本報告書は、江戸時代前期に出羽国亀田藩の第3代藩主を務めた岩城重隆(いわき しげたか)について、その生涯と事績を詳細に検討するものである。重隆は、寛永5年1月17日(1628年2月21日)に生まれ、宝永4年12月11日(1708年1月3日)に没した 1 。官位は従五位下・伊予守であり、月峯と号した 1 。
岩城重隆という名は、歴史上複数存在する。特に、戦国時代に陸奥国磐城大館城主であった岩城重隆(生年不詳-永禄12年〈1569年〉没)は、伊達氏と結び相馬氏と、常陸国では佐竹氏と争った武将であり、本報告書の対象人物とは時代も事績も全く異なる 2 。両者を混同しないよう、以下にその主要な相違点を整理する。
表1:二人の岩城重隆の比較
項目 |
岩城重隆(本報告書の対象) |
岩城重隆(陸奥大館城主) |
生没年 |
寛永5年(1628年) - 宝永4年(1708年) |
不詳 - 永禄12年(1569年) |
主な役職・拠点 |
出羽国亀田藩 第3代藩主 |
陸奥国磐城 大館城主 |
主な事績 |
新田開発、城下整備、大坂加番、高田城在番、徳川光圀との知遇 1 |
伊達氏と同盟し相馬氏と抗争、佐竹氏と常陸国で抗争、後に佐竹氏に従属 2 |
本報告書の目的は、亀田藩主としての岩城重隆の出自、藩政における業績、幕政への関与、家族構成と後継者問題、そして彼の死と後世に遺した影響について、現存する史料に基づき多角的に明らかにすることである。彼の生涯を追うことは、江戸時代初期における小藩の経営実態や、大名と幕府との関係性を理解する上での一助となるであろう。
岩城重隆は、寛永5年(1628年)1月17日、出羽国において、亀田藩第2代藩主・岩城宣隆(のぶたか)の長男として誕生した 1 。幼名は庄次郎と伝わる 1 。父・宣隆は、常陸国の名門佐竹氏の出身で、久保田藩初代藩主佐竹義宣の実弟にあたる人物である 3 。母は顕性院(けんしょういん)といい、豊臣方として大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)の娘であった 1 。
この父方が徳川幕府とも縁の深い佐竹氏、母方がかつて徳川氏と敵対した真田氏という血筋は、重隆の生涯において、直接的な記録は少ないものの、彼の人間形成や他家との関係において、何らかの潜在的な影響を与えた可能性が考えられる。江戸初期の大名家においては、このような複雑な縁戚関係は珍しくないが、武家としての意識や周囲からの評価に影響を及ぼしたことも想像に難くない。
岩城氏は、元来、陸奥国岩城地方(現在の福島県いわき市周辺)を拠点とし、12万石を領する戦国大名であった 3 。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の際、時の当主岩城貞隆は、実兄である佐竹義宣の命に従い、徳川家康による上杉景勝征伐に参陣しなかった。この行動が咎められ、慶長7年(1602年)、幕府により所領12万石は没収された 3 。
その後、岩城貞隆は赦免され、元和2年(1616年)に信濃国中村(現在の長野県下高井郡木島平村)に1万石を与えられて大名として復帰した(信濃中村藩、または川中島藩ともいう) 3 。貞隆の死後、家督を継いだ息子の吉隆(よしたか)は、元和9年(1623年)、2万石に加増された上で、出羽国由利郡亀田に移封され、亀田藩の初代藩主となった 3 。この移封は、最上氏改易後の由利郡再編の一環であった。
初代藩主となった岩城吉隆は、後に伯父である佐竹義宣の養嗣子となり、名を佐竹義隆と改めて久保田藩(秋田藩)の第2代藩主となった。これに伴い、空位となった亀田藩の第2代藩主には、佐竹義宣の実弟であり、重隆の父となる宣隆が養子として迎えられ、岩城家の家督を継いだのである 3 。
このような亀田藩岩城氏の成立過程は、関ヶ原合戦後の改易という苦難を経て、佐竹氏の強力な支援と影響下で再興されたことを示している。藩の初期運営や、隣接する大大名である秋田藩との関係において、亀田藩が従属的とも言える立場にあったことは想像に難くない。実際に、岩城氏は大名復帰まで佐竹氏から経済的援助を受けており、亀田藩成立後の初期藩政においても秋田藩の影響が色濃かったと指摘されている 4 。重隆の父・宣隆自身が佐竹家からの養子であるという事実は、この密接な関係を象徴していると言えよう。
