の戦陣における疲労などを考慮すれば、何らかの感染症や過労が原因であった可能性も否定できない。いずれにしても、天下統一が目前に迫り、新たな秩序が形成されようとするまさにその時に、若き当主を失った岩城氏の衝撃は計り知れないものであったろう。
常隆の急逝により、かねてより養子として迎えられていた佐竹義重の子・岩城貞隆が岩城氏の家督を継承した 10 。貞隆は豊臣秀吉から所領を安堵され、岩城氏はひとまず安泰かに見えた。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、貞隆は実兄である佐竹義宣の動向に左右されることになる。義宣が東西両軍に対して曖昧な態度を取った(結果として西軍に与したと見なされた)ため、徳川家康の上杉景勝征伐に参陣しなかった貞隆もまた、戦後にその責任を問われることになった。慶長7年(1602年)、岩城氏は所領である磐城平12万石を没収され、改易の憂き目に遭う 12 。
所領を失った貞隆は、実兄・佐竹義宣を頼り、出羽国秋田に移った義宣から一時的に領地を与えられていたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において徳川方として参陣し、本多正信の軍に属して戦功を挙げた 12 。この功績が認められ、元和2年(1616年)、信濃国中村(現在の長野県下高井郡木島平村)に1万石を与えられ、岩城氏は大名として復帰を果たした 12 。その後、元和8年(1622年)には出羽国亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城)に2万石で移封され、亀田藩主として幕末まで存続することになる 12 。
常隆が小田原参陣という、豊臣政権下での大名としての地位を確立する重要な画期に急逝したこと、そして実子が生まれたばかりで後継体制が盤石ではなかったこと。これらの要因が重なり、結果として佐竹氏出身の貞隆が家督を継承し、その後の関ヶ原の戦いにおいては佐竹氏の動向と運命を共にすることになった。もし常隆が長命であり、自ら秀吉政権下、そしてその後の徳川政権下で巧みに立ち回ることができていれば、あるいは伊達政宗(従兄弟)との関係をより有効に活用できていれば、岩城氏の運命もまた異なるものになっていた可能性は否定できない。彼の早すぎる死は、岩城氏が佐竹氏の影響をより強く受け、結果として一時的な改易の危機に瀕する遠因となったと見ることができる。これは、戦国末期から近世への移行期における一地方勢力の脆弱性と、当主個人の運命が家の盛衰に直結する様を象徴していると言えよう。
本報告の冒頭でも触れた通り、岩城氏の歴代当主には同名の「岩城常隆」が複数存在する。特に、本報告の対象である17代当主・左京大夫常隆と、それより以前の11代当主・下総守常隆は、父親の名前までもが同じ「岩城親隆」であるため、混同されやすい。ここでは、両者を明確に区別するために、その主要な情報を比較整理する。
特徴 |
岩城常隆(17代当主) |
岩城常隆(11代当主) |
通称・官途名 |
左京大夫 1 |
下総守 1 |
活動時代 |
戦国末期~安土桃山時代 (天正年間中心、1590年没) 1 |
戦国中期 (永正年間中心) 1 |
父 |
岩城親隆(16代当主、伊達晴宗の子) 6 |
岩城親隆(10代当主) (ユーザー照会 33 の記述が該当する可能性あり) |
主要事績 |
郡山合戦調停 20 、小田原征伐参陣と病没 1 |
永正年間の合戦参加 1 、那須氏との交戦 33 、大館城へ移転(文明15年、隆忠の孫として) 11 |
両者の活動時期、官途名、主要な事績の比較
混同を避けるための要点整理
両者を混同しないためには、以下の点に注意することが肝要である。
これらの点を総合的に勘案することで、両者を明確に区別することが可能となる。
岩城常隆(17代当主・左京大夫)の生涯は、戦国時代末期から安土桃山時代という、日本史における大きな転換期に位置づけられる。伊達氏と佐竹氏という二大勢力に挟まれた地政学的に困難な状況下で、複雑な血縁関係を背景に持ちながら、弱冠10代で家督を相続し、24歳という若さでその生涯を閉じるまで、岩城氏の存続のために奔走した人物であったと言える。
郡山合戦における調停役としての活動は、彼が単なる地方領主ではなく、奥羽の勢力均衡に一定の影響力を行使し得る立場にあったことを示している。また、豊臣秀吉による小田原征伐への参陣は、中央政権への帰属を明確にし、近世大名としての岩城氏の存続の道筋をつけようとした行動であった。しかし、その志半ばでの急逝は、岩城氏のその後の運命に大きな影響を与え、養子である岩城貞隆の代での一時的な改易という苦難へと繋がっていく。
現存する史料からは、常隆個人の詳細な人物像や具体的な逸話を多く見出すことは難しいのが現状である 2 。しかし、泉田邦彦氏による発給文書や花押の研究は 14 、彼が領国統治において対内的・対外的に戦略的な思考をもって臨んでいた可能性を示唆しており、統治者としての一面を垣間見ることができる。
今後の研究課題としては、同時代史料のさらなる発掘と丹念な分析を通じて、岩城常隆の具体的な政治判断、外交戦略、そして領国経営の実態をより詳細に解明することが期待される。特に、伊達氏、佐竹氏、相馬氏といった周辺勢力との間で交わされた書状や記録など、一次史料の比較検討は、彼の歴史的評価をより確かなものにする上で不可欠であろう。また、彼の短い治世が、岩城氏の支配構造や家臣団編成にどのような影響を与えたのか、あるいは与えようとしていたのかという点も、興味深い研究テーマとなり得る。
岩城常隆は、歴史の表舞台で華々しい活躍を見せた英雄ではないかもしれない。しかし、激動の時代を精一杯生き抜き、自家の存続のために苦闘した一人の戦国武将として、その生涯は記憶されるべきである。彼の存在は、戦国末期における地方小勢力の苦悩と選択、そして中央集権化の波に翻弄される様を如実に物語っている。