岩城重隆は、明暦2年(1656年)7月25日、父・宣隆の隠居に伴い、29歳で家督を相続し、亀田藩の第3代藩主となった 1 。この家督相続は、父の隠居によるものであり、比較的穏当な形で行われたと見られる。
藩主就任に先立つこと寛永11年(1634年)3月28日、重隆はわずか7歳で江戸幕府第3代将軍・徳川家光に御目見を果たしている 1 。これは、大名家の世子としての地位を幕府に公的に認知させるとともに、将来の藩主としての自覚を促す意味合いを持つ、当時の武家社会における重要な儀礼であった。若年での将軍御目見は、後継者としての教育の一環であり、幕府への忠誠を示す機会でもあった。
岩城重隆の藩政における具体的な手腕については、断片的な記録からその一端を窺い知ることができる。
重隆は藩主として、新田開発や城下町の整備を奨励したと記録されている 1 。ある資料では、母・御田の方(顕性院)の教育の賜物として、重隆が「名君」となり、新田開発などにより亀田藩の基礎を築き上げたと評価されている 5 。
江戸時代初期の多くの藩にとって、石高の増大は藩財政の安定化に直結する最重要課題であった。亀田藩は2万石の小藩であり、新田開発は財政基盤を強化するための最も直接的な手段であったと考えられる。また、城下町の整備は、領内の経済活動の活性化や、藩の統治拠点としての権威を高める上で不可欠であった。具体的な開発規模や石高の増加量に関する詳細な記録は、今回の調査では確認できなかったが 6 、これらの政策に取り組んだことは、重隆が藩主としての基本的な責務を果たそうとした証左と言えるだろう。
藩政における産業振興策として、重隆が「天鷺ゼンマイ織り」を奨励したという伝承がある 1 。天鷺ゼンマイ織りは、山菜のゼンマイの綿毛を糸に紡ぎ込んで織り上げる織物で、防虫・防カビ効果があるとされる 8 。
しかしながら、この伝承には注意が必要である。ある資料によれば、「天鷺ぜんまい織」が始まったのは江戸時代の1800年頃とされており 8 、これは重隆の没年である1708年とは約1世紀もの隔たりがある。この年代差を考慮すると、重隆が現在知られる形の「天鷺ゼンマイ織り」を直接奨励したとは考えにくい。
可能性としては、重隆の時代にゼンマイの繊維利用の原型となるような技術が存在し、それを何らかの形で支援したか、あるいは後世の人々が藩の歴史を語る中で、彼の功績としてこの伝承が形成されたことなどが考えられる。ゼンマイの綿毛利用自体は古くから存在した可能性も示唆されており 9 、重隆が繊維利用に関して何らかの関与をした可能性を完全に否定することはできないが、現時点では具体的な証拠が不足している。したがって、「奨励したと伝えられる」といった慎重な表現を用いるか、あるいはこの伝承の成立背景について更なる検討が必要となる。
岩城重隆は、藩主として江戸幕府から様々な役務を命じられ、これを忠実に果たした。
明暦2年(1656年)10月17日、江戸で発生した大規模火災の際、重隆は火消役を務めた 1 。これは彼が家督を相続して間もない時期のことであり、迅速かつ適切な対応が求められた重要な任務であった。
万治3年(1660年)6月18日、重隆は大坂加番の任に就いていた。この任務の最中、大坂城内で落雷があり、それが原因で火薬庫が爆発するという大事故が発生した。この事故により、重隆自身も負傷し、さらに亀田藩の家臣20名が死亡、80名余りが負傷するという甚大な被害を被った(『徳川実紀』) 1 。
この大坂城での落雷事故は、重隆の藩主としてのキャリアにおいて、最大の試練の一つであったと言えるだろう。多数の有能な家臣を一度に失い、藩主自身も負傷したことは、亀田藩の藩政運営にとって人的にも精神的にも大きな打撃となったはずである。幕府の重要な役務遂行中の事故であったため、その後の処理や幕府への報告、対応には細心の注意が払われたと推察される。この悲劇的な経験は、彼のその後の治世や危機管理に対する意識に少なからぬ影響を与えた可能性も否定できない。
天和3年(1683年)5月、重隆は越後国高田城(現在の新潟県上越市)の在番を務めた 1 。これは、当時高田藩で発生したお家騒動(越後騒動、または高田騒動とも呼ばれる)の後始末に関連する任務であった可能性が高い。越後騒動は藩主の跡継ぎを巡る深刻な内紛であり、幕府の裁定によって藩主が改易されるという大きな事件であった 10 。亀田藩は、この騒動後の高田城の受け取りと一時的な管理に関与したと考えられ、実際に高田城本丸において在番交代の老中奉書が渡された記録がある 10 。
このような他藩の混乱収拾というデリケートな任務を幕府から命じられたことは、重隆個人、あるいは亀田藩に対する幕府の一定の信頼を示すものと解釈できる。大事件の後処理に関与した経験は、彼の政治的手腕を磨く機会となったかもしれない。
寛文4年(1664年)4月5日、重隆は時の将軍・徳川家綱より、封地である亀田藩領の支配を正式に認める御朱印状を与えられた(寛文印知) 1 。これは、藩領の公的な承認・安堵を意味する、大名家にとって極めて重要な儀式であった。
藩主就任直後の明暦2年(1656年)12月26日には、従五位下・伊予守に叙任されている 1 。また、翌明暦3年(1657年)5月には、初めて自身の領地である亀田への入国(お国入り)の許可を幕府から得ている 1 。これらも、大名としての地位を確立し、幕藩体制下での役割を果たす上で不可欠な手続きであった。
岩城重隆の治世中には、藩政や幕府への奉公以外にも、いくつかの特筆すべき出来事があった。
元禄6年(1693年)8月12日、幕府の命により、八王子成就院の僧侶であった空山(くうざん)という人物が、人心を惑わしたという罪で亀田藩に配流され、重隆がその身柄を預かることになった 1 。
江戸時代において、幕府から流罪人の預かりを命じられることは、藩にとって経済的・人的な負担を伴うものであったが、同時に幕府の命令を忠実に実行する姿勢を示す機会でもあった。空山が具体的にどのような言動をもって「人心を惑わした」とされたのか、その詳細は今回の資料からは明らかではない。しかし、当時の宗教統制は厳しく、幕府の意に沿わない活動や教えを広める者は厳しく処罰された。重隆は、幕府の意向を汲み、慎重にこの流罪人の管理にあたったものと考えられる。
岩城重隆は、水戸藩第2代藩主であり、『大日本史』の編纂者としても名高い徳川光圀(みつくに、水戸黄門)の知遇を得ていたと記録されている 2 。
両者の具体的な交流の内容や、どのような経緯で知遇を得るに至ったのかについての詳細な逸話は、今回の調査で参照した資料からは乏しい。しかし、いくつかの接点が推測される。まず、重隆の父・宣隆が佐竹義宣の弟であり、光圀の母・久子の父が佐竹義宣の家臣であったという縁戚関係が挙げられる。また、光圀は学問・文化に深い造詣を持っていた碩学であり、重隆もまた何らかの文化的関心を通じて光圀と接点を持った可能性も考えられる。 18 には、重隆の母・顕性院(真田信繁の娘)が出羽檜山で重隆を出産した際、徳川光圀が関わったかのような記述があるが、これは光圀の生年(寛永5年、重隆と同年に誕生)を考えると年代的に矛盾があり、重隆と光圀の直接的な知遇を示すものではない。
「知遇を得た」という表現は、単なる面識がある程度から、深い親交があった場合まで幅広く解釈できる。徳川御三家の一つである水戸藩主、特に学識と人格で名高い光圀との関係は、小藩の藩主であった重隆にとって、政治的にも文化的にも有益なものであった可能性が高い。しかし、その具体的な関係性の深さや影響については、さらなる史料の発見が待たれる。
岩城重隆の治世は、藩政や幕政への対応に加え、複雑な家族問題、特に深刻な後継者問題に悩まされた時期でもあった。
重隆の正室は玉峯院(ぎょくほういん)といい、久保田藩(秋田藩)の藩主一門である佐竹義直(佐竹北家当主、第3代藩主佐竹義処の叔父)の娘であった 1 。この婚姻は、亀田藩と秋田藩(佐竹氏)との間の極めて密接な関係を改めて示すものであり、政略的な意味合いが強かったと考えられる。継室には貞桜院(ていおういん)、本多重能(しげよし、詳細は不明)の娘を迎えている 1 。
子女としては、嫡男の岩城景隆(かげたか)のほか、石川(松平)乗政室となった女子、松平清当室のちに柳生俊方室となった女子、その他男子、平次郎、女子などがいたと記録されている 1 。
藩の将来を託されるはずであった嫡男・岩城景隆は、天和2年(1682年)、病弱を理由として廃嫡された 1 。当時の大名家において、病弱を理由とする廃嫡は決して珍しいことではなかった 11 。しかし、藩主の後継者が失われることは、藩の安定にとって重大な事態であった。
さらに不幸なことに、廃嫡された景隆は元禄9年(1696年)4月に死去してしまう 1 。父である重隆の悲しみは深く、景隆の菩提を弔うため、専住山正念寺に念仏堂を建立したと伝えられている 1 。この念仏堂の建立は、後継者問題という藩の危機に直面しながらも、父としての深い情愛を示した行動と言えよう。嫡子の廃嫡と早逝は、重隆にとって大きな心痛であったと同時に、藩の将来に暗雲を投げかける深刻な出来事であり、新たな後継者選びが急務となった。
景隆には岩城秀隆(ひでたか)という息子がおり、一時はこの孫が跡を継ぐ予定であったと考えられている。しかし、重隆の晩年になると、この孫の秀隆もまた廃嫡されてしまう 1 。秀隆廃嫡の具体的な理由は、現存する資料からは明らかではない。
嫡男に続き、嫡孫まで廃嫡するという事態は、亀田藩の後継者問題がいかに深刻であったかを物語っている。藩の存続自体が危ぶまれる状況下で、重隆は新たな後継者を探さなければならなかった。そこで重隆は、久保田藩の藩士であった佐竹義明(よしあき、佐竹義山の子で佐竹義処の弟か)の子である格道(かくみち、幼名・又八郎)を養子として迎え、家督を継がせようと試みた 1 。
この動きは、亀田藩岩城氏と宗家とも言える佐竹氏との間の強い絆を改めて示すものであると同時に、亀田藩単独では適切な後継者を見出すことが極めて困難な状況にあったことを示唆している。これは、小藩の自立性と、有力な親族藩への依存関係という、江戸時代の大名家が抱える構造的な問題を浮き彫りにする事例とも言えるだろう 10 。
ところが、最終的に家督を継いだのは、一度は廃嫡されたはずの孫・秀隆であった。宝永元年(1704年)2月18日、重隆は隠居し、秀隆に家督を譲ったのである 1 。
なぜ一度廃嫡された秀隆が再び後継者となったのか、その具体的な経緯は謎に包まれている。佐竹氏からの養子縁組の話が何らかの理由で不調に終わったのか、あるいは秀隆が復権するに足る何らかの事情(例えば健康の回復や、他の候補者が見つからなかったなど)が生じたのか、判然としない。この点に関する史料が不足しているため明確な理由は不明であるが、後継者の選定が二転三転したことは確かであり、その間、藩内には少なからぬ動揺があった可能性も否定できない。この一連の出来事は、大名家における家督相続の難しさと複雑さを如実に示している。
後継者問題に揺れながらも、岩城重隆は宝永元年(1704年)2月18日に隠居し、孫の秀隆に家督を譲った。隠居後は月峯(げっぽう)と号した 1 。
そして、宝永4年(1707年)12月11日、重隆はその生涯を閉じた。享年80歳であった 1 。法名は雄山月峯大通院(ゆうざんげっぽうだいつういん)と諡された 1 。その亡骸は、江戸の総泉寺(現在の東京都板橋区小豆沢)に葬られた 1 。
岩城重隆の面影や、彼が治めた亀田藩の歴史を伝える史跡や資料は、現代にも残されている。
秋田県由利本荘市岩城亀田に所在する龍門寺の境内には、岩城家の御霊屋(おたまや、墓所)が現存している。この御霊屋の内部には、亀田藩第3代藩主であった岩城重隆の木像が安置されており、この木像は秋田県の指定有形文化財となっている 13 。御霊屋には重隆の木像のほか、2代藩主宣隆の位牌や8代藩主隆喜の木像も祀られており、亀田藩歴代藩主を偲ぶことができる貴重な場所である 14 。重隆の木像が県の文化財として大切に保存されていることは、彼が藩の歴史において一定の評価を受け、記憶されている証左と言えるだろう。
また、由利本荘市には岩城歴史民俗資料館があり、岩城氏と亀田藩に関する歴史資料や民俗資料を収集・展示し、その歴史を広く紹介している 16 。これらの史跡や施設は、重隆の治世を含む亀田藩の歴史を後世に伝え、地域の文化遺産として重要な役割を担っている。
岩城重隆の生涯は、江戸時代前期における小藩の藩主として、藩政の安定と幕府への奉公という二つの大きな責務を担い続けたものであった。
藩主としての功績としては、新田開発や城下町の整備を奨励し、亀田藩の財政的・社会的基盤の確立に努めた点が挙げられる 1 。また、江戸での火消役、大坂加番、高田城在番といった幕府からの役務を忠実にこなし、幕藩体制下における大名としての役割を果たした。
一方で、彼の治世は平穏無事なものばかりではなかった。大坂加番中に遭遇した落雷による火薬庫爆発事故は、多くの家臣を失い、自身も負傷するという悲劇であった 1 。さらに、家庭内では嫡男・景隆の廃嫡と早逝、そして嫡孫・秀隆の廃嫡と再度の家督相続という、複雑で困難な後継者問題に直面し、その対応に終生苦慮した様子が窺える。藩の存続に関わるこの問題は、重隆にとって大きな心労であったに違いない。産業振興策として伝えられる「天鷺ゼンマイ織り」の奨励については、その開始時期との間に年代的な齟齬が見られるため、慎重な評価が必要である 1 。
岩城重隆の歴史的意義は、江戸時代前期という幕藩体制が確立していく過渡期において、2万石という比較的小さな藩を約半世紀(在位:1656年-1704年)にわたり統治し、その存続と発展に尽力した点にある。彼の出自に目を向ければ、父方は佐竹氏、母方は真田氏という、それぞれに異なる歴史的背景を持つ血筋を引いており、これが彼の人間性や統治にどのような影響を与えたのかは興味深い点である。また、佐竹氏との極めて密接な関係は、亀田藩の運営において常に重要な要素であった。
重隆の生涯は、江戸初期の地方大名が直面した典型的な課題、すなわち藩財政の確立、幕府との関係維持、そして何よりも困難な家督相続問題と、それらに彼なりに対応しようとした姿を示している。特に後継者問題の錯綜は、大名家の存続がいかにデリケートなバランスの上に成り立っていたかを浮き彫りにする。徳川光圀との知遇といった記録は 2 、彼が中央の文化人とも接点を持っていた可能性を示唆し、その人物像に一層の奥行きを与える。岩城重隆の治世は、江戸幕府体制下における地方の小藩藩主の役割、苦労、そして当時の社会や文化との関わりを示す一つの貴重な事例として捉えることができるであろう。
表2:岩城重隆(亀田藩主)略年表
年代(和暦) |
年代(西暦) |
出来事 |
典拠 |
寛永5年1月17日 |
1628年 |
出羽国にて岩城宣隆の長男として誕生 |
1 |
寛永11年3月28日 |
1634年 |
7歳で3代将軍・徳川家光に御目見 |
1 |
明暦2年7月25日 |
1656年 |
父・宣隆の隠居により家督を相続、亀田藩第3代藩主となる |
1 |
明暦2年10月17日 |
1656年 |
江戸での火災に際し火消役を務める |
1 |
明暦2年12月26日 |
1656年 |
従五位下・伊予守に叙任 |
1 |
明暦3年5月 |
1657年 |
初めて領地(亀田)へ赴く許可を得る |
1 |
万治3年6月18日 |
1660年 |
大坂加番の任に就く。大坂城にて落雷による火薬庫爆発事故に遭遇し負傷、家臣多数死傷 |
1 |
寛文4年4月5日 |
1664年 |
将軍・徳川家綱より封地の御朱印を与えられる(寛文印知) |
1 |
天和2年 |
1682年 |
嫡男・岩城景隆が病により廃嫡となる |
1 |
天和3年5月 |
1683年 |
越後国高田城の在番を務める |
1 |
元禄6年8月12日 |
1693年 |
人心を惑わした咎で配流された僧・空山を預かる |
1 |
元禄9年4月 |
1696年 |
廃嫡した景隆が死去。供養のため専住山正念寺に念仏堂を建立 |
1 |
時期不詳 |
― |
孫・岩城秀隆を廃嫡。久保田藩士・佐竹義明の子・格道を養子に迎えようとする |
1 |
宝永元年2月18日 |
1704年 |
隠居し、孫・秀隆に家督を譲る。月峯と号す |
1 |
宝永4年12月11日 |
1708年 |
死去。享年80。法名は雄山月峯大通院。江戸・総泉寺に葬られる |
1 |